部報解説・ 2008年12月26日 (金)

無言の対話・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・伊藤秀五郎
1956年10月に書かれた、人はなぜ山に登るのかという大テーマを再考した一文。伊藤によればそれは「人格の陶冶のためである」という答えにする事にした、とある。この年は53年エベレストに続きマナスルの年だ。その時代であることを知って読むと面白い。
「われわれの山岳部は、第一目標を、勲章を貰うなどという御時勢向きの現実主義に塗り替えずに、やはり、三十年前の創立当初から語り継がれた子供らしい精神主義の一枚看板をおろさない方がいい。昔あのヘルベチャヒュッテを囲んでいた白樺のような清潔な山岳部の気風を崩さない方がいい。規律や友情や真実を愛する伝統を失わないことだ。それは山岳部がいつまでも瑞々しく。永遠に若々しくある秘訣である。処世術にことたけた大人らしい分別は、学校を出てから習つても遅くはない。われわれの山岳部に必要なのは、あの高山の奥にたたえられた山湖の清冽さであり、荒涼たる天涯にあつて千古以来の風雪に耐えてきたあの絶嶺の姿勢の正しさである。」
夏の紀行
―遺稿― 余市川のほとり・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・奥村敬次郎
奥村氏は山岳部長を務めていた1949年、札内川9の沢で転石事故のため亡くなった。冬のイドンナップ初登隊にも加わっていて、山岳部出身ではないが当時の学生たちとよく山を歩いていたようだ。
この文章は小樽から峠越えで余市川に入り、最奥の開拓農家で樺太の真岡から引き揚げてきた苦労真っ最中の一家と話し込んで、そこの少年と河原のキャンプでカボチャ煮つけを食べる話。戦争で家を焼かれて北海道へ帰り、函館本線の銀山駅あたりで余市川と源流の山に対面し、「親しく歩き廻った郷土の山々を眼のあたりにしてはじめてわが家に帰りついた喜びが堰を切つて流れてくるのであつた。山を見るまでは安心ができなかつたのである。」
大きな戦争を終えて、日本中には戦災の損害から立ち上がろうと、都市でも山里でも一生懸命だった。そんな様子が伝わる。
二つの無名沢遡行記
戦前幾多のパーティーがこのナナシ沢を目指したが、地形図が大きく誤っていたせいもあり合流点が分からず結局コイボクに上がった。1942年7月、菊地徹らがコイボクから尾根をのっこしてナナシ沢に入り、39北面等を登りかけたりしてナナシ沢の全容を調べた。この年度に懸案のペテガリの冬季初登も成しており、戦前の二大‘滑り込み記録‘である。だがこのナナシ沢探査も手探り状態での探検であり、完全遡行は戦後の落ち着きを取り戻すまで待つことになった。
以下の二つは戦後10年経って、幻のナナシ沢の難関沢に再び向かった記録。
●無名沢よりカムイエクウチカウシ山・・・・・・・・・・・・・・・滝沢政治
1955年夏、滝沢政治、岡部賢二。表題はカムエクだが、23南面直東沢の初挑戦記録である。完全遡行ではない。次の有名な言葉が残っている。
「その滑滝が終わると両岸は屏風を立てたような、人が一人やっと通れるような流れとなり、その奥に真つ白い滝が二段連らなつて落ちている。瓶の底での滝だ。ぼくらは呆然とした。ザックを置いて何とか登ろうと試みる。高さは六,七米であるが、正に模式的滝だ。岩は平滑な上にぬるぬるしている、何とか最初の滝は登り切つたが、その上は丸い滝壺でそれを廻って向うに行くのさえ困難な程である。次の滝は完全に瓶の底、ハーケンがあれば何とかなつたのだろうが、誰が日高に三つ道具を持つて来るだろうか。しようがないので高巻きと決めて一服。」
当時は日高にハーケン、ハンマー、ザイルを持っていかないものだった。他の荷物も重かったろう。豊富なビニール袋も化学繊維もない時代だ。重く濡れたザックではそうそう登れまい。まだ日高難関直登沢時代には早かった。「(のどの渇きと藪こぎで)泣き出したいような思いでようやく稜線に着いた。沢を出てから10時間半のアルバイトであつた。」
初めてナナシ沢合流点を発見した喜びも記されている。歴代ナナシ沢合流は、まだ早いと右岸を巻いて通り過ぎていたがこのパーティーはナナシとコイボクの間の尾根(コイボクの左岸)を高巻きしたために、左足元の沢がナナシだと気がついたのだった。「テラスの端まで行って見ると、すぐ眼の下は大きな沢が流れ、そこから細長い低い尾根をへだててまた大きな沢があるではないか。コイボクの流れは二分されている。それでは足下の沢は既に無名沢なのだ!」
23からコイボクに降りて、コイボクカール上で悪天のためまさかの停滞5連発。乏しい食糧食べ繋ぎ、しめて13日間の札内川のっこし。軽快な文体の素敵な山行記録だ。
●無名沢よりペテガリ岳・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・酒井和彦
1957年夏酒井和彦、上田原緯雄。表題はペテガリまでだが、沢はナナシ沢から39北面直登沢の遡行記録である。テント、寝袋無しの軽量山行。この年まではコイボク入渓谷はセタウシ乗越しで三石から高見への林道(峠手前から先は歩き)を使ったが、この翌年にはコイボク、コイカク合流までトラック道が通る予定とある。テント代わりにビニールシートで屋根架け。入山より六日目に39北面を登りヤオロマップの肩の花畑でごろ寝するが、ブヨの大群に「メシもズッペもブヨの突入で中が見えない。」となり、ビニールシートに潜り込む。その後停滞込み稜線5日のちペテガリへ。稜線はほとんどカンパンをかじっている。下降尾根から中ノ川に降りるとすかさず飯を炊いているのがおかしい。尚、おかずは味噌と塩だけみたいだ。下山の日、「マットが一番大きな荷で、小脇に抱えて歩きたい程に小さくなつてしまつた。最奥人家には一時半頃着き、豊作の畑の中を裸体で歩む。〜略〜畑仕事をしている村の人達は『御苦労様でしたね』と声をかけてくれるが、全く恥しく済まない気もして歌は唱わない」
「日高の夏の旅にはテント、シュラーフは必ずしも必要としないとの確信を得た。ただブヨに関しては対策を要す。登山の種々の研究をしそれに適応した装備を用うべきである。日高の山に原始を求めて彷徨う者は崩れた飯場と這松のハンモックとが最上の寝床である。」
「菊池先輩の大望は不肖ながらようやく果せた。」
夏の知床岳・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・鮫島淳一郎
1952年夏、植物学教室の先生らと当時は人の通わぬ知床の山へ出かけた記録。網走から船でテッパンベツ川河口へ。ここは当時製紙会社の丸太の海だった。この飯場で塩マス二本を貰って、美しいエゾ松の森を行くが、そこは間もなくトロッコ軌道が敷かれ切られる運命だという。山にほぼる人はなくとも、フロンティアには天然の富を求めて今よりたくさん人がいた。背丈を越すハイ松の中、水を求めて知床岳周辺をこぎまわる。テッパンベツ川の下りで思いのほか時間を食って苦労する。
大雪、日高の熱中ぶりに比べ、ルームは知床や利尻にはこの頃までぽつぽつと足跡を残したばかりである。この年の冬、京大が冬季知床全山初縦走をしている。(参考http://www.aack.or.jp/kaiinnope-ji/2002shiretoko/index.htm)
森、温泉、夢〜十勝川源流温泉小舎建設始末記〜・・・・・・西村豪、神前博
部報始まって以来の砕けた文体。昔の漫画っぽい語りで漫画っぽいストーリーを記述する。トムラウシと沼ノ原を結んだちょうど真ん中あたりの谷の中に秘湯が湧いている。そこに小屋がけをしてしまったという夢いっぱいの話。1950年に山崎英雄が発見し、1958年、第一次小屋がけが天気悪く失敗し1959年のこの度の記録。合宿を終えた後、大きな鋸と鉞を持った一行9人は俵真布まで引き返し入山。現場まで二日、建設三日、下山一日。石を運び土台を築き直径30-40センチのタンネの丸太10段を組み、50本なぎ倒して堂々のログハウスである。「つい昨日までは誰も足を踏み入れた事のない、この原始林が今やカーンカーンとなり響くオノの音、バリバリと生々しいタンネの倒れる音で梢の鳥も熊や鹿も声をひそめている。頭の上にまた空間が開き、五月の青空がいままでけっして見る事の出来なかったタンネの森の中をのぞいている。あつまたあそこにも、こちらにも、次々と空間が増え、その度に森が明るくなつていく。あつ、また食事当番のフエがなり響いている。十時のオヤツの時間ではないか!われわれは幼子の様に『ヤッホー』と歓声を上げながらキャンプ地へ飛び降りていく。」・・・欺瞞的な環境保護主義に浸かった2008年の常識で断じてはいけない。この山中で誰一人サボらず、三日間、飯を食い楽しげに小屋を築いた喜びがにじみ出ている。一番の苦労は倒してそろえた30-40センチ、長さ3.5mの丸太を運ぶ作業。これはやればわかるが重労働だ。最終日までに屋根もなんとか作り終え、メデタシで下山するのであるが、後日談がある。
牧歌的時代といえども後にこの件で、国立公園内での無断伐採、無断建築のかどで営林署の官僚的勢力から告発されるのである。その証拠が、この部報8号であったらしい。図解入り、建設のいきさつを詳しく楽しげに書いてあり、動かぬ証拠となった。最後は始末書を書いて落とし前。現代ならばどうだろう?責任者が監督不行届で謝罪会見、減俸処分とワイドショーだろうか。無体な時代である。
これについて後日談。山の会会報59号(昭和六十(1985)年)に「二つの始末書」と題した高篠和憲の記事があり、仕事つきあいの営林署関係者からこの時の始末書二通(山岳部長原田準平と当事者西村豪)が時効でもあり良き記念に返還されたという旨だった。
犬ソリの研究・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・北海道大学極地研究グループ
日本の南極観測隊の編成がなされ、その副隊長の西堀栄三郎から北方問題と縁の深い北大に犬ソリはじめ極地探検諸技術の開発を依頼され、昭和31年(1956)北海道大学極地研究グループを設立した、とある。メンバーは山岳部員である。
犬についてはカラフト犬の特質を紹介し、ソリについては1949年ノルウェイ、イギリス、スウェーデン探検隊のものを紹介している。ソリを製作し摩擦などを調べている。引き綱の形状、引き具の形、犬のえさに至るまで詳しい記述がある。
「われわれは日本における最後の優秀なカラフト犬十数頭と一緒に暮らせたことを誇りに思い、そのめい福を祈るものである。」この中に、第一次南極越冬隊に加わって生還したタロ、ジロも含まれている。
追悼
奥村先生のことなど・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木崎甲子郎
イドンナップに夏冬共に登っている木崎の追悼。「奥村先生を知ったのはいつのことだったか。入部したのは昭和二十一年だったが、未だ居られなかつたような気がする。そして今度岐阜高農から来た奥村という教授は、部の先輩ではなかつたけれど山が好きで、日高にも数回入つておられるし、予科山岳部の部長になつて頂こう、というような話を聞いていた。それ以来のことである。奥村先生のことを知つたのは。「ダットサン」という仇名も何時の間にかついてしまつた。」奥村部長は部員と年も近く、一緒にあだ名で呼びあい、下宿にもあがりこみ、給料日にはお茶を飲みにでかけたりという仲だったようだ。
「『今度は、静子を連れて行こうと思つてね』といつものあの笑顔で言われたこと、そして、お忙しいのに、無理に夏山などへ行かれなくても・・・と申し上げると、『いやいや山でも行って来ないと、気がくしやくしやしてね。仕事が仕事だから。今度はとつときのコースを行くよ』と眼鏡の奥から笑いながら言われたこと。
それが最後だつたのだ。人と人の生死のつながりがこんな風な形でピリオドを打たれようとは。」
奥村部長は理学部生の頃から山をはじめ、昭和11年(1936)ころより札幌の光星商業、二中、一中、の教官をしていた16(1941)年夏まで四季を通じ道内山岳を歩いている。昭和21(1946)年5月に北大予科の教授になった折から山岳部長を務めたが、24(1949)年8月、カムエクからの下り、札内川九の沢で遭難死した。
山岳部長奥村敬次郎氏遭難記録
伏流気味のごろごろ沢を下る際、幅各1m、厚さ60センチの岩の脇を廻って下に行った時その岩が転がり10m下で止まった。「先生は頭部をはさまれたらしく昏睡状態になる。約17分後昏睡状態のまま永眠さる。」カールに薪は少ないため、土葬にする。「穴を掘り、遺骸を入れ、カメラーデンリートを歌い、花で美しく飾り、その上に花を植え、白樺の十字架を建て、十四時半、お墓を完成する。」
尚、坂本直行の「雪原の足あと」の中に、「僕はこれ以上美しい人間の墓というものを見ることはないだろうと思った。」とあり、美しい九の沢カールの花畑の中に立つダットサンのケルンの絵がある。
花岡八郎兄を想う・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・向川信一
1947年7月、サッシビチャリ沢、39南面沢を登った後、コイカクからコイカク沢の下りで遭難死した。
「戦後間もなく生きることだけが希みであつたような頃に、彼はすでに北大山岳部の有力なメンバーであつた。当時の山岳部の雰囲気は過去のブランクを埋めようと、未踏のピークと沢を求めて激しく揺れ動いていたが、彼はその部の中心にあつて、直情的にしかも意欲的に登行への情熱を燃やしていた。」
この山行、39南面直登を登っているが、実は山頂で気がつくまで、1599を登っているつもりだった(当初の計画は1599→ペテガリ→中ノ川)。予定を変えてヤオロマップ出前で一泊し、コイカクから札内川にした。
「知らなかつたとはいえ、夏のノルマルルートを左手僅かの所にしながら、草と水に濡れた岩の急斜面の下降は危険なものであつた。」
「私達の下降している尾根は切れているから右の小沢を越えるよう合図しながら動いたように見えたとき、声もなく兄の姿が見えなくなつた。下降していた私がその気配にはつと思う間もなく、岩にバウンドする鈍い音が二度三度したと思つたが、後はただ規則的に流れる小沢の激しい水音だけである。髪の逆立つような、気の遠くなるような思いで急ぎ兄の立つた辺りに行つたときはもう何もない。ただ岩と水と黒々とした雪渓の不気味な口が見えるだけであつた。」
「国境尾根に立つた日、遥かにペテガリ岳を見て私達は感激した。小さなピークが二つ並んだ清楚な姿だつた。しかし登るにつれて次第に遠ざかる頂上を眺め、やはりペテガリは遥かだつたと語り合つたのだつた。シューベルトの「春の夢」に託してこの山頂に立つ日を夢見ていた兄にとつて、その山頂を指呼の間に眺めることが出来たのは、せめてもの慰めであつたといえるであろうか。山旅の時々にこのメロディーを口ずさんでいた兄はその夢を実現することもなく、命のはかなさとむなしさを一瞬のうちに示してこの世を去った。」
井上君の死・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・佐伯富男
井上正惟は1954年5月、中央アルプス空木岳で「三日冷雨の夜、殿越小屋附近にて遭難死す。《遭難及び捜索の記録は年報昭和二十八年度》」
入部が1949年で、6年目の春の事故。
「彼は非常に慎重に山に入る男だつた。毎晩のように強情な僕と論争が起きる。」
「無口な彼であつたが、僕にはよく語つてくれた。僕が札幌へ行つて見つけた本当の山友達というべきものは彼だけだつた。」
部報に詳しくは載っていないが、五〇周年記念誌によると、雨に下着まで濡れ、雪渓に道を失い日暮れ近くなり、小屋が近いと解っていながら歩けなくなり、ビバーク。夜中に低体温症で錯乱し足を滑らせ雪渓を落ちたという。
康平君・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・加納正敏
鈴木康平は昭和28(1953)年入部その年の夏、剱岳ブナクラ沢で、鉄砲水の増水で流され遭難死した。
「僕は君の心と共に山に行く。君が一度も行っていない山に、共に喜び共に楽しみたい。淋しければ大声で歌をうたおう。苦しければ互に杖になろう。君とはたつた六ヵ月の交わりだつたが、ルームでのダベリや数少ない山行の想い出は今でもはつきりと僕の胸に映つている。赤岩で宮様とアダ名をつけられた君、兄貴から金が来たといつて感激した君、はじめてスキーをはいてノビた君、色々な姿が忘れられない。」
これも五〇周年記念誌によると、夜中にテント浸水で起き、高台に待避する途中、3名のうち鈴木が突然来た1mの増水に流された。
前田一夫君の憶い出・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・鈴木良博
前田一夫は昭和32(1957)年入部、一年後昭和33(1958)年4月、奥穂、前穂の吊尾根で滑落遭難死した。とても個性の強い一年目だったとある。
「そうして山を論じ、映画を論じ、やけに悟り澄ました顔で浮世を論じ、まだ飲み慣れぬ酒のことで議論したりした一年間。僕は今でもその一年を二十余年の人生の一番楽しかった時期としてトップにランクしている。断片的な思い出が、こうして拙い文章をしたためている間も、そのためにあるような網膜の別な一角に総天然色で映写されて行くのです。」
五〇周年記念誌によると、アイゼン歩行中、何かにひっかけて転びそのまま滑落したとある。
小竹幸昭の追憶・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・佐々木幸雄
小竹幸昭は、昭和30(1955)年入部。昭和33(1958)年十勝岳の合宿中旧噴火口附近で遭難死。「十勝合宿に参加したのは、卒業を間近に控えて四年間の部の生活の最後を飾るつもりだつたのであろう。だが行動第一日目に彼は風雪の旧噴火口から再び仲間待つ小屋へ帰らなくなつた。私達はこの春OP尾根の上に彼と加藤君のためにケルンをつんだ。」
五〇周年記念誌によると、合宿初日小竹(4)、加藤(1)と西安信(1)の三人パーティーで十勝岳へ。そこから上ホロに向かおうとしたが、悪天のためOP尾根、振り子沢、なまこ尾根経由のルートが見いだせず、それに加え重いシートラ乗っ越しのため、時間を使い雪洞ビヴァーク。翌日も深いラッセルで次々疲労凍死。生還した西のみ旧噴火口の土の露出した地熱の暖かい場所で更に二泊ビヴァーク。そこは二名と30mほどしか離れていなかった。四日目に晴れ、西のみ下山し救助隊と合流した。この冬、槍の北鎌尾根の極地法計画に部の主力を送り出し、残った部員だけで行った十勝合宿だった。そのため全体に上級生が弱体で捜索も力が及ばず、四日目になってしまったとのこと。
加藤君のこと・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村恒美
加藤幹夫は昭和34(1959)年入部。昭和33(1958)年十勝岳の合宿中旧噴火口で小竹とともに遭難死。
「彼はついに“シブ”とアダ名がついた。しぶといからである。その彼も勉強の面でもそうとうしぶとかったらしい。高校時代なかなかの秀才とのことである。留萌に育った彼はお手の物のホームグラウンドである暑寒別岳が自慢であつた。彼の家からは一日で行ける暑寒には『冬には必ず案内してもらうぞ』と約束までしてあつたがそのことも果たせずに終わってしまつた。」
物故者略歴(一九四〇〜一九五九)
戦死したOBはじめこの間一八年間に無くなった人の消息。シナ、満州、レイテ、沖縄、ガダルカナル、ニューギニア等で亡くなっている。部報一号から読んできて見覚えのある名がこうした戦地で消えているのを知った。昭和十四年や十五年入学の世代は十六年三月や十七年九月には繰り上げ卒業でそのまま招集、戦死という人もいる。学徒兵である。昭和十六(1941)年ナナシ沢探査の菊池パーティーにいた二年目部員栃内晃吉は二十(1945)年の沖縄戦で戦死している。鍾乳洞の洞穴か、サトウキビ畑でナナシの事をおもいだしたろうか。
又、昭和29(1954)年洞爺丸遭難の犠牲に昭和4(1929)年入部の高橋正三氏もいた。
(前編/中編/後編)
1956年10月に書かれた、人はなぜ山に登るのかという大テーマを再考した一文。伊藤によればそれは「人格の陶冶のためである」という答えにする事にした、とある。この年は53年エベレストに続きマナスルの年だ。その時代であることを知って読むと面白い。
「われわれの山岳部は、第一目標を、勲章を貰うなどという御時勢向きの現実主義に塗り替えずに、やはり、三十年前の創立当初から語り継がれた子供らしい精神主義の一枚看板をおろさない方がいい。昔あのヘルベチャヒュッテを囲んでいた白樺のような清潔な山岳部の気風を崩さない方がいい。規律や友情や真実を愛する伝統を失わないことだ。それは山岳部がいつまでも瑞々しく。永遠に若々しくある秘訣である。処世術にことたけた大人らしい分別は、学校を出てから習つても遅くはない。われわれの山岳部に必要なのは、あの高山の奥にたたえられた山湖の清冽さであり、荒涼たる天涯にあつて千古以来の風雪に耐えてきたあの絶嶺の姿勢の正しさである。」
夏の紀行
―遺稿― 余市川のほとり・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・奥村敬次郎
奥村氏は山岳部長を務めていた1949年、札内川9の沢で転石事故のため亡くなった。冬のイドンナップ初登隊にも加わっていて、山岳部出身ではないが当時の学生たちとよく山を歩いていたようだ。
この文章は小樽から峠越えで余市川に入り、最奥の開拓農家で樺太の真岡から引き揚げてきた苦労真っ最中の一家と話し込んで、そこの少年と河原のキャンプでカボチャ煮つけを食べる話。戦争で家を焼かれて北海道へ帰り、函館本線の銀山駅あたりで余市川と源流の山に対面し、「親しく歩き廻った郷土の山々を眼のあたりにしてはじめてわが家に帰りついた喜びが堰を切つて流れてくるのであつた。山を見るまでは安心ができなかつたのである。」
大きな戦争を終えて、日本中には戦災の損害から立ち上がろうと、都市でも山里でも一生懸命だった。そんな様子が伝わる。
二つの無名沢遡行記
戦前幾多のパーティーがこのナナシ沢を目指したが、地形図が大きく誤っていたせいもあり合流点が分からず結局コイボクに上がった。1942年7月、菊地徹らがコイボクから尾根をのっこしてナナシ沢に入り、39北面等を登りかけたりしてナナシ沢の全容を調べた。この年度に懸案のペテガリの冬季初登も成しており、戦前の二大‘滑り込み記録‘である。だがこのナナシ沢探査も手探り状態での探検であり、完全遡行は戦後の落ち着きを取り戻すまで待つことになった。
以下の二つは戦後10年経って、幻のナナシ沢の難関沢に再び向かった記録。
●無名沢よりカムイエクウチカウシ山・・・・・・・・・・・・・・・滝沢政治
1955年夏、滝沢政治、岡部賢二。表題はカムエクだが、23南面直東沢の初挑戦記録である。完全遡行ではない。次の有名な言葉が残っている。
「その滑滝が終わると両岸は屏風を立てたような、人が一人やっと通れるような流れとなり、その奥に真つ白い滝が二段連らなつて落ちている。瓶の底での滝だ。ぼくらは呆然とした。ザックを置いて何とか登ろうと試みる。高さは六,七米であるが、正に模式的滝だ。岩は平滑な上にぬるぬるしている、何とか最初の滝は登り切つたが、その上は丸い滝壺でそれを廻って向うに行くのさえ困難な程である。次の滝は完全に瓶の底、ハーケンがあれば何とかなつたのだろうが、誰が日高に三つ道具を持つて来るだろうか。しようがないので高巻きと決めて一服。」
当時は日高にハーケン、ハンマー、ザイルを持っていかないものだった。他の荷物も重かったろう。豊富なビニール袋も化学繊維もない時代だ。重く濡れたザックではそうそう登れまい。まだ日高難関直登沢時代には早かった。「(のどの渇きと藪こぎで)泣き出したいような思いでようやく稜線に着いた。沢を出てから10時間半のアルバイトであつた。」
初めてナナシ沢合流点を発見した喜びも記されている。歴代ナナシ沢合流は、まだ早いと右岸を巻いて通り過ぎていたがこのパーティーはナナシとコイボクの間の尾根(コイボクの左岸)を高巻きしたために、左足元の沢がナナシだと気がついたのだった。「テラスの端まで行って見ると、すぐ眼の下は大きな沢が流れ、そこから細長い低い尾根をへだててまた大きな沢があるではないか。コイボクの流れは二分されている。それでは足下の沢は既に無名沢なのだ!」
23からコイボクに降りて、コイボクカール上で悪天のためまさかの停滞5連発。乏しい食糧食べ繋ぎ、しめて13日間の札内川のっこし。軽快な文体の素敵な山行記録だ。
●無名沢よりペテガリ岳・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・酒井和彦
1957年夏酒井和彦、上田原緯雄。表題はペテガリまでだが、沢はナナシ沢から39北面直登沢の遡行記録である。テント、寝袋無しの軽量山行。この年まではコイボク入渓谷はセタウシ乗越しで三石から高見への林道(峠手前から先は歩き)を使ったが、この翌年にはコイボク、コイカク合流までトラック道が通る予定とある。テント代わりにビニールシートで屋根架け。入山より六日目に39北面を登りヤオロマップの肩の花畑でごろ寝するが、ブヨの大群に「メシもズッペもブヨの突入で中が見えない。」となり、ビニールシートに潜り込む。その後停滞込み稜線5日のちペテガリへ。稜線はほとんどカンパンをかじっている。下降尾根から中ノ川に降りるとすかさず飯を炊いているのがおかしい。尚、おかずは味噌と塩だけみたいだ。下山の日、「マットが一番大きな荷で、小脇に抱えて歩きたい程に小さくなつてしまつた。最奥人家には一時半頃着き、豊作の畑の中を裸体で歩む。〜略〜畑仕事をしている村の人達は『御苦労様でしたね』と声をかけてくれるが、全く恥しく済まない気もして歌は唱わない」
「日高の夏の旅にはテント、シュラーフは必ずしも必要としないとの確信を得た。ただブヨに関しては対策を要す。登山の種々の研究をしそれに適応した装備を用うべきである。日高の山に原始を求めて彷徨う者は崩れた飯場と這松のハンモックとが最上の寝床である。」
「菊池先輩の大望は不肖ながらようやく果せた。」
夏の知床岳・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・鮫島淳一郎
1952年夏、植物学教室の先生らと当時は人の通わぬ知床の山へ出かけた記録。網走から船でテッパンベツ川河口へ。ここは当時製紙会社の丸太の海だった。この飯場で塩マス二本を貰って、美しいエゾ松の森を行くが、そこは間もなくトロッコ軌道が敷かれ切られる運命だという。山にほぼる人はなくとも、フロンティアには天然の富を求めて今よりたくさん人がいた。背丈を越すハイ松の中、水を求めて知床岳周辺をこぎまわる。テッパンベツ川の下りで思いのほか時間を食って苦労する。
大雪、日高の熱中ぶりに比べ、ルームは知床や利尻にはこの頃までぽつぽつと足跡を残したばかりである。この年の冬、京大が冬季知床全山初縦走をしている。(参考http://www.aack.or.jp/kaiinnope-ji/2002shiretoko/index.htm)
森、温泉、夢〜十勝川源流温泉小舎建設始末記〜・・・・・・西村豪、神前博
部報始まって以来の砕けた文体。昔の漫画っぽい語りで漫画っぽいストーリーを記述する。トムラウシと沼ノ原を結んだちょうど真ん中あたりの谷の中に秘湯が湧いている。そこに小屋がけをしてしまったという夢いっぱいの話。1950年に山崎英雄が発見し、1958年、第一次小屋がけが天気悪く失敗し1959年のこの度の記録。合宿を終えた後、大きな鋸と鉞を持った一行9人は俵真布まで引き返し入山。現場まで二日、建設三日、下山一日。石を運び土台を築き直径30-40センチのタンネの丸太10段を組み、50本なぎ倒して堂々のログハウスである。「つい昨日までは誰も足を踏み入れた事のない、この原始林が今やカーンカーンとなり響くオノの音、バリバリと生々しいタンネの倒れる音で梢の鳥も熊や鹿も声をひそめている。頭の上にまた空間が開き、五月の青空がいままでけっして見る事の出来なかったタンネの森の中をのぞいている。あつまたあそこにも、こちらにも、次々と空間が増え、その度に森が明るくなつていく。あつ、また食事当番のフエがなり響いている。十時のオヤツの時間ではないか!われわれは幼子の様に『ヤッホー』と歓声を上げながらキャンプ地へ飛び降りていく。」・・・欺瞞的な環境保護主義に浸かった2008年の常識で断じてはいけない。この山中で誰一人サボらず、三日間、飯を食い楽しげに小屋を築いた喜びがにじみ出ている。一番の苦労は倒してそろえた30-40センチ、長さ3.5mの丸太を運ぶ作業。これはやればわかるが重労働だ。最終日までに屋根もなんとか作り終え、メデタシで下山するのであるが、後日談がある。
牧歌的時代といえども後にこの件で、国立公園内での無断伐採、無断建築のかどで営林署の官僚的勢力から告発されるのである。その証拠が、この部報8号であったらしい。図解入り、建設のいきさつを詳しく楽しげに書いてあり、動かぬ証拠となった。最後は始末書を書いて落とし前。現代ならばどうだろう?責任者が監督不行届で謝罪会見、減俸処分とワイドショーだろうか。無体な時代である。
これについて後日談。山の会会報59号(昭和六十(1985)年)に「二つの始末書」と題した高篠和憲の記事があり、仕事つきあいの営林署関係者からこの時の始末書二通(山岳部長原田準平と当事者西村豪)が時効でもあり良き記念に返還されたという旨だった。
犬ソリの研究・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・北海道大学極地研究グループ
日本の南極観測隊の編成がなされ、その副隊長の西堀栄三郎から北方問題と縁の深い北大に犬ソリはじめ極地探検諸技術の開発を依頼され、昭和31年(1956)北海道大学極地研究グループを設立した、とある。メンバーは山岳部員である。
犬についてはカラフト犬の特質を紹介し、ソリについては1949年ノルウェイ、イギリス、スウェーデン探検隊のものを紹介している。ソリを製作し摩擦などを調べている。引き綱の形状、引き具の形、犬のえさに至るまで詳しい記述がある。
「われわれは日本における最後の優秀なカラフト犬十数頭と一緒に暮らせたことを誇りに思い、そのめい福を祈るものである。」この中に、第一次南極越冬隊に加わって生還したタロ、ジロも含まれている。
追悼
奥村先生のことなど・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木崎甲子郎
イドンナップに夏冬共に登っている木崎の追悼。「奥村先生を知ったのはいつのことだったか。入部したのは昭和二十一年だったが、未だ居られなかつたような気がする。そして今度岐阜高農から来た奥村という教授は、部の先輩ではなかつたけれど山が好きで、日高にも数回入つておられるし、予科山岳部の部長になつて頂こう、というような話を聞いていた。それ以来のことである。奥村先生のことを知つたのは。「ダットサン」という仇名も何時の間にかついてしまつた。」奥村部長は部員と年も近く、一緒にあだ名で呼びあい、下宿にもあがりこみ、給料日にはお茶を飲みにでかけたりという仲だったようだ。
「『今度は、静子を連れて行こうと思つてね』といつものあの笑顔で言われたこと、そして、お忙しいのに、無理に夏山などへ行かれなくても・・・と申し上げると、『いやいや山でも行って来ないと、気がくしやくしやしてね。仕事が仕事だから。今度はとつときのコースを行くよ』と眼鏡の奥から笑いながら言われたこと。
それが最後だつたのだ。人と人の生死のつながりがこんな風な形でピリオドを打たれようとは。」
奥村部長は理学部生の頃から山をはじめ、昭和11年(1936)ころより札幌の光星商業、二中、一中、の教官をしていた16(1941)年夏まで四季を通じ道内山岳を歩いている。昭和21(1946)年5月に北大予科の教授になった折から山岳部長を務めたが、24(1949)年8月、カムエクからの下り、札内川九の沢で遭難死した。
山岳部長奥村敬次郎氏遭難記録
伏流気味のごろごろ沢を下る際、幅各1m、厚さ60センチの岩の脇を廻って下に行った時その岩が転がり10m下で止まった。「先生は頭部をはさまれたらしく昏睡状態になる。約17分後昏睡状態のまま永眠さる。」カールに薪は少ないため、土葬にする。「穴を掘り、遺骸を入れ、カメラーデンリートを歌い、花で美しく飾り、その上に花を植え、白樺の十字架を建て、十四時半、お墓を完成する。」
尚、坂本直行の「雪原の足あと」の中に、「僕はこれ以上美しい人間の墓というものを見ることはないだろうと思った。」とあり、美しい九の沢カールの花畑の中に立つダットサンのケルンの絵がある。
花岡八郎兄を想う・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・向川信一
1947年7月、サッシビチャリ沢、39南面沢を登った後、コイカクからコイカク沢の下りで遭難死した。
「戦後間もなく生きることだけが希みであつたような頃に、彼はすでに北大山岳部の有力なメンバーであつた。当時の山岳部の雰囲気は過去のブランクを埋めようと、未踏のピークと沢を求めて激しく揺れ動いていたが、彼はその部の中心にあつて、直情的にしかも意欲的に登行への情熱を燃やしていた。」
この山行、39南面直登を登っているが、実は山頂で気がつくまで、1599を登っているつもりだった(当初の計画は1599→ペテガリ→中ノ川)。予定を変えてヤオロマップ出前で一泊し、コイカクから札内川にした。
「知らなかつたとはいえ、夏のノルマルルートを左手僅かの所にしながら、草と水に濡れた岩の急斜面の下降は危険なものであつた。」
「私達の下降している尾根は切れているから右の小沢を越えるよう合図しながら動いたように見えたとき、声もなく兄の姿が見えなくなつた。下降していた私がその気配にはつと思う間もなく、岩にバウンドする鈍い音が二度三度したと思つたが、後はただ規則的に流れる小沢の激しい水音だけである。髪の逆立つような、気の遠くなるような思いで急ぎ兄の立つた辺りに行つたときはもう何もない。ただ岩と水と黒々とした雪渓の不気味な口が見えるだけであつた。」
「国境尾根に立つた日、遥かにペテガリ岳を見て私達は感激した。小さなピークが二つ並んだ清楚な姿だつた。しかし登るにつれて次第に遠ざかる頂上を眺め、やはりペテガリは遥かだつたと語り合つたのだつた。シューベルトの「春の夢」に託してこの山頂に立つ日を夢見ていた兄にとつて、その山頂を指呼の間に眺めることが出来たのは、せめてもの慰めであつたといえるであろうか。山旅の時々にこのメロディーを口ずさんでいた兄はその夢を実現することもなく、命のはかなさとむなしさを一瞬のうちに示してこの世を去った。」
井上君の死・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・佐伯富男
井上正惟は1954年5月、中央アルプス空木岳で「三日冷雨の夜、殿越小屋附近にて遭難死す。《遭難及び捜索の記録は年報昭和二十八年度》」
入部が1949年で、6年目の春の事故。
「彼は非常に慎重に山に入る男だつた。毎晩のように強情な僕と論争が起きる。」
「無口な彼であつたが、僕にはよく語つてくれた。僕が札幌へ行つて見つけた本当の山友達というべきものは彼だけだつた。」
部報に詳しくは載っていないが、五〇周年記念誌によると、雨に下着まで濡れ、雪渓に道を失い日暮れ近くなり、小屋が近いと解っていながら歩けなくなり、ビバーク。夜中に低体温症で錯乱し足を滑らせ雪渓を落ちたという。
康平君・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・加納正敏
鈴木康平は昭和28(1953)年入部その年の夏、剱岳ブナクラ沢で、鉄砲水の増水で流され遭難死した。
「僕は君の心と共に山に行く。君が一度も行っていない山に、共に喜び共に楽しみたい。淋しければ大声で歌をうたおう。苦しければ互に杖になろう。君とはたつた六ヵ月の交わりだつたが、ルームでのダベリや数少ない山行の想い出は今でもはつきりと僕の胸に映つている。赤岩で宮様とアダ名をつけられた君、兄貴から金が来たといつて感激した君、はじめてスキーをはいてノビた君、色々な姿が忘れられない。」
これも五〇周年記念誌によると、夜中にテント浸水で起き、高台に待避する途中、3名のうち鈴木が突然来た1mの増水に流された。
前田一夫君の憶い出・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・鈴木良博
前田一夫は昭和32(1957)年入部、一年後昭和33(1958)年4月、奥穂、前穂の吊尾根で滑落遭難死した。とても個性の強い一年目だったとある。
「そうして山を論じ、映画を論じ、やけに悟り澄ました顔で浮世を論じ、まだ飲み慣れぬ酒のことで議論したりした一年間。僕は今でもその一年を二十余年の人生の一番楽しかった時期としてトップにランクしている。断片的な思い出が、こうして拙い文章をしたためている間も、そのためにあるような網膜の別な一角に総天然色で映写されて行くのです。」
五〇周年記念誌によると、アイゼン歩行中、何かにひっかけて転びそのまま滑落したとある。
小竹幸昭の追憶・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・佐々木幸雄
小竹幸昭は、昭和30(1955)年入部。昭和33(1958)年十勝岳の合宿中旧噴火口附近で遭難死。「十勝合宿に参加したのは、卒業を間近に控えて四年間の部の生活の最後を飾るつもりだつたのであろう。だが行動第一日目に彼は風雪の旧噴火口から再び仲間待つ小屋へ帰らなくなつた。私達はこの春OP尾根の上に彼と加藤君のためにケルンをつんだ。」
五〇周年記念誌によると、合宿初日小竹(4)、加藤(1)と西安信(1)の三人パーティーで十勝岳へ。そこから上ホロに向かおうとしたが、悪天のためOP尾根、振り子沢、なまこ尾根経由のルートが見いだせず、それに加え重いシートラ乗っ越しのため、時間を使い雪洞ビヴァーク。翌日も深いラッセルで次々疲労凍死。生還した西のみ旧噴火口の土の露出した地熱の暖かい場所で更に二泊ビヴァーク。そこは二名と30mほどしか離れていなかった。四日目に晴れ、西のみ下山し救助隊と合流した。この冬、槍の北鎌尾根の極地法計画に部の主力を送り出し、残った部員だけで行った十勝合宿だった。そのため全体に上級生が弱体で捜索も力が及ばず、四日目になってしまったとのこと。
加藤君のこと・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村恒美
加藤幹夫は昭和34(1959)年入部。昭和33(1958)年十勝岳の合宿中旧噴火口で小竹とともに遭難死。
「彼はついに“シブ”とアダ名がついた。しぶといからである。その彼も勉強の面でもそうとうしぶとかったらしい。高校時代なかなかの秀才とのことである。留萌に育った彼はお手の物のホームグラウンドである暑寒別岳が自慢であつた。彼の家からは一日で行ける暑寒には『冬には必ず案内してもらうぞ』と約束までしてあつたがそのことも果たせずに終わってしまつた。」
物故者略歴(一九四〇〜一九五九)
戦死したOBはじめこの間一八年間に無くなった人の消息。シナ、満州、レイテ、沖縄、ガダルカナル、ニューギニア等で亡くなっている。部報一号から読んできて見覚えのある名がこうした戦地で消えているのを知った。昭和十四年や十五年入学の世代は十六年三月や十七年九月には繰り上げ卒業でそのまま招集、戦死という人もいる。学徒兵である。昭和十六(1941)年ナナシ沢探査の菊池パーティーにいた二年目部員栃内晃吉は二十(1945)年の沖縄戦で戦死している。鍾乳洞の洞穴か、サトウキビ畑でナナシの事をおもいだしたろうか。
又、昭和29(1954)年洞爺丸遭難の犠牲に昭和4(1929)年入部の高橋正三氏もいた。
(前編/中編/後編)
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部報解説・ 2008年6月2日 (月)

●厳冬期の日高山脈全山縦走・・・・・・・・・・・・・・・西信博
1956(昭和31)12月12日から1月8日までトヨニ岳から幌尻岳まで。リーダーは西信博。強力な縦走隊4人、側面サポート隊三班の計21人。始めはこの前年に計画していたが南極観測隊が組織され、その犬ソリの研究依頼などがあって中堅部員の多くがこれにあたったため一年延期したとある。1956年の日本は、マナスル、南極の探検イヤーだったのである。
【概要】
春別川からトヨニ岳とピリカヌプリ間の1513西尾根(コーモリ尾根)を登ってトヨニをアタックして北上。当時の春別川はルテンベツ二股まで造材トラック林道を使いその先20キロ進めて尾根末端で荷揚げBC。サポート一班はここから稜線まで縦走隊の荷揚げを手伝って見送る。サポート二班はコイカクの長髪尾根(冬尾根)から登ってコイカク山頂に構え、1599と1823に荷揚げする。サポート三班はカムイ北東尾根からエサオマンまで縦走隊の食料を荷揚げし、独自に幌尻アタックする。縦走隊は幌尻岳をアタックして下降路はカムイ北東尾根。このときまでに未踏だった稜線はピリカ〜ソエマツ間のみ。
【メンバー】
チーフリーダー:西信博(5)、縦走隊:永光俊一(4)、久木村久(3)、高橋利雄(3)、安間荘(2)の四強。サポート一班:元木暉星(4)、森康通(2)、遠藤禎一(1)、志牟田孝男(1)、北古味雄(1)、サポート二班は西信博(5)、宮地隆二(3)、高橋了乙(2),木幡貢(2)、石井清一(2)、橋本正人(1)、サポート三班は鈴木弘泰(4)、増田定雄(3)、越智溥(4)、今村正克(1)、岩崎祐三(1)。
【記録から】
入山八日目にピリカ山頂でサポートとわかれ、各々十貫の荷を負って行く。その七日後にペテガリ山頂。途中2停滞。中ノ岳ペテガリ間では雪庇を踏み抜いてハイマツにぶら下がっている。一番やばいところである。ビニロンのウインパー型テントが水を吸って重くなってきた。1599峰の山頂でデポにありつき、コイカク山頂のサポート隊と灯りで交信を交わす。
コイカク山頂テントで二班と合流。ごちそうになったあと翌日は1823へ。大晦日。濡れた寝袋はカチカチに凍り、ひろげるのが一苦労。エアマットはパンクしている。カムエクからエサオマンまで歩いた日は13時間。途中日が暮れ暗くなったがデポを目指して闇のガスの中を歩く。山頂にてデポ発見。この日が一番きつかったとある。「最後のキャンプ、石油カンは沢山荷揚げされているし、モチも沢山ある。」「雑煮を食べラジオを聞いていると、突然部員及川の大雪での遭難を報じる。きっと雪洞掘って寝てんだろう。明日になったら出てくるよといい合う。西パーティーの下山したニュースも入る。」遭難ニュースのついでに報じられたのか、全山縦走が社会に注目されていたから報じられたのかは謎だが、「及川の遭難」は事なきを得た。「どうせ寝てんだろ!」は、親近感湧くよくある会話である。カムイ北東尾根目前で雪庇を落とし、6m滑落して肝を冷やすが、無事下山した。
● 冬の十勝、大雪山縦走・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
【計画概要とメンバ】
晴天は5日に1日で計算、縦走隊は最短9日最長27日、サポート隊は最短11日、最長30日の計算。結果は先発隊の行動含めて12月19日出発、1月11日下山の24日間。チーフリーダーは木崎甲子郎(6)、縦走隊は野田四郎(5)、越野正(4)、木村俊郎(2)、サポート隊A班は井上正惟(3)、白浜晴久(5)、有波敏明(4)、B班は木崎甲子郎(6)、早稲田収(4)、野口裕(4)。C班は杉野目浩(5)、森厚(1)、岡本丈夫(2)。D班は中村利一(4)、石谷邦次(2)、中島秀雄(2)、千葉幹雄(2)。E班は山崎英雄(9)、網蔵俊雄(3)、三尾竜民(2)の19名。行程は天気さえ良ければ楽勝だが、視界、風雪が行動可能日を狭めるルート。天気判断力と十分な停滞日数が必要な計画だ。なおこの山行ではラジオを携帯しているが、これ以前に部報では記録を見ない。気象通報の為であるから音楽など聴いてはならんという話を、気象担当だった白浜氏に以前聞いたことがあるが、記録ではベートーベンの第九などをきいている。気象予報で天気図を作図して進む、というのはこの頃から始まった方法のようだ。ちなみにトランジスタラジオは1955年に登場なので、この頃は乾電池で働く真空管の携帯ラジオである。電池管というらしい。
【行動記録から】
縦走隊は白銀荘から美瑛岳、美瑛富士のコルに上がり、トムラウシ経由黒岳まで進む。サポート隊はA〜Eの五班で、一つはスマヌプリ西1050m地点にBCを設け銀杏が原へサポート。稜線での悪天停滞はかまぼこ型テントで過ごして居る。「ベストセラーの『コンチキ号漂流記』の輪読を寝ながら聞く」の時代。大晦日には銀杏が原でABD班と縦走班が合流した。AB班はうどんを作る際ラヂウスのパッキン漏れで皆中毒になり「井上は真蒼になつてふらふらしながらも、瞳孔反射を調べ、脈搏をとり特に悪い三人にはビタカンファーを打つなど大童だつた。」というのが結果笑い話に。停滞中、ヒマに任せて二つのテントをつなぐトンネルを作る。「二つの天幕の間の、イグルーとトンネルは完成した。トンネルの壁際には食料函をずらりと並べて積み上げ、片隅は深く掘られて塵埃捨場兼W.C.となつている。これでいくら吹いても大丈夫だ。」1月3日はトムラウシを超え、化雲岳まで。B班はここから帰り、A班はこの先1月6日忠別岳までサポートして別れ往路を帰る。サターンロケットみたいなものである。縦走班は翌7日には黒岳石室まで。8日層雲峡下山のラジオニュースをABD班がベースキャンプで聞いている。「野田、越野、木村のはずんだ声が聞えてくる。顔を見合わせてニヤリとした。」ラジオニュースにインタビューも放送されていたようだ。
【装備、食糧】
縦走班の天幕は前後で二つを使う。理由は次第に凍って重くなるからである。テントの下にビニールシートを敷き、コルクマットを通して浸みてくる水分を防いだ、撤収時もテントの生地が雪に凍ってくっつかないので楽とある。これも当時の新技術。「ガソリンは三人一斑の一日分を約400ccと計算し北海製罐に依頼して五号缶に約440ccを缶詰として密閉し食糧と共に各箱に分けて運んだが便利であり特記に値する。」ポリタンとかペットボトルとか無いものね、この時代は。ラーメンも1955年ベビーラーメン、1958年チキンラーメンだから、この時代は乾ウドンである。餅の半分の目方で済む。が、腹が減る。焚き火のできる(水のある)樹林帯は米、稜線では餅か乾ウドン、昼はカンパンというスタイル。
● 積雪期の日高山脈
以下5つの未踏峰、未踏稜線の記録。部報はペテガリ遭難以降18年間発行されなかったが山の会会報にあった記録を主に採録したもの。時代は上記二本の前に遡る。
ペテガリ岳〜一九四三年一月〜・・・・・・・・・・・・渡辺良一、今村昌耕
コイカク沢の遭難から3年。日米戦争も始まって1年経ち、時代の閉塞感は既に始まっていたろうか。既に世相の未来は不透明。後は無いかもしれないとの気持ちがあっただろうか。作戦は従来どおりのルート。だが沢ではなく「長髪尾根」を使いコイカクの山頂からロングアタック。以前のように重装備でヤオロマップや1599に前進基地を作らず、長時間行動になるが一日で身軽にアタックする方法で成功を収めた。またコイカク山頂の泊まりはテントではなく初めてイグルーを用いて稜線に運び上げる荷物を大幅に減らした。今最先端のクライミングに通じる軽量、迅速アタック戦法だ。多数の荷揚げ要員、稜線上の前進キャンプ設営、極地法、兵站補給計画という陸軍的手法をすべてブン投げた。この方法で日高最後の輝かしい冬季未踏峰の初登を手に入れたことを、ルームはその後長く誇りにしてきた。山登りを組織的なもの、物量的なものに変えていってしまった戦後の思潮を前に、人が山と対峙する時に要る最低限のものを研ぎ澄まして使えと最後に示した山行だった。山岳部黎明期に磨かれた、素手で原始の山に触れるという良質のアルピニズムの原点を、最後に見せた山行ではなかったろうか。
そして、手ぶらで山に登る作戦を可能にしたのがイグルーである。「この山行の特異とした点の一つは前進キャンプにイグルーを採用したことである。これ迄試験的に札幌附近の山で数回試みられ、その長短が明らかにされたが、一つのまとまった計画の中に採用したのはこれが初めてであり、この計画のためにイグルー作りの練習を三回程行って自信を作った。」
アタック隊今村昌耕(6)、佐藤弘(5)。サポートが上杉寿彦(2)、荘田幹夫(2)、渡辺良一(6)のわずか5人。12月31日上札内小学校にC0、1月3日にはコイカク山頂にイグルー。5人一時間半で完成。1月5日快晴の朝、3時25分イグルー発。ペテガリ山頂11時10分。イグルー帰着18時30分の15時間行動。翌1月6日はサポート隊が登ってきて、翌日ヤオロマップと23をアタックして帰る。「すでに相当下からヤッホーを交わしてペテガリ登頂が成功したことを知つた。登る我々の感激も一入であつたが、上から知らすかれらの声も喜びに溢れていた。とうとう成功か!なんと長い間北海道の一角に聳えてつき纏った山であつたろう。カメラーデンリートを歌い、ケルンの側で黙祷」。これまで1936年3月(悪天)、1937年12月〜2月(悪天)、1939年12月〜1月(雪崩遭難)、1941年3月(悪天)と重ねた末だった。このとき成功しなければ戦争で登れず、戦後一番のりの早稲田大東尾根ルート隊が初登していたかもしれない。
この山行を成功させたイグルーの由来については、高澤光雄の研究が詳しい。コイカク遭難の目撃者でもあったイタリア人留学生フォスコ・マライーニが、事故の翌月には手稲山でのイグルー実験をして「1940(昭和15)年2月4日と翌日の『北海タイムス』で『冬の山岳征服にエスキモー雪小屋(イグルー)の実験、マライーニ君手稲山頂で成功』の見出しで『ペテガリ遭難は雪崩であったが、テントを運び上げた登山家の苦労は筆舌に尽きぬものがあった。若しいま紹介しようとするエスキモー式雪小屋が利用されていたならば、従来の犠牲者たちは幾多救われていたと思う』と報じている」(文芸同人誌「譚」第16号・山と人と本16・高澤光雄より)また、翌3月には十勝でイグルー山行をしてその手記を同行の宮沢弘幸が北海タイムスに寄稿している。見出しは「雪小屋(イグルー)で安眠・寒さは身に應へぬ」(3月24、25日)。マライーニはこの後、41年3月に講師として京大に移ったあと反ムッソリーニの戦時捕虜として名古屋の収容所に繋がれる。ペテガリ初登の報をどこで聞いたろうか。後の活躍は前回部報7号の記事で紹介した。ちなみに話はそれるがマライーニと懇意だった宮沢弘幸とは開戦の朝スパイ罪で特高に逮捕された北大生だ。米国人と親しかっただけが逮捕理由のようで、残酷な懲役である。
http://homepage2.nifty.com/hokkochurch/organ.html
マライーニのイグルー山行がルームのペテガリ成功のヒントになっているのは間違いないだろう。
1989(昭和64)年1月、現役だった私は日高の稜線で連泊することの難しさに行き詰っていた。当時のルームはなぜか長くイグルーを使わなくなっていたが、これを積極的に使うことにして、ペテガリからコイカクまで三つのイグルーを作って前進した。テントでこういう進め方は危なくて出来ない。イグルーだからできた。イグルーはコロンブスの卵だった。1943年のパーティーも「何だと、イグルーはやってみればこんなに簡単なのか!」と思ったに違いない。しかしイグルーはなぜか一般の登山者に広がらず、常に隠し弾としての魅力を放っている。それは今も同じだ。
イドンナップ岳〜一九四八年一月〜・・・・・・・・・・・木崎甲子郎
「ペテガリとイドンナップ。この二つの頂こそ当時の部員たちの目標ではなかったか。その一つペテガリは昭和18年冬登頂され、イドンナップは宿題として戦後に残された夢でもあった。」
この山行のあった昭和22年度は巻末年報を見ても、10月までしか記録がなく、この冬季初登記がどういうルームの雰囲気で行われたかはこの一文で推測するまでである。当時山岳部長だった奥村敬次郎(のち遭難死)と橋本誠二(12)、山崎英雄(5)、菊池三郎(4)、関祐次(2)、木崎甲子郎(2)。漫画のように愉快な木崎の文章で、戦後のモノたらずながら知恵と勇気で山の麓まで辿り着き山中に向かういきさつが語られる。二月下旬。ルートは沙流川支流宿主別川(貫気別山の北をぐるりと東に登る川)を詰め、どこを超えたのか不明だが新冠川の谷におり、いまは新冠湖の底になっているサツナイ沢出会いにベースを構え942ポコの北西尾根からシュウレルカシュペ沢右岸尾根を延々アタックした。一度目のアタックは山頂手前で時間切れ。二度目に登頂。「指で足下をさしている。ここが頂上か、といっているらしい。ちがうちがうと手を振ってまた歩き出す。どうもここらしいと立止まったのはそれから三〇分も経つた頃だつたろうか。三角点もはつきりしないが、夏の記憶を辿つてここだろう。いやここにちがいないときめてしまつた。たよりないことではあるが、同じような尾根続きのひとつの瘤をそれも最高点ではないところを三角点にしたようなこの山では、たとえ三角点でなくてもたいしたことではない。しかし初登頂である。」いや、イドンナップの山頂なんてどこなのか今だって誰にもわからないんじゃないでしょうか。つい一ヶ月前にはナメワッカに冬季初登頂したとあるのだが、その記録は不明。部報18号は突貫で編集したのでそういう大事な記録がボコボコ欠落している。
札内岳よりカムイエクウチカウシ山へ〜一九四九年一月〜
・・・・橋本誠二
前年1947(昭和22)年度の年報記録はほとんど欠けているが、文脈によるとこの年(1948)の1月にもナメワッカ分岐からカムエクアタックの計画があり、未遂に終わっているようだ。この間の稜線が、まだ冬季未踏なのである。この時代の課題は、8の沢からではなく、カムエクの北と、南の主稜線からの登頂だ。橋本誠二(13)、関裕次(3)、長井晃四郎(3)、野田四郎(2)。ピリカペタヌ→札内岳→エサオマントッタベツ岳→1900峰→カムイエクウチカウシ山のアタックである。八千代の造材事務所の先はピリカペタヌ沢でBC、札内岳中腹C1、札内岳Co1700にC2イグルー、最低コルにC3イグルー、ナメワッカ分岐にC4イグルーと、雪の少ない1月でもあり、積極的にイグルーを利用している。
C2「イグルーは雪庇を円くぬいてその上にドーム状に積んだ。」この方法が稜線では一番早い。竪穴の上にドームの浅い蓋を載せるのだ。C3,C4では吹き溜まりを利用した半分雪洞、半分イグルー。「ここは風が特別に巻くところだけに吹きだまりが発達している。そこに半雪洞式のを掘り出す。一米五十も掘ると氷の層があり手間どつた。停滞を覚悟なので、二重のガラス窓付きのイグルーにした。」ガラス窓ってのは本物を持っていったのか氷か?入山10日目の1月21日にカムエクをアタック。山頂からは南側稜線の困難ぶりを確認して、展望を楽しみ山頂で50分くつろぐ。帰りは日暮れと競争になった。「見る見る沈んでいく陽がはかない光を、吹きまくる雪煙りに投げて行くのはいかにも冬の山稜上に吾在りという気持を与えるものであつたが一方極めてたよりのないものであつた。」帰りの東西稜線は風向きが変わりやすい。帰路は雪庇が逆向きになり最低コルの「イグルーを作った吹きだまりも、イグルーのところを残して、みななくなっていたのには驚いた。」これは重要な記述である。最後にイグルーのまとめで、半雪洞式は雪洞とイグルー部分の沈み方が偏って不連続になるが、縦穴にイグルーのドーム蓋を付けたものは天井の沈下がほとんどない。との記述がある。私も竪穴の上にイグルーが最も良いと同意する。
コイカクシュ札内岳よりカムイエクウチカウシ山へ〜一九五〇年一月〜
・・・・山崎英雄
北からのカムエクに続いてはいよいよ日高でも難しい稜線のひとつ、南からのカムエク。「また今年の冬山は終戦以来の部の実力を一つの目標に注ぎ込んでみようと〜登山形式も相当大がかりなものとなり、エクウチカウシと同時に一八三九米峰も同時に登頂しようということになった」。エクウチカウシと当時は言っていた。1月6日男沢先生宅にC0、7日入山20日下山。なお、この山行記録は巻末の年報にも無く、本文中にもメンバーに名前記述が無い。部報編集を18年もため込みすぎると不備が増える。ところが、先日整備された画像アーカイブにこの山行始め部報8号の伝説的な山行の写真が殆どある。そのキャプションにメンバーが書いてあり、以下のメンバー一覧が判明した。
A班(コイカクーカムエク縦走):山崎英雄(7)、野田四郎(3)、白浜晴久(3)、B班コイカクー1839縦走):木崎甲子郎(4)、藤木忠美(8)、越野正(2)、C班(サポート):長井晃四郎(4)、関祐次(4)、有波敏明(2)、D班(サポート)森田寛(3)、三角亨(3)、中村利一(2)
コイカクの尾根末端にBC。奥二股を左に入って百米のところ。毎度の場所なので、切り株だらけらしい。コイカクの尾根頭にイグルー四人前C3を二つ作る。「このイグルーは二件長屋である。直径二尺足らずのマドによつてオトナリと連絡しているが隣の方の床が約一尺高いので、ラジウスでせつかく温めた空気が皆隣に行き、隣の冷たい空気がわれわれの方に流れ込むという不公平な結果になつてしまつた。イグルーの中は実に静かである。コトコトと音を立てるコッヘルを黙つて見ていると突然若い女の声が隣からきこえてきた。みな顔を見合せ隣をのぞくとアンテナのおかげでラジオが快調なのだ。」先にも書いたがこの時代のポータブルラジオは真空管式で大きい。このときはイグルーの外に結構大げさなアンテナを設置している。ちなみにこの時代、目覚時計を使っているようだが、電子音でも電池式でもなく、やはりねじ巻き式でジンジン鳴るやつだろうなあ。そういう細かい所が読んでいて一番おもしろい。
C4は1823峰の山頂のやや西の尾根上にテント。ここにもイグルーを作らなかったところを見ると、やはりまだイグルー作りは難儀だと思っていたようだ。カムエクアタックの日。美しい朝焼けを見て出発、「国境が急に直角に西走する所からのエクウチカウシは誠に堂々たるもので」「一八四〇米峰からの眺めは実に立派で両側にカールを抱いたその山容は誠に貫禄十分であつた」・・・と、史上初めて厳冬のこの稜線を歩く者として、カムエクの美しさを賞嘆する言葉を惜しまない。この日、B班は39峰、C,D班は1599峰のアタックも成功させた。BCで焚き火をして下山。帰りも南札内分教場の男沢先生がお迎えしてくれた。この頃、造材のトラック道路が出来、「トラックは何十台もの馬橇をつぎつぎと追い越して中札内に向つた。」
中の岳と神威、ペテガリ岳〜一九五三年一月〜・・・杉野目浩
中ノ岳は正真正銘、日高最後の厳冬期未踏峰である。その初登記録。ルートはベッピリガイ沢から中ノ岳、ペテガリ、神威。12月27日から1月8日。メンバーは杉野目浩(6)、有波敏明(5)、岡本丈夫(3)、中島秀雄(3)、森厚(2)、小林年(1)。シベチャリ川上流奥高見開拓団入植地(現在の高見ダムの底)が最終人家だが、そこへは三石川の運材トラックに載せてもらい、駄馬道の峠越えを徒歩でする。多分今もある道。開拓地の一件に泊めて貰いおもてなしを受ける様が書いてある。「樺太から引揚げてこの数年来苦闘を続けて居られる一家であつた。天井はなくて梁には穂のついた粟がぎつしりとつりさげてあつた。」
上流コイボクシュサツナイ二股まで造材が入っているので駄馬道があるという。イベツ沢対岸やコイボク二股にも砂金取りの小屋などがあり、利用する。ペテガリ沢出会い手前の鉱山小屋というのはほぼ、現在のペテガリ山荘の位置かも。現在東の沢ダムの底はサッシビチャリ出会の三股といっている。また、メナシベツ川の本流はペテガリ沢と分かれてベッピリガイ沢と名前を変えるとあるので、そういうことかと初めて知った。今はあまりメナシベツの名を使わないから。雪が少なく「どうしてもスノウブリッヂがないと岸辺の立木を選んできりたおし橋をかけた。そんな時などからまつたぶどうづるにてんてんと山葡萄の実を見つけた。しなび果てたその黒い実は甘ずつぱくて格別新鮮であつた。」ベッピリガイの水の切れるところにBC。沢を行き、滝の捲きから右岸にあがり、1500米峰へ(これは1445のことか?)。元日に、この先、山頂まで25分のところにテントを張り、悪天の中を初登頂する。翌朝テントから這い出て晴天のペテガリと対面する。「深々としたペテガリ川の渓谷をへだてて静かなペテガリの麗姿があつた。透徹した気流と水のアルティザンに刻まれた彫刻は今冬のよそおいを凝らして匂うようにまつしろに輝いている。純潔のギッフェルよ、何もいうことはない。只その静謐な朝の一時にある感情のたかぶりを感じてたまらない幸福に酔つていたのだ。」この天場のあたりは、ペテガリの南面が最も格好良く見える場所である。ペテガリ沢が真正面、左右対称に良い三角の尾根を伸ばし、日高で最も景色の良い場所のひとつだと私は思う。この日全員でペテガリ岳をアタック。この稜線も初縦走だ。中ノ岳ペテガリ間は細いナイフで、大きな雪庇がでる難しい稜線だ。やはり中ノ川側にでかい雪庇を一発落として「思わずKの肩を掴むと無事を喜んだ。」というくらい怖いところ。天場10時発、山頂15時、帰着19時で途中日が暮れた。山頂には三角点の傍らに名刺入れの錆びた缶があった。ルームでは1943年の初登以来。この間、1947年に東尾根から早稲田が二登している。
翌三日は四人で神威岳との中間ピークまで。この稜線も初。四日杉野目、岡本、小林で神威岳をアタック。「ソエマツ岳の背後の空が、もえ黄色になり、一四八〇の大斜面を神威の鞍部へと下るころはそれが黄金色となつて日が昇つた。」「陽光燦然たる頂に立つたのは十時近く」「スキー帽の垂れを上げると遠く太平洋から吹きよせる冷え切つた風で頬は直きに熱くほてつた。」「えんえんたるわれわれのシュプールが、ペテガリに向つてやせた稜線に消え残つている。何のためにと秘かに自分に問うてみた。それは胸せまる友情の合作であり、そしてその行為の主題をどこに求めていようとそれぞれの心の勝手なのだ。」最終人家に帰りも投宿、「心暖まる数々のおもてなしに疲れも一時に出た。凍ったみかんをズラリとストーヴの上にのせて『やけたのからお上りなさい』とすすめられて、郷里が横浜のAは痛いほどこの北の地を感じたというのであつた。」
同じ冬、札幌山岳会が中ノ川から目指し、1月7日登頂している。沢4日行程、三股から尾根三日行程。あの函だらけの中ノ川をスキーで行くとは、と今では思うが、北大の使った奥高見の開拓地への乗っ越し駄馬道は戦後付けられたものであり、それ以前日高側のアプローチは考えられなかった。それ故ペテガリは遙かだった。中ノ川からの札幌山岳会隊は前年に途中で敗退していた。この年は北大と初登頂を争うことになった。札幌山岳会はこの時できたばかりでありその後、知床の冬季縦走、利尻での登攀などのめざましい活躍へとつなげていった。
(前編/中編/後編)
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部報解説・ 2008年5月8日 (木)

コイカク沢遭難でまとめた7号以来、戦争を挟んで18年ぶりに出たこれまでで最長期間の部報。山岳部の最高目標だった厳冬期ペテガリ初登(1943・昭和18年)を戦争悪化ぎりぎりまで粘って勝ち取り、戦後早くも再開した日高未踏地帯の最後の踏査記録が満載。またマナスル初登の機運で空前の登山ブームを迎えた1950年代、部員も多く活動も盛んで、日高と大雪の全山冬季縦走という大作戦を貫徹している。中身たっぷりの時代ゆえ、この部報にこぼれた多くの珠玉の記録もあったろうと思う。三回にわけて紹介する。一回目は目次代わりに18年の年報をさらりと駆け足で。
===============================
【総評】
1941-1958年度の18年分の記録。「冬の日高全山縦走」「冬の十勝大雪縦走」の二大イベントの報告が併せて70p、ペテガリ冬季初登記録を含む日高最後の初登記録五連発記録集「積雪期の日高山脈」が39p。中部日高で最後に残った秘境、ナナシ沢初遡行記含む無雪期記録集、「夏の紀行」が30p。十勝川源流の温泉小屋建設の記録と、犬ソリ研究の二つの報告が32p。追悼が7人で20p。戦死など「物故者略歴」が7p。18年分の「年報」が大量に178pで、合計377p。編集委員は5名の連名。編集後記は杉野目浩。価格は500円。最後のA5判。(敬称略)
【目次】
部報八号の発刊にあたって・・・・・・・・・・・・・・・原田準平
厳冬期の日高山脈全山縦走・・・・・・・・・・・・・・・西信博
冬の十勝、大雪山縦走・・・・・・・・・・・・・・・・・
積雪期の日高山脈
ペテガリ岳〜一九四三年一月〜・・・・・・・渡辺良一、今村昌耕
イドンナップ岳〜一九四八年一月〜・・・・・・・・・・木崎甲子郎
札内岳よりカムイエクウチカウシ山へ〜一九四九年一月〜・・・・・・・・橋本誠二
コイカクシュ札内岳よりカムイエクウチカウシ山へ〜一九五〇年一月〜・・・・・・・・・・山崎英雄
中ノ岳と神威、ペテガリ岳〜一九五三年一月〜・・・・・・杉野目浩
無言の対話・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・伊藤秀五郎
夏の紀行
余市川のほとり・・・・・・・・・・・・・・・・・・・奥村敬次郎
二つの無名沢遡行記
無名沢よりカムイエクウチカウシ山・・・・・・・・・・・滝沢政治
無名沢よりペテガリ岳・・・・・・・・・・・・・・・・・酒井和彦
夏の知床岳・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・鮫島淳一郎
森、温泉、夢〜十勝川源流温泉小舎建設始末記〜・・西村豪、神前博
犬ソリの研究・・・・・・・・・・・・北海道大学極地研究グループ
追悼
奥村先生のことなど・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木崎甲子郎
山岳部長奥村敬次郎氏遭難記録
花岡八郎兄を想う・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・向川信一
井上君の死・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・佐伯富男
康平君・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・加納正敏
前田一夫君の憶い出・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・鈴木良博
小竹幸昭の追憶・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・佐々木幸雄
加藤君のこと・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村恒美
物故者略歴(一九四〇〜一九五九)
年報 一九四一〜一九五八
写真6点、附図4点
【年報概要と時代背景】
社会も登山界も激動期なのでそういう背景を並べて、ルームのいきさつをまずはイッキに見てみる。
●1941(昭和16)年度
コイカク沢遭難から年度明けて、五月にこのルートからペテガリをアタックしている。夏メインは日高に大雪に北アルプスに9パーティー出し、冬は日米開戦直後に吹上温泉で冬合宿もやっている。三月には橋本誠二、朝比奈英三がコイカクからルベツネ岳まで迫っている。まだまだ普段どおりの年だ。
● 1942(昭和17)年度
太平洋戦線拡大。マレー、ジャワ、スマトラ占領。
夏メインは日高だけでも6パーティー、このうち渡辺良一、橋本芳郎、菊池徹は無名沢(→コイカク岳)の初遡行を遂げた。冬合宿は一年班ニセコ、二年班愛山渓で行っている。冬季は念願のペテガリ初登を成し遂げ(記事あり)、楽古岳パーティーもある。2月下旬に大雪、3月に谷川、立山へのメイン山行がある。
●1943(昭和18)年度
春ガダルカナル、アリューシャンで敗退、秋には学徒出陣。残雪期には道内全域の山行記録がある。北日高で三つの沢メイン山行はじめ年末の十勝合宿も8日間行っている。積雪期山行は武利武華と楽古に3月に小山行に行っているのみで学徒出陣の影響を受け始めているようだ。
●1944(昭和19)年度
サイパン、テニアン、グアム全滅、秋レイテ沖海戦。特攻攻撃はじまる。東京初空襲。
年末の冬合宿は吹上温泉使用不能のためニセコ馬場温泉で七日間行っているが、他の山行記録は8月の夕張岳とカムエク二つのみ。詳しい事情は書かれていない。全土が空爆にあうのは20年3月10日の東京大空襲から。
●1945(昭和20)年度
春、硫黄島全滅、全国の主要都市で空爆、沖縄で地上戦、夏原爆攻撃で敗戦。ソ連参戦。
この代の幹事に南極の菊池徹氏がいる。このご時勢に年末の十勝冬季合宿を貫徹している。「十二月一七日〜二三日、一四名。非常なる困難を克服しやることが出来た。吹上温泉使用不能のため勝岳荘にて自炊す。」敗戦の混乱の中、食料調達も苦労したはず。
●1946(昭和21)年度
極東国際軍事法廷(東京裁判)が開廷。
夏メインは日高4つ大雪1つの5班、十勝でも一週間の合宿をおこなっている。が、積雪期の山行記録は、翌年度に報告がある。7つの記録があるが、あまり長い山行は行えていない。余市岳でイグルー生活という記録もある。
●1947(昭和22)年度
日本国憲法施行。48年一月、早大隊が東尾根から極地法でペテガリに登頂、厳冬期第二登。
夏山は日高と大雪に全8班。うち中部日高班がコイカク沢の下降途中、巻きの際、転落して花岡八郎が遭難死した。翌48年一月にはイドンナップの冬季初登。
●1948(昭和23)年度
東京裁判結審。49年一月、松濤明が槍の北鎌尾根で遭難死。
主任幹事は菊池三郎。夏は日高6班と中央高地4班、冬春は日高の北トッタベツ岳などの初登含む3班、中央高地3班など。活況だ。(記事あり)
●1949(昭和24)年度
中国共産党、内戦に勝利。ネパールが開国。
主任幹事は前期山崎英雄、後期木崎甲子郎。夏は日高7班と中央高地3班、冬春は中央高地3班など。この年奥村山岳部長(教授)が札内九の沢で遭難死。
●1950(昭和25)年度
中国人民解放軍がチベット侵攻、チベット側登山はこれ以降閉ざされる。朝鮮戦争始まる。フランス隊アンナプルナに初登(8000m峰で初)。51年一月、登歩渓流会の川上亮良厳冬期利尻東稜初登頂。
主任幹事は前期後期とも山崎英雄。夏は日高8班と中央高地2班、冬春は日高3班と中央高地3班など。
●1951(昭和26)年度
サンフランシスコ講和条約調印。英シプトン隊、エベレストのネパール側東南稜を試登(初めて)。
主任幹事は通年野田四郎。夏は日高10班と中央高地2班、冬は山岳部戦後初の集団作戦、十勝大雪(美瑛富士→黒岳)厳冬期縦走。リーダーは木崎甲子郎、計19人。(記事あり)
●1952(昭和27)年度
米占領軍から開放される。今西錦司体長隊マナスル偵察。京大山岳部、知床岳と羅臼岳の厳冬期初登。
主任幹事は通年で有波敏明。夏は日高6、大雪は4班。冬は1940峰と中の岳の厳冬期初登(記事あり)を含む日高2、大雪1、ほか本州道内多数。中の岳はその六日後に札幌山岳会が別ルートで登頂。
厳冬期知床初縦走を終えた帰りに来札の京大山岳部と懇親会。合宿はヘルベチアで十二月中旬一週間と、十勝岳勝岳荘で3月中旬一週間。
●1953(昭和28)年度
英隊エベレストに初登。独墺隊、ナンガパルバット初登。第一次マナスル隊三田幸夫隊長。札幌山岳会羅臼岳ー硫黄山厳冬期初縦走。
主任幹事は木村俊郎。ベチアでの新歓に新入生9名。年末の冬合宿は十勝岳で10日間。夏は新冠川初完全遡行を含む日高7班。大雪2班、冬は日高1班、大雪1班。ほか道内、内地多数3月は穂高や立山〜槍の縦走など北アで3班。5年目部員井上正惟、5月の中ア空木岳で遭難死。8月、一年目部員鈴木康平、剣岳ブナクラ沢で鉄砲水のため遭難死。
●1954(昭和29)年度
青函連絡船「洞爺丸」遭難、水爆実験で第五福竜丸が被曝、自衛隊発足再軍備。第2次マナスル隊堀田弥一隊長断念。伊隊K2初登頂、墺隊チョーオユー初登。翌55年3月、小山義治ら東京北穂会利尻南稜初登。
主任幹事は前期岡本丈夫、後期河内洋佑。夏は日高で7班、大雪で2班。冬は全員でカムエク→幌尻の極地法の主稜線縦走(編成6班)。ほか内地道内多数。
●1955(昭和30)年度
仏隊マカルー初登、英隊カンチェンジュンガ初登
主任幹事は前期長友久雄、後期永光俊一。夏は日高8班。うち滝沢政治パーティーは無名沢から1823南面直登沢初遡行(ただし右岸に逃げている)。大雪、知床1班ずつ。冬は日高2、大雪1、芦別夕張縦走、奥又白。春は日高2、大雪2など10班。
●1956(昭和31)年度
日ソ国交回復。シベリア抑留最後の帰還。日本隊マナスル初登、昭和基地での南極観測出発。スイス隊ローツェ初登、墺隊ガッシャーブルムII峰初登。
主任幹事は前期永光俊一、後期は西信博。夏は日高10班、大雪1班。冬合宿は十勝で6日間。15名参加。これと同時に12月12日から1月8日まで日高全山(トヨニ→幌尻)厳冬期縦走(内容は本文)。リーダー西信博。縦走隊4人、サポート隊三班の計21人。部報8号の看板企画だ。春も日高で2班。
●1957(昭和32)年度
ソ連、史上初の人工衛星スプートニク1号打ち上げに成功。
西堀栄三郎隊長らの11人が第一次南極越冬。墺隊ブロードピークを速攻登山で初登。ヘルマンブール、チョゴリザで遭難。
主任幹事は前期高橋利雄、後期安間荘。五月の連休に十勝岳勝岳荘で春合宿(初?)。夏は日高9班。うち酒井和彦パーティーは無名沢から1839峰北面に初遡行。北アで二班。冬山準備合宿を11月下旬に芦別岳で4日間。十二月末に十勝で冬合宿。冬は日高2班、大雪1班、穂高に2班ほか。このほか五月下旬に二ペソツ東壁の初登記録あり。一年目部員前田一夫三月に前穂吊り尾根で遭難死。
●1958(昭和33)年度
米隊ガッシャーブルムI峰初登。翌59年一月キューバ革命、3月チベットで蜂起、鎮圧。ダライラマ、チベットを脱出。59年3月利尻東北稜初登。
主任幹事は五月まで前年より安間荘、翌二月まで酒井和彦、二月以降遠藤禎一。
4月、大雪に温泉小屋建設に向かう。この年は断念。五月新入生歓迎空沼フェスティバル、前年に続きニペソツ東壁を6月に登る。夏山は日高11班、大雪小山行多数、9月芸大山岳部OBの捜索依頼を受ける。11月21ー24と27-31に芦別岳合宿。12月は合宿に先駆け北鎌尾根→奥穂計画で、五班18人の極地法。十勝岳勝岳荘で29人、例年の冬合宿中、四年目部員小竹幸昭と一年目部員加藤幹夫、十勝OP尾根で雪崩遭難死。北鎌隊は急遽下山。その後春山は日高2、知床1、大雪1。
次回中編、後編では記事を紹介するが、戦争中、直後の記録はほとんどこの「年報」に簡潔にあるだけ。乏しい記録だが1944、45年の両年にも一週間の冬合宿を続けていたのには驚いた。そして日本の生き残りは着々と復活を遂げていったのが分かる。同じ北大山岳部という入れ物の中、自分の学生時代の年頃の世間に対する相対感覚と重ね合わせると、ルームは戦時でも世間が放っておいてくれたサンクチュアリとして在ったのかもしれない。余談ながら平成20年のいまの大学のほうがよほど「消費経済社会主義政策」に取り込まれてしまっている。その中で当局には見つかりもしないほどこぢんまりと細く強く、山岳部のトーチを繋いでいるように見える。「消費が美徳」、「金が無ければ遊び方も分からない」というご時世にあって、山岳部員が少ないのは当たり前である。
(前編/中編/後編)

1941-1958年度の18年分の記録。「冬の日高全山縦走」「冬の十勝大雪縦走」の二大イベントの報告が併せて70p、ペテガリ冬季初登記録を含む日高最後の初登記録五連発記録集「積雪期の日高山脈」が39p。中部日高で最後に残った秘境、ナナシ沢初遡行記含む無雪期記録集、「夏の紀行」が30p。十勝川源流の温泉小屋建設の記録と、犬ソリ研究の二つの報告が32p。追悼が7人で20p。戦死など「物故者略歴」が7p。18年分の「年報」が大量に178pで、合計377p。編集委員は5名の連名。編集後記は杉野目浩。価格は500円。最後のA5判。(敬称略)
【目次】
部報八号の発刊にあたって・・・・・・・・・・・・・・・原田準平
厳冬期の日高山脈全山縦走・・・・・・・・・・・・・・・西信博
冬の十勝、大雪山縦走・・・・・・・・・・・・・・・・・
積雪期の日高山脈
ペテガリ岳〜一九四三年一月〜・・・・・・・渡辺良一、今村昌耕
イドンナップ岳〜一九四八年一月〜・・・・・・・・・・木崎甲子郎
札内岳よりカムイエクウチカウシ山へ〜一九四九年一月〜・・・・・・・・橋本誠二
コイカクシュ札内岳よりカムイエクウチカウシ山へ〜一九五〇年一月〜・・・・・・・・・・山崎英雄
中ノ岳と神威、ペテガリ岳〜一九五三年一月〜・・・・・・杉野目浩
無言の対話・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・伊藤秀五郎
夏の紀行
余市川のほとり・・・・・・・・・・・・・・・・・・・奥村敬次郎
二つの無名沢遡行記
無名沢よりカムイエクウチカウシ山・・・・・・・・・・・滝沢政治
無名沢よりペテガリ岳・・・・・・・・・・・・・・・・・酒井和彦
夏の知床岳・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・鮫島淳一郎
森、温泉、夢〜十勝川源流温泉小舎建設始末記〜・・西村豪、神前博
犬ソリの研究・・・・・・・・・・・・北海道大学極地研究グループ
追悼
奥村先生のことなど・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木崎甲子郎
山岳部長奥村敬次郎氏遭難記録
花岡八郎兄を想う・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・向川信一
井上君の死・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・佐伯富男
康平君・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・加納正敏
前田一夫君の憶い出・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・鈴木良博
小竹幸昭の追憶・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・佐々木幸雄
加藤君のこと・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村恒美
物故者略歴(一九四〇〜一九五九)
年報 一九四一〜一九五八
写真6点、附図4点

社会も登山界も激動期なのでそういう背景を並べて、ルームのいきさつをまずはイッキに見てみる。
●1941(昭和16)年度
コイカク沢遭難から年度明けて、五月にこのルートからペテガリをアタックしている。夏メインは日高に大雪に北アルプスに9パーティー出し、冬は日米開戦直後に吹上温泉で冬合宿もやっている。三月には橋本誠二、朝比奈英三がコイカクからルベツネ岳まで迫っている。まだまだ普段どおりの年だ。
● 1942(昭和17)年度
太平洋戦線拡大。マレー、ジャワ、スマトラ占領。
夏メインは日高だけでも6パーティー、このうち渡辺良一、橋本芳郎、菊池徹は無名沢(→コイカク岳)の初遡行を遂げた。冬合宿は一年班ニセコ、二年班愛山渓で行っている。冬季は念願のペテガリ初登を成し遂げ(記事あり)、楽古岳パーティーもある。2月下旬に大雪、3月に谷川、立山へのメイン山行がある。
●1943(昭和18)年度
春ガダルカナル、アリューシャンで敗退、秋には学徒出陣。残雪期には道内全域の山行記録がある。北日高で三つの沢メイン山行はじめ年末の十勝合宿も8日間行っている。積雪期山行は武利武華と楽古に3月に小山行に行っているのみで学徒出陣の影響を受け始めているようだ。
●1944(昭和19)年度
サイパン、テニアン、グアム全滅、秋レイテ沖海戦。特攻攻撃はじまる。東京初空襲。
年末の冬合宿は吹上温泉使用不能のためニセコ馬場温泉で七日間行っているが、他の山行記録は8月の夕張岳とカムエク二つのみ。詳しい事情は書かれていない。全土が空爆にあうのは20年3月10日の東京大空襲から。
●1945(昭和20)年度
春、硫黄島全滅、全国の主要都市で空爆、沖縄で地上戦、夏原爆攻撃で敗戦。ソ連参戦。
この代の幹事に南極の菊池徹氏がいる。このご時勢に年末の十勝冬季合宿を貫徹している。「十二月一七日〜二三日、一四名。非常なる困難を克服しやることが出来た。吹上温泉使用不能のため勝岳荘にて自炊す。」敗戦の混乱の中、食料調達も苦労したはず。
●1946(昭和21)年度
極東国際軍事法廷(東京裁判)が開廷。
夏メインは日高4つ大雪1つの5班、十勝でも一週間の合宿をおこなっている。が、積雪期の山行記録は、翌年度に報告がある。7つの記録があるが、あまり長い山行は行えていない。余市岳でイグルー生活という記録もある。
●1947(昭和22)年度
日本国憲法施行。48年一月、早大隊が東尾根から極地法でペテガリに登頂、厳冬期第二登。
夏山は日高と大雪に全8班。うち中部日高班がコイカク沢の下降途中、巻きの際、転落して花岡八郎が遭難死した。翌48年一月にはイドンナップの冬季初登。
●1948(昭和23)年度
東京裁判結審。49年一月、松濤明が槍の北鎌尾根で遭難死。
主任幹事は菊池三郎。夏は日高6班と中央高地4班、冬春は日高の北トッタベツ岳などの初登含む3班、中央高地3班など。活況だ。(記事あり)
●1949(昭和24)年度
中国共産党、内戦に勝利。ネパールが開国。
主任幹事は前期山崎英雄、後期木崎甲子郎。夏は日高7班と中央高地3班、冬春は中央高地3班など。この年奥村山岳部長(教授)が札内九の沢で遭難死。
●1950(昭和25)年度
中国人民解放軍がチベット侵攻、チベット側登山はこれ以降閉ざされる。朝鮮戦争始まる。フランス隊アンナプルナに初登(8000m峰で初)。51年一月、登歩渓流会の川上亮良厳冬期利尻東稜初登頂。
主任幹事は前期後期とも山崎英雄。夏は日高8班と中央高地2班、冬春は日高3班と中央高地3班など。
●1951(昭和26)年度
サンフランシスコ講和条約調印。英シプトン隊、エベレストのネパール側東南稜を試登(初めて)。
主任幹事は通年野田四郎。夏は日高10班と中央高地2班、冬は山岳部戦後初の集団作戦、十勝大雪(美瑛富士→黒岳)厳冬期縦走。リーダーは木崎甲子郎、計19人。(記事あり)
●1952(昭和27)年度
米占領軍から開放される。今西錦司体長隊マナスル偵察。京大山岳部、知床岳と羅臼岳の厳冬期初登。
主任幹事は通年で有波敏明。夏は日高6、大雪は4班。冬は1940峰と中の岳の厳冬期初登(記事あり)を含む日高2、大雪1、ほか本州道内多数。中の岳はその六日後に札幌山岳会が別ルートで登頂。
厳冬期知床初縦走を終えた帰りに来札の京大山岳部と懇親会。合宿はヘルベチアで十二月中旬一週間と、十勝岳勝岳荘で3月中旬一週間。
●1953(昭和28)年度
英隊エベレストに初登。独墺隊、ナンガパルバット初登。第一次マナスル隊三田幸夫隊長。札幌山岳会羅臼岳ー硫黄山厳冬期初縦走。
主任幹事は木村俊郎。ベチアでの新歓に新入生9名。年末の冬合宿は十勝岳で10日間。夏は新冠川初完全遡行を含む日高7班。大雪2班、冬は日高1班、大雪1班。ほか道内、内地多数3月は穂高や立山〜槍の縦走など北アで3班。5年目部員井上正惟、5月の中ア空木岳で遭難死。8月、一年目部員鈴木康平、剣岳ブナクラ沢で鉄砲水のため遭難死。
●1954(昭和29)年度
青函連絡船「洞爺丸」遭難、水爆実験で第五福竜丸が被曝、自衛隊発足再軍備。第2次マナスル隊堀田弥一隊長断念。伊隊K2初登頂、墺隊チョーオユー初登。翌55年3月、小山義治ら東京北穂会利尻南稜初登。
主任幹事は前期岡本丈夫、後期河内洋佑。夏は日高で7班、大雪で2班。冬は全員でカムエク→幌尻の極地法の主稜線縦走(編成6班)。ほか内地道内多数。
●1955(昭和30)年度
仏隊マカルー初登、英隊カンチェンジュンガ初登
主任幹事は前期長友久雄、後期永光俊一。夏は日高8班。うち滝沢政治パーティーは無名沢から1823南面直登沢初遡行(ただし右岸に逃げている)。大雪、知床1班ずつ。冬は日高2、大雪1、芦別夕張縦走、奥又白。春は日高2、大雪2など10班。
●1956(昭和31)年度
日ソ国交回復。シベリア抑留最後の帰還。日本隊マナスル初登、昭和基地での南極観測出発。スイス隊ローツェ初登、墺隊ガッシャーブルムII峰初登。
主任幹事は前期永光俊一、後期は西信博。夏は日高10班、大雪1班。冬合宿は十勝で6日間。15名参加。これと同時に12月12日から1月8日まで日高全山(トヨニ→幌尻)厳冬期縦走(内容は本文)。リーダー西信博。縦走隊4人、サポート隊三班の計21人。部報8号の看板企画だ。春も日高で2班。
●1957(昭和32)年度
ソ連、史上初の人工衛星スプートニク1号打ち上げに成功。
西堀栄三郎隊長らの11人が第一次南極越冬。墺隊ブロードピークを速攻登山で初登。ヘルマンブール、チョゴリザで遭難。
主任幹事は前期高橋利雄、後期安間荘。五月の連休に十勝岳勝岳荘で春合宿(初?)。夏は日高9班。うち酒井和彦パーティーは無名沢から1839峰北面に初遡行。北アで二班。冬山準備合宿を11月下旬に芦別岳で4日間。十二月末に十勝で冬合宿。冬は日高2班、大雪1班、穂高に2班ほか。このほか五月下旬に二ペソツ東壁の初登記録あり。一年目部員前田一夫三月に前穂吊り尾根で遭難死。
●1958(昭和33)年度
米隊ガッシャーブルムI峰初登。翌59年一月キューバ革命、3月チベットで蜂起、鎮圧。ダライラマ、チベットを脱出。59年3月利尻東北稜初登。
主任幹事は五月まで前年より安間荘、翌二月まで酒井和彦、二月以降遠藤禎一。
4月、大雪に温泉小屋建設に向かう。この年は断念。五月新入生歓迎空沼フェスティバル、前年に続きニペソツ東壁を6月に登る。夏山は日高11班、大雪小山行多数、9月芸大山岳部OBの捜索依頼を受ける。11月21ー24と27-31に芦別岳合宿。12月は合宿に先駆け北鎌尾根→奥穂計画で、五班18人の極地法。十勝岳勝岳荘で29人、例年の冬合宿中、四年目部員小竹幸昭と一年目部員加藤幹夫、十勝OP尾根で雪崩遭難死。北鎌隊は急遽下山。その後春山は日高2、知床1、大雪1。

(前編/中編/後編)
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部報解説・ 2008年1月25日 (金)

追悼
故島村光太郎君の追憶 櫻井勝壽
徳さんを憶ふ 相川修
憶ひ出 本野正一
追憶 朝比奈英三
徳さんの憶ひ出 橋本巌
有馬洋 福地宏平
追憶 湊正雄
戸倉君を憶ふ 林和夫
清水誠吉君を憶ふ 有馬純
近藤達君 橋本誠二
追悼 倉林正尚
羽田君 新美長夫
渡邉盛達君を憶ふ 塩月陽一
●故島村光太郎君の追憶 櫻井勝壽
島村光太郎氏は1926年の創部期から活躍。理学部に進んでは植物学教室。チャチャヌプリに足跡を残し、部報二号で「国後島遊記」を記している。植木会社に就職していたが、1938年召集令を受け、北支で匪賊討伐戦の輸送指揮にあたる。1939年1月、河南省の戦闘で32歳で戦死した。小さな男の子がいた。従軍中も植物標本を集めていたという。
●徳さんを憶ふ 相川修
●憶ひ出 本野正一
徳永正雄氏は1929(昭和4)年入部。坂本直行、相川修らと共に、札幌二中の出身組だ。予科からあわせて6年間1935年1月までの記録がある。畜産課を出て満洲に赴任。病死したとある。
●追憶 朝比奈英三
瀬戸三郎氏は1930年から山行記録がある。予科を修了して畜産の学生になってから正式に山岳部員になった。37年1月の利尻も踏んでいる。1938年12月の上ホロ雪崩で遭難死した。
●徳さんの憶ひ出 橋本巌
1938年12月の上ホロ雪崩で遭難死した高田徳氏への追悼。1934(昭和9年)入部で遭難は5年目の冬。猛烈に勉強する医学生だった様が記してある。長崎の出身で、シーボルトにも詳しかったと。
●有馬洋 福地宏平
1934(昭和9年)入部で、1940(昭和15)年一月のコイカク沢雪崩で遭難。その前昭和12年の冬季ペテガリ隊にも参加、部報6号には「ペテガリソナタ」と題した夏の紀行がある。今回のペテガリ隊の中心メンバーだった。
「多くの人が横道へそれたり、或は安逸に流れる間に有馬は多くの輝かしい業績を殘しながら遂にペテガリ岳に於て北海道の冬期登山の形式に新しい方法を取り入れ、又トムラウシより二ペソツへの企てに於て冬期登山の形式を飛躍せしめて、冬山に漂泊の旅をなしたのである。」
また昭和12年のペテガリ遠征のときの話、「『下らずに矢張り連絡に行かう』と最初に云ったのは有馬だつた。そして坂本直行兄と二人で吹雪を衝いて出掛けて行った。居る丈けでも危險な日高の痩尾根、而かも晴れてさへザイルの要るヤオロマツプを此の烈風中に行く事は死を賭して義務を遂行する事、寧ろ自分の死を賭しても友を救ふ事である。かゝる行爲を書物で讀んだ人は居やう。然し實際に體驗した人は多くないと思はれる。眞の友は窮境に於て始めて得られると云ふ。學生は總て友を有する、然しかゝる眞實な、赤裸々な、崇高なる人格を友の中に眞實の意味で信じ得る幸福を持つものは山嶽部員のみではなからうか。」
有馬洋は山岳部を引っ張る、時代の寵児であり、当時皆からもっとも頼りにされていた一人だった。
●追憶 湊正雄
有馬と同じ昭和9年入部でリーダー格の葛西晴雄(コイカク沢遭難)の追悼。二人と同期の湊は上ホロ雪崩にあいながら生還している。有馬と葛西が昭和13年冬の神威岳山行に出かけた際、行きそびれた事を悔やんでそのときの思い出を書いている。「私は彼がよく山の歸り等に、炭燒く直行さんを訪ねて、獨りで柏の林の中を行く氣持を何かしら深い感謝と共に思ひ浮かべるのである。霙降る日、私は二人で圓山の林等歩いた事があつたが、そんな時彼は、だまつてゐれば何時間でも雨に打たれて邊りを眺めてゐる樣な人であつた。」有馬と葛西の二人は皆が認める当時のルームの引っ張り頭、山行を共にする機会も多かったようだ。
●戸倉君を憶ふ 林和夫
1936(昭和11年)入部、4年目でコイカク沢で遭難した戸倉源次郎氏の追悼。林和夫は札幌一中時代からの先輩で同じ電気工学科。戸倉氏は始めは自転車旅行や他の事に興味があって山登りは片手間だったようだが、夏の計画で林氏の助言で石狩岳、トムラウシの沢旅に行ってからは俄然山岳部の活動にのめりこんだという。
「雨の中でした石狩岳登頂の不安、その後に得た雲表上快晴の頂上の思ひ出等を非常な喜びを持つて話してくれた。之以來彼の登山態度は變はつて行つた。」「彼と最後に逢つたのは十四年十二月二十九日、合宿を終へて一緒に下山し、歸郷する私と朝比奈を上富良野驛のプラットホームに見送つて呉れた時の事で有る。此の度は事情あつてペテガリ行に參加出來なかつた私の名刺を頂上に置いて來て上げると言ひ懷に入れた。そして明日から始まる激しい登行に對して沈潛した情熱と確信を、強い近眼鏡の奧に細い目を光らせ、口をすぼめた穩やかな顏の陰に祕め、汽車が寒い風を切つて動き出すに連れ、次第に遠のいて行つた彼の姿は私の目にやきついて忘れ難いもので有る。かくして私は最も信じ愛した友を失つた。」
●清水誠吉君を憶ふ 有馬純
コイカク沢で遭難した清水誠吉氏は1936(昭和11年)入部、4年目部員だった。有馬純は有馬洋の弟で、清水とは旧制中学二年以来の親友だった。
「清水は決して遠慮しながら一歩距てて愛した友ではない。少年の最も彈力ある心に素直にお互を受入れ、破綻無く育つた二人の間である。」「實にリファインされた文化人と云ふ感じ」「清水程常識の廣い男は居ない」という評価をルーム内で受けていた。有馬は一緒にコイボク23、ペテガリの山行をした折の思い出、一本の鷹の羽を拾った清水の美しい感性の話(部報7号に遺稿あり)を思い出す。亡き後の清水の部屋の「机のペン皿の上にあのシュシビチャリの鷹の羽を見た。かくして私は今更無限の山の思ひ出と少年の思出をもつ清水を失つた事を知つて唖然とした。」
●近藤達君 橋本誠二
1936(昭和11年)入部、4年目のときコイカク沢で遭難した近藤達氏の追悼。遭難死した清水、片山、近藤、渡邊と橋本は同期。雪崩の日は体調不良でテントに残り遭難を免れた。事故後最初にデブリを前にしたのは橋本である。「あんなに良い仲間なんて再び出來るものではない。私は彼等の美しい思ひ出を一生胸に抱いて居られる丈でも幸福である。一月六日あのコイカクシユの雪崩の翌日デブリの一角に立つた時、私は之から如何にして毎日を暮らしたら良いか判らなくなつて、いつそ死んで了つたらとさへ思つた。」近藤は真面目な上に世話焼きで、学校をサボろうと帰りかけた橋本を捕まえ「缺席日數も彼は調べ上げてゐて、後何囘で及落會議にかゝるとか云ふのには私も全く閉口した。私をこんなに迄心配して呉れる君の氣持ちを無視した結果は試驗になると、君や片山シヤモに來て貰つてはブランクを必死で埋めなければならなかつた。」後年地質学教室の大先生になった橋本ヤンチョ氏の不真面目学生時代の思い出も記されている。「私は當時のことを囘想すると狂はしい迄な感じが心を搖すり、何をする事さへも出來なくなつて了ふ。本當に樂しい張りのある日を過ごして居るうちに、隱された雪庇のシユパルテに落ち込む時の樣に、私は突然悲しみの中につき落とされて了つた。暖かな目でヂツと私を見守つてゐて呉れた葛西、有馬の兩先輩を私は失つて了つたし、本當に親しかつた仲間とも永久に別れなければならなくなつた。私は山から歸つて色々な人に運がよかつたと云はれたが、私にはさうはどうしても考へられないのである。寧ろ私はあんなに氣持ちの良かつた友や先輩と一緒に死んで行つた方がどれ程良かつたか判らない。私はコイカクシユの美しい雪の中から、一人又一人と友の生けるまゝの姿が見出された時、その一人一人に仲間外れにされて行く樣に思はれてならなかつた。」遭難後一年、パーティー生き残りの橋本による追悼。
●追悼 倉林正尚
1936(昭和11年)入部、4年目のときコイカク沢で遭難した片山純吉氏の追悼。片山氏は津山の出身で、遭難死した清水、近藤、渡邊と同期。片山の二つ下の倉林が、恵迪寮時代の話などを記す。片山はあだ名でシャモと呼ばれた。「全く打解けた、外から見れば禮儀を辯へぬと言はれさうな仲間が在つた。其の各自も何等自覺した目的や理想を、何時も用意などはして居なかつた。其れは其の點に關して言へば穉兒の集ひと同然であつたらう。之が私達の間に生活せられた數年の月日であつた。無言の内に、決定的美を各々に認め合つて、何等の形式張つた事を必要とせず、常識を脱した或物から發する直觀によつて自然に結ばれた此の仲間に於いて、兄は好き中心であつた。そして私達は兄を『シヤモ』と呼んでゐた。」戦前の恵迪寮もまた、この雰囲気だった。山のみならず、里での楽しい思い出について触れられている。
●羽田君 新美長夫
1936(昭和11年)12月入部、4年目のときコイカク沢で遭難した羽田喜久男氏の追悼。あだ名は「二代目消耗」。「彼は二代目消耗と呼ばれてゐました。山嶽部に於いて消耗なる語の定義は『決して消耗ばかりしてゐる人の事ではなく、毎時もは消耗してゐる樣に見えながら、他の人々が消耗した樣な時に俄然素晴らしい馬力を出す人』でなければならないのです。」口数の少ない羽田氏と相手のことをあれこれ詮索しない新美氏。羽田が死んで初めて、たいした言葉も交わさずとも一番多く山をともにした相手であったことに気づく。「彼は自分の氣持を口に出しませんでした。又そんな事を何も書きませんでした。その事が彼の氣持を推察するのに物足りない事等でせうか。私は何の感想も書かれてゐない彼の山日記の記録こそ、本當に彼の氣持を傳へてゐると思ふのです。日時、天候、時間、それこそ、その日の空の樣子を、周圍の景色を、そして彼の姿を、顏色を、又彼の心持をも想像させて呉れるものなのです。」
●渡邉盛達君を憶ふ 鹽月陽一
1936(昭和11年)入部、4年目のときコイカク沢で遭難した渡邉盛達氏の追悼。「君を始めて知つたのは山嶽部の新入生歡迎會の夕べであつた。高い足駄を穿きマントを羽織つた紅顏の少年は今でもはつきり思ひ出される。」「又君は部に於いても級に於いても喧しい連中の一人だつた。」恵庭、漁岳の春の山行で、行動中のたくましさとテントに帰っての馬鹿話のうまさの転換振りを紹介している。また、製図が得意だった。「冬のペテガリ登攀にもテントのデザインを製圖して熱心に備品を研究してゐたのでもその一端を窺ひ知ることが出來る。」
年報
1938.5-1940.10
写真二点、スケッチ一点、地図五点
(解説前編/中編/後編)
島村光太郎氏は1926年の創部期から活躍。理学部に進んでは植物学教室。チャチャヌプリに足跡を残し、部報二号で「国後島遊記」を記している。植木会社に就職していたが、1938年召集令を受け、北支で匪賊討伐戦の輸送指揮にあたる。1939年1月、河南省の戦闘で32歳で戦死した。小さな男の子がいた。従軍中も植物標本を集めていたという。
●徳さんを憶ふ 相川修
●憶ひ出 本野正一
徳永正雄氏は1929(昭和4)年入部。坂本直行、相川修らと共に、札幌二中の出身組だ。予科からあわせて6年間1935年1月までの記録がある。畜産課を出て満洲に赴任。病死したとある。
●追憶 朝比奈英三
瀬戸三郎氏は1930年から山行記録がある。予科を修了して畜産の学生になってから正式に山岳部員になった。37年1月の利尻も踏んでいる。1938年12月の上ホロ雪崩で遭難死した。
●徳さんの憶ひ出 橋本巌
1938年12月の上ホロ雪崩で遭難死した高田徳氏への追悼。1934(昭和9年)入部で遭難は5年目の冬。猛烈に勉強する医学生だった様が記してある。長崎の出身で、シーボルトにも詳しかったと。
●有馬洋 福地宏平
1934(昭和9年)入部で、1940(昭和15)年一月のコイカク沢雪崩で遭難。その前昭和12年の冬季ペテガリ隊にも参加、部報6号には「ペテガリソナタ」と題した夏の紀行がある。今回のペテガリ隊の中心メンバーだった。
「多くの人が横道へそれたり、或は安逸に流れる間に有馬は多くの輝かしい業績を殘しながら遂にペテガリ岳に於て北海道の冬期登山の形式に新しい方法を取り入れ、又トムラウシより二ペソツへの企てに於て冬期登山の形式を飛躍せしめて、冬山に漂泊の旅をなしたのである。」
また昭和12年のペテガリ遠征のときの話、「『下らずに矢張り連絡に行かう』と最初に云ったのは有馬だつた。そして坂本直行兄と二人で吹雪を衝いて出掛けて行った。居る丈けでも危險な日高の痩尾根、而かも晴れてさへザイルの要るヤオロマツプを此の烈風中に行く事は死を賭して義務を遂行する事、寧ろ自分の死を賭しても友を救ふ事である。かゝる行爲を書物で讀んだ人は居やう。然し實際に體驗した人は多くないと思はれる。眞の友は窮境に於て始めて得られると云ふ。學生は總て友を有する、然しかゝる眞實な、赤裸々な、崇高なる人格を友の中に眞實の意味で信じ得る幸福を持つものは山嶽部員のみではなからうか。」
有馬洋は山岳部を引っ張る、時代の寵児であり、当時皆からもっとも頼りにされていた一人だった。
●追憶 湊正雄
有馬と同じ昭和9年入部でリーダー格の葛西晴雄(コイカク沢遭難)の追悼。二人と同期の湊は上ホロ雪崩にあいながら生還している。有馬と葛西が昭和13年冬の神威岳山行に出かけた際、行きそびれた事を悔やんでそのときの思い出を書いている。「私は彼がよく山の歸り等に、炭燒く直行さんを訪ねて、獨りで柏の林の中を行く氣持を何かしら深い感謝と共に思ひ浮かべるのである。霙降る日、私は二人で圓山の林等歩いた事があつたが、そんな時彼は、だまつてゐれば何時間でも雨に打たれて邊りを眺めてゐる樣な人であつた。」有馬と葛西の二人は皆が認める当時のルームの引っ張り頭、山行を共にする機会も多かったようだ。
●戸倉君を憶ふ 林和夫
1936(昭和11年)入部、4年目でコイカク沢で遭難した戸倉源次郎氏の追悼。林和夫は札幌一中時代からの先輩で同じ電気工学科。戸倉氏は始めは自転車旅行や他の事に興味があって山登りは片手間だったようだが、夏の計画で林氏の助言で石狩岳、トムラウシの沢旅に行ってからは俄然山岳部の活動にのめりこんだという。
「雨の中でした石狩岳登頂の不安、その後に得た雲表上快晴の頂上の思ひ出等を非常な喜びを持つて話してくれた。之以來彼の登山態度は變はつて行つた。」「彼と最後に逢つたのは十四年十二月二十九日、合宿を終へて一緒に下山し、歸郷する私と朝比奈を上富良野驛のプラットホームに見送つて呉れた時の事で有る。此の度は事情あつてペテガリ行に參加出來なかつた私の名刺を頂上に置いて來て上げると言ひ懷に入れた。そして明日から始まる激しい登行に對して沈潛した情熱と確信を、強い近眼鏡の奧に細い目を光らせ、口をすぼめた穩やかな顏の陰に祕め、汽車が寒い風を切つて動き出すに連れ、次第に遠のいて行つた彼の姿は私の目にやきついて忘れ難いもので有る。かくして私は最も信じ愛した友を失つた。」
●清水誠吉君を憶ふ 有馬純
コイカク沢で遭難した清水誠吉氏は1936(昭和11年)入部、4年目部員だった。有馬純は有馬洋の弟で、清水とは旧制中学二年以来の親友だった。
「清水は決して遠慮しながら一歩距てて愛した友ではない。少年の最も彈力ある心に素直にお互を受入れ、破綻無く育つた二人の間である。」「實にリファインされた文化人と云ふ感じ」「清水程常識の廣い男は居ない」という評価をルーム内で受けていた。有馬は一緒にコイボク23、ペテガリの山行をした折の思い出、一本の鷹の羽を拾った清水の美しい感性の話(部報7号に遺稿あり)を思い出す。亡き後の清水の部屋の「机のペン皿の上にあのシュシビチャリの鷹の羽を見た。かくして私は今更無限の山の思ひ出と少年の思出をもつ清水を失つた事を知つて唖然とした。」
●近藤達君 橋本誠二
1936(昭和11年)入部、4年目のときコイカク沢で遭難した近藤達氏の追悼。遭難死した清水、片山、近藤、渡邊と橋本は同期。雪崩の日は体調不良でテントに残り遭難を免れた。事故後最初にデブリを前にしたのは橋本である。「あんなに良い仲間なんて再び出來るものではない。私は彼等の美しい思ひ出を一生胸に抱いて居られる丈でも幸福である。一月六日あのコイカクシユの雪崩の翌日デブリの一角に立つた時、私は之から如何にして毎日を暮らしたら良いか判らなくなつて、いつそ死んで了つたらとさへ思つた。」近藤は真面目な上に世話焼きで、学校をサボろうと帰りかけた橋本を捕まえ「缺席日數も彼は調べ上げてゐて、後何囘で及落會議にかゝるとか云ふのには私も全く閉口した。私をこんなに迄心配して呉れる君の氣持ちを無視した結果は試驗になると、君や片山シヤモに來て貰つてはブランクを必死で埋めなければならなかつた。」後年地質学教室の大先生になった橋本ヤンチョ氏の不真面目学生時代の思い出も記されている。「私は當時のことを囘想すると狂はしい迄な感じが心を搖すり、何をする事さへも出來なくなつて了ふ。本當に樂しい張りのある日を過ごして居るうちに、隱された雪庇のシユパルテに落ち込む時の樣に、私は突然悲しみの中につき落とされて了つた。暖かな目でヂツと私を見守つてゐて呉れた葛西、有馬の兩先輩を私は失つて了つたし、本當に親しかつた仲間とも永久に別れなければならなくなつた。私は山から歸つて色々な人に運がよかつたと云はれたが、私にはさうはどうしても考へられないのである。寧ろ私はあんなに氣持ちの良かつた友や先輩と一緒に死んで行つた方がどれ程良かつたか判らない。私はコイカクシユの美しい雪の中から、一人又一人と友の生けるまゝの姿が見出された時、その一人一人に仲間外れにされて行く樣に思はれてならなかつた。」遭難後一年、パーティー生き残りの橋本による追悼。
●追悼 倉林正尚
1936(昭和11年)入部、4年目のときコイカク沢で遭難した片山純吉氏の追悼。片山氏は津山の出身で、遭難死した清水、近藤、渡邊と同期。片山の二つ下の倉林が、恵迪寮時代の話などを記す。片山はあだ名でシャモと呼ばれた。「全く打解けた、外から見れば禮儀を辯へぬと言はれさうな仲間が在つた。其の各自も何等自覺した目的や理想を、何時も用意などはして居なかつた。其れは其の點に關して言へば穉兒の集ひと同然であつたらう。之が私達の間に生活せられた數年の月日であつた。無言の内に、決定的美を各々に認め合つて、何等の形式張つた事を必要とせず、常識を脱した或物から發する直觀によつて自然に結ばれた此の仲間に於いて、兄は好き中心であつた。そして私達は兄を『シヤモ』と呼んでゐた。」戦前の恵迪寮もまた、この雰囲気だった。山のみならず、里での楽しい思い出について触れられている。
●羽田君 新美長夫
1936(昭和11年)12月入部、4年目のときコイカク沢で遭難した羽田喜久男氏の追悼。あだ名は「二代目消耗」。「彼は二代目消耗と呼ばれてゐました。山嶽部に於いて消耗なる語の定義は『決して消耗ばかりしてゐる人の事ではなく、毎時もは消耗してゐる樣に見えながら、他の人々が消耗した樣な時に俄然素晴らしい馬力を出す人』でなければならないのです。」口数の少ない羽田氏と相手のことをあれこれ詮索しない新美氏。羽田が死んで初めて、たいした言葉も交わさずとも一番多く山をともにした相手であったことに気づく。「彼は自分の氣持を口に出しませんでした。又そんな事を何も書きませんでした。その事が彼の氣持を推察するのに物足りない事等でせうか。私は何の感想も書かれてゐない彼の山日記の記録こそ、本當に彼の氣持を傳へてゐると思ふのです。日時、天候、時間、それこそ、その日の空の樣子を、周圍の景色を、そして彼の姿を、顏色を、又彼の心持をも想像させて呉れるものなのです。」
●渡邉盛達君を憶ふ 鹽月陽一
1936(昭和11年)入部、4年目のときコイカク沢で遭難した渡邉盛達氏の追悼。「君を始めて知つたのは山嶽部の新入生歡迎會の夕べであつた。高い足駄を穿きマントを羽織つた紅顏の少年は今でもはつきり思ひ出される。」「又君は部に於いても級に於いても喧しい連中の一人だつた。」恵庭、漁岳の春の山行で、行動中のたくましさとテントに帰っての馬鹿話のうまさの転換振りを紹介している。また、製図が得意だった。「冬のペテガリ登攀にもテントのデザインを製圖して熱心に備品を研究してゐたのでもその一端を窺ひ知ることが出來る。」
年報
1938.5-1940.10
写真二点、スケッチ一点、地図五点
(解説前編/中編/後編)
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部報解説・ 2007年11月7日 (水)

遭難報告2題と追悼13題にはさまれたわずか三つの普通の記事。ペテガリ紀行は三人とも遭難死する前の夏の記録。みんなのペテガリに対する思い入れと情熱にあふれている。当時のメナシベツ川中流部の深山大河ぶり、ナナシ沢出会いの謎めきぶりもうかがえる。橋本による山名の真偽に関する小文は全文を掲載した。コイカクの名が変更された歴史的に決定的な一文である。アイヌ語山名の由来について書いた、あやうい根拠も示されている。カムエクの名はその後修正されることはなかった。
●紀行
・三月の忠別越え石狩岳 橋本誠二
・遙かなるペテガリへ(遺稿) 清水誠吉
・カムイエクウチカウシ山、コイボク札内岳等の山名に就いて 橋本誠二
●紀行
三月の忠別越え石狩岳 橋本誠二
1939年3月11日〜23日、清水、片山、橋本で、これまで無かった積雪期の忠別岳の乗越し計画。松山温泉(天人峡)から化雲岳、忠別岳経由で未知の沢を下り、石狩川本流を前石狩沢から石狩岳アタック、層雲峡へ下る。
忠別への乗越しまではガスに阻まれる。「白い雪の原、白い霧、私達は逆さになつて歩いてゐる樣な氣持になつたりした。先頭の清水のシュプールが三人の世界の初りで、世界の終りは殿をしてゐる私 の十數米後である。『アツ』と云ふ聲が聞えると清水が見えなくなつた。例の崖かと驚く二人に、清水が右下の雪の中に轉んでゐたりした。所々クラストをして ゐて、使ひ古しのスキーにはエッヂが立たないからである。夢中で歩いてゐた私達は見覺えある所に出た。煙草の吸殼が轉がつてゐて、逆戻りをして了つた事が 判つた。茫然としてテントを吹きまくる風の間に擴げた。」というトボけた話。
忠別への日は晴れた。山頂より未知のシピナイへ下る。「一七〇一米に着くとケルンが積んであり、棒が一つ立ててあつた。その先きには雨や雪や風にさらされた布切れがハタハタとなつてゐた。黒々とした靜かな森 を一目に見下すこの高臺の端に立つてケルンを積んだ人はどんな人であつたらう。夕映えを身に受けてヂツと森に見入つては石を運ぶ一人ぼつちのアイヌの姿。 私はいろいろと想像を廻らせて見た。」その後下ったシピナイ流域の針葉樹林の見事さにすっかり酔っている一行。「私は泣き出し度ゐ樣な旅情にとらはれた。ラツセルが苦しくなつて來た。前も横もうしろも見渡せば黒木が映ずるのみである。私達はどこへ向つてゐるのか判らなくなつて了つた。何か人も知らない遠い美しい國を求めて彷徨つてゐる樣な幻想につつまれた。何處をどう歩いて、何處で休んで・・・。判らない。兎に角 深い、深い石狩の森の中を歩いてゐるうちに、シピナイに下つてゐたのであつた。」現在位置不明を、明らかに楽しんでいる。
翌日は石狩川本流へ。「臺地からワカンの蹟が急に下り出す。茂みの向ふが眩しい程に照り輝く。私達は斜めに廣い明るい寂やかな河原へ一氣に辿り下つた。『ウーン、石狩だぞ』ルツクをどさりと投げ出すと三人は顏を見合はせた。何か本當にホツとした。」
ここでの陣地作りは念が入っている。「昼からの四時間はキャムプを作るのに費した。山旅の喜びを一層深くする為に素晴らしく立派な宿り場を作り上げた。地面迄掘り下げた焚火場の廻りにはさらにブロックを積み上げ、屋根もふいて、丁度お城の様なものが出来上がったのである。」
ここから石狩岳のアタックを済ませ層雲峡へ下る。最後に渡渉のために一抱え半もあるタンネを倒して橋かけする。
遙かなるペテガリへ(遺稿) 清水誠吉
遭難死した清水誠吉の、前の夏のペテガリ山行記録。同じく遭難死した片山、有馬(弟)とのパーティー。三石川の東にある鳧舞(けりまい・当時はケリマップ)川からセタウシの東の稜線を越えて静内川に入り、コイボクから23へ登ってペテガリまで稜線藪こぎというハードな計画。今はこの尾根越えルート、やや西側の三石川から高見ダムにはいる林道がある。当時静内(メナシベツ)川中流部は中を通れるセンスではなかったのでこの尾根越えがとられた。その中流部は今やダムの底だ。
イベツ沢からメナシベツへ。「イベツの澤は暗かつたが歩き易かつた。約二時間して最後の小さな凾にかゝると俄然目の前が明るくなつた。行く手に白い河原が切立つた兩岸の彼方で盛り上 がつて居る。メナシベツだ、何と言ふ廣さだらう。何と言ふ明るさだらう。何と言ふ水の色だらう。白く盛り上がつた河原を分けて、メナシベツは緑の色をたゝ へて傲然と流れる。私達は暫し茫然として岸邊につゝ立つた。」ここまででまる二日。
函の巻きで有馬が落ちかけたり、片山が40mも落ちたりしたが怪我も無く進む。現在サッシビチャリ沢と呼ぶ沢はコイカクシュシピチャリ沢と呼んでいる。
ナナシ沢の入り口がどれか?地図の信用度も完全ではなく、迷いながらの山行である。結局、予定していたナナシ沢(→ヤオロマップ)を入り逃してコイボクシュシピチャリ沢(ここではカムエクが見えるような上流になるまでメナシベツ川と記している)に入ってしまった。まだ早いとパスした左岸の支流がナナシ沢だった。今やほとんど林道になっているこの中流部は函の高巻きの連続だ。ナナシを逃した事を知っても、巻きの途中で一泊までしていて、とても戻る気にはなれない。コイボクから23に登って延々藪を漕いでペテガリを目指そうと誓った(凄い・・・)。
一週間目に国境尾根を目指す。上で泊まるため飯ごうで飯を多めに炊き、水枕に水を入れて23北のポコに上がって泊まる。「一八二三米越しにコイカクが現れ、そしてその遙か彼方に目指すペテガリは青く澄んで居た。私達は暫し默々と遙かなる山ペテガリを眺めて居た。雲間から夕陽が流れた、と平戸古美山の山腹を圍むガスの上に圓い虹が現れた。そしてその中央に私達の三つの影が浮び出た。」
翌日はコイカクへ向かう。快適な尾根とあるが、8時間かかっている。コイカク山頂泊。翌日「愈々難關の尾根である。往年幾人かこゝでカンバに苦しみ、渇に苦しんだ事であらう。」翌日は藪を漕いでルベツネの肩まで。水も節約、メシもパンだけで、眠りかけたりしてペテガリへ。「かうして一寸の休む間もリュックに寄り掛ると、うとうとと眠り込みそうになつた。水も相當節約したので、十勝側の這松にガスが殘していつた水滴を吸つたりした。『行かうか』『もう一寸眠らせてくれ』本當に私達は疲れて仕舞つたのだ。ペテガリは仲々見えてこない。」
山頂にて「忽ち私達は座り込み、或は腹這になつて仕舞つた。私は大地に顏を押し當てゝみた、土の香がプーンと鼻に快く入つて來た。遙かなるペテガリは今此處に在るのである。昨日、そして一昨日見た青いペテガリは今此處に在るのである。あのコイボクシュシビチャリの凾をへづゝて居た私と、今ペテガリに居る私の間にどんな違ひがあるのであらうか。唯時間があの時の私と今の私を變へて仕舞つたのだ。一秒、一分、一時間、そして今私は寂寞たるペテガリの上に倒れて居るのだ。」理屈っぽいが気持ちはわかる。頂上の空き缶に名刺を残してAカールへ。翌日中の川へ下降尾根から奥二股へ下る。
下山して橋の下で新しいシャツに着替えてバス道路まで歩く。「三人の足は自然と早くなつた。リヤカーを引つ張つたあの日、イベツ、メナシベツ、そしてペテガリの頂上のあの日が遠いゝ夢の樣に思ひ出されてきた。一昨日のペテガリはもう遠く追憶の彼方へと私を離れて言つたのだ。遙かだ、やつぱりペテガリは遙かなる山であつたのだ。」ペテガリに入れ込んだ三人の美しい紀行文。清水、片山はコイカク沢の雪崩に死んだ。有馬は兄を亡くした。
カムイエクウチカウシ山、コイボク札内岳等の山名に就いて 橋本誠二
カムイエクウチカウシは「札内岳第二峰」の名を、コイボク札内岳には「コイカクシュ札内岳」の名を、という提案である。前者はそうはならず、後者はそのとおりになった。実際これまでの部報6号まではコイカクシュ札内岳をコイボク札内岳としてきた。その根拠なども記してあり、短いが重要な歴史的一文なので全文掲載します。
「陸地測量部圖幅札内川上流を廣げて頂き度い。吾々は古くより札内川上流一九七八米峰をカムイエクウチカウシ山と呼び馴らはして來た。この山名は故水本文太郎 の案内で、昭和四年一月、日高山脈に入つた須藤先輩等が、水本に尋ね聞き知つて以來の事である。しかし吾々がこの名を一九七八米峰に與へた以前、柳田氏他 五名の道廳測量隊による明治廿六年發行二十萬分の一地形圖測量の際は、無名の峰なる爲に札内嶽第二峰なる名を付けてゐたのであつた。私達が極めて不十分な幾つかの資料より考へて見たことなのであるが、カウイエクウチカウシ(ママ)と云ふ山は、實はトツタペツ上流一七五六米峰を指すらしいのである。現に吾々は之を單にカムイ岳と呼んでゐる。
そのカムイ岳の北面に發する一支流はカムイクウチカウと云はれ、『聖なる斷崖のあるところ』と云ふ意味なのである。そんな素晴らしいバツトレスがあるかどうかは知らないが、カムイエクウチカウシと云ふのは意味が不明である事やら、水本が初めは知らないと云ひ張つてゐたと云ふ事やら、後はもうその當時老齡で 忘れつぽかつたとかから、水本はカムイクチカウ山と札内岳第二峰を混同して了つてゐたに違ひないと思はれる。
私は以上の事から一九七八米峰に、昔に戻つて札内岳第二峰なる名を用ひたほうが良いと考へる。
× × ×
コイボク札内川と、吾々は札内川の内の字の處に右岸から注ぐ一支流を呼ぶ。然るに之は吾々の爲した誤りであつて、事實は本流がコイボクシュ札内で、その支流がコイカクシュ札内なのである。
見ても判る樣に、コイボクシュは南ー北方向を示し、コイカクシュは西ー東方向を示すからである。
吾々はコイボク札内をコイカクシュ札内と改めねばならない。從つて國境線一七二一米峰を今後コイカクシュ札内岳又は上述の道廳測量隊による如く南札内岳と改めた方が良いと思ふ。
こんな山の名等はどうでも良い、馴れ親んだもので十分であると云へばそれ迄の事であるが。吾々のずつと前に大古そのまゝの日高の山脈に水脈を追つて入つて 行つたアイヌの感興そのまゝ與へた美しい名を、吾々が勝手に、別の地に、澤に與へて良いと云ふ理由も又ないであらふ。」
確かにカムエクの名には謎が多い。アイヌ語地名などは案外意味不明や謎のものも多いようだ。時代による変遷もあるだろうし、第一現代ではアイヌ語話者がほとんどいないので俗説がまかり通ることもあるだろう。カムエクの名に関してはほぼ水本氏一人の話だけから定着したようである。
追記2015.8.9.)
部報7号の橋本誠二のこの意見に対して、山の会会報11号(昭和16年発行)に、福地宏平の意見がありました。カムイエクウチカウシの名は既に山岳部員の間に定着しており、アイヌと何の関係もない陸地測量部の命名の札内第二峰では、ふさわしくない、という反論です。原文を参照したい方は山岳館までお越し下さい。
また、部報2号(1929年発行)の年報の、以下の登山記録のあとに、カムエクの命名に関わる初めての記述があります。橋本氏が述べている、「須藤氏のパーティー」の記録です。以下、引用します。
ーーーーーーーーー
1929(昭和4)年1月3〜14日ポロシリ岳ートッタベツ岳
メンバー:小森五作 野中保二郎 伊藤秀五郎 高橋喜久司 須藤宣之助 人夫(水本文太郎 中村政蔵)
カムイエクウチカウシ
これは陸地測量部五萬分の一の地圖『札内川上流』に載せられてゐる1979.4mの山で、南部日高山脈中の最高峰である。從前は山名がなかつた爲、1900mの山と呼んでいた。ところが私たちがトツタベツ岳に登つた日のその晩、水本老人から、これがカムイエクウチカウシといふ山だといふことを聞いた。老人は今まで忘れてしまつていたらしい此山名をその時、ふと思ひ出したのだらう。なぜといつて、それは以前、水本老人を聯れて行つた仲間が、その1900mの山の名を尋ねても知らなかつたと云ふから。それで私たちは、今後此山をカムイエクウチカウシ山と呼ぶことにした。因みに『カムイエクウチカウシ』は『熊を轉ばした所』といふ意味ださうである。
(解説前編/中編/後編)
三月の忠別越え石狩岳 橋本誠二
1939年3月11日〜23日、清水、片山、橋本で、これまで無かった積雪期の忠別岳の乗越し計画。松山温泉(天人峡)から化雲岳、忠別岳経由で未知の沢を下り、石狩川本流を前石狩沢から石狩岳アタック、層雲峡へ下る。
忠別への乗越しまではガスに阻まれる。「白い雪の原、白い霧、私達は逆さになつて歩いてゐる樣な氣持になつたりした。先頭の清水のシュプールが三人の世界の初りで、世界の終りは殿をしてゐる私 の十數米後である。『アツ』と云ふ聲が聞えると清水が見えなくなつた。例の崖かと驚く二人に、清水が右下の雪の中に轉んでゐたりした。所々クラストをして ゐて、使ひ古しのスキーにはエッヂが立たないからである。夢中で歩いてゐた私達は見覺えある所に出た。煙草の吸殼が轉がつてゐて、逆戻りをして了つた事が 判つた。茫然としてテントを吹きまくる風の間に擴げた。」というトボけた話。
忠別への日は晴れた。山頂より未知のシピナイへ下る。「一七〇一米に着くとケルンが積んであり、棒が一つ立ててあつた。その先きには雨や雪や風にさらされた布切れがハタハタとなつてゐた。黒々とした靜かな森 を一目に見下すこの高臺の端に立つてケルンを積んだ人はどんな人であつたらう。夕映えを身に受けてヂツと森に見入つては石を運ぶ一人ぼつちのアイヌの姿。 私はいろいろと想像を廻らせて見た。」その後下ったシピナイ流域の針葉樹林の見事さにすっかり酔っている一行。「私は泣き出し度ゐ樣な旅情にとらはれた。ラツセルが苦しくなつて來た。前も横もうしろも見渡せば黒木が映ずるのみである。私達はどこへ向つてゐるのか判らなくなつて了つた。何か人も知らない遠い美しい國を求めて彷徨つてゐる樣な幻想につつまれた。何處をどう歩いて、何處で休んで・・・。判らない。兎に角 深い、深い石狩の森の中を歩いてゐるうちに、シピナイに下つてゐたのであつた。」現在位置不明を、明らかに楽しんでいる。
翌日は石狩川本流へ。「臺地からワカンの蹟が急に下り出す。茂みの向ふが眩しい程に照り輝く。私達は斜めに廣い明るい寂やかな河原へ一氣に辿り下つた。『ウーン、石狩だぞ』ルツクをどさりと投げ出すと三人は顏を見合はせた。何か本當にホツとした。」
ここでの陣地作りは念が入っている。「昼からの四時間はキャムプを作るのに費した。山旅の喜びを一層深くする為に素晴らしく立派な宿り場を作り上げた。地面迄掘り下げた焚火場の廻りにはさらにブロックを積み上げ、屋根もふいて、丁度お城の様なものが出来上がったのである。」
ここから石狩岳のアタックを済ませ層雲峡へ下る。最後に渡渉のために一抱え半もあるタンネを倒して橋かけする。
遙かなるペテガリへ(遺稿) 清水誠吉
遭難死した清水誠吉の、前の夏のペテガリ山行記録。同じく遭難死した片山、有馬(弟)とのパーティー。三石川の東にある鳧舞(けりまい・当時はケリマップ)川からセタウシの東の稜線を越えて静内川に入り、コイボクから23へ登ってペテガリまで稜線藪こぎというハードな計画。今はこの尾根越えルート、やや西側の三石川から高見ダムにはいる林道がある。当時静内(メナシベツ)川中流部は中を通れるセンスではなかったのでこの尾根越えがとられた。その中流部は今やダムの底だ。
イベツ沢からメナシベツへ。「イベツの澤は暗かつたが歩き易かつた。約二時間して最後の小さな凾にかゝると俄然目の前が明るくなつた。行く手に白い河原が切立つた兩岸の彼方で盛り上 がつて居る。メナシベツだ、何と言ふ廣さだらう。何と言ふ明るさだらう。何と言ふ水の色だらう。白く盛り上がつた河原を分けて、メナシベツは緑の色をたゝ へて傲然と流れる。私達は暫し茫然として岸邊につゝ立つた。」ここまででまる二日。
函の巻きで有馬が落ちかけたり、片山が40mも落ちたりしたが怪我も無く進む。現在サッシビチャリ沢と呼ぶ沢はコイカクシュシピチャリ沢と呼んでいる。
ナナシ沢の入り口がどれか?地図の信用度も完全ではなく、迷いながらの山行である。結局、予定していたナナシ沢(→ヤオロマップ)を入り逃してコイボクシュシピチャリ沢(ここではカムエクが見えるような上流になるまでメナシベツ川と記している)に入ってしまった。まだ早いとパスした左岸の支流がナナシ沢だった。今やほとんど林道になっているこの中流部は函の高巻きの連続だ。ナナシを逃した事を知っても、巻きの途中で一泊までしていて、とても戻る気にはなれない。コイボクから23に登って延々藪を漕いでペテガリを目指そうと誓った(凄い・・・)。
一週間目に国境尾根を目指す。上で泊まるため飯ごうで飯を多めに炊き、水枕に水を入れて23北のポコに上がって泊まる。「一八二三米越しにコイカクが現れ、そしてその遙か彼方に目指すペテガリは青く澄んで居た。私達は暫し默々と遙かなる山ペテガリを眺めて居た。雲間から夕陽が流れた、と平戸古美山の山腹を圍むガスの上に圓い虹が現れた。そしてその中央に私達の三つの影が浮び出た。」
翌日はコイカクへ向かう。快適な尾根とあるが、8時間かかっている。コイカク山頂泊。翌日「愈々難關の尾根である。往年幾人かこゝでカンバに苦しみ、渇に苦しんだ事であらう。」翌日は藪を漕いでルベツネの肩まで。水も節約、メシもパンだけで、眠りかけたりしてペテガリへ。「かうして一寸の休む間もリュックに寄り掛ると、うとうとと眠り込みそうになつた。水も相當節約したので、十勝側の這松にガスが殘していつた水滴を吸つたりした。『行かうか』『もう一寸眠らせてくれ』本當に私達は疲れて仕舞つたのだ。ペテガリは仲々見えてこない。」
山頂にて「忽ち私達は座り込み、或は腹這になつて仕舞つた。私は大地に顏を押し當てゝみた、土の香がプーンと鼻に快く入つて來た。遙かなるペテガリは今此處に在るのである。昨日、そして一昨日見た青いペテガリは今此處に在るのである。あのコイボクシュシビチャリの凾をへづゝて居た私と、今ペテガリに居る私の間にどんな違ひがあるのであらうか。唯時間があの時の私と今の私を變へて仕舞つたのだ。一秒、一分、一時間、そして今私は寂寞たるペテガリの上に倒れて居るのだ。」理屈っぽいが気持ちはわかる。頂上の空き缶に名刺を残してAカールへ。翌日中の川へ下降尾根から奥二股へ下る。
下山して橋の下で新しいシャツに着替えてバス道路まで歩く。「三人の足は自然と早くなつた。リヤカーを引つ張つたあの日、イベツ、メナシベツ、そしてペテガリの頂上のあの日が遠いゝ夢の樣に思ひ出されてきた。一昨日のペテガリはもう遠く追憶の彼方へと私を離れて言つたのだ。遙かだ、やつぱりペテガリは遙かなる山であつたのだ。」ペテガリに入れ込んだ三人の美しい紀行文。清水、片山はコイカク沢の雪崩に死んだ。有馬は兄を亡くした。
カムイエクウチカウシ山、コイボク札内岳等の山名に就いて 橋本誠二
カムイエクウチカウシは「札内岳第二峰」の名を、コイボク札内岳には「コイカクシュ札内岳」の名を、という提案である。前者はそうはならず、後者はそのとおりになった。実際これまでの部報6号まではコイカクシュ札内岳をコイボク札内岳としてきた。その根拠なども記してあり、短いが重要な歴史的一文なので全文掲載します。
「陸地測量部圖幅札内川上流を廣げて頂き度い。吾々は古くより札内川上流一九七八米峰をカムイエクウチカウシ山と呼び馴らはして來た。この山名は故水本文太郎 の案内で、昭和四年一月、日高山脈に入つた須藤先輩等が、水本に尋ね聞き知つて以來の事である。しかし吾々がこの名を一九七八米峰に與へた以前、柳田氏他 五名の道廳測量隊による明治廿六年發行二十萬分の一地形圖測量の際は、無名の峰なる爲に札内嶽第二峰なる名を付けてゐたのであつた。私達が極めて不十分な幾つかの資料より考へて見たことなのであるが、カウイエクウチカウシ(ママ)と云ふ山は、實はトツタペツ上流一七五六米峰を指すらしいのである。現に吾々は之を單にカムイ岳と呼んでゐる。
そのカムイ岳の北面に發する一支流はカムイクウチカウと云はれ、『聖なる斷崖のあるところ』と云ふ意味なのである。そんな素晴らしいバツトレスがあるかどうかは知らないが、カムイエクウチカウシと云ふのは意味が不明である事やら、水本が初めは知らないと云ひ張つてゐたと云ふ事やら、後はもうその當時老齡で 忘れつぽかつたとかから、水本はカムイクチカウ山と札内岳第二峰を混同して了つてゐたに違ひないと思はれる。
私は以上の事から一九七八米峰に、昔に戻つて札内岳第二峰なる名を用ひたほうが良いと考へる。
× × ×
コイボク札内川と、吾々は札内川の内の字の處に右岸から注ぐ一支流を呼ぶ。然るに之は吾々の爲した誤りであつて、事實は本流がコイボクシュ札内で、その支流がコイカクシュ札内なのである。
見ても判る樣に、コイボクシュは南ー北方向を示し、コイカクシュは西ー東方向を示すからである。
吾々はコイボク札内をコイカクシュ札内と改めねばならない。從つて國境線一七二一米峰を今後コイカクシュ札内岳又は上述の道廳測量隊による如く南札内岳と改めた方が良いと思ふ。
こんな山の名等はどうでも良い、馴れ親んだもので十分であると云へばそれ迄の事であるが。吾々のずつと前に大古そのまゝの日高の山脈に水脈を追つて入つて 行つたアイヌの感興そのまゝ與へた美しい名を、吾々が勝手に、別の地に、澤に與へて良いと云ふ理由も又ないであらふ。」
確かにカムエクの名には謎が多い。アイヌ語地名などは案外意味不明や謎のものも多いようだ。時代による変遷もあるだろうし、第一現代ではアイヌ語話者がほとんどいないので俗説がまかり通ることもあるだろう。カムエクの名に関してはほぼ水本氏一人の話だけから定着したようである。
追記2015.8.9.)
部報7号の橋本誠二のこの意見に対して、山の会会報11号(昭和16年発行)に、福地宏平の意見がありました。カムイエクウチカウシの名は既に山岳部員の間に定着しており、アイヌと何の関係もない陸地測量部の命名の札内第二峰では、ふさわしくない、という反論です。原文を参照したい方は山岳館までお越し下さい。
また、部報2号(1929年発行)の年報の、以下の登山記録のあとに、カムエクの命名に関わる初めての記述があります。橋本氏が述べている、「須藤氏のパーティー」の記録です。以下、引用します。
ーーーーーーーーー
1929(昭和4)年1月3〜14日ポロシリ岳ートッタベツ岳
メンバー:小森五作 野中保二郎 伊藤秀五郎 高橋喜久司 須藤宣之助 人夫(水本文太郎 中村政蔵)
カムイエクウチカウシ
これは陸地測量部五萬分の一の地圖『札内川上流』に載せられてゐる1979.4mの山で、南部日高山脈中の最高峰である。從前は山名がなかつた爲、1900mの山と呼んでいた。ところが私たちがトツタベツ岳に登つた日のその晩、水本老人から、これがカムイエクウチカウシといふ山だといふことを聞いた。老人は今まで忘れてしまつていたらしい此山名をその時、ふと思ひ出したのだらう。なぜといつて、それは以前、水本老人を聯れて行つた仲間が、その1900mの山の名を尋ねても知らなかつたと云ふから。それで私たちは、今後此山をカムイエクウチカウシ山と呼ぶことにした。因みに『カムイエクウチカウシ』は『熊を轉ばした所』といふ意味ださうである。
(解説前編/中編/後編)
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部報解説・ 2007年9月28日 (金)

また、1938年12月、上ホロカメットク山直下で、山岳部で初めての雪崩死亡遭難があり、7号は事故報告と追悼一色である。これまでの日高へ、未知へという生き生きとした雰囲気が意気消沈してしまっている。
目次
●山登りの危険に就いて 伊藤秀五郎
●十勝上ホロカメツトク山遭難報告 湊正雄
一・緒言
二・遭難経過
三・救援経過
四・遺骸発掘
五・雪崩に関する考察
六・結言
● ペテガリ隊遭難報告
一・緒言
二・ペテガリ隊の準備 橋本誠二
三・ペテガリ隊の行動 内田武彦、橋本誠二
四・一月の捜索 中野征紀
五・アバの建設 中野征紀
六・七月の捜索 原一郎
七・雪崩に就いて 石橋正夫
八・結言
【総評】
1938.5-1940.10の二年半の記録。遭難報告が二件合わせて49p。記事、寄稿は遺稿を含めわずか3つで17p、追悼が48p、年報100pの合計214p。これまで最も薄い部報だ。版数も少なかったという。編集委員は6名の連名。編集後記は橋本誠二。価格は2円50銭。
【時代】
1938:F.ガスパレク、H.ハラー(墺)(『チベットの七年』の著者)とA.ヘックマイヤー、L.フェルク(独)が共同でアイガー北壁初登。
カシン、エスポジト、チゾニ(伊)が、グランドジョラス北壁直登ルートを初登。第7次エベレストH.W.ティルマン隊(英)、P.バウアー隊ナンガパルパット遠征(独)。C.ハウストン隊K2遠征(米)。いずれも未遂。1月、慶応大・井形健一らが、西穂から奥穂高岳を極地法で攻略。
日本軍重慶空爆、武漢占領。国家総動員法。ドイツがオーストリアを併合
1939: K2遠征。頂上直下230mまで。下山時に隊員ヴォルフとシェルパ3名が死亡(米)。P・アウフシュナイターら(独)がナンガ・パルバットに偵察遠征。2カ所で6000m地点に到達。大戦の勃発で、下山後に隊員4名がイギリス軍の捕虜として拘束されのち脱走してチベットへ。3月、旧制大阪商大パーティが、積雪期の黒部・下ノ廊下横断に成功12月、登歩渓流会の松涛明(17才)が、穂高滝谷第一尾根積雪期初登攀
9月ドイツ軍ポーランドに侵攻。第二次欧州大戦始まる。8月ノモンハンで日ソ戦闘して完敗。
1940:1月、北大・有馬洋ら8人パーティーが、日高山脈のペテガリ岳・札内川で雪崩により遭難
京都大学士山岳会(AACK)が、軍部から解散命令を受ける。
日独伊三国同盟結ぶ。欧州大戦はフランス降伏。ロンドン空爆。
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●山登りの危険に就いて 伊藤秀五郎
多くの死者を出した遭難をうけて、何故我々は危険かもしれない山に登るのかを説いた文章。新東亜建設にだって冒険的情熱は必要だ。人類に冒険心は不可欠である。と書いているあたりが時代的であり、伊藤的である。
●十勝上ホロカメツトク山遭難報告 湊正雄
一・緒言
二・遭難経過
1938年の年末の十勝合宿中の雪崩遭難事故だ。上ホロのD尾根の八手岩と反対側の富良野岳側の斜面上部(Co1760m)が現場。合宿は総員118人13班。遭難は合宿五日目の12月27日だった。天気は視界100ほどのガス、軽い吹雪。第10班(湊正雄、瀬戸、高田)は旧DZからH経由上ホロをアタックして帰るところ。すぐ後ろを八班の五人が歩いていた。図によるとD尾根の稜線より少し南側をトラバースしている。シーデポへもうすぐと言うところで雪崩れた。50m以上流されて湊一人かろうじて自力で這いだした(12時40分)。湊はデブリの端にいた。瀬戸と高田はすぐには発見できなかった。デブリ中央のさらに下流にいた(発見は五月)。
三・救援経過
後ろパーティーの二人を連絡に降ろし、すぐ二人を捜す。デブリは巾30m、長さ120m。3mの厚さの全層はげ落ちている箇所もある。誰も二人が消えるところを見ておらず掘り出す道具はピッケルとスコップ一つのみ。もう一人を富良野岳方面の他班を呼びにやり、現場は四人になる。二時半12班の五人が到着。三時には続々到着、スコップも増えて組織的に探し始める。しかし日が暮れても見つからず、吹雪寒気も厳しくなり、吹上温泉に帰還する。「途中幾度となく、突風にてラテルネの灯を消されたりしながら」。当時の灯りは意味どおり燃える火だった!全員帰還は夜12時半。
四・遺骸発掘
年報参照とある
五・雪崩に関する考察
八手岩分岐のポコの南側は傾斜三〇度のところに雪堤状に厚くて堅硬な風成雪が出来ていてこれが雪崩れたようだ。また、3日前に異常に暖かい日があり、弱い層が出来ていたとある。今西錦司の論文をひいて、「積雪が風によつて吹き飛ばされたゝきつけられ『次第に間隙を充填され、次第に緻密になつて、終ひにはその上を歩いてもわからぬ程度』に叩かれ緊めつけられた斜面の、特に上半部に異常に厚く堆積し得た風成雪地帶では、嘗ては春期に多いとされてゐた所謂底雪崩が、嚴冬にも慥かに發生するといふ事」「特にかゝる雪崩は極めて豫見し難いから最も恐るべき雪崩である事を説いて居られる。」
● ペテガリ隊遭難報告
一・結言
1940年1月5日、コイカクシュサツナイ沢の雪崩で8人が遭難死した。冬期初登を目指して1934、1935と従来の「突進法」(樹林帯の最終テントからのロングアタック)では限界を知り、1937年は新型テントを試作研究して臨んだが悪天で敗退した。これに続く四度目の大規模な登山隊だった。以下、この登山隊の準備から詳しく述べている。
二・ペテガリ隊の準備 橋本誠二
前回同様のコイカク沢ルートで、ベースを二股、C1をコイカク山頂、C2を1599に設ける。A班(葛西、清水、近藤)B班(有馬、戸倉、片山、橋本)C班(内田、羽田、渡邊)の10人。BとCはAをサポートするパーティーとした。C2のテントは渡邊設計の通称「盛達テント」。底面七角形の防風二重張り。
三・ペテガリ隊の行動 内田武彦、橋本誠二
1939年12月30日:広尾線で入山。「ガリガリに凍てついた窓ガラスの霜をカキ落しカキ落し私達は山に見入った。『カツチヤイては眺め、カツチヤイては眺めか』有馬の言葉に私達は笑ひくづれた。」
中札内から馬橇で上札内奥の男澤先生宅へ。
12月31日:トムラウシ沢合流まで前進と荷揚げ
1月1日:コイカクシュ合流まで前進と荷揚げ
1月2日:コイカク沢上二股300m下流のベースキャンプへ前進と荷揚げ
1月3日:上方偵察と下のキャンプへ荷をとりに行く橋本は風邪で休養。
1月4日:風強く雪の工合も思はしくないので途中にデポして荷揚げ途中で帰る。夜は星が輝いていたので焚き火で歌い、「有馬の持つてゐた唯一本のブラシで齒を磨いたりした。」
1月5日:風邪の橋本を除く全員で沢の中を出発。二の滝、三の滝をアイゼンで越えたほかは快調にスキーで進む。標高1000mあたり幅5mのルンゼで先頭のあたりから来たさらさらの雪に腰まで埋まり10数m押し流された。全員無事だが、いくらか荷物をなくしたので探し始めた。が、時間にして5分ほどあと、「誰かの叫聲を聞いた樣な氣がしてハツと頭を上げた瞬間、濃い雲の樣に眞白な雪煙が澤の幅一杯になつて此方に押しよせて來るのが目に入つた。」内田は一人デブリの上でわれに帰った。バンドに結んでいた懐中時計は「ポケットから飛出し、蓋が開いて短針だけが空しく四時一寸前を指して止つてゐた。」
あたりは暗くなり始め、一面に何も見当たらず、手袋をなくした両手は白くなっていた。BCに戻って橋本に合流できたのは午後9時。
1月6日:橋本が朝現場を見るが、ほとんど何も発見できない。「つき上げて來る涙と共に、私は彼等と共に喜びにつけ、淋しみにつけ、唱ひ合つたカメラーデンリートを唱つた。今私の出來得た唯一の事は之丈けなのだ。」
1月7日:札内川出会いまで降りる。
1月8日:この日、送れて入山のイタリア人留学生マライーニと、右岸左岸のすれ違いで行き違う。男澤先生宅まで行き着けず、農家に泊まる。
1月9日:「すつかり先生に手筈を決めて頂くと私は札幌の何にも知らずにペテガリ隊の成功を祈つてゐる部の人達に、又吾が子を氣遣つて居られる友の御家庭へ、本當に情けない知らせをする爲に、重い、寂しい、辛い氣持を抱きつゝ上札内へと馳せ下つて行つた。」
四・一月の捜索 中野征紀
「ペテガリタイコイボクノノボリニテナダレノタメソウナンス、カサイ、アリマ、トクラ、カタヤマ、シミズ、コンドウ、ハネダ、ワタナベノ八メイノゾミナシ、スグテハイナラビニシレイヲコフ、ナダレハ五ヒ四ジゴロナリ、オビヒロホクカイカン、ハシモト」の電報を受けた中野が山岳部員による捜索隊を組んで現場に向かう。
1月10日:南札内分教場の男澤先生宅まで。坂本直行が合流。
1月11日:ベースキャンプまで。「ベースキヤムプにはマライニ君と男澤不二彦君が何も知らずにゐた。この遭難事件を聞いてマライニ君はブロウクンの日本語で目茶苦茶に質問を繰返した。」
1月12日:捜索は内田が止まった三の滝上流からはじめた。四の滝近くで渡邊の遺体を発見、掘り起こし石門までおろす。「雪崩發生地點は猶上流の如く、コイカクシュ札内岳頂上直下の斜面と思はれた。(略)大體三の瀧上より標高千二百米附近までに搜索の主力を注ぐ事にした。」ほかトレンチ掘ってゾンデしたが何も見つからず。
1月13日:マライニと不二彦が下山。13名でゾンデを続け、葛西を発見する。更に10名到着。
1月14日:溝は深さ2m半、更に1m半のゾンデ棒で深く探る。連日の好天と寒気で雪が固くなっている。近藤発見。午後羽田と片山を発見。リーダー有馬も発見。「四人を竝べてA.A.C.Hの旗で蔽ひ、全員默祷す。自ら愛する山に逝けるこの若い美しい山友達の冷たき顏を見て斷腸の思ひに胸せまり、黯然歔欷を禁じ得なかつた。」
1月15日:現場作業に17名。雪が吹雪になる中、清水を発見。この日7名加わり総員27名。残るは一人戸倉のみになる。
1月16日:石門の遺体を柴橇を作って搬出する。「粉雪の中に時には腰までもぐり、或は雪壤が踏み壞されて流水に落ちんとする柴橇を川に飛び込んで支へなければならなかつた。」ゾンデはほとんど済ませ、天候も悪化傾向で疲れも深いことから、捜索作業を切り上げることにする。
1月17日:二岐下の搬出には上札内青年団員30人が手伝いに来てくれた。
1月18日:8人を南札内まで運び、タンネを敷き詰めたお棺にいれ、馬橇で上札内へ向かった。
五・アバの建設 中野征紀
五月増水前に遺体流出を防ぐため、三月、アバ(網場)を作ることになった。営林署の協力で人夫を手配してもらい、標高660m、二股の少し上流に三月下旬に設置した。丸太で組んだ大きな三又を二つ流れに並べて固定する。これを上下二つ。
この作業に伴って中野が鋸、鉈を持っていってコイカクへの尾根ルートを開いた。尾根末端の猛烈なブッシュを切り払い、取り付き部分を楽にした。このルートから楽にコイカク山頂をアタックしている。これまでの冬季沢ルートを改め、尾根ルートに変更した最初の記録だ。「五時間で楽に頂上に達することが出来た。」頂上から派生する三本の尾根の中央の尾根とあり、今でいう冬尾根のようだ。
六・七月の捜索 原一郎
三の滝を越えた雪渓の脇で戸倉を発見。一の滝下のキャンプまで下ろして荼毘に附す。
七・雪崩に就いて 石橋正夫
登路のコイカク沢左股の地形、気象などを解説。原因を、この気象、降雪条件で沢ルートを取ったことに置いている。
八・結言
==========
当時ペテガリ冬期初登の機運に盛り上がる山岳部に、イタリア人留学生フォスコ・マライーニ氏が関わっていた。マライーニ氏は当日二歳の娘が風邪を引いたため入山を遅らせ雪崩を免れた経緯がある。
この後昭和18年(1943)の冬期初登に登成功した勝因は、稜線に耐風用の重いテントを使わず、コイカクの山頂にイグルーを作り、精鋭のロングアタックをする方法を取り、軽量化した事だった。そして北大山岳部にイグルー作製のヒント或いは直接的な影響を与えたのはマライーニ氏ではないかと言われている。このころ、マライーニ氏が手稲山山頂などでイグルー泊実験をする記事などが当時の新聞で紹介されている。当時のヨーロッパアルプスではイグルーを実践するアルピニストもいた。その後京大で教員をしたあと一時名古屋の捕虜収容所に囚われの身になる。戦後は母国に帰り北大で研究していたアイヌ民俗学に加えチベット民俗学などを専門にしながら山岳写真家としても有名になり、1958年のガッシャーブルム4峰のイタリア隊にも参加している。同時期に隣のチョゴリザ遠征していた京大隊のBCに表敬訪問している。ペテガリ遭難にも関わった超日本通のアルピニスト謙芸術家兼研究者として長生きし、つい数年前亡くなった。AACHイグルーのご先祖さまである。
↓以下はマライーニ氏に詳しい高澤光雄氏の小文。http://kamuimintara.net/detail.php?rskey=123200505z03
以下は次回後篇で紹介。
●紀行
三月の忠別越え石狩岳 橋本誠二
遙かなるペテガリへ(遺稿) 清水誠吉
カムイエクウチカウシ山、コイボク札内岳等の山名に就いて 橋本誠二
●追悼
故島村光太郎君の追憶 櫻井勝壽
徳さんを憶ふ 相川修
憶ひ出 本野正一
追憶 朝比奈英三
徳さんの憶ひ出 橋本巌
有馬洋 福地宏平
追憶 湊正雄
戸倉君を憶ふ 林和夫
清水誠吉君を憶ふ 有馬純
近藤達君 橋本誠二
追悼 倉林正尚
羽田君 新美長夫
渡邉盛達君を憶ふ 塩月陽一
年報
1938.5-1940.10
写真二点、スケッチ一点、地図五点
(解説前編/中編/後編)
1938.5-1940.10の二年半の記録。遭難報告が二件合わせて49p。記事、寄稿は遺稿を含めわずか3つで17p、追悼が48p、年報100pの合計214p。これまで最も薄い部報だ。版数も少なかったという。編集委員は6名の連名。編集後記は橋本誠二。価格は2円50銭。
【時代】
1938:F.ガスパレク、H.ハラー(墺)(『チベットの七年』の著者)とA.ヘックマイヤー、L.フェルク(独)が共同でアイガー北壁初登。
カシン、エスポジト、チゾニ(伊)が、グランドジョラス北壁直登ルートを初登。第7次エベレストH.W.ティルマン隊(英)、P.バウアー隊ナンガパルパット遠征(独)。C.ハウストン隊K2遠征(米)。いずれも未遂。1月、慶応大・井形健一らが、西穂から奥穂高岳を極地法で攻略。
日本軍重慶空爆、武漢占領。国家総動員法。ドイツがオーストリアを併合
1939: K2遠征。頂上直下230mまで。下山時に隊員ヴォルフとシェルパ3名が死亡(米)。P・アウフシュナイターら(独)がナンガ・パルバットに偵察遠征。2カ所で6000m地点に到達。大戦の勃発で、下山後に隊員4名がイギリス軍の捕虜として拘束されのち脱走してチベットへ。3月、旧制大阪商大パーティが、積雪期の黒部・下ノ廊下横断に成功12月、登歩渓流会の松涛明(17才)が、穂高滝谷第一尾根積雪期初登攀
9月ドイツ軍ポーランドに侵攻。第二次欧州大戦始まる。8月ノモンハンで日ソ戦闘して完敗。
1940:1月、北大・有馬洋ら8人パーティーが、日高山脈のペテガリ岳・札内川で雪崩により遭難
京都大学士山岳会(AACK)が、軍部から解散命令を受ける。
日独伊三国同盟結ぶ。欧州大戦はフランス降伏。ロンドン空爆。
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●山登りの危険に就いて 伊藤秀五郎
多くの死者を出した遭難をうけて、何故我々は危険かもしれない山に登るのかを説いた文章。新東亜建設にだって冒険的情熱は必要だ。人類に冒険心は不可欠である。と書いているあたりが時代的であり、伊藤的である。
●十勝上ホロカメツトク山遭難報告 湊正雄
一・緒言
二・遭難経過
1938年の年末の十勝合宿中の雪崩遭難事故だ。上ホロのD尾根の八手岩と反対側の富良野岳側の斜面上部(Co1760m)が現場。合宿は総員118人13班。遭難は合宿五日目の12月27日だった。天気は視界100ほどのガス、軽い吹雪。第10班(湊正雄、瀬戸、高田)は旧DZからH経由上ホロをアタックして帰るところ。すぐ後ろを八班の五人が歩いていた。図によるとD尾根の稜線より少し南側をトラバースしている。シーデポへもうすぐと言うところで雪崩れた。50m以上流されて湊一人かろうじて自力で這いだした(12時40分)。湊はデブリの端にいた。瀬戸と高田はすぐには発見できなかった。デブリ中央のさらに下流にいた(発見は五月)。
三・救援経過
後ろパーティーの二人を連絡に降ろし、すぐ二人を捜す。デブリは巾30m、長さ120m。3mの厚さの全層はげ落ちている箇所もある。誰も二人が消えるところを見ておらず掘り出す道具はピッケルとスコップ一つのみ。もう一人を富良野岳方面の他班を呼びにやり、現場は四人になる。二時半12班の五人が到着。三時には続々到着、スコップも増えて組織的に探し始める。しかし日が暮れても見つからず、吹雪寒気も厳しくなり、吹上温泉に帰還する。「途中幾度となく、突風にてラテルネの灯を消されたりしながら」。当時の灯りは意味どおり燃える火だった!全員帰還は夜12時半。
四・遺骸発掘
年報参照とある
五・雪崩に関する考察
八手岩分岐のポコの南側は傾斜三〇度のところに雪堤状に厚くて堅硬な風成雪が出来ていてこれが雪崩れたようだ。また、3日前に異常に暖かい日があり、弱い層が出来ていたとある。今西錦司の論文をひいて、「積雪が風によつて吹き飛ばされたゝきつけられ『次第に間隙を充填され、次第に緻密になつて、終ひにはその上を歩いてもわからぬ程度』に叩かれ緊めつけられた斜面の、特に上半部に異常に厚く堆積し得た風成雪地帶では、嘗ては春期に多いとされてゐた所謂底雪崩が、嚴冬にも慥かに發生するといふ事」「特にかゝる雪崩は極めて豫見し難いから最も恐るべき雪崩である事を説いて居られる。」
● ペテガリ隊遭難報告
一・結言
1940年1月5日、コイカクシュサツナイ沢の雪崩で8人が遭難死した。冬期初登を目指して1934、1935と従来の「突進法」(樹林帯の最終テントからのロングアタック)では限界を知り、1937年は新型テントを試作研究して臨んだが悪天で敗退した。これに続く四度目の大規模な登山隊だった。以下、この登山隊の準備から詳しく述べている。
二・ペテガリ隊の準備 橋本誠二
前回同様のコイカク沢ルートで、ベースを二股、C1をコイカク山頂、C2を1599に設ける。A班(葛西、清水、近藤)B班(有馬、戸倉、片山、橋本)C班(内田、羽田、渡邊)の10人。BとCはAをサポートするパーティーとした。C2のテントは渡邊設計の通称「盛達テント」。底面七角形の防風二重張り。
三・ペテガリ隊の行動 内田武彦、橋本誠二
1939年12月30日:広尾線で入山。「ガリガリに凍てついた窓ガラスの霜をカキ落しカキ落し私達は山に見入った。『カツチヤイては眺め、カツチヤイては眺めか』有馬の言葉に私達は笑ひくづれた。」
中札内から馬橇で上札内奥の男澤先生宅へ。
12月31日:トムラウシ沢合流まで前進と荷揚げ
1月1日:コイカクシュ合流まで前進と荷揚げ
1月2日:コイカク沢上二股300m下流のベースキャンプへ前進と荷揚げ
1月3日:上方偵察と下のキャンプへ荷をとりに行く橋本は風邪で休養。
1月4日:風強く雪の工合も思はしくないので途中にデポして荷揚げ途中で帰る。夜は星が輝いていたので焚き火で歌い、「有馬の持つてゐた唯一本のブラシで齒を磨いたりした。」
1月5日:風邪の橋本を除く全員で沢の中を出発。二の滝、三の滝をアイゼンで越えたほかは快調にスキーで進む。標高1000mあたり幅5mのルンゼで先頭のあたりから来たさらさらの雪に腰まで埋まり10数m押し流された。全員無事だが、いくらか荷物をなくしたので探し始めた。が、時間にして5分ほどあと、「誰かの叫聲を聞いた樣な氣がしてハツと頭を上げた瞬間、濃い雲の樣に眞白な雪煙が澤の幅一杯になつて此方に押しよせて來るのが目に入つた。」内田は一人デブリの上でわれに帰った。バンドに結んでいた懐中時計は「ポケットから飛出し、蓋が開いて短針だけが空しく四時一寸前を指して止つてゐた。」
あたりは暗くなり始め、一面に何も見当たらず、手袋をなくした両手は白くなっていた。BCに戻って橋本に合流できたのは午後9時。
1月6日:橋本が朝現場を見るが、ほとんど何も発見できない。「つき上げて來る涙と共に、私は彼等と共に喜びにつけ、淋しみにつけ、唱ひ合つたカメラーデンリートを唱つた。今私の出來得た唯一の事は之丈けなのだ。」
1月7日:札内川出会いまで降りる。
1月8日:この日、送れて入山のイタリア人留学生マライーニと、右岸左岸のすれ違いで行き違う。男澤先生宅まで行き着けず、農家に泊まる。
1月9日:「すつかり先生に手筈を決めて頂くと私は札幌の何にも知らずにペテガリ隊の成功を祈つてゐる部の人達に、又吾が子を氣遣つて居られる友の御家庭へ、本當に情けない知らせをする爲に、重い、寂しい、辛い氣持を抱きつゝ上札内へと馳せ下つて行つた。」
四・一月の捜索 中野征紀
「ペテガリタイコイボクノノボリニテナダレノタメソウナンス、カサイ、アリマ、トクラ、カタヤマ、シミズ、コンドウ、ハネダ、ワタナベノ八メイノゾミナシ、スグテハイナラビニシレイヲコフ、ナダレハ五ヒ四ジゴロナリ、オビヒロホクカイカン、ハシモト」の電報を受けた中野が山岳部員による捜索隊を組んで現場に向かう。
1月10日:南札内分教場の男澤先生宅まで。坂本直行が合流。
1月11日:ベースキャンプまで。「ベースキヤムプにはマライニ君と男澤不二彦君が何も知らずにゐた。この遭難事件を聞いてマライニ君はブロウクンの日本語で目茶苦茶に質問を繰返した。」
1月12日:捜索は内田が止まった三の滝上流からはじめた。四の滝近くで渡邊の遺体を発見、掘り起こし石門までおろす。「雪崩發生地點は猶上流の如く、コイカクシュ札内岳頂上直下の斜面と思はれた。(略)大體三の瀧上より標高千二百米附近までに搜索の主力を注ぐ事にした。」ほかトレンチ掘ってゾンデしたが何も見つからず。
1月13日:マライニと不二彦が下山。13名でゾンデを続け、葛西を発見する。更に10名到着。
1月14日:溝は深さ2m半、更に1m半のゾンデ棒で深く探る。連日の好天と寒気で雪が固くなっている。近藤発見。午後羽田と片山を発見。リーダー有馬も発見。「四人を竝べてA.A.C.Hの旗で蔽ひ、全員默祷す。自ら愛する山に逝けるこの若い美しい山友達の冷たき顏を見て斷腸の思ひに胸せまり、黯然歔欷を禁じ得なかつた。」
1月15日:現場作業に17名。雪が吹雪になる中、清水を発見。この日7名加わり総員27名。残るは一人戸倉のみになる。
1月16日:石門の遺体を柴橇を作って搬出する。「粉雪の中に時には腰までもぐり、或は雪壤が踏み壞されて流水に落ちんとする柴橇を川に飛び込んで支へなければならなかつた。」ゾンデはほとんど済ませ、天候も悪化傾向で疲れも深いことから、捜索作業を切り上げることにする。
1月17日:二岐下の搬出には上札内青年団員30人が手伝いに来てくれた。
1月18日:8人を南札内まで運び、タンネを敷き詰めたお棺にいれ、馬橇で上札内へ向かった。
五・アバの建設 中野征紀
五月増水前に遺体流出を防ぐため、三月、アバ(網場)を作ることになった。営林署の協力で人夫を手配してもらい、標高660m、二股の少し上流に三月下旬に設置した。丸太で組んだ大きな三又を二つ流れに並べて固定する。これを上下二つ。
この作業に伴って中野が鋸、鉈を持っていってコイカクへの尾根ルートを開いた。尾根末端の猛烈なブッシュを切り払い、取り付き部分を楽にした。このルートから楽にコイカク山頂をアタックしている。これまでの冬季沢ルートを改め、尾根ルートに変更した最初の記録だ。「五時間で楽に頂上に達することが出来た。」頂上から派生する三本の尾根の中央の尾根とあり、今でいう冬尾根のようだ。
六・七月の捜索 原一郎
三の滝を越えた雪渓の脇で戸倉を発見。一の滝下のキャンプまで下ろして荼毘に附す。
七・雪崩に就いて 石橋正夫
登路のコイカク沢左股の地形、気象などを解説。原因を、この気象、降雪条件で沢ルートを取ったことに置いている。
八・結言
==========
当時ペテガリ冬期初登の機運に盛り上がる山岳部に、イタリア人留学生フォスコ・マライーニ氏が関わっていた。マライーニ氏は当日二歳の娘が風邪を引いたため入山を遅らせ雪崩を免れた経緯がある。
この後昭和18年(1943)の冬期初登に登成功した勝因は、稜線に耐風用の重いテントを使わず、コイカクの山頂にイグルーを作り、精鋭のロングアタックをする方法を取り、軽量化した事だった。そして北大山岳部にイグルー作製のヒント或いは直接的な影響を与えたのはマライーニ氏ではないかと言われている。このころ、マライーニ氏が手稲山山頂などでイグルー泊実験をする記事などが当時の新聞で紹介されている。当時のヨーロッパアルプスではイグルーを実践するアルピニストもいた。その後京大で教員をしたあと一時名古屋の捕虜収容所に囚われの身になる。戦後は母国に帰り北大で研究していたアイヌ民俗学に加えチベット民俗学などを専門にしながら山岳写真家としても有名になり、1958年のガッシャーブルム4峰のイタリア隊にも参加している。同時期に隣のチョゴリザ遠征していた京大隊のBCに表敬訪問している。ペテガリ遭難にも関わった超日本通のアルピニスト謙芸術家兼研究者として長生きし、つい数年前亡くなった。AACHイグルーのご先祖さまである。
↓以下はマライーニ氏に詳しい高澤光雄氏の小文。http://kamuimintara.net/detail.php?rskey=123200505z03
以下は次回後篇で紹介。
●紀行
三月の忠別越え石狩岳 橋本誠二
遙かなるペテガリへ(遺稿) 清水誠吉
カムイエクウチカウシ山、コイボク札内岳等の山名に就いて 橋本誠二
●追悼
故島村光太郎君の追憶 櫻井勝壽
徳さんを憶ふ 相川修
憶ひ出 本野正一
追憶 朝比奈英三
徳さんの憶ひ出 橋本巌
有馬洋 福地宏平
追憶 湊正雄
戸倉君を憶ふ 林和夫
清水誠吉君を憶ふ 有馬純
近藤達君 橋本誠二
追悼 倉林正尚
羽田君 新美長夫
渡邉盛達君を憶ふ 塩月陽一
年報
1938.5-1940.10
写真二点、スケッチ一点、地図五点
(解説前編/中編/後編)
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部報解説・ 2007年5月18日 (金)

・ 樺太の山雜感 岡彦一
・ 北部日高山脈の旅 山崎春雄
・ 一八二三米峰 中野龍雄
・ 蕃人 岡彦一
● 最近の十勝合宿について
ー冬期合宿覺え書きの一つとしてー 朝比奈英三
● 追悼
・懷舊 伊藤秀五郎
・伊藤周一君 福地文平
=========================
・樺太の山雜感 岡彦一
1937年3月、渡邉盛達、岡彦一の山行。「北海道がもし北歐的だとすれば樺太は確かにシベリヤ的なるものを供へてゐるのであらう。山や溪のみでなく、それに連なる、果なき雪の野。あくまで線が荒い、より粗放的であり、單一なる美、チエーホフに書かれてゐる感じである。」で始まる樺太最高峰敷香岳の登頂記。山行記録は巻末の年報にある。稚内から砕氷船で大泊、鉄道で豊原、落合、敷香。上敷香、第二支流の直営事務所(BC)までパルプ(日本人絹パルプ)会社の馬橇。ここまで8日。
敷香アタックは登り5時間下り3時間。ウインドクラストでラッセル無し。敷香岳向かいの無名峰山頂では快晴に恵まれた。「輝かしき快晴、澤を隔てゝ昨日の敷香岳が高く、又三六〇度の展望は贅澤の限りだつた。眞黒な森林の擴り。そしてその上に輝く無數の無名の頂き、遙かに遠い。之が樺太の山なのだ。恐らくは沿海州にもシベリヤにも同じ樣な山波が續いてゐるのではないか知ら、間宮海峽を隔て實際の沿海州が見えてゐる、夢を追つたのであつた。」
帰りは敷香で「オタスの杜」も訪ねている。営林署や造材会社に橇や宿を便宜してもらい、行く先々の先輩にご飯もごっつぁんになりながらの山行。当時の学生が社会に期待されていて、社会も旅行者探検家に太っ腹だったよき時代。
・北部日高山脈の旅 山崎春雄
山崎や中野征紀を中心メンバーに3年続けて5月の北日高、狩振山からピパイロまでを踏査した記録。この山域の記述はペンケヌーシを除けば部報では珍しい。石狩、胆振、日高の三国境と石狩、日高、十勝の三国境の二峰は二キロしか離れていない。これを「四国山」と呼んで初登を目指した。ここでいう石狩は、石狩川の流域という意味で、いまは上川支庁南富良野町の空知川、ルーオマンソラプチ川のこと。又、胆振は、鵡川の水域という意味で占冠村の双珠別川源流のこと。つまり「四国山」とは、狩振山南東の標高点1383と1286の肩だ。これは新鮮な視点で、期待したのだが、「國境は特徴のない畑地を走り、雨水も空知川へ注ぐか鵡川へ流れるか困りさうな散漫な地形となつた。山稜も亦幅ひろく頂上に立つても大したこともなかつた。」とのこと。
この後年などにペケレベツからウエンザル、ウエンザルからペンケヌーシ、チ芽室を超えてルベシベ分岐からピパイロアタックまでしている。「霧は次第に低く沈んで美生川の谷から尾根を超えて千呂露川の谷へと大洪水の樣に流れ落ちる。東の方は霧が日光を透すまいとして必死の努力にもがき狂つてゐるが次第に其色が明るくなつて來る。息を凝して見てゐる眼前の空間に思ひがけず白い鋭い水平の山頂線が浮び出す。美生岳だ。秒一秒、山頂は次第に霧の世界から青い大空に頭をもち上げて來る。遂に陽光が雲を破つて絶顛の雪を颯と染める。」
・一八二三米峰 中野龍雄
1937年12月29日〜1月5日、中野龍雄、清水誠吉、湊正雄の三人の積雪期初登記。あくまでも思いはペテガリである。前年敗退し、この年も準備しながら計画は流れた。「國境は曇つて見えなかつた。その見えぬ彼方をぢつと涙ぐんで見つめた時、又はその時の皆の顏等が次ぎ次ぎと浮かんで來た。暫時『何、今度こそ』と強く打消して元氣よく出發する。」
コイカクへの尾根は、いわゆる馬鹿尾根という急斜面、足元が決まらぬ雪質にはまってしまい、晴れの一日を無駄にする。「何のことはない。胸までの深い溝を作る樣なものだ。之湊に依れば直行の所謂馬鹿尾根だつた。」「氣は焦つても胸までの溝掘りは『此の野郎!コン畜生!』の體當りとブランコの連續だつた。」カムエクから縦走してくる別班の伊藤パーティーに「先をやられたら癪だなあ」などと焚き火で悶々している。
この馬鹿尾根を見限り、日を改めて函を抜け、谷ルートから国境に上がり、風強い中23をアタックした。「周公達のアイゼンの蹟は無かつた。感激の握手!時正に三時。見よ北にはエクウチカウシ、幌尻、南遙かにペテガリの雄姿──日高十勝の海は夕陽に金色に輝いてゐるではないか。『直行登つたぞ。來る二月はあのペテガリだ』。
尚、周公こと伊藤周一らのパーティーはカムエクの八の沢アタックに長引き、翌四日に七の沢からアタックに成功している。
・蕃人 岡彦一
1938年3月27日〜4月5日、タロコ峡谷から中央尖山と南湖大山を超えて霧社へ抜けた山行の、現地先住民たちとの交わりを中心に書いた随想。当時は日本の占領時代で、山間の山岳先住民四人を案内にして台湾の脊梁山脈を越えた。いずれも3700mを超える高山。稜線でゾンメルシーを彼らに穿かせてみたりした。
また一行の中の老人、シチヤカンが焚き火を囲んで即興で作った歌(先住民語)を若い一人が国語(日本語)に訳してくれたものが書いてある。ここでさらに要約すると「色々御馳走になりました。酒まで御馳走になり、ありがたう。皆樣わざわざ遠い所から來てありがたう・・・今夜今皆樣が一本酒を飮ませました。ありがたう。もし皆樣がタウサイに降りたら私の所に寄つて私の造つた酒を飮んでください。大抵醉つぱらふまで飮ませませう。・・・」と言った歌。これを丁寧に長く紹介している。これを読んで、大工哲弘の八重山の民謡や戦前の台湾の酔っぱらい歌を思い出した。レコードも携帯ラジオも無い時代、焚き火の前で、即興で歌を作れる楽しい技能が羨ましい。1920年代の記録にあったアイヌ老人との語らいにも、この楽しみがあったのだろうか。
「ブナツケイのカールヴァンドの粉雪の樣に白いザラメの上で彼等二人にスキーを教へた。鞜を貸して穿かせると彼等は何も雪を厭はない。暫時にして驚くほどの上達振り、何時しか遙か下に消えて失せた。面白がつてもうスキーを返さない。臺灣の山も多い年には實に豐富な殘雪がある。何時か彼等も手製のスキーを造る樣になり、臺灣の尾根の上に滑り廻る日が來ないかなと微笑ましき空想を描いたのだつた。」
●最近の十勝合宿について
ー冬期合宿覺え書きの一つとしてー 朝比奈英三
部報3号で詳細に記した当時の十勝合宿の雰囲気から、10年経って、その変化と最新情報をまとめた一文。当時は毎年100人近い部員で、1年班2年班、3年班をそれぞれ3〜4班編制。山岳部員全員が年に一度一堂に会して部の雰囲気と意義を高め合うという機械。合宿は1990年代半ば以降、部員不足のため行われていないが、80年代まではほとんど同じ様式、目的で行われていたことを知り、驚いた。
三年班というのが当時独特で、メンバーが三年目以上だから精鋭のパーティーだ。美瑛谷の岩稜を登ったり、富良野岳の独立岩(今はチンポコ岩と呼ぶ)の上の吹きさらしに7人用カマボコテントと3人用クレッパー変形型テントなど張って泊まったりしている。この新兵器は、ペテガリの1937年遠征の際使っている。
当時の装備を述べている部分で、「私達の作らせたウインド・ヤッケは市場にも普通な最もシンプルな實用價値のある型で、布は出來るだけ防風完全な上質を選び内側に腹部を縛る紐を入れて不愉快に膨らむのを防ぎ、又顏の兩側に當る部分に心を入れて一寸馬車馬を思ひ出させる樣な感じの防風壁を作つたが甚だ效果的であつた。そして必要の時以外は出來るだけ著ない樣にして完全な防風性を保存する樣に勉めてゐる。」「手袋は厚い毛製の物の上に二本指の皮手をはめるのが寒氣には最上とされ、乾いた軍手の上にしただけで間に合はせて居る者も多い。」オーバー手はまだ皮だった。戦後発明された化学繊維は全く偉大なものだ。
1937年度から専門の合宿幹事を二名、リーダー以外に専任したら円滑に運んだという。
● 追悼
・懷舊 故和辻廣樹、故伊藤周一両兄の霊に捧ぐ 伊藤秀五郎
和辻氏は1929年卒業で、部報1,2,号の頃に大活躍した。部員章の図案を考案した人物。伊藤秀五郎氏と共に1928年2月冬の石狩岳初登をしている仲間だ。卒業後朝日新聞記者になり、京城(現ソウル)に通信局勤務して満州事変勃発の際は飛行機で奉天(現・瀋陽)の空の一番乗りをやったとある。その後ベルリンオリンピックの為深夜勤務で体調を崩し、33才胃ガンで亡くなったとある。「彼の最も優れた美點であり、多くの人に好意を以て迎へられた理由にもなつたのは、彼の感情にどこかゆとりがあり、性格に輕妙さがあることであつた。當時,血氣盛んな、感情の激し易い山岳部の雰圍氣の中に、常に一脈の明朗さを與へたのは、和辻の諧謔性と、澤本の良識とであつたと思ふ。」
・伊藤周一君 福地文平
伊藤氏は「周公」と呼ばれ、この6号でもあちこちの記録に登場する。「體重十八貫の彼は度々彼ならではの凄まじい處を見せた。丁度忠別川からクワウンナイに入る時に一人が足を滑らせて二丈位の處を忠別川に落ちかけたのを重い荷物と一緒にむんずとばかり宙に釣り上げたの等は周公でなくては出來ない術だつた。」
1937年暮れのカムエク、23を最後の山行にして亡くなった。原因は触れられていない。旭川師団の陸軍獣医委託生として忙しく働いていたとある。
年報(1935/10−1938/4)
写真13点、スケッチ4点、地図3点
(解説前編/中編/後編)
・樺太の山雜感 岡彦一
1937年3月、渡邉盛達、岡彦一の山行。「北海道がもし北歐的だとすれば樺太は確かにシベリヤ的なるものを供へてゐるのであらう。山や溪のみでなく、それに連なる、果なき雪の野。あくまで線が荒い、より粗放的であり、單一なる美、チエーホフに書かれてゐる感じである。」で始まる樺太最高峰敷香岳の登頂記。山行記録は巻末の年報にある。稚内から砕氷船で大泊、鉄道で豊原、落合、敷香。上敷香、第二支流の直営事務所(BC)までパルプ(日本人絹パルプ)会社の馬橇。ここまで8日。
敷香アタックは登り5時間下り3時間。ウインドクラストでラッセル無し。敷香岳向かいの無名峰山頂では快晴に恵まれた。「輝かしき快晴、澤を隔てゝ昨日の敷香岳が高く、又三六〇度の展望は贅澤の限りだつた。眞黒な森林の擴り。そしてその上に輝く無數の無名の頂き、遙かに遠い。之が樺太の山なのだ。恐らくは沿海州にもシベリヤにも同じ樣な山波が續いてゐるのではないか知ら、間宮海峽を隔て實際の沿海州が見えてゐる、夢を追つたのであつた。」
帰りは敷香で「オタスの杜」も訪ねている。営林署や造材会社に橇や宿を便宜してもらい、行く先々の先輩にご飯もごっつぁんになりながらの山行。当時の学生が社会に期待されていて、社会も旅行者探検家に太っ腹だったよき時代。
・北部日高山脈の旅 山崎春雄
山崎や中野征紀を中心メンバーに3年続けて5月の北日高、狩振山からピパイロまでを踏査した記録。この山域の記述はペンケヌーシを除けば部報では珍しい。石狩、胆振、日高の三国境と石狩、日高、十勝の三国境の二峰は二キロしか離れていない。これを「四国山」と呼んで初登を目指した。ここでいう石狩は、石狩川の流域という意味で、いまは上川支庁南富良野町の空知川、ルーオマンソラプチ川のこと。又、胆振は、鵡川の水域という意味で占冠村の双珠別川源流のこと。つまり「四国山」とは、狩振山南東の標高点1383と1286の肩だ。これは新鮮な視点で、期待したのだが、「國境は特徴のない畑地を走り、雨水も空知川へ注ぐか鵡川へ流れるか困りさうな散漫な地形となつた。山稜も亦幅ひろく頂上に立つても大したこともなかつた。」とのこと。
この後年などにペケレベツからウエンザル、ウエンザルからペンケヌーシ、チ芽室を超えてルベシベ分岐からピパイロアタックまでしている。「霧は次第に低く沈んで美生川の谷から尾根を超えて千呂露川の谷へと大洪水の樣に流れ落ちる。東の方は霧が日光を透すまいとして必死の努力にもがき狂つてゐるが次第に其色が明るくなつて來る。息を凝して見てゐる眼前の空間に思ひがけず白い鋭い水平の山頂線が浮び出す。美生岳だ。秒一秒、山頂は次第に霧の世界から青い大空に頭をもち上げて來る。遂に陽光が雲を破つて絶顛の雪を颯と染める。」
・一八二三米峰 中野龍雄
1937年12月29日〜1月5日、中野龍雄、清水誠吉、湊正雄の三人の積雪期初登記。あくまでも思いはペテガリである。前年敗退し、この年も準備しながら計画は流れた。「國境は曇つて見えなかつた。その見えぬ彼方をぢつと涙ぐんで見つめた時、又はその時の皆の顏等が次ぎ次ぎと浮かんで來た。暫時『何、今度こそ』と強く打消して元氣よく出發する。」
コイカクへの尾根は、いわゆる馬鹿尾根という急斜面、足元が決まらぬ雪質にはまってしまい、晴れの一日を無駄にする。「何のことはない。胸までの深い溝を作る樣なものだ。之湊に依れば直行の所謂馬鹿尾根だつた。」「氣は焦つても胸までの溝掘りは『此の野郎!コン畜生!』の體當りとブランコの連續だつた。」カムエクから縦走してくる別班の伊藤パーティーに「先をやられたら癪だなあ」などと焚き火で悶々している。
この馬鹿尾根を見限り、日を改めて函を抜け、谷ルートから国境に上がり、風強い中23をアタックした。「周公達のアイゼンの蹟は無かつた。感激の握手!時正に三時。見よ北にはエクウチカウシ、幌尻、南遙かにペテガリの雄姿──日高十勝の海は夕陽に金色に輝いてゐるではないか。『直行登つたぞ。來る二月はあのペテガリだ』。
尚、周公こと伊藤周一らのパーティーはカムエクの八の沢アタックに長引き、翌四日に七の沢からアタックに成功している。
・蕃人 岡彦一
1938年3月27日〜4月5日、タロコ峡谷から中央尖山と南湖大山を超えて霧社へ抜けた山行の、現地先住民たちとの交わりを中心に書いた随想。当時は日本の占領時代で、山間の山岳先住民四人を案内にして台湾の脊梁山脈を越えた。いずれも3700mを超える高山。稜線でゾンメルシーを彼らに穿かせてみたりした。
また一行の中の老人、シチヤカンが焚き火を囲んで即興で作った歌(先住民語)を若い一人が国語(日本語)に訳してくれたものが書いてある。ここでさらに要約すると「色々御馳走になりました。酒まで御馳走になり、ありがたう。皆樣わざわざ遠い所から來てありがたう・・・今夜今皆樣が一本酒を飮ませました。ありがたう。もし皆樣がタウサイに降りたら私の所に寄つて私の造つた酒を飮んでください。大抵醉つぱらふまで飮ませませう。・・・」と言った歌。これを丁寧に長く紹介している。これを読んで、大工哲弘の八重山の民謡や戦前の台湾の酔っぱらい歌を思い出した。レコードも携帯ラジオも無い時代、焚き火の前で、即興で歌を作れる楽しい技能が羨ましい。1920年代の記録にあったアイヌ老人との語らいにも、この楽しみがあったのだろうか。
「ブナツケイのカールヴァンドの粉雪の樣に白いザラメの上で彼等二人にスキーを教へた。鞜を貸して穿かせると彼等は何も雪を厭はない。暫時にして驚くほどの上達振り、何時しか遙か下に消えて失せた。面白がつてもうスキーを返さない。臺灣の山も多い年には實に豐富な殘雪がある。何時か彼等も手製のスキーを造る樣になり、臺灣の尾根の上に滑り廻る日が來ないかなと微笑ましき空想を描いたのだつた。」
●最近の十勝合宿について
ー冬期合宿覺え書きの一つとしてー 朝比奈英三
部報3号で詳細に記した当時の十勝合宿の雰囲気から、10年経って、その変化と最新情報をまとめた一文。当時は毎年100人近い部員で、1年班2年班、3年班をそれぞれ3〜4班編制。山岳部員全員が年に一度一堂に会して部の雰囲気と意義を高め合うという機械。合宿は1990年代半ば以降、部員不足のため行われていないが、80年代まではほとんど同じ様式、目的で行われていたことを知り、驚いた。
三年班というのが当時独特で、メンバーが三年目以上だから精鋭のパーティーだ。美瑛谷の岩稜を登ったり、富良野岳の独立岩(今はチンポコ岩と呼ぶ)の上の吹きさらしに7人用カマボコテントと3人用クレッパー変形型テントなど張って泊まったりしている。この新兵器は、ペテガリの1937年遠征の際使っている。
当時の装備を述べている部分で、「私達の作らせたウインド・ヤッケは市場にも普通な最もシンプルな實用價値のある型で、布は出來るだけ防風完全な上質を選び内側に腹部を縛る紐を入れて不愉快に膨らむのを防ぎ、又顏の兩側に當る部分に心を入れて一寸馬車馬を思ひ出させる樣な感じの防風壁を作つたが甚だ效果的であつた。そして必要の時以外は出來るだけ著ない樣にして完全な防風性を保存する樣に勉めてゐる。」「手袋は厚い毛製の物の上に二本指の皮手をはめるのが寒氣には最上とされ、乾いた軍手の上にしただけで間に合はせて居る者も多い。」オーバー手はまだ皮だった。戦後発明された化学繊維は全く偉大なものだ。
1937年度から専門の合宿幹事を二名、リーダー以外に専任したら円滑に運んだという。
● 追悼
・懷舊 故和辻廣樹、故伊藤周一両兄の霊に捧ぐ 伊藤秀五郎
和辻氏は1929年卒業で、部報1,2,号の頃に大活躍した。部員章の図案を考案した人物。伊藤秀五郎氏と共に1928年2月冬の石狩岳初登をしている仲間だ。卒業後朝日新聞記者になり、京城(現ソウル)に通信局勤務して満州事変勃発の際は飛行機で奉天(現・瀋陽)の空の一番乗りをやったとある。その後ベルリンオリンピックの為深夜勤務で体調を崩し、33才胃ガンで亡くなったとある。「彼の最も優れた美點であり、多くの人に好意を以て迎へられた理由にもなつたのは、彼の感情にどこかゆとりがあり、性格に輕妙さがあることであつた。當時,血氣盛んな、感情の激し易い山岳部の雰圍氣の中に、常に一脈の明朗さを與へたのは、和辻の諧謔性と、澤本の良識とであつたと思ふ。」
・伊藤周一君 福地文平
伊藤氏は「周公」と呼ばれ、この6号でもあちこちの記録に登場する。「體重十八貫の彼は度々彼ならではの凄まじい處を見せた。丁度忠別川からクワウンナイに入る時に一人が足を滑らせて二丈位の處を忠別川に落ちかけたのを重い荷物と一緒にむんずとばかり宙に釣り上げたの等は周公でなくては出來ない術だつた。」
1937年暮れのカムエク、23を最後の山行にして亡くなった。原因は触れられていない。旭川師団の陸軍獣医委託生として忙しく働いていたとある。
年報(1935/10−1938/4)
写真13点、スケッチ4点、地図3点
(解説前編/中編/後編)
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部報解説・ 2007年4月21日 (土)

●忠別川遡行 石橋恭一郎
● ヤオロマップ川遡行 豐田春滿
● 新しき山旅より
・ 音更川遡行 中村粂夫
・ 蘆別岳北尾根の池 鈴木限三
・ 散布岳 岡彦一
・ ペテガリ・ソナタ 有馬洋
●忠別川遡行 石橋恭一
1937年秋、ゴルジュの殿堂・忠別川(化雲沢)のおそらく初遡行記録。しかも単独。この年の7月、朝比奈ら3人パーティーが下流部で水の多さに敗退している。唯一人で未知の悪い沢に向かうときの緊張感と喜びが読み取れる遡行記録だ。
「昨夜も止められた、今朝も言はれた、忠別川は到底遡行出來ない相だ、お止めなされ、今も此の川に入つた鑛山技師が二人怪我をして湯治してゐますよ。成程川巾の廣い此の附近でも相當深い、行けなければ行けないで見物してきますよと言つたものゝ引返す氣は無かつた。」
9月といえども水量が多く、渡渉は一々苦労している。一日目の右岸(標高860m)、大高捲のシーンで、「本流が左轉した、今度は凾だ。あの本流の水勢が重く澱み、兩岸は高く天を摩して、長髮(中野征紀氏)の言つた猿も取り付けない岩壁は凾の左岸に覆ひ被さつて來る。左岸は到底登れない。右岸は或いは卷けるかも知れない。然し暗澹たる凾は此處でぐつと擴がつて奔流してゐる。渡るのは危い、引返すか───時間は未だ一時だ、天氣もいゝ、よし行かう───何囘目かの泳ぐ樣な渡渉であつた。」こうして熊の足跡を追って大高捲を終えて一泊。翌日は核心の二股越え。悪絶なゴルジュの中を進み、「何時しか再び澤の左轉する樣子に前方を見れば、愈々狹い一枚岩の凾が控へてゐる。僕は初め此の眞黒い一條の直立した線が何であるかわからなかつた。今迄通過した凾は割合廣く、且岩肌の關係もあり明るい感じもあつたので、此の暗い或物を何物ならんとしばし凝視してゐた。それが遙に聳え立つ岩壁の間に深く切れ込んだ巾二間とは無い凄い凾であるとわかつた時、僕は驚嘆と失意とに茫然としてゐたのであつた。」という感じのゴルゴルのゴルジュの中二股を超え、右岸の大高捲きをして、ワル場を抜ける。
「河原だ。此の旅の初めての安息處だ。僕はドツカとリユツクを降し、ゴクンゝと甘い水に口を付けて立ち上がると、双手を擴げてぐるんゝと廻し始めた。今までの何物かに壓倒された追はれる樣な氣持から、今こそ開放されて思ひ切り深い息を吸ひ込んだのであつた。」源流の天場の朝、「きれいだ。十歩歩んでは眺め、二十歩進んでは止つた。實に美しい。僕は心を躍らして最も恰好の場所に荷を下した。出發してよりまだ二十分とは經たない。前を見ても左右を眺めても、後を振返つてもいゝ。荷を背負つて狹い澤を左に廻ると、朝日の屆かぬ暗い樹影の彼方に夢の樣な淡紫の忠別嶽が忽然と現はれた。其の時僕の心はゝづんだ。一歩一歩と風景は開けて行き、遂にこの荷を下すまで、夢中で四圍の美しさをむさぼつて歩いて來た。今迄に其樣な自然の美しさを見た事がなかつた。其處は實に五つの澤の合流する實に廣々とした河原で、柔い尾根はすつかり紅葉し、その裾には幾條かの白絲の瀧が掛り、僕は只々造化の神の美妙さに恍惚と時の經つのも忘れて了つてゐた。」悪い沢を突破したあとの大雪山の秋は目にしみる事だろう。化雲岳から松山温泉(現・天人峡)へ夏道を下山。
● ヤオロマップ川遡行 豊田春滿
ヤオロマップ川のキムクシュベツ川の完全初遡行記録。核心部丸二日、ペテガリBカールへ抜けてから中ノ川上二股への下降尾根を下る。1937年7月上旬。豊田、中野(征紀)、駒澤の三人。アプローチは札内川のトムラウシ川(今はダムのすぐ下流)から1000mの尾根を乗っ越して、歴舟川の410m二股附近に降り、そこからキムクシュを登る。この乗っ越し尾根は当時砂金取りが入山するため結構な踏み跡になっていた模様。「中野の小堀流とか云ふヤツはこれからの活躍を思つて頼もし氣である。然し之は阿蘇に源を發し、熊本の城下を流れる白川の激流に發達した泳法で、水府流などの海向きの泳法とは違つて甲冑のまま急流を押切るのに適してゐるのだと云ふその註釋の方が更に頼もし氣である。」古式泳法達人を加えてのキムクシュ突破計画である。砂金取りや山女釣りの入らない核心部へ入り、函や滝をへつり、捲いて行く。核心部一日目、「三時近く一つの長大な凾に行當つた。これが後で考へると川筋のごとく屈曲してゐる所であつたらしい。右岸の岩壁は尾根の上まで續くかと思ふ樣に高く聳えてゐる。河相は次第に豪壯にして而も險惡な幽谷の相貌を呈して來た。だんだんヤオロマツプ溪谷の心臟部に近づいて來たのだ。」(720の) 「三岐から少し登ると本流は長大な雪溪となる。ぬれた草鞋の下に冷たい雪の感觸を樂しみ乍ら、兩岸の岩壁の間に續く此雪溪を登つて行くとそれも大きな瀧にプッツリ切られて、遙か暗い穴底に瀧壺の音が聞こえる。小黒部以來かふ云ふ所が山で一番恐しく感じる。今にも此雪溪が割れはしまいかと思ふのである。」ガスっていたけれど満足な登頂を終え、中ノ川の下山。何度もこの川に通っている中野氏は既に顔なじみの砂金取りの親子などがいて、「やあ、来たなあ。好きだなあ」などと言われて、煙管など取り出して話し込んだりしている。未踏の沢なのに途中までは人が多い。今とは違った、よき時代だ。
● 新しき山旅より
部報6号独自の編集で、記録性よりも随筆風の山行記のひとまとまり。8編。
・ 音更川遡行 中村粂夫
1936年3月、7人14日間。音更川十勝三股にベースを置き、石狩岳、ニペソツ山をアタックする。音更川からの石狩は初登頂。当時、十勝三股への鉄道(士幌線)は十勝平野の縁にあたる清水谷まで。幌加川に入る糠平までは造材林道が出来ているのがこれまでの部報でも知られるが、その先は函有り、橋掛けありの未開地なので、大々的なポーラーメソッドでやってきた。しかし、糠平〜十勝三股間の鉄道敷設道がこのとき出来ていて、意外や楽をしたとある。今は鉄道も無くなり、自動車道で一走りだが、この時代の音更川上流は榛の木が生い茂り、とてもタイヘンなヤブヤブ盆地で、沢沿いを苦労して進んだ。十勝三股まであげた荷物は90貫(340キロ)。当時は最先端のポーラーメソッドを実践してみて満足している。
山頂にて「嬉しさ極まり他云ふ無し。こゝに、周公の遺稿の言葉を借りるなら『一眺千里見えざるは無く、彼方より走り來る雲、又走り去る雲、その一つ一つに、先輩や友の顏が寫つてゐる。そして、凡てが祝福の微笑を投掛けて消えて行く。暫し茫然。唯感謝』と。流石の周公も餘程感激したらしい。」周公とは伊藤周一氏。次回に追悼文有り。
・ 蘆別岳北尾根の池 鈴木限三
1936年五月中旬、布部駅から十線沢経由、布部岳北東コルの池畔のキャンプを目指す山行。夫婦岩に抜け、ユーフレ谷を降りている。当時はまだ布部岳とは呼ばれていない。1345峰とある。「一三四五米の瘤の北に一つの小さな池が、陸地測量部の地圖に載つて居るのを、諸君は見らるゝであらふ。恭さんは云ふ『山上千古の水を湛へて俗人未踏の池』。その水を飮みたいと云ふのが我々一行の目的である。」
沢から尾根にあがり、途中に一泊。「恭さんは焚き火のために雪中に穴を掘つた。穴と云ふよりは立派な塹壕である、これは事物を徹底的にやる彼の恐るべき現はれである。盛に唱ふはBunch君、伴奏は嘉四ちやん、獻立係は山に入つてはあらゆるものを材料とし、一度は食つて見るとの噂ある恭さんである。麓で採つて來た土筆も晩飯のお菜になつた。暗黒の山中に何物も忘れ、焚火の照らす雪中の森林、十間四方が吾等の生くる暖かき宇宙であつた。」
「春の雪の山である。Tannenの林である。雪上に藍色の影の落ちるところ吾々の心は樂しからざるを得ない。Tannenの林を過ぐれば、行手には一三四五米の眞白き雪の山頂が現れた。正午頃、池の邊に着いた。白樺とハヒマツの疎生する雪原である。」「先づピツケルで池の中央と覺しき邊を掘つて、飯盆で水を汲み上げた。鐓冽透明、千古の雪の融けたる未だ俗塵に汚れざる水である。蘆別山塊の黄金水である。黄金の水で飯を炊いた。味噌汁を作つた。美味、流石は山中汚れざる池の鐓水である。」編集委員による附記には、その後しばらくこの池は限三池と呼ばれたとある。
・ 散布岳 岡彦一
1936年七月、三年前に択捉最高峰の単冠山(ヒトカップ)を三高山岳部(現・京大)が登っている。それに次ぐ択捉第二峰、チリップ岳の初登頂記録、とあるが、現代の地図ではチリップの方がヒトカップよりも高い。岡による単独行記録である。
根室発二日かけて択捉の紗那へ。散布岳西麓の漁場、トーマイまで船。漁場の食客となりアタックを目指す。漁民たちとの交流も面白い。登り七時間半、下り5時間半の一日アタックで往復する。沢を詰めカール状、ヤブを漕いで稜線へ。下山後も別飛、留別など二〇日以上も島をブラブラして、漁場巡りなどして漫遊する。豊かな漁獲の様が記録にある。
「苦鬪の後の頂だつた。ブッシュと蚊は想像以上、又常に一種の壓迫感を受けつゝ登つてきた。しかし初登攀と言ふ些かな喜びもあり、又長き憧れを果した安心を味つて高い塔の上から、鮮やかに澄み渡つた夏の北海と、一刷毛なでつけた樣な輝く雲海を見下してゐた。」
「輝く夏の光を浴び、竒妙にも靜かな一角、時々落石の響が眼下の物凄い崩崖よりはるか彼方にまでエコーする。長い雪溪を散りばめた北撒布は目のあたり海中に浮かび、遠く連なり消えるこの島の背後の山々も皆指摘できる。部落部落の細やかな家竝や、その側の小さな湖水、廣大な緑の中に雲が流れるばかり、無力な單獨行の惠まれた一刻だつたのだらう。(札幌憲兵分隊檢閲濟)」
・ ペテガリ・ソナタ 有馬洋
1936年7月、元浦川から尾根乗っ越しでペテガリ沢、a沢からペテガリ、その後稜線をコイカクまで漕いで札内川へ。太田嘉四夫、葛西晴雄、福地宏平、有馬洋のペテガリ山行。最後は尾根に逃げているがa沢の初遡行記録。第一楽章アレグロ、第二楽章アンダンテ、第三楽章アダヂオ(ロンド)、第四楽章プレストという急緩舞急というソナタの形式のちょっと気の利いた山行記録。
「一楽章アレグロ」は元浦川入山、ピリガイ山南面ショシベツ川の天場までの五日間。入山早々砂金採りの溺死体を発見、その上の渡渉点でやはり流され、リュックを濡らしてしまう。当時ビニール袋がないので渡渉の失敗は大損害となる。「もう何も彼もない。寫眞機もパンも米も砂糖も水浸しだ。河原にすつかりさらけ出して干す。此の河原で背伸びすれば未だ先刻の屍體のショイコが見える。」
「第二楽章アンダンテ」。ピリガイを乗っ越してペテガリa沢を登り、半ばから国境尾根に逃げ、延々ヤブこぎをして山頂までの五日間。「澤は此處から上は増々急で、狹い廊下見たいになつてつき上がつてゐる。全部が瀧である。右手の尾根をへずり乍らもう此處からは尾根を登つて了へと云ふ事になつて猛烈なブツシユの急斜面の尾根をもりもり登り出す。幾らフアイテイングを出しても水の用意はないし、六百米も根曲り笹の急斜面を上るのは顎出す所の騷ぎではない。〜中略〜頂上へ着いたのは七時を過ぎてゐた。何の氣力もなく足を投げ出して、此の頂で開けようと買入れて來たマンダリンの罐詰を貪る樣に飮み込むと、唯ボーツと、黄昏れゆく日高の山々が目に寫つて來るだけだつた。去年から目指し、張つてゐたペテガリにやつと着いて、こんな姿を晒すのは殘念だが、然し半死半生の樣な自分にはそんな考へすら浮かばなかつた。」カールに降りて心ゆくまで水を飲んで寝た。
「第三楽章アダヂオ(ロンド)」は、雨にたたられ飲み水のない稜線を進む、コイカク沢までの六日間。「ブツシユと云ふよりは一五九九米との間は嶽樺の林なのだ。背の低いのが意地惡く腕をつゝぱつて、押しても何しても微動だにしない。〜中略〜喉の渇を慰めて呉れたのは嘉四ちやんの持つて來た口を開いたキウリだつた。何とそのうまかつたことよ。夕飯のパンの後のホツト・レモンには何時迄も舌鼓を打つて名殘りを惜しんだ。」
ハイマツの葉先の霧の玉露を吸って歩き、雨の宿では飯ごうに雨水をためて飲んだ。コイカクの下りも踏み後を見失い、二時間のつもりが七時間かかった。「“三日たてば里に出て───”とペテガリの籠城で思つた三日はとうに過ぎてゐた。が、もういゝ。今度こそ確實だ。一週間振りで盛大に焚火をし、飯を八合炊き、味噌汁には玉葱も入れて心ゆく迄食ゐ、最後の夜を樂しんだ。」
「第四楽章プレスト」、札内川を下山する。「帶廣だ。約廿日の山旅を終へて、今人間の世の中に歸つて來たのだ。驛にルツクを置くと、小雨のしよぼ降る中を待望の禿天へと走つた。」今に至るまで延々続く、帯広下山のハゲ天通いが部報に記述されたのはこの記録が初めて。一体、これまでに何杯の天丼が、山岳部員の腹に収まったことであらふか!この夏も行けよ現役。
以下は次回後篇にて紹介。お楽しみに。
・ 樺太の山雜感 岡彦一
・ 北部日高山脈の旅 山崎春雄
・ 一八二三米峰 中野龍雄
・ 蕃人 岡彦一
● 最近の十勝合宿について
ー冬期合宿覺え書きの一つとしてー 朝比奈英三
● 追悼
・懷舊 伊藤秀五郎
・ 伊藤周一君 福地文平
年報(1935/10−1938/4)
写真13点、スケッチ4点、地図3点
(解説前編/中編/後編)
1937年秋、ゴルジュの殿堂・忠別川(化雲沢)のおそらく初遡行記録。しかも単独。この年の7月、朝比奈ら3人パーティーが下流部で水の多さに敗退している。唯一人で未知の悪い沢に向かうときの緊張感と喜びが読み取れる遡行記録だ。
「昨夜も止められた、今朝も言はれた、忠別川は到底遡行出來ない相だ、お止めなされ、今も此の川に入つた鑛山技師が二人怪我をして湯治してゐますよ。成程川巾の廣い此の附近でも相當深い、行けなければ行けないで見物してきますよと言つたものゝ引返す氣は無かつた。」
9月といえども水量が多く、渡渉は一々苦労している。一日目の右岸(標高860m)、大高捲のシーンで、「本流が左轉した、今度は凾だ。あの本流の水勢が重く澱み、兩岸は高く天を摩して、長髮(中野征紀氏)の言つた猿も取り付けない岩壁は凾の左岸に覆ひ被さつて來る。左岸は到底登れない。右岸は或いは卷けるかも知れない。然し暗澹たる凾は此處でぐつと擴がつて奔流してゐる。渡るのは危い、引返すか───時間は未だ一時だ、天氣もいゝ、よし行かう───何囘目かの泳ぐ樣な渡渉であつた。」こうして熊の足跡を追って大高捲を終えて一泊。翌日は核心の二股越え。悪絶なゴルジュの中を進み、「何時しか再び澤の左轉する樣子に前方を見れば、愈々狹い一枚岩の凾が控へてゐる。僕は初め此の眞黒い一條の直立した線が何であるかわからなかつた。今迄通過した凾は割合廣く、且岩肌の關係もあり明るい感じもあつたので、此の暗い或物を何物ならんとしばし凝視してゐた。それが遙に聳え立つ岩壁の間に深く切れ込んだ巾二間とは無い凄い凾であるとわかつた時、僕は驚嘆と失意とに茫然としてゐたのであつた。」という感じのゴルゴルのゴルジュの中二股を超え、右岸の大高捲きをして、ワル場を抜ける。
「河原だ。此の旅の初めての安息處だ。僕はドツカとリユツクを降し、ゴクンゝと甘い水に口を付けて立ち上がると、双手を擴げてぐるんゝと廻し始めた。今までの何物かに壓倒された追はれる樣な氣持から、今こそ開放されて思ひ切り深い息を吸ひ込んだのであつた。」源流の天場の朝、「きれいだ。十歩歩んでは眺め、二十歩進んでは止つた。實に美しい。僕は心を躍らして最も恰好の場所に荷を下した。出發してよりまだ二十分とは經たない。前を見ても左右を眺めても、後を振返つてもいゝ。荷を背負つて狹い澤を左に廻ると、朝日の屆かぬ暗い樹影の彼方に夢の樣な淡紫の忠別嶽が忽然と現はれた。其の時僕の心はゝづんだ。一歩一歩と風景は開けて行き、遂にこの荷を下すまで、夢中で四圍の美しさをむさぼつて歩いて來た。今迄に其樣な自然の美しさを見た事がなかつた。其處は實に五つの澤の合流する實に廣々とした河原で、柔い尾根はすつかり紅葉し、その裾には幾條かの白絲の瀧が掛り、僕は只々造化の神の美妙さに恍惚と時の經つのも忘れて了つてゐた。」悪い沢を突破したあとの大雪山の秋は目にしみる事だろう。化雲岳から松山温泉(現・天人峡)へ夏道を下山。
● ヤオロマップ川遡行 豊田春滿
ヤオロマップ川のキムクシュベツ川の完全初遡行記録。核心部丸二日、ペテガリBカールへ抜けてから中ノ川上二股への下降尾根を下る。1937年7月上旬。豊田、中野(征紀)、駒澤の三人。アプローチは札内川のトムラウシ川(今はダムのすぐ下流)から1000mの尾根を乗っ越して、歴舟川の410m二股附近に降り、そこからキムクシュを登る。この乗っ越し尾根は当時砂金取りが入山するため結構な踏み跡になっていた模様。「中野の小堀流とか云ふヤツはこれからの活躍を思つて頼もし氣である。然し之は阿蘇に源を發し、熊本の城下を流れる白川の激流に發達した泳法で、水府流などの海向きの泳法とは違つて甲冑のまま急流を押切るのに適してゐるのだと云ふその註釋の方が更に頼もし氣である。」古式泳法達人を加えてのキムクシュ突破計画である。砂金取りや山女釣りの入らない核心部へ入り、函や滝をへつり、捲いて行く。核心部一日目、「三時近く一つの長大な凾に行當つた。これが後で考へると川筋のごとく屈曲してゐる所であつたらしい。右岸の岩壁は尾根の上まで續くかと思ふ樣に高く聳えてゐる。河相は次第に豪壯にして而も險惡な幽谷の相貌を呈して來た。だんだんヤオロマツプ溪谷の心臟部に近づいて來たのだ。」(720の) 「三岐から少し登ると本流は長大な雪溪となる。ぬれた草鞋の下に冷たい雪の感觸を樂しみ乍ら、兩岸の岩壁の間に續く此雪溪を登つて行くとそれも大きな瀧にプッツリ切られて、遙か暗い穴底に瀧壺の音が聞こえる。小黒部以來かふ云ふ所が山で一番恐しく感じる。今にも此雪溪が割れはしまいかと思ふのである。」ガスっていたけれど満足な登頂を終え、中ノ川の下山。何度もこの川に通っている中野氏は既に顔なじみの砂金取りの親子などがいて、「やあ、来たなあ。好きだなあ」などと言われて、煙管など取り出して話し込んだりしている。未踏の沢なのに途中までは人が多い。今とは違った、よき時代だ。
● 新しき山旅より
部報6号独自の編集で、記録性よりも随筆風の山行記のひとまとまり。8編。
・ 音更川遡行 中村粂夫
1936年3月、7人14日間。音更川十勝三股にベースを置き、石狩岳、ニペソツ山をアタックする。音更川からの石狩は初登頂。当時、十勝三股への鉄道(士幌線)は十勝平野の縁にあたる清水谷まで。幌加川に入る糠平までは造材林道が出来ているのがこれまでの部報でも知られるが、その先は函有り、橋掛けありの未開地なので、大々的なポーラーメソッドでやってきた。しかし、糠平〜十勝三股間の鉄道敷設道がこのとき出来ていて、意外や楽をしたとある。今は鉄道も無くなり、自動車道で一走りだが、この時代の音更川上流は榛の木が生い茂り、とてもタイヘンなヤブヤブ盆地で、沢沿いを苦労して進んだ。十勝三股まであげた荷物は90貫(340キロ)。当時は最先端のポーラーメソッドを実践してみて満足している。
山頂にて「嬉しさ極まり他云ふ無し。こゝに、周公の遺稿の言葉を借りるなら『一眺千里見えざるは無く、彼方より走り來る雲、又走り去る雲、その一つ一つに、先輩や友の顏が寫つてゐる。そして、凡てが祝福の微笑を投掛けて消えて行く。暫し茫然。唯感謝』と。流石の周公も餘程感激したらしい。」周公とは伊藤周一氏。次回に追悼文有り。
・ 蘆別岳北尾根の池 鈴木限三
1936年五月中旬、布部駅から十線沢経由、布部岳北東コルの池畔のキャンプを目指す山行。夫婦岩に抜け、ユーフレ谷を降りている。当時はまだ布部岳とは呼ばれていない。1345峰とある。「一三四五米の瘤の北に一つの小さな池が、陸地測量部の地圖に載つて居るのを、諸君は見らるゝであらふ。恭さんは云ふ『山上千古の水を湛へて俗人未踏の池』。その水を飮みたいと云ふのが我々一行の目的である。」
沢から尾根にあがり、途中に一泊。「恭さんは焚き火のために雪中に穴を掘つた。穴と云ふよりは立派な塹壕である、これは事物を徹底的にやる彼の恐るべき現はれである。盛に唱ふはBunch君、伴奏は嘉四ちやん、獻立係は山に入つてはあらゆるものを材料とし、一度は食つて見るとの噂ある恭さんである。麓で採つて來た土筆も晩飯のお菜になつた。暗黒の山中に何物も忘れ、焚火の照らす雪中の森林、十間四方が吾等の生くる暖かき宇宙であつた。」
「春の雪の山である。Tannenの林である。雪上に藍色の影の落ちるところ吾々の心は樂しからざるを得ない。Tannenの林を過ぐれば、行手には一三四五米の眞白き雪の山頂が現れた。正午頃、池の邊に着いた。白樺とハヒマツの疎生する雪原である。」「先づピツケルで池の中央と覺しき邊を掘つて、飯盆で水を汲み上げた。鐓冽透明、千古の雪の融けたる未だ俗塵に汚れざる水である。蘆別山塊の黄金水である。黄金の水で飯を炊いた。味噌汁を作つた。美味、流石は山中汚れざる池の鐓水である。」編集委員による附記には、その後しばらくこの池は限三池と呼ばれたとある。
・ 散布岳 岡彦一
1936年七月、三年前に択捉最高峰の単冠山(ヒトカップ)を三高山岳部(現・京大)が登っている。それに次ぐ択捉第二峰、チリップ岳の初登頂記録、とあるが、現代の地図ではチリップの方がヒトカップよりも高い。岡による単独行記録である。
根室発二日かけて択捉の紗那へ。散布岳西麓の漁場、トーマイまで船。漁場の食客となりアタックを目指す。漁民たちとの交流も面白い。登り七時間半、下り5時間半の一日アタックで往復する。沢を詰めカール状、ヤブを漕いで稜線へ。下山後も別飛、留別など二〇日以上も島をブラブラして、漁場巡りなどして漫遊する。豊かな漁獲の様が記録にある。
「苦鬪の後の頂だつた。ブッシュと蚊は想像以上、又常に一種の壓迫感を受けつゝ登つてきた。しかし初登攀と言ふ些かな喜びもあり、又長き憧れを果した安心を味つて高い塔の上から、鮮やかに澄み渡つた夏の北海と、一刷毛なでつけた樣な輝く雲海を見下してゐた。」
「輝く夏の光を浴び、竒妙にも靜かな一角、時々落石の響が眼下の物凄い崩崖よりはるか彼方にまでエコーする。長い雪溪を散りばめた北撒布は目のあたり海中に浮かび、遠く連なり消えるこの島の背後の山々も皆指摘できる。部落部落の細やかな家竝や、その側の小さな湖水、廣大な緑の中に雲が流れるばかり、無力な單獨行の惠まれた一刻だつたのだらう。(札幌憲兵分隊檢閲濟)」
・ ペテガリ・ソナタ 有馬洋
1936年7月、元浦川から尾根乗っ越しでペテガリ沢、a沢からペテガリ、その後稜線をコイカクまで漕いで札内川へ。太田嘉四夫、葛西晴雄、福地宏平、有馬洋のペテガリ山行。最後は尾根に逃げているがa沢の初遡行記録。第一楽章アレグロ、第二楽章アンダンテ、第三楽章アダヂオ(ロンド)、第四楽章プレストという急緩舞急というソナタの形式のちょっと気の利いた山行記録。
「一楽章アレグロ」は元浦川入山、ピリガイ山南面ショシベツ川の天場までの五日間。入山早々砂金採りの溺死体を発見、その上の渡渉点でやはり流され、リュックを濡らしてしまう。当時ビニール袋がないので渡渉の失敗は大損害となる。「もう何も彼もない。寫眞機もパンも米も砂糖も水浸しだ。河原にすつかりさらけ出して干す。此の河原で背伸びすれば未だ先刻の屍體のショイコが見える。」
「第二楽章アンダンテ」。ピリガイを乗っ越してペテガリa沢を登り、半ばから国境尾根に逃げ、延々ヤブこぎをして山頂までの五日間。「澤は此處から上は増々急で、狹い廊下見たいになつてつき上がつてゐる。全部が瀧である。右手の尾根をへずり乍らもう此處からは尾根を登つて了へと云ふ事になつて猛烈なブツシユの急斜面の尾根をもりもり登り出す。幾らフアイテイングを出しても水の用意はないし、六百米も根曲り笹の急斜面を上るのは顎出す所の騷ぎではない。〜中略〜頂上へ着いたのは七時を過ぎてゐた。何の氣力もなく足を投げ出して、此の頂で開けようと買入れて來たマンダリンの罐詰を貪る樣に飮み込むと、唯ボーツと、黄昏れゆく日高の山々が目に寫つて來るだけだつた。去年から目指し、張つてゐたペテガリにやつと着いて、こんな姿を晒すのは殘念だが、然し半死半生の樣な自分にはそんな考へすら浮かばなかつた。」カールに降りて心ゆくまで水を飲んで寝た。
「第三楽章アダヂオ(ロンド)」は、雨にたたられ飲み水のない稜線を進む、コイカク沢までの六日間。「ブツシユと云ふよりは一五九九米との間は嶽樺の林なのだ。背の低いのが意地惡く腕をつゝぱつて、押しても何しても微動だにしない。〜中略〜喉の渇を慰めて呉れたのは嘉四ちやんの持つて來た口を開いたキウリだつた。何とそのうまかつたことよ。夕飯のパンの後のホツト・レモンには何時迄も舌鼓を打つて名殘りを惜しんだ。」
ハイマツの葉先の霧の玉露を吸って歩き、雨の宿では飯ごうに雨水をためて飲んだ。コイカクの下りも踏み後を見失い、二時間のつもりが七時間かかった。「“三日たてば里に出て───”とペテガリの籠城で思つた三日はとうに過ぎてゐた。が、もういゝ。今度こそ確實だ。一週間振りで盛大に焚火をし、飯を八合炊き、味噌汁には玉葱も入れて心ゆく迄食ゐ、最後の夜を樂しんだ。」
「第四楽章プレスト」、札内川を下山する。「帶廣だ。約廿日の山旅を終へて、今人間の世の中に歸つて來たのだ。驛にルツクを置くと、小雨のしよぼ降る中を待望の禿天へと走つた。」今に至るまで延々続く、帯広下山のハゲ天通いが部報に記述されたのはこの記録が初めて。一体、これまでに何杯の天丼が、山岳部員の腹に収まったことであらふか!この夏も行けよ現役。
以下は次回後篇にて紹介。お楽しみに。
・ 樺太の山雜感 岡彦一
・ 北部日高山脈の旅 山崎春雄
・ 一八二三米峰 中野龍雄
・ 蕃人 岡彦一
● 最近の十勝合宿について
ー冬期合宿覺え書きの一つとしてー 朝比奈英三
● 追悼
・懷舊 伊藤秀五郎
・ 伊藤周一君 福地文平
年報(1935/10−1938/4)
写真13点、スケッチ4点、地図3点
(解説前編/中編/後編)
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部報解説・ 2007年3月24日 (土)

また海外記録が豪華だ。北千島、中部千島(新知島の新知岳、松輪島の芙蓉岳など初登)、択捉の散布岳初登、樺太の日ソ国境周辺の山散策、ほか朝鮮の冠帽峰、台湾の新高山や合歓山はもちろん、タロコ峡より中央尖山、南湖大山を「蕃人」たちの案内で登り、山稜でゾンメルスキーをやっている。東亜の山へ存分に足を延ばす1930年代。京大が白頭山、大興安嶺、京城帝大や早稲田が冠帽峰を登っている。数年後に迫る世界戦争が無情だ。これらは次回後篇で紹介する。
部報6号(1938年)前半編
● ペテガリ岳ー嚴冬期におけるー
・ まへがき 葛西晴雄
・ 準備 有馬洋
・ 經過 有馬洋
・ 冬期登攀用品に就いて 林和夫
・ 食料ノートより 岡彦一、中野龍雄
・ 氣象について 星野昌平
● 冬の南日高連峰
・ 豐似川よりピリカヌプリ山へ 湊正雄
・ 一月の神威岳 葛西晴雄
【総評】
1935/10月から1938/4月の記録。記事140p、年報119pの合計259p。編集委員は10名の連名。編集後記は葛西晴雄。これまでの部報の挿入写真は、風景が多かったが、今号ではペテガリ隊のキャンプ地での何気ない焚き火の写真など、気取らぬものが増えている。
【時代】
1935年:積雪期、北アルプスでは鹿島槍北壁右ルンゼ(浪速高)、剣岳小窓尾根(立教・早稲田)、東大谷中俣、本谷、池ノ谷右俣(以上立教)、穂高ジャンダルム飛騨尾根(東京農大)などが学生山岳部によって次々初登攀された。北岳バットレス第4尾根初登(東京商科大)もこの夏。1月に加藤文太郎が、立山から針ノ木岳へ黒部横断の厳冬期単独縦走。極地法を身につけたAACKは朝鮮白頭山遠征をする。第5次エベレスト遠征(英)・シプトン隊
1936年:積雪期剱尾根初登(早稲田)、立教大が日本初のヒマラヤ登山ナンダ・コット(6861m)初登頂。京大AACK中部大興安嶺踏査。加藤文太郎北鎌尾根で遭難死。エベレスト第6次隊。ティルマン(英)、ナンダデヴィー初登。バウアー(独)、シニオルチュー初登。世間は2.26事件。日独防共協定。西安事件で国共合作。スペイン戦争。ベルリンオリンピック。
1937年:北岳バットレス第4尾根積雪期初登(東京商科大)、鹿島槍荒沢奥壁積雪期初登(東京商科大)など。第3次ナンガパルバット(独)で16人雪崩死。
世間は遂に蘆溝橋事件、日中戦争始まる、12月の南京陥落後も重慶政府と戦争は続く。スペインではナチスがゲルニカ空爆。
1938年:西穂〜奥穂1月初縦走(慶応大)、前穂北尾根松高ルート初登。北穂滝谷第4尾根単独初登(松濤明)など。第7次エベレスト(英)・ティルマン隊。バウアー(独)、第4次ナンガパルバット。ハウストン(米)、K2。いずれも届かず。ハラーら(独)アイガー北壁初登。世間では国民総動員法施行で戦争体制に。日本軍が重慶空爆、広東占領、武漢占領。ドイツがオーストリアを併合。
● ペテガリ岳ー嚴冬期におけるー
・ まへがき 葛西晴雄
・ 準備 有馬洋
・ 經過 有馬洋
1937年1月28日から2月7日まで四班十一名で挑んだ厳冬期初登。1934年入部の三年目葛西、林、中野(龍)、有馬(洋)らを主体とし、一年目の橋本(ヤンチョ)、OBで卒業後十年たつ坂本直行もいる。札内川から入りコイカクシュサツナイ岳より稜線を往復の計画だが、悪天のため1599峰(初登)までで断念した。「 かく此の山が冬期に於て再三の試みをも退け今日なほ未知の姿として山脈の奧深く殘されてゐる主な理由としては、種々の不利なる條件のために澤を最後迄利用して頂上への登高を行ふことの困難なる事を擧げなければならない。そして利用出來る澤の上から頂上迄長い間尾根傳ひキヤンプを進めていくのである。」「三月にはその氣温、氣象的關係から雪崩の危險を増し、或いは不規則な雪庇を作り叉例年に依ると概して荒天が多いやうである。澤の結氷状態、尾根上の雪の堅さからみても最も寒氣の烈しい二月が最良であることよりして、」この時期が選ばれた。前の夏から二パーティーが此の山域に入って研究し七人用かまぼこ型テントや小型テントなどを考案製作した。そしてルームには珍しい極地法的な「サポーティングシステム」を取り入れている。が、天気周期悪く、新兵器のテントも潰され、1599m峰までで退却した。
このパーティーの中から、1940年再びペテガリ(第二次)に挑戦した有馬、葛西が雪崩で帰らず、橋本がかろうじて助かった。
・ 冬期登攀用品に就いて 林和夫
今回の大作戦では初めて厳冬日高の稜線上に泊まるため、コイカク山頂のC2には蒲鉾型テントを、ヤオロマップ山頂下には耐風型変形三角テントを作って、初使用した。一方樹林帯のC1では、いまも変わらぬ三角テントで、支柱を現地で調達、中にタンネを敷き詰めるという創部以来の方法が部報では初めて詳しく記述されている(図解入り)。しかし梁を載せ、紐で結わえ、吊り下げたのはこのときが初だったようだ「立ち木はいくらでも豊富にあるのだからと云ふわけで、ペテガリ行のベースキャンプではこれを吊り下げ式にして使用してみた。」。C2,C3の新型テントも、暴風にあっけなく壊され、敗退の一要因になった。樹林帯からのロングアタックでは届かない初めての山頂であるペテガリのために、苦労している。これらドームテントの骨は、トンキン竹や槲(かしわ)の木だ。何故、ペテガリが未踏峰として残ったのか、こういう面からもよくわかる。ペテガリ岳は、ルームが初めて樹林帯ではなく、白い稜線に泊まる必要に迫られた山だった。
当時、ヒマラヤを目指して1931〜2年に京大山岳部が富士山で日本初の極地方登山を実践し、1930年代を通じ、慶応や早稲田の山岳部が、槍穂高、剱でやはり初めて白い稜線での高所露営を実践し始めていた時代である。どこもイギリスのエベレスト遠征隊などの情報を元に手作り試行錯誤で研究していた。
その他の装備も、タンネの葉が敷けないC2,C3では初めてマットレスを用いた。「一人につき巾四〇糎長さ100糎のもの一枚を用ひ、微粒コルクの入つた巾3.5糎(センチ)の部分と、入らない巾1.2糎の部分とが連續して100糎になつてゐるのである。一人用一枚230匁(一匁は3.75グラム、一貫は3.75キログラム)になり非常に優秀なものである。」
オーバーシューズも今回に備え美瑛岳の合宿で初めて試したところ、「零下三〇度と云ふ寒さに加へて烈風が吹いた爲、足を凍傷した者多かつたが、これを用ひてたものは足の冷たさをさへ感じず、優秀性を裏書きした。」シーデポの旗もタダの赤ではなく、「ソビエト北極探検隊に倣つて黄色の入つた赤、即ち明るいオレンヂ色を」用いて遠くからも吹雪の中でもよく見えたという。ベンジンのストーブとアルコールストーブを較べ、火力でアルコールを採用している。
「吹き晒しの日高の尾根の夜、外に出て小用をする等到底不可能な事だつた。それで始めは交互に、天幕の底布に開けてある塵出しの穴ですましたが後にはアルコールを入れて行つた一立入りの罐ですました。」なんと!いまに伝わるテント内床ション、ビニションのルーツはここにあった。
・ 食料ノートより 岡彦一、中野龍雄
食料の詳細が書かれているのは部報では初めて。朝は餅入りみそ汁、夜はご飯と乾燥野菜やベーコン入りみそ汁で、基本はみそ汁味だ。このころはインスタントラーメンや、手頃なカレールーがまだ無かったようだ。「京都某商店製の味付きうどん」というのが、煮るだけの簡単麺のようだ。昼の行動食はフランスパンが主流。
・ 氣象について 星野昌平
ペテガリ敗退の気象分析をしている。当時は当然ながら携帯ラジオはなかった。現場では風向風力観測と、気圧計を使っての情報で判断している。天気図を見るという方法ではないので、風向には非常に敏感だ。
● 冬の南日高連峰
・ 豐似川よりピリカヌプリ山へ 湊正雄
「ピリカと云つてもそんなに有名な山ではないが之は日高山脈も南端に近いヌピナイ川の上流にある山である。」から始まる1935年末からの冬期初登記。十日間、本野、湊、葛西の三人パーティー。当時のピリカはこんな認識だった。豊似で牧場をしている坂本直行は忙しくて参加を断念。パーティーは直行宅にC0(前夜泊)する。
「烈しい鋭さ等といふものは勿論求められないが、何處となくゆるせないものを包んでゐる大きな山容はペテガリと共に高く買はる可きものである。事實、日高と十勝の國境線の上に竝んだ大小幾多の峰頂の中で、最後の鞍部から頂上まで三〇〇米以上もの急騰を強ひるものは、情けない話であるが、此の山を除いては一つも無いのである。しかしそんな事はどうでも良い。私達がはるばる此の名も良く知られてゐない山に出掛けていつたのは唯この山に魅せられたが故であり、ひどく愛したからであつた。」ルートは豊似川から。入山時は雪が少なかったのに、中流部標高580m附近で「馬鹿雪」に降られ停滞。ここをBCとしてロングアタックする作戦に変える。「長い毛皮の長靴は愚か腰も沒する樣な四尺からある豪雪だ。其んなひどい雪では何も出來はしない。寢て落ち着くのを待つのが一番だといふのでシュラーフに入ると眠つてしまつた。不精者が三人揃つたので歩かない時は飯もつくらない事になつてゐた。」パーティーの雰囲気が匂い立つ一文である。
いくつもの滝を捲き、沢を詰め、トヨニ南峰1493m(当時はトヨヰ岳1520mと呼んでいたようだ)東のコルにシーデポ、ピリカをアタックする。朝四時前出発の十七時間半行動だった。「それから翌日の夕方おそく、五里の道を再びトヨニの友の所に歸つて行つて、心から祝福された。牝牛と、よごろく號(馬の名)の間に吊り下げられた直行氏得意の吊り風呂で、痩せ細つた體がランプに照らされてゐた。」卒業後十年経っている坂本直行の、山への意欲はまだ現役に影響を与え続けている。ピリカは南からが格好良いという方針で、ヌピナイ川からを避け、豊似川に登路をとった。
・ 一月の神威嶽 葛西晴雄
1937年暮れからの十日間。ヌピナイ川からの神威岳冬期初登記。入山六日目に尾根に出て、七日目登頂。葛西晴雄、中野征紀、有馬洋。全体に、少しとぼけた面白い記録だ。
「笹の密生した斜面や倒木と戰ひながら_いた。笹の斜面を登る時はルックと身體の重量の爲屡々一寸した加減で足がツルンと滑つて掬はれ、その度毎に朝食べた二切分の餅に相當する位のカロリーが豫期せずして一瞬に失はれたやうに感ぜられるのは癪にさはつた。」この気持ち、よくわかる。渡渉の際、「私達は此の時とばかり用意してきたゴム長靴の股迄來るやつを穿いて渡つたが、しかしかゝる天氣の良い暖かい日の下では、スキー鞜にゲートルのまゝ淺瀬を狙つて走り渡つた長髮兄(中野征紀氏のこと)の方が結局時間的に遙かに頭が良い事になつた。」これもよく経験する一幕。
一度ラッセルして、余計な荷物を取りにもどって運ぶ方法を、ヴィーダーコンメンメトーデ(wieder kommen methode)という怪しげなドイツ語で呼び始めたのもこの山行からのようだ。現在、これは「ビーコン」などと呼ばれている。
ヌピナイの函の手前にBCを作り、函地帯は軽い身で、ザイルなど出しながら捲いて進む。ソエマツとピリカの中間のポコから降りている尾根を登ろうとその基部(上二股のこと)にアタックキャンプを構える。ここで一停滞のあと、この尾根の標高1340mにアタックキャンプを全身させる。翌日、ここからロングアタック。厳冬初登頂のソエマツ山頂から見た、神威岳の美しさに賛辞を惜しまない。この光景を見たのは、彼らが初めてだ。写真で見た上で登った僕らでさえ、息を呑む美しさだった。
「午後零時卅分、遂に神威の頂上に立つことができた。之でやつと來たんだ、私達は默つて互ひに祝福し合つた。ヤンチョ(橋本誠二氏)送る處のチヨコレートが取り出された。私達は未だ誰にも示されなかつた此處からの嚴な冬の景色を眺めて何故とはなしに嬉しかつた。此處に一つの足蹟を殘し得た事に無上の喜びを感じた。」結局十四時間行動。この時代の日高の未踏峰山行は、沢を詰め、最終キャンプから軽い身で10時間以上のロングアタックをかけて樹林帯に戻る。その典型的な形式である。何か潔い、知力と体力を尽くす登山スタイルだと思う。
以下は後半編に続く
●忠別川遡行 石橋恭一郎
● ヤオロマップ川遡行 豐田春滿
● 新しき山旅より
・ 音更川遡行 中村粂夫
・ 蘆別岳北尾根の池 鈴木限三
・ 散布岳 岡彦一
・ ペテガリ・ソナタ 有馬洋
・ 樺太の山雜感 岡彦一
・ 北部日高山脈の旅 山崎春雄
・ 一八二三米峰 中野龍雄
・ 蕃人 岡彦一
● 最近の十勝合宿について
ー冬期合宿覺え書きの一つとしてー 朝比奈英三
● 追悼
・懷舊 伊藤秀五郎
・ 伊藤周一君 福地文平
年報(1935/10−1938/4)
写真13点、スケッチ4点、地図3点
(解説前編/中編/後編)
1935/10月から1938/4月の記録。記事140p、年報119pの合計259p。編集委員は10名の連名。編集後記は葛西晴雄。これまでの部報の挿入写真は、風景が多かったが、今号ではペテガリ隊のキャンプ地での何気ない焚き火の写真など、気取らぬものが増えている。
【時代】
1935年:積雪期、北アルプスでは鹿島槍北壁右ルンゼ(浪速高)、剣岳小窓尾根(立教・早稲田)、東大谷中俣、本谷、池ノ谷右俣(以上立教)、穂高ジャンダルム飛騨尾根(東京農大)などが学生山岳部によって次々初登攀された。北岳バットレス第4尾根初登(東京商科大)もこの夏。1月に加藤文太郎が、立山から針ノ木岳へ黒部横断の厳冬期単独縦走。極地法を身につけたAACKは朝鮮白頭山遠征をする。第5次エベレスト遠征(英)・シプトン隊
1936年:積雪期剱尾根初登(早稲田)、立教大が日本初のヒマラヤ登山ナンダ・コット(6861m)初登頂。京大AACK中部大興安嶺踏査。加藤文太郎北鎌尾根で遭難死。エベレスト第6次隊。ティルマン(英)、ナンダデヴィー初登。バウアー(独)、シニオルチュー初登。世間は2.26事件。日独防共協定。西安事件で国共合作。スペイン戦争。ベルリンオリンピック。
1937年:北岳バットレス第4尾根積雪期初登(東京商科大)、鹿島槍荒沢奥壁積雪期初登(東京商科大)など。第3次ナンガパルバット(独)で16人雪崩死。
世間は遂に蘆溝橋事件、日中戦争始まる、12月の南京陥落後も重慶政府と戦争は続く。スペインではナチスがゲルニカ空爆。
1938年:西穂〜奥穂1月初縦走(慶応大)、前穂北尾根松高ルート初登。北穂滝谷第4尾根単独初登(松濤明)など。第7次エベレスト(英)・ティルマン隊。バウアー(独)、第4次ナンガパルバット。ハウストン(米)、K2。いずれも届かず。ハラーら(独)アイガー北壁初登。世間では国民総動員法施行で戦争体制に。日本軍が重慶空爆、広東占領、武漢占領。ドイツがオーストリアを併合。
● ペテガリ岳ー嚴冬期におけるー
・ まへがき 葛西晴雄
・ 準備 有馬洋
・ 經過 有馬洋
1937年1月28日から2月7日まで四班十一名で挑んだ厳冬期初登。1934年入部の三年目葛西、林、中野(龍)、有馬(洋)らを主体とし、一年目の橋本(ヤンチョ)、OBで卒業後十年たつ坂本直行もいる。札内川から入りコイカクシュサツナイ岳より稜線を往復の計画だが、悪天のため1599峰(初登)までで断念した。「 かく此の山が冬期に於て再三の試みをも退け今日なほ未知の姿として山脈の奧深く殘されてゐる主な理由としては、種々の不利なる條件のために澤を最後迄利用して頂上への登高を行ふことの困難なる事を擧げなければならない。そして利用出來る澤の上から頂上迄長い間尾根傳ひキヤンプを進めていくのである。」「三月にはその氣温、氣象的關係から雪崩の危險を増し、或いは不規則な雪庇を作り叉例年に依ると概して荒天が多いやうである。澤の結氷状態、尾根上の雪の堅さからみても最も寒氣の烈しい二月が最良であることよりして、」この時期が選ばれた。前の夏から二パーティーが此の山域に入って研究し七人用かまぼこ型テントや小型テントなどを考案製作した。そしてルームには珍しい極地法的な「サポーティングシステム」を取り入れている。が、天気周期悪く、新兵器のテントも潰され、1599m峰までで退却した。
このパーティーの中から、1940年再びペテガリ(第二次)に挑戦した有馬、葛西が雪崩で帰らず、橋本がかろうじて助かった。
・ 冬期登攀用品に就いて 林和夫
今回の大作戦では初めて厳冬日高の稜線上に泊まるため、コイカク山頂のC2には蒲鉾型テントを、ヤオロマップ山頂下には耐風型変形三角テントを作って、初使用した。一方樹林帯のC1では、いまも変わらぬ三角テントで、支柱を現地で調達、中にタンネを敷き詰めるという創部以来の方法が部報では初めて詳しく記述されている(図解入り)。しかし梁を載せ、紐で結わえ、吊り下げたのはこのときが初だったようだ「立ち木はいくらでも豊富にあるのだからと云ふわけで、ペテガリ行のベースキャンプではこれを吊り下げ式にして使用してみた。」。C2,C3の新型テントも、暴風にあっけなく壊され、敗退の一要因になった。樹林帯からのロングアタックでは届かない初めての山頂であるペテガリのために、苦労している。これらドームテントの骨は、トンキン竹や槲(かしわ)の木だ。何故、ペテガリが未踏峰として残ったのか、こういう面からもよくわかる。ペテガリ岳は、ルームが初めて樹林帯ではなく、白い稜線に泊まる必要に迫られた山だった。
当時、ヒマラヤを目指して1931〜2年に京大山岳部が富士山で日本初の極地方登山を実践し、1930年代を通じ、慶応や早稲田の山岳部が、槍穂高、剱でやはり初めて白い稜線での高所露営を実践し始めていた時代である。どこもイギリスのエベレスト遠征隊などの情報を元に手作り試行錯誤で研究していた。
その他の装備も、タンネの葉が敷けないC2,C3では初めてマットレスを用いた。「一人につき巾四〇糎長さ100糎のもの一枚を用ひ、微粒コルクの入つた巾3.5糎(センチ)の部分と、入らない巾1.2糎の部分とが連續して100糎になつてゐるのである。一人用一枚230匁(一匁は3.75グラム、一貫は3.75キログラム)になり非常に優秀なものである。」
オーバーシューズも今回に備え美瑛岳の合宿で初めて試したところ、「零下三〇度と云ふ寒さに加へて烈風が吹いた爲、足を凍傷した者多かつたが、これを用ひてたものは足の冷たさをさへ感じず、優秀性を裏書きした。」シーデポの旗もタダの赤ではなく、「ソビエト北極探検隊に倣つて黄色の入つた赤、即ち明るいオレンヂ色を」用いて遠くからも吹雪の中でもよく見えたという。ベンジンのストーブとアルコールストーブを較べ、火力でアルコールを採用している。
「吹き晒しの日高の尾根の夜、外に出て小用をする等到底不可能な事だつた。それで始めは交互に、天幕の底布に開けてある塵出しの穴ですましたが後にはアルコールを入れて行つた一立入りの罐ですました。」なんと!いまに伝わるテント内床ション、ビニションのルーツはここにあった。
・ 食料ノートより 岡彦一、中野龍雄
食料の詳細が書かれているのは部報では初めて。朝は餅入りみそ汁、夜はご飯と乾燥野菜やベーコン入りみそ汁で、基本はみそ汁味だ。このころはインスタントラーメンや、手頃なカレールーがまだ無かったようだ。「京都某商店製の味付きうどん」というのが、煮るだけの簡単麺のようだ。昼の行動食はフランスパンが主流。
・ 氣象について 星野昌平
ペテガリ敗退の気象分析をしている。当時は当然ながら携帯ラジオはなかった。現場では風向風力観測と、気圧計を使っての情報で判断している。天気図を見るという方法ではないので、風向には非常に敏感だ。
● 冬の南日高連峰
・ 豐似川よりピリカヌプリ山へ 湊正雄
「ピリカと云つてもそんなに有名な山ではないが之は日高山脈も南端に近いヌピナイ川の上流にある山である。」から始まる1935年末からの冬期初登記。十日間、本野、湊、葛西の三人パーティー。当時のピリカはこんな認識だった。豊似で牧場をしている坂本直行は忙しくて参加を断念。パーティーは直行宅にC0(前夜泊)する。
「烈しい鋭さ等といふものは勿論求められないが、何處となくゆるせないものを包んでゐる大きな山容はペテガリと共に高く買はる可きものである。事實、日高と十勝の國境線の上に竝んだ大小幾多の峰頂の中で、最後の鞍部から頂上まで三〇〇米以上もの急騰を強ひるものは、情けない話であるが、此の山を除いては一つも無いのである。しかしそんな事はどうでも良い。私達がはるばる此の名も良く知られてゐない山に出掛けていつたのは唯この山に魅せられたが故であり、ひどく愛したからであつた。」ルートは豊似川から。入山時は雪が少なかったのに、中流部標高580m附近で「馬鹿雪」に降られ停滞。ここをBCとしてロングアタックする作戦に変える。「長い毛皮の長靴は愚か腰も沒する樣な四尺からある豪雪だ。其んなひどい雪では何も出來はしない。寢て落ち着くのを待つのが一番だといふのでシュラーフに入ると眠つてしまつた。不精者が三人揃つたので歩かない時は飯もつくらない事になつてゐた。」パーティーの雰囲気が匂い立つ一文である。
いくつもの滝を捲き、沢を詰め、トヨニ南峰1493m(当時はトヨヰ岳1520mと呼んでいたようだ)東のコルにシーデポ、ピリカをアタックする。朝四時前出発の十七時間半行動だった。「それから翌日の夕方おそく、五里の道を再びトヨニの友の所に歸つて行つて、心から祝福された。牝牛と、よごろく號(馬の名)の間に吊り下げられた直行氏得意の吊り風呂で、痩せ細つた體がランプに照らされてゐた。」卒業後十年経っている坂本直行の、山への意欲はまだ現役に影響を与え続けている。ピリカは南からが格好良いという方針で、ヌピナイ川からを避け、豊似川に登路をとった。
・ 一月の神威嶽 葛西晴雄
1937年暮れからの十日間。ヌピナイ川からの神威岳冬期初登記。入山六日目に尾根に出て、七日目登頂。葛西晴雄、中野征紀、有馬洋。全体に、少しとぼけた面白い記録だ。
「笹の密生した斜面や倒木と戰ひながら_いた。笹の斜面を登る時はルックと身體の重量の爲屡々一寸した加減で足がツルンと滑つて掬はれ、その度毎に朝食べた二切分の餅に相當する位のカロリーが豫期せずして一瞬に失はれたやうに感ぜられるのは癪にさはつた。」この気持ち、よくわかる。渡渉の際、「私達は此の時とばかり用意してきたゴム長靴の股迄來るやつを穿いて渡つたが、しかしかゝる天氣の良い暖かい日の下では、スキー鞜にゲートルのまゝ淺瀬を狙つて走り渡つた長髮兄(中野征紀氏のこと)の方が結局時間的に遙かに頭が良い事になつた。」これもよく経験する一幕。
一度ラッセルして、余計な荷物を取りにもどって運ぶ方法を、ヴィーダーコンメンメトーデ(wieder kommen methode)という怪しげなドイツ語で呼び始めたのもこの山行からのようだ。現在、これは「ビーコン」などと呼ばれている。
ヌピナイの函の手前にBCを作り、函地帯は軽い身で、ザイルなど出しながら捲いて進む。ソエマツとピリカの中間のポコから降りている尾根を登ろうとその基部(上二股のこと)にアタックキャンプを構える。ここで一停滞のあと、この尾根の標高1340mにアタックキャンプを全身させる。翌日、ここからロングアタック。厳冬初登頂のソエマツ山頂から見た、神威岳の美しさに賛辞を惜しまない。この光景を見たのは、彼らが初めてだ。写真で見た上で登った僕らでさえ、息を呑む美しさだった。
「午後零時卅分、遂に神威の頂上に立つことができた。之でやつと來たんだ、私達は默つて互ひに祝福し合つた。ヤンチョ(橋本誠二氏)送る處のチヨコレートが取り出された。私達は未だ誰にも示されなかつた此處からの嚴な冬の景色を眺めて何故とはなしに嬉しかつた。此處に一つの足蹟を殘し得た事に無上の喜びを感じた。」結局十四時間行動。この時代の日高の未踏峰山行は、沢を詰め、最終キャンプから軽い身で10時間以上のロングアタックをかけて樹林帯に戻る。その典型的な形式である。何か潔い、知力と体力を尽くす登山スタイルだと思う。
以下は後半編に続く
●忠別川遡行 石橋恭一郎
● ヤオロマップ川遡行 豐田春滿
● 新しき山旅より
・ 音更川遡行 中村粂夫
・ 蘆別岳北尾根の池 鈴木限三
・ 散布岳 岡彦一
・ ペテガリ・ソナタ 有馬洋
・ 樺太の山雜感 岡彦一
・ 北部日高山脈の旅 山崎春雄
・ 一八二三米峰 中野龍雄
・ 蕃人 岡彦一
● 最近の十勝合宿について
ー冬期合宿覺え書きの一つとしてー 朝比奈英三
● 追悼
・懷舊 伊藤秀五郎
・ 伊藤周一君 福地文平
年報(1935/10−1938/4)
写真13点、スケッチ4点、地図3点
(解説前編/中編/後編)
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部報解説・ 2007年3月2日 (金)

5号後半は千島、樺太の山行記録が特徴。樺太の山は、ソ連国境(北緯50度線)近い地味な山だが、当時の辺境の様子がわかって面白い。
部報5号(1935年)後半分
●シユンベツ川より滑若岳へ 水上定一
● 北千島 初見一雄
● 北樺太の山々
名好山 本野正一
樺太に関する文献表 水上定一
●知床半島の春 豊田春満
●三月の石狩川 石橋恭一郎
●創立前後の思出 渡邉千尚
●シユンベツ川より滑若岳へ 水上定一
1935年七月からの二〇日間、照井と水上の二人。シュンベツ川から遡りナメワッカを超えて札内川へ。シュンベツ川中流の、イドンナップ沢出会いからポンイドンナップ沢出会いまでは厳しいので、尾根を挟んで南側を並行して流れるペンケアブカサンベ沢を行き、尾根超えをしてチヤワンナイ沢に降りて本流に戻る。(この区間は今も林道が通らず、シュンベツ川上流へは、コイボク林道から尾根を超えてカシコツオマナイ沢経由で延びている。)驚くべきはこのルートの要所要所各沢の出会いには簡単な小屋がけがしてあり、岩魚釣り、砂金取り、マタギなどが工面しあって使っている。北大山岳部では前年にも2パーティーがナメワッカを登っているが、このパーティーは天気に恵まれず、停滞を重ね、イドンナップやカムエクのアタックを割愛してなんとか乗っ越した。乗っ越し前の四日間は「只一本の水筒の水と、すつかり黴が生え悪臭さへ発するパンに餓と渇を醫して来たのだから。」という苦労をしている。
● 北千島 初見一雄
1935年七月、函館から199トンの船で八日後、摺鉢湾に着く。島では二〇トンほどの発動機船で移動する。船上での見聞を思うさまと共に記述。最高峰アライトの登山記がある。苦労なく登り、山頂で歌を歌って帰ってきた。
アライトの漁場(夏だけやってくる漁師たちの番屋)で親切にしてくれる漁師の出身が南部と越中で、「『何もお構ひ出來なくて氣の毒ですちや』かふ云ふ越中辯が迎へて呉れたのは千倉の麓に在る西川の漁場だつた。」「雨に降り込められた劔澤の小屋では『明日も駄目ですちや』と八郎が首を振り乍ら云つたのが思ひ出されるし、槍の殺生小屋では遙る々々尾根通しにやつて來た平藏が『久しぶりですちや』と挨拶を殘して大股に槍澤を降つてゐつた、」この時代の山岳部は北千島にも出掛けるし、北アルプスにも出掛けていた。現代と違う交通事情を考えると驚くべき行動範囲だ。平蔵とは平蔵谷に名を残す芦峅寺の平蔵だ。占守島の国端崎まででかけ、カムチャツカの山を眺める。戦前、北千島の豊かな自然は日本の国内だった。10年後にはこの山々を失う事になろうとは。
尚、巻末の年報によれば、部報5号の二年間に千島を訪れたパーティーは他にも二つある。
・ ウルップ島1934夏、根本、石橋、千葉。地質調査の目的で訪れたので、登山は鐘湾のBCから赤崩川を遡行して地獄山(1013m)に登ったのみとある。
・ 国後島・ルルイ岳1935年7月、白濱、高橋。高山植物の採集を主目的に入山。体長を壊し、山頂手前で仕事を優先して引き返している。
● 北樺太の山々
名好山 本野正一
1935年8月、本野、水上の二名。前年秋には豊原(現ユジノサハリンスク)近郊の樺太最高峰、鈴谷岳(現・チェーホフ山)の記録もある。間宮海峡に面した旧恵須取(エストル・現ウグレゴルスク)から名好川を登り、名好山(東経142度30分、北緯49度10分・標高不明)をアタックする。小樽港からエストルまで直行便ながら船で足かけ三日。大平炭山への軽便鉄道で入山。造材の飯場、山奥に暮らす老人の小屋などを辿り、山頂へ。この年、測量隊が入っていて、山頂には櫓もあった。途中、熊の頭骨など広いながら下山、20年以上も山麓で暮らしている老人の小屋で熊と野菜の煮込み料理やジャコウジカの珍味を食べさせてもらう。「『話の種を食はしてやらう。』さう云つて、小さい肉片を持つてくる。よく身の締つた、上等のロースのやうな美味いものであつた。是はこの北の國にだけ住んでゐる麝香鹿の肉であつた。私達はその肉片を噛み緊め乍ら、自由にこの密林を駈け廻つてゐた臆病な獸の伸び切つた姿體を思ひ浮かべてゐた。」帰りは恵須取→来知志(ライチシカ)の湖→春内→自動車で東海岸の眞縫→落合の王子製紙の独身寮の先輩宅→豊原→大泊→稚内→陸路札幌と帰る。
樺太の一等二等の三角測量は1933年までに終わっているそうだが、三等三角点の測量をして始めて高度が判明するそうで、国境(北緯50度線)近いこともあり持参した空中写真測量要図(25000)の地形図の不確かな部分や間違い部分の考察をしている。彼らは陸軍測量部の最後の測量隊と相前後して登っていたことになる。10年後にはソ連に取られてしまうのだが。このため標高のわからぬ国境近くのこの山域には夢があり、敷香岳、恵須取岳周辺の、もしかしたら1700mを超える山があるかも知れないということで、名好岳を目指したとのこと。実際には1200-300mくらいのヤブ山だったが。訪れてみると意外や造材と狩猟者によってこの未知の山域は歩かれていたことを知る。札幌からの交通費一人当たり往復で29円40銭、と内訳など細かく書いてあるのが面白い。なお、「サハリン・モヂリは平原が起伏してゐるやうな山々」というアイヌ語なのだそうである。これまでロシア語だと思っていた。
樺太に関する文献表 水上定一
●知床半島の春 豊田春満
根室本線厚床から今は無き標津線で中標津へ、そこから乗り合い自動車で標津へ(鉄道はこの時代中標津までだったということだろう)、そこから定期自動車で羅臼へ。春の原野と海を叙情たっぷりに描いている。乗り合い自動車の様子、羅臼温泉の描写など詳しく面白い。羅臼の中腹から硫黄岳往復。三ツ峰の近くに美しい沼を見つける。雪の中に目のように開いた小さな沼。「それは丁度希望を蒼空に向けた青く澄んだ瞳の樣であつた。うれしくなると何時も子供の樣に無邪氣にはしやぎ出す瀬戸は、此時も感歎の聲をあげたのであつた。」雪解けの季節には稜線上にこんな沼がよくできる。この稜線で僕も5月に出会ったことがある。とてもきれいな色をしているのだ。
このときは、三ツ峰、サシルイ、オッカバケの地名がまだ無い。翌日羅臼岳をアタック、その夜の記述。「夜になると皎々と春とも思はれないばかりに冱えた月が、國後の方から昇つて來て晝のやうに明るくなり、此羅臼岳の斜面は幻想的な青白い光を放ち出した。空一杯に漲つた月光の無數の針は何か竒怪な曲でも奏してゐる樣に、四邊の景色も晝とは全く一變した幻想的なものとなつた。雪を照らす月の光は登山者の激しいワンデルトリーブをそゝらずには置かない。私達も誰からともなくスキーを穿いて此夢幻の世界へと歩き出したのであつた。妖精じみた影法師ともつれ合つて滑り廻つたり、いろんな山友達が籠城のテントの中で教へてくれた樣々な歌を口ずさみ乍らほつゝき歩いたり、或は梢だけ雪から出した嶽樺の間を縫つて尾根蔭の闇の中にこつそりとしのび込んでみたり、夢遊病者の樣な彷徨に夜の更けるのも忘れてゐた。天幕に歸つた時には焚き火はもう殆ど灰になりかけてゐた。一しきり新しい薪をくべ乍らしばらく二人で駄辯つて、それから天幕に入つたが、頭は天幕を明るく照らす月の樣に冱えてなかなか寢つかれなかつた。」この部報で一番好きな一節だ。
●三月の石狩川 石橋恭一郎
1935年3月上旬、石狩川本流から石狩岳を目指す。積雪期初登の伊藤秀五郎氏の記録から8年、その後結氷した大函を通過するパーティーはこれが初めて。この間林道(現・国道39号線)が延びたが、冬の可能性はナダレなどの要因はじめ未知だった。アイヌの猟師の足跡を追い行ってみるとこの林道が意外と使えた。
ユニ石狩沢の合流点(当時の林道終点)から奥へ進む。この一帯の石狩沢は渡渉できる幅ではないので右岸を行くか左岸を行くかで運命を分ける。「この日私達は右岸を選んだばかりに豫定地までに一泊を餘儀なくされた。」当時の核心は、大河の遡行だった。結局数本のドロ柳を倒して橋を架けて左岸を行く。ヤンペタップ合流の先にベースを設け、石狩岳をアタックするが、連日の吹雪に日数を使い果たし往路を下山する。前石狩沢からの登路、巨大なデブリを見る記述がある。当時のむき出しの野生が凄い。「突然行く手の眼界が開けて、私達は只々恐怖と畏敬とにおのゝいたのである、其處には立木一本も認められぬ小高い凹凸の雪の丘が行く手を塞いでゐた。一抱もある大木が根こそぎにもぎ取られ、打ち碎かれて、枯れた殘骸を露出して散亂し、或物は斜面に引かゝり、叉或物は逆につゝ立ち、横に縱に、深い積雪にも拘はらず首を突き出してゐる有樣は、實に凄慘な状態であつた。恐らく早春のデブリーであらう。石狩岳の山頂から北走する主稜の一角から、ひたむきに密林を薙倒して、五百米を一氣に澤に落込み、餘勢をかつて、對岸の急斜面を狂ひ昇つた其の物凄い光景を想像して、私達は互に顏を見合せるのみであつた。雪崩の蹟は見上げる山稜迄くつきりと一線を劃して、山稜は烈風に盛に雪煙を上げてゐる。」
●創立前後の思出 渡邉千尚
スキー部山班からの独立と恵迪寮旅行部からの創立10年を節目に、創立時新人だった渡邉氏による当時の活気あふれる様子を書いた小文。「時期至つて大正十五年十一月十日に發會式を擧げたがその前後の緊張振は大したものだつた。若手連は遮二無二山岳部創立に突進して、先輩連がスキー部との間に入つて、苦勞してゐることなどは少しも知らずに居つた。」「生の惱みを味はつた部員は頑固なものだつた。笑つて過ごしてしまふやうな事でも、互ひに讓らずに激論を鬪はすことが度々あつた。」「登山術は未熟でも、意氣は仲々壯んなものがあつた。慶應山岳部のアルバータ行に刺戟されて、我々もカムチャツカの最高峰クルチエフスカヤに登る計畫を立てゝ國際關係なども全然考慮に入れずに,叉我々が毎月もらふ學費を飮まず食はずに貯めたつてどうにもならないのに儉約して貯金しようなんて相談したこともあつた。」
やはり千島の先のカムチャッカに目を付けていた話がおもしろい。当時1920年代は日露戦争でカムチャッカ沿岸の漁業権を日本が獲得、国策会社「日魯漁業」が荒稼ぎしていた時代だ。日本人のこの地域への入り込みは、戦後冷戦期に較べればはるかに盛んだった。ただ、1924年まで続いたシベリア出兵(ロシア革命に対する干渉戦争)のため、恐らく登山許可の可能性が無かったのだろう。
年報(1933/10−1935/10)
写八点、スケッチ三点、地図五点
(解説前編/後編)
1935年七月からの二〇日間、照井と水上の二人。シュンベツ川から遡りナメワッカを超えて札内川へ。シュンベツ川中流の、イドンナップ沢出会いからポンイドンナップ沢出会いまでは厳しいので、尾根を挟んで南側を並行して流れるペンケアブカサンベ沢を行き、尾根超えをしてチヤワンナイ沢に降りて本流に戻る。(この区間は今も林道が通らず、シュンベツ川上流へは、コイボク林道から尾根を超えてカシコツオマナイ沢経由で延びている。)驚くべきはこのルートの要所要所各沢の出会いには簡単な小屋がけがしてあり、岩魚釣り、砂金取り、マタギなどが工面しあって使っている。北大山岳部では前年にも2パーティーがナメワッカを登っているが、このパーティーは天気に恵まれず、停滞を重ね、イドンナップやカムエクのアタックを割愛してなんとか乗っ越した。乗っ越し前の四日間は「只一本の水筒の水と、すつかり黴が生え悪臭さへ発するパンに餓と渇を醫して来たのだから。」という苦労をしている。
● 北千島 初見一雄
1935年七月、函館から199トンの船で八日後、摺鉢湾に着く。島では二〇トンほどの発動機船で移動する。船上での見聞を思うさまと共に記述。最高峰アライトの登山記がある。苦労なく登り、山頂で歌を歌って帰ってきた。
アライトの漁場(夏だけやってくる漁師たちの番屋)で親切にしてくれる漁師の出身が南部と越中で、「『何もお構ひ出來なくて氣の毒ですちや』かふ云ふ越中辯が迎へて呉れたのは千倉の麓に在る西川の漁場だつた。」「雨に降り込められた劔澤の小屋では『明日も駄目ですちや』と八郎が首を振り乍ら云つたのが思ひ出されるし、槍の殺生小屋では遙る々々尾根通しにやつて來た平藏が『久しぶりですちや』と挨拶を殘して大股に槍澤を降つてゐつた、」この時代の山岳部は北千島にも出掛けるし、北アルプスにも出掛けていた。現代と違う交通事情を考えると驚くべき行動範囲だ。平蔵とは平蔵谷に名を残す芦峅寺の平蔵だ。占守島の国端崎まででかけ、カムチャツカの山を眺める。戦前、北千島の豊かな自然は日本の国内だった。10年後にはこの山々を失う事になろうとは。
尚、巻末の年報によれば、部報5号の二年間に千島を訪れたパーティーは他にも二つある。
・ ウルップ島1934夏、根本、石橋、千葉。地質調査の目的で訪れたので、登山は鐘湾のBCから赤崩川を遡行して地獄山(1013m)に登ったのみとある。
・ 国後島・ルルイ岳1935年7月、白濱、高橋。高山植物の採集を主目的に入山。体長を壊し、山頂手前で仕事を優先して引き返している。
● 北樺太の山々
名好山 本野正一
1935年8月、本野、水上の二名。前年秋には豊原(現ユジノサハリンスク)近郊の樺太最高峰、鈴谷岳(現・チェーホフ山)の記録もある。間宮海峡に面した旧恵須取(エストル・現ウグレゴルスク)から名好川を登り、名好山(東経142度30分、北緯49度10分・標高不明)をアタックする。小樽港からエストルまで直行便ながら船で足かけ三日。大平炭山への軽便鉄道で入山。造材の飯場、山奥に暮らす老人の小屋などを辿り、山頂へ。この年、測量隊が入っていて、山頂には櫓もあった。途中、熊の頭骨など広いながら下山、20年以上も山麓で暮らしている老人の小屋で熊と野菜の煮込み料理やジャコウジカの珍味を食べさせてもらう。「『話の種を食はしてやらう。』さう云つて、小さい肉片を持つてくる。よく身の締つた、上等のロースのやうな美味いものであつた。是はこの北の國にだけ住んでゐる麝香鹿の肉であつた。私達はその肉片を噛み緊め乍ら、自由にこの密林を駈け廻つてゐた臆病な獸の伸び切つた姿體を思ひ浮かべてゐた。」帰りは恵須取→来知志(ライチシカ)の湖→春内→自動車で東海岸の眞縫→落合の王子製紙の独身寮の先輩宅→豊原→大泊→稚内→陸路札幌と帰る。
樺太の一等二等の三角測量は1933年までに終わっているそうだが、三等三角点の測量をして始めて高度が判明するそうで、国境(北緯50度線)近いこともあり持参した空中写真測量要図(25000)の地形図の不確かな部分や間違い部分の考察をしている。彼らは陸軍測量部の最後の測量隊と相前後して登っていたことになる。10年後にはソ連に取られてしまうのだが。このため標高のわからぬ国境近くのこの山域には夢があり、敷香岳、恵須取岳周辺の、もしかしたら1700mを超える山があるかも知れないということで、名好岳を目指したとのこと。実際には1200-300mくらいのヤブ山だったが。訪れてみると意外や造材と狩猟者によってこの未知の山域は歩かれていたことを知る。札幌からの交通費一人当たり往復で29円40銭、と内訳など細かく書いてあるのが面白い。なお、「サハリン・モヂリは平原が起伏してゐるやうな山々」というアイヌ語なのだそうである。これまでロシア語だと思っていた。
樺太に関する文献表 水上定一
●知床半島の春 豊田春満
根室本線厚床から今は無き標津線で中標津へ、そこから乗り合い自動車で標津へ(鉄道はこの時代中標津までだったということだろう)、そこから定期自動車で羅臼へ。春の原野と海を叙情たっぷりに描いている。乗り合い自動車の様子、羅臼温泉の描写など詳しく面白い。羅臼の中腹から硫黄岳往復。三ツ峰の近くに美しい沼を見つける。雪の中に目のように開いた小さな沼。「それは丁度希望を蒼空に向けた青く澄んだ瞳の樣であつた。うれしくなると何時も子供の樣に無邪氣にはしやぎ出す瀬戸は、此時も感歎の聲をあげたのであつた。」雪解けの季節には稜線上にこんな沼がよくできる。この稜線で僕も5月に出会ったことがある。とてもきれいな色をしているのだ。
このときは、三ツ峰、サシルイ、オッカバケの地名がまだ無い。翌日羅臼岳をアタック、その夜の記述。「夜になると皎々と春とも思はれないばかりに冱えた月が、國後の方から昇つて來て晝のやうに明るくなり、此羅臼岳の斜面は幻想的な青白い光を放ち出した。空一杯に漲つた月光の無數の針は何か竒怪な曲でも奏してゐる樣に、四邊の景色も晝とは全く一變した幻想的なものとなつた。雪を照らす月の光は登山者の激しいワンデルトリーブをそゝらずには置かない。私達も誰からともなくスキーを穿いて此夢幻の世界へと歩き出したのであつた。妖精じみた影法師ともつれ合つて滑り廻つたり、いろんな山友達が籠城のテントの中で教へてくれた樣々な歌を口ずさみ乍らほつゝき歩いたり、或は梢だけ雪から出した嶽樺の間を縫つて尾根蔭の闇の中にこつそりとしのび込んでみたり、夢遊病者の樣な彷徨に夜の更けるのも忘れてゐた。天幕に歸つた時には焚き火はもう殆ど灰になりかけてゐた。一しきり新しい薪をくべ乍らしばらく二人で駄辯つて、それから天幕に入つたが、頭は天幕を明るく照らす月の樣に冱えてなかなか寢つかれなかつた。」この部報で一番好きな一節だ。
●三月の石狩川 石橋恭一郎
1935年3月上旬、石狩川本流から石狩岳を目指す。積雪期初登の伊藤秀五郎氏の記録から8年、その後結氷した大函を通過するパーティーはこれが初めて。この間林道(現・国道39号線)が延びたが、冬の可能性はナダレなどの要因はじめ未知だった。アイヌの猟師の足跡を追い行ってみるとこの林道が意外と使えた。
ユニ石狩沢の合流点(当時の林道終点)から奥へ進む。この一帯の石狩沢は渡渉できる幅ではないので右岸を行くか左岸を行くかで運命を分ける。「この日私達は右岸を選んだばかりに豫定地までに一泊を餘儀なくされた。」当時の核心は、大河の遡行だった。結局数本のドロ柳を倒して橋を架けて左岸を行く。ヤンペタップ合流の先にベースを設け、石狩岳をアタックするが、連日の吹雪に日数を使い果たし往路を下山する。前石狩沢からの登路、巨大なデブリを見る記述がある。当時のむき出しの野生が凄い。「突然行く手の眼界が開けて、私達は只々恐怖と畏敬とにおのゝいたのである、其處には立木一本も認められぬ小高い凹凸の雪の丘が行く手を塞いでゐた。一抱もある大木が根こそぎにもぎ取られ、打ち碎かれて、枯れた殘骸を露出して散亂し、或物は斜面に引かゝり、叉或物は逆につゝ立ち、横に縱に、深い積雪にも拘はらず首を突き出してゐる有樣は、實に凄慘な状態であつた。恐らく早春のデブリーであらう。石狩岳の山頂から北走する主稜の一角から、ひたむきに密林を薙倒して、五百米を一氣に澤に落込み、餘勢をかつて、對岸の急斜面を狂ひ昇つた其の物凄い光景を想像して、私達は互に顏を見合せるのみであつた。雪崩の蹟は見上げる山稜迄くつきりと一線を劃して、山稜は烈風に盛に雪煙を上げてゐる。」
●創立前後の思出 渡邉千尚
スキー部山班からの独立と恵迪寮旅行部からの創立10年を節目に、創立時新人だった渡邉氏による当時の活気あふれる様子を書いた小文。「時期至つて大正十五年十一月十日に發會式を擧げたがその前後の緊張振は大したものだつた。若手連は遮二無二山岳部創立に突進して、先輩連がスキー部との間に入つて、苦勞してゐることなどは少しも知らずに居つた。」「生の惱みを味はつた部員は頑固なものだつた。笑つて過ごしてしまふやうな事でも、互ひに讓らずに激論を鬪はすことが度々あつた。」「登山術は未熟でも、意氣は仲々壯んなものがあつた。慶應山岳部のアルバータ行に刺戟されて、我々もカムチャツカの最高峰クルチエフスカヤに登る計畫を立てゝ國際關係なども全然考慮に入れずに,叉我々が毎月もらふ學費を飮まず食はずに貯めたつてどうにもならないのに儉約して貯金しようなんて相談したこともあつた。」
やはり千島の先のカムチャッカに目を付けていた話がおもしろい。当時1920年代は日露戦争でカムチャッカ沿岸の漁業権を日本が獲得、国策会社「日魯漁業」が荒稼ぎしていた時代だ。日本人のこの地域への入り込みは、戦後冷戦期に較べればはるかに盛んだった。ただ、1924年まで続いたシベリア出兵(ロシア革命に対する干渉戦争)のため、恐らく登山許可の可能性が無かったのだろう。
年報(1933/10−1935/10)
写八点、スケッチ三点、地図五点
(解説前編/後編)
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