書評・出版・ 2005年9月26日 (月)
書評・ガッシャーブルム4(米山)
ガッシャーブルム4〜カラコルムの峻峰登頂記録〜
フォスコ・マライーニ著・理論社刊1962
北大山岳館に蔵書ありhttps://aach.ees.hokudai.ac.jp/MT/kensaku.php
戦前、北大山岳部のペテガリ岳初登頂の前にイグルーを伝えたとされるイタリア人登山家のガッシャーブルム4峰初登頂記。
ガッシャーブルム4峰は、ガッシャーブルム山群の中で3番目の高さだが、一番格好良く、しかも難しい山だ。バルトロ氷河の突き当たりに、北斎の富士山をもっとデフォルメしたような凄い山が見える。「輝く壁」ガッシャーブルムの名はそもそもこの4峰につけられた名だったという。1958年、イタリア隊の初登の記録。メンバーにはリッカルド・カシンやワルテル・ボナッティーもいる。この年バルトロにはガッシャーブルム1のアメリカ隊、チョゴリザの京大隊もいた。ベースキャンプではチョゴリザを登って、前年遭難したヘルマンブールのピッケルを拾ってきた京大隊の桑原氏と、マライーニが日本語で挨拶をかわす下りもある。
著者のマライーニは戦前、京大と北大に留学し、アイヌ研究などで8年過ごした。そのときペテガリの冬期初登を目指していた北大山岳部員とイグルーの制作練習を重ねていた。1940年のコイカク沢の雪崩遭難には、遅れて入山したため助かっている。翌1941年コイカク山頂に作り、ペテガリ冬季初登成功に役立ったイグルーは、マライーニからAACHに伝わった技術だと高澤光雄氏の文で知った。(「山岳文化」2004・第二号)
昨年、91歳で亡くなったイタリア人マライーニは多才な人物だった。日本での留学のほか、チベット遠征もしていて、東アジアの文化、民俗を広く理解している。写真、記録映画もよく残している。1937年から45年までの憂鬱な時代だったろうが、日本のさまざまなものに愛着を持って理解をしているのがこの本からもわかる。
現地の民俗的、歴史的、地理的な説明と考察なども盛り込まれているので370ページもある。出会ったさまざまな人との会話なども丹念に書き込まれトーマス・マンの長編を思わせる冗長さも時にあるが、多芸多才なマライーニが感性を全開にして見聞してきたこの遠征隊の一部始終に、とことんつきあいたくなる。マライーニ撮影の写真が天然色で豊富に使われている。いずれも秀逸だ。バルトロの山と人は今と殆ど変わりがない。
(2005.9月)
著者のマライーニは戦前、京大と北大に留学し、アイヌ研究などで8年過ごした。そのときペテガリの冬期初登を目指していた北大山岳部員とイグルーの制作練習を重ねていた。1940年のコイカク沢の雪崩遭難には、遅れて入山したため助かっている。翌1941年コイカク山頂に作り、ペテガリ冬季初登成功に役立ったイグルーは、マライーニからAACHに伝わった技術だと高澤光雄氏の文で知った。(「山岳文化」2004・第二号)
昨年、91歳で亡くなったイタリア人マライーニは多才な人物だった。日本での留学のほか、チベット遠征もしていて、東アジアの文化、民俗を広く理解している。写真、記録映画もよく残している。1937年から45年までの憂鬱な時代だったろうが、日本のさまざまなものに愛着を持って理解をしているのがこの本からもわかる。
現地の民俗的、歴史的、地理的な説明と考察なども盛り込まれているので370ページもある。出会ったさまざまな人との会話なども丹念に書き込まれトーマス・マンの長編を思わせる冗長さも時にあるが、多芸多才なマライーニが感性を全開にして見聞してきたこの遠征隊の一部始終に、とことんつきあいたくなる。マライーニ撮影の写真が天然色で豊富に使われている。いずれも秀逸だ。バルトロの山と人は今と殆ど変わりがない。
(2005.9月)
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