原真(1956入部)の初期の著書、「北壁に死す」が、今月「北壁に消えた青春」として再び出版された。(
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1961年4月、21歳で鹿島槍北壁で遭難死した弟、原武の遺稿集。事故から47年経ってもあせない、山を真剣に考える若者の手記。遺稿集本文は原武の名古屋大山岳部4年目の春までの山行記録と片思いの恋の記録。日記から1960年代の青春を追想する。山と恋について切々と書き記す個人的な日記。こんな大変なものを出版しても良いものかと2008年の人は思うかもしれない。が、そこが原真一家の凄いところだとつくづく思う。序文は深田久弥。

実はまだこの新版は手にしていないが目次を見ると本文は同じのようだ。過去二冊の「北壁に死す」がある。
最初の「北壁に死す」は、山と渓谷社から1973年発刊、新版「北壁に死す」は同じく同社から1984年に出ている。原真のあとがきがそれぞれに良かったので両方紹介する。
僕が学生時代最も感銘を受けたのは原真の書いた(1973版)後書き「なぜ山へ登るか」の中のことばだ。
「山の中の死ーすぐれた登山家の死ーは、ときに人生の完成を意味する。それは幻滅からの解放であり、自己欺瞞の克服である。美しい余韻を持つ、完璧な姿だ。
なぜ山へ登るのか。答えは簡単だ。山には死があり、したがって生があるからだ。下界には多くの場合それがない。」
この一文は後の「乾いた山」や「頂上の旗」に収録されている(いずれも古書店か北大山岳館でご覧あれ)。

新版(1984版)のほうの原真の後書きの「武の逝った日」も凄い。武の亡骸に対面する父母の様子を克明に書き、その後父兄が医師として弟を解剖する様が記されている。とても詳しく書いてあるが、それはここでは書けない。
「父はおどろくべき予定を宣言した。『今夜、大町市民病院で、武の遺体を解剖する。』といったのだ。
たっているのがやっとぐらいにつかれていた私は、父の気力に驚嘆した。
『すべて手配はすんでいる。』
ともいった。その口調には断固たるひびきがあった。
父の態度は、むしろ明るい印象を周囲の人たちにあたえたのではないか。関係者から、遭難の模様を逐一きき、自ずからも山を指さして質問していた。
そのあと、宿へかえって、母と二人になったとき、号泣したらしい。
『武、武。』
といって、棺にすがって、声をあげて泣いたと、あとで母にきいた。
父親とは、なんと悲しい存在であることか。未熟な息子の、死という裏切りにあい、敢然としてその打撃にうち勝たなければならない。」
遭難の日、たまたま北壁別ルートにいた名古屋山岳会のドンちゃんこと加藤幸彦氏は身を粉にして救助と捜索に努めた。このドンちゃんはのちに長野県山岳連盟のギャチュンカン初登頂(1964)で活躍し、三浦雄一郎エベレストスキー隊でも裏方主任として活躍した。1996年、僕はブータンの最高峰チョモラーリに登る老境入りした加藤さんを撮影する機会に恵まれた。64歳とは思えぬパワーだった。(
記録)原さん兄弟との縁はずいぶん後で知った。加藤さんはその後『絶対に死なない」という本を出している。(
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まだ手にしていない「北壁に消えた青春」の書評も心苦しいけれど、最新版の感想はまたいずれ。
清野さん、原武を偲んで北壁行きましょう。
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【年月日】2008/12/12−14(2−1)
【メンバー】L田中(3 AL平塚(5 M 小池 田中 野沢(2
前天狗から見えるニペソツ
【時間とルート】
1日目 林道入口(8:15)−登山口(10:30)−Co1620=Ω1(14:30) 天気雪。スキーで林道を行く。雪少なくラッセル踝以下。登山口先すぐの渡渉は橋があった。尾根取り付きは急でツボ。その先も雪少なく少しの間ツボで行く。夏道尾根CO1580付近から天狗のコルへtrv。天狗のコル先Co1620付近でイグルーを1時間30分で作りΩ1とする。
2日目 Ω1(8:30)−Co1660(8:40)−Ω1(8:50-10:30)−・1888前天狗手前(11:30)−Ω1=Ω2(12:00) 天気雪。視界悪いため天気待ちしてから行くが、直後Mのシールが切れてイグルーに引き返す。シールを修理して再度行くも・1888前天狗手前で視界100前後となり悪化傾向でアタックも厳しいと考え引き返すことにする。寒気流入で気温−15度。イグルーを改築してΩ2。

ニペ手前のコルから天狗山。
3日目 Ω2(5:40)−ニペソツ(9:40)−Co1720(11:00)−林道末端 (13:40)−国道(18:50) 天気雪のち晴れ。気温−20度以下。(3-1)の計画だったがLの都合で何とか一日中に下山するためラテルネつけて出発。Ω2からの登りCo1800でアイゼンシーズリにかえる。回復傾向の読みで徐々に天気が良くなってきたのでのっこしをかける。ニペ手前のコルでシートラEP。

ニペソツの登り。中央部分デルタは雪なし。
ニペの登りはバリズボで苦労する。雪屁東側に1m。デルタのtrvは夏道出ていて問題なし。

ニペソツ頂稜。雪屁2~3m。龍の背などはポコの向こう
ピークでは晴微風。時間的にも大丈夫なのでのっこすことにする。頂稜は雪屁東側2~3m。南稜はバックステップする所があった。所々バリズボ。竜の背は夏道上を行き問題なし。・1736北コルの平らになったところでスキーにかえる。そのまま南東へ下り・1016の尾根にのり林道末端まで。林道はラテルネつけてガッツで下山。
【パーティ】冬メイン2年班準備山行3回目。総合確認、イグルー、長時間行動できた。
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直行夫人つるさんから寄贈の絵画5点が山岳館へ届けられました。夫人から熊野純男会員に託されていたもので、油彩3点、水彩1点、コンテ1点です。これらは山岳館に掲示します。直行さんの絵は山岳館には既に3点ありますが、これらを含めて館内に直行コーナーを設けて展示の予定です。

熊野ボンちゃんと晩秋の南日高(山岳館図書室にて)、油彩(31x41)、前景が未完成の習作で署名がない

題名「原野の立ち枯れ」1931年作、このコンテは戦後油絵となった同名の原画

水彩、裏書にポロシリ七つ沼カールにて、坂本直行、1959の署名

油絵31x41、初夏の南日高(楽古岳)、前景が未完成の習作で署名がない。

油絵33x45、大雪山、前景が未完成の習作で直行さんの署名がない。
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久しぶりに札幌を訪問しました(12/3)。澤柿さん(1985)を北大に表敬訪問したところ、最近南極に関する著書を出したそうです。また、「つる」にて、同世代で久しぶりの再会を楽しむとともに、20近くも先輩のヒヤヤッコさんや、現役部員全員や若手OBとも合流し、楽しく世代を超えて交流を図りました。(報告:山森聡、1986入部)

北大地球環境科学研究院の澤柿さん(1985)を表敬訪問した。澤柿さんは、このホームページやAACHメーリングリストの運営管理をボランティアで行っており、AACHの発展に多大な貢献をしていただいていることに感謝したい。澤柿さんの隣の部屋は、石川ヤンケ(1987)の部屋だが、残念ながらシベリア・ヤクーツクに凍土の研究で出張中だった。

澤柿さんは1993年(第34次)、2006年(第47次)の2回、南極越冬隊に参加しており、このたび、「なぞの宝庫・南極大陸 100万年前の地球を読む」を共著で出版されました。
購入はこちらからどうぞ。 
「つる」のマスター大内さん(HUWVの大先輩)も元気でした。
「つる」のホームページはこちら。 
左から、斎藤(1987),柳澤Dick(1986),大内さん(HUWV),山森(1986),冷奴さん(1969)。
冷奴さんとは、偶然、会うことができました。
柳澤Dickは、1999年に南極(第41次)の観測隊に参加しており、その時を含め7年間、冷奴さんの会社に所属していました。久しぶりの上司と部下の再会だったようです。

斎藤(1987)が最近現役を連れて山に行っている縁で、例会終了後に、若手(2003入部、6年目)の勝亦君と、4年目以下の現役全員(6名)も駆けつけてくれました。
写真左から、斎藤(1987),野沢(2),井村(1),勝亦(6),鹿島(1),田中バイエルン(3),田中省(2),小池ダイゴロー(2)。
前列は、柳澤Dick(1986)、大内さん(HUWV)、山森(1986)。
冷奴さんは残念ながら、現役勢と合流する前に帰宅されました。

先程の写真は、野沢君(2)の顔が半分切れているので、もう一枚アップ。こちらの写真は、井村君(1)の顔が切れかかっている。この写真に写っているのが、4年目以下の現役部員全員だそうです。
(計6名、4年目0名、3年目1名、2年目3名、1年目2名。)
6名とも、私(山森:1986入部)が現役時代にオギャーと生まれた人達でした。世代を超えて、交流を図ることができました。
それでは、冬山、春山と続きますが、みなさん安全に山行を楽しんで下さい。
私の方も、東京組で、恒例のスキー山行を地道に継続していきます。
記録は
http://homepage2.nifty.com/yamamori/ を参照下さい。
(報告:山森聡)
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【年月日】2008年11月30日ー12月1日(2−0)
【メンバー】L:田中(3 AL:平塚(5 M:小池、田中、野沢(2
Nから三段山へ。快晴
<時間とルート>
吹上温泉(9:40)ナマコ尾根Co1320付近(11:30)=C1(6:00)OP尾根上(6:20)大砲(10:50~11:00)三段山(12:00~12:15)吹上温泉(13:30)天気:1日目 雪、 2日目 快晴 無風 
2日目OP尾根末端付近
スノーシューで行く。吹上温泉から夏道を行き、途中からナマコ尾根に乗る。ナマコ尾根上Co1320より上は木がないのでここでC1。ラッセルは足首からスネ。C1からはナマコ尾根をつめ、フリコ沢を渡ってOP尾根に乗る。

ギャップ
GAP手前でEPにかえる。Co1580付近のGAPは大沢側にAb.1p7m位。残置。逆Zはシュリンゲをつなげて垂らす。その後Pまで所々岩稜。一部微妙なところがあった。

えせナイフリッジ。
P先のえせナイフで練習のためザイルを出す。
後は大砲をアタックし、P,N,を経て三段山まで。後は吹上温泉まで。2人程トレースにだまされて遠回りした。
<パーティー>
2年班準備山行2回目。EPワーク、ザイルワーク、細いところできた。
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【年月日】2008年11月15−16日(2−0)
【メンバー】L:田中宏(3 M:田中 小池(2
半面山から芦別岳を望む。
[時間]新登山口 6:45→C1 9:15〜9:45 →半面山 10:30 →雲峰 11:15 →芦別12:30〜12:55 →13:40 →C1 14:00 /9:00 →新登山口 10:00[ルート]雪のない夏道を行く。途中からスノーシュー。Co1114で今日の天気は持ちそうで、かつ明日の天気は悪くアタックは不可能だと見込み、Co1114から半面山までの時間を1時間として引き返しを13:00に決めて、荷物をデポしてアタック装備でアタック。雲峰の登りはササブッシュが顔を出し、雪崩は大丈夫。雲峰でピッケルに。雲峰と芦別の最低コルは細いがすぐ下に木が出ていた。芦別までの登りは急な所もブッシュが所々顔を出していて、雪崩は大丈夫そうだったので、細引きを出さずに急な斜面下まで行く。弱テを行うと、80センチに腰位の層があった。大丈夫だと判断し、アイゼンに履き替えて念のため一人ずつブッシュよりに急斜部分を通過。そのあとほんの少しtrvして夏道に出てピークへ。あとは来た道をC1まで。翌日は雨でC1からは走って下山。
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【年月日】2008年11月15日(1−0)
【メンバー】L澤田(OB)AL平塚(5 M井村、鹿島(1
<時間>
吹上温泉(6:50)→望岳台(8:10-20)→避難小屋跡・シーデポ(9:50)→十勝岳(12:20-30)→望岳台(14:30-15:00)→吹上温泉(16:30)<ルート>
雪が少ないため、吹上温泉から林道経由で望岳台へ。望岳台へは白金温泉からの車がいっぱい。萎える。望岳台からは夏道上に雪上車のトレースがある。しばらくツボで行き、途中からスキーはく。小屋でシーデポ、つぼストックでCo1500まで。Co1500でEP。吹上温泉にテン場着の15:00に着くのは難しいが望岳台からは問題ないため、At.することにする。あとは特に問題なくピークまで。帰りは来た道。雪が少ないのでスキーで下る者、ツボで下る者様々。林道を吹上温泉まで行き、温泉近くで夏天泊まり。翌日ビーコン練をして下山。
<パーティ>1年班冬メイン準山2回目。アイゼンはけた、生活技術、ビーコン練できた。
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【年月日】2008年11月8日(1−0)
【メンバー】L田中宏(3 AL田中省 小池 野沢(2 G平塚(OB
<Time>
十勝岳温泉 (7:00)H直下スノーシューデポ(9:40〜10:00)H(10:15)H直下スノーシューデポ地点(10:35)十勝岳温泉(13:15)<Route>
下から視界200なく、新DZを行く。ラッセルすね、時々膝。所々わかりづらそうなところにデポ旗打つ。H直下でスノーシューデポ。H直下はハイマツ出てて雪崩心配なかった。Hでふられる風のため引き返すことにする。帰りでCo1480付近の沢型で2人はぐれるがすぐ戻る。後は問題なく温泉まで。
<Party>
冬メイン2年班準山1回目。悪天行動できた。
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【年月日】2008年11月1-2日(2−0)
【メンバー】L:田中(3 AL:澤田(OB1 小池 田中 野沢(2 M:井村 鹿島(1
<時間とルート>
11月2日 天気:曇り時々雪 旭岳温泉(11:20)→(12:45)天人ヶ原(12:45)→(13:45)Co.1500付近 雪が少なく、トレースがあったためスキー持ってツボ。そこからシール。Co.1500付近の広い所でC1。1年目がビーコン訓練をした。
11月3日 天気:雪時々曇り C1 (4:00)/(6:50)→石室(7:50)→(8:10)Co.1760付近=シーデポ、EP練(9:10)→(9:30)石室(10:40)→(11:45)C1(12:00)→(13:45)旭岳温泉 C1から石室までシール。E.P練のため、視界500くらいだが上に行くことにする。Co.1740くらいから視界500を切る。デポ旗3本打ち。Co.1760付近でシーデポ、E.P練をした後、石室まで下る。石室で休憩し、C1まではスキー。天人ヶ原まではしーズリ。旭川温泉まではつぼで下山。
<パーティ>
1年班冬メイン準備山行1回目。生活技術、行動技術できた。
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2008年11月15−16日、岐阜高山市にて開催。私は15日朝から焼岳に登る段取りで14日の晩に高山に入った。大阪のかったるい冬の空気と違い、高山の夜は澄んでいた。見上げる月は真ん丸で、暦を無視して何度か「月見の会」をやっていると、たまにはお題目の通りになるものだと妙に感心。
宿の国民宿舎「飛騨」には、時間通りに皆様到着。数日前まで参加予定だった内藤さんと松原君が共に体が空かず不参加となり、総勢は9名。
風呂上りの浴衣姿で須田さんち畑で取れた特選みかんを頬張りながら大相撲をテレビ観戦する様は、まるでどっかのじいさまみたいじゃないの、名越さん。そういえば原夫人は別にして、お集まりの面々は私も含め、70代から60代。どっかではなく単なるジイサマ連中です。でも田中(英)さんから、トイレが2つも付いたクルーザーでの話を聞いていると何だか不良ジイサマの感じもする。あるいは昨夜満月の下で、不登校気味の孫娘と手をつないで夜道を歩いたという渡辺(尚)さんの話は普通のおじいちゃん。
宴会もそこそこに、大部屋に戻り部屋を暗くして、この夏にアンデス38日の旅に出た高橋(昭)さんのDVD映像や吉田勝さんのネパールヒマラヤのパワーポイント資料などを、原さんの昔訪れた話を織り交ぜながら鑑賞。夜は更けて団欒は続く。
翌朝は雨で明ける。期待していたがこの小高い位置の宿から北アルプスの姿は煙って見えない。朝食を終え、少し小降りになるのを待つでもなく、別れを惜しむでもなく、三々五々に帰路につく。今度は新年宴会でまたお会いしましょう。
参加:原夫妻、吉田(勝)、高橋(昭)、田中(英)、渡辺(尚)、須田、名越、岸本
(記:岸本)
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