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書評・出版・ 2005年6月11日 (土)

書評・ブロードピーク(8047メートル)/米山

image

書評
ブロードピーク(8047メートル)
マルクス・シュムック著、横川文雄訳
1964・朋文堂





2005.6.9
ブロードピークの初登攀記を札幌の古本屋で見つけた。その後の再版は見かけない新書版だ。1957年、未踏の8000m峰はあとこのブロードピークとダウラギリ、GI、シシャパンマだけに残った時分とはいえ、この遠征隊は他と違う。たった四人のハイポーター無しで、8000の未踏峰アタックを成功させている。物量を投入した大遠征隊が常識だった当時としては、信じられないくらい画期的な計画を貫徹していた。1953年のナンガパルバットでは大遠征隊で出かけながら、最終キャンプからの標高差1000m、直線距離6キロを超えるアタックをたった一人で登って帰ってきたあのヘルマン・ブールがメンバーで参加しているのがうなずける。そしてそのブールは、このブロードピークの成功のすぐ後についでに登ったチョゴリザで雪庇を踏み抜いて死んでしまった。

ヘルリコッファーの「ナンガパルバット」にも、ブール自信の書いた「八千米の上と下」にも無い、ブールの人柄がこの本には書いてある。著者で隊長のマルクス・シュムックはその後のヒマラヤ記録に見ないが、ブールはじめメンバー達の生き生きした記述が良い。

ブールと最期の山を共にした最年少隊員だったクルト・ディームベルガーの、その後の長いヒマラヤ人生の、ごく初期の活躍記録でもある。ディームベルガーはこの史上初めての8000m軽装登山を皮切りに、現代に至るまでヒマラヤを登り続けている生き字引だ。

ヘルマン・ブールに別れを告げるくだりで、彼らが歌った「カメラーデンリート」の記述があった。北大山岳部では遭難者追悼の折りに必ず歌う歌だ。他で歌っている話を知るのは初めてだ。この時代のドイツ、オーストリア登山家の間では一般的な習いだったものを山岳部が受け継いだのだろうか。

このようなわけで、今はなき良書出版社の朋文堂がわずか一瞬、新書版でのみ発売した貴重な記録を、古本屋で、たった千円で手に入れられて幸運だった。
  • コメント (1)

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さわがき   投稿日時 2005-6-15 9:00
カメラーデンは日本で言えば「同期の桜」,軍歌です.当時のドイツ・オーストリアの登山隊が軍組織の延長上にあったかその流れを引き継いでいたため,カメラーデンが歌われていた可能性もあります.ただ,ルームが歌うようになったのが,ドイツ軍の直接の影響なのか,登山隊を経由してのことなのかはよく分かりませんね.古いOBに聞いてみるといいかも.

今のドイツで,知ったかぶりして「カメラーデン」を歌うと「軍国主義」と勘違いされてヒンシュクを買います.

ちなみに,映画「眼下の敵」のラストシーンは「カメラーデン」の曲で終わります.
 
 
 
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