1.EVEREST 8848m
第1次(1921年)〜登頂(1953年)の記録
北大山岳館には1866年(慶応2年)発行の「The Oberland and its Glaciers:Explored and Illustrated with Ice-Axes and Camera 」(H.B.George:Editor of Alpine Journal )を最古として500冊の洋書が収蔵されている。山岳館蔵書全体の1割に満たない数ではあるが、特に1950年以前の情報が乏しい時代のものは、海外の登山・探検に興味のある山岳部員たちにとって貴重な情報源であったろう。蔵書の内容は登攀、探検、旅行記、調査記録、案内など多岐にわたるが、中でも興味を引くのは戦前のエベレストを始めとするヒマラヤ高峰への挑戦記録である。
洋書紹介の最初は戦前のヒマラヤ登山を中心に取り上げたい。
第一次大戦が終結した1921年から第二次大戦の始まった1939年までのおよそ20年間に、英国山岳会(AC)はエベレストに7回遠征隊を送った。1921年、ハワード・バリー大佐の踏査隊、1922年、24年、C.G.ブルース准将の試登、さらにヒュー・ラトレッジの率いる1933年と1936年の試み、1938年のティルマン隊などだ。これらのエベレスト隊は、例外なく堂々たる業績をあげている。ただどれも頂上に到達する幸運には恵まれなかった。しかし山における失敗の記録は成功の記録よりも興味深く、また価値がある。そして、この英国隊の悪戦苦闘を物語る7回(1935年のシプトン隊を含めて)のエベレスト遠征の記録は、どれも第1級のヒマラヤ文献として永く残ることだろう。ヒマラヤ登攀記録の手始めにこのエベレストを取り上げる。山岳館が遠征隊の公式記録をすべて所有しているわけではないが、関連する著作を含めて1953年の登頂までを紹介する。
この20年間にはエベレスト挑戦以外に1931年のカメット登頂、1936年のナンダ・デヴィ登頂がある。また、頂上には至らなかったがバウアーによるカンチェンジュンガ、メルクルのナンガ・パルバットの試登も繰り返された。そして、これらの勇壮で、しばしば悲劇的でもあった登攀は、いずれも立派な文献の形で記録されている。エベレストに引き続き、これらを順次紹介していきたい。
(1)EVEREST 8848m
第1次(1921年)〜登頂(1954年)の記録
EVEREST報告書(1921〜1953年)
第1次隊(1921年)
- 「EVEREST RECONNAISSANCE THE FIRST EXPEDITION OF 1921 (1991年版) Howard Bury/George Mallory 」(edited by Marian Keaney)
- 公式報告書「Mount Everest, the Reconnaissance, 1921、Lieut-Cd. C.K. Howard-Bury」在庫なし。
- 隊長:Charles Howard-Buryハワード・バリー
- 隊員:ジョージ・マロリー、ガイ・バロック、ミッチェル・ケラス、ハロルド・レイバン、科学者数名
本書は遠征から70年経った1991年の再発行であるが、山岳館には1922年発行の公式報告書がないので代わってこれを紹介する。公式報告書に隊長バリーの日記を加えて1991年に再発行されている。バリーの日記は遠征の前年、ヤングハズバンドの命令を受けてチベットへ入り、ダライ・ラマのエベレスト登山許可を取得した経過を記したものである。著者のハワード・バリーについて、ジョン・ハントは序文で次のように紹介している。
He was born in the same year as my father−1881. They must have both passed through Sandhurst as cadets at the same time. He served in my regiment, the King’s Royal Rifle Corps. Like my father, he was taken prisoner in Flanders but, unlike him, Howard-Bury survived that war. Like me, he served as an Intelligence Officer, and shared with me a bent for foreign languages; as his part in obtaining the vital clearance for the expedition reveals, he was an able negotiator and something of a diplomat. Howard-Bury was a man of many parts.
エベレスト周辺の地形をさぐり、登頂ルートをさがす偵察行動が目的の隊であった。インド総督府がネパール入国を許可しないため、シッキムから峠を越えてチベットへ入り、北側を大きく迂回してエベレストへ近づいた。
マロリーとバロックはロンブク氷河より北面を、西稜のロー・ラから南面(ネパール側)を偵察したが、いずれもとても登れそうになかった。北東稜は比較的登れそうだったので、ラクパ・ラを越えてノース・コル(7000m)まで登り、登頂ルートの可能性を確認し、初めてエベレスト周辺の詳細な地図を作成して帰国した。ノース・コルはその後の遠征隊の前進基地となったが、9月24日午前11時半、コルに立ったマロリーは次のように記している。
My eyes had often strayed, as we came up, to the rounded edge above the col and the final rocks below the North-east arête. If ever we had doubted whether the arête were accessible, it was impossible to doubt any longer. For a long way up those easy rock and snow slopes was neither danger nor difficulty.
第2次隊(1922年)
- 公式報告書「THE ASSAULT ON MOUNT EVEREST 1922 C.G.Bruce and other members」在庫なし。
- 隊長: C.G.ブルース
- 隊員:エドワード・ストラット、トム・ロングスタッフ、ヘンリー・モースヘッド、ハワード・ソマベル、エドワード・ノートン、ジェフリー・ブルース、ジョージ・マロリー、ジョージ・フィンチ、ジョン・ノエル、アーサー・ウェイフィールド
ロンブク氷河末端にBC、ノース・コル(7000m)にC4、7600mにC5を設営。5月20日、マロリーら4名がC5を出発するが、直後に1名が落伍、3名も酸素不足から8225mで撤退した。7日後、酸素シリンダーを背負ったフィンチら3人が8321mまで登ったが、悪天候に阻まれて頂上まであと高度差500mで撤退した。第3次アタックが予定されていた6月7日、ノース・コルの斜面で雪崩が発生、シェルパ7名が遭難死したため、登山隊は頂上を諦めて山を降りた。
第3次隊(1924年)
- 「THE FIGHT FOR EVEREST 1924 E.F.Norton and other menbers 1925」公式報告書
- 独語 Bis Zur Spitze Des Mount Everest, Die Besteigung
- 隊長:C.G.ブルース准将、キャラバン中にマラリアで倒れ、エドワード・ノートンが隊長代行
- 隊員:ジョージ・マロリー、ジェフリー・ブルース、ハワード・ソマベル、ノエル・オデール、アンドリュー・アービン、ヘンリー・ビーサム、E.シェビア
大量の酸素呼吸器を準備し、何が何でも頂上をと強い決意で臨んだ。ノース・コルに前進基地、6月1日、マロリーとブルースが7710mにC5を建設。ノートンとソマベルが8170mにC6を設営し、翌日、上部岩壁に水平に走るイエローバンドに沿って進み、大クーロアールに達した。のどを痛めていたソマベルは力尽き、ノートンは単独でタイルのように滑りやすいフェースを苦労して登ったが、8572mで危険を感じ引き返した。酸素なしでこの高度に達したことについて、彼はこう述べている。
I was near the end of my powers, and had for some time been going too slowly to hope to reach the summit. Whether the height I had reached was nearing the limit of human endurance without the artificial aid of oxygen, or whether my earlier exertions and hardships in month of May accounted for may exhaustion, I cannot, of course, say, but I incline to latter opinion; and I still believe that there is nothing in the atmospheric conditions even between 28,000 and 29,000 feet to prevent a fresh and fit party from reaching the top of Mount Everest without oxygen.
4月末の吹雪を避けるため、ノース・コルからの撤退中に起こったアクシデントで、シェルパの救出にひどく消耗したことが登攀の最後に影響したと考えたのである。しかし、ノートンの達した8572mは、戦後エベレストが登られるまで、人類の達した最高高度となった。
6月8日、マロリーとアービンは重い酸素ボンベ(14?/本を2本)を背負ってC6から稜線沿いのルートからの登頂を試みた。支援のためにC6に向ったオデールは7900m付近から頂上ピラミッドの下の第2ステップと呼ばれる北東稜の一角に、登攀中の2つの人影を見た。しかし、それきり2人は戻ってこなかった。第?部はマロリーの妻あての手紙が収録されている。
(和訳:ヒマラヤ名著全集5「エベレストへの闘い」山崎安治訳 あかね書房1968)
第1次隊〜第3次隊の記録ダイジェスト
- 「THE EPIC OF MOUNT EVEREST Sir Francis Younghusband 1926」
本書はヤングハズバンドがエベレスト委員会(地理学会とアルパイン・クラブの合同委員会)の要請により、第1次から第3次までの記録を公式報告書を基に取りまとめたもの。
1920年代にネパールが鎖国していたために、ダージリンからシッキムを経由、チベットを大回りしてエベレスト北面から初登頂に挑んだイギリス人達の3回にわたる苦闘の記録。彼らはツイードの背広上下を着て、足にはゲートルを巻き、鋲を打った登山靴で足を固め、手にはピッケル1本、固定ロープも張らず、ついには8,572mにまで達した。1次〜3次の中心的メンバーで、ついに帰らぬ人となった伝説的クライマー、ジョージ・マロリーについて詳しく記述している。
(山岳館蔵書ガイド翻訳本2. 参照 「エベレスト登山記 田辺主計訳 第一書房、1931」)
「THE STORY OF EVEREST Cp. John Noel 1927」
1913年、戦前のチベットに潜入、第2,3次遠征に参加した個人記録
The author was an official photographer of the 1922 expedition, and a semi-official freelance 1924. This is a narrative of his attempt to reach Mt. Everest from the north in 1913 entering Tibet via the Chorten Nyimala. But Noel was stopped by Tibetans.
(山岳館蔵書ガイド翻訳本3.参照「西域を越えて聖峰へ―エベレスト冒険登攀記―」大木篤夫訳博文館、1931)
第4次隊(1933年)
- 「EVEREST 1933 Hugh Ruttledge」1934 公式報告書
- 隊長:ヒュー・ラトレッジ
- 隊員:フランク・スマイス、エリック・シプトン、ウィン・ハリス、ジャック・ロングランド、コリン・クロフォード、トム・ブロックルバンク、エドワード・シェビア、ローレンス・ウェイジャー、レイモンド・グリーン
許可違反などからダライ・ラマのチベット入国許可が得られなかった第3次隊以後の9年間、イギリスはエベレストへの挑戦を中断せざるを得なかった。
新鋭の登山家で結集したラトレッジ隊は、第3次隊よりさらに高い8350mにC6を設営、5月30日、ハリスとウェージャーが大クーロアールに達したが、疲労と時間切れで敗退した。この行動中に9年前にマロリーかアービンのどちらかが持っていたと思われるウィリッシュ製のピッケルを発見した(のちにアービンのものと判明)。
「The sun had not yet reached them, and they suffered much from cold during the first hour while traversing diagonally upwards towards the north-east ridge. Wager noticed that excessive panting resulted in rapid loss of body heat. Both felt the beginnings of frost-bite; and the moment the sun appeared, nearly an hour after they had left Camp?, Wager sat down to remote his boots and rub his feet. Soon after this, about 60feet below the crest of the ridge and 250 yards east of the first step, Harris , who was leading, found the ice-axe about which there has been much controversially. It was lying free on smooth, brown “boiler-plate” slab, inclined steel head was stamped the name of maker−Willish, of Täsch, in the Zermatt valley.
翌31日、スマイスとシプトンが挑戦するが、シプトンは途中で胃痛のため引き返し、スマイスもクーロアールに達したが、1924年のノートンの到達記録8572mを越える事はできなかった。
「山岳館蔵書ガイド翻訳本22. 参照「エベレスト探検記//高柳春之介/岡倉書房1941」
参考「キャンプ・シックス F.S.スマイス/伊藤洋平 朋文堂1959」
第5次隊(1935年)
- 公式記録在庫なし
- 隊長:エリック・シプトン
- 隊員:ビル・ティルマン、ダン・ブライアント他
ダライ・ラマの入国許可が遅れたために本格的な登山準備が整わず、新しいルートの偵察を目的とする隊になった。シプトン隊長以下7人の小パーティーで入山。偵察とは言え周辺の7000m級3峰に登頂、他に6000m級23峰にも登り、かつノース・コルまでは達した。早く到来したモンスーンのために深雪に悩まされ、頂上攻撃はできずに引き返した。のちにヒラリーと共に登頂に成功したテンジン・ノルブが若手シェルパとして初参加している。
第6次隊(1936年)
- 公式記録「Everest: the Unfinished Adventure 1937 H.Ruttledge」在庫なし
- 隊長:ヒュー・ラトレッジ
- 隊員:エリック・シプトン、フランク・スマイス、ウィン・ハリス、チャールズ・ウォーレン、ピーター・オリバー他
再びラトレッジに率いられた強力な隊で、選りすぐった12人のメンバーと23人のシェルパを動員して大がかりな準備がなされ、何が何でもと頂上を目指したが、不運にも早く到来したモンスーンに、辛うじてノース・コルに到達したのみで下山した。
第7次隊(1938年)
- 「MOUNT EVEREST 1938 H.W.Tilman」(1948年刊)公式報告書
- 隊長:ビル・ティルマン
- 隊員:エリック・シプトン、フランシス・スマイス、ウォレン、オリバー、ノエル・オデール他
1936年にナンダ・デビ7816mに登頂して意気上がるティルマンは、独自の小遠征隊主義をとり、隊員をヒマラヤ経験者6名にしぼり、資金や荷物もそれまでの五分の一というライト・エクスペディションで挑んだ。しかし、この年も1ヶ月も早くモンスーンが襲来し、苦労して作った8290mのC6から2回挑戦したが、従来の最高到達点8572mにも至らず、敗退に終わった。
チベット側からの最後の隊となった。翌年以降は第二次大戦の影響で登山は行われなかった。
航空機による偵察行(1933年)
「FIRST OVER EVEREST –THE HOUSTON MOUNT EVEREST EXPEDITION 1933- Fellows他」
―戦後―
アメリカ探査隊
ビル・ティルマン、チャールズ・ハウストン他
1949年のネパール開国直後に南側に初めて入った。クンブ氷河を約5500mまで登り、アイスフォールを偵察。この時はわずか6日間の余裕しかなく、充分な偵察ができないまま終わった。
イギリス隊(1951年)
- 「THE MOUNT EVEREST - Reconnaissance Expedition 1951- Eric Shipton」公式報告書
- 隊長:エリック・シプトン
- 隊員:マイケル・ウォード、エドモンド・ヒラリー、トム・ボーディロン、ビル・マーリ、エドモンド・ヒラリー、アール・リディフォード、ビル・マーリ
偵察隊。クンブ氷河のアイスフォールを切り抜け、ウェスタン・クウムへ入り込み、サウス・コルからのエベレスト登頂の可能性を発見するという大収穫を挙げた。帰路、イエティの足跡を発見するが、それは次のようなものであった。
Footprint of the “Yeti “found on a glacier of the Menlung basin. In general the tracks were distorted and obviously enlarged by melting; but where, as in this case, the snow overlying the glacier was thin, the imprint was very well preserved and the form of the foot could be seen in detail. When the tracks crossed a crevasse we could see clearly how the creature, in jumping across, had dug it toes to prevent itself from slipping back.
(和訳:「エベレスト−1951年の偵察記」 田中純夫訳 日本山岳会越後支部1993)
スイス隊(1952年)
- 「EVEREST 1952 Andre Roch」1952 仏語写真集
- プレ・モンスーン隊
- 隊長:エデュアール・ウィス・デュナン
- 隊員:レイモンド・ランベール、アンドレ・ロッシュ、ルネ・ディテール、エルンスト・ホッフシュデッター、ジャン・アスパー他
プレ、ポストの2度にわたってフランス隊が挑戦。
春はルネ・ディテールを登攀隊長に8人の隊員がBC設営から1ヶ月かけて5月26日、サウス・コルに到達した。翌日ランベールとテンジンが南東稜を登り、8400mでビヴァーク、翌日8611mに達し、頂上は目前だったが、天候に恵まれずに撤退した。
ポスト・モンスーン隊
同年秋、隊長シュバレー博士の統率下に登攀隊員8人が南東稜8100mに至るも、烈風により上部キャンプが引き裂かれ、寒気が身に沁みた。11月19日、サウス・コルに達し、翌日3人が南東稜へと出発したが、烈風と寒気に逆らえず、ついに8100m地点で断念した。
イギリス隊(1953年)
- 「THE CONQUEST OF EVEREST (1954) J.Hunt」
- 「THE ASCENT OF EVEREST J.Hunt」1954」
- 隊長:ジョン・ハント
- 隊員:チャールス・エバンス、トム・ボーディロン、エドモンド・ヒラリー、テンジン・ノルゲイ他
ジョン・ハント隊長率いるイギリス隊の登攀は一糸乱れぬ整然たるもので、まさにヒマラヤ8000mにおける極地法登山の教科書と云えるほど完璧なものであった。
5月26日、第1次隊のボーディロンとエバンスが南峰8760mまで登ったが、酸素不足から撤退した。5月28日、第2次隊のエドモンド・ヒラリーとサーダーのテンジンがサウス・コルのC8を出発、途中8600mより少し下にC9を作って一泊、翌29日午前11時半、ついに世界の最高峰の頂上に立った。
(和訳:エヴェレスト登頂 田辺主計/望月達夫訳 朝日新聞社 1954年)
2. KANGCHENJUNGA 8586m
1899年〜1955年の記録
Kangchenjunga報告書
カンチェンジュンガはエヴェレストが発見されるまでの長い間、世界最高峰と信じられていた。1899年、最初にこの山に近づいたイギリス人のフレッシュフィールドは7週間かけてカンチを1周し、周辺の地形を明らかにした。以来1905年、イギリスのクローリー隊の試登、1920年、イギリスのH.レーバンの偵察、1929年、7200mに達したドイツのパウル・バウアー隊、1930年、早々に撤退したディーレンフルトの国際隊、1933年にはバウアーが再度挑戦、7750mに達した。バウアー隊を最後に登山家たちの挑戦は行われず、再び彼らが姿を現すのは、戦後1953年のイギリスの偵察隊であった。イギリスは1954年にも偵察隊を送り、1955年チャールス・エヴァンス隊長のもと、ジョージ・バンドとジョー・ブラウンが登頂に成功した。ジャン・ギャルモたちの試登以来50年目の成功であった。
「Round Kangchenjunga」 Douglas W. Freshfield 1903年
1899年、イギリス人フレッシュフィールドは最初にこの山に近づき、7週間かけてラウンド・カンチェンジュンガ、つまりカンチ一周の探査行を行なった。この探検によってカンチェンジュンガ周辺の地形がほぼ明らかにされ、登頂の可能性が示唆された。ゼム氷河では標高5000mを越える地点まで登り、登頂可能ルートを観察した。
カンチ周辺探査の歴史について次のように解説している。
“The name Kangchenjunga (however it may be spelled) is fairly familiar to the British public. A superb object from ’the Mail’ of the most frequented health resort of Bengal, the great mountain is the most conspicuous of Himalayan peaks. Of late years a few officials and travelers have undertaken the pilgrimage to its southern base, which had been made from prehistoric times by the native dwellers on the lower spurs. But, owing partly to the cost and the difficulty of travel in Independent Sikkim, and partly to the obstacle presented by the Nepalese frontier, no European had, up to the end of the nineteenth century, gone round the mountain. Even Sir Joseph Hooker had not approached near enough to it to explore its glaciers, which had consequently never been described by any competent hand; while many of them had never been visited by Englishmen. In the sheets of official surveys they had been alternately ignored and caricatured. There was no map in existence which even pretended to show the snows and glaciers of the region on any system recognized in modern scientific surveys. “
また、本書出版の目的について次のように述べている。
“This volume is a description of the first Tour of Kangchenjunga made by Europeans. Its object is not so much to offer another tale of mountaineering adventure as to provide an account of the scenery and glacial features of Kangchenjunga Group that may be serviceable to Alpine climbers and men of science, and not without interest for those who ‘love the glories of the world’ and count among them great mountains. ”
(和訳:カンチェンジュンガ一周(ヒマラヤ名著全集)/薬師義美訳/1969/あかね書房)
最初の登頂の試みは1905年、イギリス人 アレイスター・クローリーをマネージャーとした1人のイタリア人と3人のスイス人からなる登山隊であった。実質的なリーダーはスイス人のジャコ=ギャルモであった。ヤルン谷からキャンプを進めたが、当時ヒマラヤ高峰の気象や登山適期はよくわかっておらず、夏のモンスーン季に入山したことが仇となり多量の降雪に阻まれ、6300mの到達にとどまった。雪崩に寝袋を流されて、寝袋なしで3晩を過ごしたために衰弱したアレクシス・パッヘをジャコが先頭になってBCへ向かって下って行く途中で雪崩に遭遇、3人のポーターとバッヘが死亡、試みは失敗した。
「Im Kamph um den Himalaya」 Paul Bauer 1931
1929年、ドイツのパウル・バウアー隊長が率いる8人のクライマーがゼム氷河に入った。4940mにBCを設営、北東稜に向い、前進基地として4940mにC6を建設した。彼らはミュンヘンを中心としたババリアの山で同志的に結ばれた強い結束を誇っていた。5830mに「鷲の巣」と呼んだC7、さらに北東稜沿いにC8、C9、サイン両上の最難関を通り抜けて7000mにC10 とキャンプを進めた。C8から上はすべて雪洞が使われた。10月3日、C10を出発した2人の隊員が7200mまで達し、あとキャンプを2つ伸ばせば登頂できると判断された。その直後に天候が大きく崩れ、その後5日間烈しい吹雪となった。バウアー隊長はやむなく退却を決意した。荒天下の極めて困難な退却で、全員がBCにたどり着いたのはC10出発後4日目であった。ドイツ人らしいその整然とした不屈の撤退に世界から称賛を浴びた。
(和訳:「ヒマラヤに挑戦して」伊藤愿訳1931年 山岳館蔵書ガイド参照)
「The Kanchenjunga Adventure」 Francis S.Smythe 1930
1930年、ギュンター・ディーレンフルトを隊長にする国際隊がカンチを目指した。イギリスのスマイス、ドイツのシュナイダーなど、独・墺・スイス・英の腕利き登山家を集めた隊であった。北西面のカンチェンジュンガ氷河から接近し、北壁を登ろうとしたが雪崩に遭遇し、シェルパ1名が死亡したため北壁を断念、ルートを変更して北西稜を登ろうとしたが、急峻で荷上げルートをが確保できず断念した。スマイスたちは帰途、ネパール・ピーク(7145m)、ジョンソン・ピーク(7459m)に初登頂した。
「Um den Kantch」 Paul Bauer 1933
1931年、再びパウル・バウアーが率いるドイツ隊が挑戦した。前回同様、北東稜にキャンプを進めたが、「鷲の巣」(C7) の上部で滑落事故が発生、隊員とシェルパが墜死した。体勢を立て直して再度挑戦、9月17日、7360mに作ったC11から出発した2名が7750mに達したが、北東稜はここから70m切れ落ちていて、しかも対面の斜面は雪崩の危険が極めて高かった。この斜面のう回路を発見することができず、断念するよりほかの術がなかった。
ドイツはこの後、ナンガ・パルバットに転進、2度とカンチェンジュンガに姿を見せることはなかった。カンチは1953年まで、登山家たちの攻撃を受けることなく静まりかえっていた。
(和訳:「ウム・デン・カンチ」慶応山岳部有志訳/登高会/1936 山岳館蔵書ガイド参照)
1953年、イギリスのギルモア・ルイスとジョン・ケンプの2人はジャコ=ギャルモのとったルートを再検討すべくヤルン氷河に入った。彼らはカンチ南西稜の7300mまで登り、南西面の氷壁を観察した。そこにはグレート・シェルフと名付けた大きなテラスが認められ、グレート・シェルフに達するまでの危険なアイス・フォールを突破できれば、頂上に続く主稜までは困難ではないと思われた。
「Kangchenjunga 」 John Tucker 1955
1954年、ケンプはさらに5人の隊員からなる偵察隊を組織し、再びヤルン氷河に入り、南西面を観察、グレート・シェルフまでは達しなかったが、登攀ルートを発見して帰国した。
「Kangchenjunga-The Untrodden Peak」 Charles Evans 1956
1955年、イギリスはエヴェレスト初登頂で活躍したチャールズ・エヴァンスを隊長とする9人の隊員からなる強力な登山隊を送った。ヤルン氷河へ入り、4月26日、アイス・フォールのロックバンド基部にBCを建設した。アイス・フォールを突破して7160mにC4、7700mにC5と順調にキャンプを延ばしたが、5月19日夜から猛吹雪となり,それが60時間も続いた。天候の回復した22日、アタック隊がC5へ入り、24日には8000m地点にC6を建設、アタック体制は整った。25日朝8時15分、ジョージ・バンドとジョー・ブラウンがC6を出発、ウェスト・コルに突き上げるガリーを真っ直ぐに登り、コルの直下で右手に抜け、午後3時近く頂上に達した。
エバンスは登頂の成功の要因について、戦前の隊と比較して謙虚に次のように述べている。
“In the last few years, seven of the world’s highest mountains have been climbed. The reasons are the accumulation of knowledge, both of climbing at great heights and of individual mountains, and the development of equipment. To-day, we climb in down suits and light wind proofs, wear well insulated boots, sleep on air-mattresses in warm bags, and use oxygen sets both by day and by night; and when we think of men of the early expeditions. in their tweed jackets and knee-length puttees, felt hats, scarves and shooting-boots, and remember that without oxygen sets they carried camps as high as our highest, and climbed to a height about equal to that of Kangchenjunga, we are filled with respect.
It is the use of oxygen which, above all, has made the difference. This has made it possible to live high, yet continue to climb with vigor; men are less dependent now on their individual capacity to do with little oxygen; speed of climbing is increased, so that camps be set farther apart and farther from the summit; Sherpas use oxygen to climb to the highest camps. It was use of oxygen that made Everest possible; it played its part in Jean Franco’s wonderful achievement on Makalu, when nine members of his expedition reached the summit; and on Kangchenjunga it made the final stages swifter and more sure.”
(和訳:カンチェンジュンガ その成功と記録 島田巽訳 朝日新聞社1957)
3. Nanga Parbat 8125m
1895年〜1953年の記録
「第一次、第二次大戦の戦間期に世界屈指の巨峰への登頂を目指す取り組みは、ヨーロッパ諸国がアジアで最後に覗かせた帝国主義的な野望とも解釈できる。イギリスはエヴェレストへの入山許可を独占的に得ていたし、アメリカ人登山家はK2への挑戦に乗り出し、一方フランスはガッシャーブルム?峰に挑んだ。パウル・バウアーが率いたドイツ隊はカンチェンジュンガに果敢に挑んでいるが、ドイツとの結びつきが最も強くなる山といえば、ナンガ・パルバットということになる(スティーブン・ヴェナブルズ:ヒマラヤ探検史)」
8000m14座のうちでもっとも早く登山者の挑戦を受けたのは、エヴェレストでもカンチェンジュンガでもなく、ナンガ・パルバットであった。マッターホルンのツムット稜、シャモニのグレポン、グラン・シャルモなど多くの初登攀を成し遂げたアルプスの「銀の時代」の立役者、イギリスのA.F.ママリーがナンガ・パルバットへの最初の挑戦者だった。しかし、ママリーは1895年8月、北面のラキオト氷河へと向かい、帰らぬ人となった。
その後30数年間、ナンガ・パルバットは静寂を保ったが、1932年、ヴィリー・メルクル隊長率いる独米合同隊がラキオト氷河から挑み、6950mで天候悪化のため下山した。
以後、同じルートをとって1934年のメルクル隊、1937年カール・ビーン隊、1938年パウル・バウアー隊、1939年ペーター・アウフシュナイダー隊といずれもドイツが国家の威信をかけて遠征隊を送り続けた。
戦後の1950年秋、調査を目的の3人のイギリス人がラキオト氷河に入ったが、荒天に遭遇し、2人が死亡した。ママリーの遭難以来、この山は31名の犠牲者を出し、魔の山、または人喰い山と呼ばれ、シェルパ達に恐れられた。
1953年7月3日、ドイツ隊のヘルマン・ブールが8000m峰への最初の単独登頂という快挙を成し遂げた。
1895年 Albert Frederick Mummery
同行:ノーマン・コリー、へースティング
南側のルパール氷河、西のディアミール氷河からの登路を探ったが見つからず、北面のラキオト氷河西北稜に向かったが、行方不明となる。
1932年 独米 隊長Willy Merkl
ドイツ人6人、アメリカ人2人の合同隊。 北面のラキオト氷河から挑み、ラキオット・ピークの山腹を横断し、ジルバーザッテルの高い尾根を目指した。6950mで天候悪化のため撤退。
1934年 独墺 隊長Willy Merkl
- Deutsche am Nanga Parbat: Fritz Bechtold 1935
- Nanga Parbat Adventure, A Himalaya Expedition 1935:translated by H.E.Tyndal
- 和書:或る登攀家の生涯: 長井/松本訳 昭和刊行会1943年
- ヒマラヤに挑戦して―ナンガ・パルバット1934年登攀:小池新二訳 河出書房1937年
メルクルは新たに誕生したナチ政権の恩恵を最大限に受け、規模を大きくしたより強力なチームを率いてナンガへ戻ってきた。この隊は経験豊かな大勢のシェルパから支援を受けて前回よりもさらに上へと登り、7月6日には先遣隊がジルバーザッテルの難関を突破して標高7480mに第8キャンプを建設した。ここから頂上までは1日で往復できそうだと隊員のだれもが思った。しかし、翌7日未明から猛烈な暴風雪が襲った。翌8日も止む気配はなく、メルクルはとりあえずいったんBCへ撤退を決意する。
しかし、その撤退は大失敗に終わる。先行したアッシェンブレンナーとシュナイダーは第7,6,5キャンプからシェルパが下山してしまって無人、ようやく第4キャンプまで戻ったが、その途中で同行していた3人のシェルパを見失った。
ほかのメンバーは第7キャンプにさえ到達できず、吹きさらしの中で夜を明かさなければならなかった。その後の暴風下の下山で、まずヴィーラント、続いて不世出のクライマーと謳われたヴェルチェンバッハも疲労して倒れ、息を引きとった。さらに隊長のメルクルもモーレンコップと呼ぶ岩峰の近くまで下山したところで息を引きとった。14日朝、メルクルと別れて息絶え絶えで第4キャンプに救援を求めたシェルパのアン・ツェリンは、メルクルの最後の状況を次のように語っている。
“Welzenbach Sahib died during the night of the 12th-13th. We left the dead Welzenbach Sahib lying in the tent, and went down towards Camp 4 that morning, Merkl painfully supported on two ice-axes. But as we could not manage to overcome the rise to the ‘Moor’s Head’, we constructed an ice-cave on the flat saddle. Bara Sahib and Gay-Lay slept together on a rubber groundsheet which we had brought along, and under one common porter’s blanket. I my self had a blanket also, but no groundsheet. On the morning 14th, I went outside the cave and called loudly for help. As there was nobody visible at Camp4, I supposed to Merkl that I should go down. He agreed. When I set out Merkl and Gay-Lay were so weak that they could get no further than two or three yards from the cave.” (Nanga Parbat Adventure)
結局この1週間の撤退劇で、ヴェルツェンバッ、メルクル、ヴィーラントの3人の隊員とシェルパ6人が遭難死することとなった。
1937年 ドイツ 隊長Karl Wien
- 和書:ヒマラヤ探査行-ナンガパルバト攻略 シニオルチューとナンガ・パルバット、ドイツ登山家の業績と運命:小池新二訳 河出書房1938年
3年後にはさらに痛ましい悲劇が起きる。再びナンガに挑んだドイツ隊は、ラキオトピークからの大雪崩によって第4キャンプに寝ていた16人のメンバー(隊員7名、シェルパ9名)を亡くしたのである。この知らせを受けてパウル・バウアーとベヒトールトが救援に向かったが、あまりの惨状になすすべがなかった。
1938年 ドイツ 隊長Paul Bauer
- 和書:ナンガ・パルバット登攀史:横川文雄訳 あかね書房1969年 ヒマラヤ名著全集
前年の敵討ちをするかのように、パウル・バウアーが4回目のドイツ遠征隊を率いてやって来た。ヒマラヤ登山史上初めて飛行機が輸送に使われ、第4キャンプへ物資が投下された。しかし、悪天候が続き、7300mで撤退した。この遠征では、モーレンコップでメルクルとシェルパのゲー・レイの遺体を発見した。
1939年 ドイツ 隊長Peter Aufschnaider
- Seven Years in Tibet: Heinrich Harrer 1952
- 和書:チベットの七年―ダライ・ラマの宮廷に仕えて:福田宏年訳 あかね書房1955年
ナンガに経験の深いペーター・アウフシュナイターが率いた5回目の隊は、隊員4名、シェルパ3名の小パーティーである。メンバーのひとり、ハインリッヒ・ハラーはその前年にスイスのアイガー北壁への初登頂に参加した登山家である。この遠征隊は過去4回失敗しているラキオト氷河以外の登路の偵察を目的としていた。ママリーが試登したディアミール氷河からのルートに着目し、その偵察と試登を行った。偵察の目的を果たしてヨーロッパへ戻る途中で第二次大戦が勃発、隊員はインドで抑留された。しかし、アウフシュナイターとハラーはイギリスの捕虜収容所から見事に脱出劇を演じ、ヒマラヤを越えてチベットへ潜入し、1950年までそこにとどまるという数奇な運命をたどった。その経験から、アウフシュナイダーは優れた地図を製作し、ハラーはベストセラーとなった手記「チベットの七年」を出版している。
1950年 イギリス 隊長ソーンリー
イギリス人3人が調査目的でラキオト氷河へ入ったが、降雪のために2人が死亡、1人が凍傷を負ってかろうじて生還した。
1953年 ドイツ 隊長Karl.M.Herrligkoffer、登攀隊長Peter Aschenbrenner
- Nanga Parbat 1953(独語):Karl.M.Herrligkoffer 1954
- Nanga Parbat: Karl.M.Herrligkoffer, tr. By Eleanor Brockett 1954
- Nanga Parbat Pilgrimage−The Lonely Challenge: Hermann Buhl, tr. by Hugh Merrick
- 和書:ナンガ・パルバット:横川文雄訳 朋文堂(エーデルワイス叢書)1954年
- 八千メートルの上と下:横河文雄訳 三笠書房1974年
ヴィリー・メルクル記念登山隊と名付けられたこの隊は、1934年にナンガで死んだメルクルの異母弟カール・M・ヘルリッヒコッファーが隊長、1934年の生き残りでチロル出身のペーター・アッシェンブレンナーが登攀隊長、オーストリアのヘルマン・ブールほかの強力な登山家からなる構成であった。
5月24日、ラキオト氷河にベースキャンプを作り、登山を開始した。6月21日にはモーレンコップに達したが、このときから天候が悪化し、隊員たちはC3に下降、待機した。この状況を見たヘルリッヒコッファーとアッシェンブレンナーは、なぜか6月30日、退却命令を出した。しかし、この頃から上部の天候は回復し始めていた。C3にいたヴォルター・フラウエンベルガー、ハンス・エルトル、ヘルマン・ブールの3人は今こそが登頂の好機と判断、退却命令を拒否して頂上へと向かった。さらにオットー・ケンプターも後を追った。
7月3日未明、モーレンコップの先に設営されたC5からヘルマン・ブールが出発、1時間遅れてケンプターが追随したが、高度障害から登攀不能となり、結局ブールはただ一人で山頂へとラッシュアタックを敢行した。そして8000m峰への最初の単独登頂という快挙をなしとげた。下山にかかってすぐ夜となり、ブールは8000mの高度でツェルトも食料もないまま、ほとんど立ったままの姿勢でビバーク、同日夕方、C5でエルトルに迎えられて生還したが、凍傷で右足の指を失った。
ブールは登頂は果たしたが、隊長の退却命令を無視して行われた登頂をめぐって、ついにヘルリッヒコッファーとの間に醜い訴訟沙汰まで起こり、超人ブールはひどく傷ついた。
ブールはその後、1957年にわずか4人の小パーティーでブロード・ピークにラッシュアタック、2つ目の8000m峰を手中にした。その帰途、チョゴリザを登攀中に霧の山稜上の雪庇を踏み抜き不帰の人となった。
以下はブールのからナンガ登頂時の1節である。
”I was on the highest point of that mountain, the Summit of Nanga Parbat, 26,620feet above sea-level-----
Nothing went up any further, anywhere. There was a small snow plateau, a couple of mounds, and everything fell away on all sides from it. It was seven o’clock. There I was on that spot, the target of may dreams, and I was the first human being since Creation’s day to get there. But I felt no wave of overmastering joy, no wish to shout aloud, no sense of victorious exaltation; I had not the slightest realistion of the significance of that moment. I was absolutely all in. Utterly worn out, I felt on the snow and stuck my ice-axe upright in the hard-beaten snow, just as if it were something I had practiced over and over again. I had been on the way for seventeen hours on end and every step had become a battle, an indescrible effort of will-power. I was only thankful not to have to keep on looking upwards with frightful question, “Would I get there?” always touring may mind.”(Nanga Parbat Pilgrimage)