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2022-1-24 0:06 |
第94回ヘルヴェチア祭...
この投稿がうまくつながらなくて、だいぶレポートが遅くなったが、昨年晩秋のヴェチア祭り。コロナで私以外のOBは写ってません。女子が4名も 前夜祭。現役が料理をふるう 私はコロナを避けて乾杯後、小屋管理のアドバイスをして退散 翌朝私は再訪して祭りに参加。祭りといっても記念写真を撮るくらいだがヴェチアの歴史を少し語った 部歌の山の四季を歌ってヘルヴェチアの神様に献杯!だけはした 祭り後は大掃除に薪割り。女子もチャレンジ。今年の薪はトイレ脇の大きくなりすぎて、また小屋に傾いたキハダの木で夏に伐採したもの。 煙突掃除の後は床掃除とワックス磨き。他の北大小屋から比べると床が汚いので、ハッパをかけてしっかり磨いてもらう |
2021-4-24 23:18 |
【読書備忘】岐阜百秀...
地方の百名山の書は数あるけれど、県山岳協会や当地の新聞社が手分けして踏査して協議して選んだ本が多いのではないだろうか。中には各市町村に公平にというような選定もある。岐阜にも、上述のような選定を経た1975年の「ぎふ百山」があったが、124山と絞りきれていない。また高速道路ができ徳山ダムができて環境の変わった今の時代にふさわしい「佳き山」を選びたいと、著者清水克宏氏は最新情報を載せるため五年に限って踏査し選定したという。 ひとり個人が候補の100以上を登って選んだというものは、深田久弥の日本百名山と清水栄一の信州百名山だけではないだろうか。強い計画力と実行力とを要する情熱、そして教養がなければなし得ないのではないか。 私は先月3月に石徹白から白川郷まで一週間の白山縦走をしてきたばかりで、歩いてみて知りたく思ったこと 「なぜ三つの越前、加賀、美濃の禅定道のうち最も泰澄法師ゆかりで正統のはずの越前道がいま見るかげもないのか?」 「なぜ石徹白はあの独特の雰囲気なのか?」 「念仏尾根の妙法山周辺の複雑な地形もやはり古くから人が通ったのか?」 などすべての好奇心の答えを、この本は歴史的な視点から教えてくれた。 信州人の私の目線で岐阜県とはどんな県か。長野県と北アルプスを挟んで対称の位置にありながら、信濃にはない多様性がある。北陸豪雪地域に面した山嶺が長く、標高はなくても遠く深い奥美濃や、白山に連なる国境があるかと思えば、鈴鹿山脈にも木曽山脈にも引っかかっていて、実に多様。それから低山だけれど個性ある山と人里の多い県中央の山間部。これらを俯瞰して一冊の中に眺めることができた。 この多様な山域の隅々まで、歴史的背景や地名山名の由来なども漏らさず盛り込まれている。往時の修験者、木地師、鉱山師に関する話も、知れば山歩きで見える風景を変える要素だと思う。とりわけ、徳山ダムで沈み非常に行きづらくなった千回沢山(とても100山に入れるわけにはいかなかったとある)や、廃村の馬狩で出会う現地の人とのささやかな交流の話などはとてもおもしろい。日本の山里には従来、人と文化があり、今はそれが失われゆく時代なのだ。こうしたさりげない話が貴重なのだと思う。そうした時間軸を意識すると、コラムで触れていた奥美濃の山を紹介した昭和15年刊行の「樹林の山旅」には、たいへん興味を惹かれた。 岐阜県の山にはその名前が地形図に載っていないものが多いという。信州との対比で、濃尾平野以外は山がちなので、遠くの名山が抜けて見えない、そのため名前が広く認知されなかったり、飛騨山脈が視覚としても印象に残らないのではないか、との話もしていただいた。本書に一貫するのは、そんな「少し不遇な」岐阜の山への愛着である。 私はいくつ登ったのかな?うきうき数えてみたら34だった。楽しいものだ。 私も、筑摩、安曇両郡(犀川流水域)50名山を選んでみた。故郷の山への愛である。 ナカニシヤ出版2021年5月 森の国水の国 岐阜百秀山 清水克宏 2200円 |
2021-3-7 10:29 |
【読書備忘】ぶらっと...
毎日新聞夕刊で特集ワイド面記事を書く、藤原章生会員(1980年入部)の最新刊です。海外取材の長い58歳記者(当時)の、プライベートなダウラギリ2019年遠征記。
なぜこの年齢になって八千m峰を目指すのか。著者の幼年期の体験、青年期の山、海外支局取材時のさまざまな話を交え、高所の及ぼす脳や精神への影響から、話はどんどん死と時間、恐怖と勇気、シンパティコ、達観と情熱、なぜ山に登るのかというテーマに至る。昔から相当な読書量だったうえ、著名人のインタビュー経験が豊富であり、ジミー・チン、メスナー、原真、リカルド・カシンなどの発言や行間にふれる部分が面白い。大澤真幸の「他の誰にも出来ない仕事」の話が良かったです。 故郷を出て男ばかりの共同体に初めて入門した1984年の私にとって、東京の下町の育ちだそうで、きっぷの良い話しぶりに、人をじろりと見る目つき、あけすけにものをいい、最後にニヤリと笑える話を添える藤原さんはちょっとワルなインテリとして、憧れの人でありました。直接の先輩である2,3,4年目のひとつ上の5年目でもあり、何より1984年のガルワール・ヒマラヤ、スダルシャン・パルバットのメンバーでした。1年目の私には近い将来の憧れの未来そのものでした。興味はなかったけど、くわえタバコの麻雀にものこのこついていきました。 私が半人前を終えかけた3年目の4月上旬、藤原さん鷲尾さんに誘われて、立山、剣に登りました。大町の扇沢からスキーかついで冬季休止中の関西電力のトロリーバストンネルを延々歩いて、ケーブルカーの真っ暗な階段トンネルも延々登って、いきなり立山の東面に出るアプローチでした。今では考えられないけど、当時は特に止められなかったし許可とか危険とか、そういう日本社会ではありませんでした。ここに雪洞を掘って3日間、悪天缶詰になって、最後は雪崩が危なく日数切れで引き返しました。4泊も穴の中でヒマだったかといえば、藤原さんの面白い話を朝から晩まで聞いて、ゲラゲラ笑って過ごしたのを覚えています。全く話の上手い人でした。本書にも出てくるけれど、20代の若い時代特有の「シンパティコ(人懐っこさ)」の話には、このときのことを思い出しました。当時、名前しか知らなかったOBの小さな話を、顔マネ、口真似しながら藤原さんが話してくれるのですが私は腹を抱えて笑いました。 その後、藤原さんは新聞記者、私はTVカメラマンになり、業界は同じでも全く違う仕事でした。はじめ私は山岳撮影が主な関心でしたが、藤原さんのように誰か興味深い人にとことん話を聞くドキュメンタリーのような仕事にあこがれてきました。留学や海外支局で日本を離れた藤原さんを、グアダラハラ、ヨハネスブルク、ローマと、夏休みなどによく訪ねました。昔からずば抜けた読書量で、あるとき話のはずみで文庫本の巻末にある他の本の紹介広告のタイトルを見ながら、これも読んだ、これも読んだ、と数十冊ほとんどすべて読んでいた話を聞いて驚きました。彼に勧められて読んだ本も数多くP.フォーバス「コンゴ川」、G.マルケスあれこれ、関川夏央、丸山健二など、私が本を読むようになったきっかけかもしれません。特集ワイドの取材でインタビューに行く前に、相手の著書は全集含めてほとんど読んでいくとあり、納得します。 本書では、やはり高所登山中に受ける精神的な影響の話で死に対する考察があります。いつか20代の頃、どこかの国を訪ねたときの雑談で「俺は最期、死ぬ時に、間際にどんなことを思うのか、横になり朦朧としながらも、心に浮かぶこと、考えることを様々、全部ペンに書き取りながら死にたいね」と言っていたのを読書中に思い出しました。やはり、ずっとこれは大切なテーマだったんだ。 あらすじを書いてもネタバレになるので、藤原さんの追悼文のようになってしまったけれど、少し上の先輩の勤め人の節目である定年退職間際の心の内など、私も大いに関心が高く、今後の人生でも常に先を行くセイパイに変わりありません。まだ30年、人生は続く。 |
2021-1-28 17:32 |
【読書備忘】 リュック...
100年を迎えた早大山岳部と稲門山岳会の100周年記念事業誌。昨年はお祝いの催しも計画していたが、covid19の影響で中止になったとのこと。
1920年前後、第一次大戦後の好景気で日本社会は鉄道が伸び、大衆の観光や旅行や登山活動にも広い裾野が伸びた。以前から大学生を中心に行われていた登山界にも逸材が流れ込んできた時代で、老舗の大学山岳部はこの頃相次いで山岳部を創立した。北大もスキー部が1912年から創部、そこから山岳部が独立したのが1926年。 リュックサックはもともと現役の部報であり、2011年に14号が出ていて、今回は15号。1990年代・平成以降は現役部員が少なかったためリュックサックは次第に両者合同の内容で編集されているようだ。内容は過去100年の早大山岳部のあゆみがダイジェストで記される一方、14号以降の10年分の活動報告が厚めに盛り込まれている。 冒頭のまとめはよくまとまっていて、早稲田の100年を今回初めて知ることができた。実は早稲田の歴史について、失礼ながらこれまであまり印象がなかった。K2の大谷映芳氏と、翻訳家の近藤等氏と、あとは80年代の同世代数人の名を知る程度だった。早稲田は伝統があり部員も充実していたのに、死亡遭難事故や不運が多くヒマラヤ登山では79年ラカポシ、81年のK2まで成功を得ることができなかったことを初めて知った。また、その後の世相の変化による90年代以降の部員減少期の組織的葛藤や不信。ヒマラヤで活躍を期待されたやる気に満ちた若手が次々に死亡遭難事故で失われる苦しみなど、かなり踏み込んで事情を読むことができた。 他大学との対話でこれからの山岳部を考える、という企画のひとつに、北大山の会から11人が座談会に出席し、北大的な山岳部気質などを紹介する機会が設けられた項目がある。私達にとって、早稲田も含めた東京の山岳部の活動は、「監督、コーチ」「合宿」「トレーニング」という存在が示すように、かなりスポーツ的に見える。歴史的にも、他校山岳部との競り合いを強く意識している気配を感じる。「スポーツ科推薦入試」も2000年代にあったとあり、発想としては競技スポーツを連想する。極端に言えば、彼らから、その要素を引き算して、さてどう山に登ろうか!といったものが北大流だったのだということを感じた。そしてそれぞれの寄稿を読むと、やはり早大自身の中にも「個人山行⇔合宿」という大きな対立する概念があり、それを内的に処理できず、苦悩して来ているように思えた。 巻末に年次順の会員名簿が併記されている。おかげで記録を見る際にたいへん助かるのだが、会員の総数が、ここに載せられるほど少ないことに驚いた。80年代以降のほとんどの年は一学年一人か二人しかいないのである。よくぞ続いてきたものと思う。 どんな時代でも大学山岳部にしかない魅力は、学生時代の当事者にはその時はわからないけれど、100年も続いた縦の時間軸を越えて、皆が同じ青年期を過ごした経験を共有できることだ。行く山は同じでいい(違う山でもいいけど)。馴染みのメンバーが生涯居る。おなじみの雪稜で迷い、おなじみのナメ滝で滑り落ち、おなじみのクラックに右手を突っ込む。おなじみの飲み屋におなじみのヒュッテ。ヒマラヤやデナリはオマケだ。老いたメンバーはそのおなじみの定点があることで、自分がどれだけ遠くまで来たか確かめる。若いメンバーには尊敬する先輩がいればそれでいい。そして、山で死んだ仲間のことを時々思い出すのだ。人のライフサイクルをまたいだそういう共同体は今、日本でほぼ失われつつある。なにかに勝たなくていい、文化を伝承するのが、大学山岳部でありたい。 |
2021-1-26 13:21 |
【読書備忘】サガレン...
著者は硫黄島1945司令官、栗林中将のノンフィクション「散るぞ悲しき」で憶えのある著者。かなりの鉄道オタクとのこと。特に廃線ジャンル。樺太鉄道は憧れなので期待して読む。雑誌の連載紀行をまとめたものなので旅行記として読みやすい。
サハリンは、アイヌ・ニヴフ・オロッコ、ロシア、日本、ソ連の時代変遷で地名が三つある。ロシアとソ連時代でも違う。サハリンの地図を片手に、更に地名対照表を片手に読むと更に楽しい。 白秋、賢治など日本統治時代に訪れた人々の足取りも盛り込まれチェーホフ、林芙美子、村上春樹まで改めておさらいできる。後半の宮沢賢治の亡き妹を悼む詩集と辿るパートは東北本線や津軽海峡の下りなどの検証なども含めてサハリンからは離れるけれど、時刻表や車種の証拠からも詰める乗り鉄オタク手法込みのノンフィクション検証で、1923年の傷心の旅を解析するところはお見事。賢治の詩編の一言一句の吟味になるが、これはこれで大変面白かった。はるか昔読んだ賢治の詩は不思議と心に残りあり、詩特有の曖昧な受け取りだった言葉の数々も先行研究もうまくまとめられてこの本で明確になりました。賢治特有の草花や鉱石の解説も詳しい。妹の死、樺太鉄道旅行、そして銀貨鉄道の夜への流れを解釈する。 やはり樺太山脈スキー縦走に行かなければならないなあ。山岳部の仲間と、コロナが収まったら、旧国境を積雪期に越えて北上したい。帰りは鉄道で帰るのだ。やる気が出てきました。何キロくらい、無補給で行けるだろうか。 |
2020-12-16 21:09 |
【読書備忘】追憶のヒ...
日本山岳会東海支部で、1970年のマカルー南東稜初登以来、50年間名古屋岳人のヒマラヤ遠征、東海支部の組織運営を担ってきたご本人77歳の総まとめ自伝本。東海山岳に関わった人にはたいへん興味深い歴史の、一つ一つの裏側を語ってくれる。
そして、AACHにとっては、偉才、原真氏の右腕として尾上氏が携わった数々の話が興味深い。東海支部設立、アンデス、ヒマラヤ遠征のゼロからのスタート、組織作り、資金集め、日本山岳会本部との確執(というかみんなが知っている妨害工作)、現場での破綻、遭難スレスレの格闘と成功などの歴史が尾上氏目線で語られる。関係者の多くが亡くなっているのも、おそらく今書ける理由でもある。やはり生き残った強みである。みんなが知りたいことでも、関係者が居る前ではなかなか文字にはできないものだ。何より尾上氏のその後果たしてきた実績と信用が、彼の書くことならと、周りを納得させられたのだろう。50年経って、やはりマカルー南東稜は歴史になったのだ。 1970年マカルー南東稜初登は、ヒラリーに「あの南東稜をまさか日本人が登るとは」と言われた、当時難しすぎる未踏8000mのバリエーションで、同年の日本山岳会(本部)のエヴェレスト(ノーマルルート第六登)に比べると、事情を知るものには段違いの快挙だった。だが、これは「思想家・原真」の強烈すぎるリーダーシップによって鍛え上げられた先鋭集団だから成功した。そのいきさつを、原さんの右腕役を務めた尾上氏が文章にした本書は、まことに興味深い。マカルーを、東海支部を、新撰組にたとえる下りがある。「尾上、明日までに○○を切れ」とささやく原さんはまさしく土方歳三ではないか。ぞくぞくするような展開である。 本書後半では、原さんが去った後の東海支部の40隊にも及ぶ海外登山隊の切り盛り、尾上さんを育てた東海高校剣道部、日大山岳部の活動なども触れられる。名古屋という土地に於ける人のつながり、その時代の背景が、門外漢にも判って大変おもしろい。1960年代の日大山岳部が極地山行に傾倒していたのを少々知ってはいたが、ここまでグリーンランドや北極点に通っていたとは。ヒマラ高峰系の海外ではなく、ソリを曳いて未知未踏の極地エリアに分け入るスタイルは北大の志向に近いものがある。日大山岳部の池田錦重氏や、名古屋山岳会の 加藤幸彦氏も触れられる。私はお二人と90年代にガッシャブルムやチョモラーリで山行を共にしたことがあり、知らなかった一面を読むことができた。人には出会う以前から歴史があり、そのいきさつを知ると、知っている人であってもまた多面的に見えてくる。 「誤解を恐れずに書けば、山登りは死ぬほどおもしろいのであり、おもしろいほどあっけなく人が死ぬ世界である。」ぎくりとするが的を射ている。誤解されそうなので書くが、人の死がおもしろいのでなく、「(その山登りがギリギリ生還するような過酷なレベルのもので、おもしろければ)おもしろいほどあっけなく人が死ぬ」という意味と解釈する。敢えて誤解されそうな書き方をするところが尾上氏流の味かと思う。こんなお節介は不要か。原真も書いていた。「山には死があり、したがって生がある。下界の多くにはそれがない。」 また原さんの本をよみたくなった。 尾上昇(おのえ・のぼる1943年生まれ) 2020 中部経済新聞社 1600円+税 |
2020-11-11 14:32 |
第93回ヘルヴェチア祭...
今回はコロナ対策としてOBには案内は出さず現役のみで企画、開催。
ヴェチア幹事の佐藤君(4年目)からの報告を混ぜてレポートします。 参加者は現役13名、2013以降の若手OB7名 水産4年1名。指導のため特別参加のOBは井ノ上、石川部長と私。現役と若手OB2人は昼間は赤岩で登ってから到着。 17時頃から前夜祭。部長から挨拶と小屋生活や山行を通しての山仲間の意義を、私から作った小屋管理マニュアルの説明の後、幹事(オレンジ帽子)が乾杯。料理は2年目シェフ田中君により、豚汁、唐揚げ、大根の煮物、サラダ等。 現役と若手OBら。3年目がいないが1年目が4名いて全体で15名近くと何とか部員数は維持。若手OBに協力してもらって2年班のリーダースタッフをお願いしたい。 女子が3名も。焚き火を囲んで自己紹介、山の四季などを歌いお開き、一部の者は日付をまたいで話し込んでいた。 我々OB3名は19時頃に退座して帰ったが、その前に現役は山の四季含め、カメラーデンリートも知らないというので2〜3曲と、森田君(1973入)が現役2年目に作った「ヘルヴェチアコンパの歌」も歌唱指導してきた。部室には1993発行の歌集「山の四季も」あるというが、山と歌は我々には切っても切れないものなのだが〜OBの指導が必要か。 ヴェチア祭り記念集合写真、ロゴと国旗は佐々木ロタ(1955)の90周年の際の労作。本祭としてヴェチアの女神に祈りを捧げ、集合写真を撮り解散。 小屋大掃除での床ワックスがけ。以前より木目が浮き出てきた。 前日私が砂利を積んだダンプで小沢を越えて砂利敷き。山の会会計に了解を得ての作業でバイト代として現役にもカンパをしてきたが、途中でぬかるみにはまり動けず、結局レッカーを救助要請して高いものになってしまった。 |
2020-9-29 15:20 |
【読書備忘】人間の土...
東海大山岳部で2006年、若くしてK2登頂を果たした小松由佳さんは、その後山をやめてシリアの遊牧民を撮影するフォトグラファになった。なぜ山をやめたのか、以前はそれを知りたかったが、今は少しわかる。K2登頂生還者というオリンピック並の金メダルは、その後自分の山登りを若々しく無邪気に正直に続けていくのには重すぎるものだったのかもしれないと推測する。信頼できる仲間、積み上げた技術と体力、高所で酸素が切れてもヤラれなかった才能、これだけそろえても更に強い運が加わらなければK2から生還はできない。彼女は賢明で、成功のあと、足りたものを知り、無理に世間の期待や相場に合わせて「高所登山中毒」に陥ることなく、自分の別のテーマにすっと移行したのではないか。 家族を大切にし、伝統の中に価値を見出し幸福に暮らすシリアの家族を撮影した写真集、「オリーブの丘へ続くシリアの小道で」は、彼女の新しい世界をみせてくれた。しかし、2011年に始まった民主化運動を弾圧するシリアの内戦はその後地獄と化して、今現在も10年近く続く終わらない悪夢だ。シリアに関わった彼女は、幸せだった人たちのその後の窮状を危険な治安機関の制限のなか撮影、あるいは取材し続ける。 https://aach.ees.hokudai.ac.jp/xc/modules/AACHBlog/details.php?bid=745&cid=7 帯に角幡氏とヤマザキマリ氏の推薦文が。探検家角幡氏はわかるが、ヤマザキマリの応援はなるほどと思った。小松氏は、シリアの60人もの大家族の末っ子男性と結婚し、元ベドウィン(遊牧民)の砂漠伝統家族の仲間入りをするという、思い切った人生を選択していて、この点が「モーレツ!イタリア家族」の一員になったヤマザキ氏や、イギリス人と結婚し最近おもしろい本を連発しているブレディみかこ氏に通じるたくましさがある。本著の前半はそんなベドウィン風の古き良きイスラム的大家族の幸福な魅力が語られるのだが、今世紀最悪のシリア内戦の当事者として、ストーリーは続いていく。 思うに彼女は、選ばれてしまった人なのだ。強剛登山家が4人に一人の確率でがあっけなく死んでしまうことで有名な死の山K2から、仲間と才能と努力と運に恵まれて生還した運命といい、地獄と化すなんて想像もしなかったほんの数年前の幸福な時代のシリアを知った上で、今の惨状を知ってしまった運命といい、本人も予期しなかったことではないか。 しかし、アフガンの故・中村哲氏も言っていた、「見てしまった、知ってしまった、放っておけない」これが彼女の運命ではないかと思う。そして運命は、弱い人間を選びはしない。大学山岳部で山登りにとことん打ち込み、強い心を持った彼女だから、今こうしてシリアの内戦から逃げずに歩んでいけるのだ。そしていま最もやりがいのある仕事、ちいさな二人の子供と歩む実り多い人生を過ごしているさなかだと思う。 「山岳部員出身」というちかしさから、20代の数年間を山登りのことばかりを考えて過ごしたという共感から、彼女の人生をひとごとと思えない。彼女は、自分で選んだ人生の舵を決して離していない。船は波に漂うが、舵だけは自分で握り続け続けている。子どもたちのビレイを続けながら。その姿がとても尊い。 人間の土地へ 小松由佳 2020/9 集英社インターナショナル |
2020-4-15 21:46 |
【読書備忘】渓谷登攀...
大西良治著「渓谷登攀」が出版された。ガイド本を除いて、沢登りの本としては成瀬陽一氏「俺は沢ヤだ」以来の事だろうか。いや、「外道クライマー」以来か。
登山者人口が増え、情報もそれなりに流れるようになりかつてのハードル高さも減じて夏道登山だけに飽き足らずクライミングや雪山、そして沢登りにも手を染める人達も徐々に増えてきたように思う。それにしても、このような特殊な本にまで手が伸びるとは到底思えず、出版元の山と渓谷社の英断を称えたいし、こうして沢登りの深部が紙媒体として残ったことを祝いたい。装丁も、表紙からして配色やI滝と文字の配置よろしく洗練されており、編集者の労をねぎらいたい思いだ。目次等、背景が黒で文字を浮かばせたそれらは、渓谷内のゴルジュを意識したものだろうか。 台湾渓谷での沢登り(溯渓)や日本の険谷遡行に多少なり関わってきた身として、この本がどういった価値を持つ本なのかを語ってみたい。 著者である大西良治氏については御当人の開設する「SOLOIST」を参照頂くとして、ここでは客観的な補足に留めたい。クライミングに魅入られて入れ上げる多くの人々が、登山総体の中での一ジャンルに過ぎないクライミングという行為自体を目的としてしまうだけに満足する中で、大西氏はクライミングを手段としてこれまで通過やトレースが許されてこなかった大滝や不明だったゴルジュを解明し、時に新ラインを引いて我々オールドスクール出の溯行愛好家を驚かせた。またそれらが主として単独で成された点に尚、驚かされた。 まずは国内掲載の「日本の渓谷」について。25本の掲載があるが、私の少ない経験に照らしてもどれをとっても一筋縄ではいかない険谷群の羅列である。登攀的要素が強く、単独でロープを出すとなれば「ソロイスト」という制動ギアを使用した登り返しの必要な倍手間を喰うシステムとなるし(赤川地獄谷、オツルミズ沢、池ノ谷、梅花皮沢滝沢、剱沢等)また、泳ぎを強いられる谷(不動川やザクロ谷、五十沢)では水流への引き込まれを回避できる確実な方法がないために“賭け”ざるを得ない場面も現れる。増してや滝や高捲きのフリーソロ部分では絶対に落ちられない。一本一本が遡行愛好家の究極の目標たり得るものばかりであるが中で「日本の渓谷」のハイライトは『称名川』、の項である。入口とも言える称名滝(しょうみょうのたき)が世紀末周辺に登られ出すや、次に注目されたのが当時未踏を誇った「称名廊下」であった。探検家である角幡唯介氏や北大探検部卒の故・澤田実氏、そして上記成瀬氏もこの「日本最後の地理的空白地帯」に注目して懸垂下降しては廊下部分の踏査をし、写真を残していた。成瀬氏に至っては計画の発案者である青島靖氏と共に称名滝落ち口からの溯行や、称名廊下終点からの下降とトライアルを重ねたものの水量の多さやスケールの大きさから「今までの溯行スタイルを越えた何かを掴まえること」が初溯行には必要となるだろうと記録に書き残し中退している。これら動きに連動してか、大西氏もこの称名廊下にエントリーして、氏としては”不本意ながらも”初めての偵察やエスケープ路の確保をした上、初溯行を成功させた。それらにも飽き足らず、更には称名滝(フリー)登攀から称名廊下、そして源頭の室堂までの溯行を(デポを置きながらも)ワンプッシュで完成させ、区切りとしている。誰の手も借りることなく。これら一連の行為に投じられた情熱や労力の総量たるや、計り知れないものがある。 この本に紹介された記録には、幾本かの重要な意味を含んだ山行が採用されている。それは、引き返しの効かない地点を意志的に踏み越え、困難を乗り越えた末に生還している点である。しかも“良いスタイル”で。台湾の大渓谷に踏み込むにあたって、谷中でトラブルやアクシデントに見舞われた際にはその奥深さ故に救援は全く見込めず、自力で対処し行くか戻るかの判断を迫られることもあり、何があってもパーティー内で処理し、覚悟を持って入渓する点は多少なり救援の見込めるヒマラヤ登山以上の心理的ハードルがある。その意味で「台湾の渓谷」での記録はその“ある地点”言い換えれば「境界」をどれも踏み越えているし、称名滝右壁登攀、そして「CANYONING」の項では剱沢や恰堪溪(チャーカンシー)の1st descent、Gloomy Gorgeの2nddescentもソレに該当している。 尚、我々が行っていた二十世紀末の台湾溯渓は、同行する現地の嚮導者の人数や力量もあって実にオーソドックスな遡行スタイルに終始し、困難な滝やゴルジュ帯が現れれば一日掛かりの大高捲きを敢行して回避し自然、日数に制約を受けた“そこそこの”中規模渓谷までの溯渓に限られていた。しかし世紀改まり、台湾溯行の際の嚮導者、人数等の制約事が良好に改善されたことも手伝って且つ日本からは精鋭達が集い、この魅力溢れる台湾島の未踏大渓谷群にありったけの情熱や力量を注ぎ込むことが出来た結果、たった一本の渓谷に二週間にも渡る沢登りとしては長期の日程を投じて高捲きを極力排した完成度の高い溯渓が次々と成された成果が、この本にある。規模の大きな台湾渓谷での高捲きは溯行に際して日数を食い潰す排すべきスタイルであり、高捲きを選択せず些か強引な手段を採ってでも中を通過した方が遡行は遥かに捗ることを示した。高いクライミング能力を武器に、ボルトの使用すらも排し、且つ不明部分をつくることなく行程を早く進められる。そのことは、前記青島・成瀬両氏が長渓、豊坪渓を三度に分散して完溯したのに比べ、彼らは(途中入渓だったとしても)ワンプッシュで左俣を成し遂げたことにも現れている。 渓谷溯行で現れる、一見して通過不能と見える鬼気迫る暗いゴルジュや廊下が人生の苦悩の、登攀困難な滝が人生の困難を象徴するならば、これまで殆どの人達に高捲かれ内院を覗かれず未知として残されてきたそれら空白部分に、著者である大西氏は時に単独で怯むことなく挑んで最も数多くそれら困難を乗り越えてきた人物といえる。 ただ本人が単調な表現の繰り返しを避けるのに苦労したと言っていた通り、志水哲也の「大いなる山 大いなる谷」が発刊された際に柏瀬祐之氏(「山を登りつくせ」の著者)が指摘したのと同じこと思ったのも正直なところである。それと、我々が台湾の沢登りを現地語で「溯渓」と呼称した言葉がここには殆ど現れなかった点は、我々が積み重ねた溯渓と氏が行った台湾溯行とが地続きで(水脈で繋がってい)ない感じを受けたのは少々残念であった。 とは言え、アルパインクライミングにも引けを取らない沢登りの可能性を未来に提示した点で、本書は価値ある一書である。素晴らしい大判の写真を目にするだけでも本書で展開された行為の迫力の一端に触れられる。 私が台湾溯行に手を染めた頃、極秘入手したその広げたゲジゲジ台湾地図を前にして解明される未来などまずやって来まい、そう手前勝手に思い込んでいた1990年代初頭時から凡そ30年、21世紀を迎えて主たる水系はあらまし溯行され解明されてしまった! 驚くと同時に、そんな同時代を生きて目の当たりにすることが叶ったのは幸いだった。 最後に名誉の為に申し添えたいのだが、日本の険谷登攀はじめ、称名滝、称名廊下、そして台湾大渓谷のこれからを将来に向けて世紀末の段で既に提示していた青島靖氏(大阪市大山岳部OB)の先見の明について、ここに記して本文を締めたい。【20200413記】 |
2020-2-24 15:43 |
2020年関西支部新年会
日時:2020年1月25日(土)
場所:京都三条木屋町 温石 左近太郎 参加者(敬称略、入部年西暦下二桁):吉田(57)、相田(58)、神戸(59)、高橋(59)、田中英(59)ご夫妻、内藤(59)、渡邉(59)、川道(62)、須田(62)、岸本(65)、池上(70)、宮本(82)、岡島(83)、多田(86) 合計15名 報告:岡島(文)、宮本(写真) 会場の「温石 左近太郎」は、典型的な京都の「ウナギの寝床」であり、3回続けて会場になったためか、慣れ親しんだルームを思い浮かべた。12:30開催で、実に4時間にわたり、30年の入部年度差にもかかわらず、あちこちで話が咲き続けた。会費もなく遭難対策もない、親睦の集まりであるが、最後は肩を組み山の四季で締めた。 「若いOBの参加をもっと呼び掛けるように。」との川道支部長の号令を受け、脈のありそうな数名に直接コンタクトを取るものの、皆々ご家庭の用事があるとの事で残念ながら「ご盛会をお祈りします。」とのご返事。新しい面子が得られない中で、池上宏一さんが久しぶりに関西支部の集まりに顔を出された。 昨年10月の湖北合宿の報告に記した朝比奈英三先生と川道支部長とのアラスカ大学での件を池上さんが目にされ、1972年マッキンレーの下山後にアラスカ大学に川道さんを訪ねて行かれたことを懐かしむコメントをAACHのメール連絡に載せられた。私も30年近く前にデナリ公園でキャンプしたときにマッキンリーを北面から望んだことがあり、部報12号に掲載されているマッキンリー遠征のダイジェスト版を読み直した。 カヒルトナ氷河からウェストバットレス経由で頂上アタックはノーマルルートを辿るが、登頂後の下山が他所では考えられない行程となっている。詳細は「寒冷の系譜」にも記されており、越前谷さん達が語っている様にルームのセンスに徹した「3年班」と位置づけている。また東晃先生がこの長いワンデリングを褒めておられた事も嬉しい。まさに冬山メイン山行で、十勝川からトムラウシを登って石狩川に乗越すスタイルをアラスカで実践されたのだと思った。 池上さんは1980年のバルンツェにも登頂されている。この時の装備開発と気象研究が2年後の冬期8000m峰につながった経緯が「寒冷の系譜」に詳しく報告されている。 そして更に、越前谷さんが「池上の作った膨大な事務局ファイルというのは、全部記録として残っている。このファイルはAACHが初めて立派な登山報告書を作る上に貢献した。」と評価されている。その談の通り池上さんは、1本締めのアタックザックに収めたマッキンリー遠征のアルバムと地図を持参して下さった。 アルバムには写真とスケッチが丁寧に整理されており、報告書で見た覚えのあるチロリアンブリッジでクレバスを越える写真が、何故か目に焼き付いている。 さて、関西支部の報告というよりも池上さんを巡る“寒冷の系譜”を断片的に追った内容になったが、関西支部の常連メンバーは益々ご健勝につき詳細報告は割愛させて頂きたく。終わりに、今回欠席の連絡を頂いた窪田さん、伏見さん、福本さん、米澤さん、石松さん、川井さん、中谷さん、鈴井さん、三瓶さん、またの機会にお会いしましょう。 |
2020-2-6 14:13 |
2019年秋関西支部会員...
2018年9月20日に京都駅前のビアホールで「甚暑祓い/豊穣祈願」の飲み会を開いた。この年の関西は梅雨時から尋常ではない暑さが続き、関西支部の先輩の何人かは、参ったと弱音を吐いておられたので、少し涼しくなったら顔を合わせ気分転換をはかるのも良いのではと急遽集合を設定したもの。(飲み会参加者:安間、相田、高橋(昭)、田中(英)、内藤、伏見、川道、岸本)
勿論皆様お元気でいつものようにジョッキ片手に近況雑談で盛り上がりました。席上、安間さんから空沼小屋の現状を話していただき、胆振東部地震がありスタートが遅れたがこれから北大当局を説得し、空沼小屋及びヘルベチア小屋を有形文化財として登録申請するように進めてゆくとのこと。 |
2020-1-14 21:44 |
2019ヴェチア祭り レポ...
現役のヴェチア幹事岡崎君から第92回ヘルヴェチア祭りが10/27に催され、写真とレポートが来たので遅くなったが編集しました。
OBは川道(1962入)、小野寺(65)、高橋(66)、安藤(70)、岩間(70)、中村(88)の6名、 現役は15名、若手OB2名他2名で計26名。峠越えは若手OB神谷(2015)1人のみ。主任幹事の笠井(4)の挨拶で前夜祭スタート。現役は今年は1年目6人が入部し将来は明るい。途中小雨もあったが焚き火を囲む。OBからの酒や料理の差し入れが例年より多くありがたい。例年の現役ワンコイン、OBからは3000円の会費で間に合う。メニューは生ハムにクラッカー、ラーメンサラダ、鍋、ポテトサラダ、牛丼、とりわさ等。 朝は昨晩の鍋にうどんを入れて朝食。11時ごろまで小屋の掃除や薪割り、煙突掃除など。手こずった薪割り用の切株数個残して記念撮影。11時半ごろ解散。 北海道新聞20200112別冊 道新記者が当日取材しにきて、丁度1/12日曜版別冊に山小屋の鎖という題で2面に渡り特集を組んでくれた。 ヴェチア幹事の岡崎君や小泉前会長、空沼小屋の保存を考える会の安間会長のコメントもあり、なかなかの小屋PR記事になっている。14年前理学部博物館で催された山小屋展の再現ともいえる記事。写真入りのインタビュー記事の在田氏は山スキー部OBで当時の館長。 |
2019-11-2 14:56 |
関西支部 月見の会
日時:2019年10月19〜20日
場所:奥琵琶湖キャンプ場 参加者(敬称略、入部年西暦下二桁):吉田(57)、相田(58)、高橋(59)、田中英(59)、内藤(59)、川道(62)、須田(62)、米澤(69)、奥様タップティムさん、石松(73)、宮本(82)、岡島(83) 合計12名 記録的短時間大雨情報が千葉県に発表されるなど、10月19日土曜日は関西地方も天候が不安定。今夜は外でのBBQは無理かなと思案しながらJR湖西線の安曇川駅に向かい宮本さんと合流する。天候は回復に向かい12時過ぎに駅に着く頃には雨は上がった。 安曇川は琵琶湖に流れ込む二番目に大きな河川で、比良山系の雪解け水が流れ出す春先には、「琵琶湖の深呼吸」と呼ばれる全層循環を引き起こす要因の一つであると、以前の月見の会で伏見さんがレクチャーされた事を思い出す。 我々先発隊は先ず、淡水魚専門の養殖場でイワナを仕入れる。養殖池にはニジマスやビワマス、鮎やコイがたくさん泳いでいた。次のスーパーで酒や肉、野菜の買い出し中に石松さんと遭遇。石松さんに永原駅での須田さんの迎えをお願いし、宮本号は今回のベースキャンプとなる奥琵琶湖キャンプ場へと直行する。 ここ湖北の西浅井町は、柴田勝家と羽柴秀吉の合戦となった賤ヶ岳が直ぐ東にあり、西方は鯖街道など御食国の若狭から朝廷に水産物を貢いだ街道も多い。また今回のベースの最寄りの集落である永原は、隣町の塩津と合わせて古代から琵琶湖の水運の要衝であった。更に、北方の山並みの向こうは越の国となり、敦賀・舞鶴からは小樽行きの船便(北前船)が蝦夷ヶ島に通っている。現代は塩サバに代わって、大飯・高浜の原子炉から赤坂山を越えて高圧送電線を電気が送られて来る。ちなみにこの辺りは関西では貴重な山スキーのエリアである。 今回の会場は薪ストーブ、キッチン、冷蔵庫、ベッド、風呂、ウォシュレットトイレ付の別荘風の2階建てのコテージ。玄関前のバルコニーを宴会場として、テーブルと椅子を並べ、夕食や炭起こしの準備をしている間に12名全員が集合し、午後4時に開宴となった。イワナの塩焼き、焼肉、鳥鍋、鯖寿司、マス寿司と饗宴が続き、米澤奥様のタップティムさんが華を添えて、インターナショナルな会話が弾んだ。 雲も晴れ、月も望めた9時過ぎに山の四季を歌い屋内へ移動。その後、高橋さんが準備された空沼小屋とヘルべチアヒュッテを巡るスライドショーの上演となった。またこの会に先立って芦峅寺の佐伯トンコのご長男である高男氏を訪問され、関西支部の山小屋に置かれていたヒュッテン・ブッフやアルバムを持参された。小屋ノートの緒言は吉田さんで始まり、途中には富山での雪氷学会の折に立ち寄られた木崎ジミーの筆跡もあり、最後は高橋さんの文で終わっていた。 高橋さんが探されていた物の一つは、芦峅寺の山小屋「北大山の会関西支部ヒュッテ」に掛けられていた伊吹良太郎さんの墨跡の看板でした。しかし残念ながら見つからなかったとのこと。確か30年ぐらい前の山の会会報に看板が写った写真付きの記事が載っていた記憶がある。「関西支部の名越ら悪童たちがまた今年もやって来た・・・」と記した恐らくトンコの寄せ書きだったと思う。私の手元にはこの会報は見当たらなかったが、平成11年に編纂された北大山の会会報の総集編を捲ると、昭和53年12月第46号「中野征紀前会長追悼号」10頁(p472)に「芦峅寺の山小屋」の題で関西支部の一文がある。 また、平成7年に編集された「芦峅の自然児・トンコ−佐伯富男追悼集−」に寄せられた思い出話しも芦峅寺の山小屋での場面であったのかも知れない。また別の機会に、芦峅寺のトンコの山小屋の資料が公開されることを期待したい。その他の話題として、伊吹さんが編纂された「行手は北山その彼方−京都一中山岳部85年の歩み」(2003年12月発行)の資料の紹介もあった。 伊吹さんの京都一中時代の貴重な写真をはじめ北大に関する章もあり、一行を紹介します。「当時は一中から三高へ進むのが一般的なコースであった。しかし、『謀反』を起こして北を目指す人たちがいたのだ。その中で、最初にブランキスト線−津軽海峡を越えたのは加納一郎(大正5年)ではないだろうか。・・・」このような会話が盛り上がる中、夜は更け11時過ぎ、7時間にも及んだ大宴会はお開きとなった。 翌朝はパンとサラダ付きベーコンエッグ、スープとコーヒーの朝食で始まる。合宿なので自炊である。朝食の後、皆さんの近況と今後の抱負を語って頂いた。 吉田:学生のヒマラヤでのフィールドワークを企画しています。ゴンドワナ地質環境研究所まで。 相田:六甲山を越えて有馬温泉に通っています。 田中:クルージングの海外旅行を楽しんでいます。同期会が段々と閉会し、世代を超えた山の会の集まりは大切な時間です。 内藤:家内と孫の世話をしています。若い人向けの料理も作って食べさせています。 川道:大学院生の海外での学会発表の支援をしています。川道国際学術交流協会まで。 ムササビの写真集を米国で出版するための編集中です 須田:自給自足の農業を営んでいます。 米澤:タイと日本の季節の渡りをしています。 タップティム:タイにいらしたときはぜひ遊びに来てください。 石松:定年後で余裕が出てきたので出席しました。アルバイトで足腰を鍛えています。 宮本:災害情報に関するインフラ整備の事業を立ち上げています。 岡島:冬山は雄山東尾根を考えています。 湖畔のベースキャンプを10時に撤収し、永原の駅前で散会となった。吉田さん、相田さん、内藤さん、川道さん、須田さん達と湖西線の客車のコンパートメントに二班に分かれて座り、車窓から琵琶湖の向うの横山岳、伊吹山、鈴鹿山脈を眺めながら話に花が咲いた。 川道さんの50年来の秀岳荘のアタックザックの話に始まり、51年ぶりにロシアとジョージアの国境にあるウシュバ南峰(カフカス山脈)下の氷河で見つかった小林年さんのザックの話に発展。ネンさんがザックを落とした理由として、秀岳荘のザックなら背負い紐が切れたのではなく、バックルの留め金のピンが革バンドの穴から外れたのではないか? 「ネンさんの岩登りの上手さは特別だ。」と川道さんが回想。その後は、写真家の星野道夫さんと朝比奈先生との交流の話も出た。「旅をする木」に記されている内容ですが、動物研究者でアラスカ大学に学んだという共通項で繋がった川道さんの話を聞くと、星野道夫と朝比奈先生の繋がりがぐっとリアルに感じられた。(注:低温研の朝比奈先生はアラスカ大学北極生物研究所のアドバイサリー・コミッティの一員として、留学中の川道とお会いしました)。合宿帰りの汽車の中の様な、ゆったりとした時間が流れた。 まだ陽も高いので、私は途中の叡山坂本で下車し、比叡山延暦寺を越えてキララ坂を下って修学院離宮の側に降りた。明後日の10月22日は即位礼。風水害が治まりますよう鎮護国家を祈念しながら帰路に就いた。 (文:岡島、写真:高橋、宮本) |
2019-10-19 22:58 |
【読書備忘】熱源 米...
熱源
川越宗一 文藝春秋社 2019.8 日露の文明に飲み込まれたかに見えるサハリン島の樺太アイヌと、独露の圧政にあり123年間独立を喪失していたポーランドの、19世紀から1945年の物語。 クライマー、ヴォイテク・クルティカの評伝をきっかけに、ポーランド関連本をこれで5冊目ハシゴしている。巨大なロシア文明に飲み込まれた東西の少数民族文化の数々に興味がある。19世紀はその滅びゆく最後の時期にして学術記録も残された時期。興味深いテーマの史実が盛り込まれたフィクションで、この秋の新刊。フィクションを思って手にとったけれど、かなりの部分が史実で驚いた。 以前からなんとなく思っていたが樺太の北緯50度線は、ただ日露が半分に引いた線ではなく、もともと南のアイヌと、北のニブフ(ギリヤーク)との大体の境だったのだろうか。 1875年の樺太千島交換条約での樺太アイヌの北海道への半強制移住、1904年日露戦争の日本軍による南樺太侵攻と40年間の統治、そして1945年のソ連南樺太侵攻。この時代に翻弄されて生きた樺太アイヌのヤヨマネクフと、1795年以降国を亡くしていたリトアニア・ポーランド人のブロニスワフ・ピウスツキ。遠く離れていたが流刑地としてのサハリン島で出会う両者。 読みすすめるうち、ブロニスワフの姓、ピウスツキと、ペテルブルクでのナロードニキの先輩革命家、ウリヤノフの名に既視感を感じてはいた。後半になって、実在有名人がたくさん出てくるに至って、ブロニスワフもヤヨマネクフも、実在の人物だったのを初めて知った。二人だけではなく、登場し生き生きと描かれる樺太アイヌたちのほとんども、民俗学者ブロニスワフによって記述され記録された人々だった。 登山愛好家の読者として注目するのは、1912年白瀬矗の南極探検隊の犬ぞり担当者として参加したヤヨマネクフの働きだ。わが主人公は歴史上ではこの役割によって名を留めているが、少数民族として南極隊に参加する動機とその葛藤、消えゆく存在とみなされることへの反発など、心の内がずっと描かれている。同じく終章で登場するウィルタ族の若く優秀な射手もまた、対照的なひとつのあり方として描かれていた。 この本で一番読みたかったくだりは、ヤヨマネクフがブロニスワフの録音機に、未来に向かって話した「願い」とも「祈り」ともいえる言葉だ(p249)。 「もしあなたと私たちの子孫が出会うことがあれば、それがこの場にいる私たちの出会いのような幸せなものでありますように」 「そして、あなたと私たちの子孫の歩む道が、ずっと続くものでありますように」 19世紀は近いようで遠い。自分の先祖でどんな人生を送ったか伝え聞いているのはせいぜい三代前までではないだろうか。1964年生まれの私なら父は1934年生まれ、祖父は1905年、曽祖父は1870年代、知っているのはそこまでだ。そして先祖の数は3人だけではない。母方にもその母方にもいて、2の階乗の和で増えていく。2+4+8+16ヤヨマネクフの同時代でも16人の直接の先祖がいるはずだが、ほぼ知らない。自分が「純粋な日本人」だと思っている多くの人も、明治初期の4代前の16人全員の生涯を知っている人は多くはないはずだ。アイヌもコリアンも無関係と思っていても、そうではないのだ。自分は旧家の10代目です、という人がいても、2の10乗=1024人のうちせいぜい一人の素性を知っているだけだ。子孫に伝えられなかった、多くの先祖たちの人生を思う。 「熱」という言葉は要に何度も出てくるこの作品のテーマだ。21世紀になり、姿を消したかに見える樺太アイヌの独自環境に根ざした暮らしぶりや習俗。しかし文化、物語は形を変えて残っている。見えないエネルギーの象徴として、「熱」が語られるのだろうか。 先週ちょうどラジオの音楽番組で、アイヌ音楽家のOKIがトンコリを奏でるのを聴いた。90年代半ば以降になって、ようやくアイヌ文化の価値を差別的偏見を通さずに評価する時代になった気がする。30年ほど前の北海道では、今では考えられない、ここに書きたくもないほどの差別的な体験を見たことがある。人が差別的になるときに、両者の無知を思う。作品中の主人公たちが人生通じて、無知からの脱却のために学校を作ろうと努力をし続けたことが印象的だ。 日本統治時代には近代化の開発が進み、ロシア統治時代にはかなり放置される傾向があったように思う。樺太の山河は幸か不幸かロシア統治下で21世紀にも物理的に比較的未開発のままだ。もし戦後も日本領だったら、高度経済成長期やバブル期に今の天然山河は失われていただろう。北大山岳部的には、すぐ近くにある「システム外」の秘境山域を、どこまでも山スキーとイグルーで北上していきたいと思うのである。アイヌ、ニヴフ、ウィルタたちの伝説を読み返しその世界を空想しながら。 |
2019-10-14 22:33 |
北大寮歌祭(東京・蒲...
2019年10月14日(月・祝)に、東京・蒲田の大田区産業プラザで開催された北大寮歌祭に、AACHから9名が参加し、山岳部部歌「山の四季」を披露しました。
左から、中村(1979)、土田(1973)、清野(1979)、竹田(1968)、清原(1986)、 石村(1953)、山森(1986)、大村(1965)、山森娘(小6) 今年はAACHで1テーブルを専有し、世代を超えて交流を深めました。 壇上では、山スキー部、ワンゲルをはじめ大勢の「山の四季」ファンの方々の 応援をもらいました。「山の四季」が幅広く愛されていることを実感しました。 来年は、「2020年9月27日(日)、於:大田区産業プラザ」の予定です。 皆様、ありがとうございました。来年もよろしくお願いします。 北大寮歌祭サイト http://www.ryoukasai.org/ 北大寮歌祭動画配信サイト https://www.youtube.com/user/ryoukasai スマホ用の寮歌集アプリ http://www.ep.sci.hokudai.ac.jp/~mkuriki/phone/ryoka/list_ryoka.html 山森聡(1986入部) |
2019-9-28 15:38 |
【読書備忘】アート・...
1980年代から1990年代にかけて8000m級を含む高所の困難なルートに、創造的なルートを見出し、事故もなく、数々の「芸術的」とも言えるラインの登攀を成功させて生き延びたヴォイテク・クルティカの評伝の和訳が8月に出版されて、かみしめながら、こってりと読書した。
表題がart of climbing でも freedom of climbing でもなくart of freedomというので、意味を考えながら読み続けた。読み終えるころ、納得する。山登りの喜びの芯の部分は、「自由」にある。 「自由」こそ、私自身が少年期から山に求めて飽きずに登ってきた山登りの魅力の本質の部分だと思っている。free。道具を持たず、社会システムの保護と制限から逃れて行ける所、それが「山」のはずだ。描くそのラインは、既存のものでも制限下のものでもなく、そして何より美しくなければならない。ガッシャブルムI,II峰縦走、ガッシャブルムIV峰西壁。今でもその美しさを後追いできない。 1947年生まれ。40歳前後のヒマラヤ高所で活躍の時代は、私の山登りを始めた時期であったのだが、同時代ではやはりメスナーとククチカの記憶はあったけれど、クルティカの憶えは無かった。その理由は、本書を読んでわかった。ククチカとクルティカ。名前が似ていて同時代の対照的なふたり。クルティカの軌跡は、当時のメスナーとククチカの「8000m争い」の時代に、惑わされず、始めから最後まで一本芯が通っていた。 「8000m峰全山完登という王冠」を懸けて「クライミングという高貴な芸術を、価値のない見世物に貶めた」。クライミングが持つ「ロマンチックで形而上的、そして美的な価値観を」無視し、「アルピニズムを序列化という罠に陥らせ」た。ということばに、クルティカの考えは集約される(330頁)。おそらくそれとつながる理由で、クルティカは何度もピオレドールの受賞を丁重に辞退し続けた。世から賞嘆を受け、自分がそれにふさわしいものと思い込んでしまう可能性を恐れたために。その丁寧に固辞する文面に、彼の誠実さがにじみ出ている。 読書途中で見た、ジミー・チン監督のドキュメンタリ映画「フリー・ソロ」のアレクス・オノルドの慎重で控えめな人格が何故かかぶってしまう。こちらも「フリー=道具なしあるいは自由」が主題。エルキャプの4時間フリーソロは快挙だけれども、同時に読んでいたクルティカのガッシャ4峰西壁は、誰にも映像化できまい。サードマンまで現れる限界の生還。どちらも「自由の芸術」にふさわしい行いだと思う。 ポーランドにはなぜ、あの頃突出したヒマラヤクライマーが続出したのか?これは個人的に長い間の疑問だった。70-80年代の社会主義体制に理由があったのかな?チェコスロバキアやハンガリーにだってタトラほどの山はある(と思う)。この疑問は何度か本書でも述べられる。この本を読んで少しわかったのは、クルティカの脱法精神が不条理な社会主義体制に育まれた面だ。「違法であることは創造的人生の一部なのです」「制約はほとんどが世界の悪者によって押しつけられ、私達を奴隷化します。これは自由の感覚を台無しにします。」(332頁)ディストピアや他国による長い圧政の歴史が芸術を生み出す、これは映画や文学でも多くあり「東欧産」には僕は心惹かれる物が多い。 クルティカの独白部分の一人称訳が、「です・ます」調であることに、はじめ小さな違和感として気にとまった。外国人の翻訳セリフや字幕は必要以上にフレンドリーというか、ときに馴れ馴れしいほど軽率な言葉遣いになりがちだ。これは日本メディアの悪習だと思うけれど。特にスポーツ選手や元気のいいキャラの場合は間違いなし。読み進めればすぐに分かるが、クルティカの言葉は思慮深く、難解とも言える言葉遣いだが、考えつくされて選ばれて出された言葉なのだろう。おそらく日本語ではこの丁寧な言葉遣いの訳がふさわしい人柄なのだと思う。それがわかるのが、意見の違いで別れていくパートナーたちに対する慈愛に満ちた言葉の数々だ。「アルパインスタイルの登攀には、とても深い倫理的理由があります。私は自分が大切に思う人としか行きません」(269頁)。 マッキンタイアと聴いたマリアンヌ・フェイスフルの歌(Broken Englishかな?)、トランゴで落っこちた後、ロレタンが聴かせてくれたダイア・ストレイツの歌(たぶん「Brothers In Arms」)。聴いてみると当時に時代を引っ張り戻してくれる。ポーランド人の名前や地名の発音しづらさが面白くてポーランド語初級教本やポーランドの地図と略史なども読みながら読み進めた。ポーランド、行ってみたくなってきました。 英語版で買って読んでいたクルティカファンもいるけれど、日本語でなければ私は読めなかったでしょう。理屈っぽくて言葉を選びに選ぶクルティカの独白を日本語にしてくれた翻訳者、恩田さんにも大いに感謝です。 |
2019-9-27 22:50 | 51年前のザック・氷河... |
2019-5-21 14:11 |
北海道流探検登山熟成3...
17日、1987年探検部入部の澤田実氏が、カムチャツカのカーメンの大岩壁の登攀山行中に事故死したと連絡があった。氏が高田馬場のカモシカスポーツにいた時、ライペンの褪せ柿色ザックと、伸縮性のカッパズボンを冬用に買った。今も継ぎ接ぎしながら履いている。そろそろ捨てようかと思っていたけど捨てられなくなってしまった。昨年3月、遠見尾根でイグルー作っていた時会ったのが最後。ニコニコしていた。
2年前、氏の著書の書評を編集部から依頼されて書いた原稿を以下に転載します。 山と溪谷 2017年2月号 書評記事より 北海道流探検登山熟成30年の技術論 北海道大学探検部の現役学生が北海道最大の鍾乳洞を発見し、彼らを取材したことがあった。函館で仕事をしていた10年ほど前だ。神秘的な深い穴の奥でその学生にきけば、「世界中の誰も来たことのない場所を僕らが見つけて、むふふという気分です」と答えた。誰も行かないところに行きたい。探検部員の真髄の言葉だったと思う。 著者澤田実氏は北大探検部、私は北大山岳部で、数年の違いで共に北海道の探検的山登りの洗礼を受けた。北海道の山は伝統的に未開であり、山岳部も探検部も共に探検的思想無くしては登れない。北大は、「遠くに行きたい、大自然に飛び込みたい」と考える若者が集まる所なので、活発な山系クラブがいくつも共存し栄えている。これは昔も今も変わらない。 実は私自身がつい三ヶ月前に、北大で育った登山経験を核に「冒険登山のすすめ」という本を出していて、今回澤田氏の本を読み、「・・・これはモロかぶりだ」と思った。山岳ガイドである氏が、初級者と登って気がついた沢や雪山の経験的な登山技術を書いていながら、雪洞(私の場合はイグルー)、焚火、地図読み、山スキーと排便問題にただならぬ力点を置いた特異な登山論が両者全く同じだった。なんだか自分の本の書評を自分で書いているような奇妙な状況である。しかし当然ながら、モロかぶりだからこそお勧めする。この本を読んでほしい。 澤田氏と私とは学生時代はほぼ入れ違いで、共通の友人は多くいるけれど長く話した事はない。示し合わせたわけでもないのに、同じ時期に刊行された必然について考えた。 今は登山ブームと言われるが、20代で山を初める人は多くはない。学生登山家として山を始める強みは、経験豊富なガイドではなく、数年しか違わない先輩と失敗しながら手作りで鍛える初期経験である。歴史あるクラブの経験智を引き継ぐおかげで、なんとかギリギリ死なずに、恵まれた時間と体力で長期山行をして、初めて得られる登山力である。我々の頃にはそれが当たり前だったけれど、今その環境はほとんどないと言っていい。90年代、中高年登山ブームとは裏腹に若者が山離れし、北大以外の大学山岳部は全国的に数を減らし衰退した。今再び若者が山に戻りつつあるが、どこも先輩が積み上げた経験智は途切れ、ゼロから積み直している所が多い。先輩がいなければガイドから教わる他はない。そんなに確か過ぎて責任を取ってくれる人から教われば、先輩から教わったような手探りでほどほどの失敗感がない。これは学生に限らずとも現代登山初心者の弱みではないだろうか。今はプロと初級アマに二極化し、中間の中上級アマ層がとても少ない。ヒマラヤ登山を見れば明らかだ。プロがアマを連れて行くガイド山行は盛んだが、手作りのヒマラヤ遠征に行くような上級アマチュア登山隊の話を聞かなくなった。山の世界の本当の胆力はこの層の厚さが重要なのではないか。 澤田氏と私の世代は、学生登山家が知恵と手探りと若い情熱で繋いできた部活登山の、最後の世代なのかもしれない。あの頃日本にプロガイドはほとんど居らず師匠の外注はなかった。手作りで泥臭い北海道式探検山登りの若者が本州に来て感じたアウェイ感を 、30年ちかく熟成させた登山哲学が揃って著作になったのだ。今の時代こそ読んでほしい山登り法だと思う。 「サスガは探検部」のクマスプレー被爆体験は必読である。山岳スキー競技の世界は、新しい道具にではなく新しい発想を新鮮と感じた。岳人誌に2010年頃連載していたものがもとだが2014年の冬期黒部横断長期山行の経験なども盛り込まれ大幅に書き直している。 よねやま・さとる1964年松本市生まれ。北大山岳部、カメラマン。ヒマラヤ、パタゴニア等を山岳取材。著書「冒険登山のすすめ」。 |
2019-2-2 12:55 |
関西支部 新年会
関西支部新年会
日時:2019年1月26(土)13:00−16:00 場所:京都三条木屋町 左近太郎 鴨川と高瀬川に挟まれたウナギの寝床の様な京家にて、昨年に引き続き新年会を催しました。 周辺には角倉了以邸跡や佐久間象山遭難之碑、大村益次郎、桂小五郎、山縣有朋の寓居跡や別荘跡の碑が建っていて、島津製作所資料館が創業当時の姿で残っています。 江戸から明治にかけての事物が雑多に混ざった街角で、平成最後の関西支部のイベントを行いました。 先ずは川道支部長のご発声で、皆さんのご健勝と再会を祝して乾杯。 続いて岸本さんから、酔っぱらう前に、「北大山の会-関西-変遷史」編集の提題がありました。 関西支部の発足は昭和37年チャムラン遠征の募金活動や、坂本直行さんの大阪での個展開催(昭和39年)に遡ります。これら事業の応援に関西在住OBが参集したことが支部発足の契機です。その発足当時の資料を収集、編纂して記録に残すべく活動について出席者の賛同いただきました。参加者の年齢を考えますと、今こそ資料を収集する時期と思います。発足当時の記録や写真をお持ちの方は岸本さんまで情報提供をお願いします。 さて、宴のメニューは京料理の小鉢に始まって、太刀魚や寒ブリの刺身、メインはテッサ、唐揚げ、てっちりとフグのフルコース。宮本幹事の計らいにより京の地酒の飲み放題。月桂冠の大吟醸をはじめとする一升瓶をテーブルに三本並べてセルフで徳利に分注するところは、札幌の北18条界隈の安酒場のスタイルと変わっていません。 皆さんの近況報告や、登頂を断念した三浦雄一郎氏の話などで盛会の中、時折激しく降る雪を格子戸の向うに眺めながら札幌の冬に想いを巡らせました。 実は、昨年の新年会当日も激しい降雪で、田中夫妻は福井から参加できませんでした。今年もか、と憂慮していましたが、無事参加いただきました。田中さんの奥様の着物姿が京都の古い屋敷のたたずまいに溶け込んでいました(奥様は踊りの名取だそうです)。 奥様は、帰りの地下鉄からJRの駅に向かう途中も、上機嫌な田中さんの右手を肩で受けながら仲良く寄り添って歩かれて行きました。 「さあ、帰って全豪オープン・テニスを見よう。」という神戸さんの潮時を告げるコール。 肩を組んでの「山の四季」に続いて、応援団出身の窪田さんによる前口上で明治45年寮歌「都ぞ弥生」を高唱して平成の宴はお開きとなりました。 楽しく懐かしい時はすぐに過ぎ去ってしまいました。また秋に観月の宴でお会いしましょう。 若手OBの参加をうながす努力・秘策を探し求めています。 参加者(敬称は僭越ながら略、数字は入部年19xx) 窪田58、相田 58、高橋 59、田中ご夫妻 、内藤 59、渡辺(尚) 59、神戸59、伏見 61、川道62、須田 62、岸本 65、宮本 82、岡島 83、多田86 文:岡島、写真:伏見、宮本 |
2018-11-25 10:43 |
関西支部 月見の会
日時:2018年11月10日(土)16:00〜
場所:琵琶湖畔 はなれ山水 大コテージ 参加者(敬称略、数字は入部年19** ):相田 58、内藤59、高橋 59、田中(英) 59、伏見 61、川道62、須田 62、岸本 65、米澤64ご夫妻、小泉74(ゲスト)、宮本 82、岡島 83 計13名 今年の月見の会は、趣向を変え、琵琶湖畔の貸切りコテージで開催することとなった。また、小泉会長と、米澤ご夫妻に初めてご参加いただいた。 開宴後、小泉会長から近況報告。北大山岳館の図書受入れ、空沼小屋の状況、北大山の会組織の今後の見通し等に関する説明があった。遠く離れた札幌で、山の会の運営に尽力されている方々のご苦労を察する。続いて、米澤さんからのご挨拶。仕事の関係で、長年、海外生活を送り山の会の活動に参加できなかったため、今後、山の会の活動にも参加していきたいとのこと。 その後、日が暮れ、差し入れの鮒ずしや、焼肉、鍋もの等をつまみながら、いつものように話が盛り上がり夜は更けていく。 今年は11月8日が新月であり、月見は期待できなかったが、それでも、細い三日月が見えた。これから満月に向けて新しく誕生した月を眺めるのも悪くはないが、次回は満月に近い日程での開催を目指したい。 焚火がないのが寂しいのか、岡島君が松の枯葉を集めてきてバーベキューコンロに投入。すると、誰ともなく紙コップや、食材の運搬に使用した段ボールなどを燃やし始め、人の背丈ほどの焚火ができた。 本格的な焚火なしでは寒い時期であり、また、近くのコテージに宿泊している数組の若い家族連れなどにも遠慮して、山の四季を歌うこともなく宴会はお開きになった。この点は次回の月見の会に向けた反省点である。 その後、コテージに入っても、進化論の話や今後の山の会の運営に関する議論を深め、少し薄い布団で眠りについた。 翌日は、スカッ晴れ。遠くの山々まで見通せる中、各自、寒い寒いと言いながら淹れたてのコーヒーをすすり、コテージの前で立ち話をしたり、散歩をしたりと自由に過ごす。 その後、近くのパン屋の焼き立てパンやゆで卵などの簡単な朝食を食べながら各自近況報告。そして、別棟で宿泊していた米澤さんを加え集合写真。 解散後、小泉会長を含む有志三名は、午後のフライトで帰札する小泉会長のスケジュールに合わせ、比良山系の堂満岳を往復。また、他のメンバーは最寄りのマキノ駅まで湖畔を歩き、三々五々帰路に就いた。 余談ではあるが、火を見ると何でも燃やしたくなるルームの習性がひと騒動を引き起こす。コテージのチェックアウトの際、コテージの女性管理人に「燃えるゴミは持ち帰りしているか?」と聞かれ、燃えるゴミは、すべて燃やしたと回答。 管理人は「そんなはずはない。通常このような大勢の宿泊の場合、大量のゴミが発生するはずだ。小さなバーベキューコンロで燃やせるはずはない」と言う。いくら燃やしたと言っても信じてもらえず、「コテージを確認するから一緒に立ち会え」と言う。結局、管理人と一緒にコテージに戻ったが、コテージは整然と後片付けされており、(恐らく管理人が想像していたのであろう)ゴミだらけの状態ではなかった。そして「山登りの人達は何でも燃やすのね」と一言。「いえいえ、我々だけですよ」と説明しようとしたが、先を急ぐので、誤解を解くことなく車を走らせた。 (記:宮本、写真:伏見、小泉、米澤婦人、宮本) |
2018-10-30 19:07 |
91回ヘルヴェチア祭り...
10/27〜28、OB8名、現役16名で計24名と現役がOBの2倍という
画期的な祭りとなった。 銭函峠越えは札幌に大雨警報が出てあきらめる。午後には回復して晴れ間も。 小樽内川は増水もしていなくきれい。せっかく現役4年目が峠越えに 参加と手を挙げたのに行けたかも。 17時過ぎ暗くなった頃スタート 今回年長のY三さんの挨拶と現役主任幹事の乾杯で前夜祭が始まる。 途中小雨もあったが月も出て焚火を囲む。自己紹介や近況を、酒が進むに つれ日が変わるまで歌を歌って交流。 自己紹介や近況アピール 女子も増えて華やぐ 翌朝は9時前にようやく朝食。暗いうちから起きている元気な者もいた 具だくさんのうどんで酔いと目を覚ます 本祭は昨年90周年でそれなりにやったのでメイン行事は記念写真。 それでも昨年ロタさん渾身作の記念ボードを壁に飾る。 お決まりの集合写真 部旗は去年と同じ下絵デザイン 今年は旗を作るように現役に指示 3人が峠越えで帰る。残った者は薪割り、掃除、床磨きと外壁塗装して11時解散。 お疲れ様でした。 |
2018-6-30 5:44 |
【読書備忘】極夜行、...
冒険とは脱システムであり、探検とはそこで何かを探すこと
「別位相の地球」である極夜行という探検を発見した著者には、冒険を発見する才能がある。「極夜行」は本人のあとがきによれば、およそ10年近く前のヤルツァンポ川空白部探検記以来の、「生涯を代表する探検行」である。狙いを定め、何年も準備し、グリンランド北西海岸の地理的状況や気象、雪氷、野生動物の特性を予備探検で経験した上で、80日間太陽の登らない極夜を探検する。誰にもわかりやすい到達点はない。だが、日が昇らない極夜をこれだけ長期間旅行し、そのあとに太陽を見た者はこれまでにいない。仕込んだ準備はすべてひっくり返され、行くか戻るか苦渋の判断あり。ここはクライマックスか、と思う局面は多々あるが、最後の最後まで旅は安心できない。 月と星の巡りについても考える。暗黒の中、月の複雑な動きに行動は支配される。冬季登山でも、満月で好天の夜のほうが、日中悪天のときよりもよほど行動し易く、そこを狙う事がある。極地では日が昇らなくても月は沈まない、いわば「月の白夜」のような状態もある。極夜の季節には太陽の24時間制には意味がない。月は毎日1時間ずつ出が遅くなっていくから一日は約25時間となる。こうした、経験のない異世界で新しい秩序を発見し、行動の方法自体を手探りで編み出していく行いこそが、角幡の求める探検だ。漆黒の闇が次第に心を蝕み、ものの輪郭を奪う世界の中で、人と犬、人と闇、人と太陽、誕生と光の根源の意味を知る。極夜の日々、異形の怪物が次々と現れ、暗い世界を通り抜けていく話は、暗く長いトンネルをひたすら歩いていく村上春樹の「騎士団長殺し」などの物語を思い起こさせる。 「冒険とは脱システムであり、探検とはそこで何かを探すこと」角幡はGPSを持たず、六分儀(星を測量して現在地の緯度経度を測るアナログ測定器)も出発早々強風で失い、25万分の1地形図とコンパスだけで旅を貫徹する。 「いまどき極地探検でGPSを持たないのは世界中でおそらく私一人だ」という。 「冒険登山のすすめ」という高校生向けの登山指南書で、私は「GPSはやめましょう」と書いた。過程無しで回答だけを示すGPSを山に持っていくのは不愉快である。自分が何かに操られているとさえ感じ、山登りで一番大切な「今どこに居るのかわからないかもしれない」という不安と山への畏怖、そして社会と無縁になった自由を損なうと思うからである。 このことに関する考察が、続く最新刊の「新・冒険論」で厚く書かれる。管理されたシステムから越境し、前例のない混沌の中で、命の危険という代償を感じながら、自分自身の行動を判断する自由、それを味わうのが冒険の真髄なのだと。 「新・冒険論」では、「極夜行」で特定の目的地が特に無かった理由と、彼に冒険を発見する才能があると私が感じた理由もすっきりと明らかになる。現代の冒険の行き詰まりは、今やどこにもない人跡未踏の目的地に縛られているせいなのだと。また、私に騎士団長殺しを思い起こさせた理由もこの本で説明される。古代以来の各地の英雄の冒険物語の類型には招請、脱システム、異世界での戦いと勝利、帰還のメタファーが含まれていると。そして現代の探検が、単独、無補給、最年少、最高齢というような身体機能の優劣を競うスポーツ的な探検業績は競っても、GPSに頼らない、通信手段を持たないというような精神的な探検条件にこだわる者がまるでいないという指摘には、角幡氏が冒険とは何かを誰より考えて、実践してきたことを納得する。紹介図書のナンセン、金子民雄、本多勝一の時代とは比べ物にならないほどシステム(人の行動を管理、制御する無形の体系)が強固になったこの時代に、あらためて解題してほしかった冒険論である。 その著者の、「極夜行」の中で衛生携帯電話で家族に連絡する下りと、その言い訳には驚いた。いや、幻滅したという意味ではない。家族というシステムは、持ってみなければわからないものなのだから。毎度一級の探検紀行を読ませてくれる42歳の探検家の行方は楽しみだ。実践を伴うこの書き手が同時代に居てくれてうれしいと思う。 この角幡冒険論の文脈のままで、続いて池田常道氏の「ヒマラヤ 生と死の物語」を読んだ。マロリー、メルクル、エルゾークから山野井泰史のギャチュンカン生還までの13章が、大急ぎのダイジェストでまとめられている。ほとんどの話をそれぞれ一冊の本として読んだ覚えがあるほど、どれも有名な遭難記だ。確かな高所登山方法論も確立していなかった手探りの1950年代以前のヒマラ黎明期の冒険時代から、次第に高所と登攀の技術が確立され、手順化、競争化された70年代。80年代の有名峰登山者が増え始めた時代の多重遭難、90年代以降の完全に「システム内」の公募登山隊の遭難や救助登山など。 思えば80年代に山を始め、90年代にヒマラヤに関わった私の世代から見ると、21世紀の今日、公募ツアーではなく、一部のピオレドールクラスのクライマーでもない、セミプロ登山愛好家によるヒマラヤ遠征隊の話をほとんど聞かなくなってしまった。冒険とは何か、自分はヒマラヤにまで出かけていったい何をしたいのか?中間層レベルの登山愛好家は今の時代にこそ問い直したい。ヒマラヤだけではない。ウラヤマでも冒険の発見はできると私は思う。 この遭難記集の中で、脱システムで冒険的であるという点において、山野井泰史の記録は21世紀にあって尚、光を放つ。悪天のなか山頂直下で、「気温は零下三十度にはなっていただろう。右足にはまったく感覚がないが、頂への情熱はもはや抑えきれず、むしろ高みに上るにつれ、いま、登攀に人生を賭けているという喜びでいっぱいになった。」孤立無援の中で自分の命を自分の責任で操縦している満足感。この言葉にガツンと来た。 Rock &Snow 2018.夏号に掲載 |
2018-5-31 23:10 |
【読書備忘】旅の記憶...
個人的な本だ。彼を知る人達にとって大切な一冊だ。
僕には24年前、1994年に、四川ヒマラヤのミニヤコンカで29歳で死んだ、同期の山仲間がいた。彼はワンゲル、僕は山岳部で、日高に、大雪に、知床に、北海道の流儀でとことん山に登った。福澤はパタゴニアの雪氷調査に、僕はネパール・ヒマラヤの植物採集調査に、OBで教授の先生の山岳学術調査の助手としてタダで3ヶ月連れて行ってもらってひと皮むけた。優秀な彼は、雪崩研究者としてその後、期待されるほどの業績を上げた。その上、当時ようやく始まった雪崩レスキューの講習会を主催し、ビーコンを普及する活動の中心の一人になった。講師をする彼を、僕がTVニュースで取材し放送したこともあった。 ワンゲル後輩の奥様アキさんと、卒業するなり結婚式をあげた。福澤のように芸達者なワンゲル仲間がケーナやギターで南米音楽で踊りまくる、すごく楽しい宴席だった。 92年、僕は楽しかった8年間の札幌暮らしを終え、別の町で新しい山登りや仕事に励んでいた。20代、30代の僕は、自分自身でもある程度死を覚悟していただけに、山で友人が死ぬことにどこか慣れてしまっていたのかもしれない。2年後に福澤がミニャコンカで死んだと聞いたとき、彼の気持ちになって少し涙ぐんだりはしても、残されたアキさんや両親の気持ちなどに寄り添えるほどの人物にはなっていなかったと思う。 大切な人をなくした後、どうやってその後を生きていくのか。24年かかって今回ようやくこの本が出来上がった。多才な彼の写真、詩、絵。それに彼が才能を発揮し人望を集めた芸や人付き合い、料理。独自の発想と強い意志で成果をものにした研究のうちこみ様がみんなの文章からよみがえる。幼なじみからワンゲルのみんな、研究室の仲間、先輩、学会の先輩、それに当時の女子中学生の自由研究の相談にまで乗っていたんだね。その子も文章を寄せてくれていた。 この追悼集はアキさんが長くて暗いトンネルから這い出て、彼と夢で再開し、みんなのところを訪ね、24年目にようやく世に出たものだ。今だから、時間をかけたから書けた深みある言葉も多い。なのに福澤本人の素直で実直ながらも早熟な、完成された詩篇の数々。やはりあいつは、一段上を行く秀才だったと思う。 29歳から24年経って、いまもうみんな50を超えてしまったよ。 死者との別れは無い。僕が思い出すとき、彼は生き返っている。 2018年3月20日発行 |
2018-2-8 19:13 |
関西支部 新年会
日時:2018年1月27日(土)16:00〜19:45
場所:温石 左近太郎 本店 参加者(敬称略、数字は入部年19**、または20** ):17名(吉田57、相田 58、高橋 59、内藤59、渡辺(尚)59、伏見 61、川道62、須田 62、名越 63、岸本 65、福本66、川井74、宮本 82、岡島 83、多田86、田中10、工藤12) 今年の新年会は、趣向を変えて、古い街並みを残す京都木屋町通り高瀬川沿いの料理屋で開催した。 関西支部長の川道さんの乾杯の挨拶の後、次々にフグ料理が運ばれる。そう、今年の新年会ではフグを満喫することになったのである。 残念ながら、福井県在住の田中さん(59入部)ご夫妻が、急遽、雪のため不参加となったが、今回、二人の若者が初めて参加することとなった。 大学卒業したばかりの田中君と工藤君である。 やはり、若者が参加すると会員諸氏の自己紹介にも熱が入る。各自の近況を交え、専門分野、社会貢献、登山の話等の新旧交えた話題を酒の肴に時間を忘れて宴会は進んでいく。 この間、会員たちは、飲み放題をいいことに、学生時代を彷彿させる量の京都の地酒を次々に飲み干した。 最後は、昨年の新年会で、関西から離れると告白していた伏見さんがご挨拶。今回は本当に関西を離れるとのこと。いつも写真を提供いただきありがとうございました。 締めは岡島君の前口上で山の四季を歌い4時間近くにも及んだ大宴会はお開きとなった。 その後、若い二人を含む有志数名は、先斗町の街並みに消えていった。 余談になりますが、今回、新年会の案内を関西支部のみにアナウンスしました。しかし、このような集まりは広く山の会全体にお知らせすべきとの声が上がりましたので、今後は関西支部以外の方々にも開催案内を送るようにします。関西方面にいらっしゃる方がいましたら、積極的なご参加お待ちしています。 (記:宮本、写真:伏見、宮本) |
2018-1-24 8:10 | 2017.12.14ヴェチアス... |
2017-11-3 13:03 |
2017年 関西支部...
日時:2017年10月28日(土)16:00〜22:00
場所:ヴェルドール琵琶湖102号室 参加者(敬称略、数字は入部年19** ):相田 58、高橋 59、田中(英) 59、渡辺(尚) 59、伏見 61、川道62、須田 62、名越 63、岸本 65、宮本 82、岡島 83 今年の月見の会は、新支部長の川道さんが初めて参加されたが、残念ながら季節外れの台風が接近。いつものように琵琶湖畔での焚火は果たせなかったが、急遽、宿泊予定のリゾートマンションの一室で開催することとなった。 過去20数年の月見の会の歴史の中、屋内開催は初めてということ。やはり、地球温暖化の影響だろうか。しかし、賢明な幹事は、室内開催も予想して、焼肉用ホットプレートや鍋の材料を準備していたため、難なく宴会に突入。 室内での開催だが、要は古い仲間と酒を飲み交わすことができれば問題はなく、ヘルヴェチアのあり方、空沼小屋の行く末について、それぞれ持論を展開。結論のない議論が続いた。 途中、相田さん着用の部章がプリントされた黄色いトレーナーを皆が欲しがり、高橋前支部長から関西支部でもTシャツを作ろうとの発案。もし、作ったら、「私は10着買う」「いやいや私は20着買う」「札幌でも販売しよう」と話がどんどん大きくなるが、来年また議論しようということになった。 最後は寮歌や山の歌で大いに盛り上がり、山の四季、都ぞ弥生を歌って6時間にも及んだ大宴会はお開きとなった。 翌日も台風通過の影響もあり、恒例の比良登山や山麓散策は行わず、徐々に強まる雨の中、来年1月の新年会での再会を約束して解散した。 (記:宮本、写真:伏見、宮本) |
2017-10-30 21:40 |
第90回ヘルヴェチア祭...
「ヴェチア幹事の坂口君の乾杯で前夜祭スタート」
今年も峠越えで歩いてきたのはOBばかり。現役は赤岩帰りとOBの車に便乗して、1人主任幹事のみチャリ。前田OBからは現役が最近峠を歩いて来ないのは怪しからんと激が飛ぶ。それでも昨年より5名多い参加でゲストと当日朝の参加を入れないと前夜祭は現役がOBの数を上回り、若さと賑やかさで嬉しい。 「夜食にピザづくり」 現役会費をタダにしてるのでOBは4000円会費。私のセンスで祭りでは手を抜かずに酒もメニューも上等に行こう、としているので現役比率が増えてかなりの負担。現役も少しは会費取ろうという意見や、昔は酒とおつまみ位しかなかったので贅沢では、という声もあり再検討が必要かも。私としてはこの時ばかりは現役も腕を振るってうまい料理を作るというのを続けたい。年金生活の歳寄りには厳しいものがあろうが、粗末な食生活で我慢している現役には振る舞いたい。 「朝のヴェチア」 現役は外に寝る者も数人。小屋の周りには雪が少し残っていたが、夜暖かく解けてしまった。朝今村(1956入)夫妻も美味しいリンゴパイやクッキー持参で現る。朝食と90周年式の前後では薪割り、外壁塗り、床磨き、煙突掃除、小屋までの道の補修などもしっかり作業。 「90周年式典 小泉会長挨拶」 85周年の時にはグブラー子息も呼んで大々的なセレモニーがあったので、今回は質素に。それでも挨拶では90年の流れを伝え、伊藤秀五郎大先輩の小屋の周りを読んだ詩を披露。歌は山の四季と森田君(1973入)が現役時代に作った「ヘルヴェチア乾杯の唄」を前夜祭で練習して、朝来た本人の前で披露。 「集合写真」 いつもは本祭りは記念写真だけで済ませていたが、何と佐々木ロタ(1955入)が昔の祭り写真にあった通りのドイツ語のひげ文字で看板を作ってくれた。それに女子の部員とゲスト(同志社大山岳部OG)がマツでリースを作ってくれて、紛失したらしい部旗を私が再現したものを壁に飾った。いつもより祭りらしくしてOBと現役との空沼小屋再開式に続く交流も深まった。 |
2017-5-28 6:23 |
今村さんのお別れ会 ...
北大山岳部が伝説としてきた昭和18年冬期ペテガリ岳初登者、今村昌耕氏が4月に99歳でなくなりました。今日は東京でそのお別れ会があり、お弔いの人がたくさん集まりました。
北大山岳部にとってペテガリは、エヴェレストより崇高な頂です。90年間の全ての部員の憧れの山であり続けました。昭和15年の、8人遭難の雪崩事故を経て、亡国の予感漂う時代のギリギリの冬に、物量作戦ではない軽量速攻戦術でかろうじて成功させた冬期初登でした。その本人が生きて話を聞かせてくれるということは、例えていえば共同体にとってのナンセンやティルマンがまだ生きていて、語り合えている奇跡のようなものでしょうか。冬期のペテガリをコイカク山頂のイグルーから15時間かけて往復することの困難を、年齢差80年の現役学生まで含めて皆、体で知って共有しているからこその敬意でした。 氏は99歳だというのに最期まで思考も言葉も全て明晰でした。私たち含め現役学生たちとも、戦中の山登り事情や、その後徴兵され軍医として軍艦で重傷を負った話を始め様々な分野の話など語ってくれました。 復員後は山と関わらず、一貫して結核予防、治療の活動に身をささげました。医師として山谷の労働者の結核診療の活動を何十年も続けていました。宿無しで生きる、未来の望みを持たない患者の元に何十年も足繁く通い続けた活動も今日の会では紹介されました。 最後の晩御飯を全部食べて寝床に入ってそのまま亡くなったそうです。 死の準備を着々とこなし、為すべきことを成し、多くの人に慕われて最期を迎えました。偉業を成した人は、聞かれなければそんな話を自分からは決してせず、相手の話を上手に聞いてくれました。うちの中一娘もお弔いに行きたいと出かけてきました。 ここ十年ほど、氏の書いた様々な貴重な手記の数々の原稿を、会報編集担当として校正し手伝うことができたことがありがたかったです。歴史的仮名遣いや旧字体の原稿を読んで、旧制帝大学生のインテリジェンスを感じ得ることができました。 自分の老いていく姿の、かくありたいというロールモデルとしていつも見ていました。 2018年5月27日 https://aach.ees.hokudai.ac.jp/xc/modules/AACHBlog/details.php?bid=721 |
2017-4-19 22:36 |
【読書備忘】無名峰 ...
奥深くの難関地域を含む日高全域の、これほどの個人山行記録集がこれまでに在っただろうか。40年という歳月なくして、しかも継続し続けた島田茂氏でなければできなかったと思う。どの山行も週末の2,3日の山行ではなく、最短でも5日以上の山行ばかり。日高とはそういうところで、冬季に主稜線を往復するだけでも週末山行では無理なのだ。学生時代はともかく、社会人になっては一週間の山行に付き合ってくれる仲間はそうそう居ない。彼はそれでも一人で続けた。
この長いカタカナ地名の山行記録の記録タイトルを読んで、脳内の地図上にルートを描ける人はいかばかりいようか。日高にぞっこんの経験を持ち、地形図を穴があくほど見続け、通い続けた岳人だけのリテラシー(読解力)が求められる書だ。5日以上の日程で日高に数多通った経験を持つ人だけが、記録のひとつひとつに地図説明のないこの本の山行記録を読んで理解ができるのではないだろうか。その点読者にはハードルが高い。だがそれを補うようにすばらしい写真や絵の数々がこの書の魅力だ。 もとより、この本をガイド本として読んではならない。カムエク沢やピリカ南面沢を目指す者が、いちいちテクニカルな情報を事前に得るというものでもないだろう。島田茂氏が、どのような気持ちでひとつひとつの山行に立ち向かい、どのように感じてきたかを読み取れば良いと思う。その点でも、島田氏の奥様との結婚前からのハードな山行の記録集は羨ましいの一語に尽きる、その後の「もう帰ってこなくてもいい」とまで言われたカムエク単独冬季山行のことまで含めて。人の人生の山に打ち込む時期の長さには長短がある。かつての戦友も変わる。これだけの山行を続けたことのある者であれば、誰しも思い至り共感することではないだろうか。もちろん女には女の言い分がある。もちろんだ。こんな宿六亭主には、そのぐらい言うことだってある。言っていいのだ、和子さん。 写真、スケッチ、遡行図とも本当にすばらしい。こんなふうに絵がかけたらなあと羨ましく思う。記録が山域別なので、時系列が行ったり戻ったりして、島田氏の個人史としての成長具合が追いにくかったかもしれない。とはいえ、記録をすべて読み、最後にすべての山行一覧を見ると島田氏の日高山行がすんなり進んだわけではないことがわかる。 学生時代は初級の沢と長距離の山行にとどまり、冬季の主稜線大縦走や難関沢への挑戦は5年目以降で、それも和子さんと共に20代の成長を遂げている。しかし30代になり、冬季縦走や難関沢に2のっこし(登って降りる×2)の10日を超える山行に付き合ってくれる仲間は居なくなる。30代後半にしてはじめて、一人での冬季長期山行(カムエク)に行く。これが彼の転換点と思う。普通はここで難関沢1のっこしか、3日で行ける日高の端っこの山を仲間とやりくりして諦めるのだが、ここからが彼の単独山行のはじまりになった。その後40代の彼は一覧を見るとほとんど単独山行での大きな記録を続けている。そして53歳でカムエク南西稜から東へ単独で東西縦走。 この本は、削いで削いで出来上がったのだと思うけれど、その隙間にこぼれた数々の山行ももっと見たい、そう思わせる記録集だった。 日高山脈こそは週末登山者などお呼びでない、空間的時間的に安心安全便利社会とは離れた本当の山登りが残っている、分かりにくく近づき難き山脈なのだと思う。日高横断道路なんかできなくなって本当に良かった。 表題の「無名峰」は、世間的には無名かもしれないけれど、日高の奥に燦然と輝く無名の峰、無名の沢の数々を知る、島田茂本人のことだと思った。表紙写真にもある究極の無名峰、1839m峰が、島田さんと和子さんにとって最も大切な山であったことも。大切なものには名前がない、大切なものは目に見えない。 大樹町で生まれ育ち日高を尽くした人生。60歳でこの本を出せた島田茂氏の人生は、大成功だった思う。私の10年前の世代。私も今後の10年を大切に生きていきたい。 3000圓(札幌秀岳荘・送料は360圓ゆうぱっく) |
2017-3-23 12:24 |
【読書備忘】沢で登る...
岳人4月号2017年 深田久弥の百名山を特集する企画であり、名のある人が名のある山を紹介する冒頭に続いて、百名山漏れの名山紹介や、冬季限定百名山を登っているサンナビキの梶山正氏の紹介記事に並んで松原憲彦会員(1990年入部)の「沢から登る百名山」のインタビュー記事があります。 「百名山」は手あかのついた言葉だが、深田の著書としての百名山は何十年にもわたって登るたび読み返す名著だと思います。松原会員も「百名山は当たり前ながらいい山ばかり」であり、避ける理由は全くない。あるとすれば人が多すぎるというただ一点のみ。ならば人のいない百名山登山となれば「沢」か「冬」がいい。やはり人がいないということは山登りの最大の魅力です。いや、山登りの魅力の本質は、大自然の中の孤独と自由でしょう。そして、深田の登った登山ブーム直前時代の無垢な山に近いのは、現代ではやはり沢や冬でしょう。深田自身が沢や冬を登ったわけではないけれど。 沢から行ったら意外といいぞの山に日光男体山や仙丈ケ岳を挙げています。百名山ではないけど、松原会員とは三ノ沢岳の伊奈川や金森山の万古川など、無垢の沢を辿って登る隠れ名山の山行の同志であります。富士山のように、どうしても沢はいただけない山もある。しかし百名山は冬か沢から行きたいものだな、というのが、やっぱり筋です。 百名山は43座、うち沢は32座とのこと。まあ全部やる気は当人もないだろうけど、冬と沢、どんな割合になるかな。 ガツガツしたくないと思いながらも数えて楽しいのが百名山。私も数えてみました。梶山氏は冬山を3月いっぱいに限っているけど、道が無い季節という意味で5月初旬まで含めて。 雪だけ47、沢だけ15、道のみ5、雪と沢両方3で、合計70のうち65が雪か沢でした。 |