部報解説・ 2008年12月26日 (金)
【書評】これまでの部報紹介・部報8号(1959年)後編/(米山1984)
半年ぶりの更新です。歴代最長期間18年間(1941-1958)の部報8号紹介。ナナシ沢探査完結編と、幻の大雪温泉小屋建設始末、南極観測隊に貢献した犬ソリ研究の記録、それに数多の遭難者のためにかかれた追悼文の数々。戦前の香りを残し、戦後日本登山界の質量ともに最盛期の時代をすべて網羅した密度の濃すぎる年代をまとめた部報。
無言の対話・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・伊藤秀五郎
1956年10月に書かれた、人はなぜ山に登るのかという大テーマを再考した一文。伊藤によればそれは「人格の陶冶のためである」という答えにする事にした、とある。この年は53年エベレストに続きマナスルの年だ。その時代であることを知って読むと面白い。
「われわれの山岳部は、第一目標を、勲章を貰うなどという御時勢向きの現実主義に塗り替えずに、やはり、三十年前の創立当初から語り継がれた子供らしい精神主義の一枚看板をおろさない方がいい。昔あのヘルベチャヒュッテを囲んでいた白樺のような清潔な山岳部の気風を崩さない方がいい。規律や友情や真実を愛する伝統を失わないことだ。それは山岳部がいつまでも瑞々しく。永遠に若々しくある秘訣である。処世術にことたけた大人らしい分別は、学校を出てから習つても遅くはない。われわれの山岳部に必要なのは、あの高山の奥にたたえられた山湖の清冽さであり、荒涼たる天涯にあつて千古以来の風雪に耐えてきたあの絶嶺の姿勢の正しさである。」
夏の紀行
―遺稿― 余市川のほとり・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・奥村敬次郎
奥村氏は山岳部長を務めていた1949年、札内川9の沢で転石事故のため亡くなった。冬のイドンナップ初登隊にも加わっていて、山岳部出身ではないが当時の学生たちとよく山を歩いていたようだ。
この文章は小樽から峠越えで余市川に入り、最奥の開拓農家で樺太の真岡から引き揚げてきた苦労真っ最中の一家と話し込んで、そこの少年と河原のキャンプでカボチャ煮つけを食べる話。戦争で家を焼かれて北海道へ帰り、函館本線の銀山駅あたりで余市川と源流の山に対面し、「親しく歩き廻った郷土の山々を眼のあたりにしてはじめてわが家に帰りついた喜びが堰を切つて流れてくるのであつた。山を見るまでは安心ができなかつたのである。」
大きな戦争を終えて、日本中には戦災の損害から立ち上がろうと、都市でも山里でも一生懸命だった。そんな様子が伝わる。
二つの無名沢遡行記
戦前幾多のパーティーがこのナナシ沢を目指したが、地形図が大きく誤っていたせいもあり合流点が分からず結局コイボクに上がった。1942年7月、菊地徹らがコイボクから尾根をのっこしてナナシ沢に入り、39北面等を登りかけたりしてナナシ沢の全容を調べた。この年度に懸案のペテガリの冬季初登も成しており、戦前の二大‘滑り込み記録‘である。だがこのナナシ沢探査も手探り状態での探検であり、完全遡行は戦後の落ち着きを取り戻すまで待つことになった。
以下の二つは戦後10年経って、幻のナナシ沢の難関沢に再び向かった記録。
●無名沢よりカムイエクウチカウシ山・・・・・・・・・・・・・・・滝沢政治
1955年夏、滝沢政治、岡部賢二。表題はカムエクだが、23南面直東沢の初挑戦記録である。完全遡行ではない。次の有名な言葉が残っている。
「その滑滝が終わると両岸は屏風を立てたような、人が一人やっと通れるような流れとなり、その奥に真つ白い滝が二段連らなつて落ちている。瓶の底での滝だ。ぼくらは呆然とした。ザックを置いて何とか登ろうと試みる。高さは六,七米であるが、正に模式的滝だ。岩は平滑な上にぬるぬるしている、何とか最初の滝は登り切つたが、その上は丸い滝壺でそれを廻って向うに行くのさえ困難な程である。次の滝は完全に瓶の底、ハーケンがあれば何とかなつたのだろうが、誰が日高に三つ道具を持つて来るだろうか。しようがないので高巻きと決めて一服。」
当時は日高にハーケン、ハンマー、ザイルを持っていかないものだった。他の荷物も重かったろう。豊富なビニール袋も化学繊維もない時代だ。重く濡れたザックではそうそう登れまい。まだ日高難関直登沢時代には早かった。「(のどの渇きと藪こぎで)泣き出したいような思いでようやく稜線に着いた。沢を出てから10時間半のアルバイトであつた。」
初めてナナシ沢合流点を発見した喜びも記されている。歴代ナナシ沢合流は、まだ早いと右岸を巻いて通り過ぎていたがこのパーティーはナナシとコイボクの間の尾根(コイボクの左岸)を高巻きしたために、左足元の沢がナナシだと気がついたのだった。「テラスの端まで行って見ると、すぐ眼の下は大きな沢が流れ、そこから細長い低い尾根をへだててまた大きな沢があるではないか。コイボクの流れは二分されている。それでは足下の沢は既に無名沢なのだ!」
23からコイボクに降りて、コイボクカール上で悪天のためまさかの停滞5連発。乏しい食糧食べ繋ぎ、しめて13日間の札内川のっこし。軽快な文体の素敵な山行記録だ。
●無名沢よりペテガリ岳・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・酒井和彦
1957年夏酒井和彦、上田原緯雄。表題はペテガリまでだが、沢はナナシ沢から39北面直登沢の遡行記録である。テント、寝袋無しの軽量山行。この年まではコイボク入渓谷はセタウシ乗越しで三石から高見への林道(峠手前から先は歩き)を使ったが、この翌年にはコイボク、コイカク合流までトラック道が通る予定とある。テント代わりにビニールシートで屋根架け。入山より六日目に39北面を登りヤオロマップの肩の花畑でごろ寝するが、ブヨの大群に「メシもズッペもブヨの突入で中が見えない。」となり、ビニールシートに潜り込む。その後停滞込み稜線5日のちペテガリへ。稜線はほとんどカンパンをかじっている。下降尾根から中ノ川に降りるとすかさず飯を炊いているのがおかしい。尚、おかずは味噌と塩だけみたいだ。下山の日、「マットが一番大きな荷で、小脇に抱えて歩きたい程に小さくなつてしまつた。最奥人家には一時半頃着き、豊作の畑の中を裸体で歩む。〜略〜畑仕事をしている村の人達は『御苦労様でしたね』と声をかけてくれるが、全く恥しく済まない気もして歌は唱わない」
「日高の夏の旅にはテント、シュラーフは必ずしも必要としないとの確信を得た。ただブヨに関しては対策を要す。登山の種々の研究をしそれに適応した装備を用うべきである。日高の山に原始を求めて彷徨う者は崩れた飯場と這松のハンモックとが最上の寝床である。」
「菊池先輩の大望は不肖ながらようやく果せた。」
夏の知床岳・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・鮫島淳一郎
1952年夏、植物学教室の先生らと当時は人の通わぬ知床の山へ出かけた記録。網走から船でテッパンベツ川河口へ。ここは当時製紙会社の丸太の海だった。この飯場で塩マス二本を貰って、美しいエゾ松の森を行くが、そこは間もなくトロッコ軌道が敷かれ切られる運命だという。山にほぼる人はなくとも、フロンティアには天然の富を求めて今よりたくさん人がいた。背丈を越すハイ松の中、水を求めて知床岳周辺をこぎまわる。テッパンベツ川の下りで思いのほか時間を食って苦労する。
大雪、日高の熱中ぶりに比べ、ルームは知床や利尻にはこの頃までぽつぽつと足跡を残したばかりである。この年の冬、京大が冬季知床全山初縦走をしている。(参考http://www.aack.or.jp/kaiinnope-ji/2002shiretoko/index.htm)
森、温泉、夢〜十勝川源流温泉小舎建設始末記〜・・・・・・西村豪、神前博
部報始まって以来の砕けた文体。昔の漫画っぽい語りで漫画っぽいストーリーを記述する。トムラウシと沼ノ原を結んだちょうど真ん中あたりの谷の中に秘湯が湧いている。そこに小屋がけをしてしまったという夢いっぱいの話。1950年に山崎英雄が発見し、1958年、第一次小屋がけが天気悪く失敗し1959年のこの度の記録。合宿を終えた後、大きな鋸と鉞を持った一行9人は俵真布まで引き返し入山。現場まで二日、建設三日、下山一日。石を運び土台を築き直径30-40センチのタンネの丸太10段を組み、50本なぎ倒して堂々のログハウスである。「つい昨日までは誰も足を踏み入れた事のない、この原始林が今やカーンカーンとなり響くオノの音、バリバリと生々しいタンネの倒れる音で梢の鳥も熊や鹿も声をひそめている。頭の上にまた空間が開き、五月の青空がいままでけっして見る事の出来なかったタンネの森の中をのぞいている。あつまたあそこにも、こちらにも、次々と空間が増え、その度に森が明るくなつていく。あつ、また食事当番のフエがなり響いている。十時のオヤツの時間ではないか!われわれは幼子の様に『ヤッホー』と歓声を上げながらキャンプ地へ飛び降りていく。」・・・欺瞞的な環境保護主義に浸かった2008年の常識で断じてはいけない。この山中で誰一人サボらず、三日間、飯を食い楽しげに小屋を築いた喜びがにじみ出ている。一番の苦労は倒してそろえた30-40センチ、長さ3.5mの丸太を運ぶ作業。これはやればわかるが重労働だ。最終日までに屋根もなんとか作り終え、メデタシで下山するのであるが、後日談がある。
牧歌的時代といえども後にこの件で、国立公園内での無断伐採、無断建築のかどで営林署の官僚的勢力から告発されるのである。その証拠が、この部報8号であったらしい。図解入り、建設のいきさつを詳しく楽しげに書いてあり、動かぬ証拠となった。最後は始末書を書いて落とし前。現代ならばどうだろう?責任者が監督不行届で謝罪会見、減俸処分とワイドショーだろうか。無体な時代である。
これについて後日談。山の会会報59号(昭和六十(1985)年)に「二つの始末書」と題した高篠和憲の記事があり、仕事つきあいの営林署関係者からこの時の始末書二通(山岳部長原田準平と当事者西村豪)が時効でもあり良き記念に返還されたという旨だった。
犬ソリの研究・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・北海道大学極地研究グループ
日本の南極観測隊の編成がなされ、その副隊長の西堀栄三郎から北方問題と縁の深い北大に犬ソリはじめ極地探検諸技術の開発を依頼され、昭和31年(1956)北海道大学極地研究グループを設立した、とある。メンバーは山岳部員である。
犬についてはカラフト犬の特質を紹介し、ソリについては1949年ノルウェイ、イギリス、スウェーデン探検隊のものを紹介している。ソリを製作し摩擦などを調べている。引き綱の形状、引き具の形、犬のえさに至るまで詳しい記述がある。
「われわれは日本における最後の優秀なカラフト犬十数頭と一緒に暮らせたことを誇りに思い、そのめい福を祈るものである。」この中に、第一次南極越冬隊に加わって生還したタロ、ジロも含まれている。
追悼
奥村先生のことなど・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木崎甲子郎
イドンナップに夏冬共に登っている木崎の追悼。「奥村先生を知ったのはいつのことだったか。入部したのは昭和二十一年だったが、未だ居られなかつたような気がする。そして今度岐阜高農から来た奥村という教授は、部の先輩ではなかつたけれど山が好きで、日高にも数回入つておられるし、予科山岳部の部長になつて頂こう、というような話を聞いていた。それ以来のことである。奥村先生のことを知つたのは。「ダットサン」という仇名も何時の間にかついてしまつた。」奥村部長は部員と年も近く、一緒にあだ名で呼びあい、下宿にもあがりこみ、給料日にはお茶を飲みにでかけたりという仲だったようだ。
「『今度は、静子を連れて行こうと思つてね』といつものあの笑顔で言われたこと、そして、お忙しいのに、無理に夏山などへ行かれなくても・・・と申し上げると、『いやいや山でも行って来ないと、気がくしやくしやしてね。仕事が仕事だから。今度はとつときのコースを行くよ』と眼鏡の奥から笑いながら言われたこと。
それが最後だつたのだ。人と人の生死のつながりがこんな風な形でピリオドを打たれようとは。」
奥村部長は理学部生の頃から山をはじめ、昭和11年(1936)ころより札幌の光星商業、二中、一中、の教官をしていた16(1941)年夏まで四季を通じ道内山岳を歩いている。昭和21(1946)年5月に北大予科の教授になった折から山岳部長を務めたが、24(1949)年8月、カムエクからの下り、札内川九の沢で遭難死した。
山岳部長奥村敬次郎氏遭難記録
伏流気味のごろごろ沢を下る際、幅各1m、厚さ60センチの岩の脇を廻って下に行った時その岩が転がり10m下で止まった。「先生は頭部をはさまれたらしく昏睡状態になる。約17分後昏睡状態のまま永眠さる。」カールに薪は少ないため、土葬にする。「穴を掘り、遺骸を入れ、カメラーデンリートを歌い、花で美しく飾り、その上に花を植え、白樺の十字架を建て、十四時半、お墓を完成する。」
尚、坂本直行の「雪原の足あと」の中に、「僕はこれ以上美しい人間の墓というものを見ることはないだろうと思った。」とあり、美しい九の沢カールの花畑の中に立つダットサンのケルンの絵がある。
花岡八郎兄を想う・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・向川信一
1947年7月、サッシビチャリ沢、39南面沢を登った後、コイカクからコイカク沢の下りで遭難死した。
「戦後間もなく生きることだけが希みであつたような頃に、彼はすでに北大山岳部の有力なメンバーであつた。当時の山岳部の雰囲気は過去のブランクを埋めようと、未踏のピークと沢を求めて激しく揺れ動いていたが、彼はその部の中心にあつて、直情的にしかも意欲的に登行への情熱を燃やしていた。」
この山行、39南面直登を登っているが、実は山頂で気がつくまで、1599を登っているつもりだった(当初の計画は1599→ペテガリ→中ノ川)。予定を変えてヤオロマップ出前で一泊し、コイカクから札内川にした。
「知らなかつたとはいえ、夏のノルマルルートを左手僅かの所にしながら、草と水に濡れた岩の急斜面の下降は危険なものであつた。」
「私達の下降している尾根は切れているから右の小沢を越えるよう合図しながら動いたように見えたとき、声もなく兄の姿が見えなくなつた。下降していた私がその気配にはつと思う間もなく、岩にバウンドする鈍い音が二度三度したと思つたが、後はただ規則的に流れる小沢の激しい水音だけである。髪の逆立つような、気の遠くなるような思いで急ぎ兄の立つた辺りに行つたときはもう何もない。ただ岩と水と黒々とした雪渓の不気味な口が見えるだけであつた。」
「国境尾根に立つた日、遥かにペテガリ岳を見て私達は感激した。小さなピークが二つ並んだ清楚な姿だつた。しかし登るにつれて次第に遠ざかる頂上を眺め、やはりペテガリは遥かだつたと語り合つたのだつた。シューベルトの「春の夢」に託してこの山頂に立つ日を夢見ていた兄にとつて、その山頂を指呼の間に眺めることが出来たのは、せめてもの慰めであつたといえるであろうか。山旅の時々にこのメロディーを口ずさんでいた兄はその夢を実現することもなく、命のはかなさとむなしさを一瞬のうちに示してこの世を去った。」
井上君の死・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・佐伯富男
井上正惟は1954年5月、中央アルプス空木岳で「三日冷雨の夜、殿越小屋附近にて遭難死す。《遭難及び捜索の記録は年報昭和二十八年度》」
入部が1949年で、6年目の春の事故。
「彼は非常に慎重に山に入る男だつた。毎晩のように強情な僕と論争が起きる。」
「無口な彼であつたが、僕にはよく語つてくれた。僕が札幌へ行つて見つけた本当の山友達というべきものは彼だけだつた。」
部報に詳しくは載っていないが、五〇周年記念誌によると、雨に下着まで濡れ、雪渓に道を失い日暮れ近くなり、小屋が近いと解っていながら歩けなくなり、ビバーク。夜中に低体温症で錯乱し足を滑らせ雪渓を落ちたという。
康平君・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・加納正敏
鈴木康平は昭和28(1953)年入部その年の夏、剱岳ブナクラ沢で、鉄砲水の増水で流され遭難死した。
「僕は君の心と共に山に行く。君が一度も行っていない山に、共に喜び共に楽しみたい。淋しければ大声で歌をうたおう。苦しければ互に杖になろう。君とはたつた六ヵ月の交わりだつたが、ルームでのダベリや数少ない山行の想い出は今でもはつきりと僕の胸に映つている。赤岩で宮様とアダ名をつけられた君、兄貴から金が来たといつて感激した君、はじめてスキーをはいてノビた君、色々な姿が忘れられない。」
これも五〇周年記念誌によると、夜中にテント浸水で起き、高台に待避する途中、3名のうち鈴木が突然来た1mの増水に流された。
前田一夫君の憶い出・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・鈴木良博
前田一夫は昭和32(1957)年入部、一年後昭和33(1958)年4月、奥穂、前穂の吊尾根で滑落遭難死した。とても個性の強い一年目だったとある。
「そうして山を論じ、映画を論じ、やけに悟り澄ました顔で浮世を論じ、まだ飲み慣れぬ酒のことで議論したりした一年間。僕は今でもその一年を二十余年の人生の一番楽しかった時期としてトップにランクしている。断片的な思い出が、こうして拙い文章をしたためている間も、そのためにあるような網膜の別な一角に総天然色で映写されて行くのです。」
五〇周年記念誌によると、アイゼン歩行中、何かにひっかけて転びそのまま滑落したとある。
小竹幸昭の追憶・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・佐々木幸雄
小竹幸昭は、昭和30(1955)年入部。昭和33(1958)年十勝岳の合宿中旧噴火口附近で遭難死。「十勝合宿に参加したのは、卒業を間近に控えて四年間の部の生活の最後を飾るつもりだつたのであろう。だが行動第一日目に彼は風雪の旧噴火口から再び仲間待つ小屋へ帰らなくなつた。私達はこの春OP尾根の上に彼と加藤君のためにケルンをつんだ。」
五〇周年記念誌によると、合宿初日小竹(4)、加藤(1)と西安信(1)の三人パーティーで十勝岳へ。そこから上ホロに向かおうとしたが、悪天のためOP尾根、振り子沢、なまこ尾根経由のルートが見いだせず、それに加え重いシートラ乗っ越しのため、時間を使い雪洞ビヴァーク。翌日も深いラッセルで次々疲労凍死。生還した西のみ旧噴火口の土の露出した地熱の暖かい場所で更に二泊ビヴァーク。そこは二名と30mほどしか離れていなかった。四日目に晴れ、西のみ下山し救助隊と合流した。この冬、槍の北鎌尾根の極地法計画に部の主力を送り出し、残った部員だけで行った十勝合宿だった。そのため全体に上級生が弱体で捜索も力が及ばず、四日目になってしまったとのこと。
加藤君のこと・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村恒美
加藤幹夫は昭和34(1959)年入部。昭和33(1958)年十勝岳の合宿中旧噴火口で小竹とともに遭難死。
「彼はついに“シブ”とアダ名がついた。しぶといからである。その彼も勉強の面でもそうとうしぶとかったらしい。高校時代なかなかの秀才とのことである。留萌に育った彼はお手の物のホームグラウンドである暑寒別岳が自慢であつた。彼の家からは一日で行ける暑寒には『冬には必ず案内してもらうぞ』と約束までしてあつたがそのことも果たせずに終わってしまつた。」
物故者略歴(一九四〇〜一九五九)
戦死したOBはじめこの間一八年間に無くなった人の消息。シナ、満州、レイテ、沖縄、ガダルカナル、ニューギニア等で亡くなっている。部報一号から読んできて見覚えのある名がこうした戦地で消えているのを知った。昭和十四年や十五年入学の世代は十六年三月や十七年九月には繰り上げ卒業でそのまま招集、戦死という人もいる。学徒兵である。昭和十六(1941)年ナナシ沢探査の菊池パーティーにいた二年目部員栃内晃吉は二十(1945)年の沖縄戦で戦死している。鍾乳洞の洞穴か、サトウキビ畑でナナシの事をおもいだしたろうか。
又、昭和29(1954)年洞爺丸遭難の犠牲に昭和4(1929)年入部の高橋正三氏もいた。
(前編/中編/後編)
1956年10月に書かれた、人はなぜ山に登るのかという大テーマを再考した一文。伊藤によればそれは「人格の陶冶のためである」という答えにする事にした、とある。この年は53年エベレストに続きマナスルの年だ。その時代であることを知って読むと面白い。
「われわれの山岳部は、第一目標を、勲章を貰うなどという御時勢向きの現実主義に塗り替えずに、やはり、三十年前の創立当初から語り継がれた子供らしい精神主義の一枚看板をおろさない方がいい。昔あのヘルベチャヒュッテを囲んでいた白樺のような清潔な山岳部の気風を崩さない方がいい。規律や友情や真実を愛する伝統を失わないことだ。それは山岳部がいつまでも瑞々しく。永遠に若々しくある秘訣である。処世術にことたけた大人らしい分別は、学校を出てから習つても遅くはない。われわれの山岳部に必要なのは、あの高山の奥にたたえられた山湖の清冽さであり、荒涼たる天涯にあつて千古以来の風雪に耐えてきたあの絶嶺の姿勢の正しさである。」
夏の紀行
―遺稿― 余市川のほとり・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・奥村敬次郎
奥村氏は山岳部長を務めていた1949年、札内川9の沢で転石事故のため亡くなった。冬のイドンナップ初登隊にも加わっていて、山岳部出身ではないが当時の学生たちとよく山を歩いていたようだ。
この文章は小樽から峠越えで余市川に入り、最奥の開拓農家で樺太の真岡から引き揚げてきた苦労真っ最中の一家と話し込んで、そこの少年と河原のキャンプでカボチャ煮つけを食べる話。戦争で家を焼かれて北海道へ帰り、函館本線の銀山駅あたりで余市川と源流の山に対面し、「親しく歩き廻った郷土の山々を眼のあたりにしてはじめてわが家に帰りついた喜びが堰を切つて流れてくるのであつた。山を見るまでは安心ができなかつたのである。」
大きな戦争を終えて、日本中には戦災の損害から立ち上がろうと、都市でも山里でも一生懸命だった。そんな様子が伝わる。
二つの無名沢遡行記
戦前幾多のパーティーがこのナナシ沢を目指したが、地形図が大きく誤っていたせいもあり合流点が分からず結局コイボクに上がった。1942年7月、菊地徹らがコイボクから尾根をのっこしてナナシ沢に入り、39北面等を登りかけたりしてナナシ沢の全容を調べた。この年度に懸案のペテガリの冬季初登も成しており、戦前の二大‘滑り込み記録‘である。だがこのナナシ沢探査も手探り状態での探検であり、完全遡行は戦後の落ち着きを取り戻すまで待つことになった。
以下の二つは戦後10年経って、幻のナナシ沢の難関沢に再び向かった記録。
●無名沢よりカムイエクウチカウシ山・・・・・・・・・・・・・・・滝沢政治
1955年夏、滝沢政治、岡部賢二。表題はカムエクだが、23南面直東沢の初挑戦記録である。完全遡行ではない。次の有名な言葉が残っている。
「その滑滝が終わると両岸は屏風を立てたような、人が一人やっと通れるような流れとなり、その奥に真つ白い滝が二段連らなつて落ちている。瓶の底での滝だ。ぼくらは呆然とした。ザックを置いて何とか登ろうと試みる。高さは六,七米であるが、正に模式的滝だ。岩は平滑な上にぬるぬるしている、何とか最初の滝は登り切つたが、その上は丸い滝壺でそれを廻って向うに行くのさえ困難な程である。次の滝は完全に瓶の底、ハーケンがあれば何とかなつたのだろうが、誰が日高に三つ道具を持つて来るだろうか。しようがないので高巻きと決めて一服。」
当時は日高にハーケン、ハンマー、ザイルを持っていかないものだった。他の荷物も重かったろう。豊富なビニール袋も化学繊維もない時代だ。重く濡れたザックではそうそう登れまい。まだ日高難関直登沢時代には早かった。「(のどの渇きと藪こぎで)泣き出したいような思いでようやく稜線に着いた。沢を出てから10時間半のアルバイトであつた。」
初めてナナシ沢合流点を発見した喜びも記されている。歴代ナナシ沢合流は、まだ早いと右岸を巻いて通り過ぎていたがこのパーティーはナナシとコイボクの間の尾根(コイボクの左岸)を高巻きしたために、左足元の沢がナナシだと気がついたのだった。「テラスの端まで行って見ると、すぐ眼の下は大きな沢が流れ、そこから細長い低い尾根をへだててまた大きな沢があるではないか。コイボクの流れは二分されている。それでは足下の沢は既に無名沢なのだ!」
23からコイボクに降りて、コイボクカール上で悪天のためまさかの停滞5連発。乏しい食糧食べ繋ぎ、しめて13日間の札内川のっこし。軽快な文体の素敵な山行記録だ。
●無名沢よりペテガリ岳・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・酒井和彦
1957年夏酒井和彦、上田原緯雄。表題はペテガリまでだが、沢はナナシ沢から39北面直登沢の遡行記録である。テント、寝袋無しの軽量山行。この年まではコイボク入渓谷はセタウシ乗越しで三石から高見への林道(峠手前から先は歩き)を使ったが、この翌年にはコイボク、コイカク合流までトラック道が通る予定とある。テント代わりにビニールシートで屋根架け。入山より六日目に39北面を登りヤオロマップの肩の花畑でごろ寝するが、ブヨの大群に「メシもズッペもブヨの突入で中が見えない。」となり、ビニールシートに潜り込む。その後停滞込み稜線5日のちペテガリへ。稜線はほとんどカンパンをかじっている。下降尾根から中ノ川に降りるとすかさず飯を炊いているのがおかしい。尚、おかずは味噌と塩だけみたいだ。下山の日、「マットが一番大きな荷で、小脇に抱えて歩きたい程に小さくなつてしまつた。最奥人家には一時半頃着き、豊作の畑の中を裸体で歩む。〜略〜畑仕事をしている村の人達は『御苦労様でしたね』と声をかけてくれるが、全く恥しく済まない気もして歌は唱わない」
「日高の夏の旅にはテント、シュラーフは必ずしも必要としないとの確信を得た。ただブヨに関しては対策を要す。登山の種々の研究をしそれに適応した装備を用うべきである。日高の山に原始を求めて彷徨う者は崩れた飯場と這松のハンモックとが最上の寝床である。」
「菊池先輩の大望は不肖ながらようやく果せた。」
夏の知床岳・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・鮫島淳一郎
1952年夏、植物学教室の先生らと当時は人の通わぬ知床の山へ出かけた記録。網走から船でテッパンベツ川河口へ。ここは当時製紙会社の丸太の海だった。この飯場で塩マス二本を貰って、美しいエゾ松の森を行くが、そこは間もなくトロッコ軌道が敷かれ切られる運命だという。山にほぼる人はなくとも、フロンティアには天然の富を求めて今よりたくさん人がいた。背丈を越すハイ松の中、水を求めて知床岳周辺をこぎまわる。テッパンベツ川の下りで思いのほか時間を食って苦労する。
大雪、日高の熱中ぶりに比べ、ルームは知床や利尻にはこの頃までぽつぽつと足跡を残したばかりである。この年の冬、京大が冬季知床全山初縦走をしている。(参考http://www.aack.or.jp/kaiinnope-ji/2002shiretoko/index.htm)
森、温泉、夢〜十勝川源流温泉小舎建設始末記〜・・・・・・西村豪、神前博
部報始まって以来の砕けた文体。昔の漫画っぽい語りで漫画っぽいストーリーを記述する。トムラウシと沼ノ原を結んだちょうど真ん中あたりの谷の中に秘湯が湧いている。そこに小屋がけをしてしまったという夢いっぱいの話。1950年に山崎英雄が発見し、1958年、第一次小屋がけが天気悪く失敗し1959年のこの度の記録。合宿を終えた後、大きな鋸と鉞を持った一行9人は俵真布まで引き返し入山。現場まで二日、建設三日、下山一日。石を運び土台を築き直径30-40センチのタンネの丸太10段を組み、50本なぎ倒して堂々のログハウスである。「つい昨日までは誰も足を踏み入れた事のない、この原始林が今やカーンカーンとなり響くオノの音、バリバリと生々しいタンネの倒れる音で梢の鳥も熊や鹿も声をひそめている。頭の上にまた空間が開き、五月の青空がいままでけっして見る事の出来なかったタンネの森の中をのぞいている。あつまたあそこにも、こちらにも、次々と空間が増え、その度に森が明るくなつていく。あつ、また食事当番のフエがなり響いている。十時のオヤツの時間ではないか!われわれは幼子の様に『ヤッホー』と歓声を上げながらキャンプ地へ飛び降りていく。」・・・欺瞞的な環境保護主義に浸かった2008年の常識で断じてはいけない。この山中で誰一人サボらず、三日間、飯を食い楽しげに小屋を築いた喜びがにじみ出ている。一番の苦労は倒してそろえた30-40センチ、長さ3.5mの丸太を運ぶ作業。これはやればわかるが重労働だ。最終日までに屋根もなんとか作り終え、メデタシで下山するのであるが、後日談がある。
牧歌的時代といえども後にこの件で、国立公園内での無断伐採、無断建築のかどで営林署の官僚的勢力から告発されるのである。その証拠が、この部報8号であったらしい。図解入り、建設のいきさつを詳しく楽しげに書いてあり、動かぬ証拠となった。最後は始末書を書いて落とし前。現代ならばどうだろう?責任者が監督不行届で謝罪会見、減俸処分とワイドショーだろうか。無体な時代である。
これについて後日談。山の会会報59号(昭和六十(1985)年)に「二つの始末書」と題した高篠和憲の記事があり、仕事つきあいの営林署関係者からこの時の始末書二通(山岳部長原田準平と当事者西村豪)が時効でもあり良き記念に返還されたという旨だった。
犬ソリの研究・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・北海道大学極地研究グループ
日本の南極観測隊の編成がなされ、その副隊長の西堀栄三郎から北方問題と縁の深い北大に犬ソリはじめ極地探検諸技術の開発を依頼され、昭和31年(1956)北海道大学極地研究グループを設立した、とある。メンバーは山岳部員である。
犬についてはカラフト犬の特質を紹介し、ソリについては1949年ノルウェイ、イギリス、スウェーデン探検隊のものを紹介している。ソリを製作し摩擦などを調べている。引き綱の形状、引き具の形、犬のえさに至るまで詳しい記述がある。
「われわれは日本における最後の優秀なカラフト犬十数頭と一緒に暮らせたことを誇りに思い、そのめい福を祈るものである。」この中に、第一次南極越冬隊に加わって生還したタロ、ジロも含まれている。
追悼
奥村先生のことなど・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木崎甲子郎
イドンナップに夏冬共に登っている木崎の追悼。「奥村先生を知ったのはいつのことだったか。入部したのは昭和二十一年だったが、未だ居られなかつたような気がする。そして今度岐阜高農から来た奥村という教授は、部の先輩ではなかつたけれど山が好きで、日高にも数回入つておられるし、予科山岳部の部長になつて頂こう、というような話を聞いていた。それ以来のことである。奥村先生のことを知つたのは。「ダットサン」という仇名も何時の間にかついてしまつた。」奥村部長は部員と年も近く、一緒にあだ名で呼びあい、下宿にもあがりこみ、給料日にはお茶を飲みにでかけたりという仲だったようだ。
「『今度は、静子を連れて行こうと思つてね』といつものあの笑顔で言われたこと、そして、お忙しいのに、無理に夏山などへ行かれなくても・・・と申し上げると、『いやいや山でも行って来ないと、気がくしやくしやしてね。仕事が仕事だから。今度はとつときのコースを行くよ』と眼鏡の奥から笑いながら言われたこと。
それが最後だつたのだ。人と人の生死のつながりがこんな風な形でピリオドを打たれようとは。」
奥村部長は理学部生の頃から山をはじめ、昭和11年(1936)ころより札幌の光星商業、二中、一中、の教官をしていた16(1941)年夏まで四季を通じ道内山岳を歩いている。昭和21(1946)年5月に北大予科の教授になった折から山岳部長を務めたが、24(1949)年8月、カムエクからの下り、札内川九の沢で遭難死した。
山岳部長奥村敬次郎氏遭難記録
伏流気味のごろごろ沢を下る際、幅各1m、厚さ60センチの岩の脇を廻って下に行った時その岩が転がり10m下で止まった。「先生は頭部をはさまれたらしく昏睡状態になる。約17分後昏睡状態のまま永眠さる。」カールに薪は少ないため、土葬にする。「穴を掘り、遺骸を入れ、カメラーデンリートを歌い、花で美しく飾り、その上に花を植え、白樺の十字架を建て、十四時半、お墓を完成する。」
尚、坂本直行の「雪原の足あと」の中に、「僕はこれ以上美しい人間の墓というものを見ることはないだろうと思った。」とあり、美しい九の沢カールの花畑の中に立つダットサンのケルンの絵がある。
花岡八郎兄を想う・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・向川信一
1947年7月、サッシビチャリ沢、39南面沢を登った後、コイカクからコイカク沢の下りで遭難死した。
「戦後間もなく生きることだけが希みであつたような頃に、彼はすでに北大山岳部の有力なメンバーであつた。当時の山岳部の雰囲気は過去のブランクを埋めようと、未踏のピークと沢を求めて激しく揺れ動いていたが、彼はその部の中心にあつて、直情的にしかも意欲的に登行への情熱を燃やしていた。」
この山行、39南面直登を登っているが、実は山頂で気がつくまで、1599を登っているつもりだった(当初の計画は1599→ペテガリ→中ノ川)。予定を変えてヤオロマップ出前で一泊し、コイカクから札内川にした。
「知らなかつたとはいえ、夏のノルマルルートを左手僅かの所にしながら、草と水に濡れた岩の急斜面の下降は危険なものであつた。」
「私達の下降している尾根は切れているから右の小沢を越えるよう合図しながら動いたように見えたとき、声もなく兄の姿が見えなくなつた。下降していた私がその気配にはつと思う間もなく、岩にバウンドする鈍い音が二度三度したと思つたが、後はただ規則的に流れる小沢の激しい水音だけである。髪の逆立つような、気の遠くなるような思いで急ぎ兄の立つた辺りに行つたときはもう何もない。ただ岩と水と黒々とした雪渓の不気味な口が見えるだけであつた。」
「国境尾根に立つた日、遥かにペテガリ岳を見て私達は感激した。小さなピークが二つ並んだ清楚な姿だつた。しかし登るにつれて次第に遠ざかる頂上を眺め、やはりペテガリは遥かだつたと語り合つたのだつた。シューベルトの「春の夢」に託してこの山頂に立つ日を夢見ていた兄にとつて、その山頂を指呼の間に眺めることが出来たのは、せめてもの慰めであつたといえるであろうか。山旅の時々にこのメロディーを口ずさんでいた兄はその夢を実現することもなく、命のはかなさとむなしさを一瞬のうちに示してこの世を去った。」
井上君の死・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・佐伯富男
井上正惟は1954年5月、中央アルプス空木岳で「三日冷雨の夜、殿越小屋附近にて遭難死す。《遭難及び捜索の記録は年報昭和二十八年度》」
入部が1949年で、6年目の春の事故。
「彼は非常に慎重に山に入る男だつた。毎晩のように強情な僕と論争が起きる。」
「無口な彼であつたが、僕にはよく語つてくれた。僕が札幌へ行つて見つけた本当の山友達というべきものは彼だけだつた。」
部報に詳しくは載っていないが、五〇周年記念誌によると、雨に下着まで濡れ、雪渓に道を失い日暮れ近くなり、小屋が近いと解っていながら歩けなくなり、ビバーク。夜中に低体温症で錯乱し足を滑らせ雪渓を落ちたという。
康平君・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・加納正敏
鈴木康平は昭和28(1953)年入部その年の夏、剱岳ブナクラ沢で、鉄砲水の増水で流され遭難死した。
「僕は君の心と共に山に行く。君が一度も行っていない山に、共に喜び共に楽しみたい。淋しければ大声で歌をうたおう。苦しければ互に杖になろう。君とはたつた六ヵ月の交わりだつたが、ルームでのダベリや数少ない山行の想い出は今でもはつきりと僕の胸に映つている。赤岩で宮様とアダ名をつけられた君、兄貴から金が来たといつて感激した君、はじめてスキーをはいてノビた君、色々な姿が忘れられない。」
これも五〇周年記念誌によると、夜中にテント浸水で起き、高台に待避する途中、3名のうち鈴木が突然来た1mの増水に流された。
前田一夫君の憶い出・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・鈴木良博
前田一夫は昭和32(1957)年入部、一年後昭和33(1958)年4月、奥穂、前穂の吊尾根で滑落遭難死した。とても個性の強い一年目だったとある。
「そうして山を論じ、映画を論じ、やけに悟り澄ました顔で浮世を論じ、まだ飲み慣れぬ酒のことで議論したりした一年間。僕は今でもその一年を二十余年の人生の一番楽しかった時期としてトップにランクしている。断片的な思い出が、こうして拙い文章をしたためている間も、そのためにあるような網膜の別な一角に総天然色で映写されて行くのです。」
五〇周年記念誌によると、アイゼン歩行中、何かにひっかけて転びそのまま滑落したとある。
小竹幸昭の追憶・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・佐々木幸雄
小竹幸昭は、昭和30(1955)年入部。昭和33(1958)年十勝岳の合宿中旧噴火口附近で遭難死。「十勝合宿に参加したのは、卒業を間近に控えて四年間の部の生活の最後を飾るつもりだつたのであろう。だが行動第一日目に彼は風雪の旧噴火口から再び仲間待つ小屋へ帰らなくなつた。私達はこの春OP尾根の上に彼と加藤君のためにケルンをつんだ。」
五〇周年記念誌によると、合宿初日小竹(4)、加藤(1)と西安信(1)の三人パーティーで十勝岳へ。そこから上ホロに向かおうとしたが、悪天のためOP尾根、振り子沢、なまこ尾根経由のルートが見いだせず、それに加え重いシートラ乗っ越しのため、時間を使い雪洞ビヴァーク。翌日も深いラッセルで次々疲労凍死。生還した西のみ旧噴火口の土の露出した地熱の暖かい場所で更に二泊ビヴァーク。そこは二名と30mほどしか離れていなかった。四日目に晴れ、西のみ下山し救助隊と合流した。この冬、槍の北鎌尾根の極地法計画に部の主力を送り出し、残った部員だけで行った十勝合宿だった。そのため全体に上級生が弱体で捜索も力が及ばず、四日目になってしまったとのこと。
加藤君のこと・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村恒美
加藤幹夫は昭和34(1959)年入部。昭和33(1958)年十勝岳の合宿中旧噴火口で小竹とともに遭難死。
「彼はついに“シブ”とアダ名がついた。しぶといからである。その彼も勉強の面でもそうとうしぶとかったらしい。高校時代なかなかの秀才とのことである。留萌に育った彼はお手の物のホームグラウンドである暑寒別岳が自慢であつた。彼の家からは一日で行ける暑寒には『冬には必ず案内してもらうぞ』と約束までしてあつたがそのことも果たせずに終わってしまつた。」
物故者略歴(一九四〇〜一九五九)
戦死したOBはじめこの間一八年間に無くなった人の消息。シナ、満州、レイテ、沖縄、ガダルカナル、ニューギニア等で亡くなっている。部報一号から読んできて見覚えのある名がこうした戦地で消えているのを知った。昭和十四年や十五年入学の世代は十六年三月や十七年九月には繰り上げ卒業でそのまま招集、戦死という人もいる。学徒兵である。昭和十六(1941)年ナナシ沢探査の菊池パーティーにいた二年目部員栃内晃吉は二十(1945)年の沖縄戦で戦死している。鍾乳洞の洞穴か、サトウキビ畑でナナシの事をおもいだしたろうか。
又、昭和29(1954)年洞爺丸遭難の犠牲に昭和4(1929)年入部の高橋正三氏もいた。
(前編/中編/後編)
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