記事・消息・ 2025年11月21日 (金)
重厚長大 正木喜啓君追悼集 米山悟(1984年入部)
およそ一年前の年末年始、戸隠で遭難死した正木喜啓さんの追悼、山行記録集を読んだ。正木さんの山行人生は「記録帳」と書いた2冊のキャンパスノート(2009−14と2022−24)とその間(2015−2022)のブログ記事に残っていた。大阪生まれ1986年2005年信州大学士山岳会(山岳部)で単独長期縦走を始め、20代30代で南ア・笊ヶ岳〜北岳〜光岳の馬蹄形縦走、糸魚川〜黒部五郎岳、前穂北尾根〜立山など、冬季黒部横断も繰り返し、3度成功している。
長野県の教員採用試験を受け続け、2019年から高校教員として松本へ。2023年たぶん日本一山に登っている高校山岳部のある大町岳陽高校の山岳部副顧問に。
その同僚で顧問、おなじく大阪から信州の山登りに惹かれて来ている河竹康之氏が、遭難初動捜索連絡に携わり本誌の編集を務めた。
登山愛好家は数あれど、冬季黒部横断や一ヶ月クラスの重厚長大単独冬季縦走を長年にわたり志向する人は、割合としてはほぼいない。何人か名前が浮かぶ人は(和田さん以外は)ほぼ故人だ。生きている間にブログやツイッターで華々しく記録を出す人も多くない。でも、その記録を読めば、生きていようが故人であろうが、同じあこがれを持っていたことがわかる。
正木さんの記録は、携帯ノートに手書きだから簡潔だ。ルートと天候で追い詰められた言葉のほかは、お決まりの朝寝坊と、甘い物をとっておきで食べた話。文面からは読者を意識している様子が見られない。本にして読んでもらおうと書いたわけではなさそうだけれど、希少なる同好の輩にとっては本にしてもらって感謝だ。
正木さんが初めて冬季単独長期縦走をした2007年大学3年目のとき、信大山岳部は部員一人だったという。一人だからこの志向になったというとわけでもなく、やる人は、一人でも何人でもやるものだ。ずっと部員が多い印象の信大でも、一人部員の時期があったのを知った。
20代、30代で自分の志向の山行を苦しみながらも着々と続けてきて、大阪で9年の自宅ぐらしのあと信州の高校教員にようやく採用され赴任した。教え子たちの追悼文からは正木さんが高校教員として充実した暮らしをしていたことがうかがえる。
登山愛好家人生にとって40歳前後は曲がり角だ。若いときは体力はあるが危なっかしい。経験を積むと、多少馬力が落ちても若い者以上の高レベル山行が可能だ。その両方の変わり目がこの年頃に来るのではないか。山に限らず人生も。そして遭難死するのもこの年頃は多いという印象だ。登山そのものと同じく、人生も下り道が危ない。
下山連絡係を受けた河竹氏による、時間軸に沿った遭難捜索事故報告記録が非常にわかりやすく、今どき最新のココヘリと警察連携の、知りたい情報がある。最終下山日まで警察に連絡するのを待った焦燥の気持ちはいかばかりか。自力下山にこだわった本人を知ればこその敬意だと思う。私にも、自力下山しても遭難扱いになった不名誉な経験がある。
正木さんは大町に転居してからは近くの頸城山塊、戸隠山塊に惹かれたようだ。一夜山から戸隠連山へ、最後になったこの計画のラインの美しさに、少し嫉妬を感じた。僕も昨冬は、この戸隠の隣の東山山脈を完全縦走しようと何度かトライした。雪庇と細いヤブ急斜面を遠望して、かなわないと思い引き返した。正木さんのラインはエグくて長いので、今の僕には単独でいく算段が立たない。でも似ている山行計画趣味を感じた。遠いヒマラヤにいくわけでもない、ワンデイでスピード長距離を狙うでもない、重い荷物で低速で、住処のまちの近くの、誰も試みない美しい山脈の全山縦走。
人がなんとみなそうが、正木さんは幸福なときを過ごしていた。雪庇を踏み抜いて落ちるときさえもそうだったと思う。
本人のブログ(2015-2022のみ)
https://solomountain.naganoblog.jp/
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