部報解説・ 2006年10月31日 (火)
これまでの部報紹介・2号(1929)下/(米山悟1984年入部)
部報2号の紹介、後半分です。
東大雪の沢をつなぐ原始林彷徨山行や、部報では初の利尻や芦別の積雪期記録に加え、国後のチャチャヌプリ、アリューシャン・アッツ島見聞録など、戦前の北洋時代ならではの記録が並んでいます。
【部報2号(1929)前編の続き】
● 十勝岳―十勝川―ニペソツ山 山縣浩
1928年8月、人夫水本さんと9日間の旅。吹上温泉から前十勝経由で十勝岳。美瑛をアタックして、十勝川源流地帯に降りる。シー十勝川、トムラウシ川を渡り、古い鉈目を頼りに道のようなものを歩いている。ニペソツ川を登路にする。頂上の北に上がる尾根から登頂。「ニペソツの山の形は地図で予想することは出来得ない。地図にはこの大きな東西の崖を全然書いていない。」とある。あの特異な山容を、事前に写真などのメディアを通じないで、ナマで出会える幸せさを想像した。ホロカ音更川を下り、上士幌まで歩く下山路はのどかな丘陵地帯の直線一本道。「先は見えていて、それでいて、歩いても歩いてもなかなか着かない。」
● 石狩岳とニペソツ山を中心に 伊藤秀五郎
この一帯の原始林で「谷から谷へ、澤から澤を思ふままに歩き回ってみたいといふ願望を、私はよほど以前からもつていた。」
然別川本流→ユーヤンベツ十の澤→然別沼→ヤンペツ川→ヌカビラ川→音更本流→石狩岳→石狩澤→クチャウンベツ→ヌプントムラウシ川→ニペソツ山→音更川→上士幌1929年八月、二週間の記録。
前半はまだ原始の雰囲気残る然別湖に、ペトウクル山から乗っ越して、今は自動車道路になっている糠平湖への峠を乗っ越す。糠平湖はまだもちろん無い。
石狩と音更のコルへの沢を登る。1400あたりで滝を越えられず右岸を捲き、そのまま稜線へ。ヌプントムラウシ川からのニペソツへは山頂から北に落ちている沢を登る。1600でどうしても登れない滝、尾根に乗って藪こぎで山頂。
● ニペソツ山 徳永芳雄
1929年四月初旬、積雪期初登頂の記録。幌加音更川の三の沢支流、盤の沢から。馬橇に乗せてもらって、三の沢あたりまで行っている。造材の小屋からアタック。好天を生かし、天気の変わる間際に成功させて下る。ウペペサンケの登路の考察もあり。
● 五月の芦別夕張連峰 山口健児
部報初の芦別記録。藪のため、北海道の縦走登山は5月に限られている、とある。発想として、本州のように縦走がしたいようなのである。4人+人夫一名、1929年5月中旬の記録。半分スキー、半分シートラ藪こぎである。ユーフレ谷から夫婦岩周辺で稜線へ上がる沢を間違えて藪の中で一泊。雨の中傾斜地に倒木を倒してテントを張り、焚き火までしてしまうのはサスガである。
芦別岳から南の地図が相当実際と違うとのこと。鉢盛山西北方の1435mピークと、1415m峰の美しさに言及している。「この岩峰は実に雄大で鳥渡日本の山とは思えない。黒い岩の皺に雪をわづかづつのせて、針葉樹の頂の虚空を垂直に抜く姿は捨てがたい」当時からマッターホルンぶりを発揮していたのだ。
吉凶分岐からの夕張岳アタック。広大な風景に惜しげなく賛辞を送っている。あそこの風景は今も昔も変わらないようだ。吉凶岳北東尾根からポントナシベツ川へ下山。下山路は桜咲く春の十梨別原野。
● 三月の利尻岳 井田清
1929年3月、小樽から15時間揺られて鬼脇。宿にスキーを立てかけておくと村中の子供が見物に来る。晴天待ち停滞で、若者が連れて行ってくれと訪ねてきたり、にぎわう銭湯に出かけたり。「山脈から独り離れて居るこの山は何処となく冷たい鋭さに寂しく光って居る。峰も頂の岩壁も絹の様に光つて居る。鋭い峰の若々しい雪庇は絹糸の様に細い。」鬼脇から山頂に向かう標高尾根をたどる。痩せた尾根が頂の直下で突き刺さるところで、雪庇に塹壕を掘って進み登頂(最高点には至っていない模様)。思索の多い井田氏の文章だが、天気待ちの停滞をする序盤から大いに読ませる。
● 国後島遊記 島村光太郎
1929年7月、未だ情報の少ない国後島へ。植物採集を兼ねて、「富士山の上に槍ヶ岳を載せたような」山、チャチャヌプリ登頂を目指す。結果は千島名物の濃霧で山中3停滞の上、翌日もガスと強風に阻まれて、肩の台地の少し先から引き返した。現代と同じくらい、当時も未知にくるまれて謎の山域だった事がわかる。
チャチャヌプリ南西面の乳呑路は30戸ほどの集落で、そこに根室からの船で降り立つ。西に海岸を20キロ進んだところが「賽の河原」。ここの佐々木さんというご老人に登路を教わり、イダシベナイ大沢を登る。途中をすぎると沢は不明瞭になり、ネマガリダケとミヤマハンノキの藪こぎになる。台地の上は砂礫地で火山の熱で靴が熱くなる場もあった。
国後の人たちは丁度昆布とりに忙しかったが、何処の家でも彼らを歓迎してお茶を飲んで行けと誘われた、小学生の子供たちは皆、立ち止まってこんにちはとお辞儀をしてくれたとある。今は失われたある時ある地の記録だ。
● アレウシアンの旅 高橋喜久司
1929年6月下旬、農林水産省の船に乗ってアリューシャンのアッツ島へ植物採集に行く機会があった。植物学教室の先生の助手として。船はラッコ密猟の監視のため、千島、アリューシャンの海獣地帯を行く。アッツ島の先住民アレウトが、外国人を警戒して、なかなか姿を見せない様など書いてある。訪れて植物を採集した島は、アッツ、アムチトカ、アトカ島。中部千島でも帰りに二ヶ月植物採集したとあるが、詳しく書いていない。残念。このような日本の官船が年一度千島やアリューシャンに寄るのに便乗した記録で、同時代の「千島探検記(ベルクマン・加納一郎訳)」がある。当時これらの離島への行き方はこれ以外無かった模様だ。山岳部の学生はこのころから学術調査の最先端で知力体力を発揮している。世間的に山岳部員の価値が認められる分野である。
● 日高山脈アイヌ語考 山口健児
アイヌ地名の意味紹介一覧。
・ピパイロを美生と当て字して、ビセイと読む人が増えたのを嘆いている。いまレキフネ川という川は歴船の字を「ペルプネイ」川に当てていた。当時和人は日方(ひかた)川と呼んでいたがこれは廃れた。
・ ヌピナイは最近ヌビナイと書いているし多数はビで呼ぶが、ルームはピのままである。(野の川の意)
・ 豊似川をトヨニと呼ぶのは誤なり。「トヨイ」(土の川の意)が正しい。
・ 野塚のもとは「ヌプカペツ」。たしかに、そう聞こえる。
など
● 山に就いて 伊藤秀五郎
雲で化粧する山は
藍色の深い呼吸をするが、
少しでも機嫌が悪いと
黒い頭巾をすつぽり被って
つんと肩を聳やかす。
しかし時には
白雲を髪に飾って
明るく
浅黄色に笑っているのだ。
年報 1928/4−1929/8
写真12点、スケッチ5点、地図3点
【部報紹介・2号(1929)上】
● 十勝岳―十勝川―ニペソツ山 山縣浩
1928年8月、人夫水本さんと9日間の旅。吹上温泉から前十勝経由で十勝岳。美瑛をアタックして、十勝川源流地帯に降りる。シー十勝川、トムラウシ川を渡り、古い鉈目を頼りに道のようなものを歩いている。ニペソツ川を登路にする。頂上の北に上がる尾根から登頂。「ニペソツの山の形は地図で予想することは出来得ない。地図にはこの大きな東西の崖を全然書いていない。」とある。あの特異な山容を、事前に写真などのメディアを通じないで、ナマで出会える幸せさを想像した。ホロカ音更川を下り、上士幌まで歩く下山路はのどかな丘陵地帯の直線一本道。「先は見えていて、それでいて、歩いても歩いてもなかなか着かない。」
● 石狩岳とニペソツ山を中心に 伊藤秀五郎
この一帯の原始林で「谷から谷へ、澤から澤を思ふままに歩き回ってみたいといふ願望を、私はよほど以前からもつていた。」
然別川本流→ユーヤンベツ十の澤→然別沼→ヤンペツ川→ヌカビラ川→音更本流→石狩岳→石狩澤→クチャウンベツ→ヌプントムラウシ川→ニペソツ山→音更川→上士幌1929年八月、二週間の記録。
前半はまだ原始の雰囲気残る然別湖に、ペトウクル山から乗っ越して、今は自動車道路になっている糠平湖への峠を乗っ越す。糠平湖はまだもちろん無い。
石狩と音更のコルへの沢を登る。1400あたりで滝を越えられず右岸を捲き、そのまま稜線へ。ヌプントムラウシ川からのニペソツへは山頂から北に落ちている沢を登る。1600でどうしても登れない滝、尾根に乗って藪こぎで山頂。
● ニペソツ山 徳永芳雄
1929年四月初旬、積雪期初登頂の記録。幌加音更川の三の沢支流、盤の沢から。馬橇に乗せてもらって、三の沢あたりまで行っている。造材の小屋からアタック。好天を生かし、天気の変わる間際に成功させて下る。ウペペサンケの登路の考察もあり。
● 五月の芦別夕張連峰 山口健児
部報初の芦別記録。藪のため、北海道の縦走登山は5月に限られている、とある。発想として、本州のように縦走がしたいようなのである。4人+人夫一名、1929年5月中旬の記録。半分スキー、半分シートラ藪こぎである。ユーフレ谷から夫婦岩周辺で稜線へ上がる沢を間違えて藪の中で一泊。雨の中傾斜地に倒木を倒してテントを張り、焚き火までしてしまうのはサスガである。
芦別岳から南の地図が相当実際と違うとのこと。鉢盛山西北方の1435mピークと、1415m峰の美しさに言及している。「この岩峰は実に雄大で鳥渡日本の山とは思えない。黒い岩の皺に雪をわづかづつのせて、針葉樹の頂の虚空を垂直に抜く姿は捨てがたい」当時からマッターホルンぶりを発揮していたのだ。
吉凶分岐からの夕張岳アタック。広大な風景に惜しげなく賛辞を送っている。あそこの風景は今も昔も変わらないようだ。吉凶岳北東尾根からポントナシベツ川へ下山。下山路は桜咲く春の十梨別原野。
● 三月の利尻岳 井田清
1929年3月、小樽から15時間揺られて鬼脇。宿にスキーを立てかけておくと村中の子供が見物に来る。晴天待ち停滞で、若者が連れて行ってくれと訪ねてきたり、にぎわう銭湯に出かけたり。「山脈から独り離れて居るこの山は何処となく冷たい鋭さに寂しく光って居る。峰も頂の岩壁も絹の様に光つて居る。鋭い峰の若々しい雪庇は絹糸の様に細い。」鬼脇から山頂に向かう標高尾根をたどる。痩せた尾根が頂の直下で突き刺さるところで、雪庇に塹壕を掘って進み登頂(最高点には至っていない模様)。思索の多い井田氏の文章だが、天気待ちの停滞をする序盤から大いに読ませる。
● 国後島遊記 島村光太郎
1929年7月、未だ情報の少ない国後島へ。植物採集を兼ねて、「富士山の上に槍ヶ岳を載せたような」山、チャチャヌプリ登頂を目指す。結果は千島名物の濃霧で山中3停滞の上、翌日もガスと強風に阻まれて、肩の台地の少し先から引き返した。現代と同じくらい、当時も未知にくるまれて謎の山域だった事がわかる。
チャチャヌプリ南西面の乳呑路は30戸ほどの集落で、そこに根室からの船で降り立つ。西に海岸を20キロ進んだところが「賽の河原」。ここの佐々木さんというご老人に登路を教わり、イダシベナイ大沢を登る。途中をすぎると沢は不明瞭になり、ネマガリダケとミヤマハンノキの藪こぎになる。台地の上は砂礫地で火山の熱で靴が熱くなる場もあった。
国後の人たちは丁度昆布とりに忙しかったが、何処の家でも彼らを歓迎してお茶を飲んで行けと誘われた、小学生の子供たちは皆、立ち止まってこんにちはとお辞儀をしてくれたとある。今は失われたある時ある地の記録だ。
● アレウシアンの旅 高橋喜久司
1929年6月下旬、農林水産省の船に乗ってアリューシャンのアッツ島へ植物採集に行く機会があった。植物学教室の先生の助手として。船はラッコ密猟の監視のため、千島、アリューシャンの海獣地帯を行く。アッツ島の先住民アレウトが、外国人を警戒して、なかなか姿を見せない様など書いてある。訪れて植物を採集した島は、アッツ、アムチトカ、アトカ島。中部千島でも帰りに二ヶ月植物採集したとあるが、詳しく書いていない。残念。このような日本の官船が年一度千島やアリューシャンに寄るのに便乗した記録で、同時代の「千島探検記(ベルクマン・加納一郎訳)」がある。当時これらの離島への行き方はこれ以外無かった模様だ。山岳部の学生はこのころから学術調査の最先端で知力体力を発揮している。世間的に山岳部員の価値が認められる分野である。
● 日高山脈アイヌ語考 山口健児
アイヌ地名の意味紹介一覧。
・ピパイロを美生と当て字して、ビセイと読む人が増えたのを嘆いている。いまレキフネ川という川は歴船の字を「ペルプネイ」川に当てていた。当時和人は日方(ひかた)川と呼んでいたがこれは廃れた。
・ ヌピナイは最近ヌビナイと書いているし多数はビで呼ぶが、ルームはピのままである。(野の川の意)
・ 豊似川をトヨニと呼ぶのは誤なり。「トヨイ」(土の川の意)が正しい。
・ 野塚のもとは「ヌプカペツ」。たしかに、そう聞こえる。
など
● 山に就いて 伊藤秀五郎
雲で化粧する山は
藍色の深い呼吸をするが、
少しでも機嫌が悪いと
黒い頭巾をすつぽり被って
つんと肩を聳やかす。
しかし時には
白雲を髪に飾って
明るく
浅黄色に笑っているのだ。
年報 1928/4−1929/8
写真12点、スケッチ5点、地図3点
【部報紹介・2号(1929)上】
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