ブロンズ像 ”直行さん“(レプリカ)
峯 孝 1956年作高さ24?(台座8?含む)
坂本家より寄贈された彫刻家峯孝作の頭部ブロンズ像“直行さん”(レプリカ)は高さ24?の小品である。
「坂本直行作品集『坂本直行』」(京都書院 昭和62年刊)に掲載されている彫刻家本人のブロンズ像制作のいきさつ、また直行の岳友で義弟でもある朝比奈英三の画家直行について述べた記事を以下に転載する。
直行さんと私
峯 孝
直行さんの没後五年を機に画集が出版されますとの事、万に達する作品群の中から選び出す作は大変と思いますが、立派な画集がきっと出来ると期待しております。
私は氏が愛された山や野草についての体験や知識は殆どなく、随って氏と共に山に登ったという事もありません。自分の好きな道に現を抜かすという云う共通した接点があった為に何とはなしに三十年に近いおつき合いが出来たと思っています。
下野塚の山小屋に直行さんは開拓する為に入ったという事ですが、むしろ原野や山の美に魅せられ山に登り自然を描く為に入植された様に私には思えました。原野や山の夥しいスケッチや日高山脈を始め北海道の山々を歩き廻っての素晴らしい水彩画は、とても片手間に出来る業ではなく、開拓がおろそかになる事も無理からぬ事と思いました。此の南十勝の下野塚を初めて訪問したのは、昭和三十一年五月私が未だ四十三歳、坂本氏が五十歳頃だと思います。豊似の駅で下車、街の集乳所で坂本氏のファンらしき青年のお蔭で自転車を借りて山小屋めざし原野に入りました。残雪と未だ落ちない柏の葉が、赤く太陽に映えて紺碧の空をバックに、恐ろしい程静かだった瞬時の五月の原野の風景が、三十年を経た今も鮮明に浮かんで来て、氏の「原野から見た山」に収められている”原野の歌”を想い出します。其の頃の直行さんは厳しい生活の為か頬の肉は落ち、いささか疲れ気味の様子でしたが、ギョロリとした鋭い眼には人を寄せつけない精悍な気迫がありました。此の第一回の訪問で、私は思わぬ収穫を得ることになりました。あの夥しい量の見事な野草のスケッチ、稜線が明快で広い空間をもつ山野の水彩画を初めて拝見してすっかり感激しました。其の夜はランプのもと、温い囲炉裏の端で、奥さん手造りの蕎麦掻きのご馳走を頂きながら、ポケットウイスキーを汲み交わす仲となって、二日が三日となり、遂にリュックの中に用意していた粘土で直行さんの首の小品を三時間位要して強引に仕上げました。今思えば頑固な直行さんが、よくも黙っておとなしく坐って下さったものと恐縮しております。此の像は私にとっても家族の方にとりましても記念すべきものになったと思います。再びそんな機会はありませんでしたし、あの頃の直行さんの厳しい風貌は私にとって忘れ難いものです。其の後下野塚の開拓地を離れて、豊似の街に出られ、次いで札幌に新しいアトリエが出来たので早速に訪問しましたが、我がアトリエと比ぶべくも無いデーンとでかく洒落た近代建築に二度びっくり、其の気宇壮大でスケールの大きいところは、流石に坂本龍馬の末裔だけの事はあると同行の市岡君と感歎したものです。其の後も画題を得る為に遠くヒマラヤやカナダ迄足を延される等、其の健康と体力に氏の早急な死など考えたこともありませんでした。
私が小柄で軽いので「峯さん、リュックの上にのせて山に登りますか」と笑っておられた直行さん、今頃は黄泉の国の山々を、スケッチブックで一杯になった重いリュックを担いで相変わらず好きなだけ描き続けておられることでしょう。
(彫刻家 元武蔵野美術大学教授)
画かきになった直行さん
朝比奈英三
私が初めて下野塚の坂本牧場を訪れたのは、昭和十五年の十月も半ばを過ぎたよく晴れた日の午後であった。乾いた葉がカラカラと鳴っている柏林の中をバラ線の牧柵に沿ってゆくと、ぽっかり開けた草地に、三間に四間位の掘立て小屋があり、それが直行さんの家族、夫婦と幼児二人、の住居であった。二、三十間はなれて三頭の牛と一頭の馬の納まる牧舎があった。
入植してから五年目の牧場は、直行夫妻の血のにじむような努力にもかかわらず、南十勝の厳しい自然の前に、その経営は遅々として進まず、この時は丹精のサイロがやっとブロックを積み終えて最後の屋根葺きにかかったところであった。
その翌年の九月末、私は再び牧場を訪れた。ちょうど帯広の病院に入院していた三男の宏君が、やっと牧場に帰ってきたところで、竹行李の中で日向ボッコをしている幼い宏君をじっと見守っている若い直行夫婦の写真が私のアルバムに残っている。
この牧場のある東北海道の太平洋は、毎年六月下旬から八月半ばにかけて冷たい濃い海霧が襲ってくる宿命の場所である。この悪条件を充分覚悟して入植した直行さんではあったが、この二、三年の異常な大雪、大雨、再三の家畜の死といった災難続きで、愛児の病気を治すためには何より大切な牛まで売らねばならないような生活であった。
しかしこのような苦しい暮らしの中で、直行さんの画筆への情熱は少しも衰えなかった。学生時代はほとんど山ばかり描いていたのが、十勝に移ってからは、柏林を前景にした日高山脈の遠望は当然のことながら、大木の立枯れ、柏の切株といった原野の風物が画題を豊富にしていった。原野に入った当初、紋別の野崎牧場時代には、農事の合い間に山を描いていたようだが、昭和十年以降の開拓時代には、画筆を撮る暇もない多忙の年が続いていた。この苦しいくらしを見てきた学生時代の仲間が、いくらかは生活の資になるだろうと、札幌や東京でささやかな個展を開いたこともあった。多分この頃入手したらしい原野の白樺の油絵が一枚、私の部屋にもかかっている。署名もまだマル直ではなく、N. SAKAMOTOで、粗末な木版に描かれている。後年の作品の様な華やかな色彩はないが、いかにも開拓の苦労が伝わってくるような力強い作品である。
昭和二十七年には北大理学部の会議室を借りて「坂本直行山岳画小品展」というのを開いた。油絵が二十五点、水彩が十一点、いづれも色紙版で、価格も一点二千円以下であった。
本格的な個展は、昭和三十二年の三月に札幌大丸ギャラリーで開いた「坂本直行スケッチ展」が最初のものである。この時の目録に、「・・・開拓生活をつづけておりますため、思うように登ったり描いたりできず、きわめて稚拙な作品ではありますが・・・」とあるのは当時の直行さんのいつわらざる心境であろう。
この個展に至るまでに直行さんの心の葛藤は並々ならぬものがあったと思われる。大勢の家族をかかえて画筆一本の生業に充分な自信がなかったばかりでなく、ここで転向することは、二十余年にわたる開拓者としての生活に敗北したことを自認することでもあった。それまで困苦の中から、ほこり高い酪農の生活をようやく築いてきた彼にとっては、苦汁に満ちた選択であったに違いない。
ところで、この個展の成績は、初日こそいささか心許ないものであったが、二日目からどっと入場者が増え、結果は本人の予想をはるかに上まわり、五日間の会期中に、三十七点の出品作のなかで最大の十二号の油絵を含む十三点が売れ、終了直後にまた八点も売れた。
この第一回個展の大成功は直行さんの画家への転進を決定的にした。この以後は個展の開催も加速度的に増え、毎年の札幌の他に、東京、仙台、帯広、旭川など各地で開かれるようになった。回を重ねるにつれ直行さんの画家としての評価も高まり、初めはほとんど岳友、知己のみが顧客であった会場には、一般の愛好者が多数訪れ、もはや「開拓農家」という肩書きは不用になっていった。
このように直行さんが画かきになってからは、非常に順調に歩むことのできた最大の理由は、開拓時代から現在におよぶ実に多くのバラエティーに富む友人知己の変わらぬ協力と援助であったといっても過言ではない。また画についていえば、長年の十勝原野の生活に培われた、自然を友として暮らす心が、きわめて素直な形で画の中に生かされていたからに他ならない、彼が描く山々、特に北海道の山のほとんどは、親しい友との苦しくも楽しかった過ぎし日の山行の場であり、その尾根、その沢にひそむ限りない愛着が、あのように生き生きとした山々の姿を再現させてくれたのであろう。
(北海道大学名誉教授)
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坂本直行の遺品 |
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