記事・消息・ 2006年7月17日 (月)
徒歩旅行者・石崎、本日津軽海峡を越える/(米山)
一家で旅の見送りをする
6月20日に住み慣れた札幌のオバケ屋敷を発った石崎(90年入部)は、金曜の夜函館にやってきた。3連休を使ってのポンヤオロマップ川入山前日だった米山は、ちょうど風邪をこじらせ、入山をひとりリタイアして成り行き的に三日間石崎とだらだら過ごす羽目に。ぴちぴちのイカ刺しを食ったり、窓から花火を見たり、スープカレーを作らせたり、ロシア正教会の芝生で葡萄酒を飲んだりして石崎はきょう、下北半島大間行きフェリーで旅立っていった。米山の風邪はそのまま治らず。
このあとは一日だいたい25キロ進んで弘前、三陸海岸、仙台、新潟や岐阜を経由して、湖北、山陰、西九州をたどり、沖縄→南大東島が目的地だ。
会員名簿2006をプレゼントしたので、OB諸氏の家に、ある日突然公衆電話から「今夜泊めてもらっていいっすか?」と電話がかかるかもしれない。携帯電話を持たぬ故に、かえって「今頃どこの辺りを歩いているやら」と気になるのである。携帯を持たないということは、別れの時間を重要にする。とは言えそこはいつものルーム式で「じゃあまた今度」でおしまい。
以下、半日ほどで石崎が書いた最近のひと話。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー↓
●一宿一飯の恩義
(あるいはいかにして夏休みの宿題をやり残したかについて)
石崎・記
ニセコの昆布という町から八雲町のキンタさんに電話をすると、日曜日までになんとかして来いとのことだった。今日が木曜なので、明日からあと三日しかない。八雲町へはここ昆布から90キロ弱。三日で行けなくもないが、かなりハードな行程になることはまず間違いない。
僕は九州へ向けて約半年の予定で徒歩旅行を試みていた。九州から沖縄へ渡って働きながら越冬し、再び半年をかけて北海道へ戻ってくるという、計画とも呼べない漠然とした計画だ。何故そのような不毛の計画に三十路過ぎの男が精力を傾けなくてはならないのか?どうせなら世界一周でもすれば?そう問われれば返答のしようもない。ただ漠然と、これは日本を歩きのめさなくてはならないぞ?という気持ちが日毎に強かったとしか言えないのだ。それで、どうしても答えねばならないような場合には「前世からの因縁です。」と江原啓之風に答えようという、そんな心構えであった。
そもそも荷を軽くしようなどということはあまり念頭になかった。とにかく80リットルのザックに詰められるだけのものを詰めてみて、それが背負えないことも無いので背負ってきた。そんな具合であった。どーでもいいようなもの(例えばラッパとか、180ミリのバカでかい望遠レンズとか)があるかと思えば、必要なものが無かったりする、ちぐはぐな僕の装備は、決して軽いとは言えないものだった。それでもまあ特に不満もなくここまで十日ほど歩いてきたのだが、見ず知らずのひとからさえ、「そりゃぁ、デカ過ぎだろ。」「なんもなんもだぁ」などと言われることがしばしばだった。初めのうちは、そんな言葉も気にせずに歩いていたのだが、日を追うにつれ深刻になっていく膝の痛みなどをまじまじと考えると、「これはどうも漠然としたものだな?函館あたりで荷を軽くしないことには奥羽山脈越えなぞ覚束ないぞ。」などと不安になり始めるのだった。
ともかくもビッコ気味にヨチヨチと頼りない足取りで八雲町を目指した。これまで精々二十数キロで根を上げていたところを、三十キロ歩こうというのだから、楽ではない。でもここいらで「俺様は歩こうと思えば三十キロくらいの距離は歩けるんだ。」ってあたりのことを自分自身に証明しなくっちゃならない、などとらしくもないことを考えていた。そうでもしないと、半年かけたって九州までたどり着けるか、頼りない、我が足取りのヨチヨチさ加減よ!といった気持ちだったのだ。しかし、急に体力が付くわけでもなく、二十キロを超える頃にはやはり限界めいてくるのだった。次第に情緒も不安定になり、ひとりごとなども増えてくる。
―隊長、自分はもうダメっす。
―いいや、キミならできる。てゆーかやれ。
我ながら、ちとうるさい。
それでもどうにか長万部までやって来た。昆布を出て二日目、黒松内を経て、灼熱の峠道を越えてひたすら海風に向かって歩いた。約80メートル間隔で立っている路傍の矢印板を数えながら、「明日はどっちだ?」などとほざきつつ長万部の温泉街までたどり着いた。こんな時は温泉に限るんだ。温泉に入れば全ては丸く収まる。
長万部温泉は特に有名でもないし、どうせ沸かし直しだろうとあまり期待もしていなかったのだが実は非常に良い温泉。源泉掛け流しでとにかく熱い。こりゃ効きそうだ。折しも西日が浴室に差し込み、湯気を白く輝かせ神々しいばかりだ。狭いながらも露天風呂もあり、ながながと湯船にのびることしきり。そうこうするうちに丁度夕方だったこともあり、仕事帰りの地元の人なども湯を使いにやってくる。
―ぶはー、たまらん。こりゃたまらん。
なんも、なんもだぁ。
などとやたら陽気なオッチャンが約一名。
だれもなんも聞いてもいないのに、ああだこうだと賑やかだ。
―地元の人っすか?
面白そうなので話しかけてみる。
それからしばらく長万部周辺の温泉の話などして盛り上がる。
やがて話は毛ガニ祭りのことへ。毛ガニ祭り?
どうやら今日は丁度長万部でお祭りがあるらしい。バイクや自転車ならすぐだというがこちらは生憎と徒歩旅行者である。
―歩きだってか。なんもだぁ、送ってってやるぅ。一緒に行くべえ。
ということになって、湯上がりのビールをご馳走になった上、その、毛ガニ祭りとやらに行くはめに。
豚串をつまみにビールなどご馳走になるが、疲れているせいか杯は進まない。
それに今夜はなんだかとっても冷える。
―何も遠慮すんなぁ。おい、さとぉ、ビール持ってこい。
なんも、全部つけとけ。
この陽気なおじさんは団さんといって、長万部でホタテの養殖をしている漁師さんだそうだ。「さと」と呼ばれた屋台のねえさんも、普段はそこで手伝いをしているという。
酔った勢いで「一宿一飯の恩義っすから。」などと調子の良いことを言っているうちにほんとに働くことになったようだ。
―ここんち、人使い荒いよ。
などと、さとも心配そうだが、それもまたいいだろう。九時頃、祭りもお開きになると車で団さん宅へ。明日は早朝一時半起床だという。早朝というより真夜中だ。それでも家に帰ってからもひとしきり飲み直す。なかなか眠らないのだ。
けたたましい目覚ましの音で目覚める。時刻は一時半。当然まだ真っ暗だ。
非常に眠い。団さんとその息子さんのタカヒロくんと僕の三人はほぼ無言のまま、トラックに乗り込むと漁港へと向かった。皆眠いのは一緒だ。
漁船に乗り込み、親子の漁師は言葉もかわさずテキパキと作業を進めていく。あうんの呼吸ってやつだ。僕は邪魔しないように遠巻きに眺めている。
やがて船は港を離れ沖合に出た。夜風を受けてデッキに立っていると、なんかようわからんが、気分はもう漁師という感じ。養殖のカゴが仕掛けてあるあたりに来ると、船は停泊した。海は凪ぎだが、うねりはあるようで結構揺れる。
それにしてもこんな真夜中によく迷いもせずに一発で仕掛けを見つけられるものだ。レーダーのおかげなのか?聞いてみると、長年の勘だそうで。波の具合とかで分かるんだという。たいしたものだ。しかし感心ばかりしていては一宿一飯の恩義を返したことにはならない。しばらく作業を見守って、ある程度要領の分かったところでおもむろに手伝い始める。ブイを回収したり、仕掛けを結んでいるロープを解いたりといった簡単な作業。それでも仕事は仕事だ。徐々に船酔いもしてくるがせっせと働く。仕掛けには海藻とか訳の分からん魚とか一杯こびり付いてる。やはり海は生命のスープなのだ。土台さえあればいろんなものが生まれてくる。ホタテを入れた仕掛けで船が一杯になると漁港へ引き上げだ。そろそろ夜明けが近い。堤防の釣り人のシルエットなど、なかなか絵になる風景だ。漁港に着くと今度は仕掛けをトラックに積み替えて再び家へ戻る。家の傍にある作業所でホタテを仕掛けからカゴへ移していく。団一家の肝っ玉オッカアと昨日のさとがもう来て準備を済ませている。四時頃だろうか。
オッカアとタカヒロと僕の三人がホタテをカゴに移していく。オヤジさんがそれを洗浄してさとがミシンみたいなものでロープに縫いつけていく。こうなってはホタテはどこへも逃げられない。可哀想なもんだ。
この作業が一通り終わって片付けが済むと、朝食だ。働いた者には喰う権利がある、と肝っ玉オッカアからもお墨付きがでる。このあとは素人に手伝えそうな作業もなく、まあ一宿一飯の恩義も果たしたろうということにしてこの漁師一家の元をあとにする。なかなか得難い経験であった。
さて、この団さん一家だが、長万部の人だとばかり思っていたら、じつは隣町の国縫漁港の人だった。長万部から10キロほど来てしまったことになる。これは遺憾!車で移動したのでは徒歩旅行にならないじゃないか。そう思ってバスで長万部に引き返すことにした。次のバスまで一時間半。今朝は早かったので仮眠でもしていれば丁度良い。とは思ったのだがそう都合良く眠れるものでもない。そうこうするうちにバカらしくなってきた。こんなところでバスを待っていることも、もと来た道を引き返すことも。夜明け前から働いたことだし、まあ、堅いこと言わなくていいんじゃないの?そんな言い訳をあれこれと考えながら、やや後ろめたい気持ちでヨチヨチと八雲へ向かって歩きだした。
急に20キロに減ってしまった今日の行程は別に大した距離ではない。しかも海沿いの平坦地だ。昨日までの峠道と比べれば楽なもんだ。ラッパでも吹きつつヨチヨチやってれば夕方頃にはに着くだろう・・・。
そんな風にして長万部―国縫間の10キロほどの道のりは宿題として残されることとなった。なんともいい加減な話だが、それも僕の性格には似つかわしい事のように思う。うまく事が運べば来年の今頃、またこの辺りを歩くことになるだろう。でもその時は日本一周に10キロ足りない、ということになるのか。まあいいや、そんなこと。どうだっていいんだ。
(あるいはいかにして夏休みの宿題をやり残したかについて)
石崎・記
ニセコの昆布という町から八雲町のキンタさんに電話をすると、日曜日までになんとかして来いとのことだった。今日が木曜なので、明日からあと三日しかない。八雲町へはここ昆布から90キロ弱。三日で行けなくもないが、かなりハードな行程になることはまず間違いない。
僕は九州へ向けて約半年の予定で徒歩旅行を試みていた。九州から沖縄へ渡って働きながら越冬し、再び半年をかけて北海道へ戻ってくるという、計画とも呼べない漠然とした計画だ。何故そのような不毛の計画に三十路過ぎの男が精力を傾けなくてはならないのか?どうせなら世界一周でもすれば?そう問われれば返答のしようもない。ただ漠然と、これは日本を歩きのめさなくてはならないぞ?という気持ちが日毎に強かったとしか言えないのだ。それで、どうしても答えねばならないような場合には「前世からの因縁です。」と江原啓之風に答えようという、そんな心構えであった。
そもそも荷を軽くしようなどということはあまり念頭になかった。とにかく80リットルのザックに詰められるだけのものを詰めてみて、それが背負えないことも無いので背負ってきた。そんな具合であった。どーでもいいようなもの(例えばラッパとか、180ミリのバカでかい望遠レンズとか)があるかと思えば、必要なものが無かったりする、ちぐはぐな僕の装備は、決して軽いとは言えないものだった。それでもまあ特に不満もなくここまで十日ほど歩いてきたのだが、見ず知らずのひとからさえ、「そりゃぁ、デカ過ぎだろ。」「なんもなんもだぁ」などと言われることがしばしばだった。初めのうちは、そんな言葉も気にせずに歩いていたのだが、日を追うにつれ深刻になっていく膝の痛みなどをまじまじと考えると、「これはどうも漠然としたものだな?函館あたりで荷を軽くしないことには奥羽山脈越えなぞ覚束ないぞ。」などと不安になり始めるのだった。
ともかくもビッコ気味にヨチヨチと頼りない足取りで八雲町を目指した。これまで精々二十数キロで根を上げていたところを、三十キロ歩こうというのだから、楽ではない。でもここいらで「俺様は歩こうと思えば三十キロくらいの距離は歩けるんだ。」ってあたりのことを自分自身に証明しなくっちゃならない、などとらしくもないことを考えていた。そうでもしないと、半年かけたって九州までたどり着けるか、頼りない、我が足取りのヨチヨチさ加減よ!といった気持ちだったのだ。しかし、急に体力が付くわけでもなく、二十キロを超える頃にはやはり限界めいてくるのだった。次第に情緒も不安定になり、ひとりごとなども増えてくる。
―隊長、自分はもうダメっす。
―いいや、キミならできる。てゆーかやれ。
我ながら、ちとうるさい。
それでもどうにか長万部までやって来た。昆布を出て二日目、黒松内を経て、灼熱の峠道を越えてひたすら海風に向かって歩いた。約80メートル間隔で立っている路傍の矢印板を数えながら、「明日はどっちだ?」などとほざきつつ長万部の温泉街までたどり着いた。こんな時は温泉に限るんだ。温泉に入れば全ては丸く収まる。
長万部温泉は特に有名でもないし、どうせ沸かし直しだろうとあまり期待もしていなかったのだが実は非常に良い温泉。源泉掛け流しでとにかく熱い。こりゃ効きそうだ。折しも西日が浴室に差し込み、湯気を白く輝かせ神々しいばかりだ。狭いながらも露天風呂もあり、ながながと湯船にのびることしきり。そうこうするうちに丁度夕方だったこともあり、仕事帰りの地元の人なども湯を使いにやってくる。
―ぶはー、たまらん。こりゃたまらん。
なんも、なんもだぁ。
などとやたら陽気なオッチャンが約一名。
だれもなんも聞いてもいないのに、ああだこうだと賑やかだ。
―地元の人っすか?
面白そうなので話しかけてみる。
それからしばらく長万部周辺の温泉の話などして盛り上がる。
やがて話は毛ガニ祭りのことへ。毛ガニ祭り?
どうやら今日は丁度長万部でお祭りがあるらしい。バイクや自転車ならすぐだというがこちらは生憎と徒歩旅行者である。
―歩きだってか。なんもだぁ、送ってってやるぅ。一緒に行くべえ。
ということになって、湯上がりのビールをご馳走になった上、その、毛ガニ祭りとやらに行くはめに。
豚串をつまみにビールなどご馳走になるが、疲れているせいか杯は進まない。
それに今夜はなんだかとっても冷える。
―何も遠慮すんなぁ。おい、さとぉ、ビール持ってこい。
なんも、全部つけとけ。
この陽気なおじさんは団さんといって、長万部でホタテの養殖をしている漁師さんだそうだ。「さと」と呼ばれた屋台のねえさんも、普段はそこで手伝いをしているという。
酔った勢いで「一宿一飯の恩義っすから。」などと調子の良いことを言っているうちにほんとに働くことになったようだ。
―ここんち、人使い荒いよ。
などと、さとも心配そうだが、それもまたいいだろう。九時頃、祭りもお開きになると車で団さん宅へ。明日は早朝一時半起床だという。早朝というより真夜中だ。それでも家に帰ってからもひとしきり飲み直す。なかなか眠らないのだ。
けたたましい目覚ましの音で目覚める。時刻は一時半。当然まだ真っ暗だ。
非常に眠い。団さんとその息子さんのタカヒロくんと僕の三人はほぼ無言のまま、トラックに乗り込むと漁港へと向かった。皆眠いのは一緒だ。
漁船に乗り込み、親子の漁師は言葉もかわさずテキパキと作業を進めていく。あうんの呼吸ってやつだ。僕は邪魔しないように遠巻きに眺めている。
やがて船は港を離れ沖合に出た。夜風を受けてデッキに立っていると、なんかようわからんが、気分はもう漁師という感じ。養殖のカゴが仕掛けてあるあたりに来ると、船は停泊した。海は凪ぎだが、うねりはあるようで結構揺れる。
それにしてもこんな真夜中によく迷いもせずに一発で仕掛けを見つけられるものだ。レーダーのおかげなのか?聞いてみると、長年の勘だそうで。波の具合とかで分かるんだという。たいしたものだ。しかし感心ばかりしていては一宿一飯の恩義を返したことにはならない。しばらく作業を見守って、ある程度要領の分かったところでおもむろに手伝い始める。ブイを回収したり、仕掛けを結んでいるロープを解いたりといった簡単な作業。それでも仕事は仕事だ。徐々に船酔いもしてくるがせっせと働く。仕掛けには海藻とか訳の分からん魚とか一杯こびり付いてる。やはり海は生命のスープなのだ。土台さえあればいろんなものが生まれてくる。ホタテを入れた仕掛けで船が一杯になると漁港へ引き上げだ。そろそろ夜明けが近い。堤防の釣り人のシルエットなど、なかなか絵になる風景だ。漁港に着くと今度は仕掛けをトラックに積み替えて再び家へ戻る。家の傍にある作業所でホタテを仕掛けからカゴへ移していく。団一家の肝っ玉オッカアと昨日のさとがもう来て準備を済ませている。四時頃だろうか。
オッカアとタカヒロと僕の三人がホタテをカゴに移していく。オヤジさんがそれを洗浄してさとがミシンみたいなものでロープに縫いつけていく。こうなってはホタテはどこへも逃げられない。可哀想なもんだ。
この作業が一通り終わって片付けが済むと、朝食だ。働いた者には喰う権利がある、と肝っ玉オッカアからもお墨付きがでる。このあとは素人に手伝えそうな作業もなく、まあ一宿一飯の恩義も果たしたろうということにしてこの漁師一家の元をあとにする。なかなか得難い経験であった。
さて、この団さん一家だが、長万部の人だとばかり思っていたら、じつは隣町の国縫漁港の人だった。長万部から10キロほど来てしまったことになる。これは遺憾!車で移動したのでは徒歩旅行にならないじゃないか。そう思ってバスで長万部に引き返すことにした。次のバスまで一時間半。今朝は早かったので仮眠でもしていれば丁度良い。とは思ったのだがそう都合良く眠れるものでもない。そうこうするうちにバカらしくなってきた。こんなところでバスを待っていることも、もと来た道を引き返すことも。夜明け前から働いたことだし、まあ、堅いこと言わなくていいんじゃないの?そんな言い訳をあれこれと考えながら、やや後ろめたい気持ちでヨチヨチと八雲へ向かって歩きだした。
急に20キロに減ってしまった今日の行程は別に大した距離ではない。しかも海沿いの平坦地だ。昨日までの峠道と比べれば楽なもんだ。ラッパでも吹きつつヨチヨチやってれば夕方頃にはに着くだろう・・・。
そんな風にして長万部―国縫間の10キロほどの道のりは宿題として残されることとなった。なんともいい加減な話だが、それも僕の性格には似つかわしい事のように思う。うまく事が運べば来年の今頃、またこの辺りを歩くことになるだろう。でもその時は日本一周に10キロ足りない、ということになるのか。まあいいや、そんなこと。どうだっていいんだ。
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コメント一覧
よねやま
投稿日時 2008-8-19 23:36
2006年7月に札幌から函館の我が家へ来て食客ののち沖縄まで歩いていった石崎(1990)がその後日本海を北上し、今秋田にいるとのトコトコ通信をいただきました。その間、こちらは函館は青柳町から大町へ引っ越し、更に今年は青森に引っ越しています。ずいぶんながい時間が経ったような気もする。
今もトランペットを持ち歩いているのか?
今もトランペットを持ち歩いているのか?
米山
投稿日時 2008-4-2 10:30
キタ〜〜!
琉球諸島に消えてからおよそ一年の沈黙を破って石崎(90年入部)が再び本土に上陸したようです。今後のルートは不明ですが、帰り道は主に太平洋側トコトコではないでしょうか。以下声明文の全文を掲載。
みなさん、お元気でしょうか。
一年あまりのブランクを経て、
とうとう本土に復帰しました。
明日からまた、トコトコ人生のスタートです。
どうぞ、暖かく見守ってやって下さい。
それでは。
OB名簿を渡してあるので突然公衆電話からみなさまに連絡があるかもしれません。
琉球諸島に消えてからおよそ一年の沈黙を破って石崎(90年入部)が再び本土に上陸したようです。今後のルートは不明ですが、帰り道は主に太平洋側トコトコではないでしょうか。以下声明文の全文を掲載。
みなさん、お元気でしょうか。
一年あまりのブランクを経て、
とうとう本土に復帰しました。
明日からまた、トコトコ人生のスタートです。
どうぞ、暖かく見守ってやって下さい。
それでは。
OB名簿を渡してあるので突然公衆電話からみなさまに連絡があるかもしれません。
米山
投稿日時 2007-4-13 11:36
三ヶ月に渡る北大東島でのジャガイモ農園仕事を終え、再び那覇に上陸したそうです。トコトコ通信再開。再び返す刀で北海道を目指す模様。
米山
投稿日時 2007-1-22 0:44
本日、沖縄本島の木賃宿を出て、大東島に向かうとのトコトコ通信あり。いよいよ、最終目的地点ですな。
米山
投稿日時 2006-12-31 17:07
いよいよ大晦日、鹿児島港より奄美大島行きの船に乗るとのトコトコ通信あり。船上でカウントダウンの予定。
米山
投稿日時 2006-11-27 11:29
いよいよ九州上陸のトコトコ通信有り。
靴は三足目になり、サイフも薄くなっている模様。いよいよ針路は南だ。
靴は三足目になり、サイフも薄くなっている模様。いよいよ針路は南だ。
米山
投稿日時 2006-10-28 20:24
10月27日・トコトコ通信を受け取りました。↓
まっしろな 砂丘で ひもじい
鳥取で元気にトコトコやってます。
まっしろな 砂丘で ひもじい
鳥取で元気にトコトコやってます。
米山
投稿日時 2006-10-7 10:29
昨日、岐阜の松原宅で逗留中とのトコトコ通信あり。当分居候の気配。
米山
投稿日時 2006-9-13 10:37
9月12日現在、新潟にいるとのトコトコ通信あり。
>どーもー。新潟まできました。秋雨前線にいぢめられて、
>農家をやってる友人宅に避難してます。
>どーもー。新潟まできました。秋雨前線にいぢめられて、
>農家をやってる友人宅に避難してます。
米山
投稿日時 2006-8-5 23:10
8月4日現在、盛岡でさんさ踊りを眺めているとのトコトコ通信あり。