山の会裏ばなしー(30)
デブリをはねてバスが通った
北大山の会東京支部・木村俊郎(1950年入部)
昭和三十七年に北大山岳部はチャムランの遠征に出発し成功を収めたが、小生は神岡で現場を持つ傍ら指名を受けて生産管理の猛勉強?中。出張で上京も多く、札幌との連絡は疎かだった。だが冬山の魅力からは逃れられず、この年は飛騨側に落ちる南尾根の新ルートで正月を越して一月三日、黒部五郎に登頂できた。金木戸川からの深雪をスキーに物をいわせるアプローチだった。
登頂後、かなりの風雪になったが、我々の登頂と同時刻頃、向い側の薬師岳では風雪の中、愛知大学の山岳部員十三名は頂上からの帰途全員遭難死していた。悪天候で捜索は難航し、風雪の合間に太郎小屋上空でホバリングできたヘリからザイルで降りた朝日新聞の本多勝一記者が全員の絶望を伝えたのは二週間も後になってからだった。その後も雪は降り続き稀にみる豪雪の記録を残してこの雪も三月には落ち着いた。
こんな年の三月二十四日に札幌から四人のパーティーが来た。三十五年入部のY君をリーダーにS君は通称もS、一年目のSは通称M、O君は通称がなかった。新穂高温泉から槍、穂高往復、常念を経て上高地へ下る九日間の日程で入って来たのだった。装備は現役時代を彷彿させる冬山で、神岡町に準備しておいた宿舎で、装備やら食料を広げて相談やら作戦等を練って出掛けて行った。その後このパーティーは豪雪の後にも係わらず事故もなく予定を完遂して帰った。
それから一年以上も経ったある日、小生は出張で高山行きのバスに乗った折に運転手が
「北大山岳部のお客さんが蒲田で雪除けをしてくれてね」
と言って次の話をしだした。
「以前に神岡から平湯への路線を運転していた時、蒲田の少し手前で道路にデブリが出ていて往生した。行くのを諦めて戻ろうかと思った時、乗っていた北大山岳部のリーダーが『やるか』と一声かけると、メンバーはリックに付けていたスコップを組み立てたり、バスの備品の道具を持ち出すやらして、雪を除けてしまった。平湯へ行くお客さんは喜んで拍手喝采だった」という。
北海道の山道では普通のことかもしれないが、山間の村々も軟派になってきたこの頃、リーダーの一声でサット行動する山岳部に感銘を受けたらしく、この話はしばらく運転手仲間の語りぐさになっていたようである。だが、ちょっと注釈しておかねばならぬのは、この話はこのパーティーのことだったとは思うけど、確証はない。この辺りにデブリが出る三月には前年もその直後にも北大のメンバーが来ていたからである。
...hide more
第69回OneDay里山Hike 陣馬山の報告
平成20年1月19日
参加者:坂野、石村夫妻、滝沢、大井、松下、木村

陣馬山頂上にて
コース
東京支部編「日帰り縦走36ルート集」No.17による。すなわち、頂上から和田峠に下る逃げ道を記したが、このハイクでは未だ歩いていなかったので試みた。展望も良く人けの少ない一月が絶好というわけ。頂上から峠までは丸太を並べて階段が殆どで峠からはバス停まで三キロ余りの舗装道路が続く。
その日のこと
一月十九日、終日快晴。登山口からは彼はと霜柱を踏み、一際白い富士山も現れ集まった七名はご満悦。坂野、石村夫妻、滝沢、大井、松下に小生木村。春には満員になるこの頂上も、今は人影やや少なし。展望はよく、丹沢方面から三ツ峠山、滝子山、雁ガ腹摺山、大岳、権現山などワンデーハイクで歩いた山々が次々と見渡せた。
和田峠で二度目の昼食。「エッセンは必ず少し残しておくものだ」と往時の鉄則が頭にこびりついていて、頂上での陽気につられて食べ尽くさなかった御仁もいたようだ。
「よくもこんな所に来るもんだ。でも今日は有閑な、文人墨客ばかり。気楽でのんびりだ」
との声や
「でも、書も画もさっぱりだな」
との声も。
路線バスの発車時刻に合わせたようにバス停に着いた。バスは路線変更になっていて終点は高尾駅北口。
「裏ばなし」は(30)へと進んだ。
所要時間 五時間(上野原駅発高尾着)
正味歩行 二時間四十分

登山口からじきに落ち葉と霜柱の道となる

頂上前の急登に備えて一寸たむろする
...hide more
第68回OneDay里山Hike 蓑山の報告
平成19年12月29日
参加者:大井、渡辺、石本、石村夫人、木村

蓑山頂上で昼食
コース
秩父鉄道、皆野駅前の道路に「美の山」へとの矢印あり、自動車道路を渡って南々東へ舗道を五百メートルほど行き細い車道を渡れば蓑山神社への登山口となる。道は頂上まで簡易舗装されていて間違うところはない。緩い登りの連続で頂上は公園になっている。
下りは車道と、これをショートカットするように歩き道とがあり途中には「和銅開弥」の鋳造遺跡があり銅の採取跡の表示とがある。道なりに行けば皆野の隣駅、黒谷に出る。
その日のこと
十二月二十九日、天気の変わり目で雨の予報が少し動いていたが日中は降らないとみた大井、渡辺、石本、石村夫人が現れて定刻に歩き始める。この山はハイキングコースだが忘年会の日程のため年末にずれ込んでの計悪だったので軽く秩父を歩く計画にしておいた訳である。
時期的に人出は殆どなく、悠々と駄べりながら歩く。黒谷は自然銅を掘って朝廷に献上した史実があり、砂金のように大量に出る自然金よりも珍しいもの。この堀跡を見るのが目的ではなかったのだが帰り道には遺跡としての看板や説明も見てきた次第。幸いにして雨にも当たらず軽いハイキングになったが、陽も短いので手頃な歩き心地を満喫した筈である。「裏ばなしは」は(29)へと進む。
所要時間 三時間半
正味歩行 二時間四十分
...hide more
第67回OneDay里山Hike 御林山、近辺(浅間尾根)の報告
平成19年12月22日
参加者:滝沢、大森、大井、坂本、石本とご子息1、石村夫人、佐藤、木村

浅間尾根にて一休み(石本会員撮影)
コース
武蔵五日市駅からバスにて鎌倉で降り、少し戻って橋を渡るとすぐ右手の石段から登り始める。藪に付けられた細道は、かなり急な登り。三十分も登ると登山道らしくなり、傾斜は強いが変化があって結構なものである。1時間半ほどで浅間尾根に出る。尾根道は往時は商業路だったというハイキングコースである。道は風張峠に向かうものでこの表示に従って数馬分岐を越え、一度舗道を渡ってから数馬峠を過ぎると次の分岐が仲ノ平への下り口である。右手、尾根伝いに五百メートル進めば御林山。数馬バス停に出るには前述の分岐から下ればよい。
その日のこと
十二月二十二日、定刻に集まったのは滝沢、大森、大井、坂本、石本とご子息1、石村夫人、佐藤、小生の九人。しかし、予定していた数馬行きのバスは無し。ダイヤが変更になっていたのだ。でも九人もいれば文殊の知恵が出ない筈はない。鎌倉行きで終点から一本杉へ登るルートに切り替えて浅間尾根に上がって目的の山に向かい、時間をみて途中からでも予定の仲ノ平(数馬)に下ることにした。
曇天ながら夕方まで雨は降らず、裸木の下、枯れ葉を踏みつつ急坂に喘ぎ、尾根に出ては水平の散歩を堪能。
「今秋は風が弱かったせいか落ち葉が厚い」
と誰かが言う。そう言えば今年は柚子の実が綺麗だった。葉に擦られる傷があまり付かなかったのだろう。風もなく御林山と数馬の分岐に着く。終バスまでには少々時間はあったが、今日は
冬至でもあるし、御林山へは「あらためて、此処からもう一局」として、数馬方面へ岩の露出する急坂を悠々と下る。
バス停は老舗「蛇の湯」のすぐ前。次のバスまでに湯に漬かって過ごす通人も数人。
裏ばなしは(28)へと進む。
所要時間 五時間四十分
正味歩行 三時間
...hide more

【年月日】2008年2月4日(1-0)
【メンバー】L田中宏(3 Al小池 田中省(2 M井村 鹿島(1
<時間とルート>苔の洞門入口6:30→樽前Co900台地9:40→東峰ピーク10:30〜40→ヒュッテ11:20→モラップ12:20 Co450付近でルンゼの左岸台地に乗る。移動高で天候が安定することが予想されたため、取り付きやすそうな廃道夏道が通る小尾根に取りつくことにする。Co740付近でEPシートラに。・994はねぐって・1028樽前東峰ピークまで。Co900台地〜ピークまでは時々気になる風。ピークからはヒュッテまで下る。シートラ解除はヒュッテ少し手前。ヒュッテでは親切なおじさんにコーヒーを頂く。感謝。その後林道下山。
<パーティー>春メイン1年班準山1回目。EPワーク確認、シートラ出来た。
...hide more
第66回OneDay里山Hike 臼杵山の報告
平成19年10月13日
参加者:滝沢、坂本、黒川、木村

臼杵山頂上にて昼食
...この先は閲覧許可があるユーザーしか読めません
第65回OneDay里山Hike 高取山の報告
平成19年8月18日
参加者:坂野、石村夫妻、滝沢、大森、渡辺(ダン吉)、石本、大村、山崎、佐藤、木村

高取山頂上
コース
小田急線、伊勢原駅から栗原行きのバスにて比々多(ひびた)神社を過ぎ終点で下車。
舗装された道が聖峰まで続く。整備された少々急な一本道を行き五五六.三メートルの三角が高取山の頂上である。下り道は三本あるが、三〇〇メートルほど真北に進んでから東に折れて栗原に戻る道は快適である。
その日のこと
平成十九年八月十八日。
一昨日は多治見市と熊谷市で四〇.九度になり、七十四年ぶりに日本列島の最高気温が塗りかえられた。連日の猛暑だったがこの日はどうしたことか気温は十度近くも低かった。しかも総勢十一人。久々の大人数。だがバスはこれで貸切り状態。坂野、石村夫妻、滝沢、大森、渡辺(ダン吉)、石本、大村、山崎、佐藤に小生と錚々たる面々。話題も札幌の大先輩の消息、東京支部の日頃顔を合わせない人達の噂から、カイラス山へリベンジを企てる大森君、ZOOKINワインがかなりの量に達しサンプル持参の石村君の話など多岐に渡り、ここで述べきれるものではない。
ともあれ、思いのほか快適だったコースを満喫した次第。裏話は(25)へと進む。
所要時間 四時間二十分
正味歩行 三時間半

途中の聖峯から関東平野を見下ろす。雷雲は無事通過した模様
...hide more

松本の山スキー同人シーハイルのメンバーとして槍ヶ岳飛騨沢を滑降してきました。パーティ6名中3名が登頂。私は体力続かず残念ながら肩の小屋までとなりましたが、素晴らしい飛騨沢パウダーを満喫できました。
【年月日】2009年2月7日(土)(1-0)快晴〜夕方雪
【メンバ】堀米,内田,片岡,山崎,坂本(以上、シーハイル),清原(aach1986)
【行程】新穂高温泉(4:30)〜槍平小屋(8:30頃)〜飛騨乗越(11:45頃)〜肩の小屋(12:15頃)〜槍ヶ岳(13:15-30)〜肩の小屋(14:00頃)〜飛騨乗越(14:05-20)〜槍平小屋(15:00頃)〜新穂高温泉(17:30)
写真:滝谷出合

道南のグランドジョラス、雄鉾岳北東面に直上ラインを引くべくアタックをかけたが、天気周期に恵まれずドカ雪を見舞われて、取り付きまでを往復するに留まった。(写真・標高点652上のイグルーより)
【ルート】
1稜や4稜
【時 間】
2/7晴れのち雪 おぼこ荘(11:50)→銀山川一本下流の沢→右岸尾根に乗り、標高点652c1イグルー(15:00)完成は16:00
2/8 ガス吹雪のち曇りc1(7:50)→3稜基部引き返し(9:00)→c1(9:40-10:20)→おぼこ荘(12:50)
【メンバ】
米山(1984)、齋藤(1987)、勝亦(2003)、馬場(HUSV2001)
久恋の雄鉾東面で、冬の壁を目の当たりにしたが、今回は敗退。右から左へ1,2,3,4,5稜とあるが、山頂に上がるルートって事で北峰の1稜、南峰の4稜を2パーティーでという計画だった。おぼこ荘で出発しようとしたらアイゼンを忘れたメンバーがいて、八雲在住の山スキー部OB北川君に借りに行く。あいにく留守だったがアイゼンの置き場所くらいは見当がつくものよ。もつべき者は地元の山友だ。北川君ごっつぁんです。

取り付きへは、夏道コースのある銀山川の一本下流の沢を詰める。本流の渡渉はやや上流に昔ここを走っていた鉱山鉄道の鉄橋があり、それを使う。この一帯、集落あり、活動写真館ありの盛況だったそうな。沢の中は右へ左へとスノーブリッジを使ってクネクネ進む。快適じゃないけどよくある沢ルート。シール利かして小尾根を登り、標高点652に出た。強風吹雪にガス。

壁は見えない。ここでイグルーを建てる。雪たっぷりの雪庇脇に深い縦穴式で4人用のワイド版。午前は晴れていたがどんどん悪くなってきた。暴風雪でもイグルー内は静かだ。アルゼンチンの葡萄酒をあけて、インドネシアカレーのうまいやつを食べたら、いつの間にか眠ってしまった。そういえばゆうべの夜汽車では雪祭りツアー客と一緒になってやかましかったなあ。

翌朝はガス、吹雪でやる気が出なかったが、明るくなると雄鉾の壁が時折ぼんやり見えたりしたので、取り付きまでは行ってみようかという事になった。緩い斜面をトラバース気味に取り付きに向かうが、一晩で30センチは積もった。ふわんふわんのラッセルだ。

1稜の真下あたりから壁の方に向かって登り始める。時間的に遅くなったし、1稜はドラッセルで明るい内に上には行けそうもないので二手には分かれず4稜右の氷瀑を見に行くことにした。3稜の基部をトラバースし、3,4間ルンゼの下に当たる急な大斜面をトラバースする段になって、雪崩がやばいのではという意見が生じた。協議の末断念して戻ることにした。膝までの新雪、傾斜は45度強って所。40センチ下にはカチカチの霜ザラメ層が二枚。

たっぷり積もった新雪で、下りのスキーは快適だった。道南でこんなにいい雪は初めてに近いぞ。イグルーに戻ると、ガスが薄くなり、雄鉾の北東壁がぎらぎらと姿をみせた。傾斜は滅法立っている。雪崩の心配の無いコンディションでまた狙いたい。しかし最近、アルパイン敗退が続いている。天気の巡りの
要素が大きいから。イグルーは風雪に埋まり雪見大福みたいになっていた。
もと来た複雑な尾根と沢を下り、帰りの本流渡渉はスキーをぶん投げてざぶざぶ渡った。
おぼこ荘の温泉に浸かった。露天風呂では50くらいのおっさんが隣の女風呂のかみさんと猛烈な雪合戦をやっていて、非常に微笑ましかった。向こうからもばんばん玉が飛んできた。漬物石大のも。風呂上りにフタの裏にべったりクリームのついたうまい瓶牛乳を飲み干して、北川君にアイゼンを返しに行ってあがりこんで焼き肉。二歳児玄八郎は滞在中ついに昼寝の夢から醒めなかった。八雲駅で五時半の特急に乗る。敗退のせいで、夜行急行はまなすの世話にならずに済んだ。
...hide more
1月31日久し振りに中京名古屋で、関西支部新年会を開く(岸本記)
場所は名古屋駅の桜通口側の駅前。少し早めに着いた私は市内の繁華街をぶらぶらしたが、年明け1ヶ月にもなると華やかさはない、とはいえ自動車産業を直撃している不況の影も見当たらない。会場に向かう途中、内藤さんからは熱が出たと、田中(英)さんからは福井を出たが、列車が強風のため今庄から進めない、と相次いで欠席の連絡。
今回は長老の和田さんに乾杯の口火を切っていただく。その和田さんは蒸留酒を生でいくのが流儀、今は中国の水井坊がお好みとか。向かいに座った原さんは、相変わらず抹殺論を展開、ヤル時はギロチンがいいのだそうだ。今回参加者の中で一番若い松原君はそんな二人に囲まれて内心はどうであれ、先輩の話を拝聴する姿勢はディリジェントにして積極的。ここ数ヶ月名越さんは酒量がいつもの千分の一になった。調子がいいのだそうだ。何せ酒にまつわる話が一杯有るお方故、今更減った、止めたと言われても誰も気に留めない。
ネパールのナキウサギの遊び場とおしっこについて誰かが喋れば、「伏見(ネパール在住)と連絡が取れて、俺は今年ネパールに行く」と別の誰かが宣言。後はだれが何を喋ったのか、記憶もうつろになる・・・・・とその前に、今回の参加者(敬称略):和田、原、吉田、窪田、神戸、高橋(昭)、渡辺(尚)、川道、名越、石松、松原、岸本(計12名)
追記:本当にうつろになっていたようで、いつもの集合写真を撮るのをすっかり忘れていました。
...hide more