書評・出版・ 2005年12月4日 (日)
書評)東韃紀行(現代語訳)/米山
東韃紀行(現代語訳)
教育社新書 原本現代語訳104(1981.1)
間宮林蔵著 大谷恒彦訳
200年前のサハリン島とアムール川下流域の探検記。東韃地方紀行、北蝦夷図説など、間宮林蔵の三部作の現代語訳がたったの1000円。残念ながら絶版。しかし古本400円で手に入りました。平凡社東洋文庫にもあり。間宮に関する解説パート、後世の科学で見るといかに間宮海峡の天候、海流、地形が近づき難いかを検証した章もあり、とても理解しやすい良書。
19世紀初め、間宮林蔵が、サハリンと大陸の間が海峡であることを確かめ、現地の民族、ギリヤーク人の案内で海峡を越え、黒竜江を遡り、清朝政府の出先交易所デレンまで行って帰ってくる話だ。北蝦夷図説という図解版には当時の図版が豊富に描かれている。わずか200年前なのに今はほとんどいなくなってしまったツングース語系の諸部族たちの、日常の姿が詳しい。子供を板に挟んで天井から垂らしたヒモで吊っておく習慣などおもしろい。皆、どこへ行ってしまったのだろう。
サハリン島が1905年に日露のあいだで分割されたとき、南北を分ける人工的な線が引かれたのは何故なのかこれまでわからなかったが、この本を読んで大体わかった。この線を境に南は樺太アイヌ、北はギリヤーク(ニブフ)やウイルタ(オロッコ)が住んでいて、両者は全然違う顔と言葉の民族なのだ。
北方民族たちの呼び名は、自称、隣の民族による呼び名、隣の隣の民族による呼び名・・・と、たくさんあり紛らわしい。が、彼らの愉快な風俗がおもしろく、ついつい全部詳しく憶えたくなってくる。
ニブフ(自称)=スメレンクル(アイヌによる)=ギリヤーク(ロシア人による)
ウイルタ(自称)=オロッコ(アイヌによる)
マングン(自称)=サンタン(アイヌ、和人による)、
ナナイ(自称)=コルデッケ(他称)=ゴリド(他称)=赫哲族ホーチォ(中国人による)、
オロチョン(ロシア人による)
ウデヘ
更に北へは、サハ=ヤクート、イテリメン=コリャーク、ユカギール、エベンキ=ツングース、エベン、ネギダール・・・言葉も文化もさまざまなこれらの人たちへの興味をひく。同じ民族が別のところで別の名を持つこともあり、ただ他者による呼び名が幾つかあることもあり。
アジア極東の彼ら消えゆく民族への最初の興味のきっかけは、黒沢明の映画「デルスウザーラ」と、その原作の「デルスウ・ウザーラ」(平凡社東洋文庫・アルセーニエフ著)だった。デルスウはナナイ人。デレンより、もっと上流のウスリー川右岸、シホテアリン山脈でのロシア軍探検家アルセーニエフの20世紀初頭の探検記だ。たき火も川もアムール虎もすべて「人」あつかいで生きるデルスウの「土人」ぶりには、坂本直行の描いたアイヌ老人「広尾又吉」の話に通じるものを感じた。間宮がデレンで会う清朝仮府の役人がこのナナイ人だ。
100年前のアルセーニエフの記録でも興奮したが、200年前の間宮の記録は更に興奮する。アルセーニエフとデルスウの、「探検家と案内人」の関係に対して、間宮の時代の場合は侵略者としての強い立場が無く、ありのまま、未だ無傷の異文化社会にたった一人で入り込んでいる点が貴重なのだ。立場としては非常に弱く、死と隣り合わせの自覚だったろう。
間宮の大冒険の神髄は、大部隊を率いて成し遂げたのではなく、またたった一人で成し遂げたのでもない。現地のこれら異民族と、出会い、慣れ、信頼を受け、協力を得るという行いによって成された。同時期にロシアやフランスの軍艦がサハリン西岸まで来ていながら、嵐の海で海峡を見つけられなかったのとは対照的だ。間宮は現地のギリヤークの協力で、小さなサンタン船一艘で目的を果たした。
関連の実物展示で、
先日函館市立図書館が建て直しになった。ここには収蔵品が多くあり、蠣崎波響の蝦夷夷酋列像など、頼めば見られるかと聞いてみたら、本物が見られるのは展覧会の時だけだそうで、複製が見られるだけとのこと。それでも大きいので見る価値はある。
函館市北方民族資料館では、サンタン貿易のサンタン服(清朝中国産)の展示を見た。ちなみに函館市立博物館にはウラジオストクのアルセーニエフ記念博物館と姉妹提携しているという旨の展示があった。ここは極東一の収蔵品だという。しかしパネル展示のみでいまのところ凄いものを見られるわけではない。今後に期待。
新しくコメントをつける