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50 歩み 有馬洋・葛西春雄(ありまひろし・かさいはるお)/1941/私家本/316頁


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故人の衣類を使った表紙
故人の衣類を使った表紙
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カムイ岳(葛西撮影)、昭和13年1月6日冬季初登頂
メンバー:中野征紀、有馬洋、葛西晴雄
カムイ岳(葛西撮影)、昭和13年1月6日冬季初登頂
メンバー:中野征紀、有馬洋、葛西晴雄


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ノート、葛西晴雄
序を書いたまま残された
ノート、葛西晴雄
序を書いたまま残された
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木版、有馬洋
昭和13年3月北見の山を歩いた時の印象
木版、有馬洋
昭和13年3月北見の山を歩いた時の印象


内容
 1940(昭和15)年1月5日、ペテガリ岳厳冬期初登を目指した北大山岳部員10名の内8名が、コイカクシュサツナイ岳直下で雪崩の為遭難死した。本書は遭難した葛西晴雄と有馬洋の遺稿集である。B6版、装丁は坂本直行OB、表紙に遺族から提供された故人の愛用した衣類が使われている。

 葛西、有馬は、共に1934(昭和9)年山岳部入部、遭難当時は山岳部6年目、隊のリーダーであった。編集を担当した林和夫と星野昌平は、両氏と同期入部で、本書の出版の意義を「両者への友情の絆の一つになれば幸いと思う」と、出版の挨拶状の中で述べている。また、挨拶状の中で題名「歩み」の由来について、
「即ち進歩のある生活、前進、登高的な歩みがこの一遍に盛られるように心掛けた次第です。従って題にした「歩み」も追悼的な、歩みし跡の意味ではなく、もっと積極的な、之に続く歩みは吾々のこれからの一歩一歩だと言う生きた「歩み」の意味でつけました。多少幼稚に過ぎると思われるものも加えました。幼稚ではあっても誰しも通る真剣な歩みの一過程だと考えたからです。」
と述べている。

 内容は、山崎晴雄先生による「序」、葛西と有馬による「ペテガリ岳―厳冬期における―」、葛西晴雄の遺稿「山の生活六年間」他17編の紀行・随筆、日誌、書簡、有馬洋の遺稿「ペテガリソナタ」、日誌、書簡、両者の登山略歴、弟らによる小伝である。最後に雪崩から九死に一生を得て生還をした内田武彦が、事件から2週間後に入営中の先輩朝比奈英三に宛てた書簡「遭難当時の模様」が掲載されている。

 「ペテガリ岳―厳冬期における―」は、昭和12年1月〜2月に行われた第1次ペテガリ隊の記録を部報6号から転載したもので、「まえがき」を葛西が、「経過」を有馬が書いている。この隊は、特別参加の坂本直行OBを除く11名全員が予科生で構成され、極地法に似たサポーティング・パーティー形式を採用した。北大山岳部では過去に経験の無い稜線での幕営が必要なことから、テントが強風に耐えるよう新たに設計・製作し、十勝岳冬期合宿で性能試験を行うなど万全を期したが、稜線でテントが暴風に裂かれ、1599峰に到達したのみで敗退した。

 葛西の遺稿「山の生活六年間」は、葛西が昭和14年暮の十勝岳冬期合宿、引き続いて行われたペテガリ岳計画の出発前に、過去六年間の山岳部生活を振り返る随筆をしたためようとして残したノートで、「序」以外は空白のまま残された。以下にその全文を紹介する。
「之から此処に誌さんとする私のたどたどしい随筆は過ぎし六年間北大山岳部員として暮して来た私の山の生活への思い出の日誌である。ただわけもなく山を憧れた頃、少しは山なるものに『疑い』を持ち始めた頃、さては山岳部の組織、現状への懐疑的時代、さらにその部を動かすの任に当たっての気持ち等、思い出すままに誌して見よう。或いは文体をなさぬかも知れない、自己宣伝になってしまうかもしれぬ、いや自らの下らなさを曝け出す結果以外の何者でもなくなるかも知れぬ。しかしそんな事はどうでも良いではないか。私が真面目な態度をもって、幼稚なときはそれらしく、その時々に感じ考えたであろう事になるべく忠実ならんと務めたならば、この拙文は自ら一人の人間の山への愛の息吹きとを示してくれるに違いないから。」
 優秀なリーダーであった葛西にぜひ書き残してもらいたかった随筆である。

 有馬の遺稿「ペテガリソナタ」は、予科2年夏ペテガリ岳に登頂した時の紀行で、予科旅行部部内誌“カール”3号に載せたものである。有馬は、冒頭でこの山旅について次のように述べている。
「今僕の山への心は全く夏のペテガリの思い出と二月のペテガリの思いで満たされている。辛かったペテガリの登り、カールの篭城、岳樺の尾根、コイボクサツナイのキャンプ、その下りに雨の中をへずった根曲がりの急斜面、総てはつらい、苦しみの連続であった。苦しいのを想像し求めて向かった我々だったが、実際の困難、つらさは余に大きなものであった。だが苦しみの度が大きなだけに我々の心に与えられた喜びも大であった。」

 ペテガリ隊遭難の公式報告は、部報7号(昭和15年2月発行)に掲載されている。この中で雪崩の発生原因の究明に当たった石橋正夫先輩(昭和11年卒業、当時理地鉱助手)は、登山における馴れへの反省を込めて次のように述べている。
「彼らの平常の言行が示していた如く、あの様に雪崩に対して綿密な研究と周到な配慮とを怠らず、且又十勝事件以来特に敏感になっていた彼等が、しかも前回ペテガリ行の際、降雪があったので沢の下降を止め、迂回して郡境尾根を下った彼等が、何故に次第に危険を孕みつつあった沢を棄て、尾根に登路を変更しなかったろうか。 私はうつろなる札内川を、彼らの架けた橋を渡り、彼らの切り開いた道を幾度と無く往復しつつあった時、ふと今回のベースキャンプまでの前進に要された予定以上の日数と予想以上の労苦とがこうした結果をもたらしたのではあるまいかと思われ、又今日まで成された日高山脈の冬期登山の成功の多くが、或は甚だ特殊な好条件に恵まれていたのかも知れないにもかかわらず、次第にその危険に馴れて来たことが、斯様な貴重な犠牲を支払わしめたものではあるまいかとも考えられたのである。」

 このパーティの遭難者では他に戸倉源次郎の追悼集が、1941(昭和16)年6月、父幸二氏により発行されている。戸倉は、1936(昭和11)年、山岳部入部、遭難時は山岳部4年目。追悼集の題名は「氷魂」、坂本直行先輩が挿画、装丁した文庫版の大きさである。内容は、一故児小歴、二遺文、三哭児小記、四故児生活断片、五山の道千首の内五百種、六追憶五百種、後記からなる。
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表紙
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見開き
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五山の道は、息子の遭難後、父が読んだ山の道で始まる短歌千種から五百種を選定したものである。
「山の道千首の悲願逝きし児と合作なりと思い入りつつ」
六追憶から、
「永遠(とことは)に山ゆ往き往く吾児なり思出の国をせめて忘するな」
突然、児を失った親の悲しみがせつせつと胸に迫る。
「一月十一日南札内の空冴えて
“氷魂のほの三日月と磨かれてコイボクの峰にかかれる夕べ”」

山岳館所有の関連蔵書
北大山岳部部報6,7号/1938,1940/北大山岳部
北大山岳部部報7号/1940/北大山岳部
Kar/予科旅行部/1936/北大予科旅行部
氷魂/1941/戸倉幸二/私家本
 
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霧の山稜/加藤泰三/1941
 
 
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