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部報解説・ 2008年6月2日 (月)

これまでの部報紹介・部報8号(1959年)中編/(米山84)

image
歴代最長期間部報の8号の中身前半。看板記録の1956日高厳冬期全山縦走、1951大雪厳冬期全山縦走の二連発と、それに先立つ、ペテガリ厳冬期初登、イドンナップ厳冬期初登、カムエク北面、カムエク南面、中ノ岳厳冬期初登の五大記録を紹介。これでもか!の黄金時代です。しかも先日公開になった画像アーカイブでこれらの記録の写真がほとんど見られます。会員以外はサムネイル画像までですが、雰囲気をお楽しみください(右列「会員限定」の「画像アップ」から「全アーカイブ」→「道内」→「日高」)。8号になると御存命どころか活躍中のOBがたくさんおられますが、謹んで敬称略させていただきます。

●厳冬期の日高山脈全山縦走・・・・・・・・・・・・・・・西信博

あれほど苦労して成し遂げたペテガリ岳厳冬期初登と、14年後の日高全山厳冬期縦走が同じ一冊にある。部報8号の18年の長さを示すように思う。
1956(昭和31)12月12日から1月8日までトヨニ岳から幌尻岳まで。リーダーは西信博。強力な縦走隊4人、側面サポート隊三班の計21人。始めはこの前年に計画していたが南極観測隊が組織され、その犬ソリの研究依頼などがあって中堅部員の多くがこれにあたったため一年延期したとある。1956年の日本は、マナスル、南極の探検イヤーだったのである。


【概要】
春別川からトヨニ岳とピリカヌプリ間の1513西尾根(コーモリ尾根)を登ってトヨニをアタックして北上。当時の春別川はルテンベツ二股まで造材トラック林道を使いその先20キロ進めて尾根末端で荷揚げBC。サポート一班はここから稜線まで縦走隊の荷揚げを手伝って見送る。サポート二班はコイカクの長髪尾根(冬尾根)から登ってコイカク山頂に構え、1599と1823に荷揚げする。サポート三班はカムイ北東尾根からエサオマンまで縦走隊の食料を荷揚げし、独自に幌尻アタックする。縦走隊は幌尻岳をアタックして下降路はカムイ北東尾根。このときまでに未踏だった稜線はピリカ〜ソエマツ間のみ。
【メンバー】
チーフリーダー:西信博(5)、縦走隊:永光俊一(4)、久木村久(3)、高橋利雄(3)、安間荘(2)の四強。サポート一班:元木暉星(4)、森康通(2)、遠藤禎一(1)、志牟田孝男(1)、北古味雄(1)、サポート二班は西信博(5)、宮地隆二(3)、高橋了乙(2),木幡貢(2)、石井清一(2)、橋本正人(1)、サポート三班は鈴木弘泰(4)、増田定雄(3)、越智溥(4)、今村正克(1)、岩崎祐三(1)。
【記録から】
入山八日目にピリカ山頂でサポートとわかれ、各々十貫の荷を負って行く。その七日後にペテガリ山頂。途中2停滞。中ノ岳ペテガリ間では雪庇を踏み抜いてハイマツにぶら下がっている。一番やばいところである。ビニロンのウインパー型テントが水を吸って重くなってきた。1599峰の山頂でデポにありつき、コイカク山頂のサポート隊と灯りで交信を交わす。
翌日、コイカクを目指す途上で。「皆しかめっつらをしている。停滞にすればよかったといいたげな表情である、それでも永光はシネを回す、この頃になると皆はカメラ度胸が充分つきレンズをにらまずさり気なく気取っている。カメラの音が鳴り出すと安間は鼻毛を抜いていた手をふっと止めるし、高橋は顔をあげて遠くの山を見つめるふりなどをする。」シネというのはゼンマイ式の十六ミリフィルムキャメラ(ベルハウエルのフィルモ)だろう。巻末の広告に写真がある。レンズ三本回転式で重さ一キロちょっと。重いけど電気要らずだから今のカメラより山では役に立つ。全体にバリズボで苦労している。


コイカク山頂テントで二班と合流。ごちそうになったあと翌日は1823へ。大晦日。濡れた寝袋はカチカチに凍り、ひろげるのが一苦労。エアマットはパンクしている。カムエクからエサオマンまで歩いた日は13時間。途中日が暮れ暗くなったがデポを目指して闇のガスの中を歩く。山頂にてデポ発見。この日が一番きつかったとある。「最後のキャンプ、石油カンは沢山荷揚げされているし、モチも沢山ある。」「雑煮を食べラジオを聞いていると、突然部員及川の大雪での遭難を報じる。きっと雪洞掘って寝てんだろう。明日になったら出てくるよといい合う。西パーティーの下山したニュースも入る。」遭難ニュースのついでに報じられたのか、全山縦走が社会に注目されていたから報じられたのかは謎だが、「及川の遭難」は事なきを得た。「どうせ寝てんだろ!」は、親近感湧くよくある会話である。カムイ北東尾根目前で雪庇を落とし、6m滑落して肝を冷やすが、無事下山した。

● 冬の十勝、大雪山縦走・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


1951(昭和26)は学制が変わる前後にあたり、それまでの予科+大学学部の六年間ルームに関われたのが新制の4年になる危機感を持っている。戦後ルーム復活の最初の大事業として企画した。当時は新聞社の後援やら、地元の見送りやらがあり、面白い。途中サポート班のテントには、案内人に連れられた新聞記者とカメラマンが来て焚き火に招じいれたりしている。前年にはアンナプルナがあり、探検的事業に世間も多少注目していたようだ。

【計画概要とメンバ】
晴天は5日に1日で計算、縦走隊は最短9日最長27日、サポート隊は最短11日、最長30日の計算。結果は先発隊の行動含めて12月19日出発、1月11日下山の24日間。チーフリーダーは木崎甲子郎(6)、縦走隊は野田四郎(5)、越野正(4)、木村俊郎(2)、サポート隊A班は井上正惟(3)、白浜晴久(5)、有波敏明(4)、B班は木崎甲子郎(6)、早稲田収(4)、野口裕(4)。C班は杉野目浩(5)、森厚(1)、岡本丈夫(2)。D班は中村利一(4)、石谷邦次(2)、中島秀雄(2)、千葉幹雄(2)。E班は山崎英雄(9)、網蔵俊雄(3)、三尾竜民(2)の19名。行程は天気さえ良ければ楽勝だが、視界、風雪が行動可能日を狭めるルート。天気判断力と十分な停滞日数が必要な計画だ。なおこの山行ではラジオを携帯しているが、これ以前に部報では記録を見ない。気象通報の為であるから音楽など聴いてはならんという話を、気象担当だった白浜氏に以前聞いたことがあるが、記録ではベートーベンの第九などをきいている。気象予報で天気図を作図して進む、というのはこの頃から始まった方法のようだ。ちなみにトランジスタラジオは1955年に登場なので、この頃は乾電池で働く真空管の携帯ラジオである。電池管というらしい。
【行動記録から】
縦走隊は白銀荘から美瑛岳、美瑛富士のコルに上がり、トムラウシ経由黒岳まで進む。サポート隊はA〜Eの五班で、一つはスマヌプリ西1050m地点にBCを設け銀杏が原へサポート。稜線での悪天停滞はかまぼこ型テントで過ごして居る。「ベストセラーの『コンチキ号漂流記』の輪読を寝ながら聞く」の時代。大晦日には銀杏が原でABD班と縦走班が合流した。AB班はうどんを作る際ラヂウスのパッキン漏れで皆中毒になり「井上は真蒼になつてふらふらしながらも、瞳孔反射を調べ、脈搏をとり特に悪い三人にはビタカンファーを打つなど大童だつた。」というのが結果笑い話に。停滞中、ヒマに任せて二つのテントをつなぐトンネルを作る。「二つの天幕の間の、イグルーとトンネルは完成した。トンネルの壁際には食料函をずらりと並べて積み上げ、片隅は深く掘られて塵埃捨場兼W.C.となつている。これでいくら吹いても大丈夫だ。」1月3日はトムラウシを超え、化雲岳まで。B班はここから帰り、A班はこの先1月6日忠別岳までサポートして別れ往路を帰る。サターンロケットみたいなものである。縦走班は翌7日には黒岳石室まで。8日層雲峡下山のラジオニュースをABD班がベースキャンプで聞いている。「野田、越野、木村のはずんだ声が聞えてくる。顔を見合わせてニヤリとした。」ラジオニュースにインタビューも放送されていたようだ。
【装備、食糧】
縦走班の天幕は前後で二つを使う。理由は次第に凍って重くなるからである。テントの下にビニールシートを敷き、コルクマットを通して浸みてくる水分を防いだ、撤収時もテントの生地が雪に凍ってくっつかないので楽とある。これも当時の新技術。「ガソリンは三人一斑の一日分を約400ccと計算し北海製罐に依頼して五号缶に約440ccを缶詰として密閉し食糧と共に各箱に分けて運んだが便利であり特記に値する。」ポリタンとかペットボトルとか無いものね、この時代は。ラーメンも1955年ベビーラーメン、1958年チキンラーメンだから、この時代は乾ウドンである。餅の半分の目方で済む。が、腹が減る。焚き火のできる(水のある)樹林帯は米、稜線では餅か乾ウドン、昼はカンパンというスタイル。

● 積雪期の日高山脈

以下5つの未踏峰、未踏稜線の記録。部報はペテガリ遭難以降18年間発行されなかったが山の会会報にあった記録を主に採録したもの。時代は上記二本の前に遡る。

ペテガリ岳〜一九四三年一月〜・・・・・・・・・・・・渡辺良一、今村昌耕


コイカク沢の遭難から3年。日米戦争も始まって1年経ち、時代の閉塞感は既に始まっていたろうか。既に世相の未来は不透明。後は無いかもしれないとの気持ちがあっただろうか。作戦は従来どおりのルート。だが沢ではなく「長髪尾根」を使いコイカクの山頂からロングアタック。以前のように重装備でヤオロマップや1599に前進基地を作らず、長時間行動になるが一日で身軽にアタックする方法で成功を収めた。またコイカク山頂の泊まりはテントではなく初めてイグルーを用いて稜線に運び上げる荷物を大幅に減らした。今最先端のクライミングに通じる軽量、迅速アタック戦法だ。多数の荷揚げ要員、稜線上の前進キャンプ設営、極地法、兵站補給計画という陸軍的手法をすべてブン投げた。この方法で日高最後の輝かしい冬季未踏峰の初登を手に入れたことを、ルームはその後長く誇りにしてきた。山登りを組織的なもの、物量的なものに変えていってしまった戦後の思潮を前に、人が山と対峙する時に要る最低限のものを研ぎ澄まして使えと最後に示した山行だった。山岳部黎明期に磨かれた、素手で原始の山に触れるという良質のアルピニズムの原点を、最後に見せた山行ではなかったろうか。

そして、手ぶらで山に登る作戦を可能にしたのがイグルーである。「この山行の特異とした点の一つは前進キャンプにイグルーを採用したことである。これ迄試験的に札幌附近の山で数回試みられ、その長短が明らかにされたが、一つのまとまった計画の中に採用したのはこれが初めてであり、この計画のためにイグルー作りの練習を三回程行って自信を作った。」

アタック隊今村昌耕(6)、佐藤弘(5)。サポートが上杉寿彦(2)、荘田幹夫(2)、渡辺良一(6)のわずか5人。12月31日上札内小学校にC0、1月3日にはコイカク山頂にイグルー。5人一時間半で完成。1月5日快晴の朝、3時25分イグルー発。ペテガリ山頂11時10分。イグルー帰着18時30分の15時間行動。翌1月6日はサポート隊が登ってきて、翌日ヤオロマップと23をアタックして帰る。「すでに相当下からヤッホーを交わしてペテガリ登頂が成功したことを知つた。登る我々の感激も一入であつたが、上から知らすかれらの声も喜びに溢れていた。とうとう成功か!なんと長い間北海道の一角に聳えてつき纏った山であつたろう。カメラーデンリートを歌い、ケルンの側で黙祷」。これまで1936年3月(悪天)、1937年12月〜2月(悪天)、1939年12月〜1月(雪崩遭難)、1941年3月(悪天)と重ねた末だった。このとき成功しなければ戦争で登れず、戦後一番のりの早稲田大東尾根ルート隊が初登していたかもしれない。

この山行を成功させたイグルーの由来については、高澤光雄の研究が詳しい。コイカク遭難の目撃者でもあったイタリア人留学生フォスコ・マライーニが、事故の翌月には手稲山でのイグルー実験をして「1940(昭和15)年2月4日と翌日の『北海タイムス』で『冬の山岳征服にエスキモー雪小屋(イグルー)の実験、マライーニ君手稲山頂で成功』の見出しで『ペテガリ遭難は雪崩であったが、テントを運び上げた登山家の苦労は筆舌に尽きぬものがあった。若しいま紹介しようとするエスキモー式雪小屋が利用されていたならば、従来の犠牲者たちは幾多救われていたと思う』と報じている」(文芸同人誌「譚」第16号・山と人と本16・高澤光雄より)また、翌3月には十勝でイグルー山行をしてその手記を同行の宮沢弘幸が北海タイムスに寄稿している。見出しは「雪小屋(イグルー)で安眠・寒さは身に應へぬ」(3月24、25日)。マライーニはこの後、41年3月に講師として京大に移ったあと反ムッソリーニの戦時捕虜として名古屋の収容所に繋がれる。ペテガリ初登の報をどこで聞いたろうか。後の活躍は前回部報7号の記事で紹介した。ちなみに話はそれるがマライーニと懇意だった宮沢弘幸とは開戦の朝スパイ罪で特高に逮捕された北大生だ。米国人と親しかっただけが逮捕理由のようで、残酷な懲役である。
http://homepage2.nifty.com/hokkochurch/organ.html
マライーニのイグルー山行がルームのペテガリ成功のヒントになっているのは間違いないだろう。

1989(昭和64)年1月、現役だった私は日高の稜線で連泊することの難しさに行き詰っていた。当時のルームはなぜか長くイグルーを使わなくなっていたが、これを積極的に使うことにして、ペテガリからコイカクまで三つのイグルーを作って前進した。テントでこういう進め方は危なくて出来ない。イグルーだからできた。イグルーはコロンブスの卵だった。1943年のパーティーも「何だと、イグルーはやってみればこんなに簡単なのか!」と思ったに違いない。しかしイグルーはなぜか一般の登山者に広がらず、常に隠し弾としての魅力を放っている。それは今も同じだ。

イドンナップ岳〜一九四八年一月〜・・・・・・・・・・・木崎甲子郎


「ペテガリとイドンナップ。この二つの頂こそ当時の部員たちの目標ではなかったか。その一つペテガリは昭和18年冬登頂され、イドンナップは宿題として戦後に残された夢でもあった。」

この山行のあった昭和22年度は巻末年報を見ても、10月までしか記録がなく、この冬季初登記がどういうルームの雰囲気で行われたかはこの一文で推測するまでである。当時山岳部長だった奥村敬次郎(のち遭難死)と橋本誠二(12)、山崎英雄(5)、菊池三郎(4)、関祐次(2)、木崎甲子郎(2)。漫画のように愉快な木崎の文章で、戦後のモノたらずながら知恵と勇気で山の麓まで辿り着き山中に向かういきさつが語られる。二月下旬。ルートは沙流川支流宿主別川(貫気別山の北をぐるりと東に登る川)を詰め、どこを超えたのか不明だが新冠川の谷におり、いまは新冠湖の底になっているサツナイ沢出会いにベースを構え942ポコの北西尾根からシュウレルカシュペ沢右岸尾根を延々アタックした。一度目のアタックは山頂手前で時間切れ。二度目に登頂。「指で足下をさしている。ここが頂上か、といっているらしい。ちがうちがうと手を振ってまた歩き出す。どうもここらしいと立止まったのはそれから三〇分も経つた頃だつたろうか。三角点もはつきりしないが、夏の記憶を辿つてここだろう。いやここにちがいないときめてしまつた。たよりないことではあるが、同じような尾根続きのひとつの瘤をそれも最高点ではないところを三角点にしたようなこの山では、たとえ三角点でなくてもたいしたことではない。しかし初登頂である。」いや、イドンナップの山頂なんてどこなのか今だって誰にもわからないんじゃないでしょうか。つい一ヶ月前にはナメワッカに冬季初登頂したとあるのだが、その記録は不明。部報18号は突貫で編集したのでそういう大事な記録がボコボコ欠落している。

札内岳よりカムイエクウチカウシ山へ〜一九四九年一月〜
・・・・橋本誠二


前年1947(昭和22)年度の年報記録はほとんど欠けているが、文脈によるとこの年(1948)の1月にもナメワッカ分岐からカムエクアタックの計画があり、未遂に終わっているようだ。この間の稜線が、まだ冬季未踏なのである。この時代の課題は、8の沢からではなく、カムエクの北と、南の主稜線からの登頂だ。橋本誠二(13)、関裕次(3)、長井晃四郎(3)、野田四郎(2)。ピリカペタヌ→札内岳→エサオマントッタベツ岳→1900峰→カムイエクウチカウシ山のアタックである。八千代の造材事務所の先はピリカペタヌ沢でBC、札内岳中腹C1、札内岳Co1700にC2イグルー、最低コルにC3イグルー、ナメワッカ分岐にC4イグルーと、雪の少ない1月でもあり、積極的にイグルーを利用している。

C2「イグルーは雪庇を円くぬいてその上にドーム状に積んだ。」この方法が稜線では一番早い。竪穴の上にドームの浅い蓋を載せるのだ。C3,C4では吹き溜まりを利用した半分雪洞、半分イグルー。「ここは風が特別に巻くところだけに吹きだまりが発達している。そこに半雪洞式のを掘り出す。一米五十も掘ると氷の層があり手間どつた。停滞を覚悟なので、二重のガラス窓付きのイグルーにした。」ガラス窓ってのは本物を持っていったのか氷か?入山10日目の1月21日にカムエクをアタック。山頂からは南側稜線の困難ぶりを確認して、展望を楽しみ山頂で50分くつろぐ。帰りは日暮れと競争になった。「見る見る沈んでいく陽がはかない光を、吹きまくる雪煙りに投げて行くのはいかにも冬の山稜上に吾在りという気持を与えるものであつたが一方極めてたよりのないものであつた。」帰りの東西稜線は風向きが変わりやすい。帰路は雪庇が逆向きになり最低コルの「イグルーを作った吹きだまりも、イグルーのところを残して、みななくなっていたのには驚いた。」これは重要な記述である。最後にイグルーのまとめで、半雪洞式は雪洞とイグルー部分の沈み方が偏って不連続になるが、縦穴にイグルーのドーム蓋を付けたものは天井の沈下がほとんどない。との記述がある。私も竪穴の上にイグルーが最も良いと同意する。

コイカクシュ札内岳よりカムイエクウチカウシ山へ〜一九五〇年一月〜
・・・・山崎英雄


北からのカムエクに続いてはいよいよ日高でも難しい稜線のひとつ、南からのカムエク。「また今年の冬山は終戦以来の部の実力を一つの目標に注ぎ込んでみようと〜登山形式も相当大がかりなものとなり、エクウチカウシと同時に一八三九米峰も同時に登頂しようということになった」。エクウチカウシと当時は言っていた。1月6日男沢先生宅にC0、7日入山20日下山。なお、この山行記録は巻末の年報にも無く、本文中にもメンバーに名前記述が無い。部報編集を18年もため込みすぎると不備が増える。ところが、先日整備された画像アーカイブにこの山行始め部報8号の伝説的な山行の写真が殆どある。そのキャプションにメンバーが書いてあり、以下のメンバー一覧が判明した。
A班(コイカクーカムエク縦走):山崎英雄(7)、野田四郎(3)、白浜晴久(3)、B班コイカクー1839縦走):木崎甲子郎(4)、藤木忠美(8)、越野正(2)、C班(サポート):長井晃四郎(4)、関祐次(4)、有波敏明(2)、D班(サポート)森田寛(3)、三角亨(3)、中村利一(2)

コイカクの尾根末端にBC。奥二股を左に入って百米のところ。毎度の場所なので、切り株だらけらしい。コイカクの尾根頭にイグルー四人前C3を二つ作る。「このイグルーは二件長屋である。直径二尺足らずのマドによつてオトナリと連絡しているが隣の方の床が約一尺高いので、ラジウスでせつかく温めた空気が皆隣に行き、隣の冷たい空気がわれわれの方に流れ込むという不公平な結果になつてしまつた。イグルーの中は実に静かである。コトコトと音を立てるコッヘルを黙つて見ていると突然若い女の声が隣からきこえてきた。みな顔を見合せ隣をのぞくとアンテナのおかげでラジオが快調なのだ。」先にも書いたがこの時代のポータブルラジオは真空管式で大きい。このときはイグルーの外に結構大げさなアンテナを設置している。ちなみにこの時代、目覚時計を使っているようだが、電子音でも電池式でもなく、やはりねじ巻き式でジンジン鳴るやつだろうなあ。そういう細かい所が読んでいて一番おもしろい。

C4は1823峰の山頂のやや西の尾根上にテント。ここにもイグルーを作らなかったところを見ると、やはりまだイグルー作りは難儀だと思っていたようだ。カムエクアタックの日。美しい朝焼けを見て出発、「国境が急に直角に西走する所からのエクウチカウシは誠に堂々たるもので」「一八四〇米峰からの眺めは実に立派で両側にカールを抱いたその山容は誠に貫禄十分であつた」・・・と、史上初めて厳冬のこの稜線を歩く者として、カムエクの美しさを賞嘆する言葉を惜しまない。この日、B班は39峰、C,D班は1599峰のアタックも成功させた。BCで焚き火をして下山。帰りも南札内分教場の男沢先生がお迎えしてくれた。この頃、造材のトラック道路が出来、「トラックは何十台もの馬橇をつぎつぎと追い越して中札内に向つた。」

中の岳と神威、ペテガリ岳〜一九五三年一月〜・・・杉野目浩


中ノ岳は正真正銘、日高最後の厳冬期未踏峰である。その初登記録。ルートはベッピリガイ沢から中ノ岳、ペテガリ、神威。12月27日から1月8日。メンバーは杉野目浩(6)、有波敏明(5)、岡本丈夫(3)、中島秀雄(3)、森厚(2)、小林年(1)。シベチャリ川上流奥高見開拓団入植地(現在の高見ダムの底)が最終人家だが、そこへは三石川の運材トラックに載せてもらい、駄馬道の峠越えを徒歩でする。多分今もある道。開拓地の一件に泊めて貰いおもてなしを受ける様が書いてある。「樺太から引揚げてこの数年来苦闘を続けて居られる一家であつた。天井はなくて梁には穂のついた粟がぎつしりとつりさげてあつた。」

上流コイボクシュサツナイ二股まで造材が入っているので駄馬道があるという。イベツ沢対岸やコイボク二股にも砂金取りの小屋などがあり、利用する。ペテガリ沢出会い手前の鉱山小屋というのはほぼ、現在のペテガリ山荘の位置かも。現在東の沢ダムの底はサッシビチャリ出会の三股といっている。また、メナシベツ川の本流はペテガリ沢と分かれてベッピリガイ沢と名前を変えるとあるので、そういうことかと初めて知った。今はあまりメナシベツの名を使わないから。雪が少なく「どうしてもスノウブリッヂがないと岸辺の立木を選んできりたおし橋をかけた。そんな時などからまつたぶどうづるにてんてんと山葡萄の実を見つけた。しなび果てたその黒い実は甘ずつぱくて格別新鮮であつた。」ベッピリガイの水の切れるところにBC。沢を行き、滝の捲きから右岸にあがり、1500米峰へ(これは1445のことか?)。元日に、この先、山頂まで25分のところにテントを張り、悪天の中を初登頂する。翌朝テントから這い出て晴天のペテガリと対面する。「深々としたペテガリ川の渓谷をへだてて静かなペテガリの麗姿があつた。透徹した気流と水のアルティザンに刻まれた彫刻は今冬のよそおいを凝らして匂うようにまつしろに輝いている。純潔のギッフェルよ、何もいうことはない。只その静謐な朝の一時にある感情のたかぶりを感じてたまらない幸福に酔つていたのだ。」この天場のあたりは、ペテガリの南面が最も格好良く見える場所である。ペテガリ沢が真正面、左右対称に良い三角の尾根を伸ばし、日高で最も景色の良い場所のひとつだと私は思う。この日全員でペテガリ岳をアタック。この稜線も初縦走だ。中ノ岳ペテガリ間は細いナイフで、大きな雪庇がでる難しい稜線だ。やはり中ノ川側にでかい雪庇を一発落として「思わずKの肩を掴むと無事を喜んだ。」というくらい怖いところ。天場10時発、山頂15時、帰着19時で途中日が暮れた。山頂には三角点の傍らに名刺入れの錆びた缶があった。ルームでは1943年の初登以来。この間、1947年に東尾根から早稲田が二登している。

翌三日は四人で神威岳との中間ピークまで。この稜線も初。四日杉野目、岡本、小林で神威岳をアタック。「ソエマツ岳の背後の空が、もえ黄色になり、一四八〇の大斜面を神威の鞍部へと下るころはそれが黄金色となつて日が昇つた。」「陽光燦然たる頂に立つたのは十時近く」「スキー帽の垂れを上げると遠く太平洋から吹きよせる冷え切つた風で頬は直きに熱くほてつた。」「えんえんたるわれわれのシュプールが、ペテガリに向つてやせた稜線に消え残つている。何のためにと秘かに自分に問うてみた。それは胸せまる友情の合作であり、そしてその行為の主題をどこに求めていようとそれぞれの心の勝手なのだ。」最終人家に帰りも投宿、「心暖まる数々のおもてなしに疲れも一時に出た。凍ったみかんをズラリとストーヴの上にのせて『やけたのからお上りなさい』とすすめられて、郷里が横浜のAは痛いほどこの北の地を感じたというのであつた。」

同じ冬、札幌山岳会が中ノ川から目指し、1月7日登頂している。沢4日行程、三股から尾根三日行程。あの函だらけの中ノ川をスキーで行くとは、と今では思うが、北大の使った奥高見の開拓地への乗っ越し駄馬道は戦後付けられたものであり、それ以前日高側のアプローチは考えられなかった。それ故ペテガリは遙かだった。中ノ川からの札幌山岳会隊は前年に途中で敗退していた。この年は北大と初登頂を争うことになった。札幌山岳会はこの時できたばかりでありその後、知床の冬季縦走、利尻での登攀などのめざましい活躍へとつなげていった。

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よねやま   投稿日時 2008-8-28 0:03
イドンナップ岳の項で、ナメワッカ厳冬初登の記録など大事な記録が突貫で作った部報8号ではボコボコ抜けている、と書いたら、当の木崎甲子郎OBから葉書を戴き、ヤンチョ(橋本誠二OB)の著書、「あの頃の山登り(茗渓堂2002)」の16pにあるとの指摘を戴きました。購入、拝読いたしました。初出を見ると山と渓谷112号(昭和23年6月)とありました。

イグルーを多用して1月21-3月2日のピリカペタヌ沢から往復の記録。当時はペテガリ初登以来イグルーの力を最大限活かしている時代で、半雪洞の図解入りである。
この本はヤンチョの遺稿をまとめたものですが、遺品の段ボール箱から未発表原稿を発掘したものが多く、編集者の努力に恐れ入りました。
 
 
 
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