58 雪に生きる 猪谷六合雄(いがやくにお)/1943/羽田書店/508頁
猪谷六合雄(1890-1986) スキー指導者
群馬県赤城山の旅館の長男として生れる。小学生の頃、大沼でスケートを始め、中学に入ると油絵に熱中した。1914(大正3)年の正月、24歳の時にスキーを始める。スキー、ストック、靴、衣類、なんでも自分で作った。大正末期からジャンプに専念、次々とジャンプ台を自力で構築し、1928(昭和3)年には5つ目、50m級の大台を完成させた。翌1929年2月、この台を使って赤城ジャンプ大会が開かれ、折からスキー使節として来日中のヘルセット中尉らノルウェーの選手達(註1)が参加して50m超を飛躍、猪谷も46mを飛んだ。この大会の成功は、日本のスキー史の1頁を飾るものである。
この年、赤城山を離れて北海道から国後島へ渡り、1935年までの6年間を過ごす。その後、赤城山、乗鞍、志賀高原、八甲田山など、スキー環境に恵まれた土地を求めて、転々と居を変える。家族でスキー技術、用具の研究をするほか、独自のシステムで息子千春の英才教育を行い、オリンピックで活躍させた。千春は1952年、オスロ(ノルウェー)オリンピック大会で11位、1956年、コルティナ・ダンペッツォ(イタリア)大会では男子回転で2位に入賞、銀メダルを獲得した。この大会でトニー・ザイラーは、回転、大回転、滑降の3部門で金メダルを獲得した。,br> 1951(昭和26)年、志賀高原にパラレルスキー学校(プロスキー学校)を開設する。1969(昭和44)年、80歳でイタリヤ・ステレフセルヨッホで3000mの大滑降を敢行する。
内容
赤城山でのスキー修行、そして国後から日本各地へと雪を求めての放浪生活を綴った異色の人生記録である。 赤城大沼湖畔で旅館を営む家に生れたが、狭い山中に納まりきれずに妻の定と故郷を出る。北海道から国後島に渡り、6年間を過ごし、千春、千夏の二人の父となる。千春が長ずるに及んで、息子にスキーの夢を託し、英才教育に打ち込む。 小屋を大工の手を借りずにすべて自分で造り、藪を払い、岩を割って家族だけでゲレンデを作り、回転技術の研究、練習を行なった。
国後島へ渡る前、小樽に立ち寄り、秋野さん(註2)とベートーベンのレコードと蓄音機を背負ってヘルヴェチア・ヒュッテを訪ね、小屋生活を楽しんだ。
「しかしその御蔭で小屋では楽しかった。代わる代わる当番となって、昼も夜もかけて聴いた。私はその後もミサを聞くとヘルヴェチアを思い出した。この小屋は実によく設計されていた。北大の先生をしていたスイス人が作ったと言う話だったが、わずか七坪半の程の小さい面積なのに驚くべき収容力を持っていた。それでいて中々居心地も良かった。一方の屋根裏みたいな高い所のベッドを指して、あそこに、秩父宮さまが一晩お休みになったことがある、と秋野さんが話していた。小屋の周りの白樺の林も実にきれいだった。裏を流れてる小川の水は未だ冷たかったが、それで身体を拭いたりした。」
3泊の後、羆に出会ったときの闘い方などを話しながら、定山渓に下った。ヘルヴェチア・ヒュッテの宿泊者名簿には、6月12日―15日に秋野武夫、猪谷六合雄、定の署名が残っている。
(註1)ノルウェーのスキー使節“札幌に冬季オリンピック用のジャンプ台を”、と言う秩父宮殿下の意向を受けた大蔵喜八郎男爵の寄附で、1932(昭和7)年、大倉山にジャンプ台が完成した。このジャンプ台の場所選定と設計は、大倉男爵の招きで1929(昭和4)年に来日したヘルセット中尉らによって行なわれた。(註2)秋野さん秋野武夫、小樽出身、ジャンプ選手。1936年第4回冬季オリンピック・ガルミッシュ・パルテンキルヘンにジャンプのトレーナーとして参加した。
山岳館所有の関連蔵書
私達のスキー/猪谷六合雄/1948/羽田書店
山なみ/朝比奈菊雄ほか/1955/茗渓堂
パラレルへの近道/猪谷六合雄・千春/1959/日刊スポーツ新聞社
大野精七の歩み/1981/大野精七先生伝記編集委員会
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氷河の山旅/田中薫/1943 |