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2.遭難始末 歩兵第5連隊編集/1902(明治35)年/歩兵第5連隊発行/270頁


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明治35年7月23日発行
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「遭難始末」の折込地形図: 遭難直後に作成した正確な1/1万地形図に遭難部隊の経路、遭難者の位置、捜索部隊の活動状況が示されている
「遭難始末」の折込地形図: 遭難直後に作成した正確な1/1万地形図に遭難部隊の経路、遭難者の位置、捜索部隊の活動状況が示されている


内容
 1902(明治35)年1月、日本陸軍第八師団歩兵第五連隊(青森駐屯)が、八甲田山で冬期訓練中に遭難した事件の連隊による正式報告書。本文238頁に付録32頁、図4葉が付されている。
 訓練への参加者210名中199名が死亡するという日本山岳史上最大の遭難事件。新田次郎著「八甲田山死の彷徨」(新潮社1971年)、高倉健主演の映画「八甲田山」(1977年、東宝映画)で一般に広く知られるようになった。
 日清戦争後、満州の利権をめぐって日露間は険悪の度を加えつつあり、第八師団は仮想敵国を露国として厳寒期に戦闘が行われる場合の準備をしていた。冬期八戸平野に侵入した敵に対し、奥羽街道を東進して迎撃に向かう友軍を援助するために、青森から田代を経て三本木へ進出が可能か、具体的な計画を立てるために雪中行軍が実施された。
目的の項で次のように述べている:
 行軍ノ目的ハ雪中青森ヨリ田代ヲ経テ三本木平野ニ進出シ得ルヤ否ヤヲ判断スル為メ田代ニ向テ一泊行軍ヲ行ヒ若シ進出シ得ルトセバ戦時編成歩兵一大隊ヲ以テ青森屯営ヨリ三本木ニ至ル行軍計画並ニ大小行李特別編成案ヲ立ツルニアリ。

 夏は三本木まで1日で到達できるが、雪中であるため途中田代、鱒沢の2ヵ所に宿泊の計画で、明治35年1月23日、大隊長山口鋠少佐、中隊長神成文吉大尉指揮のもとに青森屯営を出発した。小峠に達した午前11時半頃から天候が急変し、風雪強く、寒気が加わり、携帯の食糧は凍結した。午後4時頃、行軍は馬立場に達したが、糧食運搬隊(人力橇)は深雪で難航、さらに吹雪はますます猛烈となり、ために橇を放棄、日没とともになんの幕営装備もないままで露営することとなった。
 露営地は粗散セル小樹林ニシテ以テ風雪ヲ遮蔽スルニ足ラズ、(略)----此夜風雪甚ダ強カラザリシモ寒風ハ峻酷ニシテ零下七、八度ヨリ十二、三度ニ下レリ。各小隊ノ雪濠ハ幅約二米突、長五米突五十許ニシテ掩フニ屋蓋ナク、敷クニ藁ナシ。樹枝ハ之ヲ伐採スル事ヲ力メタリト雖モ器具ニ乏シク且ツ積雪深クシテ運動自由ナラズ(略)。----先ニ分配シタル餅ハ氷ッテ石ノ如ク爐火ニ煖メテ僅カニ飢ヲ凌グノ料トナスヲ得タリ
 1月24日、行軍開始二日目、夜半を過ぎて風雪ますます激しく、気温は零下20度に及んだ。兵卒に軍歌を歌わせて鼓舞し、睡眠を防ぎ、足踏みをして凍傷を防いだ。この事態を重く見た大隊長山口少佐ら将校は協議の結果、目的は概ね達したとして帰営することに決した。午前2時半、露営地を出発したが吹雪に阻まれて道に迷い、ワンデリングを繰り返して駒込川に迷い込み、鳴沢高地へはい上がろうと力を尽くし消耗した。崖が登れず力尽きて倒れる者が出て、行軍最初の犠牲者となった。前露営地より数百米進んだだけであったが、それ以上の前進が不可能となり、午後5時、凹地を捜して露営することとなった。
 正午頃高地上ノ小阜ヲ経遶シ鳴沢凹地ニ出ン事ヲ勉メシモ風雪怒号厳寒益々暴威ヲ加ヘ天地全ク晦瞑トナレリ。(略)-----手足漸ク凍傷ニ罹リ、鬚髯眉モ氷柱ト変シ、顔面多クハ暗紅色ヲ呈シ、睡魔ニ襲ワレタルガ如ク、昏倒シテ路傍ニ斃ルル者続出スルニ至リ、漸ク悲惨ノ景観ヲ呈セリ。
 1月25日、行軍開始三日目、神成中隊長が午前3時頃人員を点呼したところ、三分の一は既に倒れ、三分の一は凍傷で運動の自由を失い、三分の一は比較的健全であった。寒気は依然として厳しく、また口にするものなく、飢餓は深刻であった。午前3時頃、馬立場を目指して露営地を出発したがコンパスは凍って用をなさず、ほぼ勘に頼っての行軍で部隊はバラバラの状態となり、凍傷に罹った兵士は次々と脱落していった。午後3時頃、先頭の兵が馬立場に達し、午後5時頃、凹地を見つけて露営した。
 此夜風雪寒気昨夜ト異ナラズシテ糧食燃料一モ之ヲ求ムルニ途ナク士卒ノ神身又全ク萎縮シ殆ント常識有セズ従テ食欲ナク又暖ヲ求ムルノ念ナシ唯茫然トシテ睡魔ニ侵サレ昏倒スルモノ幾回ナルヲ知ラス互ニ相戒メテ或ハ叫呼シ或ハ打撃ヲ加ヘ以テ凍死ヲ防キシノミ
 1月26日、行軍開始四日目、午前1時頃人員を点呼したところ応える者30名のみであった。兵員は連日の寒気で凍傷に侵され、胸を没する深雪との格闘と飢餓に心身衰弱し、無限の間にあるもののようであった。帰路を求めて駒込川に陥り、渓谷に進路を阻まれる者、辛うじて帰路を見出しながら疲労と空腹と寒さで倒れる者、もはやほとんどの兵は前進が叶わなかった。この日、連隊の救援隊が大峠まで捜索を行なったが、吹雪に阻まれて田茂木野へ撤退した。
 1月27日、連隊本部救援隊は大滝平から2、3百米先で雪中に埋まって仮死状態の後藤房之助伍長を発見する。これを最初に2月2日までに山口大隊長(駒込川大滝付近で発見された)を含む17名が救助された(内6名入院中死亡)。遭難した193名の遺体収容が終了したのは5月27日であった。

 第五連隊は遭難発生からちょうど6ヵ月後の7月23日に「遭難始末」第1版を発行した。本書は同日付であるが第2版で、第1版との相違は付録の有無である。第2版の付録は急遽つけられたもので、兵がいかに風雪と戦ったか、いかに上官を庇護したか、いかに戦友の屍を背負って退避したかなどの美談集で、軍はこれによってこの遭難事件は人災ではなく、酷寒、烈風、飛雪による天災であったと印象づけようとした。(所蔵図書4)
 このような事態の急変時には防寒装備、食料など隊の対応能力を見極め、危険と判断したら撤退するのが軍隊に限らず山岳での常識である。第五連隊は遭難の原因は大隊長山口少佐の非常時対応の失敗にあることを知っていたが、それを隠し、天候の激変に求めたことは「第三章遭難当時における青森付近の気象」の末尾にある「サレバ一月二十四日ニ起レル気象ノ変化ハ這回遭難ノ一大原因タラザルヲ得サルヤ明カナリトス」とあることによって明らかである。軍医の中には「身一つならば兎も角も、二百九人をひきいたる、身は隊長ぞ何所までも、一度定めし其の事は、命を懸けてやるといふ、無謀の事のあるべきか」と指揮官を批判する者もいたが、外へ向かって言うことはできなかった。(所蔵図書4)
 大隊長山口少佐は救助から二日後に死亡したが、その死因をめぐって心臓麻痺、自殺、軍部による処分などの意見がある。(資料3/所蔵図書3)

 新聞「萬朝報」は社説で「五連隊の責任」と題して、?天候険悪化の兆候にもかかわらず、行軍を強行したこと、?地形と天候から難所越えは無理との田茂木野の住民の諌止にもかかわらず、案内人を同行せずに進発したこと、?雪穴で天候回復を待つべきなのに、いたずらに彷徨して体力を消耗したこと、?遭難を憂慮した地元民が連隊本部に救援隊派遣を進言したにもかかわらず、連隊長が取り合わず、ために死者を増やしたこと、を非難している。さらに「萬朝報」は同月22日に弘前を発し、八甲田山を踏破し、28日に青森に到着した福島大尉率いる弘前31連隊が道案内5名を雇い入れ(田代からは7名)、24日の大風雪では雪穴で待機して無事であったことを挙げ、第五連隊の判断がいかに稚拙であったかを非難している。軍はこれらの非難を考慮して遭難事件取調委員を任命したが、調査結果は報告されなかった。(資料1)

 歩兵第五連隊の兵卒は当時宮城、岩手両県から徴兵された人たちであり、青森付近の地理が不案内の上に北国の風雪に対して経験が十分ではなかった。(資料1)加えて防寒装備は貧弱で到底冬山に耐えるものではなかった。第一章行軍の目的計画で服装について次のように命令しているが、冬山に対する配慮が見られない。
一.略装ニシテ一般防寒用外套手套着用藁靴ヲ穿チ上等兵以下略衣袴着用ノコト
ニ.下士官以下飯盒、水筒、雑嚢、携帯糒一日分ヲ背嚢ニ容ルルコト
三.一般午食携帯ノコト(飯骨柳ニ容ルコト)
四.小食トシテ丸餅二個携帯ノコト(ソノ他ノ四個宛ハ行李ニテ運搬ス)
 第八師団はこの遭難事件から得た知見を寒地での戦争時における凍傷、凍死予防に生かそうとの試みがなされ、日露戦争では凍傷による死者はなかった。(所蔵図書3)しかしながら、1904年1月の激烈を極めた黒溝台会戦で第八師団の戦死者は1555人、負傷者は1693人に及んだ。(資料2)

参考資料
  1. 青森市史別冊 歩兵第五連隊八甲田山雪中行軍遭難六十周年記念誌/青森市/1963
  2. 秋山好古と秋山眞之―日露戦争を勝利に導いた兄弟/楠木誠一郎/PHP/2009
  3. 後藤伍長は立っていたか/川口康英/北方新社/2015
  4. 八甲田山死の彷徨/新田次郎/1971/新潮社
  5. 八甲田雪中行軍の研究/松木明知/2002/
  6. 八甲田雪中行軍の医学的研究/松木明知/2001/
  7. 雪中行軍山下少佐の最後/松木明知/2004/
 
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