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2025-6-6 11:05
ヤマレコAACH
泙川〜皇海山〜鋸山〜庚申山
泙川〜皇海山〜鋸山〜庚申山(沢登り/日光・那須・筑波)日程:2025-06-02〜2025-06-05メンバー: yoneyama macchan90コースタイム:写真:広く自由な河原標高1100m屈曲にも窯跡あり。右岸には巨大な洞がたくさん庚申山修験道にて泊壊れた堰堤の滝足尾銅山本坑あと雨の焚き火小雨降りC2決め込む。雨の下でも炊けるよう、片側を高く張るまたラーメン100m以上のなめとあるコルでなめ足尾銅山の橋人為的な河岸段丘庚申山修験道深山大河の趣、長く深い川に入る喜び足尾銅山本坑あと庚申山修験道ナメ滝左岸上にもう一個あり足尾銅山のある松木川の谷棒ラーメン上部も滑床の素敵な沢4mほど懸垂して滝上に降りる。標高1180m地形図の岩マークのあたり宵闇棒ラーメン美味至極の表情ヤブコギ途上のマツと日光白根上部も滑床の素敵な沢巻きたばこまたラーメン庚申山修験道鏡岩にて産業遺産解説左岸にトラロープあり廃墟左岸窯跡の対岸でC2とする鋸岳へのルート皇海山見えた庚申山修験道炎の饗宴上部も滑床の素敵な沢キャンプ1温泉付きの水沼駅で下車右岸の林道がトンネルになっているあたりには巨大堰堤に阻まれる。美しいなめシャクナゲ皇海山巻きたばこ初夏の黄色い花シャクナゲマン開2段10mくねくねとクネルナメ滝と林函滝不審な客左岸にトラロープあり庚申山修験道均一なサイズの岩石帯トラロープ残置あり雨の日こそ焚き火が快適車窓より庚申山修験道にて泊ごくり初夏の黄色い花支流から注ぐ美しい滝土場跡の笹草原庚申山修験道水沼駅前のはやぶさ食堂でエビカツ重シャクナゲ半開皇海山巨大な洞。幅50m、深さ20mはあるぞ皇海山昔の土場あと宵闇鉱山街。車窓より鋭鋒、ノコギリ岳から皇海山わたらせ鉄道来ました!ナメ滝左岸上部は丈の低い笹で見通しも良い清野さんと3人皇海山見えた炭焼き窯跡庚申山修験道なめ両岸が少々立っている坑夫の足庚申山修験道こんなところに広大な修験宮があったのか2段10m庚申山修験道水流も減ってきた雨の焚き火庚申山修験道ヌルヌルの段差のクライムダウン今度は右岸に石垣と土場跡がある庚申山修験道にて水を汲む100m以上のなめ炎の饗宴函滝巻きたばこ庚申山修験道シャクナゲマン開またラーメン100m以上のなめ小規模な滝右岸を行く足尾銅山本坑あと正門と廃墟 1973年閉山人為的な河岸段丘ひとやすみ終着、間藤駅堰堤の廃墟、天然への途上支流から注ぐ美しい滝宵闇稜線はツツジの大木だらけ庚申山修験道こんなところに広大な修験宮があったのか上部は丈の低い笹で見通しも良い標高1200二股あたり人為的な河岸段丘はやぶさ食堂、超満足函プール足尾銅山正門渓谷鉄道ツツジ奈落カツラの巨木の下で休む。石垣もあり鉱山鉄道鉄橋910m二股。左俣に見える堰堤。足尾銅山本坑あとまたラーメン巻きたばこくわえタバコでサラミを切る男午後のまどろみ20分ほどでバスが来た。間藤まで170円。1.5時間に一本。庚申山修験道こんなところに広大な修験宮があったのかしれっと岩峰皇海山山頂2連発堰堤のクライミングは木登り庚申山より皇海山庚申山修験道岩盤の両サイド皇海山とツツジ途中10分停車の駅には懐かしの缶ビール自販機もあり。雨の焚き火庚申山修験道かわいいくも岩盤の両サイド広大な河原玄米カレー雑炊納豆粉末かけ小瀧連発男体山とシャクナゲ右岸には巨大な洞がたくさん巨岩帯で肩にのったりする高みかけて行き詰まって戻るところ絶望的な堰堤だが左岸に弱点あり庚申山より皇海山あれは男体山瀞、函巻きたばこ鉱山街。車窓より国境稜線は快適な尾根鏡岩にて右岸には巨大な洞がたくさんトラロープ残置あり巨大な洞。幅50m、深さ20mはあるぞコザクラ感想:皇海山に登る天然ルートとして、マツが数十年来課題としていた泙川から、スカイ山に直登する。けがれ無き沢から、十分な日程を確保して臨んだ。私は大阪での用事から松本に帰った日にマツが美濃から軽自動車で松本に来て、松本で泊。翌朝沼田へ移動して奈良(なろう)の不動滝に駐車して入渓。はじめはここへ戻るため、皇海山から不動沢へ降り小田倉沢を戻る計画だったが、沼田の清野さんの電話したら、帰りの車回収につきあってもらえることになったので、足尾へ乗っこしてわたらせ鉄道で下ることに計画変更した。やはり計画は乗っこしのほうが断然美しい。1日目不動滝から標高860まで。くねくねした川は、はじめ大河の趣あり。大きな川の始まりは気持ち良い。渡渉を繰り返して進む。水量はちょうどよいが、多いと困難だ。右岸側には大きな洞が連続する。巨岩帯があり、肩に乗ったりして通過する。随所にトラロープあり、助けられる。無いと厄介な巻きになる箇所もあり。天場はどこにでもあり。疲れたところで泊まる。2日目標高1100mまで進む。この日は雨予報だったので7時まで出発を遅らせるが、大して降らなかったので進める。ポツポツとは降ったがよし。CO900m左岸側に、広大な草地の平地がある。明らかに人口の場所。まるで山城の広すぎる郭のようだ。下山後沼田の清野さんにきいたら、この谷は足尾銅山の坑道の杭材に使うため、完全に丸裸に皆伐されて県境を超えて架線で運ばれたそうだ。閉山によって50年、見事な天然林に復活しているとのこと。こうした草地の平地は何箇所かあり、素敵なカツラの大木などが石垣の上に根を張ったりしている。右岸の林道は奥深くまで地図上では伸びているが、谷の中はあまりその気配を感じない。しかし、古い堰堤の壊れたやつや新しく圧倒的な堰堤がいくつかあり。その野暮を勘定しても美しい谷だ。函滝の通過で3mほどの懸垂もする。ほぼ核心を終えたあたり、古い窯跡のある対岸でC2とする。タープを高めに張って焚き火がついたところで雨が本格的になる。雨の下で焚き火して飲酒の極楽よ。着物はパリパリに乾いている。3日目この上は程よいナメが続き、美しい渓相は源流まで続く。名峰に登る文句なしの大河だった。源流の藪漕ぎは無し。爽やかに国境稜線へ。泊地もどこでも可能だ。国境稜線は踏み跡が明らか。白いツツジが花盛りでとても美しい笹草原。鹿の角を拾った。皇海山への400mの上りは急登だ。過去の400m登りピークを次々思い浮かべる。美しいシャクナゲの森も花盛りだ。藪漕ぎがなくて助かった。山頂には銀山平から日帰りの小荷物の二人組がいたのみ。ここからの夏道は修験道のゲバゲバルートだ。ほとんど下調べしてこなかったので行って驚く。鋸岳から庚申山は鎖完備ではあるがマジおっかない高所恐怖症ルートだった。南無阿弥陀仏。それぞれの山頂には白山、蔵王山、御嶽山・・・、と名峰の名があり。ここも円空行者の軌跡なのか。庚申山からの下降路も完全に修験ルート。よくもまあ見出したというルートが洞穴をくぐりつ、壁を這いつ続いている。でも行動時間10時間はそろそろきつい。庚申山荘の裏の木立の中にタープを張ってラーメンを食べ、すぐ寝る。今回の食事は初日を除き3日連続朝晩全て棒ラーメン。4日め爽やかな朝だ。山荘の表側に来るとたくさんの人に出会う。百名山の皇海山だからか、平日なのに10人以上とすれ違う。皇海山へは六林班峠から行くのだろうか?修験の道上では先日見た映画で歌われていたジョニ・ミッチェルのBoth sides now(青春の光と影)を鼻歌で歌っていた。マツもその映画を最近見たとのことだった。銀山平からは船石峠を超えて名高い足尾銅山本坑廃墟へ。廃れて天然に回帰してゆく風景は山歩きの密やかな楽しみだ。近代日本の勃興期にこの谷は栃木県で第二の人口を誇ったという。鉱毒で山を汚し、100年が過ぎ、また天然世界に帰ってゆく。峠でWeb電波通じて時刻表を見る。たまたまちょうどよかった1.5hに一本のバスで間藤へ。間藤からわたらせ鉄道で水沼の温泉駅まで1時間。清野さんから電話連絡があり、ここで風呂に入って待っていろ、という指南あり。ここで風呂に浸かったあと向かいのはやぶさ食堂でエビカツ重をかっこんだ。オレタチ好みのガテンサラメシ系食堂だ。ちょうど食い終えた時間に清野さん到着。このまま鉄道で桐生に抜けて沼田まで行ったら半日かかるところだ。鉄道情緒も良いが、1時間乗れば十分だ。なんてありがたいセンパイなんだ。北大山岳部に入って本当に良かった。泙川の奈良(なろう)の車まで赤城山東面道路をぶっ飛ばして1時間で回収。道中この30年間のいろんな話。「沢登りに関しては、65歳になった時、遂にカクっときたよ」という話を受け止める。でもまあ3人とも本当に好き放題登ってきたからねえ。多分みんな老いを嘆いたりすることなどは無いだろうな。別れ際に気づいた清野さんのナンバー、ダウラギリの標高だった!赤城、榛名、上信の鋭鋒群、浅間山を眺めて信濃へ。獨鈷山麓を通って松本へ。明るいうちに帰宅してかめと三人でグリーンカレー。 2019年春、6年前の尾瀬から見えた、あの皇海山へ登るバリエーションとして、随分以前から泙川に目を付けていた。林道が川に併走するものの高く、目障りなく遡行できるだろうと踏んで。実際にも、標高900m周辺で侵入した部分が人為を許すのみでその他は無垢な雰囲気を味わえた。隣の栗原川は人気のナメ沢のようだがこちらはどうだろう? 尚、現地でこの川のことは地図表記「泙(たに)川」とは違って「ダイラガワ」と呼称するとのこと。6/1:day0;次女の送迎を終えて夕刻、下道で木曽を経由して松本を目指した。6/2:day1;合流した米山さんと沼田の東の奈良(なろう)手前から堰堤の管理路?利用で入渓する。空広い川を、右岸の迫力ある側壁に見とれながら遡っていく贅沢よ、気分は伊那の万古川である。標高790mの左岸支流滝を合図に両岸が迫り、中に挟まる巨岩を越えるのに二ヶ所で苦労する。それぞれ残置ロープの世話になったが一人だと往生しただろう。両岸から樹林が降りてきた標高850mの右岸にタープを張り、明日の雨予報に停滞も織り込んで小早に宿って酔いどれた。6/3:days2;朝様子を見たが幸いにして空も明るく、行けるところまで進めることとした。地図の通りに左岸支流はどれも滝を持って合しており目を惹く。標高900m地点の本流滝印は実際には無く誤りである。そんな中で人気のある津室沢、の先で右岸に敷設された林道が沢に下りてきて夢から覚めるも、標高940mに水量豊富な幅広の岩床が現れて気を吐く。三俣沢、龍ノ沢、ナメ沢と分けると地図表記通りにゴルジュ滝が7、5、3mと垂れて7m滝の左岸捲きで本沢唯一の懸垂下降をした。この先の天場が見通せず、見つけた適地で小早にタープを張って火を熾して呑み出すと、見計らったように雨が落ちてきた。オヂサンには行動六時間程度が適当である。6/4:days3;広沢の直登ラインも本流遡行も止めにして、鈴小屋沢の右俣を採って国境平を目指した。これが実に穏当な源流で、藪漕ぎ不要で稜線に迎えられた。この何でもない笹原以降、死んだ鹿を何頭も見掛けたが、誰にも看取られずに斃れるそれらに気の毒さよりもむしろあるべき姿、潔さを感じた。その脇のシロヤシオが献花する。彼らの苦しみに比べるべくもないが、ここから高差500mの登りになり、ニャクタクと高度を勝ち取っていく。南アほど大きな山塊でもないここ足尾山塊でこの標高差は貴重であり、これこそが皇海山を特別な山【笄】に仕立てている。渡良瀬川水源という2144mの山頂はやはり樹林の中にあって展望は利かない。二人の先客に、ムンムンと匂い立つものが我々にはあると言われて照れるなぁ。折角の機会なので下山路を鋸山、庚申山の修験道に採ったが中々楽しかった。左手握力の快復が充分でないため、ヒヤリとするシーンあり。特別天然記念物指定のコウシンソウは目にできなかったがまぁ、いい。いい加減疲れたので水の取れる庚申山荘の裏林にゲリキャンした。6/5:days4;夜半、風に起こされた。今朝もyoneyamaさん大好物の棒ラーメンを掻っ込んで下山に掛かる。銀山平からは新緑眩しい舟石峠を越え、足尾銅山の名残を目にして間藤駅まで。いつ廃線になるか判らないわたらせ渓谷鐵道に乗車して水沼駅で下車、過去最高額の入湯で汗を流し、駅前食堂のエビカツドンで腹がクチクなる。ここに大学山岳部先輩である"沼田の兄貴"セーノさんが迎えて下さり、角幡君やキノポン話に花を咲かせてアルファロメオで自車まで送って頂いた。沼田から松本までまた走るが、長躯して一つの山を目指すこんな山登りはこれを最後としたい。満足は疲労を伴って得られるものだが、ただ環境負荷とは無縁である。
2025-5-26 5:41
ヤマレコAACH
空沼小屋・湯ノ沢
空沼小屋・湯ノ沢(沢登り/札幌近郊)日程:2025-05-24〜2025-05-25メンバー: onodera22 misa2021 tamaki_2023 ichikawata00コースタイム:コース状況/その他周辺情報:コケが多く、ヌメヌメ写真:ゴルジュと5mF1年目+市川滝行感想:初沢。こんな早い時期でも沢に行けるとは。自分の汚いもの嫌いがなくなっていることに感動。あと、1年目が楽しそうで何より。小屋まつりも楽しかった
2025-5-10 1:26
ヤマレコAACH
中国雲南省玉龍納西族自治県黎明傈僳族郷クライミングツアー
中国雲南省玉龍納西族自治県黎明傈僳族郷クライミングツアー(フリークライミング/アジア)日程:2025-04-24〜2025-05-06メンバー: gt2010コースタイム:写真:Back to the Primitive 8pBack to the PrimitiveScarface ?-Gore Linkupクライマーのワンコ 行動食はしまっておいたほうがよいPrimitive NorthWind of the Valley昼飯ウルシあったClamdigger宿犬多しパオズ(Ding Dongの息子)食堂Back to the PrimitiveClamdiggerPainted WallDing Dong's Crack蜂の巣と木ばしごアプローチ猫も多いBack to the PrimitiveBack to the Primitive家畜小屋黎明村千亀山Japanese Cowboyやぎ放牧で岩場まで来ることもあるBack to the PrimitivePrimitiveエリア千亀山Dinner WallFaraway corner巨大蜂の巣Primitiveエリア野菜を選んで注文する蜂の巣を採るための伝統的ラダーWind of the ValleyDinner Wall CaveBack to the Primitiveパオズ(Ding Dongの息子)Back to the PrimitiveメニューアプローチBack to the PrimitiveJapanese CowboyBack to the PrimitiveDinner WallPillars昆明は恐竜の産地お墓Clamdigger洞窟探検黎明村Ding Dong's Crack感想:麗江市玉龍ナシ族自治県黎明村へのクライミングツアー。ナシ族は母系社会であり、伝統衣装は「キングダム」の登場人物羌瘣の衣装とよく似ている。黎明村は標高2200m付近の山奥にあり、少数部族であるナシ族、イ族、モソ族、リス族、プミ族などが生活している。もちろん漢族も。ミャンマー、タイ、インド、チベットの系統とも関わりが深く、顔立ちが様々でとても興味深い。こんな山奥であっても日本よりデジタル化が遥かに進んでいる中国なので支払いは全てwechatpayとAlipayで完結した。あとはGoogle翻訳、wechatが使えれば大抵のことは解決する。岩質は砂岩でとても質が良い。インディアンクリークよりもクラックのサイズは変化が多く、フェイスの要素も多い。また、麗江市側に戻ると石灰岩スポートのエリアもある(Shigu)。岩場情報はMountain Project、Michael Dobieのトポで得られる。今回雨で行けなかったThe Guardianはアプローチに迷いやすいため、ローカルクライマーと一緒に行った方が無難。宿の人が送迎してくれる。ローカルクライマーは親切で色々と助けになってくれる。村での滞在も人情豊かで良いリフレッシュになった。この旅では加工食品をなるべく避けて食事ができたので最後まで体調が良く、初めて海外旅行で体重が増えた。やはり米が食べられるのはありがたい。【登った主なルート】Wind of the Valley 5.10+★★★★ 30mの超気持ちいいルート。背後の展望がすごい。全天候型。Japanese Cowboy 5.12+★★★★ 30mハングしたコーナーワイド〜 だんだん細くなり最後に繊細な核心が待っている。登れなかった。Yujiがオンサイトしたからこのルート名らしい。The Great Owl 5.9★★★★ 景色がすごい。朝イチで登りたい。The Reckoning 5.12- ★★★★ 指の太い人は結構辛いかも。とても面白い。R.P. Extension 5.12+はそんなに難しくないらしい。Scarface ?-Gore linkup 5.11-★★★★ 30mとても綺麗なライン。ハング越えが楽しい。OS.The Clamdigger 5.11- ★★★★ 30mハマグリ形状にパックリカチ割れたワイド。アップで登ったら汗だくになった。OS.Farawaycorner 5.11-★★★★ 30m綺麗なフィンガーコーナー〜山っぽいクライミングでフレークの頂上へ。気持ちいい。OS.Funky Dann 5.12b ★★★★ 31m黎明のベスト5.12を挙げるなら3本には入るであろうルート。プロテクションワーク、ムーブ、最後の抜けまでとても質が高い。回収TRで1回触ったのみ。#0.3サイズを7個使う。Ding Dong's Crack 5.12- ★★★★ 30m村の正面に聳え立つDinner Wallの看板ルート。R.P.中間にテラスがあり下部と上部に分かれている。オフフィンガーのジャミングを久しぶりにやってタメになった。終了点から巨大な蜂の巣を観察できる。伝統工芸的な木の梯子は今でも使われているのだろうか。Back to the Primitive 5.11 ★★★★ 200m、8pチームOS. 5.10〜5.11のピッチが連続する。ハング越え、Splitter hand crack、高度感のあるトラバース、締めは亀の甲羅を登るようにスラブを駆け上がる(Turtles in Space)。ロケーションが最高でとにかく気持ちいい。岩壁頂上から小1時間で遊歩道に出る。ついでに巨大洞窟を見に行った。2-3p、6−7pはリンク可能。Another World 5.12+ ★★★★ 30mCaveエリア最難Honeycomb Dome13+のアプローチルートでもある。ビレイ点からクライムダウン&トラバースしてクラックを辿る。とにかく被っている。パワー&ストレングス。シンハンド核心で息が抜けない。ツアー最終日に1リード、1TR。TRだとほぼノーテンで行ける感じだった。次回是非登りたい。【移動】航空券:日本〜昆明便が往復5〜6万円台。麗江空港便は高め。昆明空港から昆明駅:タクシーで1400〜2000円程度。30分。バスもある。昆明駅〜麗江駅:(往路)寝台列車 4400円、10h (復路)快速急行4100円、4h麗江駅〜黎明村:(往路)タクシー 8000円、2.5h (復路)バス 600円、約3h【食事】朝:屋台で包子(1個1元、約20円) 8時半までには行かないと店終いする。昼:バナナ、菓子。菓子類は駄菓子屋で色々買える(安い)。果物は10日に一度くらい開かれるバザールで色々買える。バナナとオレンジ、小さいシャインマスカットみたいなのが美味しかった。果物は行きの途中の村で仕入れると楽。夕:食堂が5店くらいある。大皿3品頼んで75元(1500円)くらい。米は食べ放題。野菜が新鮮で美味しい。この地域は農作物、畜産(豚、牛、鳥)が豊か【宿】5月の労働節と重なると予約が早く埋まる。クライマー向けの宿は3つくらいある。電気ポット、ドライヤー、スマートテレビ、シャワートイレ備付。洗濯機利用可。【その他】包子を売ってるおじさんは裁縫が上手で服の破れほつれは数百円で縫ってくれる。そして毎晩ダンスを練習しているので一緒に踊ろう。コーヒーは売ってないので持参した方が良い。ECサイトで手配もできるが宿まで届けてくれるかどうかはサービスによって異なる。【気候】19:30まではヘッデンなしで登れる。だいたい21時までに下山すれば飯が食える。未明〜朝は曇りか小雨、午後晴れのパターンが多かった。Alipay内アプリの天気予報を使っていたが、この時期は不安定でちょっとした風向きでコロコロ変わる。全天候型岩場があるので雨が降っても登れないことはない。防寒はナノエアジャケット一枚で十分だった。【土産】雲南珈琲は色々種類があって美味しい。麗江で買うと結構高い。古城内の景観保護区は物価が高い。黎明クライミングアソシエーションでTシャツ150元くらい。
2025-5-5 11:22
ヤマレコAACH
会津朝日岳
会津朝日岳(山滑走/東北)日程:2025-05-02〜2025-05-03メンバー: saito1987 babaa1986 toda1977コースタイム:写真:引き返して山頂直下から滑降開始二股越えてスキー履く坪入山ズーム丸山岳ズーム越後須原の朝 桜満開の只見線を乗り繋ぐ 守門岳が立派只見からタクシー入山 登山口から雪は出てくる 下部屈曲付近 雪は繋がっていた会津朝日岳赤倉沢上部の滑降夜半は強い雨 朝方雨やむ赤倉沢を滑る滑っている間に晴れてきた本格的な雨降りの前に避難小屋へ駆け込む 快適な小屋小屋近くの斜面山頂はねちょねちょのガスの中 クレヴァスを越えてツボ足で往復鋸刃手前までシートラ藪漕ぎ感想: 会津朝日岳からスキーで沢伝いに丸山岳を越え、三岩岳まで繋ぐ予定だったが、最初にして最大の難関(鋸刃を越え大幽沢へ)をクリアーできず、引き返した。いかに豪雪地帯とはいえ、5月にもなれば急速に雪融けがすすむ。今回は天気も不安定で、パーティーの足と技量も揃わなかった。 帰りの赤倉沢上部の滑降は、シーズン締めにふさわしい快適さ。入・下山のアプローチはJR只見線。こちらは起点から終点までを制覇(途中の不通区間、只見〜越後川口までは連絡バス)。街道沿いの古い集落や新緑と桜を愛でながら、のんびりとした乗り鉄山行だった。
2025-5-2 16:50
ヤマレコAACH
残雪期イグルーの失敗シリーズ?雫ポッタポタで崩落
暖かくて天井崩落
前回の翌日です。白馬岳北方稜線の朝日岳から、北東面の沢に滑り込んで標高差1000mの沢を休み無し47分でずんずん滑りました。楽しかったです。一週間くらいは誰も滑っていなかったみたいです。白高地沢橋のたもとでイグルー。積雪は十分ですが標高が1300mで前日より暖かかった。
こんなときは周りに壁だけ作って、天井はタープを張るのが良いのです。どうせ気温が高いと溶けて屋根が落ちるので。でも、良いブロックがたくさんとれたので、うっかり屋根を塞いでしまいました。やめておけばよかったです。
ブロックはまあまあ固くて重かったけど、わりとしっかりしたものが切れたので、つい作ってしまったイグルー。The blocks were fairly solid and heavy, but they cut well and held together nicely, so I ended up building the igloo almost without thinking
炊事中から、ガソリンストーブの上の屋根ブロックからは雫が落ち始めていて、火を止めて寝袋を広げても雫は止まらず。そのまま眠ったら天井の一個が21時ころ腰の上に落ち、それを脇に置いてまた眠っていたら、あちこちで雫が落ち始めて寝床はずぶ濡れ。気温も低くなく風もないのに寒くて安眠できず。午前3時半には大規模に屋根が崩落して、起床しました。
やはり雫が落ちてきて火をけしてもとまらない時点で、もう屋根は撤去したほうがよいでしょう。何年やっていても、疲れちゃうと面倒になってしまって駄目ですね。
イグルー泊まりは季節の進行に応じて少しずつ対応が変わるところがまた、おもしろいです。
翌朝の崩落あと。この程度に作っておいてタープを被せておけばよかったです。The collapsed roof the next morning. I should’ve just left it at this level and covered it with a tarp
Warm Weather and a Collapsing Ceiling
This happened the day after my last outing. I skied down from Mt. Asahi on the northern ridge of Mt. Shirouma, descending a 1,000-meter vertical drop on the northeast-facing gully without a break in just 47 minutes. It was a lot of fun. It looked like no one had skied there for about a week. I built an igloo at the foot of the Shirakōchizawa Bridge. There was plenty of snow, but at 1,300 meters elevation, it was warmer than the previous day.
In conditions like this, it’s better to just build walls around you and use a tarp as the ceiling. When it’s warm, the roof will melt and collapse anyway. But since I managed to cut a lot of good snow blocks, I carelessly went ahead and built a roof. I should’ve known better.
Even during cooking, drops of water started dripping from the ceiling blocks above the gasoline stove. Even after I turned off the stove and spread out my sleeping bag, the dripping didn’t stop. I fell asleep anyway, but around 9 p.m., one of the ceiling blocks fell onto my waist. I moved it aside and went back to sleep, but then drips started falling all over the place, soaking my bedding. Even though the temperature wasn’t that low and there was no wind, I was cold and couldn’t sleep well. Around 3:30 a.m., a large part of the roof collapsed, waking me up.
Really, once drips start falling and don’t stop even after you turn off the stove, it’s probably best to just take the roof down. No matter how many years you’ve done this, when you’re tired, it’s easy to get lazy and make bad decisions.
What’s fascinating about staying in an igloo is how the way you use it gradually changes with the progression of the season.
2025-4-29 16:37
ヤマレコAACH
残雪期の失敗イグルーシリーズ?風バッタバタタープ
残雪期白馬はBC天国
大型連休前半の白馬連峰北部山域に行ってきました。イグルー達人のイグルスキーでも、失敗イグルーで寝不足になりました。過剰な自信で攻め攻めの姿勢で最前線を歩いているので、参考にしてくださいね。
栂池からのルート、途中ロープウエイでは「センセイ!」と呼ばれました。一昨年のイグルー講習にきてくれていたBCさんで、きょうは蓮華温泉に下って周辺の滑降をする予定とか。その後イグルーも挑戦してくれていてうれしい限り。
栂池湿地平原から「船越の頭」に登って、小蓮華岳の南西の・2719の風下側に吹き溜まりの雪があったので、そこでイグルーをつくりました。きけば三国境周辺は風が強くて有名だそうで、あと30分歩いた先ならもう少し弱かったのにと今は思うけど、稜線は結構ガレが多くて、雪質としてはマシな感じに見えたので決めました。
掘り下げ1段で十分ブロックが取れたので壁2段積んだ上は、もうスキーを載せて塞ぎ始める I got plenty of blocks with just one layer of digging, so after stacking up two layers for the wall, I went ahead and started capping it with my skis
スキー板で屋根をすばやく作る
緩い傾斜地で斜面上方向に向かってブロックを切り出して進めていくと、下方向では30センチくらいの深さだったのが自動的に1メートルくらいの壁になり、風上側が安心の壁になります。それはいいのだけど結構疲れていたので、下に一段しかブロックを取らず、下2段目に進む元気が出なかった。なのでちょっと低い天井だけど、スキー板を載せて無理やり屋根ブロックを載せました。前回この方法ですぐ作れたのでまたやりました。
風上を壁にできて吹き込みは無かったが、張りの不十分な張り綱が風でバタバタして猛烈にうるさかった The wall on the windward side kept the draft out just fine, but the guy lines weren’t tight enough, and they flapped like crazy in the wind?it was insanely noisy
タープをかけて隙間風を防いだけど、うるさかった
隙間を塞ぐのが面倒で、上からタープを被せ、4隅をピッケルやアイゼンを埋めて固定。風上側は裾の上にブロックを固めて載せておきました。早々に中へ入り込む。風が強くてタープがバッタンバッタンとオールナイトでうるさかったです。イグルーの強みはテントと違って静かなこと。防音性の強い雪の壁を通してもうるさい。張り綱を締めたつもりでしたが、朝見たら、甘かった風下側がちぎれてしまっていた。
あれだけ風が強いのならツエルトにしろタープにしろ、外ではなく内側に張って、強風による吸い着き効果でやればよかったです(過去記事)。疲れて頭が回らなかったなあ。
史上最悪イグルー@乗鞍岳
乗鞍岳・標高2640m、暴風域でのイグルー泊
春の気圧配置で、すごい風の日に乗鞍岳を独自ルートで山越えしました。相棒の長年の設計ラインで鋭鋒・烏帽子岳に直登する尾根です。美しい針葉樹林を10時間近くラッセルして山頂から火山台地に出たところで...
それでも眺めは最高の場所でした。朝日を浴びる白馬連峰を窓から眺めることも出来ました。
やっぱりイグルーの強みは展望の良いところで泊まれること あんなうるさい風、テントだったら発狂クラスだ What I love about igloos is that you can sleep in places with killer views. That wind was so loud?if I’d been in a tent, I seriously would’ve lost my mind.
Failed Igloo Series in the Lingering Snow Season ? Flapping Tarp in the Wind
Hakuba in the Snowmelt Season ? Backcountry Heaven
I headed out to the northern part of the Hakuba range during the first half of Golden Week. Even as a seasoned igloo builder?Igluski style?I ended up getting barely any sleep thanks to a failed igloo. I tend to charge ahead with too much confidence, always pushing the limits, so… yeah, learn from my mistakes!
On the ropeway up from Tsugaike, someone suddenly called out, “Sensei!” It was BC-san, who came to my igloo workshop two years ago. They were planning to ski down toward Renge Onsen and explore the area today. I was super happy to hear they’ve been trying out igloos on their own since then!
From the Tsugaike marshland, I climbed up to Funakoshi-no-Kashira. There was a nice drift of snow on the leeward side of Point 2719, just southwest of Mt. Kogarasu, so I decided to build there. Turns out the area around Mikuni-sakai is famous for being super windy. Looking back, if I’d walked another 30 minutes, I probably could’ve found a calmer spot… But the ridge ahead looked pretty rocky, and the snow here looked decent, so I went for it.
Fast Roof Build with Skis
It was a gentle slope, so I started cutting blocks upward along the slope. At the bottom, the snow was only about 30 cm deep, but as I dug higher, it naturally turned into a 1-meter wall? a solid windbreak on the upwind side. That part was great, but honestly, I was exhausted. I only managed one row of blocks at the base and couldn’t bring myself to do a second. So yeah, the ceiling was a bit low… but I slapped on my skis and forced the roof blocks into place?same quick trick I used last time.
Tarp On Top = No Drafts, But So Noisy
I didn’t feel like stuffing all the gaps with snow, so I just threw a tarp over the top, anchoring the four corners with an ice axe and crampons. On the windward side, I piled snow blocks on the tarp edge to keep it down. Crawled in early, hoping for some rest…
But nope. The wind was crazy, and the tarp kept flapping loudly all night long. One thing I love about igloos is how peaceful they are compared to tents. But even with snow’s soundproofing, it was still loud. I thought I’d tightened the guy lines well, but in the morning, I found the leeward side had ripped? I hadn’t pulled it tight enough.
With wind like that, I should’ve pitched the tarp (or even a bivy) inside the igloo instead of outside, using the suction effect from the wind pressure to keep it in place. (Like I wrote about in a previous post.) But man, I was too wiped out to think straight.
Still, the view made it all worth it. I got to watch the Hakuba peaks glowing in the morning sun, right through my little igloo window.
https://www.yamareco.com/modules/yamareco/detail-8076945.html
2025-4-28 12:43
ヤマレコAACH
栂池《小蓮華・三国境・雪倉岳・朝日岳》蓮華温泉
栂池《小蓮華・三国境・雪倉岳・朝日岳》蓮華温泉(積雪期ピークハント/縦走/白馬・鹿島槍・五竜)日程:2025-04-26〜2025-04-28メンバー: yoneyama nishinakenta写真:午後四時でも入れるテンホウありがとうスキー屋根イグルー これにタープのカバーを掛けた担々麺660円+ミニカツ丼500円雪が固くて下に掘るのがしんどいのでもうスキー屋根で適当にした。糸魚川まで伸びるツガミ山脈。黒いのは明星山?雪倉山頂より、白馬岳、旭岳、劔岳と立山ここから急登雪倉岳山頂。蓮華温泉から登ってきた人と話す。イグルー作りを観察 @西名小綺麗な宿。この時間はみな山登っているかも固くてサクサクの快適斜面満足栂池の湿地帯から白馬岳、小蓮華岳朝のながめ蓮華温泉が見えた。よくもこんな無人境に行く手の朝日岳。デカー!朝は固くてアイゼンが決まるこっちは雄だ兵馬平雪崩でなぎ倒されたと思われるついうっかり屋根まで作ってしまったがありがたい橋巨大なコブ50センチ以上ある内部急だけど早い振り子沢は喉が乾く、ちょうど良いところに沢が開いていて、助かった。このくらいにしてタープを張ればよかった。橋の袂でΩ作るあっというまにコルまで降りる。視界がないと結構複雑で急だ。左、鉢山。右雪倉。雪はつながっている落ちたらお陀仏あさごはん中央に雄ライチョウ赤男山、結構盛り上がっていて、やっぱり迂回したい。ここからの急雪面からスキーぶっ飛ばす。これはメスかΩ1撤収の朝最初に行った人、エラい朝日岳山頂、遠いヮ中央に雄ライチョウΩを後に前進風強いフリコ沢上部。登っても下ってもストレスのない好ルートハイマツ帯下りのアイゼン引っ掛けで顔面転倒したら、ハイマツの中に片方落として行方不明に。ライチョウの野郎がずっとこっちを見ていたこのあたりから下はタテスジが入っていてデコデコする雨飾、焼山、火打、妙高、高妻、戸隠。真ん中の富士山型の低いのは奉納山?中で炊事して清水岳や猫又が見えている。西側は風が強く、雪がろくに積もっていないひょうたん池朝日岳をグイグイ登る。雪倉も西面はハイマツの海だ。蓮華温泉玄関前からの眺め。機能滑った1000mが真正面だ急登のあとの兵馬平雪倉岳へのトラバース小蓮華岳山頂 風つえぇ!これはヤバいスキー屋根だとすぐできる。二人のシュプール 標高差1000m玄米カレー雑炊火打、焼山、雨飾と妙高山です日焼け止め塗りすぎ男赤男を巻いて、朝日岳と対面下流部、激流雪倉避難小屋と雪倉への雪の道山頂おやすみなさい山頂午後9時に一発、午前3時に半分ほどの屋根が落ちて雪に埋まる。やはり温かい季節のイグルーは無理鉢山へ小蓮華山と先輩ライチョウ二羽Ω1撤収の朝 ひどい風の中こんなかんじ屋根はまだ持っているが、雫がポタポタだ兵馬平はクレーターでいっぱいスキーを梁にする頸城山塊と、このあと滑る谷栂池の湿地帯朝日岳北東面沢に描くDNA直径30センチほど小蓮華へ登る斜面杓子岳、白馬岳 C1から三国境から雪倉へのトラバースタープの青さが室内感想:1日目両足骨折半年後に復帰1戦目の西やんと、猿倉入山で清水谷、柳又谷の滑降計画だったが猿倉のゲートは徒歩入山も出来ない雰囲気で、計画を完全に変更。栂池から朝日岳、蓮華温泉周回にする。このへんはまだ未踏なので。栂池のロープウエイで、センセイ!と声をかけられる。一昨年のイグルー講習で会った人だった。蓮華温泉に下ってあちこち行くとのこと。我らはまっすぐ湿原大平原を行き、小蓮華目指して東面を登る。午後になってもわりと硬い雪。稜線は風が強く、三国境に近づくほど強風になる。時間的にもそろそろ泊まりたいのだけど、西側は風が強くてガレガレ。東側の雪庇の成れの果てみたいなところは幾分風が弱そうなのでここでイグルーに決定。でも一層掘ったら下は掘る気が起きないくらい硬めでこちらも疲れていたので、低い壁になった。掘り下げも適当。傾斜しているので、上に行くほど深い壁になってまあなんとか。でも屋根材の長いやつを掘るのが面倒で、前回味をしめたスキー梁でさっさと屋根を塞ぐ。ここまでは良かったが、風の吹込み防止に外側にタープを張ったら、一晩中バタバタ音が強く眠れないほど。朝起きたら張り綱が一本切れていた。張り綱のアンカーに埋めたアイゼンなどは掘るのが辛いくらいきまっていた。2日目翌朝は三国境から鉢山へトラバース。三国境を超えると風がやみ、のどかな天候になる。どうやら一番騒々しいところでわざわざ泊まってしまったようだ。でも色々学びになった。朝のウチまだ雪面が硬いのでアイゼンシートラで。ライチョウに会ったあたりからスキーであっという間に滑り下る。途中のハイマツ帯で、顔面転びしたら、黒メガネの半分を失くしてしまった。三日目には右目だけ雪目気味になった。対照実験で、よくわかった。雪倉の避難小屋で今後の時間読みと方針なども確認。風がなくて助かる。雪倉は山頂までほぼ雪がつながっていて快適。シートラで進める。山頂で、蓮華温泉からの人に会う。昨日温泉ではイグルーの話になったとか。イグルスキーブログもみてくれているそう。実践もしてくれたそう!顔出ししていて良かった。雪倉からは走るライチョウを追っかける形で北を目指し、スキーでぶっ飛ばして降りる。ズンズン下ると赤男の南の崖のところがかなり急。それでもスキーが最適。赤男の西側巻きルートもタンネの薄い森で景観の良いところ。徐々に近づく朝日岳が、意外に大きくて良い山だった。登りは長かった。山頂も広すぎだ。朝日岳からは北側稜線を少し降りてから東の沢を滑降。最近のトレースはなく、転倒無しの休みもほぼ無しであっという間に1000m下って橋まで。久しぶりに長距離滑降をした。充実。今日はイグルー壁だけ+タープでいいやと思ってつくり始めたが、床下二段目から案外良いブロックが取れたのでうっかり屋根をふさいでしまったが、やめておけばよかった。一晩中水滴が落ちて寝袋はずぶ濡れ、終いには屋根が溶けて落ちて、強制起床となった。3時半。気温プラスなのに濡れて却って寒かった。3日目谷底から鉄橋を渡り湿原帯を超えて蓮華温泉を目指す。樹林帯の中うっすらトレースあり。ひょうたん池、兵馬平など、地すべり地形のテラスを経て蓮華温泉へ。建物の前で腰をおろして山を見る。昨日の滑降沢が丸見えだ。満足だ。ここからまた700m登り返して天狗原へ。フリコ沢というらしい。ここは積雪期の蓮華温泉への最短ルートとのこと。滑り愛好家の間では有名なコースなのだ。実際傾斜も優しくストレスのない良い沢だ。途中水場もあって助かった。でも結構疲れてしまって、後半はぐったりして登る。重荷もずいぶん持ってもらったけど、やっぱ30代にはカナワン。天狗原からは、見覚えある栂池への滑降コースをシャビシャビと下る。下りの筋肉は問題なし。疲れているのあんまり休まず、バンバンと滑り降りる。下部では雪のなくなった栂池スキー場、ゴンドラにのってうっかり途中駅に降りてウロウロしてしまった。疲れている。大町の午後4時のテンホウで担々麺&ミニカツ丼、生姜ラーメン大盛りで満足。ウチまで送ってもらい、日高の本と、ちょうど届いていた会報をプレゼントする。11月に両足を骨折して3ヶ月入院、その後ゲレンデスキー2回、白川郷で山スキー1回とロクに登山をしていない。そもそも走るという動作を半年弱できていない。そんなコンディションで山スキー縦走などできるのか不安であったが結果として良いリハビリになった。 1日目は小蓮華山の先まで、稜線に出ると爆風でシートラ。夜も風が強くイグルー張ったタープがバタバタうるさかった。安定の玄米カレー雑炊 2日目は三国境、雪倉周辺など爆風箇所もあったが概ね快適。朝日岳の登りで体力が削られた。1000mのダウンヒルは快適、橋の近くにイグルー泊。沢水も汲めて良かったが天井から水がポタポタ、朝4時に天井が崩れ雪まみれで起床、全身ずぶぬれで強制起床。3日目、蓮華温泉まで登り 仕事で来て以来の8年ぶり? 天狗原まで登りが意外と長い。途中の沢水に助けられた。天狗原からはスキー場まで爆走。栂池スキー場に作られたボーダー用のパークっぽい斜面を滑るのが面白かった。 猿倉まで道が閉鎖されていたので、激萎えで急遽思いついた計画だったが満足度は高かった。 来年は旭岳、清水岳、猫又岳方面にいきたい米山さんありがとうございました。😉
2025-4-28 10:35
ヤマレコAACH
根北峠から南斜里岳
根北峠から南斜里岳(山滑走/道東・知床)日程:2025-04-27(日帰り)メンバー: saito1987 zeniya1990 Yanke1987コースタイム:写真:南斜里岳へスキー場のような斜面が続いている背後に霞む国後サマッケヌプリ方面背後に国後三角点あっという間に森へ帰る深い沢筋にぶちあたる。南斜里岳へ直接上がる尾根が快調そうなのでそちらの尾根へ。斜里岳への沢筋もスキーが快調そう(この日は前日の降雪でストップ雪だったらしい)海別岳を横目に尾根を登る海別ハイ松の海を漕ぐ武佐岳方面滑降開始根北峠から西へ西へ森の中を進む感想:斜里岳の裾野に広がる原生林の森から快調そうな尾根を伝って南斜里岳を往復。頂上付近は雪が切れ、Co1320付近にシーデポ。そこからアイゼン着けてハイ松漕ぎ。頂上直下は東側の雪面から回り込む。下りの尾根はスキー場の中級コースのような傾斜が続き、予想通り快調な斜面。シーズン終わりのザラメ雪を味わう。Z谷は買ったばかりのアイゼン片方をハイ松の海に奉納した。
2025-4-25 19:43
ヤマレコAACH
日高山脈本が出版されました イグルー史詳細解説です
久しぶりの、日高山脈本が出版されました
1970年代〜80年代には日高山脈の航空撮影を含む大型写真集があり、冬期縦走の地形研究のため、大真面目にその写真を毎日見ていました。もとより登山道のない特殊山域だから、参考になる記録としては部室にあった手書きでヨレヨレの山行記録か、活字で読みやすいのは部報だけでした。
久しく経った今も、日高の最深部はまだまだ当時と変わらず無垢であるのが嬉しいです。頓挫した日高横断道路計画の経緯も記されています。
実のところ、登山愛好者でさえおいそれとは行けない日高の奥に、多くが求めるようなガイド本はつくれません。今回のように日高を扱う総合的な本が出版されるチャンスなど、ずっと無かったのではないだろうか。
そんな本に寄稿する僥倖をいただきました。
日高の物語として、いつでも読み返したい北大山岳部の黎明期の先人(須藤宣之助、伊藤秀五郎、相川修)たちの紀行文紹介、コイカク沢と十ノ沢の遭難、福岡大のヒグマ遭難、画家・坂本直行氏の足跡などをグラフィック豊かに辿ります。
深い深い日高の、冬と夏の魅力を(小泉章夫、米山悟、松原憲彦)が書きました。美しい写真を沢山提供してくれた若手OBたちの21世紀の超人的冬期長距離縦走山行について、それから今では北大山岳部の得意技に育ったイグルーの生い立ちについても詳しく書きました。
1990年に、卒業論文と同時並行で編集作業に没頭した北大山岳部部報13号の折込特大付録で、私が日高山脈の鳥瞰図を手描きで描いたものを、今回再掲載していただきました。35年も経って彩色され、よみがえった力作を見ていると、一つ一つの線の上を歩いた時間を愛おしく思い出します。
地質、地形、アポイの植物の記事も、写真と図版の豊かな編集です。南日高の2つの山岳古道についても興味深くまとめられています。「日高山脈と人」をテーマに多面的なテーマを盛り込んだ本です。
表紙写真と巻頭には、山スキー部OBの伊藤健次さんの撮りたてホヤホヤ写真。雪渓の底をトコトコ歩くクマが見えるだろうか。
大きくて、重くなくて、手触りの良い本。
書店のほか、アマゾンでも購入可能とのこと。発売日は4月27日。
共同文化社
2025年5月15日 初版
編著者 黒川伸一
2700+税
A Long-Awaited Book on the Hidaka Mountains Has Been Published
Back in the 1970s and 80s, there were large-format photo collections of the Hidaka Mountains, some of which even included aerial photography. I used to study those photographs intently every day for winter traverse terrain research. Given that the region has no established hiking trails, the only references we had were either crumpled, handwritten trip reports left in the clubroom or the club bulletins, which were at least printed and easier to read.
Even now, after all these years, I’m happy to see that the innermost parts of the Hidaka range remain untouched and pristine. The book also documents the background of the ill-fated plan for a Hidaka crossing road, which was eventually abandoned.
In truth, it’s impossible to create the kind of hiking guide that most people expect for a place like the deep Hidaka?so remote that even experienced mountaineers can’t easily access it. I can’t recall another chance like this when such a comprehensive book on the Hidaka Mountains has been published.
I was fortunate enough to contribute to this special volume.
As a narrative of Hidaka’s story, it includes graphic-rich presentations of early expedition accounts from pioneers of the Hokkaido University Alpine Club’s formative years (Nobuyuki Sudo, Shugoro Ito, Osamu Aikawa), reports on accidents in Koikaku-sawa and Ju-no-sawa, the bear attack involving Fukuoka University, and the journeys of painter Chokkou Sakamoto.
Three authors?Akio Koizumi, Satoru Yoneyama, and Norihiko Matsubara?wrote beautifully about the profound appeal of the Hidaka Mountains in both winter and summer. It also includes detailed descriptions of the nearly superhuman winter long-distance traverses carried out by young alumni in the 21st century, along with the origins and development of the igloo technique, which has become a hallmark of the Hokkaido University Alpine Club.
In 1990, while simultaneously working on my graduation thesis, I hand-drew a bird’s-eye map of the Hidaka range as a large fold-out supplement to the 13th issue of the club’s bulletin. I’m delighted that this piece has been republished here, now beautifully colored 35 years later. As I gaze upon it, memories come flooding back?memories of walking along each of those drawn lines with great care and affection.
The book also includes richly illustrated articles on geology, topography, and the flora of Mt. Apoi. There are fascinating explorations of two ancient mountain routes in the southern Hidaka region. Altogether, it’s a multifaceted book themed around “The Hidaka Mountains and People.”
On the cover and at the beginning of the book are brand-new photographs by Kenji Ito, an alumnus of the alpine ski team. Look closely?you might spot a bear walking across a snowfield in one of them.
It’s a large-format book, yet light in weight and pleasing to the touch. Available not only at bookstores but also on Amazon. Release date: April 27.
Published by Kyodo Bunka-sha First Edition: May 15, 2025 Editor and Author: Shinichi Kurokawa Price: 2,700 yen + tax
2025-4-14 10:02
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阿女鱒岳
阿女鱒岳(山滑走/札幌近郊)日程:2025-04-12(日帰り)メンバー: zeniya1990 toda1977写真:阿女鱒岳ピークの先には羊蹄山別な場所では子グマも歩く阿女鱒岳ピークから見る余市岳余市岳から無意根岳、中岳林道を歩くヒグマの足跡🐾ピークからの滑走雪はグサグサ明るい林道を出発羊蹄山とニセコ羊蹄山とニセコこちらはウサギ阿女鱒岳の奥には羊蹄山キンドー氏登頂感想:終日好天が見込めるので阿女鱒岳へ。標高500mの台地に上がるまでの林道には熊の足跡。別の場所には子グマの足跡も。羊蹄山、ニセコ、積丹、余市岳〜無意根岳〜中岳の稜線が一望できる良い山だった。
2025-4-9 16:32
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2025.2.27-3.4?(4-2) 2年班プチメイン・トヨニ?ピリカ→十勝岳
〜耐え抜いてピリカ、駆け抜けて野塚〜 L杉山(3AL柴部(5M西園(3市川渡邊(2 <時間とルート> Day1:野塚トンネル十勝側(5:45)トヨニ岳(11:00)トヨニ岳北峰西側(12:15)=Ω1 晴れ。風はやや強め […]
2025-4-9 15:05
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この冬のイグルー記録、たくさん!
ヤマレコで表題に「イグルー」含む山行記録今季(途中)は70件
ヤマレコの山行記録検索で表題に「イグルー」含む記録を検索するとたくさん、70件出てきました。表題に書いていない人も含めると、数え切れません。雪山登山界ではずいぶん増えました。
何回もやって技が向上する過程、「まとめ記事」
中には、何度もトライして、始めは時間がかかったり屋根が出来なかった頃からの自分のイグルー歴を写真でまとめ記事にしてくれている人もいて、とてもおもしろいです。
満足行くできになるまで諦めずにイグルーを繰り返したのは、作るのが面白いから、とありました。全くそうだと思います。このお二人は、講習には来ていないけれど、メキメキ腕を上げていく様子が写真を見ればよくわかります。
きやさんのまとめ
https://www.yamareco.com/modules/yamareco/detail-7772670.html
swkzmさんのまとめ
https://www.yamareco.com/modules/yamareco/detail-7817202.html
自分で考えて得たスキルは、身につく
イグルー講習会などをやって、40分で作れる実演をしてみせますが、あれは、完成形を見せて「作ることができるんだ」と信じてもらうためだけのもので、やっぱり本当に身につく技術は自分でやって失敗して、それを自分で考えて、自分で工夫したらうまくできるようになった!といううれしさの実感が最も大切なんじゃないかな。
あんまり細かい手順を前もってたくさん教わっても、頭に入らない上に指示待ち姿勢にもなってしまう。自分で考えて工夫するよう誘うのが最良の方法なんだよね。
というようなことが、最近読んだ篠原信著の本でも書いてありました。部下じゃないし、タイトルだけからは決して読まない本ですが、エネルギー問題や農業時給論など時代の転換に関する著者のツイッターが面白くて、著書を読んだらとても面白い。人の学びについての示唆がありました。人の学びってそういうものだ。
イグルー作りは、誰でも作れる雪洞と違って、けっこう個人差が出ます。それだけ自分で工夫発見する楽しみがあり、伸びしろだらけでやりがいがあるってことですね。魅力いっぱいですよ。
この冬のイグルー中間まとめ
数えてみたら今季は講習会を10回やりました。松本市山岳フォーラム2、大学山岳部2、山岳会3、知人や小グループ3。加えて自分の山行で6泊。まだこのあと連休まで長期山行を二回計画していて、4つや5つは泊まりそうです(ダラダラ入山延期してきたけど明日から行こうかな)。この冬は史上最悪暴風天候でのイグルー作りも経験して、ますます経験を深めました。
「イグルー」を表題に含む山行記録
https://www.yamareco.com/modules/yamareco/search_record.php?place=?&isphoto=1&request=1&submit=submit
山の用語集 > 「イグルー 」から検索した山行記録
https://www.yamareco.com/modules/yamainfo/wordrec.php?wid=188
70 Igloo-Themed Trip Reports on Yamareco So Far This Season
A search for mountain trip reports on Yamareco with the word “イグルー” (igloo) in the title yielded a surprising number?70 entries already this season. If we include those who didn’t put it in the title, there are far too many to count. Clearly, igloo-building has become much more common among winter mountaineers.
Documenting Skill Progression Through Repeated Practice
Some users have compiled “summary articles” using photos to document their own igloo-building journey?starting from early attempts when they struggled to build a roof, to gradually improving over multiple tries. These are very interesting to read. One person wrote that they kept at it not because they had to, but because it was simply fun to build. I couldn’t agree more.
Although these two users never attended any official workshops, it’s clear from their photos that their skills have significantly improved:
Skills Gained Through Personal Trial and Error Are the Ones That Stick
At igloo-building workshops, I often demonstrate how to build one in 40 minutes. But that’s really just to show that “yes, it is possible to make one.” Ultimately, the skills that truly stick are the ones you gain by trying yourself, failing, thinking through the problem, and discovering your own tricks that make it work. That feeling of success is the most important part of learning.
Even if you’re taught every little step in advance, it often doesn’t stick, and it tends to lead to a passive, “waiting for instructions” mindset. The best approach is to encourage people to think and experiment on their own.
I recently read a book by Makoto Shinohara that echoed this same idea. Though I probably wouldn’t have picked it up based on the title alone, I found his Twitter commentary on energy policy and agricultural self-sufficiency during these times of change fascinating. His book provided great insights into how people learn?and this is exactly how learning works.
Igloo-Building Has Huge Potential for Personal Growth
Unlike snow caves, which anyone can dig, igloo-building tends to show a lot of individual variation. That’s what makes it so enjoyable?there’s plenty of room for creativity and personal growth, making it incredibly rewarding. It’s an activity full of charm.
Mid-Season Summary of My Own Igloo Activities
So far this season, I’ve held 10 workshops:
2 at the Matsumoto City Mountain Forum
2 with university mountaineering clubs
3 with mountaineering associations
3 with friends or small groups
In addition, I’ve spent 6 nights in igloos on my own mountain trips. I still have two long expeditions planned for the holiday period, and I expect to spend 4 or 5 more nights in igloos (I’ve been putting it off, but maybe I’ll finally head out tomorrow). This winter, I even had the intense experience of building igloos in the worst storm conditions I’ve ever faced, adding to my experience all the more.
2025-4-7 11:50
ヤマレコAACH
頚城/昼闇山(北面ダイレクトルンゼ滑降)
頚城/昼闇山(北面ダイレクトルンゼ滑降)(山滑走/妙高・戸隠・雨飾)日程:2025-04-05(日帰り)メンバー: saito1987 Yanke1987コースタイム:写真:うしろに鉾ヶ岳が立派に見える吉尾平越しの烏帽子岳、阿彌陀山も素敵昼闇谷へ入り左岸の尾根に取りつく昼闇山北面を振り返る一気に昼闇谷へ焼山と火打山方面日本海めがけて白い大斜面を滑る北面ダイレクトルンゼの滑降頂上他のパーティも沢山いた雨飾山と白馬北方稜線アケビ平への林道は雪で埋まっている昼闇山へ出発新雪を纏った昼闇山感想:ヤンケとそれぞれの仕事ついでに頚城へ遠征。心配していた天気も、この日のみ終日晴天。おまけに前日までの寒気で新雪が積もり、やや重たいが季節外れのパウダーまで頂く。北海道でのいつもの山行と異なり、沢山の山スキーヤーに遭遇して面食らうも、その多くは頂上から一ノ倉川へ向けて滑降するようであった。我々は誰もいない昼闇谷へ。頂上やや東側から派手にスラフを流しつつ急なルンゼをクリアーすると、アケビ平までの白い大斜面が待っていた。日本海へ向かって思い思いに滑る心地よさ。最後まで雪が腐りきることなく自動運転となってゴール。つきあってくれたババアさんに感謝。ズワイガニ美味でした!
2025-4-7 11:38
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水無川 新茅の沢、セドの沢左俣
水無川 新茅の沢、セドの沢左俣(沢登り/丹沢)日程:2025-04-05(日帰り)メンバー: fukumoto_2013感想:桜も咲いたことだし丹沢をうろつきにいった。思いのほか早く降りてこれたので厚木の山岡家で昼飯を食べに行くことにする。いつものように辛味噌激辛大盛りを食べていると、18で大学に進学し恵迪寮に入った最初の晩、夜中に新道の山岡家に連れて行かれたあの時からもう12年経つのかと謎の感慨があった。30になった今、汁こそ飲まなくなったが未だ別メニューを頼んだことがない。
2025-4-7 1:18
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ホロホロ〜徳舜瞥山
ホロホロ〜徳舜瞥山(積雪期ピークハント/縦走/支笏・洞爺)日程:2025-01-25〜2025-01-26メンバー: onodera22 misa2021 kaneko23 Tsurudomeコースタイム:感想:ホロホロ北尾根はぎりぎりスキーで行ける細さで楽しかった
2025-4-7 1:18
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ニセイカウシュッペ
ニセイカウシュッペ(積雪期ピークハント/縦走/大雪山)日程:2025-03-01〜2025-03-02メンバー: onodera22 misa2021 kaneko23 Tsurudomeコースタイム:コース状況/その他周辺情報:渡渉多数だが、スノーブリッジは発達していた写真:雪庇も判断は容易かっこいい石狩が見えるテンバ着感想:天気図通り2日目は悪天。ニセカウのピークに立ちたかったな。
2025-4-7 1:17
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武華山
武華山(積雪期ピークハント/縦走/大雪山)日程:2025-02-24〜2025-02-26メンバー: onodera22 misa2021 kaneko23 Tsurudomeコースタイム:写真:入山からテンション上がる滑り落ちても登るのみ感想:スキーで行くのならこのルートは最高だと思います!
2025-4-7 1:15
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増毛縦走
増毛縦走(積雪期ピークハント/縦走/増毛・樺戸)日程:2025-03-12〜2025-03-18メンバー: onodera22 misa2021 kaneko23 Tsurudomeコースタイム:写真:群別へは手前のコルからEPで奥徳富ピーク浜益御殿までは身軽♪雄冬に向かう途中で朝焼けを見れたこのメイン唯一の看板のあるピークでした凍ったイグルーを起き出でて…群別への朝浜益まで天気良いので、適当にトラバースゴールの橋奥徳富への稜線へ上がった。急な斜面で皆んな汗びっしょり。歩いてきた山々周りを一望できる察来ピーク。これから向かう知来岳は…霧の中明日は停滞なので、しっかりとテンバの準備20歳おめでとう知来岳の下り途中からスキー履ける北東コルへ降りる丸山のなんでもないピーク早めに硬くなり、EPで雄冬まで天狗にて知来岳への登り。雪庇あり。元気な人はスキー練習良い斜面そろそろお目覚め?ラストピークへ向けて…知来岳ピーク
2025-4-6 22:16
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2025.3.12-18(5-2) 春メイン1年班増毛メイン
〜海への長い長い寄り道〜 L小野寺(3 AL齋藤(4M金子(2竹下鶴留(1 <時間とルート> Day1(3/12):丸山登山道入り口(6:30)丸山(7:40)夏道分岐(9:40)?察来山(11:00)・581の台地辺 […]
2025-4-1 10:17
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二年班(プチ)メイン ピリカAt~トヨニ~野塚~オムシャ~十勝
二年班(プチ)メイン ピリカAt~トヨニ~野塚~オムシャ~十勝(積雪期ピークハント/縦走/日高山脈)日程:2025-02-27〜2025-03-04メンバー: shibabemaru Sugiyama_2022 watanabeka ichikawata00コースタイム:写真:
2025-4-1 10:15
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富良野北尾根~D尾根
富良野北尾根~D尾根(積雪期ピークハント/縦走/十勝連峰)日程:2025-01-25〜2025-01-26メンバー: shibabemaru Sugiyama_2022 watanabeka ichikawata00コースタイム:写真:
2025-4-1 9:48
ヤマレコAACH
三国峠〜石狩岳 序盤で引き返し
三国峠〜石狩岳 序盤で引き返し(積雪期ピークハント/縦走/大雪山)日程:2025-02-08〜2025-02-09メンバー: shibabemaru Sugiyama_2022 watanabeka ichikawata00コースタイム:感想:石狩に行くとメインに行けないというジンクスがある気がする
2025-1-21 15:35
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2024.12.27~1.2(6-1) 2年班冬メイン 南日高
〜南日高の空に染まったよ、あと初日の出も見たよ〜 L杉山AL小野寺(3M金子玉木(2 <時間とルート> Day1:林道ゲート(8:00)神威山荘(15:00)=C1 晴れ。暖かい。今までよりも大分手前で通行止めになってい […]
2025-1-21 15:33
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2024.12.28-2026.1.1(5-0) 1年班冬メイン 道北
〜天塩から眺める初日の出の美しかったこと〜 L柴部(5AL宮下(2020西園(3M渡邊(2竹下鶴留(1G市川(2 〈時間とルート〉 DAY1:上紋峠(9:00)?925南コル(10:30)?1094(14:00)=C1 […]
2024-10-7 18:20
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2024.8.13-19(7-0) 1年班夏メイン北日高
報告_2024.8.13-19(7-0) 一年班夏メイン北日高 幌尻岳〜新冠川〜エサオマントッタベツ岳〜山スキー沢〜札内岳〜ピリカペタヌ〜勝幌 L柴部(5AL小野寺(3M西園(3玉木(2竹下鶴留(1 〈時間とルート〉 D […]
2023-8-5 4:57
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Re: 【書評】北アルプス鳴沢岳遭難報告書(米山1984入部)
2022-12-28 12:32
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Re: 【道南】オコツナイ川〜小田西川
2022-12-27 14:41
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Re:板倉勝宣遺躅の碑 /北大山の会東京支部 石本惠生(1961
2022-1-24 0:06
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第94回ヘルヴェチア祭...
この投稿がうまくつながらなくて、だいぶレポートが遅くなったが、昨年晩秋のヴェチア祭り。コロナで私以外のOBは写ってません。女子が4名も
前夜祭。現役が料理をふるう
私はコロナを避けて乾杯後、小屋管理のアドバイスをして退散
翌朝私は再訪して祭りに参加。祭りといっても記念写真を撮るくらいだがヴェチアの歴史を少し語った
部歌の山の四季を歌ってヘルヴェチアの神様に献杯!だけはした
祭り後は大掃除に薪割り。女子もチャレンジ。今年の薪はトイレ脇の大きくなりすぎて、また小屋に傾いたキハダの木で夏に伐採したもの。
煙突掃除の後は床掃除とワックス磨き。他の北大小屋から比べると床が汚いので、ハッパをかけてしっかり磨いてもらう
2021-4-30 16:48
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山の会会報
2021-4-24 23:18
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【読書備忘】岐阜百秀...
地方の百名山の書は数あるけれど、県山岳協会や当地の新聞社が手分けして踏査して協議して選んだ本が多いのではないだろうか。中には各市町村に公平にというような選定もある。岐阜にも、上述のような選定を経た1975年の「ぎふ百山」があったが、124山と絞りきれていない。また高速道路ができ徳山ダムができて環境の変わった今の時代にふさわしい「佳き山」を選びたいと、著者清水克宏氏は最新情報を載せるため五年に限って踏査し選定したという。
ひとり個人が候補の100以上を登って選んだというものは、深田久弥の日本百名山と清水栄一の信州百名山だけではないだろうか。強い計画力と実行力とを要する情熱、そして教養がなければなし得ないのではないか。
私は先月3月に石徹白から白川郷まで一週間の白山縦走をしてきたばかりで、歩いてみて知りたく思ったこと
「なぜ三つの越前、加賀、美濃の禅定道のうち最も泰澄法師ゆかりで正統のはずの越前道がいま見るかげもないのか?」
「なぜ石徹白はあの独特の雰囲気なのか?」
「念仏尾根の妙法山周辺の複雑な地形もやはり古くから人が通ったのか?」
などすべての好奇心の答えを、この本は歴史的な視点から教えてくれた。
信州人の私の目線で岐阜県とはどんな県か。長野県と北アルプスを挟んで対称の位置にありながら、信濃にはない多様性がある。北陸豪雪地域に面した山嶺が長く、標高はなくても遠く深い奥美濃や、白山に連なる国境があるかと思えば、鈴鹿山脈にも木曽山脈にも引っかかっていて、実に多様。それから低山だけれど個性ある山と人里の多い県中央の山間部。これらを俯瞰して一冊の中に眺めることができた。
この多様な山域の隅々まで、歴史的背景や地名山名の由来なども漏らさず盛り込まれている。往時の修験者、木地師、鉱山師に関する話も、知れば山歩きで見える風景を変える要素だと思う。とりわけ、徳山ダムで沈み非常に行きづらくなった千回沢山(とても100山に入れるわけにはいかなかったとある)や、廃村の馬狩で出会う現地の人とのささやかな交流の話などはとてもおもしろい。日本の山里には従来、人と文化があり、今はそれが失われゆく時代なのだ。こうしたさりげない話が貴重なのだと思う。そうした時間軸を意識すると、コラムで触れていた奥美濃の山を紹介した昭和15年刊行の「樹林の山旅」には、たいへん興味を惹かれた。
岐阜県の山にはその名前が地形図に載っていないものが多いという。信州との対比で、濃尾平野以外は山がちなので、遠くの名山が抜けて見えない、そのため名前が広く認知されなかったり、飛騨山脈が視覚としても印象に残らないのではないか、との話もしていただいた。本書に一貫するのは、そんな「少し不遇な」岐阜の山への愛着である。
私はいくつ登ったのかな?うきうき数えてみたら34だった。楽しいものだ。
私も、筑摩、安曇両郡(犀川流水域)50名山を選んでみた。故郷の山への愛である。
ナカニシヤ出版2021年5月
森の国水の国 岐阜百秀山
清水克宏
2200円
2021-3-22 4:03
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Re: 【中部日高】ナナシ沢1823m峰南面直登沢→コイボクシュシビチャリ川
2021-3-7 10:29
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【読書備忘】ぶらっと...
毎日新聞夕刊で特集ワイド面記事を書く、藤原章生会員(1980年入部)の最新刊です。海外取材の長い58歳記者(当時)の、プライベートなダウラギリ2019年遠征記。
なぜこの年齢になって八千m峰を目指すのか。著者の幼年期の体験、青年期の山、海外支局取材時のさまざまな話を交え、高所の及ぼす脳や精神への影響から、話はどんどん死と時間、恐怖と勇気、シンパティコ、達観と情熱、なぜ山に登るのかというテーマに至る。昔から相当な読書量だったうえ、著名人のインタビュー経験が豊富であり、ジミー・チン、メスナー、原真、リカルド・カシンなどの発言や行間にふれる部分が面白い。大澤真幸の「他の誰にも出来ない仕事」の話が良かったです。
故郷を出て男ばかりの共同体に初めて入門した1984年の私にとって、東京の下町の育ちだそうで、きっぷの良い話しぶりに、人をじろりと見る目つき、あけすけにものをいい、最後にニヤリと笑える話を添える藤原さんはちょっとワルなインテリとして、憧れの人でありました。直接の先輩である2,3,4年目のひとつ上の5年目でもあり、何より1984年のガルワール・ヒマラヤ、スダルシャン・パルバットのメンバーでした。1年目の私には近い将来の憧れの未来そのものでした。興味はなかったけど、くわえタバコの麻雀にものこのこついていきました。
私が半人前を終えかけた3年目の4月上旬、藤原さん鷲尾さんに誘われて、立山、剣に登りました。大町の扇沢からスキーかついで冬季休止中の関西電力のトロリーバストンネルを延々歩いて、ケーブルカーの真っ暗な階段トンネルも延々登って、いきなり立山の東面に出るアプローチでした。今では考えられないけど、当時は特に止められなかったし許可とか危険とか、そういう日本社会ではありませんでした。ここに雪洞を掘って3日間、悪天缶詰になって、最後は雪崩が危なく日数切れで引き返しました。4泊も穴の中でヒマだったかといえば、藤原さんの面白い話を朝から晩まで聞いて、ゲラゲラ笑って過ごしたのを覚えています。全く話の上手い人でした。本書にも出てくるけれど、20代の若い時代特有の「シンパティコ(人懐っこさ)」の話には、このときのことを思い出しました。当時、名前しか知らなかったOBの小さな話を、顔マネ、口真似しながら藤原さんが話してくれるのですが私は腹を抱えて笑いました。
その後、藤原さんは新聞記者、私はTVカメラマンになり、業界は同じでも全く違う仕事でした。はじめ私は山岳撮影が主な関心でしたが、藤原さんのように誰か興味深い人にとことん話を聞くドキュメンタリーのような仕事にあこがれてきました。留学や海外支局で日本を離れた藤原さんを、グアダラハラ、ヨハネスブルク、ローマと、夏休みなどによく訪ねました。昔からずば抜けた読書量で、あるとき話のはずみで文庫本の巻末にある他の本の紹介広告のタイトルを見ながら、これも読んだ、これも読んだ、と数十冊ほとんどすべて読んでいた話を聞いて驚きました。彼に勧められて読んだ本も数多くP.フォーバス「コンゴ川」、G.マルケスあれこれ、関川夏央、丸山健二など、私が本を読むようになったきっかけかもしれません。特集ワイドの取材でインタビューに行く前に、相手の著書は全集含めてほとんど読んでいくとあり、納得します。
本書では、やはり高所登山中に受ける精神的な影響の話で死に対する考察があります。いつか20代の頃、どこかの国を訪ねたときの雑談で「俺は最期、死ぬ時に、間際にどんなことを思うのか、横になり朦朧としながらも、心に浮かぶこと、考えることを様々、全部ペンに書き取りながら死にたいね」と言っていたのを読書中に思い出しました。やはり、ずっとこれは大切なテーマだったんだ。
あらすじを書いてもネタバレになるので、藤原さんの追悼文のようになってしまったけれど、少し上の先輩の勤め人の節目である定年退職間際の心の内など、私も大いに関心が高く、今後の人生でも常に先を行くセイパイに変わりありません。まだ30年、人生は続く。
2021-1-28 17:32
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【読書備忘】 リュック...
100年を迎えた早大山岳部と稲門山岳会の100周年記念事業誌。昨年はお祝いの催しも計画していたが、covid19の影響で中止になったとのこと。
1920年前後、第一次大戦後の好景気で日本社会は鉄道が伸び、大衆の観光や旅行や登山活動にも広い裾野が伸びた。以前から大学生を中心に行われていた登山界にも逸材が流れ込んできた時代で、老舗の大学山岳部はこの頃相次いで山岳部を創立した。北大もスキー部が1912年から創部、そこから山岳部が独立したのが1926年。
リュックサックはもともと現役の部報であり、2011年に14号が出ていて、今回は15号。1990年代・平成以降は現役部員が少なかったためリュックサックは次第に両者合同の内容で編集されているようだ。内容は過去100年の早大山岳部のあゆみがダイジェストで記される一方、14号以降の10年分の活動報告が厚めに盛り込まれている。
冒頭のまとめはよくまとまっていて、早稲田の100年を今回初めて知ることができた。実は早稲田の歴史について、失礼ながらこれまであまり印象がなかった。K2の大谷映芳氏と、翻訳家の近藤等氏と、あとは80年代の同世代数人の名を知る程度だった。早稲田は伝統があり部員も充実していたのに、死亡遭難事故や不運が多くヒマラヤ登山では79年ラカポシ、81年のK2まで成功を得ることができなかったことを初めて知った。また、その後の世相の変化による90年代以降の部員減少期の組織的葛藤や不信。ヒマラヤで活躍を期待されたやる気に満ちた若手が次々に死亡遭難事故で失われる苦しみなど、かなり踏み込んで事情を読むことができた。
他大学との対話でこれからの山岳部を考える、という企画のひとつに、北大山の会から11人が座談会に出席し、北大的な山岳部気質などを紹介する機会が設けられた項目がある。私達にとって、早稲田も含めた東京の山岳部の活動は、「監督、コーチ」「合宿」「トレーニング」という存在が示すように、かなりスポーツ的に見える。歴史的にも、他校山岳部との競り合いを強く意識している気配を感じる。「スポーツ科推薦入試」も2000年代にあったとあり、発想としては競技スポーツを連想する。極端に言えば、彼らから、その要素を引き算して、さてどう山に登ろうか!といったものが北大流だったのだということを感じた。そしてそれぞれの寄稿を読むと、やはり早大自身の中にも「個人山行⇔合宿」という大きな対立する概念があり、それを内的に処理できず、苦悩して来ているように思えた。
巻末に年次順の会員名簿が併記されている。おかげで記録を見る際にたいへん助かるのだが、会員の総数が、ここに載せられるほど少ないことに驚いた。80年代以降のほとんどの年は一学年一人か二人しかいないのである。よくぞ続いてきたものと思う。
どんな時代でも大学山岳部にしかない魅力は、学生時代の当事者にはその時はわからないけれど、100年も続いた縦の時間軸を越えて、皆が同じ青年期を過ごした経験を共有できることだ。行く山は同じでいい(違う山でもいいけど)。馴染みのメンバーが生涯居る。おなじみの雪稜で迷い、おなじみのナメ滝で滑り落ち、おなじみのクラックに右手を突っ込む。おなじみの飲み屋におなじみのヒュッテ。ヒマラヤやデナリはオマケだ。老いたメンバーはそのおなじみの定点があることで、自分がどれだけ遠くまで来たか確かめる。若いメンバーには尊敬する先輩がいればそれでいい。そして、山で死んだ仲間のことを時々思い出すのだ。人のライフサイクルをまたいだそういう共同体は今、日本でほぼ失われつつある。なにかに勝たなくていい、文化を伝承するのが、大学山岳部でありたい。
2021-1-26 13:21
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【読書備忘】サガレン...
著者は硫黄島1945司令官、栗林中将のノンフィクション「散るぞ悲しき」で憶えのある著者。かなりの鉄道オタクとのこと。特に廃線ジャンル。樺太鉄道は憧れなので期待して読む。雑誌の連載紀行をまとめたものなので旅行記として読みやすい。
サハリンは、アイヌ・ニヴフ・オロッコ、ロシア、日本、ソ連の時代変遷で地名が三つある。ロシアとソ連時代でも違う。サハリンの地図を片手に、更に地名対照表を片手に読むと更に楽しい。
白秋、賢治など日本統治時代に訪れた人々の足取りも盛り込まれチェーホフ、林芙美子、村上春樹まで改めておさらいできる。後半の宮沢賢治の亡き妹を悼む詩集と辿るパートは東北本線や津軽海峡の下りなどの検証なども含めてサハリンからは離れるけれど、時刻表や車種の証拠からも詰める乗り鉄オタク手法込みのノンフィクション検証で、1923年の傷心の旅を解析するところはお見事。賢治の詩編の一言一句の吟味になるが、これはこれで大変面白かった。はるか昔読んだ賢治の詩は不思議と心に残りあり、詩特有の曖昧な受け取りだった言葉の数々も先行研究もうまくまとめられてこの本で明確になりました。賢治特有の草花や鉱石の解説も詳しい。妹の死、樺太鉄道旅行、そして銀貨鉄道の夜への流れを解釈する。
やはり樺太山脈スキー縦走に行かなければならないなあ。山岳部の仲間と、コロナが収まったら、旧国境を積雪期に越えて北上したい。帰りは鉄道で帰るのだ。やる気が出てきました。何キロくらい、無補給で行けるだろうか。
2020-12-16 21:09
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【読書備忘】追憶のヒ...
日本山岳会東海支部で、1970年のマカルー南東稜初登以来、50年間名古屋岳人のヒマラヤ遠征、東海支部の組織運営を担ってきたご本人77歳の総まとめ自伝本。東海山岳に関わった人にはたいへん興味深い歴史の、一つ一つの裏側を語ってくれる。
そして、AACHにとっては、偉才、原真氏の右腕として尾上氏が携わった数々の話が興味深い。東海支部設立、アンデス、ヒマラヤ遠征のゼロからのスタート、組織作り、資金集め、日本山岳会本部との確執(というかみんなが知っている妨害工作)、現場での破綻、遭難スレスレの格闘と成功などの歴史が尾上氏目線で語られる。関係者の多くが亡くなっているのも、おそらく今書ける理由でもある。やはり生き残った強みである。みんなが知りたいことでも、関係者が居る前ではなかなか文字にはできないものだ。何より尾上氏のその後果たしてきた実績と信用が、彼の書くことならと、周りを納得させられたのだろう。50年経って、やはりマカルー南東稜は歴史になったのだ。
1970年マカルー南東稜初登は、ヒラリーに「あの南東稜をまさか日本人が登るとは」と言われた、当時難しすぎる未踏8000mのバリエーションで、同年の日本山岳会(本部)のエヴェレスト(ノーマルルート第六登)に比べると、事情を知るものには段違いの快挙だった。だが、これは「思想家・原真」の強烈すぎるリーダーシップによって鍛え上げられた先鋭集団だから成功した。そのいきさつを、原さんの右腕役を務めた尾上氏が文章にした本書は、まことに興味深い。マカルーを、東海支部を、新撰組にたとえる下りがある。「尾上、明日までに○○を切れ」とささやく原さんはまさしく土方歳三ではないか。ぞくぞくするような展開である。
本書後半では、原さんが去った後の東海支部の40隊にも及ぶ海外登山隊の切り盛り、尾上さんを育てた東海高校剣道部、日大山岳部の活動なども触れられる。名古屋という土地に於ける人のつながり、その時代の背景が、門外漢にも判って大変おもしろい。1960年代の日大山岳部が極地山行に傾倒していたのを少々知ってはいたが、ここまでグリーンランドや北極点に通っていたとは。ヒマラ高峰系の海外ではなく、ソリを曳いて未知未踏の極地エリアに分け入るスタイルは北大の志向に近いものがある。日大山岳部の池田錦重氏や、名古屋山岳会の 加藤幸彦氏も触れられる。私はお二人と90年代にガッシャブルムやチョモラーリで山行を共にしたことがあり、知らなかった一面を読むことができた。人には出会う以前から歴史があり、そのいきさつを知ると、知っている人であってもまた多面的に見えてくる。
「誤解を恐れずに書けば、山登りは死ぬほどおもしろいのであり、おもしろいほどあっけなく人が死ぬ世界である。」ぎくりとするが的を射ている。誤解されそうなので書くが、人の死がおもしろいのでなく、「(その山登りがギリギリ生還するような過酷なレベルのもので、おもしろければ)おもしろいほどあっけなく人が死ぬ」という意味と解釈する。敢えて誤解されそうな書き方をするところが尾上氏流の味かと思う。こんなお節介は不要か。原真も書いていた。「山には死があり、したがって生がある。下界の多くにはそれがない。」
また原さんの本をよみたくなった。
尾上昇(おのえ・のぼる1943年生まれ) 2020 中部経済新聞社 1600円+税
2020-11-11 14:32
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第93回ヘルヴェチア祭...
今回はコロナ対策としてOBには案内は出さず現役のみで企画、開催。
ヴェチア幹事の佐藤君(4年目)からの報告を混ぜてレポートします。
参加者は現役13名、2013以降の若手OB7名 水産4年1名。指導のため特別参加のOBは井ノ上、石川部長と私。現役と若手OB2人は昼間は赤岩で登ってから到着。
17時頃から前夜祭。部長から挨拶と小屋生活や山行を通しての山仲間の意義を、私から作った小屋管理マニュアルの説明の後、幹事(オレンジ帽子)が乾杯。料理は2年目シェフ田中君により、豚汁、唐揚げ、大根の煮物、サラダ等。
現役と若手OBら。3年目がいないが1年目が4名いて全体で15名近くと何とか部員数は維持。若手OBに協力してもらって2年班のリーダースタッフをお願いしたい。
女子が3名も。焚き火を囲んで自己紹介、山の四季などを歌いお開き、一部の者は日付をまたいで話し込んでいた。
我々OB3名は19時頃に退座して帰ったが、その前に現役は山の四季含め、カメラーデンリートも知らないというので2〜3曲と、森田君(1973入)が現役2年目に作った「ヘルヴェチアコンパの歌」も歌唱指導してきた。部室には1993発行の歌集「山の四季も」あるというが、山と歌は我々には切っても切れないものなのだが〜OBの指導が必要か。
ヴェチア祭り記念集合写真、ロゴと国旗は佐々木ロタ(1955)の90周年の際の労作。本祭としてヴェチアの女神に祈りを捧げ、集合写真を撮り解散。
小屋大掃除での床ワックスがけ。以前より木目が浮き出てきた。
前日私が砂利を積んだダンプで小沢を越えて砂利敷き。山の会会計に了解を得ての作業でバイト代として現役にもカンパをしてきたが、途中でぬかるみにはまり動けず、結局レッカーを救助要請して高いものになってしまった。
2020-9-29 15:20
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【読書備忘】人間の土...
東海大山岳部で2006年、若くしてK2登頂を果たした小松由佳さんは、その後山をやめてシリアの遊牧民を撮影するフォトグラファになった。なぜ山をやめたのか、以前はそれを知りたかったが、今は少しわかる。K2登頂生還者というオリンピック並の金メダルは、その後自分の山登りを若々しく無邪気に正直に続けていくのには重すぎるものだったのかもしれないと推測する。信頼できる仲間、積み上げた技術と体力、高所で酸素が切れてもヤラれなかった才能、これだけそろえても更に強い運が加わらなければK2から生還はできない。彼女は賢明で、成功のあと、足りたものを知り、無理に世間の期待や相場に合わせて「高所登山中毒」に陥ることなく、自分の別のテーマにすっと移行したのではないか。
家族を大切にし、伝統の中に価値を見出し幸福に暮らすシリアの家族を撮影した写真集、「オリーブの丘へ続くシリアの小道で」は、彼女の新しい世界をみせてくれた。しかし、2011年に始まった民主化運動を弾圧するシリアの内戦はその後地獄と化して、今現在も10年近く続く終わらない悪夢だ。シリアに関わった彼女は、幸せだった人たちのその後の窮状を危険な治安機関の制限のなか撮影、あるいは取材し続ける。
https://aach.ees.hokudai.ac.jp/xc/modules/AACHBlog/details.php?bid=745&cid=7 帯に角幡氏とヤマザキマリ氏の推薦文が。探検家角幡氏はわかるが、ヤマザキマリの応援はなるほどと思った。小松氏は、シリアの60人もの大家族の末っ子男性と結婚し、元ベドウィン(遊牧民)の砂漠伝統家族の仲間入りをするという、思い切った人生を選択していて、この点が「モーレツ!イタリア家族」の一員になったヤマザキ氏や、イギリス人と結婚し最近おもしろい本を連発しているブレディみかこ氏に通じるたくましさがある。本著の前半はそんなベドウィン風の古き良きイスラム的大家族の幸福な魅力が語られるのだが、今世紀最悪のシリア内戦の当事者として、ストーリーは続いていく。
思うに彼女は、選ばれてしまった人なのだ。強剛登山家が4人に一人の確率でがあっけなく死んでしまうことで有名な死の山K2から、仲間と才能と努力と運に恵まれて生還した運命といい、地獄と化すなんて想像もしなかったほんの数年前の幸福な時代のシリアを知った上で、今の惨状を知ってしまった運命といい、本人も予期しなかったことではないか。
しかし、アフガンの故・中村哲氏も言っていた、「見てしまった、知ってしまった、放っておけない」これが彼女の運命ではないかと思う。そして運命は、弱い人間を選びはしない。大学山岳部で山登りにとことん打ち込み、強い心を持った彼女だから、今こうしてシリアの内戦から逃げずに歩んでいけるのだ。そしていま最もやりがいのある仕事、ちいさな二人の子供と歩む実り多い人生を過ごしているさなかだと思う。
「山岳部員出身」というちかしさから、20代の数年間を山登りのことばかりを考えて過ごしたという共感から、彼女の人生をひとごとと思えない。彼女は、自分で選んだ人生の舵を決して離していない。船は波に漂うが、舵だけは自分で握り続け続けている。子どもたちのビレイを続けながら。その姿がとても尊い。
人間の土地へ
小松由佳
2020/9
集英社インターナショナル
2020-4-15 21:46
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【読書備忘】渓谷登攀...
大西良治著「渓谷登攀」が出版された。ガイド本を除いて、沢登りの本としては成瀬陽一氏「俺は沢ヤだ」以来の事だろうか。いや、「外道クライマー」以来か。
登山者人口が増え、情報もそれなりに流れるようになりかつてのハードル高さも減じて夏道登山だけに飽き足らずクライミングや雪山、そして沢登りにも手を染める人達も徐々に増えてきたように思う。それにしても、このような特殊な本にまで手が伸びるとは到底思えず、出版元の山と渓谷社の英断を称えたいし、こうして沢登りの深部が紙媒体として残ったことを祝いたい。装丁も、表紙からして配色やI滝と文字の配置よろしく洗練されており、編集者の労をねぎらいたい思いだ。目次等、背景が黒で文字を浮かばせたそれらは、渓谷内のゴルジュを意識したものだろうか。
台湾渓谷での沢登り(溯渓)や日本の険谷遡行に多少なり関わってきた身として、この本がどういった価値を持つ本なのかを語ってみたい。
著者である大西良治氏については御当人の開設する「SOLOIST」を参照頂くとして、ここでは客観的な補足に留めたい。クライミングに魅入られて入れ上げる多くの人々が、登山総体の中での一ジャンルに過ぎないクライミングという行為自体を目的としてしまうだけに満足する中で、大西氏はクライミングを手段としてこれまで通過やトレースが許されてこなかった大滝や不明だったゴルジュを解明し、時に新ラインを引いて我々オールドスクール出の溯行愛好家を驚かせた。またそれらが主として単独で成された点に尚、驚かされた。
まずは国内掲載の「日本の渓谷」について。25本の掲載があるが、私の少ない経験に照らしてもどれをとっても一筋縄ではいかない険谷群の羅列である。登攀的要素が強く、単独でロープを出すとなれば「ソロイスト」という制動ギアを使用した登り返しの必要な倍手間を喰うシステムとなるし(赤川地獄谷、オツルミズ沢、池ノ谷、梅花皮沢滝沢、剱沢等)また、泳ぎを強いられる谷(不動川やザクロ谷、五十沢)では水流への引き込まれを回避できる確実な方法がないために“賭け”ざるを得ない場面も現れる。増してや滝や高捲きのフリーソロ部分では絶対に落ちられない。一本一本が遡行愛好家の究極の目標たり得るものばかりであるが中で「日本の渓谷」のハイライトは『称名川』、の項である。入口とも言える称名滝(しょうみょうのたき)が世紀末周辺に登られ出すや、次に注目されたのが当時未踏を誇った「称名廊下」であった。探検家である角幡唯介氏や北大探検部卒の故・澤田実氏、そして上記成瀬氏もこの「日本最後の地理的空白地帯」に注目して懸垂下降しては廊下部分の踏査をし、写真を残していた。成瀬氏に至っては計画の発案者である青島靖氏と共に称名滝落ち口からの溯行や、称名廊下終点からの下降とトライアルを重ねたものの水量の多さやスケールの大きさから「今までの溯行スタイルを越えた何かを掴まえること」が初溯行には必要となるだろうと記録に書き残し中退している。これら動きに連動してか、大西氏もこの称名廊下にエントリーして、氏としては”不本意ながらも”初めての偵察やエスケープ路の確保をした上、初溯行を成功させた。それらにも飽き足らず、更には称名滝(フリー)登攀から称名廊下、そして源頭の室堂までの溯行を(デポを置きながらも)ワンプッシュで完成させ、区切りとしている。誰の手も借りることなく。これら一連の行為に投じられた情熱や労力の総量たるや、計り知れないものがある。
この本に紹介された記録には、幾本かの重要な意味を含んだ山行が採用されている。それは、引き返しの効かない地点を意志的に踏み越え、困難を乗り越えた末に生還している点である。しかも“良いスタイル”で。台湾の大渓谷に踏み込むにあたって、谷中でトラブルやアクシデントに見舞われた際にはその奥深さ故に救援は全く見込めず、自力で対処し行くか戻るかの判断を迫られることもあり、何があってもパーティー内で処理し、覚悟を持って入渓する点は多少なり救援の見込めるヒマラヤ登山以上の心理的ハードルがある。その意味で「台湾の渓谷」での記録はその“ある地点”言い換えれば「境界」をどれも踏み越えているし、称名滝右壁登攀、そして「CANYONING」の項では剱沢や恰堪溪(チャーカンシー)の1st descent、Gloomy Gorgeの2nddescentもソレに該当している。
尚、我々が行っていた二十世紀末の台湾溯渓は、同行する現地の嚮導者の人数や力量もあって実にオーソドックスな遡行スタイルに終始し、困難な滝やゴルジュ帯が現れれば一日掛かりの大高捲きを敢行して回避し自然、日数に制約を受けた“そこそこの”中規模渓谷までの溯渓に限られていた。しかし世紀改まり、台湾溯行の際の嚮導者、人数等の制約事が良好に改善されたことも手伝って且つ日本からは精鋭達が集い、この魅力溢れる台湾島の未踏大渓谷群にありったけの情熱や力量を注ぎ込むことが出来た結果、たった一本の渓谷に二週間にも渡る沢登りとしては長期の日程を投じて高捲きを極力排した完成度の高い溯渓が次々と成された成果が、この本にある。規模の大きな台湾渓谷での高捲きは溯行に際して日数を食い潰す排すべきスタイルであり、高捲きを選択せず些か強引な手段を採ってでも中を通過した方が遡行は遥かに捗ることを示した。高いクライミング能力を武器に、ボルトの使用すらも排し、且つ不明部分をつくることなく行程を早く進められる。そのことは、前記青島・成瀬両氏が長渓、豊坪渓を三度に分散して完溯したのに比べ、彼らは(途中入渓だったとしても)ワンプッシュで左俣を成し遂げたことにも現れている。
渓谷溯行で現れる、一見して通過不能と見える鬼気迫る暗いゴルジュや廊下が人生の苦悩の、登攀困難な滝が人生の困難を象徴するならば、これまで殆どの人達に高捲かれ内院を覗かれず未知として残されてきたそれら空白部分に、著者である大西氏は時に単独で怯むことなく挑んで最も数多くそれら困難を乗り越えてきた人物といえる。
ただ本人が単調な表現の繰り返しを避けるのに苦労したと言っていた通り、志水哲也の「大いなる山 大いなる谷」が発刊された際に柏瀬祐之氏(「山を登りつくせ」の著者)が指摘したのと同じこと思ったのも正直なところである。それと、我々が台湾の沢登りを現地語で「溯渓」と呼称した言葉がここには殆ど現れなかった点は、我々が積み重ねた溯渓と氏が行った台湾溯行とが地続きで(水脈で繋がってい)ない感じを受けたのは少々残念であった。
とは言え、アルパインクライミングにも引けを取らない沢登りの可能性を未来に提示した点で、本書は価値ある一書である。素晴らしい大判の写真を目にするだけでも本書で展開された行為の迫力の一端に触れられる。
私が台湾溯行に手を染めた頃、極秘入手したその広げたゲジゲジ台湾地図を前にして解明される未来などまずやって来まい、そう手前勝手に思い込んでいた1990年代初頭時から凡そ30年、21世紀を迎えて主たる水系はあらまし溯行され解明されてしまった! 驚くと同時に、そんな同時代を生きて目の当たりにすることが叶ったのは幸いだった。
最後に名誉の為に申し添えたいのだが、日本の険谷登攀はじめ、称名滝、称名廊下、そして台湾大渓谷のこれからを将来に向けて世紀末の段で既に提示していた青島靖氏(大阪市大山岳部OB)の先見の明について、ここに記して本文を締めたい。【20200413記】
2020-2-24 15:43
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2020年関西支部新年会
日時:2020年1月25日(土)
場所:京都三条木屋町 温石 左近太郎 参加者(敬称略、入部年西暦下二桁):吉田(57)、相田(58)、神戸(59)、高橋(59)、田中英(59)ご夫妻、内藤(59)、渡邉(59)、川道(62)、須田(62)、岸本(65)、池上(70)、宮本(82)、岡島(83)、多田(86) 合計15名
報告:岡島(文)、宮本(写真)
会場の「温石 左近太郎」は、典型的な京都の「ウナギの寝床」であり、3回続けて会場になったためか、慣れ親しんだルームを思い浮かべた。12:30開催で、実に4時間にわたり、30年の入部年度差にもかかわらず、あちこちで話が咲き続けた。会費もなく遭難対策もない、親睦の集まりであるが、最後は肩を組み山の四季で締めた。
「若いOBの参加をもっと呼び掛けるように。」との川道支部長の号令を受け、脈のありそうな数名に直接コンタクトを取るものの、皆々ご家庭の用事があるとの事で残念ながら「ご盛会をお祈りします。」とのご返事。新しい面子が得られない中で、池上宏一さんが久しぶりに関西支部の集まりに顔を出された。
昨年10月の湖北合宿の報告に記した朝比奈英三先生と川道支部長とのアラスカ大学での件を池上さんが目にされ、1972年マッキンレーの下山後にアラスカ大学に川道さんを訪ねて行かれたことを懐かしむコメントをAACHのメール連絡に載せられた。私も30年近く前にデナリ公園でキャンプしたときにマッキンリーを北面から望んだことがあり、部報12号に掲載されているマッキンリー遠征のダイジェスト版を読み直した。
カヒルトナ氷河からウェストバットレス経由で頂上アタックはノーマルルートを辿るが、登頂後の下山が他所では考えられない行程となっている。詳細は「寒冷の系譜」にも記されており、越前谷さん達が語っている様にルームのセンスに徹した「3年班」と位置づけている。また東晃先生がこの長いワンデリングを褒めておられた事も嬉しい。まさに冬山メイン山行で、十勝川からトムラウシを登って石狩川に乗越すスタイルをアラスカで実践されたのだと思った。
池上さんは1980年のバルンツェにも登頂されている。この時の装備開発と気象研究が2年後の冬期8000m峰につながった経緯が「寒冷の系譜」に詳しく報告されている。 そして更に、越前谷さんが「池上の作った膨大な事務局ファイルというのは、全部記録として残っている。このファイルはAACHが初めて立派な登山報告書を作る上に貢献した。」と評価されている。その談の通り池上さんは、1本締めのアタックザックに収めたマッキンリー遠征のアルバムと地図を持参して下さった。
アルバムには写真とスケッチが丁寧に整理されており、報告書で見た覚えのあるチロリアンブリッジでクレバスを越える写真が、何故か目に焼き付いている。
さて、関西支部の報告というよりも池上さんを巡る“寒冷の系譜”を断片的に追った内容になったが、関西支部の常連メンバーは益々ご健勝につき詳細報告は割愛させて頂きたく。終わりに、今回欠席の連絡を頂いた窪田さん、伏見さん、福本さん、米澤さん、石松さん、川井さん、中谷さん、鈴井さん、三瓶さん、またの機会にお会いしましょう。
2020-2-6 14:13
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2019年秋関西支部会員...
2018年9月20日に京都駅前のビアホールで「甚暑祓い/豊穣祈願」の飲み会を開いた。この年の関西は梅雨時から尋常ではない暑さが続き、関西支部の先輩の何人かは、参ったと弱音を吐いておられたので、少し涼しくなったら顔を合わせ気分転換をはかるのも良いのではと急遽集合を設定したもの。(飲み会参加者:安間、相田、高橋(昭)、田中(英)、内藤、伏見、川道、岸本) 勿論皆様お元気でいつものようにジョッキ片手に近況雑談で盛り上がりました。席上、安間さんから空沼小屋の現状を話していただき、胆振東部地震がありスタートが遅れたがこれから北大当局を説得し、空沼小屋及びヘルベチア小屋を有形文化財として登録申請するように進めてゆくとのこと。
2020-1-14 21:44
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2019ヴェチア祭り レポ...
現役のヴェチア幹事岡崎君から第92回ヘルヴェチア祭りが10/27に催され、写真とレポートが来たので遅くなったが編集しました。
OBは川道(1962入)、小野寺(65)、高橋(66)、安藤(70)、岩間(70)、中村(88)の6名、 現役は15名、若手OB2名他2名で計26名。峠越えは若手OB神谷(2015)1人のみ。主任幹事の笠井(4)の挨拶で前夜祭スタート。現役は今年は1年目6人が入部し将来は明るい。途中小雨もあったが焚き火を囲む。OBからの酒や料理の差し入れが例年より多くありがたい。例年の現役ワンコイン、OBからは3000円の会費で間に合う。メニューは生ハムにクラッカー、ラーメンサラダ、鍋、ポテトサラダ、牛丼、とりわさ等。
朝は昨晩の鍋にうどんを入れて朝食。11時ごろまで小屋の掃除や薪割り、煙突掃除など。手こずった薪割り用の切株数個残して記念撮影。11時半ごろ解散。
北海道新聞20200112別冊
道新記者が当日取材しにきて、丁度1/12日曜版別冊に山小屋の鎖という題で2面に渡り特集を組んでくれた。
ヴェチア幹事の岡崎君や小泉前会長、空沼小屋の保存を考える会の安間会長のコメントもあり、なかなかの小屋PR記事になっている。14年前理学部博物館で催された山小屋展の再現ともいえる記事。写真入りのインタビュー記事の在田氏は山スキー部OBで当時の館長。
2019-11-2 14:56
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関西支部 月見の会
日時:2019年10月19〜20日
場所:奥琵琶湖キャンプ場
参加者(敬称略、入部年西暦下二桁):吉田(57)、相田(58)、高橋(59)、田中英(59)、内藤(59)、川道(62)、須田(62)、米澤(69)、奥様タップティムさん、石松(73)、宮本(82)、岡島(83) 合計12名
記録的短時間大雨情報が千葉県に発表されるなど、10月19日土曜日は関西地方も天候が不安定。今夜は外でのBBQは無理かなと思案しながらJR湖西線の安曇川駅に向かい宮本さんと合流する。天候は回復に向かい12時過ぎに駅に着く頃には雨は上がった。
安曇川は琵琶湖に流れ込む二番目に大きな河川で、比良山系の雪解け水が流れ出す春先には、「琵琶湖の深呼吸」と呼ばれる全層循環を引き起こす要因の一つであると、以前の月見の会で伏見さんがレクチャーされた事を思い出す。
我々先発隊は先ず、淡水魚専門の養殖場でイワナを仕入れる。養殖池にはニジマスやビワマス、鮎やコイがたくさん泳いでいた。次のスーパーで酒や肉、野菜の買い出し中に石松さんと遭遇。石松さんに永原駅での須田さんの迎えをお願いし、宮本号は今回のベースキャンプとなる奥琵琶湖キャンプ場へと直行する。
ここ湖北の西浅井町は、柴田勝家と羽柴秀吉の合戦となった賤ヶ岳が直ぐ東にあり、西方は鯖街道など御食国の若狭から朝廷に水産物を貢いだ街道も多い。また今回のベースの最寄りの集落である永原は、隣町の塩津と合わせて古代から琵琶湖の水運の要衝であった。更に、北方の山並みの向こうは越の国となり、敦賀・舞鶴からは小樽行きの船便(北前船)が蝦夷ヶ島に通っている。現代は塩サバに代わって、大飯・高浜の原子炉から赤坂山を越えて高圧送電線を電気が送られて来る。ちなみにこの辺りは関西では貴重な山スキーのエリアである。
今回の会場は薪ストーブ、キッチン、冷蔵庫、ベッド、風呂、ウォシュレットトイレ付の別荘風の2階建てのコテージ。玄関前のバルコニーを宴会場として、テーブルと椅子を並べ、夕食や炭起こしの準備をしている間に12名全員が集合し、午後4時に開宴となった。イワナの塩焼き、焼肉、鳥鍋、鯖寿司、マス寿司と饗宴が続き、米澤奥様のタップティムさんが華を添えて、インターナショナルな会話が弾んだ。
雲も晴れ、月も望めた9時過ぎに山の四季を歌い屋内へ移動。その後、高橋さんが準備された空沼小屋とヘルべチアヒュッテを巡るスライドショーの上演となった。またこの会に先立って芦峅寺の佐伯トンコのご長男である高男氏を訪問され、関西支部の山小屋に置かれていたヒュッテン・ブッフやアルバムを持参された。小屋ノートの緒言は吉田さんで始まり、途中には富山での雪氷学会の折に立ち寄られた木崎ジミーの筆跡もあり、最後は高橋さんの文で終わっていた。
高橋さんが探されていた物の一つは、芦峅寺の山小屋「北大山の会関西支部ヒュッテ」に掛けられていた伊吹良太郎さんの墨跡の看板でした。しかし残念ながら見つからなかったとのこと。確か30年ぐらい前の山の会会報に看板が写った写真付きの記事が載っていた記憶がある。「関西支部の名越ら悪童たちがまた今年もやって来た・・・」と記した恐らくトンコの寄せ書きだったと思う。私の手元にはこの会報は見当たらなかったが、平成11年に編纂された北大山の会会報の総集編を捲ると、昭和53年12月第46号「中野征紀前会長追悼号」10頁(p472)に「芦峅寺の山小屋」の題で関西支部の一文がある。
また、平成7年に編集された「芦峅の自然児・トンコ−佐伯富男追悼集−」に寄せられた思い出話しも芦峅寺の山小屋での場面であったのかも知れない。また別の機会に、芦峅寺のトンコの山小屋の資料が公開されることを期待したい。その他の話題として、伊吹さんが編纂された「行手は北山その彼方−京都一中山岳部85年の歩み」(2003年12月発行)の資料の紹介もあった。
伊吹さんの京都一中時代の貴重な写真をはじめ北大に関する章もあり、一行を紹介します。「当時は一中から三高へ進むのが一般的なコースであった。しかし、『謀反』を起こして北を目指す人たちがいたのだ。その中で、最初にブランキスト線−津軽海峡を越えたのは加納一郎(大正5年)ではないだろうか。・・・」このような会話が盛り上がる中、夜は更け11時過ぎ、7時間にも及んだ大宴会はお開きとなった。
翌朝はパンとサラダ付きベーコンエッグ、スープとコーヒーの朝食で始まる。合宿なので自炊である。朝食の後、皆さんの近況と今後の抱負を語って頂いた。
吉田:学生のヒマラヤでのフィールドワークを企画しています。ゴンドワナ地質環境研究所まで。
相田:六甲山を越えて有馬温泉に通っています。
田中:クルージングの海外旅行を楽しんでいます。同期会が段々と閉会し、世代を超えた山の会の集まりは大切な時間です。
内藤:家内と孫の世話をしています。若い人向けの料理も作って食べさせています。
川道:大学院生の海外での学会発表の支援をしています。川道国際学術交流協会まで。
ムササビの写真集を米国で出版するための編集中です
須田:自給自足の農業を営んでいます。
米澤:タイと日本の季節の渡りをしています。
タップティム:タイにいらしたときはぜひ遊びに来てください。
石松:定年後で余裕が出てきたので出席しました。アルバイトで足腰を鍛えています。
宮本:災害情報に関するインフラ整備の事業を立ち上げています。
岡島:冬山は雄山東尾根を考えています。
湖畔のベースキャンプを10時に撤収し、永原の駅前で散会となった。吉田さん、相田さん、内藤さん、川道さん、須田さん達と湖西線の客車のコンパートメントに二班に分かれて座り、車窓から琵琶湖の向うの横山岳、伊吹山、鈴鹿山脈を眺めながら話に花が咲いた。
川道さんの50年来の秀岳荘のアタックザックの話に始まり、51年ぶりにロシアとジョージアの国境にあるウシュバ南峰(カフカス山脈)下の氷河で見つかった小林年さんのザックの話に発展。ネンさんがザックを落とした理由として、秀岳荘のザックなら背負い紐が切れたのではなく、バックルの留め金のピンが革バンドの穴から外れたのではないか?
「ネンさんの岩登りの上手さは特別だ。」と川道さんが回想。その後は、写真家の星野道夫さんと朝比奈先生との交流の話も出た。「旅をする木」に記されている内容ですが、動物研究者でアラスカ大学に学んだという共通項で繋がった川道さんの話を聞くと、星野道夫と朝比奈先生の繋がりがぐっとリアルに感じられた。(注:低温研の朝比奈先生はアラスカ大学北極生物研究所のアドバイサリー・コミッティの一員として、留学中の川道とお会いしました)。合宿帰りの汽車の中の様な、ゆったりとした時間が流れた。
まだ陽も高いので、私は途中の叡山坂本で下車し、比叡山延暦寺を越えてキララ坂を下って修学院離宮の側に降りた。明後日の10月22日は即位礼。風水害が治まりますよう鎮護国家を祈念しながら帰路に就いた。
(文:岡島、写真:高橋、宮本)
2019-10-19 22:58
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【読書備忘】熱源 米...
熱源
川越宗一 文藝春秋社 2019.8
日露の文明に飲み込まれたかに見えるサハリン島の樺太アイヌと、独露の圧政にあり123年間独立を喪失していたポーランドの、19世紀から1945年の物語。
クライマー、ヴォイテク・クルティカの評伝をきっかけに、ポーランド関連本をこれで5冊目ハシゴしている。巨大なロシア文明に飲み込まれた東西の少数民族文化の数々に興味がある。19世紀はその滅びゆく最後の時期にして学術記録も残された時期。興味深いテーマの史実が盛り込まれたフィクションで、この秋の新刊。フィクションを思って手にとったけれど、かなりの部分が史実で驚いた。
以前からなんとなく思っていたが樺太の北緯50度線は、ただ日露が半分に引いた線ではなく、もともと南のアイヌと、北のニブフ(ギリヤーク)との大体の境だったのだろうか。
1875年の樺太千島交換条約での樺太アイヌの北海道への半強制移住、1904年日露戦争の日本軍による南樺太侵攻と40年間の統治、そして1945年のソ連南樺太侵攻。この時代に翻弄されて生きた樺太アイヌのヤヨマネクフと、1795年以降国を亡くしていたリトアニア・ポーランド人のブロニスワフ・ピウスツキ。遠く離れていたが流刑地としてのサハリン島で出会う両者。
読みすすめるうち、ブロニスワフの姓、ピウスツキと、ペテルブルクでのナロードニキの先輩革命家、ウリヤノフの名に既視感を感じてはいた。後半になって、実在有名人がたくさん出てくるに至って、ブロニスワフもヤヨマネクフも、実在の人物だったのを初めて知った。二人だけではなく、登場し生き生きと描かれる樺太アイヌたちのほとんども、民俗学者ブロニスワフによって記述され記録された人々だった。
登山愛好家の読者として注目するのは、1912年白瀬矗の南極探検隊の犬ぞり担当者として参加したヤヨマネクフの働きだ。わが主人公は歴史上ではこの役割によって名を留めているが、少数民族として南極隊に参加する動機とその葛藤、消えゆく存在とみなされることへの反発など、心の内がずっと描かれている。同じく終章で登場するウィルタ族の若く優秀な射手もまた、対照的なひとつのあり方として描かれていた。
この本で一番読みたかったくだりは、ヤヨマネクフがブロニスワフの録音機に、未来に向かって話した「願い」とも「祈り」ともいえる言葉だ(p249)。
「もしあなたと私たちの子孫が出会うことがあれば、それがこの場にいる私たちの出会いのような幸せなものでありますように」
「そして、あなたと私たちの子孫の歩む道が、ずっと続くものでありますように」
19世紀は近いようで遠い。自分の先祖でどんな人生を送ったか伝え聞いているのはせいぜい三代前までではないだろうか。1964年生まれの私なら父は1934年生まれ、祖父は1905年、曽祖父は1870年代、知っているのはそこまでだ。そして先祖の数は3人だけではない。母方にもその母方にもいて、2の階乗の和で増えていく。2+4+8+16ヤヨマネクフの同時代でも16人の直接の先祖がいるはずだが、ほぼ知らない。自分が「純粋な日本人」だと思っている多くの人も、明治初期の4代前の16人全員の生涯を知っている人は多くはないはずだ。アイヌもコリアンも無関係と思っていても、そうではないのだ。自分は旧家の10代目です、という人がいても、2の10乗=1024人のうちせいぜい一人の素性を知っているだけだ。子孫に伝えられなかった、多くの先祖たちの人生を思う。
「熱」という言葉は要に何度も出てくるこの作品のテーマだ。21世紀になり、姿を消したかに見える樺太アイヌの独自環境に根ざした暮らしぶりや習俗。しかし文化、物語は形を変えて残っている。見えないエネルギーの象徴として、「熱」が語られるのだろうか。
先週ちょうどラジオの音楽番組で、アイヌ音楽家のOKIがトンコリを奏でるのを聴いた。90年代半ば以降になって、ようやくアイヌ文化の価値を差別的偏見を通さずに評価する時代になった気がする。30年ほど前の北海道では、今では考えられない、ここに書きたくもないほどの差別的な体験を見たことがある。人が差別的になるときに、両者の無知を思う。作品中の主人公たちが人生通じて、無知からの脱却のために学校を作ろうと努力をし続けたことが印象的だ。
日本統治時代には近代化の開発が進み、ロシア統治時代にはかなり放置される傾向があったように思う。樺太の山河は幸か不幸かロシア統治下で21世紀にも物理的に比較的未開発のままだ。もし戦後も日本領だったら、高度経済成長期やバブル期に今の天然山河は失われていただろう。北大山岳部的には、すぐ近くにある「システム外」の秘境山域を、どこまでも山スキーとイグルーで北上していきたいと思うのである。アイヌ、ニヴフ、ウィルタたちの伝説を読み返しその世界を空想しながら。
2019-10-14 22:33
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北大寮歌祭(東京・蒲...
2019年10月14日(月・祝)に、東京・蒲田の大田区産業プラザで開催された北大寮歌祭に、AACHから9名が参加し、山岳部部歌「山の四季」を披露しました。
左から、中村(1979)、土田(1973)、清野(1979)、竹田(1968)、清原(1986)、 石村(1953)、山森(1986)、大村(1965)、山森娘(小6) 今年はAACHで1テーブルを専有し、世代を超えて交流を深めました。
壇上では、山スキー部、ワンゲルをはじめ大勢の「山の四季」ファンの方々の 応援をもらいました。「山の四季」が幅広く愛されていることを実感しました。
来年は、「2020年9月27日(日)、於:大田区産業プラザ」の予定です。 皆様、ありがとうございました。来年もよろしくお願いします。
北大寮歌祭サイト
http://www.ryoukasai.org/
北大寮歌祭動画配信サイト
https://www.youtube.com/user/ryoukasai
スマホ用の寮歌集アプリ
http://www.ep.sci.hokudai.ac.jp/~mkuriki/phone/ryoka/list_ryoka.html
山森聡(1986入部)
2019-9-28 15:38
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【読書備忘】アート・...
1980年代から1990年代にかけて8000m級を含む高所の困難なルートに、創造的なルートを見出し、事故もなく、数々の「芸術的」とも言えるラインの登攀を成功させて生き延びたヴォイテク・クルティカの評伝の和訳が8月に出版されて、かみしめながら、こってりと読書した。
表題がart of climbing でも freedom of climbing でもなくart of freedomというので、意味を考えながら読み続けた。読み終えるころ、納得する。山登りの喜びの芯の部分は、「自由」にある。
「自由」こそ、私自身が少年期から山に求めて飽きずに登ってきた山登りの魅力の本質の部分だと思っている。free。道具を持たず、社会システムの保護と制限から逃れて行ける所、それが「山」のはずだ。描くそのラインは、既存のものでも制限下のものでもなく、そして何より美しくなければならない。ガッシャブルムI,II峰縦走、ガッシャブルムIV峰西壁。今でもその美しさを後追いできない。
1947年生まれ。40歳前後のヒマラヤ高所で活躍の時代は、私の山登りを始めた時期であったのだが、同時代ではやはりメスナーとククチカの記憶はあったけれど、クルティカの憶えは無かった。その理由は、本書を読んでわかった。ククチカとクルティカ。名前が似ていて同時代の対照的なふたり。クルティカの軌跡は、当時のメスナーとククチカの「8000m争い」の時代に、惑わされず、始めから最後まで一本芯が通っていた。
「8000m峰全山完登という王冠」を懸けて「クライミングという高貴な芸術を、価値のない見世物に貶めた」。クライミングが持つ「ロマンチックで形而上的、そして美的な価値観を」無視し、「アルピニズムを序列化という罠に陥らせ」た。ということばに、クルティカの考えは集約される(330頁)。おそらくそれとつながる理由で、クルティカは何度もピオレドールの受賞を丁重に辞退し続けた。世から賞嘆を受け、自分がそれにふさわしいものと思い込んでしまう可能性を恐れたために。その丁寧に固辞する文面に、彼の誠実さがにじみ出ている。
読書途中で見た、ジミー・チン監督のドキュメンタリ映画「フリー・ソロ」のアレクス・オノルドの慎重で控えめな人格が何故かかぶってしまう。こちらも「フリー=道具なしあるいは自由」が主題。エルキャプの4時間フリーソロは快挙だけれども、同時に読んでいたクルティカのガッシャ4峰西壁は、誰にも映像化できまい。サードマンまで現れる限界の生還。どちらも「自由の芸術」にふさわしい行いだと思う。
ポーランドにはなぜ、あの頃突出したヒマラヤクライマーが続出したのか?これは個人的に長い間の疑問だった。70-80年代の社会主義体制に理由があったのかな?チェコスロバキアやハンガリーにだってタトラほどの山はある(と思う)。この疑問は何度か本書でも述べられる。この本を読んで少しわかったのは、クルティカの脱法精神が不条理な社会主義体制に育まれた面だ。「違法であることは創造的人生の一部なのです」「制約はほとんどが世界の悪者によって押しつけられ、私達を奴隷化します。これは自由の感覚を台無しにします。」(332頁)ディストピアや他国による長い圧政の歴史が芸術を生み出す、これは映画や文学でも多くあり「東欧産」には僕は心惹かれる物が多い。
クルティカの独白部分の一人称訳が、「です・ます」調であることに、はじめ小さな違和感として気にとまった。外国人の翻訳セリフや字幕は必要以上にフレンドリーというか、ときに馴れ馴れしいほど軽率な言葉遣いになりがちだ。これは日本メディアの悪習だと思うけれど。特にスポーツ選手や元気のいいキャラの場合は間違いなし。読み進めればすぐに分かるが、クルティカの言葉は思慮深く、難解とも言える言葉遣いだが、考えつくされて選ばれて出された言葉なのだろう。おそらく日本語ではこの丁寧な言葉遣いの訳がふさわしい人柄なのだと思う。それがわかるのが、意見の違いで別れていくパートナーたちに対する慈愛に満ちた言葉の数々だ。「アルパインスタイルの登攀には、とても深い倫理的理由があります。私は自分が大切に思う人としか行きません」(269頁)。
マッキンタイアと聴いたマリアンヌ・フェイスフルの歌(Broken Englishかな?)、トランゴで落っこちた後、ロレタンが聴かせてくれたダイア・ストレイツの歌(たぶん「Brothers In Arms」)。聴いてみると当時に時代を引っ張り戻してくれる。ポーランド人の名前や地名の発音しづらさが面白くてポーランド語初級教本やポーランドの地図と略史なども読みながら読み進めた。ポーランド、行ってみたくなってきました。
英語版で買って読んでいたクルティカファンもいるけれど、日本語でなければ私は読めなかったでしょう。理屈っぽくて言葉を選びに選ぶクルティカの独白を日本語にしてくれた翻訳者、恩田さんにも大いに感謝です。
2019-9-27 22:50
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51年前のザック・氷河...
51年前のザック・氷河で発見(小林年さんのザック)北海道新聞9月26日夕刊より
2019-9-14 21:05
山岳館
第13回世界の山々にナキウサギを訪ねる
2019-8-27 20:27
山岳館
北大山岳館
2019-5-21 14:11
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北海道流探検登山熟成3...
17日、1987年探検部入部の澤田実氏が、カムチャツカのカーメンの大岩壁の登攀山行中に事故死したと連絡があった。氏が高田馬場のカモシカスポーツにいた時、ライペンの褪せ柿色ザックと、伸縮性のカッパズボンを冬用に買った。今も継ぎ接ぎしながら履いている。そろそろ捨てようかと思っていたけど捨てられなくなってしまった。昨年3月、遠見尾根でイグルー作っていた時会ったのが最後。ニコニコしていた。
2年前、氏の著書の書評を編集部から依頼されて書いた原稿を以下に転載します。
山と溪谷 2017年2月号 書評記事より
北海道流探検登山熟成30年の技術論
北海道大学探検部の現役学生が北海道最大の鍾乳洞を発見し、彼らを取材したことがあった。函館で仕事をしていた10年ほど前だ。神秘的な深い穴の奥でその学生にきけば、「世界中の誰も来たことのない場所を僕らが見つけて、むふふという気分です」と答えた。誰も行かないところに行きたい。探検部員の真髄の言葉だったと思う。
著者澤田実氏は北大探検部、私は北大山岳部で、数年の違いで共に北海道の探検的山登りの洗礼を受けた。北海道の山は伝統的に未開であり、山岳部も探検部も共に探検的思想無くしては登れない。北大は、「遠くに行きたい、大自然に飛び込みたい」と考える若者が集まる所なので、活発な山系クラブがいくつも共存し栄えている。これは昔も今も変わらない。
実は私自身がつい三ヶ月前に、北大で育った登山経験を核に「冒険登山のすすめ」という本を出していて、今回澤田氏の本を読み、「・・・これはモロかぶりだ」と思った。山岳ガイドである氏が、初級者と登って気がついた沢や雪山の経験的な登山技術を書いていながら、雪洞(私の場合はイグルー)、焚火、地図読み、山スキーと排便問題にただならぬ力点を置いた特異な登山論が両者全く同じだった。なんだか自分の本の書評を自分で書いているような奇妙な状況である。しかし当然ながら、モロかぶりだからこそお勧めする。この本を読んでほしい。
澤田氏と私とは学生時代はほぼ入れ違いで、共通の友人は多くいるけれど長く話した事はない。示し合わせたわけでもないのに、同じ時期に刊行された必然について考えた。
今は登山ブームと言われるが、20代で山を初める人は多くはない。学生登山家として山を始める強みは、経験豊富なガイドではなく、数年しか違わない先輩と失敗しながら手作りで鍛える初期経験である。歴史あるクラブの経験智を引き継ぐおかげで、なんとかギリギリ死なずに、恵まれた時間と体力で長期山行をして、初めて得られる登山力である。我々の頃にはそれが当たり前だったけれど、今その環境はほとんどないと言っていい。90年代、中高年登山ブームとは裏腹に若者が山離れし、北大以外の大学山岳部は全国的に数を減らし衰退した。今再び若者が山に戻りつつあるが、どこも先輩が積み上げた経験智は途切れ、ゼロから積み直している所が多い。先輩がいなければガイドから教わる他はない。そんなに確か過ぎて責任を取ってくれる人から教われば、先輩から教わったような手探りでほどほどの失敗感がない。これは学生に限らずとも現代登山初心者の弱みではないだろうか。今はプロと初級アマに二極化し、中間の中上級アマ層がとても少ない。ヒマラヤ登山を見れば明らかだ。プロがアマを連れて行くガイド山行は盛んだが、手作りのヒマラヤ遠征に行くような上級アマチュア登山隊の話を聞かなくなった。山の世界の本当の胆力はこの層の厚さが重要なのではないか。
澤田氏と私の世代は、学生登山家が知恵と手探りと若い情熱で繋いできた部活登山の、最後の世代なのかもしれない。あの頃日本にプロガイドはほとんど居らず師匠の外注はなかった。手作りで泥臭い北海道式探検山登りの若者が本州に来て感じたアウェイ感を 、30年ちかく熟成させた登山哲学が揃って著作になったのだ。今の時代こそ読んでほしい山登り法だと思う。
「サスガは探検部」のクマスプレー被爆体験は必読である。山岳スキー競技の世界は、新しい道具にではなく新しい発想を新鮮と感じた。岳人誌に2010年頃連載していたものがもとだが2014年の冬期黒部横断長期山行の経験なども盛り込まれ大幅に書き直している。
よねやま・さとる1964年松本市生まれ。北大山岳部、カメラマン。ヒマラヤ、パタゴニア等を山岳取材。著書「冒険登山のすすめ」。
2019-2-2 12:55
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関西支部 新年会
関西支部新年会
日時:2019年1月26(土)13:00−16:00
場所:京都三条木屋町 左近太郎
鴨川と高瀬川に挟まれたウナギの寝床の様な京家にて、昨年に引き続き新年会を催しました。
周辺には角倉了以邸跡や佐久間象山遭難之碑、大村益次郎、桂小五郎、山縣有朋の寓居跡や別荘跡の碑が建っていて、島津製作所資料館が創業当時の姿で残っています。
江戸から明治にかけての事物が雑多に混ざった街角で、平成最後の関西支部のイベントを行いました。
先ずは川道支部長のご発声で、皆さんのご健勝と再会を祝して乾杯。
続いて岸本さんから、酔っぱらう前に、「北大山の会-関西-変遷史」編集の提題がありました。
関西支部の発足は昭和37年チャムラン遠征の募金活動や、坂本直行さんの大阪での個展開催(昭和39年)に遡ります。これら事業の応援に関西在住OBが参集したことが支部発足の契機です。その発足当時の資料を収集、編纂して記録に残すべく活動について出席者の賛同いただきました。参加者の年齢を考えますと、今こそ資料を収集する時期と思います。発足当時の記録や写真をお持ちの方は岸本さんまで情報提供をお願いします。
さて、宴のメニューは京料理の小鉢に始まって、太刀魚や寒ブリの刺身、メインはテッサ、唐揚げ、てっちりとフグのフルコース。宮本幹事の計らいにより京の地酒の飲み放題。月桂冠の大吟醸をはじめとする一升瓶をテーブルに三本並べてセルフで徳利に分注するところは、札幌の北18条界隈の安酒場のスタイルと変わっていません。
皆さんの近況報告や、登頂を断念した三浦雄一郎氏の話などで盛会の中、時折激しく降る雪を格子戸の向うに眺めながら札幌の冬に想いを巡らせました。
実は、昨年の新年会当日も激しい降雪で、田中夫妻は福井から参加できませんでした。今年もか、と憂慮していましたが、無事参加いただきました。田中さんの奥様の着物姿が京都の古い屋敷のたたずまいに溶け込んでいました(奥様は踊りの名取だそうです)。
奥様は、帰りの地下鉄からJRの駅に向かう途中も、上機嫌な田中さんの右手を肩で受けながら仲良く寄り添って歩かれて行きました。
「さあ、帰って全豪オープン・テニスを見よう。」という神戸さんの潮時を告げるコール。
肩を組んでの「山の四季」に続いて、応援団出身の窪田さんによる前口上で明治45年寮歌「都ぞ弥生」を高唱して平成の宴はお開きとなりました。
楽しく懐かしい時はすぐに過ぎ去ってしまいました。また秋に観月の宴でお会いしましょう。
若手OBの参加をうながす努力・秘策を探し求めています。
参加者(敬称は僭越ながら略、数字は入部年19xx)
窪田58、相田 58、高橋 59、田中ご夫妻 、内藤 59、渡辺(尚) 59、神戸59、伏見 61、川道62、須田 62、岸本 65、宮本 82、岡島 83、多田86
文:岡島、写真:伏見、宮本
2018-11-25 10:43
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関西支部 月見の会
日時:2018年11月10日(土)16:00〜
場所:琵琶湖畔 はなれ山水 大コテージ
参加者(敬称略、数字は入部年19** ):相田 58、内藤59、高橋 59、田中(英) 59、伏見 61、川道62、須田 62、岸本 65、米澤64ご夫妻、小泉74(ゲスト)、宮本 82、岡島 83 計13名
今年の月見の会は、趣向を変え、琵琶湖畔の貸切りコテージで開催することとなった。また、小泉会長と、米澤ご夫妻に初めてご参加いただいた。
開宴後、小泉会長から近況報告。北大山岳館の図書受入れ、空沼小屋の状況、北大山の会組織の今後の見通し等に関する説明があった。遠く離れた札幌で、山の会の運営に尽力されている方々のご苦労を察する。続いて、米澤さんからのご挨拶。仕事の関係で、長年、海外生活を送り山の会の活動に参加できなかったため、今後、山の会の活動にも参加していきたいとのこと。
その後、日が暮れ、差し入れの鮒ずしや、焼肉、鍋もの等をつまみながら、いつものように話が盛り上がり夜は更けていく。
今年は11月8日が新月であり、月見は期待できなかったが、それでも、細い三日月が見えた。これから満月に向けて新しく誕生した月を眺めるのも悪くはないが、次回は満月に近い日程での開催を目指したい。
焚火がないのが寂しいのか、岡島君が松の枯葉を集めてきてバーベキューコンロに投入。すると、誰ともなく紙コップや、食材の運搬に使用した段ボールなどを燃やし始め、人の背丈ほどの焚火ができた。
本格的な焚火なしでは寒い時期であり、また、近くのコテージに宿泊している数組の若い家族連れなどにも遠慮して、山の四季を歌うこともなく宴会はお開きになった。この点は次回の月見の会に向けた反省点である。
その後、コテージに入っても、進化論の話や今後の山の会の運営に関する議論を深め、少し薄い布団で眠りについた。
翌日は、スカッ晴れ。遠くの山々まで見通せる中、各自、寒い寒いと言いながら淹れたてのコーヒーをすすり、コテージの前で立ち話をしたり、散歩をしたりと自由に過ごす。
その後、近くのパン屋の焼き立てパンやゆで卵などの簡単な朝食を食べながら各自近況報告。そして、別棟で宿泊していた米澤さんを加え集合写真。
解散後、小泉会長を含む有志三名は、午後のフライトで帰札する小泉会長のスケジュールに合わせ、比良山系の堂満岳を往復。また、他のメンバーは最寄りのマキノ駅まで湖畔を歩き、三々五々帰路に就いた。
余談ではあるが、火を見ると何でも燃やしたくなるルームの習性がひと騒動を引き起こす。コテージのチェックアウトの際、コテージの女性管理人に「燃えるゴミは持ち帰りしているか?」と聞かれ、燃えるゴミは、すべて燃やしたと回答。
管理人は「そんなはずはない。通常このような大勢の宿泊の場合、大量のゴミが発生するはずだ。小さなバーベキューコンロで燃やせるはずはない」と言う。いくら燃やしたと言っても信じてもらえず、「コテージを確認するから一緒に立ち会え」と言う。結局、管理人と一緒にコテージに戻ったが、コテージは整然と後片付けされており、(恐らく管理人が想像していたのであろう)ゴミだらけの状態ではなかった。そして「山登りの人達は何でも燃やすのね」と一言。「いえいえ、我々だけですよ」と説明しようとしたが、先を急ぐので、誤解を解くことなく車を走らせた。
(記:宮本、写真:伏見、小泉、米澤婦人、宮本)
2018-9-9 20:11
山岳館
第12回北海道の森林変遷史 −花粉化石から復元された15万年間−
2017-12-27 18:01
山岳館
蔵書目録
2017-12-2 9:30
山岳館
部報2号
2017-12-2 9:30
山岳館
部報1号
2017-12-2 9:27
山岳館
カール
2017-12-2 9:26
山岳館
山の会会報
2017-9-9 20:41
山岳館
第11回山と美術と音楽と
2017-7-3 14:46
記事
北海道新聞に式典の記事が掲載されました(2017年7月3日)
2017-6-9 13:52
山岳館
山水無尽蔵/小島烏水/1906
2017-1-29 17:43
コメント
Re: これまでの部報紹介・3号(1931)上/(米山悟1984年入部)
2016-12-17 19:42
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Re: ペテガリ冬季初登・72年前の今村さんのゲートル 米山悟(1984年入部)
2016-9-9 22:58
記事
空沼小屋改装仕上げ作業のご案内(2016年10月1~3日)
2016-7-28 22:47
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Re: 暮しの手帖96 特集戦争中の暮しの記録 1968 うちにありました
2016-7-4 13:41
コメント
Re: 医学部戦没同窓生追悼式のご案内
2016-6-17 9:54
コメント
Re: 道新に今村昌耕会員の記事
2016-6-12 11:16
記事
空沼小屋修復工事いよいよ開始(2016/6/12)
2016-2-26 19:14
記事
北大・空沼小屋 修復保存工事決定と募金のお知らせ(2016年2月掲載)
2015-12-22 23:49
コメント
Re: おくやみ・谷口けい 米山悟(1984年入部)やま
2014-5-17 19:51
スケジュール
山岳館開館日
2012-6-21 12:49
海外遠征
パミール・レーニン峰(7134m)登頂
2012-5-24 9:42
記事
ダウラギリとその時代
2011-12-8 22:40
記事
リンク
2011-6-30 17:09
海外遠征
北大ネパールヒマラヤ学術調査隊1969
2011-6-30 16:34
海外遠征
スダルシャン・パルバート
2011-6-30 16:33
海外遠征
81-82年パタゴニア
2011-6-30 12:47
海外遠征
海外遠征の記録
2011-6-30 12:29
海外遠征
96ロルワリン・タンナ・リ峰遠征
2011-6-30 12:26
海外遠征
ヒムルンヒマール(7126m)初登頂