ログイン   :: お問い合せ :: サイトマップ :: 新着情報 :: おしらせ :: 
 
 
メニュー
最新のエントリ
最近のコメント
  • 23年08月05日
    Re: 【書評】北アルプス鳴沢岳遭難報告書(米山1984入部)...ゲスト
  • 22年12月28日
    スーパーコピーモンクレール...スーパーコピーモンクレール
  • 22年12月27日
    モスキーノコピー...モスキーノコピー
  • 21年03月22日
    Re: 【中部日高】ナナシ沢1823m峰南面直登沢→コイボクシュシビチャリ川...北陵高校山岳部OB
  • 17年01月29日
    Re: これまでの部報紹介・3号(1931)上/(米山悟1984年入部)...佐々木惠彦
  • 16年12月17日
    Re: ペテガリ冬季初登・72年前の今村さんのゲートル  米山悟(1984年入部)...やまね
  • 16年07月28日
    Re: 暮しの手帖96 特集戦争中の暮しの記録 1968 うちにありました...米山
  • 16年07月28日
    Re: 暮しの手帖96 特集戦争中の暮しの記録 1968 うちにありました...さわがき
  • 16年07月04日
    Re: 医学部戦没同窓生追悼式のご案内...AACH
  • 16年06月17日
    Re: 道新に今村昌耕会員の記事...AACH

書評・出版・ 2010年11月30日 (火)

<書評>百年前の山を旅する 米山悟(1984年入部)


「サバイバル登山家」の服部文祥氏の最新刊。道具を持たず山に向かう姿勢は、20世紀初め、日本アルピニズム初期の登山、ひいては京都北山鯖街道、加賀藩の黒部奥山行にまで遡る。百年前の山、北海道の山ではアイヌが歩いていた事だろう。1920年代のAACH黎明期の登山を部報で読むにつけ、昔の人はどう登っていたのか?が僕にとっての大きなテーマになっていた。吾が意を得たり、の主題だ。その山行を装備装束含めて復元し、体験から得られる考察に共感する。古典は読んで思いは馳せるけど、ここまでやって書ける人はこれまでいなかったよね。
○1909年田部重治、木暮理太郎の日本初の縦走登山、1915年の同二人の日本初の沢登り、1912ウエストン、嘉門治の穂高南稜登攀をその装備、装束で再現。
○鯖街道(日本海の小浜から京都までの一昼夜鯖運び街道を自分でやってみる山行)
「1000年以上にわたって踏み固められて来た京都の街道は、美しく、風格があった。そのぶん、現代の土木工事に壊された部分は、致命的に醜く、薄っぺらだった。・・・(中略)・・・機械で壊した山肌を元のように戻すことはもうできない。林道を埋めて植林をしても、1000年かけて踏み固めた古道を復元するには、1000年かけて踏み固めるしか方法がないからだ。」
○上田哲農の「ある登攀」(1934)をなぞる白馬主稜
上田哲農の「ある登攀」は学生時代に読んだ。
「上田の慧眼にはまだ先があった。あえて死に近づく様な行為は、同時にそれが自己満足に終わるかもしれない、という危うさを併せもつことを、上田は常に意識していたのだ」
以降の下り、残念ながら失念していた。改めて本棚をたどる・・・。
○黒部奥山廻りのルートを探る
17世紀から幕末まで行われた加賀藩による黒部川右岸の、盗伐監視山行ルートをおそらく初めて再現した山行。これはおもしろい。近年見つかった奥山の下流部、険悪な場所の奥山廻りルート図を見てその後誰もそこを歩いていないことを知り、
「やれやれ、われわれ登山者はいったいいままでなにをしてきたのだろう。」
自然の地形の弱点を突いて、黒部右岸の険悪な支流のスキをつないで行く山行。こだわったのはロープで懸垂下降したりせず、あくまで手ぶら装備で、山をフリーでどれだけ行けるかを求めて後立山(鹿島槍ヶ岳)まで行く山行だ。柳又や北又のゴルジュの難所は通らずにルートを見つけて辿るが、一カ所懸垂下降したことを著者は悔しがる。
「テクノロジーフリーともいえるサバイバル山行を行って来た知識と経験を考えれば、二一世紀の現在、私がまっさきに二〇〇年前に黒部を闊歩した人々を理解していてよいはずだった。その私が率先する様に、奥山廻りの一行を否定していた。そして下奥山廻りを否定する根拠である「柳又谷を遡行できるわけないから」という見解には、よく考えると私の自意識が含まれていた。現在の登山者でも困難なことが、二〇〇年以上前の人にできるわけがないという主張は、分析のようで、実際のところ私の自己表現だったのだ。ひとりの登山者としてこんなに情けないことはない。」
実践を通して初めて分かる、自分を見る目だと思う。
「奥山の風景は二〇〇年前のままだ。「今にもどやどやと奥山廻りの一行が上流から現れそうな気がしてくる。われわれを見たら横目足軽は腰の刀を抜くだろうか。」
「われわれは正しいラインを歩いているのか。・・・(中略)・・・そしてその不安は随所で、昔の山人や杣人の存在を私に感じさせてくれた。ラインにはそこを歩いた者の山を見る目が表れる。私は、江戸時代の人々が見た風景を彼らと同じ目で眺め、江戸時代の人々が感じたことを同じ肌で感じることができたと思っている。」
山にいかに独自のきれいなラインを引くことができるか、これが最近の僕の最も興味深い主題だ。そのラインが先人のものと重なっていたことを後から知ると、感動する。江戸時代、平安時代とて変わりはしないのが山だと思う。
○ブラスストーブに関する章
プリムス、ホエブス、スベア、オプティマスなど、20年前までは山岳部の主力だった真鍮(ブラス)ストーブを、改めて考察する。著者は北極探検、南極探検時代を担ったのがこのブラスストーブだという知見に至る。改めてナンセンを読みたくなった。著者はサバイバル山行の一つとして銃で狩りをする。その経験をふまえて著者が改めてナンセンを読みなおしてみると、生き物を殺しながら続ける極地探検の意味がようやく分かったとある。「これは私の経験をもとにした想像だが、現代人には極地探検時代の人々と同じように、世界を見ることはできないと思う。いのちに関する考え方が違いすぎるからだ。・・・・以降略(この先大事なので本で読んでね)」からの下りはなるほどと思った。先日テレビで著者が狩りを行う様子を中心に放送があったそうで、それを見た人の印象には「かわいそう」なものが多かったようだ。
しかし、たかがオプティマスのストーブで米を炊くという目的に、鹿島槍北壁→キレット北上というルートを選ぶところが憎いところ。利尻南稜、仙法師稜分岐(なんせん分岐→ナンセン分岐)というダジャレも。
ブラスストーブの構造が、現在のガソリンストーブと違い、火力調節機能に人力の圧力を使っていて、よりテクノ度が低い(人力度が高い)という解釈はこれまで思い至らなかった。なるほど。ブラスに座布団一枚のポイントでした。
久々にオプティマスを使いたくなった。使い勝手は昔から使っていたから慣れているので、別にめんど臭くない。重いようにも見えるけど、担いでみると大したことないんだ。
  • コメント (0)

新しくコメントをつける
題名
ゲスト名   :
投稿本文
より詳細なコメント入力フォームへ
 
コメント一覧
 
 
 
Copyright © 1996-2024 Academic Alpine Club of Hokkaido