書評・出版・
2016年8月12日 (金)

2006年、東海大山岳部隊の一員として23歳でK2に登頂した小松由佳さんは、その後写真家になっていました。それも戦乱のシリアを撮る写真家に。シリアは知っての通り2011年以来内戦、治安機関の暴力、イスラム国の占拠、他国の空襲と、地獄の極みです。小松さんが内戦前2008年からシリアを訪れて知り合った若者たちの、その後を何人も紹介しています。2012年に撃たれて死んだ山本美香さんと同じです、写真はどれも和やかなシリア人たちの暮らしを描いていました。どれも相手との関係を作り上げなければ撮れない表情の写真ばかりです。
生き生きと、表情豊かに暮らし、家族の日常の暮らしの大切さをしみじみと知っているシリア人たちが何故こんな目に遭わなければならないのか?一方では、他者との関係に行き詰まり個の枠を築き、豊かで平和なはずの社会で孤独を深め、中には極端な差別思想や排外思想に心を犯される人が徐々に増える日本の国。どうしてこうもうまくいかないのでしょう。
山登りから、山麓の人々の暮らしに目を向け、シリアとの縁が生まれ、旅行者となった小松さん、生き延びることができれば、またいつか何かの形で山登りに帰ってくると思います。その時の山を楽しみにしています。
河出書房新社2016.3.20
http://yukakomatsu.jp/news/news.html
書評・出版・
2016年7月28日 (木)

朝のドラマ、とと姉ちゃんの元の話、暮しの手帖を紹介した特集番組をこの前見ていたら、テルマエロマエのヤマザキマリさんが、「この雑誌はどうかしている!」と、賞賛していました。彼女のお母様が全部持っている愛読者で、昔から読んでいたそうです。徹底的な商品テストや、読者目線の編集方針を一貫して貫いた編集部のことを紹介していました。
その番組の中で紹介された異色の96号、「特集・戦争中の暮しの記録」は、戦争が終わって23年経った1968年、公式の記録に残らない庶民から寄せられた話を延々書いた雑誌でした。今日は何を食った、何時から何時まで働いた。あそこは焼けてどうなった。という生の声でいっぱい。今日ではありがちだけど、この目線での手記の募集は当時初めての試みで、絶対売れないと言われたのに、ものすごく早く売りきれたそうです。戦争が終わってから23年間も、誰もこういうことができなかったのでした。以下に編集者、花森安治の序文です。
●この日の後に生まれてくる人に
君は、四十才をすぎ、五十をすぎ、あるいは、六十も、それ以上もすぎた人が、生まれてはじめて、ペンをとった文章というものを、これまでに、読んだことがあるだろうか。
いま、君が手にしている、この一冊は、おそらく、その大部分が、そういう人たちの文章でうずまっているのである。
〜(略)〜
それは、言語に絶する暮らしであった。
〜(略)〜
しかも、こうした思い出は、一片の灰のように、人たちの心の底ふかくに沈んでしまって、どこにも残らない。いつでも、戦争の記憶というものは、そうなのだ。
〜(略)〜
その戦争のあいだ、ただ黙々と歯をくいしばって生きてきた人たちが、なにに苦しみ、なにを食べ、なにを着、どんなふうに暮らしてきたか、それについての具体的なことは、どの時代の、どこの戦争でもほとんど、残されていない。
その数すくない記録がここにある。
いま、君は、この一冊を、どの時代の、どこで読もうとしているのか、それはわからない。君が、この一冊を、どんな気持ちで読むだろうか、それもわからない。
〜(略)〜
できることなら、君もまた、君の後に生まれる者のために、そのまた後に生まれる者のために、この一冊を、たとえどんなにぼろぼろになっても、のこしておいてほしい。これが、この戦争を生きてきた者のひとりとしての、切なる願いである。 編集者
この96号はうちにあります。昨年、97歳になる山岳部の先輩今村昌耕氏宅を訪問した時、卓の上にたまたま置いてあって、私が手に取り吸い込まれて読んでいると、やはり同年代のその奥様が、「ご興味がおありならどうぞお持ちください。年寄りにはもう取っておくものなどありませんから」とおっしゃったので、ありがたく頂戴してきたものです。
帰宅してこの編集者の前書きを読んで、「これは引き継ぎを受けたのだ」と思い知りました。
「この雑誌はどうかしている!」と、私もまた驚歎しました。
https://www.kurashi-no-techo.co.jp/blog/editorsnote/160719この96号はその後、一介の雑誌ではなく保存版として出版され、いまも読むことができるようです。雑誌というには密度の濃い、しかし読み応え有る記事に満ちています。
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書評・出版・
2016年6月28日 (火)

黒部の山賊という本が少し前に復刊して、伊藤さんは近頃また話題になっていました。戦争直後からずっと雲ノ平、三俣、水晶の三軒の山小屋をやってきた、もと山賊の友達です。
伊藤さんと初めて会ったのは、1992年、伊藤新道でした。伊藤新道は高瀬川の湯股から三俣山荘へ通じる登山道で、1953年から伊藤さんが3年がかりで作りました。その後できた高瀬ダムの工事で70年代に登山者が減ってしまって、その頃は廃道間際でした。伊藤新道は下半分が沢沿い、上半分は尾根を通ります。人が歩かない道、補修をしない道は、沢では水が壊し、尾根では植物が埋めて廃れてしまうのだと、このとき初めて知りました。伊藤さんは小屋から降りてきて、藪を払っていました。この時も70歳ころと結構なお歳でしたが元気に仕事をしておられました。このときお会いして、さまざまなお話を聞きました。山小屋建設の苦労話は本人よりも、黒部の山賊で読みました。本人からは、山とはあまり関係のない、左右対称の不思議に関する話や、バイオリンの音に関する話など、面白い話をたくさん聞きました。
伊藤さんは、松本では有名な料亭のあと継ぎだったのですが、若いころから何事にも野心的で、家を継ぎませんでした。同じ高校の先輩後輩のよしみで(とはいえ伊藤さんは戦前卒業なので旧制中学校です)、一度その料亭に招いて下さり、ごちそうをしてもらいました。老舗の、とても素敵な建物でしたが、何年か前に規模を小さくして移転したそうで、いまはもうありません。
野心的な熱意は、戦前の学生時代にはロケット工学の研究に向けられ、敗戦後には山小屋の建設と運営に向けられたといいます。写真の腕前も、その熱意で磨きこまれ、山ばかりではなく、晩年の季刊誌「ななかまど」の表紙を飾った、自然界のさりげない草木の写真を左右対称の不思議な幾何学模様に仕立てる技法も伊藤さんの発案です。
バイオリンの表の板と裏の板に挟まれた魂柱(こんちゅう)という一本の柱があります。この柱の役割を、裏の板は土台で、表の板は音を震わせるため自ら震える音響板であるから、柱の表板側を平らではなく震えやすいように半球形に削った魂柱を発明し、伊藤式バイオリンを作りました。より響きが強くなる、と演奏者やバイオリン職人たちは語っていました。僕にはよくわからなかったのですが。
こうした研究熱心な独創性を発揮して、史上初の航空機による物資荷揚げに挑戦するなどしたのと並び、旧家を飛び出した伊藤さんは反骨の人でした。営林署による理不尽な地代値上げに、筋が通らないことには同意ができないと、全南北アルプスの山小屋主人でただ一人、長いものに巻かれない姿勢で訴訟を続けました。
94年の冬に私がノルウエイを訪れたとき、伊藤さんが快くリレハマーの北の町に住む何人かの親しい友人を紹介してくださいました。彼らを訪ねてごちそうになったり、ヘルベチアヒュッテみたいな小さな別荘に連れて行ってもらったりして、一般的なノルウエイ人の暮らしぶりを知りました。あくせく働かず、物にも囲まれず、のんびりと簡単な日常を楽しむ人たちでした。伊藤さんはフィヨルドの写真を熱心に撮った時期があり、その時の写真集も見せていただきました。伊藤さんには、いただいたものばかりでした。
敗戦という価値観の大転換を多感な青年期に迫られた、大正生まれの世代でした。その世代の苦悩を時々空想します。世代を超えたお付き合いを、惜しみなくしてくださる方でした。
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書評・出版・
2016年6月24日 (金)

セクシー登山部のなめたろうさん。那智の滝からの4年の軌跡です。沢登りする人の紀行文、記録文は、名文家が多いけど、宮城さんのようなのは初めて読みました。痛快娯楽書というか、チャーカンシーを攻める大西、佐藤たちがルパン三世の次元や五右衛門に見えてくるほど生き生きと描かれています。
大西が滝つぼから生還する下りなどはおみごとなもの。戦艦大和や孫悟空の比喩は興奮気味だけど、それだけすごい激流で絶望的状況であるのはよくわかる。ルートはもちろん世界最先端の未踏域ばかりです。岩峰を、「力道山の朝勃ち」に形容するあたり、語彙が諧謔的に豊かです。数十日の山行を黙々とやっていると、言葉が頭の中で沸いては消え沸いては消えるもの。大切なのはそれを消えないように捕まえておくことだとおもう。
「外道」のタイトルは逮捕を受けてのことだろうか。那智の滝逮捕を聞いたときには、我ながら逮捕の言葉に多少ビビったのが恥ずかしい。被逮捕経験は、サラリーマンや常識人にとって、やり直すことのできないほどの痛手には間違いない。しかし、サラリーマンの知人ばかりと付き合っていると錯覚するが、この世には自営業者、創作者、自活民、狩猟民・・・、人に雇ってもらわなくったって、図太くあるいはか細く生きている人はたくさんいるんだ。誤認逮捕だって山ほどあるんだ。警察発表、マスコミ発表に依存しない、ほんとうに人を見る目を持つ人と関わりを持っていけばよい。事件後の3人は職を失いそれなりにつらい別れはあったろうが、これを契機に長期の画期的山行に行く人生シフトを手に入れるチャンスになった。あの地獄のようなゴルジュの底から這い上がる力を持った人たちだ。当然と言えば当然の話だ。3人のこの4年の活躍は、山愛好家ならみな知っているだろう。
チャーカンシー、称名滝、ハンノキ滝、称名の廊下というスーパークライミング記録が挿入されるが、本書のメイン記録は未知未踏に対するこだわりを持ちながらも、スマフォで音楽を聴きながら登るようなタイのジャングル沢山行の話がメインだ。「頼りない相棒」との、泥沼、藪こぎがほとんどの46日間タイのジャングル沢の記録だ。「相棒」氏との殺意をいだくほどの心の葛藤がまるで小説のように描かれている。ヒマラヤ遠征隊など長期山行で人の嫌な面がむき出しになってくると、誰でも覚えがある「たかがメシの盛りひとつで殺意」のテーマ。豊かな日常じゃそんな恥ずかしいこと起きないけれどね。
「山を目的にしてその他一切を捨てて生きている沢ヤやクライマーが魂を込めて挑んだ未踏峰やゴルジュ、それらは冒険といっていい。」p123
「魂を込める」使い古したくない美しいことばだ。
あとがきの角幡氏の「宮城はそもそも表現者だった」という話に納得する。映像表現はセクシー登山部HPで衝撃的に突きつけられていた。そして山登りはそもそも反社会的行為であるのだということを那智の事件は我々に見事に突きつけたのだったというくだりは、私も学生のころからいつもずっとそうなのではないかと思っていた。山登りがどうして反社会的行為なのかわからない、という人はもちろん多数だ。しかし彼らは、自由な山登りからは遠いところにいる。
あすは海外遡行同人の2016年総会で、また彼らの今年の報告を聞ける予定です。聞くばっかりで申し訳なし!
四年前の7月16日記事
https://aach.ees.0g0.jp/xc/modules/AACHBlog/details.php?bid=680
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書評・出版・
2016年3月18日 (金)

少し前、山岳部OBのMLで紹介されていた佐川さんの小説に、北大山岳部員のその後を書いた話があると聞いて、このたび読みました。2013年出版の小説で、読むの遅かったです。先月文庫化されたそうです。
北大山岳部で山を登ってヒマラヤにも登った主人公がバブル末期に都市銀行に就職して山をやめ、バブルの不良債権をひたすら片づける仕事を務めたあと、40代半ばで仕事を辞め・・・という話で、全く登山小説ではないのだけれど、同時代の作家が、同時代を生きたおそらくたくさんの惠迪寮生たちの人生で構成したフィクション・・かもしれません。銀行に行った連中は、多分、こんな風に90年代以降を送ったのだろうか。
佐川さんは、惠迪寮で私と同じ部屋で一緒に住んでいました。一年先輩で、大変濃厚な寮生活を共にしました。文章の端々に、寮生活の際に交わした部屋ノート(交換日記)や、とりとめのない部屋での対話を思い起こしました。更には寮生集会(寮生による討論会)、大学当局との交渉の場などで、中心となって寮生の意見を述べ挙げる頼もしい佐川さんの姿を思い出しました。
この小説の主人公は誰だろう?というような話もMLではありましたが当時の山岳部で大手都市銀に就職した人はいないし、モデルの人物はそもそも居ないと思います。ただ、主人公が松本の出身であることや、卒業間際に大切な山仲間が遭難死したのを機に登山家ではなく就職を決めた話など、なんだか思い当たる部分も少々ありました。
先日読んだ村上春樹の「職業としての小説家」という本で、作家は誰か特定のモデルをすっかり描いて小説を書くわけではない。ただ、日常の中で出会う人で、何かちょっと心に引っかかるしぐさや癖を、善悪を問わず、そのまま心の引き出しにしまっておいて、そのストックが多ければ多いほど、小説の中の小さな話があふれるように出てくる、というような事を書いていました。佐川さんの創作のごく一部に、何か引き出しの中にそっとしまわれた一部に私や、同時期を過ごした個性豊かな寮生たちの記憶があるのなら、とてもうれしいことだと思いました。
登山シーンは、ヤマ場の夢の中で意外にもたっぷり現れます。松本のふるさとの山、常念岳にも登る、それに1943年の冬季初登にまつわるペテガリ岳も出てきます。確かに現役部員にとって、冬季ペテガリ初登ルートは憧れの計画です。1982年冬季ダウラギリも、それに道岳連のガンケルプンズム遠征まで出てきます。よく調べていますよ。
この小説の肝は山登りでも不良債権処理でもありません。今もっとも進行中の大問題と新しい流れ、貧困母子家庭のための低金利銀行NPOの話、ノーベル賞受賞したバングラディッシュのグラミン銀行の話です。小説では、今の日本で、女と対等な関係を築くことができなかった男たちによって助け無しのどん底に落とされた女がいかに多いか、という社会問題と、それを解決できるかもしれない方法を訴えます。このあたりが佐川さんらしいところかもしれません。
しかし不寛容なフェミニストだった女性活動家の「家族帝国主義者!」のセリフには、佐川さんをおもいだして思わず大笑いしました。
当時の惠迪寮は反帝反スタ、というかノンセクトラジカル(無党派過激派)というか。学生自治運動封じ込め路線の文部省に忠実な北大当局が、新寮建て替えを契機に完全管理をもくろんでいて、これまで連綿と続いて来た寮の自治権を奪おうとしていた時期でした。旧寮時代には10人ぐらいの大部屋で、プライバシーは無くとも寝ても覚めても他者と付き合う生活を通し、他では得難い人格形成を培う部屋だったものが、この年の建て替えで一方的に完全個室になり関係を分断されました。考えた自治会側は分断統治を図る大学事務員を追い出して寮を占拠し、壁をぶちぬいて個室を減らして対抗しました。一時的に公権力の及ばないアジ―ルを作り出したのです。新入寮生は当局ではなくそれまでどおり学生自治会で選ぶとして、寮生による入寮銓衡委員会が、自主入銓を貫徹しました。その時の新入学生で強行入寮したのが私の代30人ほどで、熱烈歓迎されました。銓衡委員会にたしか、2年目の佐川さんがいました。委員長だったかもしれません。や、それはヤマジさんか。そのすぐあと、佐川さんは寮長を務めました。人と話す時、爛々と輝く目をいつもまっすぐ見据えて話す人でした。入寮希望者の面接で、学ラン正装した銓衡委員がズラリ並ぶ前で向かい合い、「米山君は山登りが好きとのことだが、寮の裏の空き地に雪山があるので、登ってきて感想を述べてくれたまえ」という課題を与えられました。私はその足で5mほどの除雪の山を登り、真っ白な雪の中を懸命に這っていた小さな虫を見つけ、その虫を救おうかと思ったけれどそれをやめた話をしたのを覚えています。
アジールですから怪しい人たちも出入りして、また活気がありました。大学事務員や警察が突入してこないようバリケードを作ってアングラ劇団のブルーシート小屋を寮の裏に建てて公演をしたこともありました。こうした抵抗運動と共に、太鼓を打っての寮歌放吟、赤フンのストーム乱入など数々の歴史的文化資産はたゆまず継承し、充実の寮生活でした。惠迪寮には、それまでの少年期を脱皮して「自由を手にして、遠くに行きたいんだ!」と津軽海峡を越えた若い男たちであふれ返っていました。
共用棟で寮生集会をやっている脇を、山に出かける私は大きいザックとスキーを担いで通ったこともあります。集会でなくて山に行ってすまんなあ、と思いながらもやっぱり山の方がいいや、と思っていました。佐川さんの脇を、楽しそうに山に出かけて帰って来る私の姿を、どこかで覚えていてくれて、銀行職場で浮きまくりのどこか世間離れした元山男像を描いてくれたのかもしれません。
「牛を屠る」「ジャムの空壜」で、佐川さんのその後の90年代は読んでいました。確かな屠場での技術と暮らしを時間をかけて身につけ、溢れ出づるものがあって、小説家になったんだと思いました。次は「おれのおばさん」読んでみよう。
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書評・出版・
2016年1月9日 (土)

インドヒマラヤの登攀史をまとめ、2015年現在までの画期的な登攀記録などを集めた、記録集大成です。1936立教大ナンダコートから、1974JACナンダデヴィ縦走、ピオレドール賞を受賞した2008カランカ北壁登攀(一村文隆、佐藤祐介、天野和明)、カメット南東壁登攀(平出和也、谷口けい(遺稿))始め日本人記録を中心に。2014年学習院大山岳部のギャルモ・カンリ初登記は翌年八ヶ岳で遭難死した吉田修平氏の遺稿となりました。
インドヒマラヤの有名ピークといえば、ナンダデヴィ、古いところではシニオルチューでしょうか。8000m峰の並ぶネパールヒマラヤと、パキスタン領になるカラコルムに挟まれてしまって、ティルマンが1930年代に初登したナンダデヴィ以外は、すこぶる地味な印象でした。深田久弥が紹介するヒマラヤ探検記録などの古典は戦前期のものが中心でしたが、当時ネパールが鎖国で入れず、西欧の探検家が調べたのがガルワール、アッサム、シッキムだったからでしょうか。1980年代までは、8000なのか、7000なのかと、何より標高重視で山を見ていた覚えがあります。それだけにインドヒマラヤは地味でした。
しかし、90年代以降は登攀技術の革新があり、難しい6000m峰の未踏峰がたっぷりあるインドヒマラヤに、また難しくない未踏峰も多く残されていて、若い遠征隊にも狙える山域として流行ってきた、という記憶があります。
この時期、最後の高峰ナムチャバルワ7843mをめぐる両者の確執もあったと聞きますが、ヒマラヤに登山隊を送り出す主体としては日本山岳会は衰えを見せはじめていて、東部カラコルムなど、まだまだ未知だった山域に精力的に通っていたのは日本ヒマラヤ協会HAJの面々だったように記憶しています。でもこの本を読むとJAC東海も90年代はインドヒマラヤに通っていたのを知りました。この本も日本山岳会110周年記念出版とのことですが、2015年の今、ようやく、日本の登山界が、JACだのHAJだのと言わず、皆の成果としてこの一冊を出すことができてよかったなあと思うところです。記録はもちろん日本人のものを厚く載せていますが、インドヒマラヤ登山全体に占める質量ともに、日本の登山家の割合は相当多くを占めると思います。やはり日本は登山大国だと思います。北大関連ではワンゲルの1980ゼット・ワン(Z1)、山岳部の1997ドーダなど、若手が持てる力を精一杯傾けた山行の記録もあります。数行ですけど。
ガルワールのメルー中央峰の最難ルート、シャークスフィンを2012年に登ったナショナルジオグラフィックの山岳カメラマンJimmy Chinがドキュメンタリ映画を撮ったそうで、今年日本でも劇場公開されるらしいですよ。昨年のサンダンス映画祭で観客賞を受賞したそうです。
http://events.nationalgeographic.com/speakers/2015/12/01/making-meru-dc/最後に少し要望を書くと、もう少し充実した地図を期待していましたが、少ししょぼかったです。でも、良い本を出していただきました。
日本山岳会創立110周年記念
ナカニシヤ出版2015.12
6000圓
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書評・出版・
2015年12月28日 (月)

弘前の、山岳同人「流転」の遠征隊の報告書を送ってもらいました。スパンティークは、カラコルムの7000m峰です。こてこての手作り遠征です。旅は、山は、こうあれというもの。普段の地元の山のスタイルで、山スキー、テント無し(半イグル―)、うんこペーパーレス(もちろんゴミも無し)の三本の矢が光っています。
大物の予感漂う23歳女性メンバーの存在も輝いている。若手が続くチームってのが90年代っぽい。
90年代までは、ヒマラヤと言えばガイドと行くものではありませんでした。山岳部なり山岳会のもんが、休みを最低一カ月や二カ月は工面して、自分で梱包、発送して、現地ではポーターに札束配って交渉してキャラバンしてベースで粘って・・・というのがヒマラヤ登山だったのですが、最近、そんな遠征隊の話をさっぱり聞きません。山野井さんや佐藤さんや花谷さんや横山さんや谷口さんたちのような凄腕壁クライマーはもちろん今もやっていますが、僕らのようなセミプロのアマチュアが出かけていくような話をとんと聞かなくなりました。以前に比べ匿名化、非組織化が進んでいるので、日本ヒマラヤ協会も2000年ごろから日本のヒマラヤ登山隊を把握しきれなくなり、もう年報でも網羅できなくなりました。
初登頂じゃなくたって、ピオレドールじゃなくたって、テレビ局が取材してくれなくたって、県民栄誉賞もらえなくたって、全然構わないじゃないですか。もっと手作りで、いつものやり方で、若者がヒマラヤ行けばいいのにな。
久しぶりに送ってもらった手作り報告書。これでいいのだ。
書評・出版・
2015年12月22日 (火)

日本の山々を名前に注目して読ませる本です。著者は全国ひろく歩いているようで、以前、ヤマケイで山名考という連載を担当したことのあるライターさんのようです。
やはり珍名といえば北海道です。僕もカニカン岳のイグル―でカニ缶食べました。
カムイエクウチカウシ山の山名由来についてまえに著者から山の会に問い合わせがありました。山岳部の部報2号の当該個所、アイヌの古老、水本文太郎氏から、その名を聞きだす下りが詳しく書かれています。また、山の会きっての文豪・井田清氏による部報3号の水本氏追悼の印象的なところも引用されていました。ここは私も好きなところです。
日高の国土地理院の地形図の間違い訂正の一件(2013年)も厚く書かれています。小野有五先生の北海道地名に関する寄稿もありました。
聞いたところは面白いし意味も深いアイヌ語地名ですが、内地の山も修験道、タタラ文化、ご当地富士に富士塚、歴史のいきさつが盛り込まれた地名解が満載です。ガツガツ登る年ごろを過ぎると、こういう、山の歴史を知って、また楽しむというたしなみが、山登りにはあります。
思わず噴き出す珍名山リストに難読山名リストなどもたくさんあります。
やはり、山行計画では、無名峰よりは名のある山。同じ名前でもヘンな山名の山は、遠回りでもアタックしとこう、って事になります。モッチョム岳、タップコップ山、ペトウクル山、シートートゥムシメヌ山は、まだ未踏だなあ!
ブルーガイド 山旅ブックス
大武美緒子/著 中村みつを/絵
実業之日本社
1,728円
ISBN 978-4-408-11165-0
2015年12月
書評・出版・
2015年12月17日 (木)

古い写真の数々に、釘付けになりました。奥山章、吉尾弘、吉野満彦、八木原圀明・・、登場する若々しい面々の豪華なことももちろんですが、クライミング黎明期からの装備の変遷を知る上でも。
今、最先端のものには、過去の積み重ね経緯を知らないと、値打ちが分からないことが多々あります。最先端ばかり注目される傾向が特に強いのが、クライミング技術の分野で、古いものを振り返る機会は多くないだけに、この写真群には唸りました。しかも最先端を日々研究し続ける堤さんが出す本ですからね。技術面は細かいところにまで考えが込められていてさすがです。数多くの事故を自分の目で見てきた工夫が書かれています。ありきたりの入門書ではなく、基本的ガイドではないので、クライミングに打ち込む人の研究参考書です。
堤さんは年間通じてあちこちのクライミング講習会に講師として出かける忙しい人ですが、厳しい厳しい指導でも知られています。読めば分かりますが1970年代から常にクライミングの最先端で登攀史を歩み、生き残った旧日本兵のような大物です。
書評・出版・
2015年8月11日 (火)

トレイルラニングの日本代表選手クラス、ヤマケンの自伝。人の根源の力を発揮するのを阻むブロックのひとつは慾で、それを外していくと力を最大限発揮できる(96p)。これまで競技に縁は無かったけれど「山」という共通点で読んでみました。おもしろかったです。
山本健一
2015.7
トレイルラニングという新ジャンル、ここ数年で人気です。山は皆のもの、自分の体ひとつで挑むなら、どんな楽しみ方の人であっても寛容でありたい。けれども僕自身は、「競技であること」、「大勢で登る事」にあまり魅力を感じません。それでトレイルラニングはずっと人ごとだったのですが、職場の若いトレイルラナーの青年に一読を勧められ、またヤマケンが同時代同地域の山やさんなので読んでみました。少し前NHK-BSでやっていたレユニオン島のレースのドキュメンタリ番組も見ました。
やはり興味深いのは、人間の根源の力がその枷をかなぐり捨てて表出する可能性です。著者に寄れば、人に勝ちたい、順位を上げたい、という慾が消えた時、会心の走りが訪れ、更には、野生動物にかえった域を体感するといいます。24時間以上も山と空の境を走り続ければ、未知の境地もあろうと思います。このあたりの心境はたぶん、修験道者の体験した山岳修行や、「炎のランナー」(1981年)で、神に感謝するために走ったスコットランド人宣教師リデルの境地だろうか。ヤマケンさんは感謝の気持ちで笑顔になるといいます。
ヤマケンという人間が素直な性格で、周りの人たちにも恵まれ、当たり前の日常を丁寧に生きる事ができる人なんだと思います。あった事は無いですが。
楽しそうに走っている写真も良い本です。ヤマケンさんを慕って、良いカメラマンが撮っているのだと思います。
さて、私がトレランに馴染めなかった二点、
「競技であること」については、もはやヤマケンさんは競技を越えていました。
「大勢で登る事」については、「一人で走ってもつまらない」と書いています。声援送って、助け合って、喜び合う。もちろんそういう人たちが山を楽しむのに賛成です。山は皆のものだと思います。
モンブラン、富士山、ピレネー、アンドラ、レユニオン。ヤマケンさんの地元は、甲斐駒ケ岳の黒戸尾根、根っからの甲州人です。
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