28.霧の旅 松井幹雄(まついみきお)/1934/朋文堂/434頁
松井幹雄(1895-1933) 中学校教師 登山家
東京に生れる。東京府立工芸学校(現東京都立工芸高校)に学ぶ。卒業後、校長の推挽で母校の教鞭をとる。幼少時から母親の郷里の榛名、赤城を歩き、甲武信岳にも登った。大正時代、日本アルプスに行くことは、金も暇もかかる大仕事であったが、一般の人々でも日帰りか1泊で山登りを楽しもうという趣旨の下に、1919(大正8)年、松井が中心となり同士が寄り集まって「霧の旅会」(註)を設立した。松井のホームグラウンドは、秩父、多摩、丹沢、道志などで、特に大菩薩を愛し、1929(昭和4)年に広大社から「大菩薩連嶺」を出版した。明朗な人柄で、スポーツ万能の頑健な体力に恵まれていたが、36才の若さで腸閉塞のため急逝した。
内容
松井幹雄の遺稿集で、死の翌年(昭和9年)朋文堂から出版された。霧の旅会会員であった武田久吉、木暮理太郎が故人を惜しむ「序」を寄せている。内容は3つに分類されており、第1の「霧の旅」は、松井が会誌「霧の旅」へ寄せた原稿の中から「大菩薩連嶺」所蔵以外のほとんどが網羅されており、年代が新しい順に編集され、全体の分量の2/3を占めている。第2の「薫風帖」は、「山岳」「山と渓谷」「ハイキング」などの雑誌に発表したもの。第3の「書簡抄」は神谷恭、加藤留五郎の両氏にあてた書信の一部である。収集された原稿は、会員尾崎喜八が整理・校正した。
巻頭の「烏帽子の小屋へ」は彼の絶筆で、急逝から3ヵ月後に会誌に掲載された。大町で石突きのついた金剛杖と草鞋を買って、バスで笹平へ、高瀬川を遡って濁小屋で一泊、次の日は雨の中を濁沢を登って烏帽子小屋へ入る。「けむくて仕方がないので、腹這いになって一緒に話をしていると、雨に濡れた塚本氏一行(註:写真家塚本閤治のこと)が漸く三ッ岳の先から戻って来た。久闊を叙しているうちに、漸く元気が出てきて、熱い汁を啜ったりしていると、もう夕方だ。」絶筆となったこの一文はここで終っている。彼の紀行は、行く先々を道順どおりに、平凡な言葉で語り継いでいく。それでいて少しもあきさせない、力のある文章である。
翌日はよく晴れた。
「小屋の屋根に陽がさす頃、烏帽子岳への往復を終った私等は身支度をして、今日は静かな烟をあげている小屋を離れた。『雷鳥がいますから、早くカメラを‐‐‐‐』塚本さんの一行が呼びに来て呉れたので朝露を蹴散らしてかけていった。」
山岳館所有の関連蔵書
高山植物 武田久吉/1916/同文館
大菩薩連嶺 松井幹雄/1929/広大社
静かなる山の旅 河田��/1927/自彊館
登山と植物 武田久吉/1933/河出書房
山の絵本 尾崎喜八/1935/朋文堂
山の憶ひで(上、下) 木暮理太郎/1938/龍星閣
旅に住む日 河田��/1941/日進書院
尾瀬と鬼怒沼 武田久吉/1975/大修館書店
一日二日山の旅 河田��/1978/木耳社
(註)霧の旅会
松井幹雄が中心となって1919(大正8)年に設立され、1944(昭和19)年頃解散した。会の創立当時、日本アルプスの登山の大半は、地形などの情報や設備が乏しいこともあり、ガイド・人夫に地元猟師を雇い行われたために大変費用がかかり、金と暇のある上流階級のものであった。松井らは、社会人でも1日〜2日の山旅を楽しもうと、低山に活動を絞った「霧の旅会」を結成した。日本最初の町の山岳会である。当初4人で出発した会は、予期に反して多くの賛同者を得て大きく伸びていった。会員達による書籍も多く出版され、それに啓発された社会人の間に低山の登山が盛んになっていった。会の中心には文筆家の河田�蓮�尾瀬の紹介とその保護活動で知られる植物学者で第6代日本山岳会会長の武田久吉、詩人の尾崎喜八、登山家の木暮理太郎など著名な人達も名を連ね、文筆を通じての連帯も強かった。松井の急逝後もこれらの人々によって会は維持された。創立当初から発行された会誌「霧の旅」は、内容もレベルも高いものであった。
|
泉を聴く/西岡一雄/1934 |
日本アルプスへ 日本アルプス縦走記/窪田空穂/1934 |
HOME
メニュー

