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洋書・戦前のヒマラヤ登攀記録


洋書・戦前のヒマラヤ登攀記録について

1.EVEREST登頂の記録
Review/foreign/everest.html 1.EVEREST登頂の記録 1.EVEREST 8848m 第1次(1921年)〜登頂(1953年)の記録  北大山岳館には1866年(慶応2年)発行の「The Oberland and its Glaciers:Explored and Illustrated with Ice-Axes and Camera 」(H.B.George:Editor of Alpine Journal )を最古として500冊の洋書が収蔵されている。山岳館蔵書全体の1割に満たない数ではあるが、特に1950年以前の情報が乏しい時代のものは、海外の登山・探検に興味のある山岳部員たちにとって貴重な情報源であったろう。蔵書の内容は登攀、探検、旅行記、調査記録、案内など多岐にわたるが、中でも興味を引くのは戦前のエベレストを始めとするヒマラヤ高峰への挑戦記録である。  洋書紹介の最初は戦前のヒマラヤ登山を中心に取り上げたい。  第一次大戦が終結した1921年から第二次大戦の始まった1939年までのおよそ20年間に、英国山岳会(AC)はエベレストに7回遠征隊を送った。1921年、ハワード・バリー大佐の踏査隊、1922年、24年、C.G.ブルース准将の試登、さらにヒュー・ラトレッジの率いる1933年と1936年の試み、1938年のティルマン隊などだ。これらのエベレスト隊は、例外なく堂々たる業績をあげている。ただどれも頂上に到達する幸運には恵まれなかった。しかし山における失敗の記録は成功の記録よりも興味深く、また価値がある。そして、この英国隊の悪戦苦闘を物語る7回(1935年のシプトン隊を含めて)のエベレスト遠征の記録は、どれも第1級のヒマラヤ文献として永く残ることだろう。ヒマラヤ登攀記録の手始めにこのエベレストを取り上げる。山岳館が遠征隊の公式記録をすべて所有しているわけではないが、関連する著作を含めて1953年の登頂までを紹介する。  この20年間にはエベレスト挑戦以外に1931年のカメット登頂、1936年のナンダ・デヴィ登頂がある。また、頂上には至らなかったがバウアーによるカンチェンジュンガ、メルクルのナンガ・パルバットの試登も繰り返された。そして、これらの勇壮で、しばしば悲劇的でもあった登攀は、いずれも立派な文献の形で記録されている。エベレストに引き続き、これらを順次紹介していきたい。 (1)EVEREST 8848m 第1次(1921年)〜登頂(1954年)の記録 EVEREST報告書(1921〜1953年) 第1次隊(1921年) 「EVEREST RECONNAISSANCE THE FIRST EXPEDITION OF 1921 (1991年版) Howard Bury/George Mallory 」(edited by Marian Keaney) 公式報告書「Mount Everest, the Reconnaissance, 1921、Lieut-Cd. C.K. Howard-Bury」在庫なし。 隊長:Charles Howard-Buryハワード・バリー 隊員:ジョージ・マロリー、ガイ・バロック、ミッチェル・ケラス、ハロルド・レイバン、科学者数名  本書は遠征から70年経った1991年の再発行であるが、山岳館には1922年発行の公式報告書がないので代わってこれを紹介する。公式報告書に隊長バリーの日記を加えて1991年に再発行されている。バリーの日記は遠征の前年、ヤングハズバンドの命令を受けてチベットへ入り、ダライ・ラマのエベレスト登山許可を取得した経過を記したものである。著者のハワード・バリーについて、ジョン・ハントは序文で次のように紹介している。  He was born in the same year as my father−1881. They must have both passed through Sandhurst as cadets at the same time. He served in my regiment, the King’s Royal Rifle Corps. Like my father, he was taken prisoner in Flanders but, unlike him, Howard-Bury survived that war. Like me, he served as an Intelligence Officer, and shared with me a bent for foreign languages; as his part in obtaining the vital clearance for the expedition reveals, he was an able negotiator and something of a diplomat. Howard-Bury was a man of many parts.  エベレスト周辺の地形をさぐり、登頂ルートをさがす偵察行動が目的の隊であった。インド総督府がネパール入国を許可しないため、シッキムから峠を越えてチベットへ入り、北側を大きく迂回してエベレストへ近づいた。  マロリーとバロックはロンブク氷河より北面を、西稜のロー・ラから南面(ネパール側)を偵察したが、いずれもとても登れそうになかった。北東稜は比較的登れそうだったので、ラクパ・ラを越えてノース・コル(7000m)まで登り、登頂ルートの可能性を確認し、初めてエベレスト周辺の詳細な地図を作成して帰国した。ノース・コルはその後の遠征隊の前進基地となったが、9月24日午前11時半、コルに立ったマロリーは次のように記している。 My eyes had often strayed, as we came up, to the rounded edge above the col and the final rocks below the North-east arête. If ever we had doubted whether the arête were accessible, it was impossible to doubt any longer. For a long way up those easy rock and snow slopes was neither danger nor difficulty. 第2次隊(1922年) 公式報告書「THE ASSAULT ON MOUNT EVEREST 1922 C.G.Bruce and other members」在庫なし。 隊長: C.G.ブルース 隊員:エドワード・ストラット、トム・ロングスタッフ、ヘンリー・モースヘッド、ハワード・ソマベル、エドワード・ノートン、ジェフリー・ブルース、ジョージ・マロリー、ジョージ・フィンチ、ジョン・ノエル、アーサー・ウェイフィールド  ロンブク氷河末端にBC、ノース・コル(7000m)にC4、7600mにC5を設営。5月20日、マロリーら4名がC5を出発するが、直後に1名が落伍、3名も酸素不足から8225mで撤退した。7日後、酸素シリンダーを背負ったフィンチら3人が8321mまで登ったが、悪天候に阻まれて頂上まであと高度差500mで撤退した。第3次アタックが予定されていた6月7日、ノース・コルの斜面で雪崩が発生、シェルパ7名が遭難死したため、登山隊は頂上を諦めて山を降りた。 第3次隊(1924年)
2. KANGCHENJUNGA
Review/foreign/kanch.html
3. Nanga Parbat
Review/foreign/nanga.html
 

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