ログイン   :: お問い合せ :: サイトマップ :: 新着情報 :: おしらせ :: 
 
 
メニュー
最新のエントリ
最近のコメント
  • 21年03月22日
    Re: 【中部日高】ナナシ沢1823m峰南面直登沢→コイボクシュシビチャリ川...北陵高校山岳部OB
  • 17年01月29日
    Re: これまでの部報紹介・3号(1931)上/(米山悟1984年入部)...佐々木惠彦
  • 16年12月17日
    Re: ペテガリ冬季初登・72年前の今村さんのゲートル  米山悟(1984年入部)...やまね
  • 16年07月28日
    Re: 暮しの手帖96 特集戦争中の暮しの記録 1968 うちにありました...米山
  • 16年07月28日
    Re: 暮しの手帖96 特集戦争中の暮しの記録 1968 うちにありました...さわがき
  • 16年07月04日
    Re: 医学部戦没同窓生追悼式のご案内...AACH
  • 16年06月17日
    Re: 道新に今村昌耕会員の記事...AACH
  • 15年12月22日
    Re: おくやみ・谷口けい 米山悟(1984年入部)やま...すぎやま もちやす
  • 14年12月09日
    Re: 【書評】アルピニズムと死 山野井泰史 2014.11(米山悟1984年入部)...まっちゃん
  • 14年10月25日
    Re: 【読書感想】七帝柔道記 米山悟(1984年入部)...米山

書評・出版・ 2026年4月30日 (木)



『雪線』―山に賭けた青春の群像ー
和田城志

大阪市立大学山岳部
大阪市立大学山岳会
2026年3月26日 発行

大阪市立大学山岳部の前身含めた部報22冊のダイジェストが届いた。

いまは大阪公立大学になった大阪市立大学は戦前大阪商科大学、更にその前身の大阪市立高等商業高校山岳部で1917年創立。その部報『雪線』の創刊号は1928年12月5日。戦前最後の18号(1942年12月25日)まではほぼ毎年発行。戦争期の空白を挟んで、戦後は19号が復活(1955年6月)、最後は22号(1965年10月10日)である。

大阪市大山岳部といえば1961年から1978年の初登成功まで数度の挑戦を続けたランタンリルンだ。第二次ランタンリルン遠征1964の報告を含む22号が最後。そのあとは、山岳部の活動を記録した部報は発行されなかった。その21冊(5号は欠損)の解題を和田城志氏が記したのが本書。和田氏とは、1969年〜1973年まで在籍し、1978年、念願のランタンリルン初登者となったうえに、その後生涯通じて雪劔、雪黒部横断、数次のナンガ・パルバットの敗退男にかけては世界一の和田城志である。

大阪市立大山岳部は、もう存続していないとのこと。残された貴重な部報の、読書家である和田氏によるダイジェスト、解題版である。

※以下「  」は和田氏文面からの引用

創刊号、第二号は部室の火事を免れた貴重なもの。それ以降はWEBの古書市で探したという。初期の部報は、積雪期登山なども行われず、「見るべき記録はない」とのことだが、当時の優秀な学生たちの洋書翻訳を含む研究や文芸、それに随想が目を引く。

同書では同時代の文献なども和田氏が引用し、時代背景の解説も充実している。特に1930年からはAAVK(関西学生山岳連盟)報告との合わせ読みで、京都帝大AACKや同志社、大阪醫大、神戸商大、甲南高校、三高の活動内容との比較がある。また1933年創刊の『ケルン』(関西のクライマーの月刊誌・藤木九三らによる)との合わせ読みの背景解説も読みどころだ。

第七號(1932)電源開発盛んな黒部川を案内人夫とともに平の渡しまで歩いている。冠松次郎探検同時代、電源開発工事同時代だ。

第十號(1935)から積雪期の山行記録が見られるようになる。薬師岳北西尾根を3月に登るなど「あまり知られないルート記録」あり。3月、岳沢から畳岩のコルへ上がって、ジャンダルムと奥穂高の、17時間ダブルアタックなど。

第十二號(1936) 3月−4月春山劔岳西面、現在は(雪崩のため)条例で入域を禁じられている池ノ谷周辺を夜間含め縦横に一気に敢行している「うらやましい記録」。

第十三號(1937) 対中戦争が始まった。初の海外遠征 夏の台湾北部、次高山(現在の雪山)遠征記録あり。

第十四號(1938) 加藤文太郎遭難の2年後の北鎌尾根3月記録「スマートさには欠けるが慶応や立教に先立つ素晴らしい記録」日中戦争の2年目、入営、戦地歓送の言及あり。ためらいの時局言及。

第十五號(1939)「最も輝かしい記録集」とある。延々25日間の積雪期黒部横断記録がある。「AAVK報告8號(1935 )の関西大記録に触発されたのだろう」とのこと。総勢13名、「ヒマラヤ遠征を思わせる布陣」。同時期の関西大の記録も引用して、その黒部横断記録に関する分析と考察を称えている。黒部横断歴世界一の和田氏ならではの分析だ。

第十六號(1940)白頭山の鴨緑江源流3月遠征記録。数年前のAACKの白頭山遠征の報告がメイン。1935AACK白頭山遠征の後追い的ではあるが、来たるヒマラヤ遠征のステップとして当時の海外遠征山行は国内の「外地」に限られたのか。国連を脱退し孤立した日本でなければという思いはあったろうか。周辺解説としては、1935京大のほか、1940年三高のユニークな白頭山遠征も言及あり。梅棹忠夫、藤田和夫、伴豊の20歳トリオ、のちの名高い研究者たちだ「白頭山の青春」。それに吉良竜夫、川喜田二郎も別に入山していたという。みなのちの京大学派だ。チンネ左稜線記録の森本はその後ランタンリルンの雪崩で死に、入江はインパールで死んだ。二度読み返すと愛おしい。

第十七號(1941)対米英蘭戦争が始まった。時局を受けた部長の緒言「錬成登山」という新語との葛藤。春の毛勝、猫又縦走。まだ未踏だった劔までの縦走を計画したが、ブナ倉沢までとなった。関西大と合同で17名。外国文献の翻訳と研究は、「中央アジア探検史要」「外國旗の下極地に活躍せる諾威船舶」「橇」など極地探検分野が充実している。


第十八號(1942)戦前最後の部報。「臺灣行」戦時体制の当局が何度も電報を送ってまで「中止を勧告したのに」登山を強行、遭難の誤報まで浴びて「次局柄益々自重せよ」と叱責を受けたが、無視して敢行した。大覇次高山縦走―霧社ー新高山ー八通關越ー玉理ー關山越ー高雄。「強者」だ。3月西穂から奥穂往復、滑落遭難ありきわどく生還。

第十九號(1955)戦争を挟んで13年ぶりの発行。これまでの記録で活躍した部員たちのほとんどが戦死していた。1936−1943年入部の12人がフィリピン、ラバウル、インパール、沖縄で戦死し、シベリア、北京、武漢で衰弱死していた。丁重な追悼文。山岳部技術の継承はほぼなされていないようだ。1955年の前穂北尾根で滑落に伴うナイロンザイル切断事件は社会的に話題になった。このとき落ちたが生還した大島はランタンリルンの雪崩で死んだ。AAVKの戦後復刊第一号(1957)の引用で阪大、京都工芸繊維大、京大、甲南大、神戸大、大阪市大と、各大学戦後復興の10年歩みも紹介している。京都工芸繊維大の、御嶽山冬季初縦走に目が止まる。

第二十號(1959)日本山岳会マナスル(1956)、京大のチョゴリザ(1958)を始め、戦後の復興で部員も増え、ヒマラヤ登山にむけ、意識が高まる。戦前1941年、途中までだったブナ倉沢から剣岳までの続きを果たす。

第二十一號(1962)日本で初のヒマラヤ死亡遭難のあったランタンリルン1次遠征1961の報告は別冊として出ている。「商大山岳部の黄金期が1938−1941とすると、市大山岳部の黄金期は1958−1962ということになろうか」部員数は最大で、複数の充実した積雪期参考記録があるとのこと。61年の遭難をものともせず伴明を中心に、滝谷、甲斐駒ー聖岳縦走、笠ヶ岳西尾根、北アで黒部横断を含む烏帽子隊、薬師隊など3パーティーの大縦走を行った。多発する遭難死とヒマラヤへの熱情。当時の空気をルーム日誌からの引用が伝えている。「第21号は全編伴の心情があふれた部報である。それはヒマラヤのみならず国内の山行にも表れている。彼は多分熱狂していたのだ。」と物語る。

第二十二號(1966)『雪線』の最終号。失敗に終わった第二次ランタンリルン報告1964も含む。西穂―奥穂、笠ヶ岳東面、小窓早月、明神―北穂、北鎌尾根縦走、烏帽子ー白馬など、唯一の女子部員岡内の屏風岩第一ルンゼ記録あり。

本誌にはこのほか、1961、1964、のランタンリルン、1972カンジロバ・ヒマール、1980ランタンリルン初登、1990四光峰の報告書のダイジェストと写真・図版がある。

大阪市立大山岳部はもう途絶えていて、OB会の山岳会は解散になるとのことで、まとめた100年近くの記録冊子だ。ダイジェストのダイジェストとしてこの場にまとめた。冊子の部数は多くは無さそうだが、ぜひ和田氏に連絡を取って、一読してもらいたい。

北大山岳部は今年創部1926年から100年で、秋までに出す記念誌をいま一生懸命書いている。日本の山岳部的山登りが始まって100年。若者たちの熱狂に時代周期というものがあるなら、どんなものなのだろうか。時間を越えて伝わる同じ熱狂は確かにある。そんな記録に出会うと、ひたすらに泣けてくる。

記事・消息・ 2026年2月26日 (木)

2日目は朝から晴れ!焼き鮭入りお茶漬けをかきこんで出発。前日のシュプールを使って白樺林を抜けタケノコ山の中腹を南にトラバース。



現役には、雪崩の危険(雪庇の崩落、全層雪崩のクラック、弱層の存在等)を現地アピールした。全員ビーコン携帯だが、危険予知や捜索訓練はこれからも課題。


白井岳東の1020mピーク下から滑降開始。昨日程良い降雪があったが雪は安定。かなりの傾斜をものともせずに滑るプロカメラマンのM。今回は滑りに(仕事を忘れて)徹し、映像提供はわずか



青空をバックに皆快適なシュプール。
ここからは股下山に向かってシールを張り直し登り返す.右は最長老のT、まだまだ健脚できれいなシュプールを作っていた



股下山を越えて、ここは3年前のNHKワールドで山岳部が取材を受けた時に出演披露したオープンバーン。
1年目の神奈川出身のS君、これだけ滑るのはたいしたもの、ストックでタイミング良くきっかけを作るとさらに上達


これまた北広島出身1年目のF君、ウェーデルンが決まっていた。道産子でも最近はスキーしない若者やボードに行ってしまうので、スキーを指導できる上級生になれる期待大


群馬の沼田からのSと後ろは宮城出身のT 毎回滑りでSが挑戦してくる。今回はザックを置いて滑りだしてTに運んでもらって負け


テレマークのY、今回は1本杖でなかったが相変わらず見事なスプレーをあげる豪快滑り



私もテレマーク、気持ち良かった。年寄りは2〜3回、現役は4〜5回滑っては登りを繰り返しパウダーを堪能。1枚バーンで降雪直後の少し重めの雪だったが安定していて雪崩れる感じはなかった



まだ未練顔の現役を引っぱって春香山小屋駐車場に下り、小屋の後片付けをして解散。
本州組とTら計5名はさらに1泊して翌日はワールドで行ったツゲ山934m。4日目、さらに3名は南富良野の社満謝タケノコ山を滑って白金温泉に泊し、5日目は快晴の旭岳の北西斜面を滑りたっぷりパウダーを味わって本州組は大満足。
今回は「学校」ではなく「山スキーの集い」として、年寄りと若者が交流しつつ雪山の楽しさを共有でき意義があった。5年間の「学校」のなかで、スノーシュー主体の山岳部現役は年寄りの技術・道具に接し、山スキーに対する考え方が多少とも変わり、スキー道具が更新され、貼り付けシールもOKという進化があった。新しい道具には新しい使いこなしの苦労と工夫が伴うが、それを含め山スキーを楽しんでくれることを願いたい。
現役からはスキー技術の指導含めたスキー学校を再開して欲しいとの要望もあった。昨年閉校したヘルヴェチア学校がそれなりの効果をもたらしたことを実感し大変うれしい。

記事・消息・ 2026年2月25日 (水)

52年も昔の1974年、1週間通しでヘルヴェチアスキー学校と称するスキー練習に参加した。それを復活しようと2021年2月に再開した同学校は5年続けた結果、当初の目標であった現役の山スキーへの関心の回復につき確実な前進があったとして昨年で閉校した。
一方、支援参加してくれたOBにも再び山スキーに目覚めた者が多く、シルバーヘルヴェチア学校と称しスキー山行と情報交換を活発化してきた。今回はこの開催に合わせ、現役も自主参加し年代を越えたスキー山行を楽しむことができた。

写真は2日目朝、小屋前での集合写真。以下は参加者から頂いた写真と動画の切り抜きを拝借


2/16、雪降りの中を現役4人、年寄り8人が小屋を出発、1時間ほどで白井岳北東の尾根末端934m(通称タケノコ山)の中腹に到着。この無立木のオープンバーンは50年以上も前からパイパンスロープと称し、秘密のスキー練習場であった。
現在バックカントリーブームのなか、平日でも札幌国際スキー場下の駐車場から外人含めた多くのパーティがやってくるようになり、ここも穴場ではなくなった。でも斜面を選べばバージンスノーを滑れる

雪がひどくなり視界は50m程だがシルバーは4回、元気な現役は6回登っては滑る。最新の兼用靴とツアービンディングが初体験の女子Wさんは、最初こけていたが、後半には深雪の中で谷回りもできるようになっていた。当人いわく「道具でこんなにも変わる!ことを実感した」


他の現役男子3名は幅広板+兼用靴を使いこなし、なかなかの腕前で深雪をウェーデルンぽく滑ってくる。「こんなに楽しく滑ったのは初めて」と、現役でこれだけ滑れるのは驚き、写真は主任幹事のI君、3年目になってスピードある堂々の滑りに上達



こちらは群馬からの刺客S、スピードあるウェーデルン



東京支部のまとめ役Fも果敢に攻める



雪が濃くて早めに切り上げる。屋根の雪は先月泊った後輩のHらが落としてくれたのもあり、いつもの1/3位。調理以外の者があっという間に下ろした。外の水場も雪を掘ったら水が流れて快調



料理も年寄りが腕をふるい、肉たっぷりの豚汁や炊き込み御飯やサラダ、おつまみと現役も感激。腹が満たされてからは自己アピール、山行やスキーの情報交換。氷壁登りの師匠Sは現役にピッケルの刃先の研ぎ講習、その後の層雲峡で早速役立ったそう。年寄りの説教はそこそこに現役と関西支部寄贈の歌集を開き、夜更けまでたっぷり歌った

書評・出版・ 2026年2月25日 (水)



世界で最も気になる女、山野井妙子の評伝。妙子は1956年生まれで、私の8年上だ。山岳部では清野さんと同年ということになる。生い立ちはもちろん、80年代〜90年代の若い頃から、2000年代以降の山野井泰史とともに高峰クライミングに登る歴史がまとめられている。同時代で生きてきた、折々の記憶が、この本で整理された。

80年代の奔放な若い頃の話がいい。自由で同じ夢を持つ仲間とのシャモニーの雰囲気、ヨーロッパからヒッチハイクで帰る自由な懐かしい時代だ。クライミングが好きだという柱からブレないところがこの人の個性なのだとわかるが、それは元にもあったけれど、時間を経て確かになっていったのだと思う。

原真の高山研究所にもいた。若い時、確かなことはわからないときは招かれたところにも行ってみる、そうしたことがなにかの作用になっていくけれど、本人を含めて、あとになってみなければ誰にもわからない。エリザベスさんとケーキを食べに行って体重を減らさなかった話がとても面白かった。

夫、山野井泰史氏と、眼の前でお互いに何度死にかけているんだ。相手が死んでいないとわかれば淡々とやるべきことをこなして生還への段取りに入る二人。戦国最強のカップル、木曽義仲と巴御前を思い起こす。ともに登るクライマーたちは妙子に誘われればみな喜んで二つ返事で加わる。

ぼくは、この二人に関しては、いつ死んでも悲しまないと思う。人生を自分の舵を切って進んできたのだということをずっと昔からよく知っているから。死そのものを越えていると思っている。死ぬ時自体に意味はなくて、それまでの生を、いつもいつも生きているかが人生なんだ。人生とは何かを、山を通して僕なりに考え続けてきたひとつの完成形が、この二人だ。

彼女の魅力はクライミング以外の世界にも満ちている。器用な倹約家、というけれど、僕のじいちゃんはまさにそういう人であり、以前の日本ではよくあった価値観だと思う。そんななつかしい価値観も、彼女の魅力の一端だ。

妙子氏は自分で本を書くような人では無さそうだし、たぶん詳しく憶えてない、と言われてしまうであろう大昔の話のインタビューを隅々までまとめ、記録や記事を辿り、評伝をまとめてくれた著者にとても感謝したい。表紙絵もタイトルもすごくいい。

書評・出版・ 2026年1月4日 (日)


探検家かつ書き手として20代から一貫して歩んできたその振り返りが面白い。一回り後の世代ながら、ずっと著作を追ってきたので。

体力のピークと、経験値がほどよく合致したのが43歳と論じる。43という数字は植村直己はじめビッグネームの享年が重なっているから。「死の余白」をもとめて再び出かけ死んでしまう。

我が身を振り返ってみても、人生のある種の頂点はたしかに気がついたら過ぎていた。下りに入ると見える景色の違いでわかる、それも確かだ。平ガ岳のたとえはふさわしいな。そして下り道のほうが尾根が分岐して間違えやすく遭難しやすいのだが。

43歳にこだわるのは、パフォーマンスギリギリを狙う角幡氏クラスならではの切迫感だろう。一般的には生涯をかけての、体力と知力を総動員した最高傑作を意識している人は多くはない。執筆中にK2西壁で45歳で死んだ平出和也の話も。彼にしか到達できない「自分の山」が見えたのだった。

三島由紀夫、植村直己の氏の間際のインタビューなども拾っている。開高健の50代のオーパは、以前から謎だったのだがそういうことですか。荒地を目指す若い頃から土地への一体感に変わる流れとして紹介している。

最終章はたのしそうな50代である。なってみなければわからなかった自分だけの集めてきた経験に裏打ちされた新しい道がある。それは私も同感だ。エキサイティングな探検活動ではなく、土地に根ざした一体感を手繰る山だ。これは人それぞれ違う。

「角ちゃん」の場合は北極圏広域横断と、北海道で犬ぞり狩猟という前人未到の道だ。あるときからは、もう精一杯やったんで、いつどこで死んでもいいやって思うのは僕も同じだ。

きょうはたまたま現役チームが東大雪で疲労凍死寸前のピンチから生還した報告を読んだ。「まだ何者でもない20代」だからこそがむしゃらに登って体験するうらやましい体験だ。積むべきことを積んで、いつか糧になっていくんだ。


風邪の床で読んだはいいが、全然まとまってないので、またかきなおすかも。

書評・出版・ 2025年12月25日 (木)


もはや日本初のK2女性登頂者というより、戦国シリアのフォトグラファーという存在になった小松由佳氏。学生時代の登山活動からラクダ遊牧で暮らす大家族ベドウィン族取材に転じて、内戦前の平和だったシリアを知り、ベドウィン家族の一員になり、2012年以降家族は難民生活を13年、昨年12月8日のアサド政権滅亡で難民の夫ともに念願の帰郷をするノンフィクション。

小松さんの人生そのものが充分破天荒ストーリーなのであるけれど未来にどうなるのかは本人含めて誰にも予測できなかった。そして何かを期待して、何かを目指して進んできたというより、20代に関わった、ある魅力ある人々との関係を、とことんやめなかったのだ。やり抜く力を持った人なのだと思う。私は、K2の氷壁も、砂漠のラクダ使いたちとの暮らしも、同じようにそこにともにいる人々の魅力なのだと思う。小松さんを推し動かしてきたのは、周りの魅力ある人々なのだと思った。そして、人生の舵だけは人に渡さず、子供も背負って嵐の波間を進んで来た。

前書2020年「人間の土地」のあと、2022年の圧政下、かつて家族がいたパルミラの、家族の廃墟の写真を撮るために入国。秘密警察に妨害されながらの取材がこの本の山場かと本人も思ったかもしれないが、現実は世界情勢の影響で大きく変わり、その2年後、政権崩壊の10日ほど後に再びパルミラを訪ねた。行方不明の兄が獄死したサイドナヤ刑務所の生々しい廃墟のルポと生存者のインタビュー、旧体制下を生きてきた人と難民帰還者との関係など、1989年東ドイツ、1976年文化大革命終焉、それに1945日本とドイツその占領地にもあった、混乱と希望の混在するカオス。最後まで読ませる、メタファーに満ち巧みなレトリックあり、スジの通った文章だった。しんどい経験だけど、見て伝える人がいてほしい。同時代なんだ。

人は20代でその後の人生に影響の強い人間関係を築き、30代で仕事を一人前に身に着け40代でマスターピースを作る。その後も優れた傑作は生まれ続けるけど、小松由佳43歳、良い人生を歩んでいるな、と思う。二人の息子の未来も楽しみだ。



【以前の書評】
オリーブの丘へ続くシリアの小道で
https://aach.ees.0g0.jp/xc/modules/AACHBlog/details.php?bid=745&cid=7
人間の土地へ 
https://aach.ees.0g0.jp/xc/modules/AACHBlog/details.php?bid=779&cid=7

記事・消息・ 2025年11月21日 (金)

およそ一年前の年末年始、戸隠で遭難死した正木喜啓さんの追悼、山行記録集を読んだ。正木さんの山行人生は「記録帳」と書いた2冊のキャンパスノート(2009−14と2022−24)とその間(2015−2022)のブログ記事に残っていた。

大阪生まれ1986年2005年信州大学士山岳会(山岳部)で単独長期縦走を始め、20代30代で南ア・笊ヶ岳〜北岳〜光岳の馬蹄形縦走、糸魚川〜黒部五郎岳、前穂北尾根〜立山など、冬季黒部横断も繰り返し、3度成功している。

長野県の教員採用試験を受け続け、2019年から高校教員として松本へ。2023年たぶん日本一山に登っている高校山岳部のある大町岳陽高校の山岳部副顧問に。

その同僚で顧問、おなじく大阪から信州の山登りに惹かれて来ている河竹康之氏が、遭難初動捜索連絡に携わり本誌の編集を務めた。

登山愛好家は数あれど、冬季黒部横断や一ヶ月クラスの重厚長大単独冬季縦走を長年にわたり志向する人は、割合としてはほぼいない。何人か名前が浮かぶ人は(和田さん以外は)ほぼ故人だ。生きている間にブログやツイッターで華々しく記録を出す人も多くない。でも、その記録を読めば、生きていようが故人であろうが、同じあこがれを持っていたことがわかる。



正木さんの記録は、携帯ノートに手書きだから簡潔だ。ルートと天候で追い詰められた言葉のほかは、お決まりの朝寝坊と、甘い物をとっておきで食べた話。文面からは読者を意識している様子が見られない。本にして読んでもらおうと書いたわけではなさそうだけれど、希少なる同好の輩にとっては本にしてもらって感謝だ。

正木さんが初めて冬季単独長期縦走をした2007年大学3年目のとき、信大山岳部は部員一人だったという。一人だからこの志向になったというとわけでもなく、やる人は、一人でも何人でもやるものだ。ずっと部員が多い印象の信大でも、一人部員の時期があったのを知った。

20代、30代で自分の志向の山行を苦しみながらも着々と続けてきて、大阪で9年の自宅ぐらしのあと信州の高校教員にようやく採用され赴任した。教え子たちの追悼文からは正木さんが高校教員として充実した暮らしをしていたことがうかがえる。

登山愛好家人生にとって40歳前後は曲がり角だ。若いときは体力はあるが危なっかしい。経験を積むと、多少馬力が落ちても若い者以上の高レベル山行が可能だ。その両方の変わり目がこの年頃に来るのではないか。山に限らず人生も。そして遭難死するのもこの年頃は多いという印象だ。登山そのものと同じく、人生も下り道が危ない。

下山連絡係を受けた河竹氏による、時間軸に沿った遭難捜索事故報告記録が非常にわかりやすく、今どき最新のココヘリと警察連携の、知りたい情報がある。最終下山日まで警察に連絡するのを待った焦燥の気持ちはいかばかりか。自力下山にこだわった本人を知ればこその敬意だと思う。私にも、自力下山しても遭難扱いになった不名誉な経験がある。

正木さんは大町に転居してからは近くの頸城山塊、戸隠山塊に惹かれたようだ。一夜山から戸隠連山へ、最後になったこの計画のラインの美しさに、少し嫉妬を感じた。僕も昨冬は、この戸隠の隣の東山山脈を完全縦走しようと何度かトライした。雪庇と細いヤブ急斜面を遠望して、かなわないと思い引き返した。正木さんのラインはエグくて長いので、今の僕には単独でいく算段が立たない。でも似ている山行計画趣味を感じた。遠いヒマラヤにいくわけでもない、ワンデイでスピード長距離を狙うでもない、重い荷物で低速で、住処のまちの近くの、誰も試みない美しい山脈の全山縦走。

人がなんとみなそうが、正木さんは幸福なときを過ごしていた。雪庇を踏み抜いて落ちるときさえもそうだったと思う。



本人のブログ(2015-2022のみ)
https://solomountain.naganoblog.jp/

書評・出版・ 2025年5月5日 (月)

北海道大学山岳部OB、京都大学学士山岳会会員ほか、また南極越冬隊経験者らによる、2015年のチベット西端・アリへの自動車旅行の紀行。ラサから西へ往路はヤルツァンポ川沿いに、西端の拠点都市アリから東への復路はチャンタン高原の南縁をたどり、ラサへ戻るという総行程約3,500kmの往復およそ2週間の旅が記録されている。

メンバーは1960〜70年代に学生生活を送り、ヒマラヤやチベットに強い思い入れを持つ60〜70歳代の世代(2015年当時)。1960〜70年代のチベットは文化大革命で完全に立入禁止で、ヒマラヤは南側だけからだった。チベットは1980年代改革開放以降、外国人旅行者(特に日本登山隊)に対して徐々に開放されてきたが、その後尖閣諸島以降は日中間の冷え込みムードや北京政権の方針(チベット問題)により、再び閉鎖的な空気に包まれるようになった。だが、2015年当時は、制限がありながらもこれほどの広範な旅行が可能だった。変わりゆくチベットの貴重な「西域ルポ」と言える内容だ。

筆者(米山)は1991年と1996年に東チベットのナムチャバルワとチョモラーリ登山で訪れており、当時との比較の視点から本書を読んだ。2000年以降、中国政府はチベットの開発を加速させ、高速鉄道や自動車道路の整備を進めてきた。この結果2015年にはラサから西端のアリまで、自動車で7日間あれば到達できるようになっていた。1日あたり100〜500kmの走行が可能な道路網が整っていたということだ。スヴェン・ヘディンの時代なら半年かかっただろうとある。


また、漢族住民の流入が進み、北京や上海からの観光客が非常に多く訪れるようになっていたという印象とのこと。チベット高原の道路整備について、専門家である住吉氏が詳細に記述している記事が興味深い。

また、19世紀以降の英露日瑞のチベット探検史のダイジェストもよく整理されている。1980年のチョモランマ三国合同登山に参加した貫田氏や、1963年の北大ナラカンカール越境事件に関わった渡辺氏が、それぞれ当時の体験と事情を自ら触れている。

後半には、地質学や雪氷学を専門とする渡辺氏、在田氏によるチベット地質構造の概説が掲載されている。チベット高原がゴンドワナ大陸由来の三つの地質ブロックとその縫合帯によって形成されていること、ポタラ宮は三畳紀の石灰岩層にできたカルスト地形の上に建っていること、インダス川ーヤルツァンポ川の断層には、ユーラシア帯の下に沈み込むテーチス海の海洋プレートが突き進んだことで形成された貫入閃緑岩や花崗岩層が見られること、カイラス山の地質構造など、よくまとめられている。荒涼たる景観の自動車旅行とはいえ、こうした地質的読解力を持った眼があれば風景が意味を持つ。こうした研究者たちが長年取り組んだ研究のフィールドをようやくこの眼で見る旅なのだ。

刊行は旅から10年後の2025年だが、近年では珍しいチベット旅行記だ。ただし、10年のタイムラグがあるため、記述が2015年時点の情報なのか、2025年時点の視点を含んでいるのか判別しづらい点は残念だ。なにしろ、この間の中国およびチベットの変化のスピードは極めて速く、まして自分が知っている1990年代の状況とは、今やまったく異なるはずだ。

2024年のあとがきによれば、この旅行の翌年2016年以降、チベットは外国人に閉ざされたとある。久ぶりにして、当分出てこないであろうチベット旅行記となりそうだ。

いつの日か、チベットを自由に旅行したい。生きている間に叶うかはわからない。

編著:北大山の会チベット調査隊
発行 いりす(同時代社)
2025年2月刊
3500円

書評・出版・ 2025年5月3日 (土)



単館上映のドキュメンタリ映画ながら異例のヒットの映画公式ガイド本。映画もいいけどガイドブックもいい。
信州諏訪の信仰世界は諏訪大社以前の縄文時代由来ののミシャグジ神をベースにさまざまな信仰が重なる。映画は諏訪に残るさまざまな神事のドキュメンタリに加えて中世に行われたミシャグジ神事の再現シーンという冒険に出た。その背景、研究者たちの解説、それに1976年以来諏訪の信仰世界に関わってきたビジュアルフォークロアの北川皆雄氏と監督・弘理子氏の寄稿をはじめ、映画の持つ最大の魅力、「謎」の側面を読むことができる。

遠山郷の霜月祭、奥三河の花祭を、かつてオールナイトで取材したことがある。湯釜の周りで、次々と面を付け替えて、もはや今となっては意味を知らない神楽を次々に舞うまつり。同じ天竜川水系の流れを組む系譜ではないかという指摘があり、納得した。今回の中世神事の再現シーンを見て。

カメラマンは北大山の会の毛利立夫会員(1976年入部)。作品中最も私が惹かれたのは山の中を駆ける野生の鹿のギャロップ、長い長い疾走シーンだった。山は鹿だらけとはいえ、あれだけの尺の野生鹿の疾走を撮影するのは困難だと思った。

今年はこの映画を見た影響で、諏訪大社上社本宮から守矢山〜辰野への山越え、それに入笠山から釜無山へのスキーロングアタック、鉢伏山から三峰山〜和田峠〜下社へのスキー山行を連発した。尖石の縄文博物館にも。

諏訪の神さまが気になるの!

(概要 寄稿)
中沢新一、藤森照信、夢枕獏、守矢早苗、松井優征、弘理子、北村皆雄、北條勝貴、いとうせいこう、能登麻美子、原摩利彦、大小島真木、中西レモン、吉松章、塩原良、山本ひろ子、宮嶋隆輔の寄稿。鵜飼幸雄、石森三千穂、田中基、北村皆雄による座談会


https://shikanokuni.vfo.co.jp/

https://www.amazon.co.jp/dp/B0DTHBL2R6

書評・出版・ 2025年4月24日 (木)

久しぶりの、日高山脈本が出版された。
1970年代〜80年代には日高山脈の航空撮影を含む大型写真集があった。冬期縦走の地形研究のため、大真面目にその写真を毎日見ていた。もとより登山道のない特殊山域だから、参考になる記録としては部室にあった手書きでヨレヨレの山行記録か、活字で読みやすいのは部報だけだった。

久しく経った今も、日高の最深部はまだまだ当時と変わらず無垢であるのが嬉しい。頓挫した日高横断道路計画の経緯も記されている。

実のところ、登山愛好者でさえおいそれとは行けない日高の奥に、多くが求めるようなガイド本はつくれない。今回のように日高を扱う総合的な本が出版されるチャンスなど、ずっと無かったのではないだろうか。

そんな本に寄稿する僥倖をいただいた。

日高の物語として、いつでも読み返したい北大山岳部の黎明期の先人(須藤宣之助、伊藤秀五郎、相川修)たちの紀行文紹介、コイカク沢と十ノ沢の遭難、画家・坂本直行氏の足跡などをグラフィック豊かに辿る。

深い深い日高の、冬と夏の魅力を(小泉章夫、米山悟、松原憲彦)が書いた。美しい写真を沢山提供してくれた若手OBたちの21世紀の超人的冬期長距離縦走山行について、それから今では北大山岳部の得意技に育ったイグルーの生い立ちについても詳しく書いた。


1990年に卒業論文と同時に編集作業に没頭した北大山岳部部報13号の折込特大付録で、日高山脈の鳥瞰図を手描きで描いたものを、今回再掲載していただいた。35年も経って彩色されよみがえった力作を見ていると、一つ一つの線の上を歩いた時間を愛おしく思い出す。

地質、地形、アポイの植物の記事も、写真と図版の豊かな編集だ。南日高の2つの山岳古道についても興味深くまとめられている。「日高山脈と人」をテーマに多面的なテーマを盛り込んだ本だ。

表紙写真と巻頭には、山スキー部OBの伊藤健次さんの撮りたてホヤホヤ写真。雪渓のカールボーデンをトコトコ歩くクマが見えるだろうか。

大きくて、重くなくて、手触りの良い本。
書店のほか、アマゾンでも購入可能になるとのこと。発売日は4月27日。


共同文化社
2025年5月15日 初版 
編著者 黒川伸一
2700+税

 
 
Copyright © 1996-2026 Academic Alpine Club of Hokkaido