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記事・消息・ 2015年9月2日 (水)

ペテガリ冬季初登・72年前の今村さんのゲートル  米山悟(1984年入部)
毎年お盆過ぎ、北大山の会の会員が集まる八ヶ岳山麓の親睦会があります。そこで、ペテガリ岳冬季初登者、今村昌耕氏(97歳)から、ペテガリ初登(1943年1月)のとき巻いたゲートルを最近見つけたと見せて頂きました。ゲートル(guêtre)とは、巻き脚絆です。大戦中の兵が脛に巻いていた包帯状の脚絆です。1930〜40年代の登山では一般的でした。兵だけではなく、労働者の作業着として、また戦争末期には日本男子のユニフォームとなった様です。靴の上から巻き始めて足首をきつく巻き、太さが変わるところで二度折り返してふくらはぎのところは緩く巻くのがコツで、長時間行軍の足の鬱血を防いだとの事です。靴にゴミや雪が入らず、ズボンの裾も薮に引っ掛かりません。
そのゲートルは、ペテガリ初登の3年前、8名の遭難者を出した1940年のペテガリ登山隊に選ばれながら、直前の十勝合宿中に手指に凍傷を負って不参加になったため命拾いをした塩月陽一氏から託されたものだそうです。塩月氏は両親が上海に住んでいたので、その訪問の際手に入れたというノルウエイ製の新素材ゲートルでした。当時の巻き脚絆は薄茶色のネル製が多かったが、そのゲートルは黒く、伸縮する生地で、二度の折り返しが不要な、画期的なものでした。最後に留める部分もヒモで縛るものではなく、小さな金具でした。かねて今村さんが希望していて、卒業時に下さったとのこと。今見れば、古びたゲートルですが、当時ありふれていたものとは違う、「舶来の特別品」だったものに今村さんが修繕した縫い跡も多く、愛着深く使ったのでしょうか。今村さんは、コイカク山頂のイグルーで出発の朝このゲートルを巻いて、往復15時間のペテガリ岳冬季初登アタックに出たのです。


冬季ペテガリ岳初登は昭和18(1943)年1月です。北大山岳部は、1920年代のスキー部時代の黎明期を経て、大正15(1926)年の独立創部以来、北海道山岳の冬季初登を続けて来ました。深い谷、遠く痩せた稜線に阻まれ、最後の最後に残ったのが冬季ペテガリ岳でした。日高の谷は長く深く、登る尾根の麓にとりつくまでに今でも丸一日林道をラッセルします。奥の方まで川幅が広く、雪崩の危険が比較的少ない札内川が、当時のほぼ唯一の冬季ルートでした。そこから比較的早く主稜線に登れる、コイカクシュ札内岳への登路を採ると、最終キャンプのコイカク山頂からペテガリ岳までの往復は15時間です。この稜線は細く両側が切れ落ち、雪庇の常習地帯で日高でもとりわけ難しい区間です。

ペテガリへの初登計画はその何年も前から北大山岳部至上の大イベントとして企画されていました。昭和15(1940)年には、コイカクシュ札内岳直下で精鋭8人が死亡した雪崩遭難事故が起きています。未踏のまま日米戦争に突入、登山など許されない時代に差し掛かるぎりぎり最後の冬の成功でした。当時他大学で流行り始めていた極地やヒマラヤ攻略式の団体登山法ではありません。最終キャンプにイグルーを使うなど、北大本来の少人数軽量登山の技法でした。3年前に多くの友を失くし、国は先行きの見えない戦争のさ中であり、この時を逸したらもう機会は無いだろうという時の大成功です。山岳部の仲間たち、それに遭難者遺族の喜びは今思っても大きなものだったと思います。

今村さんはその年のうちに半年繰り上げ卒業し2年の海軍軍医の軍役中の後半10ヶ月、駆逐艦『楓』に乗りフィリピン方面に出征しました。バシー海峡で航空機攻撃を受けて52人の戦死者が出る中、目を負傷し台湾の高雄海軍病院から病院船で送還されました。その後再び楓に復帰し、呉軍港対岸の瀬戸内の小島の陰で空爆を避けていた8月6日の朝を迎えました。額帯鏡を付け乗組員の鼓膜を検査していた時、たった一つの小さな船窓からものすごい閃光が差し込み、続いて轟音。甲板に上がって、広島の空に高く登るキノコ雲を見たそうです。広島まで直線距離で30キロの位置でした。5日ほどして島の住民が広島から親戚などを連れて帰りました。島には医者が居らず、艦長命令で手当をしました。外傷は少なく比較的元気でしたが次々に亡くなったそうです。図らずも急性原爆症の病態を知ったといいます。

北大山岳部は戦後、ペテガリ冬季初登の成功を繋いで、日高冬季全山縦走、南極観測、ヒマラヤ・チャムラン峰初登、ダウラギリ・冬季8000米峰初登へと活動を繋げました。しかし今村さんは、戦後は山登りの世界からすっかり離れて結核研究、診療や結核対策の仕事に没頭し、山岳部の活動とは長く離れました。仲間の世代の多くが戦死し、戦後の社会の変革期の特殊な給与体系だったこともあり、山に行く余裕は時間的にも金銭的にも全く無い時代が長く続いたそうです。
「終戦後の社会環境を知るものには、社会人として登山を続けられる状況ではなかった事を御理解いただけるでしょう」。
「大正生まれの私たちの世代は、運命的で悲劇的な太平洋戦争を担った世代です。戦争で生き残りはしたが、その後もとうとう山登りに復帰することはできなかった。大変な災厄の時代だった。しかし生き残ったものは祖国復興に努力し、戦死者のおかげで今の復興があったと、両面共に名誉な大正生まれとも思っています」と話していました。※

風格ある国内の山で、冬季未踏として残ったのはおそらくペテガリが最後の山では無かろうか。山岳部員の誰もが憧れる冬のペテガリ岳。その初登にまつわる話を、もう失くしたと思っていたゲートルをきっかけに聞きました。そしてその後、死線を越えてきた長い人生の末、戦争終結70年の夏に、八ヶ岳山麓のカラマツ林でこんなお話を聞く事が出来ました。(2015.8.23)


※今村さんは、日本における結核研究、診療のメッカと言われる東京、清瀬の中の結核予防会・結核研究所に19年、後には都内の所属の診療所長の仕事を勤める傍ら、東京・山谷地区の日雇労働者の集落にある都の無料診療所での専門外来の週一日の担当を現役時代から合わせて通算40年間続けました。山谷地区で発生する結核患者は、以前は日本の高罹患率のワースト2でした。都の委託契約として文字通りライフワークとして続け、その役割の必要のない状態にしてつい先年引退しました。
  • コメント (1)

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やまね   投稿日時 2016-12-17 19:42
今村先輩達はコイ力クの頂上からぺテガリを往復された。 あの装備の防寒的にも劣る時代に大した体力だと思います。私にはコイ力クから往復の発想が浮かびませんでした。夏の間に歴船川左股からCカールを登って、ぺテガリ頂上を経てヤオロマップ、そしてコイ力クの尾根を下りました、昭和37年。 このとき気付きました。
サツシビチャリ川の源頭にある稜線上の20m位?のピークの東側直下では風が死ぬことを。翌年一月、コイカク頂上からテントをこのピークに移して、風待ちで2日間テント暮らしでした。
 
 
 
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