書評・出版・ 2014年7月24日 (木)
【書評】剱沢幻視行 山恋いの記 ・和田城志(米山悟/1984入部)
ナンガパルバットに三度、全部別の難ルートから挑んで全部山頂目前敗退、冬剱、冬黒部横断の山行40回。こんな無茶で一辺倒な志向で押し通してきて生き残っている。みな、唯一無二の登山家として認識してる。とうとう和田さんの山人生自伝が出版されてしまった。そして恐る恐る読んでしまった。
和田さんは学生の頃からあこがれの登山家だ。当時の「岩と雪」に、冬黒部横断の山行を「学生山岳部員こそ挑め」と書いていた記事を覚えている。冬の黒部川をパンツ一枚で渡渉するその記事を、じじい(同期高橋君)がやや興奮して話題にしていたのが僕にとって一番古い記憶。そのころ、1987年は、和田さんにとって転機になった年だったのだと、この本を読んで知った。
和田さんは学生の頃からあこがれの登山家だ。当時の「岩と雪」に、冬黒部横断の山行を「学生山岳部員こそ挑め」と書いていた記事を覚えている。冬の黒部川をパンツ一枚で渡渉するその記事を、じじい(同期高橋君)がやや興奮して話題にしていたのが僕にとって一番古い記憶。そのころ、1987年は、和田さんにとって転機になった年だったのだと、この本を読んで知った。
はじめの剱沢大滝探検行の下りで流れた1970年の「夜明けのスキャット」が、全篇通じて読書脳の片隅で鳴り続けていた。何より和田さんの言葉は音楽のように豊かだ。詩人だったとは。言葉は登攀中、ラッセル中に練られ、熟成され、形になるのではないか。山で黙々と過ごすとき、いつも心で言葉を探している。
1976年に剱沢大滝に再開した時のことば。「久しく遠かったこの大自然の絶景は、私の日々に育まれた想像(いや妄想と言うべきか)を裏切るどころか、遥かに凌駕して今ここに存在する。この幽深の絶峡に役不足のものはひとつもない。切り立つ岩壁は重々しく濡れた鈍色(にびいろ)の光沢を放つ狩衣(かりぎぬ)だ。山襞の残雪は矢折れ傷ついた白銀の鎧だ。低く垂れ込めた霧雲は猛々しい灰色の母衣(ほろ)だ。側壁に反響する瀑音は軍馬にまたがる鬨(とき)の声だ。雨と飛沫に煙るモノトーンの景色は、琵琶法師の語る源平絵巻の亡霊武者を彷彿とさせた。」あの剱沢の絶景を言葉でこれでもかと尽くす。
剱沢大滝を、登攀はおろか、目で見た人も多くはあるまい。間違いなく日本一の秘境の一つだ。僕は2003年秋、剱沢大滝のTV撮影に関わった。和田さんの後輩で1976年に剱沢大滝を彼と初登攀した片岡泰彦さんと1991年ヒマラヤでご一緒して以来、何度も山に行く縁になっていた。あるとき、剱沢大滝を遡行した数少ない登攀者、松原憲彦とともに片岡さんに誘われ、大阪の和田さんの自宅に酒を飲みに行った。和田城志と山の話ができることに、すごく期待した。名古屋から長着に羽織も着て近鉄に乗った。昼に訪れ、晩になり、風呂に入りながら飲み、朝まで飲んで、少しウトウトして、また飲んで昼過ぎになった。100パーセント山の話で。
「今な、どこの山に行きたいんや!今行きたいルート、ぱっと言えるか?それが大事なんや。」
「ウィリアム・ハロルド・ティルマン。この人の伝記は、『高い山はるかな海』いう本や。」
本棚には、表紙がとれそうになった付箋だらけの「ナンガパルバット」(ヘルリコッファアー1954)があった。剱沢と黒部横断について集めた資料や整理した写真の数数を見せてもらった。
本のあとがきで、家族に、会社の仲間に、死んだ山の仲間に、生きている仲間に、「ありがとう、ごめんなさい」とたくさん書いていた。これを読んであの翌朝のことを思いだした。夜中に庭で飲んでいたので、山の話で声がでかくなり、何時だったか「うるさいぞ!」と近所から声が聞こえた。一同反省して屋内に入ってまた山の話を続けた。翌朝、和田さんは近所の家を一軒一軒全部まわって謝って歩いていた。近所の人で怒っている人はいなかったようだ。この本のあとがきのあいさつが、あの朝の和田さんの姿そのもので、すこしおかしかった。
和田さんてどんな山登ってきたんだろう。なぜ暗くて、危険な山行ばかり続けるのだろう。どうやって職場と折り合いつけて、毎回2週間も厳冬期の剱に行けるんだろう。問いの納得いく快答は無いが、こんな文章があった。
「社会で生きるということは、それなりの役割を果たすということだ。私は、山の負債を山で返そうとしていた。積雪期の剱沢大滝完登は、私を後ろめたく勇気付けた。しかし、人は多分認めない。それが私には心地よかった。なぜ、こんな危険で不快な登山をするのか。雪崩と悪天候、頂上の爽快さもない陰湿な冬の谷底にうごめいて、何が面白いのか。あたりまえの疑問だ。私自身が分からないのだから。」
引用だらけになってしまってキリがないから引用しないけど、174pから176pのアルピニズムについては、同じことを思った。「ビビる山か、そうでないか」。付箋を貼った個所が多すぎて、そんなメモ書きもきりがない。
たくさん載せられている詩は、また何度か読み返すうち意味が変わって理解できると思う。
今月末にある登山家の追悼会で、和田さんと久しぶりにお会いできる予定です。
1976年に剱沢大滝に再開した時のことば。「久しく遠かったこの大自然の絶景は、私の日々に育まれた想像(いや妄想と言うべきか)を裏切るどころか、遥かに凌駕して今ここに存在する。この幽深の絶峡に役不足のものはひとつもない。切り立つ岩壁は重々しく濡れた鈍色(にびいろ)の光沢を放つ狩衣(かりぎぬ)だ。山襞の残雪は矢折れ傷ついた白銀の鎧だ。低く垂れ込めた霧雲は猛々しい灰色の母衣(ほろ)だ。側壁に反響する瀑音は軍馬にまたがる鬨(とき)の声だ。雨と飛沫に煙るモノトーンの景色は、琵琶法師の語る源平絵巻の亡霊武者を彷彿とさせた。」あの剱沢の絶景を言葉でこれでもかと尽くす。
剱沢大滝を、登攀はおろか、目で見た人も多くはあるまい。間違いなく日本一の秘境の一つだ。僕は2003年秋、剱沢大滝のTV撮影に関わった。和田さんの後輩で1976年に剱沢大滝を彼と初登攀した片岡泰彦さんと1991年ヒマラヤでご一緒して以来、何度も山に行く縁になっていた。あるとき、剱沢大滝を遡行した数少ない登攀者、松原憲彦とともに片岡さんに誘われ、大阪の和田さんの自宅に酒を飲みに行った。和田城志と山の話ができることに、すごく期待した。名古屋から長着に羽織も着て近鉄に乗った。昼に訪れ、晩になり、風呂に入りながら飲み、朝まで飲んで、少しウトウトして、また飲んで昼過ぎになった。100パーセント山の話で。
「今な、どこの山に行きたいんや!今行きたいルート、ぱっと言えるか?それが大事なんや。」
「ウィリアム・ハロルド・ティルマン。この人の伝記は、『高い山はるかな海』いう本や。」
本棚には、表紙がとれそうになった付箋だらけの「ナンガパルバット」(ヘルリコッファアー1954)があった。剱沢と黒部横断について集めた資料や整理した写真の数数を見せてもらった。
本のあとがきで、家族に、会社の仲間に、死んだ山の仲間に、生きている仲間に、「ありがとう、ごめんなさい」とたくさん書いていた。これを読んであの翌朝のことを思いだした。夜中に庭で飲んでいたので、山の話で声がでかくなり、何時だったか「うるさいぞ!」と近所から声が聞こえた。一同反省して屋内に入ってまた山の話を続けた。翌朝、和田さんは近所の家を一軒一軒全部まわって謝って歩いていた。近所の人で怒っている人はいなかったようだ。この本のあとがきのあいさつが、あの朝の和田さんの姿そのもので、すこしおかしかった。
和田さんてどんな山登ってきたんだろう。なぜ暗くて、危険な山行ばかり続けるのだろう。どうやって職場と折り合いつけて、毎回2週間も厳冬期の剱に行けるんだろう。問いの納得いく快答は無いが、こんな文章があった。
「社会で生きるということは、それなりの役割を果たすということだ。私は、山の負債を山で返そうとしていた。積雪期の剱沢大滝完登は、私を後ろめたく勇気付けた。しかし、人は多分認めない。それが私には心地よかった。なぜ、こんな危険で不快な登山をするのか。雪崩と悪天候、頂上の爽快さもない陰湿な冬の谷底にうごめいて、何が面白いのか。あたりまえの疑問だ。私自身が分からないのだから。」
引用だらけになってしまってキリがないから引用しないけど、174pから176pのアルピニズムについては、同じことを思った。「ビビる山か、そうでないか」。付箋を貼った個所が多すぎて、そんなメモ書きもきりがない。
たくさん載せられている詩は、また何度か読み返すうち意味が変わって理解できると思う。
今月末にある登山家の追悼会で、和田さんと久しぶりにお会いできる予定です。
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コメント一覧
松葉蘭
投稿日時 2014-7-25 15:37
私もここのところ折に触れこの本を手に取ります。(特にヒマラヤの項)
パンツ一丁渡渉のくだりは何度読んでも大笑いしてしまいます。雄叫びをあげるシーンにも共感?します。
ルームでも、同時代的にこの御仁に関心が寄せられていたことが大いに興味を惹きます。私のリアルタイムは既に黒部横断最終回の頃だったので。
ちなみに「冬剱、冬黒部」ではなく「冬剱、雪黒部」ですよ〜。
パンツ一丁渡渉のくだりは何度読んでも大笑いしてしまいます。雄叫びをあげるシーンにも共感?します。
ルームでも、同時代的にこの御仁に関心が寄せられていたことが大いに興味を惹きます。私のリアルタイムは既に黒部横断最終回の頃だったので。
ちなみに「冬剱、冬黒部」ではなく「冬剱、雪黒部」ですよ〜。