書評・出版・
2015年6月11日 (木)

オオカミが日本を救う!
丸山直樹 2014.1白水社
「日本は100年間、頂点捕食者を欠き続けて来た。これから人口減少する日本で、ヒトにはオオカミの代わりは務まらない。」
先週、日本オオカミ協会主催で、シンポジウムがありました。オオカミ復活先進地のアメリカ、ドイツからの報告者を招いて、各地でイベントがありました。残念ながら直接関われませんでしたが、オオカミ放獣に興味を持ち、日本オオカミ協会代表の本を読んでみました。明治中期、ヒトによる組織的な駆除によって滅ぼされたオオカミ。日本の生態系の頂点にいたオオカミを、もういちど日本の山に放つ可能性を語る書です。
オオカミ放獣が一見、荒唐無稽に聞こえるとしたら、それはオオカミに対する大きな偏見に自分が嵌っていることを知るチャンスだと思います。「オオカミはヒトを襲うというのは偏見である」という命題を、近代欧米の事例からあるいは、明治期にいかに政策的にオオカミを駆除し追いやるための濡れ衣として作られた話であるかを、当時の公文書を丹念に調べ、イザベラバードや南方熊楠の事例を挙げ、また現代欧米のオオカミ復活先進地のデータを示し論証します。オオカミを恐ろしいものと思い、拒否反応を示すことを「赤ずきんちゃん症候群」と述べ、著者に寄れば、オオカミ放獣を提唱し始めた20年前から、それが一番の大敵だったとあります。
そして、増えすぎたシカの数を減らすためにオオカミを放獣する、という、人間の都合としての動機にも一言書いています。ヒトの都合で滅ぼしておいて、またヒトの都合で放獣する。未来放獣することがもしあるならば、それは獣害対策という恥知らずな理由ではなく、ヒトの都合で滅ぼしてしまったオオカミと、日本の山に対する償いが動機でなければならないと云う点に、はっとしました。ここのところに一番共感しました。
北米イェロウストン国立公園では1927年にオオカミを駆除してしまいました。その後増えすぎたエルクによる害で生態系が長い時間をかけ蝕まれ、1995年放獣したオオカミによって十数年かけて回復してきた事例をあげています。90年代から合わせて3回訪問するたび、日本の鹿のようにどこにでもいた巨大なエルクがオオカミの放獣後15年後には適正な数になっていたと言います。オオカミが存在するだけでエルクのストレスが高まり、妊娠率も下がる効果に関する論文も紹介されています。
以下に代表的な反論三つとその答えを簡単に挙げます。
?オオカミはヒトを襲う?
→頂点捕食者のオオカミは、鹿が数を減らせば自然に数を減らすもの。人を襲う事例の数は例外的で、ほとんどが狂犬病によるものと見られる。明治以前の公文書にはオオカミは臆病であるとあり、オオカミが凶暴な生き物であるという印象は蛮獣視し絶滅政策をとっててきた偏見によるものが大きい。日本で鹿が数を増したのは、オオカミが消えて以降盛んだった狩猟圧が1980年代以降に減り、その影響である。
?オオカミは家畜を襲う?
オオカミは家畜を襲う。但し日本よりはるかに畜産の盛んな欧州での対策と現実例を紹介。日本の現実から見て、シカ害の環境破壊の深刻さと、ほとんど起きない小規模で数少ない放牧畜産の害とのバランスの問題。欧州のさまざまな対策が面白いです。
?外来種であり生態系の破壊では?
日本で絶滅したオオカミと、現在モンゴル、中国に居るオオカミとの種としての違いは亜種レベルである。頂点捕食者を欠いた不正常な状態を元に戻すことが最も簡単な環境保全方法である。
オオカミ放獣に必要な面積を最低五万ヘクタールとし、ヤクシカ、エゾシカの増えすぎた屋久島、知床半島での可能性について書いています。このあたりの生物群の野外調査を踏まえたシミュレーションもおもしろく読みました。例えば北海道で、どのくらいの地域でオオカミが暮らせるのかを調べるのに、携帯電話の受信不能マップが(2011年時点では)便利、という話もありました。それから5000万ヘクタールをはじき出し、およそ1000頭となります。
沖縄でハブ駆除のためのマングース放獣の失敗事例との比較もおもしろいです。頂点捕食者であるハブ補殺のため天敵でもないマングースを放った無分別な時代が、オオカミを絶滅させた時代と同じなんですね。
鹿のみならず猿害、イノシシ害、カモシカ減少の抑制に関するオオカミ効果の考察もあります。ジビエ解決法の限界もよくわかりました。獣害対策と地域おこしを抱き合わせても駄目というものでした。
オオカミ放獣が、人間の都合のためだけでない点が非常に重要なことだと思います。
オオカミを放つ」は2007年版、「オオカミが日本を救う!」は2014年の改訂、発展版とのことです。
書評・出版・
2015年6月3日 (水)

ダーチャと日本の強制収容所
未来社 望月紀子
2015.3月
1940年、北大山岳部の冬季ペテガリ岳遠征隊の雪崩遭難事故の際、娘ダーチャの発熱のため入山を遅らせ、遭難直後のBCを訪れた、イタリア人留学生フォスコ・マライーニ氏はアイヌ民俗学研究者として妻、娘と遠路日本に来ていた。戦後は民俗学研究者、写真家、それに登山家として多彩な才能を開き、1960年ガッシャブルム4峰の遠征隊にも参加している。だが戦争末期1943年、単独講和を結んで連合国になった祖国イタリア。一家は反ファシズム側を表明したため、日本の特高に逮捕され名古屋の敵国人強制収容所に繋がれた。その当時のことを、マライーニ、妻のトパーツィア、そして作家になったダーチャのその後の著書や手記などから丹念に追った本。著者はダーチャ・マライーニの作品の翻訳家。
この一家はそれぞれ多くの著書を残しているので、既に明らかにされていることは多いが、マライーニ氏と妻がファシストの父と反目して、本国イタリアのファシズムから逃れて日本への留学を選んだいきさつなど初めて知った。
一家が長い船旅で神戸に着き、札幌へ移動する途上、東京で出征兵士を見送る場面に出くわし、100名ほどの見送りの若者が大騒ぎをして大声で歌い万歳三唱しているのを見て「恐怖を感じなかったと言えば嘘になる。それまで観察した日本人は極端なまでに自制的だったが、この若者たちは明らかに御しがたい暴力に支配されていた。数カ月まえに南京虐殺の記事をアメリカやイギリスの雑誌で読んだときは、大げさなプロパガンダだと思ったが、ふと、事実だろうと思った。」p51)と日記に書いている。時代に身を置いて得た直感を書いている。この時代の人たちはみな、居なくなってしまったが、親日家のマライーニが直感したむきだしの暴力性は異邦人ならではの客観性があったと思う。
以前にも触れた、スパイ冤罪で逮捕された北大生、宮沢弘幸氏のいきさつもある。開戦初日1941年12月8日には、同じ手口で全国で396名も逮捕されたとある。開戦キャンペーンであり、今も変わらない公安機関の特別取締と同じような官僚の仕事ぶりだ。宮沢氏は、マライーニ家や、同じく逮捕された米国人教師レーン夫妻と親交を深めていて、それだけで特高に目をつけられてしまったのだった。
https://aach.ees.0g0.jp/xc/modules/AACHBlog/details.php?bid=699札幌での留学期間を終えても、戦争で帰国のめどが立たない。京都大学の講師の職を偶然得て、マライーニ一家は京都へ引っ越す。その後日米開戦。1943年9月8日イタリアではムソリーニが失脚し連合軍と単独休戦協定。北部は忽ちドイツ軍に占領され、ムソリーニがドイツに救出され4日後ナチス傀儡のサロー政権が生まれる。日本と同盟を結ぶこの政権への忠誠を、マライーニ夫妻はそれぞれ別々に尋問され二人とも拒否した。拒否したものは強制収容所に送られる。イタリア降伏後、情報がほとんどない中で、在日イタリア人の間で空気は豹変したという。疑心暗鬼になり、大使館はナチ式の敬礼をした。
「1943年の時点で日本が降伏していれば日本人の戦災死者310万人のほとんどは死なずに済んだ」と、今の私は知っている。イタリアはこの時点で降伏しており、以前は少し羨ましく思っていた。しかし現実は、ドイツ占領下のフランスやオーストリアと隣接していたために、あっという間にナチスに侵攻され、その後のイタリアはファシストとパルチザンが国を二分する内戦になっていたのだった。こちらも過酷だ。だが、そこが無謀な戦いをズルズル続けて、国としての主権も含めて何もかも失った(今もまだない)日本と決定的に違う。戦後70年辿った敗戦後史の行方も含めて。
マライーニ一家と60名ほどの宣誓拒否者の強制収容所は愛知県天白村の松坂屋デパートの社員保養所「天白寮」を接収して改造した施設だった。約2年間。今なら2年とわかるがその時は何年続くかわからない、特高警察監視の厳しい収容所で、食糧が減らされ、マライーニ一家は幼い娘姉妹3人ともども飢えに飢えた。特高は差し入れのパンを渡さず、地面に埋め人糞をかけておいた、それを掘り出して食べたという。子供も含めた収容者に対する念入りないじめが詳しく書かれている。そこまで居丈高な特高が敗戦の日を境に卑屈な態度に豹変したことも。
日本を愛するあまり、戦後の著書でのF.マライーニの記述は、「収容所時代を「」で括って書いている」という。父、フォスコばかりではなくその後作家になったダーチャでさえ、日本での収容所体験を、まだ書けていないという。
ダーチャ・マライーニは20以上の小説はじめ詩篇などを書き、現在イタリアでもっとも多くの外国語にその著作を訳され、度々ノーベル賞候補に挙がる作家だ。ダーチャの作品のテーマ、「牢獄からの解放」は日本での7歳から9歳を過ごした強制収容所時代の体験の影響が強いことは間違いない。ダーチャは、記憶を容易に文章にできず、ずっと先送りにし続けているが、いつか必ず文章にすると書いていた。
http://www.miraisha.co.jp/np/isbn/9784624601188
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書評・出版・
2015年1月16日 (金)

1981年の山と渓谷、北大山岳部の紹介記事が出て来ました。同期入部のGGが大事に持っていました。私もGGも81年はイナカの高校2年生です。この記事を見て北大を目指したのだろうかな?
記事を書いているのはスエタケさん(1978年入部)、撮影は山スキーOBの阿部さんです。山中の写真のコジキジャンバーやコジキオーバーズボンはそのまま数年後も継承していました。センパイのストックの竹製輪っかも秀岳荘です。アイゼン練習は旧Zでしょうか。タニの赤いアイゼンのようです。

部室の小汚い風景が、ストロボの光で現実以上に鮮明で報道写真的な例会の写真です。1970年代末に部室がこの場所に移動してから、今も同じところで同じ営みが続いています(多分)。冬合宿の食事写真では直径18センチのアルミのボウル二つを食器にしているところをスッパ抜かれています。1980年12月末の十勝岳白銀荘の冬合宿の撮影ということでしょう。木造時代の恵迪寮(1983年3月取り壊し)で、北海道型キスリングの日高ザックに裸足でパッキングしているチンネンさん。この木造恵迪寮、受験の時に泊めてもらって飲ましてもらいました。

一年目部員のコジキ服のお尻のツギ写真も紹介して、輝く笑顔の新人だったフジワラさんの姿もあります。昔の桑園駅のホームも懐かし。スエタケさんの文章も、北大山岳部の環境と、継承したものと精神世界を余さず伝えています。
衣類は若干こぎれいになっていますが、基本的に現在も34年前と変わらぬ営みのようです。
書評・出版・
2014年12月7日 (日)

アルピニズムと死
山野井泰史 2014.11
山野井泰史の、「垂直の記憶」以来10年ぶりの本。山野井泰史のことは前の一冊で満腹すぎるほどよく読む事ができました。高校時代からまっすぐにやりたい事を求め、そのための道を進んで来た彼の思う事が、簡潔乍ら誠実な文章で凄く伝わりました。前回はギャチュンカンの生還の少し後に書いたもので、今回は指も無くして握力も体力も無一文になった彼が、また垂直のアルパイン界に戻ってくるこの10年間を書いています。
この本のひとつのテーマは、何故これまで彼は死なずに生き残って来られたのか?という事です。もちろんそんな事は分からないけれど、彼が凄い想像家だというのが強く印象に残りました。
まるで予言者か催眠術師のように、自分の山行のシーンをすべて「言いきり文体」で並べています。
「長いトレッキングの果てにたどり着いた寒々しいベースキャンプ。体調を崩しているが、強い気持ちを維持している」
「悪名高きクレバスだらけのガッシャブルム氷河。確保してくれる人は誰もいない。怪しいルートは決して選ばない。それでも落ちた時の事を考え、両手にアクスを握りながら歩く」
「5700m付近から、ピラミッドのようなガッシャブルムIV峰が見えてくる。緊張のあまり心拍数が上がるが、しっかりと目標の東壁のコンディションを見極めている」
「氷河上のキャンプでは時間はかかるが面倒がらずに水を作り、お茶をたくさん飲む」
「テントから頭を出すと、北から雲が流れているのが見える。この冒険を精一杯楽しもうと決意する」
「暗い時間からアタック。強い孤独感は無くなったが、不安からか、まだ完全には集中しきれていない」
「ハーネスにカラビナとロックピトンは装着するが、動きの邪魔になる細いロープはザックに入れたまま東壁に入って行く」
「黄色の大理石の岩はロックピトンを受けつけないほど硬い箇所が多い。黒い崩れ易い岩が突然現われ、5級の難しさが続くが、冷静にアイゼンの前爪を使って踏み込んで行く」
「登りながら下山予定の北東稜の形状を記憶する」
「核心部と思われる7000mで雲の流れをもう一度見る。再び登攀に集中を戻す」
出かける前に自宅の畳の上で赤毛のアンみたいに想像するそうです。
順調に進んでいない時の事ももちろんたくさん想像するのです。想像しすぎて出発の前夜眠れないことも想像してあるそうです。
ネットも携帯もやらずゆっくり調べて、忙しくない暮らしの中で想像して、山を準備し自分の方法で向き合う姿です。
そして山に入ったら研ぎすました五感ですべての気配を受け止め、判断するよろこびを満喫しています。
表題の「アルピニズム」と「死」それぞれに簡潔な言葉があります。楽しいだけの山登り、絶対安全な山登りに対して。
山野井泰史の歴史と存在は特別なものだけど、言っていることにはすべて共感しています。人生をこれだけ垂直アルピニズムに捧げて、生き残っている登山家が同時代同世代にいて、誇らしい気持ちになります。山好きの読者は、自分とは比べ物にならない人生だとは思いながらも、強く憧れる登山家の姿ではないかなと思う。
前回書評↓
https://aach.ees.0g0.jp/xc/modules/AACHBlog/details.php?bid=102
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書評・出版・
2014年11月26日 (水)

日本山岳会の年報、「山岳 2014年 第109年」に安間荘会員(1955年入部)が載せた論文を紹介します。安間さんは長く富士山の地質、積雪防災関連の調査に当たる仕事をしています。「スラッシュ雪崩」という聞きなれない雪崩現象があり、1972年3月20日に24人が亡くなった大規模遭難の際、このスラッシュが起きていた可能性を指摘し、遭難当事者や生還者に聞き取り取材をした上でまとめた力作です。
特殊な雪崩なだけにあまり知られておらず、当時の遭難も登山者の未熟のせいにされた節があり、十分な総括と反省対策がなされていません。40年前は、たまたま登山者が多く大事故になりましたが、その後も毎年起こっている可能性はあります。無知のままならば今後も死亡事故が起こるかもしれません。以下にその概要を抜粋します。
≪スラッシュ雪崩≫
初冬や春先、積雪の時期に気温の高い南風で雨が降り、積雪層の下、氷面の上に大量の水分がたまり、ずぶずぶの氷水の状態になる。ラッセル歩行すれば下半身が氷水漬けになり、低体温化し、疲労凍死の危険が高まる。不安定な層になるから雪崩の危険も高い。そのデブリは氷水とシャーベット状で速度もあり埋没は致命的。
古来富士山麓で時折発生した「雪代(ゆきしろ)」という災害はこのスラッシュ雪崩とそれによる土石流災害であることが近年の研究で明らかになってきた。
生還者の話によれば「積雪層の下底部に轟々と水が流れ、斜面下部の雪崩の通った谷状地に滝を作って激しく濁流が流れ、渡るのが困難だった」というほどになる。
≪1972年3月20日の遭難≫
富士山の過去の遭難で10人以上の死傷者があったのは4件、うち二回は吉田大沢の11月の新雪表層雪崩で、3月はこの一件のみ。
南岸を通る速度の速い低気圧の暴風雪のため、20日下山途中、低体温症で24人亡くなった。静岡頂山岳会7人、清水労山11人、平塚登高会3人、平塚日産車体山岳会2人、個人山行者1人。遭難パーティーと同行しながら生還した人5人だけ。
清水労山パーティー
御殿場ルートの六合(2750m)でテント泊したがミゾレ交じりの暴風雪で早朝六合目避難小屋に移り、午前10時、そこから普通なら2~3時間で下れるはずの太郎坊駐車場目指して下った。が1時間もしないうち意識障害を起こし次々倒れた。何人かがスラッシュ雪崩に浚われ先頭のリーダーのみが奇跡的に生還した。
静岡頂山岳会パーティー
宝永山肩(2700m)にテント泊していたが朝9時半、暴風雪で撤収し下山。4合目付近で次々倒れデブリにものまれ、二人がかろうじて下山、捜索を呼ぶ。
≪その伝えられ方≫
当時は雪のスラッシュ化そのものの認識が、登山者にも砂防関係者にも社会にもマスコミにもなく、報道では「甘く見た結果」というようなもので終わった。死者にも生還者にも辛いものとなった。その後ここに計画されていたスキー場建設にも水を差すとされた。(ここにその後できたスキー場は、スラッシュ雪崩による損壊で、その後閉鎖されている)。
富士山におけるスラッシュ(融雪)雪崩と
積雪のスラッシュ化に起因する山岳遭難事故
ー富士山に特徴的な雪氷気象と遭難の特異性ー
安間 荘
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書評・出版・
2014年9月18日 (木)

甲府に住むようになって、北岳バットレスの直登ライン、第4尾根が気になり始めた。沼田の清野センパイを呼んで、歴史解説付きで取りついた。1930年代のバットレス第1尾根〜5尾根初登攀時代、そしてその積雪期初登に執念を燃やした東京商科大(一橋大)の小谷部全助の物語を話題にした。
小谷部の最後は敗戦の年の暮れ、肺結核で富士見のサナトリウム。見舞いに訪れたザイルパートナー森川眞三郎も肺結核のためそこで絶命、それをみて数時間後に後を追うように息絶えたという話。この頃の八ヶ岳山麓サナトリウムと言えば、風立ちぬはじめ数々の名作に出てくるあそこです。

数年前原真さんが亡くなったとき、形見分けにどうぞ、と、奥さまに書棚の本をいただいた。原さんの書棚は別に書庫があるほど膨大だが、たまたまその頃手元に置いていた中から、この一冊をいただいた。
その巻頭の、バットレス登攀にかけた小谷部のことばを引用する。
「南アルプスの巨魅、北嶽の東面には知る人も稀な素晴らしい大岩壁が天空を制して居る。多くの困難なるヴアリエーシヨンルートが次ゝと開拓され盡くした昨今、嚴冬の裝い嚴めしい此の壁のみは、喧噪の登山界から恰も取り殘されたかの如く、太古の靜寂の裡に久遠の雪煙をなびかせて居たのであつた。

或るものはかかる立派な岩壁の幾つかが、尚未登の儘殘されて居たのを知つてか知らずか、早くもヴアリエーシヨンルートに見切りをつけて夲邦登山界の行き詰まりを論じ、遠征熱に浮かされて居る。確かに夲邦山嶽に於けるヴアリエーシヨンルートは行き詰まりに近く、主要な箇所に於て最早容易に初登攀の望めなくなつた事は認めざるを得ない。そして今期に於る吾ゝの登攀が所謂行詰りへの道を、更に一歩進めた事も肯く事が出來る。然し乍ら行詰まりと言ふ事は、山嶽界と言ふ樣な大きな觀點から眺めた場合に初めて通用するもので、之を個別的に解し、若い吾ゝが激しい登攀への精進を怠り、遠征の名に陰れて安逸を貪る如き卑怯な態度をとらぬ樣注意すべきである。即ち先輩乃至は他の團體が既に登つたからと云つて、その爲に直ちに爾餘の者の登攀能力がそれ以上に進むと言ふ樣な事は考へられない。」
小谷部率いる山岳部は、1935年12月、第五、第三尾根の厳冬期初登、1937年1月第一尾根、第4尾根の厳冬期初登を果たした。ベースキャンプは池山吊尾根の・2950(このころは八本歯の頭とは呼ばれていなかったようだ)。ちなみにBCは根拠地。
このバットレスが未踏だった時代、芦安から夜叉神峠を越えて荷を運び、池山尾根を登って12月24日から1月10日まで。楽しかったろうなあ!若くして病死して、無念だったろうなあ。
この連休の第4尾根登攀記です。混んでいたけど良いルートでした。
http://www.yamareco.com/modules/yamareco/detail-510390.html
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書評・出版・
2014年9月10日 (水)

北大の片隅にあった柔道場で、僕らと同時代に続いていた、柔道部の熾烈な青春記。山岳部の青春と比べ乍ら読んだ。よく、死のリスクがあるのに何故山に登るのか問われるが、もちろんある意味で楽しいからである。でも、高専柔道の練習は「楽しくない」と言い切る。全然違う。恵迪寮で高らかに笑っていた飯田さん、花村さん、こんな稽古をしていたんだ!俺、知らなかったです。
北大含めた全国の旧七帝国大学では、戦前から続く寝技中心の高専柔道という過酷な柔道が継承されていた。才能や体格に左右される立ち技ではなく、練習量だけが勝敗を決める寝技中心の柔道だ。そもそも立ち技で投げ飛ばしても、経験者どうしなら受け身を取って反撃するから、絞め技で気絶させるか関節技で腕を折るかしなければ実戦の武術とは言えない。なるほど。主流派の講道館ルールと違うからオリンピックに出られるわけでもなく、勝敗結果が新聞にでるわけでもない。毎年、七帝戦で勝つためだけに苦しい稽古を続ける。練習量だけが勝敗を分けるということは、残酷で、逃げ場がないということだ。
試合シーン読めば無意識に歯ぎしりだ、寝技シーンは読んでいるだけで耳がギョウザになりそうだ!ファイトのシーンはたいへん読ませる。
増田青年が過ごす昭和61年の札幌北区のお店の記憶がよみがえった。梅ジャンのまさもと、宝来、みねちゃん、屯田、札幌会館、カネサビル、深マン、女子寮乱入。ラグビー部の木村、応援団瀧波、統計の山元先生、懐かしい。
20歳前後の青年は一年間で体も心も凄く成長する。その様が描かれている。報われない青春かもしれない。4年間守りに徹する(カメ)の稽古だけをする者も居る。レギュラーになれないのに4年間稽古をやめず続ける人への敬意がある。それから、センパイ達、柔道部の先達達への敬意と憧れだ。男が男にぐっと来る瞬間が捉えられている。それに男達が本当によく泣く。これにはもらい泣きだ。こちらは梶原一騎モノ漫画で育った世代なのだ。
「七帝柔道」をカチャカチャやって少し調べてみると、この時代は七帝戦史でも京大東北大が連戦引き分けの珍しい二年間で、長い歴史の中でも北大がどん底の時代だったのだ。増田青年たちがどん底の青春を戦いそして歴史は続いて行った。今年の夏もやっていたのだ。
「勝ちたいのう」
「一本でも多く乱取りしたほうが勝つんで」
和泉さんの台詞が心に残った。
大学は、とことん何かに打ち込み、研究の方法を身につけていく場だ。それが柔道を通した猛稽古でも良いと思う。遠い昔から先輩によって受け継がれた尊いものを後世に伝えて行く。山岳部もそこは同じなんだ。それが果たせれば大学にいた意味があると思う。この年頃に一生懸命身に付けたものの大きさは、後になるほどわかる。
山岳部は年間100日近く山に行った。未熟なことをやって滝壺で溺れたり、滝で落ちて死んだり、雪崩で埋まって死んだりの事故が時々あった。だから計画の検討を部員皆で毎晩延々やった。山に行かない日はこればかりだった。身体的鍛練では無いけれど、これをやった共通の体験が、何十年も違うOBとの一体感を作っているという点が同じだと思った。
大学がどれだけグローバル化とかなんとか変わろうとしても、変わってはいけないものは変わってはいけないと思う。
七帝柔道記
2013/3
増田 俊也
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書評・出版・
2014年7月24日 (木)

ナンガパルバットに三度、全部別の難ルートから挑んで全部山頂目前敗退、冬剱、冬黒部横断の山行40回。こんな無茶で一辺倒な志向で押し通してきて生き残っている。みな、唯一無二の登山家として認識してる。とうとう和田さんの山人生自伝が出版されてしまった。そして恐る恐る読んでしまった。
和田さんは学生の頃からあこがれの登山家だ。当時の「岩と雪」に、冬黒部横断の山行を「学生山岳部員こそ挑め」と書いていた記事を覚えている。冬の黒部川をパンツ一枚で渡渉するその記事を、じじい(同期高橋君)がやや興奮して話題にしていたのが僕にとって一番古い記憶。そのころ、1987年は、和田さんにとって転機になった年だったのだと、この本を読んで知った。
はじめの剱沢大滝探検行の下りで流れた1970年の「夜明けのスキャット」が、全篇通じて読書脳の片隅で鳴り続けていた。何より和田さんの言葉は音楽のように豊かだ。詩人だったとは。言葉は登攀中、ラッセル中に練られ、熟成され、形になるのではないか。山で黙々と過ごすとき、いつも心で言葉を探している。
1976年に剱沢大滝に再開した時のことば。「久しく遠かったこの大自然の絶景は、私の日々に育まれた想像(いや妄想と言うべきか)を裏切るどころか、遥かに凌駕して今ここに存在する。この幽深の絶峡に役不足のものはひとつもない。切り立つ岩壁は重々しく濡れた鈍色(にびいろ)の光沢を放つ狩衣(かりぎぬ)だ。山襞の残雪は矢折れ傷ついた白銀の鎧だ。低く垂れ込めた霧雲は猛々しい灰色の母衣(ほろ)だ。側壁に反響する瀑音は軍馬にまたがる鬨(とき)の声だ。雨と飛沫に煙るモノトーンの景色は、琵琶法師の語る源平絵巻の亡霊武者を彷彿とさせた。」あの剱沢の絶景を言葉でこれでもかと尽くす。
剱沢大滝を、登攀はおろか、目で見た人も多くはあるまい。間違いなく日本一の秘境の一つだ。僕は2003年秋、剱沢大滝のTV撮影に関わった。和田さんの後輩で1976年に剱沢大滝を彼と初登攀した片岡泰彦さんと1991年ヒマラヤでご一緒して以来、何度も山に行く縁になっていた。あるとき、剱沢大滝を遡行した数少ない登攀者、松原憲彦とともに片岡さんに誘われ、大阪の和田さんの自宅に酒を飲みに行った。和田城志と山の話ができることに、すごく期待した。名古屋から長着に羽織も着て近鉄に乗った。昼に訪れ、晩になり、風呂に入りながら飲み、朝まで飲んで、少しウトウトして、また飲んで昼過ぎになった。100パーセント山の話で。
「今な、どこの山に行きたいんや!今行きたいルート、ぱっと言えるか?それが大事なんや。」
「ウィリアム・ハロルド・ティルマン。この人の伝記は、『高い山はるかな海』いう本や。」
本棚には、表紙がとれそうになった付箋だらけの「ナンガパルバット」(ヘルリコッファアー1954)があった。剱沢と黒部横断について集めた資料や整理した写真の数数を見せてもらった。
本のあとがきで、家族に、会社の仲間に、死んだ山の仲間に、生きている仲間に、「ありがとう、ごめんなさい」とたくさん書いていた。これを読んであの翌朝のことを思いだした。夜中に庭で飲んでいたので、山の話で声がでかくなり、何時だったか「うるさいぞ!」と近所から声が聞こえた。一同反省して屋内に入ってまた山の話を続けた。翌朝、和田さんは近所の家を一軒一軒全部まわって謝って歩いていた。近所の人で怒っている人はいなかったようだ。この本のあとがきのあいさつが、あの朝の和田さんの姿そのもので、すこしおかしかった。
和田さんてどんな山登ってきたんだろう。なぜ暗くて、危険な山行ばかり続けるのだろう。どうやって職場と折り合いつけて、毎回2週間も厳冬期の剱に行けるんだろう。問いの納得いく快答は無いが、こんな文章があった。
「社会で生きるということは、それなりの役割を果たすということだ。私は、山の負債を山で返そうとしていた。積雪期の剱沢大滝完登は、私を後ろめたく勇気付けた。しかし、人は多分認めない。それが私には心地よかった。なぜ、こんな危険で不快な登山をするのか。雪崩と悪天候、頂上の爽快さもない陰湿な冬の谷底にうごめいて、何が面白いのか。あたりまえの疑問だ。私自身が分からないのだから。」
引用だらけになってしまってキリがないから引用しないけど、174pから176pのアルピニズムについては、同じことを思った。「ビビる山か、そうでないか」。付箋を貼った個所が多すぎて、そんなメモ書きもきりがない。
たくさん載せられている詩は、また何度か読み返すうち意味が変わって理解できると思う。
今月末にある登山家の追悼会で、和田さんと久しぶりにお会いできる予定です。
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書評・出版・
2014年2月1日 (土)

去年北海道版ネーチャー雑誌に大野(1997入)さんのインタビュー記事が載っていた

雑誌が手に入らなくてだいぶ時間が経ったが本人に了解を得て記事のコピーをもらった。ニセコ町で自然エネルギー担当で活躍しているそうだ。

カッツン(2003入)の結婚式で同席して、羊蹄山の近くのドームハウスを手に入れたと話していた。

山岳部時代のことも話している。冬は山へは行ってないそうだが、札幌からニセコに移住したので、スキー含め登りだすようだ。
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書評・出版・
2013年11月18日 (月)

岳人12月号に載せてもらった書評です。字数制限校正前のもと原稿です。
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著者は北海道の山と海で長く知られた冒険家だ。ニセコの新雪滑降スキーヤーの雪崩事故を現場で20年以上かけて押しとどめて来た。それから知床でシーカヤックによる岬越えを100回以上ガイドした。どちらも一級の天然世界を滑る自由、漕ぐ自由、本当の冒険に対する敬意のために、行政、観光、漁業、学者、環境派、さまざまな「冒険者以外」の人たちに頭を下げ、その矢面に立ち、過去と未来のすべての冒険者の代弁をする役割を引き受けて、ある程度の成果をおさめて来た。とても尊いことだと思う。
「人々はいきなり自然に目覚め、アウトドアマンになった。そして修練を積まずに冒険に踏み出し始めた。アウトドア文化とは都会人の自然願望をコマーシャリズムが煽ることによって生まれた文化であり、その意味で都市文化のひとつといえるのではないだろうか」
青春時代に手作りの冒険をして育ったあとニセコと知床でやってきた「アウトドア文化」時代。強い違和感を感じながらその前線に立ち続けた。カンダハー、バンド締めのシール、漁師用雨合羽など、古くからの道具に言及する。秘境探検の黎明期から使われてきた原始的な山道具は、今では時代遅れなのだろうか。
私は著者新谷さんに一度お会いしたことがある。ニセコのエリア外新雪滑降をする人が増えて雪崩による死亡事故が急増し、それをなんとかしなければと苦闘していた1992年だった。新谷さんはカンダハーの締め具に革登山靴だった。良質な雪のあるニセコへアメリカから滑りに来ていたイヴォン・シュイナード氏の案内をしていた。氏は最先端の登山用品を作るパタゴニア社の代表にして登山家。登山道具開発の専門家だ。その彼が新谷さんの足下に敬意を払っていたのをよく憶えている。
単純な締め具カンダハーを私も学生のとき使ったが、その頃は新谷さん以外使っている人を見なかった。昔からの道具は、初心者には簡単に使えない。修練を積むうち身体の延長となり、山での自由な行動の手足と化して働く。最近の道具はそれがなく、いつまでも「借り物」だ。偽りの全能感で山に向かい、最も忘れてはいけない「山への畏怖」を培うことができない。それはビーコンやGPSも同じだ。長く登っている者はその安っぽさがわかる。便利なモノについて行けないのではない。それを持つと山で最も大切なことが損なわれるということを知っている。
「90年代後半から2000年の始めは今日へとつながる混乱の時代の始まりだったように思う。人々は多様な価値観という言葉に惑わされ、苦労せず手にした知識を勘違いし、努力することを忘れた。しかし借り物は所詮、借り物でしかない。そして事故が続いた。」
もう一点道具に頼らない著者に共感する点が、イグルーで雪山を登る話だ。雪の質を見て、知恵を使って作るイグルーは、習得すれば無敵の天場だが、いまはそれを修練する人はいない。私は、自分と仲間のほかには著者しか知らない。
著者の山から海への転身を意外に思う向きもあるかもしれない。しかし、北海道では両者は冒険の場として自然に連続している。知床では海抜0mの無人地帯でスキーを担いで泳いで徒渉して取り付くこともあるし、増毛や積丹では沢を下れば人家抜きで海へ直行の所もある。だから高所登山に区切りをつけたあと、北海道育ちの著者がカヌーに転じたことに納得する。それは、ハロルド・ウィリアム・ティルマンがエベレスト探検から手を引いた後、ヨットで南氷洋にでかけ、氷雪の未踏峰を登る探検を綴った評伝「高い山・はるかな海」に対する敬意からも。北海道は千島を通してアリューシャンと繋がり、サハリンを通してシホテアリンと繋がっている。その脈絡を読んで欲しい。
ナンセン、デルスー・ウザーラ、ティルマンはじめ、アリューシャン、パタゴニア、ネパールの住民など、天然世界の波形に合わせて前進する人々の尊いことばの数々が語られる。そしてティルマンについて書かれた「高い山 はるかな海」という本について、私が著者に共感する逸話があった。貸した本はたいてい返って来ないがこの本は何人に貸しても必ず帰ってくる、とある。今は絶版で手に入らないこの本を私も、後輩、同志に私も何度も貸した。今は来年カラコルムに行く友人が読んでいるところだ。帰ってくれば誰かに読ませたくなる本なのだ。
「雪崩の危険は吹雪の間かその直後」
「制度で知識と技術を学ばせることはできる。しかし経験は教えられない。これだけは自分で積まねばならない」
「経験を積めば用心深くなり慎重になる。そして、ときに経験が役に立たないことも知る。」
「準備を怠ってはならない。何ひとつ忘れてはならず、余計なものを持ってはならない」
全編、経験から得た価値ある短いことばに満ちている。
長く冒険とそれをとりまく社会に現場で関わって来た男の、つぶやくような、告白するような文章が、ひとつひとつ心に降り積もるような本。