山の会裏ばなしー(36)
三度の一度の佐渡島
北大山の会東京支部・木村俊郎(1950年入部)
昭和四十六年秋、小生は日本山岳会の会報で五百沢智也氏のヒマラヤトレッキング計画を知り、正月休暇を利用して、小型機をチャーターした数時間のフライトでヒマラヤ山脈のほぼ全域のフライトに同行する機会を得た。団体割引の航空券は半額という利点で利用したトレッキングの皮切りだったと思う。コンディー峰の肩まで登り、ナムチェバザールからの帰途ヒラリー卿と遭遇出来たのは偶然だった。
二月上旬には志賀高原でのスキーの会が恒例化していたが小生は少々クタビてスッポカしてしまったが翌年の志賀高原には既に述べた先輩の他、大和正次、中川一郎、福島健矢、江幡三郎、小平俊平など山口健児先輩に続く錚々たる古老連が集まった。昭和六年入学の中川一郎先輩にいたっては現役時代に大枚五円で買ったというスキー靴で現れ、フットフェルトのビンディングでテレマークを披露。テレマークといっても、膝をバッケンの前について屈み両手をヤッコ凧のように広げて曲がる大袈裟なものだった。この頃のスキー場では女性も混じったスキー教室も華やかになっていてゲレンデにはインストラクターを囲んで練習する一団がいた。中川先輩は大胆にも彼らの目を滑り降りた。ど肝をぬかれたインストラクターは、その華麗で珍妙な「曲げ」を指して生徒達に
「あれがテレマークです」
と叫ぶ一幕などがあった。
二日目は快晴に恵まれて横手山まで出掛けた。頂上に着くと桜井先輩が彼方を指して
「今日は佐渡島が見える」
と言われた。
これを聞いた「山ケン」先輩がすかさず
「おーい、佐渡島だ。三度に一度しか見れないそーだぞ。よく見とけよ」と・・・・、
当の桜井さんは、むきになって
「いや、三度に一度だと。十回やそこらじゃー見られやしないよ」と、
こんな冗談は、周りの人にすぐ分かるもので「山ケン」さんにいつもやられている連中が
「三度の一度のサンドガ島か」と・・・・。
クスクス、ニヤニヤと笑い出し、ご本人も気が付いて大笑いになった次第。
なお、このスキーの会の幹事役、言うなれば「山の会の小使いさん」で、明治生まれの長老達が行きたいという山を調べて通知状を作って配っていた役目は昭和五十七年に小生が海外勤務の内示を受けたので小枝一夫君が様式を変えて引き継ぎ、さらに四十二年入部のH君に移り会場を各地に広げ、様相も一新して現在に至っている。
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山の会裏ばなしー(37)
ドイツ語と英語の応酬
北大山の会東京支部・木村俊郎(1950年入部)
昭和四十七年頃にはヒマラヤの未踏の高峰はもう殆ど登り尽くされていた。山岳部はマッキンレイなどで新しい登り方をしていた他、数年後に迫った山岳部創立五十周年記念行事の議論に湧いていた。東京ではそんも活気の影響か恒例のスキーの会や夏山に集まる人数も増えていた。東京の会での集まりを振り返ってみると、この会では北大出身ではなくても山に登る気がある人の参加を拒まなかった。その最たる者は藤井運平さんで彼は明大山岳部のOBだったが自分のOB会には殆ど出席せず当方の会合には皆勤の常連だった。
またある時は山岳部に在籍したことはなかったが北大林学卒の藍野祐久さんが顔を出したことがあった。山岳部創立に貢献した古老に声をかけたことが元で参加するようになったのだが長老とは同年代の年齢だったが活発な方で、志賀高原でのスキーではパラレルで滑り、体は柔軟。新雪の山スキーには手こずっていたがゲレンデでのしなやかな膝の使い方は若者顔負け。
ところでこの頃小生は八丈島で小さなバンガローを手に入れていた。東京に近くて有史以来氷が張った記録がない所。洋らnの無加温栽培に挑戦しょうと思ってのことだった。
前述の藍野先輩とは何処かの山で洋らnの話しから八丈島の話になり、友人と行ってみたと言われ、宿泊などの手配をしてあげた。
暫くして電話で
「お礼までに大原の家でご馳走する」
とのこと。隣は「子供の科学」の編集などで有名な科学者、原田三男さんだから声をかければ顔を出すだろうと言われた。藍野さんは都内のアパート住まいだったが実家だった千葉県の大原にも家があり、奥さんはここで英語塾を開いたりもしておられた。
さてJR外房線の大原駅で落ち合って、魚などを吟味して買い込んで玄関を開けたまではよかったが、出てきた奥さんは大変なオカンムリ。やにわに小生に向かって英語でまくしたてた。藍野さんは務めが製薬会社のバイエルだった関係もあってドイツ語会話は堪能だったが、英語はダメ。ご主人に分からないように小生には英語で話す。その内容は、一緒に行った友人というのは女性で、知り合いの会社のOLだったようで、胸の大きく開いた、所謂ビキニのような水着を買って出掛けたらしいという。小生は無難なところだけ日本語で藍野さんに告げる。藍野さんは都合の悪いところはドイツ語で小生に話すので奥さんは理解出来ない。都合よく通訳して奥さんに話せと言われる。悪戦苦闘して収めようとしたのだが、本が少し読める程度の小生の独語会話力でイロ事の話など、チンプンカンプンの事態。買い込んだ魚に未練は残ったが早々に退散となった。
事の次第は後で分かったのだが、OL嬢に渡した水着は三越で「付け」で買って、請求書の宛て先を大原の家にした。我々が家に着く前に奥さんの手に渡り、事の次第を知ったところに手引きをしたと思わしき小生ともども、魚をぶら下げて悠々と現れたのだった。
この会での間の抜けた話はしばしばだが、同行する女性へのプレゼントを「付け」で買って、しかも請求書を無断で奥さんの所にしたとは、悪げはないとは言え何とも間の抜けた話である。
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山の会裏ばなしー(30)
デブリをはねてバスが通った
北大山の会東京支部・木村俊郎(1950年入部)
昭和三十七年に北大山岳部はチャムランの遠征に出発し成功を収めたが、小生は神岡で現場を持つ傍ら指名を受けて生産管理の猛勉強?中。出張で上京も多く、札幌との連絡は疎かだった。だが冬山の魅力からは逃れられず、この年は飛騨側に落ちる南尾根の新ルートで正月を越して一月三日、黒部五郎に登頂できた。金木戸川からの深雪をスキーに物をいわせるアプローチだった。
登頂後、かなりの風雪になったが、我々の登頂と同時刻頃、向い側の薬師岳では風雪の中、愛知大学の山岳部員十三名は頂上からの帰途全員遭難死していた。悪天候で捜索は難航し、風雪の合間に太郎小屋上空でホバリングできたヘリからザイルで降りた朝日新聞の本多勝一記者が全員の絶望を伝えたのは二週間も後になってからだった。その後も雪は降り続き稀にみる豪雪の記録を残してこの雪も三月には落ち着いた。
こんな年の三月二十四日に札幌から四人のパーティーが来た。三十五年入部のY君をリーダーにS君は通称もS、一年目のSは通称M、O君は通称がなかった。新穂高温泉から槍、穂高往復、常念を経て上高地へ下る九日間の日程で入って来たのだった。装備は現役時代を彷彿させる冬山で、神岡町に準備しておいた宿舎で、装備やら食料を広げて相談やら作戦等を練って出掛けて行った。その後このパーティーは豪雪の後にも係わらず事故もなく予定を完遂して帰った。
それから一年以上も経ったある日、小生は出張で高山行きのバスに乗った折に運転手が
「北大山岳部のお客さんが蒲田で雪除けをしてくれてね」
と言って次の話をしだした。
「以前に神岡から平湯への路線を運転していた時、蒲田の少し手前で道路にデブリが出ていて往生した。行くのを諦めて戻ろうかと思った時、乗っていた北大山岳部のリーダーが『やるか』と一声かけると、メンバーはリックに付けていたスコップを組み立てたり、バスの備品の道具を持ち出すやらして、雪を除けてしまった。平湯へ行くお客さんは喜んで拍手喝采だった」という。
北海道の山道では普通のことかもしれないが、山間の村々も軟派になってきたこの頃、リーダーの一声でサット行動する山岳部に感銘を受けたらしく、この話はしばらく運転手仲間の語りぐさになっていたようである。だが、ちょっと注釈しておかねばならぬのは、この話はこのパーティーのことだったとは思うけど、確証はない。この辺りにデブリが出る三月には前年もその直後にも北大のメンバーが来ていたからである。
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山の会裏ばなしー(29)
選挙の看板を失敬
北大山の会東京支部・木村俊郎(1950年入部)
昭和三十六年二月に小生は懸案の薬師岳を目指して、前々年の極地法による大部隊を改めて軽快に四人で入山したが風雪が激しく敗退した。結局この山では僅かに厳冬期の北ノ俣と赤木岳の初登頂だけに止まった。
その翌年、三月に札幌から現れたのが昭和三十四年入部のT君、通称もTをリーダーとする大部隊で一年目から三年目までの通称OのW君、通称のないH君、S君、最年少ながら通称GのS君達だった。余り多いので会社のクラブや会館では賄いきれず、少々負担になったが神岡町の旅館を手配した。
人数が多いと話もはずみリーダーのT君はこの時着ていた本間敏彦君との知床半島縦走で、バナナのちらちらする破れズボンで岬に着き、沖を通る漁船に遭難者と間違われてチャッカリ便乗してウトロに戻ったり、黒部の上の廊下遡行の話などに沸いた。また、このパーティーには沢田義一君もいたことを彼の追悼会の席で父君から知らされた。これが縁で入手出来ずにいた唯一の部報六号を戴くことになった。この本にはペテガリの雪崩が記されているので義一君遭難の折りに林和夫先輩から寄贈されたものだったそうである。
さて、この頃が部員数が最大で、この世代の人達が現れたわけだが、それにはそれなりの裏話があった。
山岳部では山行の折には団体装備や特殊な個人装備は部の備品を借り出して使っていたが部員の急増で備品が極度に不足していたそうである。なかでもコルクマットは適当な代用品もなかった。コルクマットは冬山の装備で底付きテントを使う折にはシュラフの下に敷かねばならぬ必需品である。コルクの細い棒をキャンパス地で縫い付けて、巻寿司を作るスダレのようになっていて、肩から尻までの長さの物である。これが無ければ寒気が身に沁みるほか、撤収の折にはテントの底が凍りついて手に負えなくなってしまう。備品は不足しても他の物は代用品で何とか間に合わせても当時、コルクのような断熱材はどうにもならなかったそうである。
だが、窮余の一策はあるものだ。
その後、三十三年入部のW、通称D吉君が語るには選挙に使う看板を取ってきて使うのが一番よかったという。選挙になると候補者が顔写真などのポスターを張って電柱や壁などにぶら下げていたあれである。当時は候補者個人々々かが出していたので新聞紙半裁位のもの。ベニヤ板なので断熱性もあり、水も上がらず、しなやかで大きさもピッタリだったという。なんといってもキスリングに入れて背負うと、背中にピッタリくるというのである。
しかし、個人のポスターとはいえ、触っても選挙妨害の罪になることは明らか。みんなで盗れば怖くない、とはいえ、なんとも図太いものだ。
札幌の町にも人があふれ始めた時代だったのだが、まだ平穏な、ゆとりのある頃だったようである。検挙されたり臭い飯を食うはめになったという話は聞いたことがない。
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山の会裏ばなしー(28)
ズッペは方言か
北大山の会東京支部・木村俊郎(1950年入部)
昭和三十五年二月に小生は再び薬師岳を狙ったが風説に阻まれて太郎兵衛平を抜けられずに北ノ俣岳の登頂にとどまった。その年の三月には、いよいよ来るものが来たという感じだった。三十二年入部のY君をリーダとして一年ずつ下のN,Sの三人が積雪期の飛騨側の西鎌尾根から槍ヶ岳を目指した。蒲田川右俣から入るので神岡を通る。このようなパーティーは小生の所にいっぱくするのが当然になっていたが、この時は娘が生まれて間もなく社宅は少々広くなっていたとはいえ装備もろともでは手狭だった。会社で接待に使うクラブが手頃だと思ったが、この時丁度、会社の洋画専門の銀嶺会館に宿泊設備を併設したところだったので、これを利用することにした。もちろん無料。
開設まもなくとあって板前さんは腕の見せどころとばかりに結構な接待をしたようである。夕食には澄まし汁が出たところで誰かがズッペと呟いてにやりとした。これには訳があったのだ。この頃もルームでは登山用具はもとより、歌や怪しげな造語までドイツ語の氾濫だったようである。汁はスープであれ何であれズッペといい、みそ汁までズッペと呼んでいた。
ところで大学は二年目の前半までは教養部でそれから各学部に進むことないなっていた。したがって、教養部では社会科の科目は必須で法学概論や社会学、人類学などがこれだった。人類学の講義のときだったらしいが、ある時教授
「北海道の方言を挙げてみよ」
といわれて、それぞれ幾つか挙げていった。その内少し途切れたら
「ズッペ」と答えた奴がいた。
振り返ってみたら、それは山岳部の奴だったというのである。
しかし、この話は山の会戦後只一人の詩人と呼ばれる二十九年入部のT君からの伝え聞きだったようである。
同年代に居た人達だがこんな話を何時までも伝えるとは恐ろしいものだと思った。
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山の会裏ばなしー(27)
帰りは札内川をボートで下る積もり
北大山の会東京支部・木村俊郎(1950年入部)
昭和三十四年は神岡の事業所で五年目を向かえ数年前から薬師岳への冬山に熱中していた。社宅から荷物を全部背負ってスキーを使って峠を一つ越して北ノ俣岳への尾根から試みていた。一月には太郎兵衛平からの退却だった。この年の夏にはO君をリーダに、S君などの三人組が現れた。社宅は少し大きなところに移っていたので泊まってもらうのには不自由はなくなっていた。彼らは劔岳での合宿の後三パーティーに分かれ、薬師岳から双六岳を経て蒲田川に下ったA、B班八人の内の三人がわが家に現れたのだった。食後、山での話も尽きた頃
「最近の札内川はどうかね」
との問いに、出てきた話のうちの傑作が次の話である。これは二十八年入部のI君、通称の頭文字がZからの伝え聞きだそうだったが、詳細は後に彼が書いた佐伯さんへの追悼に名文が残っている。とにかく概要は次のようなものだった。昭和三十年にK先輩通称Gさんが日高の地質調査のために部員二人をアルバイトに雇うことにしたそうである。それに応募したのが前述のI君、しれに佐伯
富男先輩だった。佐伯さんは踏査後札内川を源流からゴムボートで一気に帯広まで下る魂胆で米軍放出の救命ボートを持ってきた。しかもこの旅のロケーションやって「興行収入は山分け」とまで吹き十六ミリカメラまで持ってきたそうである。調査は雨にも祟られたが、ひと苦労してコイボクから国境に出て沢へ降りゴムボート三隻を木の枝で繋いで流れに入れた。昼には帯広到着と思ったとたん、すぐに瀬に入って繋いで流れていたボートはバラバラ、そして先頭のI君は岸から垂れ下がって突き出した木の枝にルックもろとも引っ掛かってボートはサット流れいってしまったそうだ。中州に上がって干し物をしていると、後ろからは諦めた二人がボートを畳んでルックに入れて歩いて現れたという。
これは後で聞いた話だが、ボートで下るという着想は当時うけていたマリリンモンローの「還らざる河」に発していたそうで、残ったボートや重い岩石のサンプルを背負って中札内へトボトボ歩きながら誰かが口ずさんだモンローの歌う「ノーリターン」はノータリン、脳足りん、と聞こえたという。
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山の会裏ばなしー(26)
日本のチベット、川の曲がり目
北大山の会東京支部・木村俊郎(1950年入部)
神岡町に赴任して三年目に小生は社宅に入っていた。その夏早々にC、N、S君の三人が現れた。Wがリーダーで通称はC、Nは通称もNでシンマルのSには、あだ名がなかったという。驚いたのはその後現れた同輩のY君通称Pが来た時だったらしい。その時は少しましな社宅に移っていて玄関口は風雪よけの雪廊下になっていた。夕方の薄暗がりから
「きむらくんいますか」
との声に、薄暗い入口に目をやると、どこかの天体からでも来たような異星人的な風体が立っていたというのである。
それはさて置き、この時来た三人は昭和三十一年度の夏山として穂高に入った九人のメンバーの片割れだった。滝谷、北尾根、ザイテングラードなどを積極的な行動で、岩登りも堪能してきた様子だった。夕食も終えて山の話も一段落したところでN君が突然後輩のS君に向って
「お前、何処で採れたんだ」と聞いた。S君は
「生まれた所ですか」と問い返して
「奥さん、日本地図ありませんか」と言って地図をもってこさせると、福島県に入り込んだ阿賀野川の最奥の上流辺りを指して
「この川の曲がり目です」と。
すかさずN君は「日本のチベットから来たのか」と。
この地、飛騨も当時は日本のチベットと言われていたが、わが家では今でもS君は「川の曲がり目さん」で通っている。
その後の話でこの「川の曲がり目」君は、北大の受験で上京か来道した折りに初めて汽車を見、海も見たということだが、これは例による針小棒大化かもしれない。しかし、小生が学部へ移行の折にはドサンコの同級生で、ショッパイ川と呼ばれていた津軽海峡を渡ったことのある人は皆無に近かったのは事実である。
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山の会裏ばなしー(25)
消えたネコダ
北大山の会東京支部・木村俊郎(1950年入部)
入社して半年の実習を終えると、寮の大部屋での生活から個室へと移った。その寮を早々に訪ねて来たのが四年後輩で通称もNのN君だった。涸沢をベースにして奥又白で岩登りをやっての帰りに冬山の寄付集めに来たという。彼は後にこの松高ルートの積雪期初登攀を成し遂げているが、この時はまあ良かろうということで募金に応じ、ついでに札幌への用件を一つ頼んだ。
それは加納一郎大先輩に頼まれていたネコダというものを届けて貰うことだった。ネコダとは飛騨地方の農家で使われていた筵で作った民芸的な実用品で、筵で袋のような物を作り縄の負い紐を付けてサブザックのように背負う牧歌的な民具である。加納先輩にお渡しするには深い訳があった。
前年の夏山の遭難で鈴木康平君を亡くして教養部の部長教授から山岳部の存亡にかかわる非難を受け、その経緯と対策について全学に分かる掲示を出すよう指示を受けた。その文案の推敲をお願いしたのが加納大先輩だったのである。そんな経緯から赴任前にご挨拶に伺った。すると先輩は
「飛騨にはネコダというものがある。一つ欲しいのだが」
と仰しゃったのだった。流石の博識に恐縮しつつ赴任早々に手に入れ、正月の帰省の折に年始を兼ねてお届けしょうと思っていたのである。丁度いい機会、早いに越したことはないとN君にお届けを頼んだのである。
ところがである、彼は汽車の網棚に載せてひと眠りしている間に、自分の荷物もろとも持って行かれてしまったそうである。
正月になって年始のご挨拶とシャレこんで大先輩を訪問すると、加納さんは開口一番「あのネコダはNさんが持って帰る途中で盗まれちゃったそうだ」と
奥さんともども大笑い。気難しいこの大先輩の笑いを見たのはこの時の一度限りだったような気がする。
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山の会裏ばなしー(24)
勿体ない焚き火
北大山の会東京支部・木村俊郎(1950年入部)
昭和二十九年秋には連休があった。新入社員なので未だ実習員の分際だったがこの好機は逃せなかった。
せっかく飛騨に住んだのだからアルプスの飛騨側のバリエーションを拓きたい、山岳会に入っていた二人の同僚と先ずは黒部五郎岳や双六岳方面の沢の偵察を行うことにした。
地図によると金木戸川は相当のハコの連続だが、双六川と高原川が合流する浅井田の集落近くから金木戸川のハコの上のテラスに森林軌道が残っていた。途中迄は軌道に便乗し、撤去された軌道跡は中ノ俣川と金木戸川の合流を超えて広川原まで残っていた。それから沢歩きでさらに打込谷をかなり遡行して、樅沢岳は夏なら尾根伝いに登れそうだし黒部五郎から南に伸びる尾根は冬山の対象になりそうなことを見付けてから中ノ俣川の合流点付近まで戻って古い飯場の跡らしい所にキャンプした。裏話はここからである。
先ずは人跡もまばらなこの沢で日高でやっていたような大きな焚火をした。食事も済ませて駄べっているうちに、連れの二人は本州人なので最近の北アルプスのなどの事情を知っていた。この頃はもう立木を切り倒す焚火など御法度という。いいだけ焚火を楽しんでからそんなことを言い出し、そのうち話も途切れてしまった。その時、古い部報で見た昭和五年入部の井田清先輩の話を思い出して話をつないだ。その当時、日高山脈の夏山にはフガイド兼人夫として山に知識のあるアイヌの人を雇うパーティーが多かった。話はこの井田先輩が、日高を闊歩していたアイヌの人、水本文太郎爺さんを連れてトッタベツ川に入った時のことで、以下は先輩の文である。
戸蔦別川は雨で底深い音をたてていた。(中略)
夜になると谷川の流れは黒鉛のように見えてその暗さは気味悪く身に沁みわたってきた。私たちは焚火の赤い色を恋いしながら誰も皆んな湿った谷間の気配に肩をすぼめていた。赤い焔の間にいると、その夜の闇を振り向くのさえ怖ろしいほど深かった。二三間先の川辺に水を汲みいくのも体中が何となくぞっとした。(中略)
仕方なしに赤い焔を無暗と高く燃え上がらせる事が何か小さな安心を私達に贈って呉れる唯一つのことのように思われた。
その様に虚勢を張った焚火を水本の爺さんは「もたいない」と言って嫌った。(中略)水本の爺さんは、その中で神様のようにニコニコしていた。その笑いも赤子の様に明るかった。
「じいさん何処かで大きな雪崩の出たのを見たことがあるかい」
「ある」
「雪のかたまりはどんなだった」
「でっかかった」
「氷のように固かったかい」
「それはかたかったさ」
「じいさんは何処かに岩のでかい山はないかね」
「ある」
「この頃はね、靴の裏にくぎをつけたり、爪の様なものをつけて岩だの雪崩のある山を皆んな登りたがっているんだよ」
爺さんは恥ずかしそうに笑い乍ら二人の若者を見返っただけで何とも言わない。
「そいつは馬鹿だ」と突然その一人が言う。
爺さんは困惑そうにし乍それもそうだという顔付きで笑う。(中略)
(後略)
さて、我々が金木戸谷に入ったのは昭和二十九年で「も早戦後ではない」と言われ始めた頃である。北アルプスにも真新しい登山服、靴で時間を競って登る人が増えていた。
登山具も工夫するより買ったものといった風潮。そこで四十年も前に燃え過ぎる焚火すら勿体ないと芯から感じていた、あの爺さんを忍んだのだった。しかしこの時、連れの二人には、この話も現役時代そのままの古典スタイルだった小生の詭弁としか映らなかったに違いない。
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山の会裏ばなしー(23)
塞翁が馬となった笠ケ岳
北大山の会東京支部・木村俊郎(1950年入部)
昭和二十九年三月に小生は山岳部を卒業、工学部もめでたく卒業と也、日本橋に本社の
ある本州の会社に就職した。赴任した事業所は岐阜県神岡町。神岡は来たアルプス飛騨
側の登山口となる蒲田に入るに絶好の町である。したがって山岳部の後輩には好適な足
掛かりになったわけでだが小生赴任早々の夏にはもう後輩の一人Y君が訪ねて来た。
彼は工学部だったので夏休みに事業所の見学を兼ねてきたそうだが、なんと
「山へ連れて行ってくれ」と言う。
地元には町の山岳会なるものもあり穂高小屋を創設した今田重太郎さんが居住していて、
写真館、薬局、時計屋の主人の他、会社員も少しいて夏にはノルマルルートで山にも行
っていた。一泊のキャンプで手頃な山はないかと尋ねてみると、「笠ケ岳がよかろう」
ということでテントを持って出掛けることにした。
しかし当時は、まだ週休は日曜日だけ。入社一年目は七日の休暇がとれたのだが、当
時は重病や法事でもない限り休暇など取るのは持って外という空気だった。風邪や捻挫
ぐらいでは休まず、二日酔いなどは這ってでも出勤、遅刻や休むなどはあり得ないこと。
しかし、折角、山に行くこうことに断るわけにもいかず、休暇を申し出ると意外と簡単
にOKとなった。その頃この山間の町でも寿司屋やラーメン屋等にテレビが付き始め、
新宿や銀座のキラビヤカな様子に浮かれ始めていた頃なので人事課では山に入ったりす
るようなヤボな古典派を剛健と見たようで、甘かったようだ。
笠ケ岳へはクリヤ谷の木馬道から入り錫杖岳への尾根の分岐辺りに水場を見つけてキ
ャンプしてノルマルルートで往復したわけだが、槍、穂高の眺望に恵まれた以上の収穫
は「山に行く」といえば休暇は鷹揚だということを知ったことだった。その後はそれほ
ど恐縮せずに少々長い休暇を取って山に入れるようになったわけである。
現場が忙しい最中に山に誘われて恐る恐る休暇を申し出た後輩も、やってみれば「人
間万事塞翁が馬」である。
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