部報解説・ 2006年12月27日 (水)
これまでの部報紹介・部報4号(1933年)前半/(米山悟1984年入部)
部報4号前半分の書評です。大雪も日高も、これまでに足跡のない山域を求め、新しい発見が意気盛んに記録されています。
部報4号(1933年)前編
● 積雪期の大雪山彙ー特に直井温泉(愛山渓温泉)を中心としてー
佐々保雄、村山林二郎
●冬の熊根尻山塊とウペペサンケ山 豊田春満
●一月のニペソツ山ー十勝川よりー 徳永正雄
●支湧別川よりの武利岳ー五月及び二月の登山紀行 伊藤紀克、本野正一
●幌尻嶽・イドンナップ岳・カムイエクウチカウシ山 中野征紀、相川修
部報4号(1933年)前編
【総評】
1931/10−1933/10の2年分の山行記録と13の紀行など。坂本直行氏の天然色油彩スケッチ画を含む。編集長は徳永正雄。価格は1円50銭、284ページ。積雪期大雪山のガイド的小文から始まる。登山史的側面としては、いよいよ夏の中部日高の険悪な沢の探査が進む。中ノ川周辺、ペテガリのアプローチなどが最先端の報告である。日高の登山史を年譜としてまとめている。アイゼン、ピッケル研究、高所生理などの技術研究も部報では初。前半部の山場は中野征紀氏のシュンベツ川カムエク直登沢探査だろうか。
【時代】
1931年は満洲事変が始まり、翌32年3月に満洲国建国。5.15犬飼首相暗殺、ナチスが政権政党に。33年3月、日本は国連を脱退。
● 積雪期の大雪山彙ー特に直井温泉(愛山渓温泉)を中心としてー
佐々保雄、村山林二郎
これまで層雲峡と天人峡からに限られた大雪山の登山口に愛山渓を強く勧める一文。1920〜22年の間に板倉氏らによって冬季初登された中央大雪の高地群はこの10年ほど顧みられなかったとある。たしかに東大雪やニペ、武利武華が多い。大雪山中央部が人臭くなったためとある。ほんの10年前は冬季初登だったのに、早い。温泉発見者の直井さんは権利を売り渡して、南米に移住したという話が「斗南の翼広げては」。
●冬の熊根尻山塊とウペペサンケ山 豊田春満
クマネシリとウペペサンケの、積雪期初登頂記録。1931年暮れ12月30日から1月7日まで5人で。この山行では芽登温泉からクマネシリ山塊を目指したがあまりに雪が少なく敗退、続いてウペペサンケを南西面シーシカリベツ川から入山、登頂に成功する。
続く3月17日から22日、再びクマネシリ4山にヌカナン川から挑戦する。ヌカナン川から西クマネシリの南の郡界尾根1250mあたりにあがり、そこから西クマネシリを踏んで、クマネシリと、ピリベツをダブルアタックしてBCに下る。翌日、南クマネシリを北北西の尾根からアタックする。
昨年12月に僕もこの山域を登った。やはり雪が少なく、イグルーをあきらめタンネで小屋がけしたが、寒かった。当時は林道が無かったから敗退も仕方ない。
●一月のニペソツ山ー十勝川よりー 徳永正雄
1932年12月31日から1月5日まで、4人の冬季初登記録。十勝川水系ニペソツ川支流ワッカレタリベツ川(ニペ南南西面)からのアタック。このときまでに積雪期の二ペソツは31年、32年の5月に幌加音更川側から登られている。積雪量の少ないこの山域は、音更川、十勝川とどちらも大きな川からのアプローチで、渡渉が大きな問題だった。登山成功は造材林道の延伸が大きいとある。この時代、丸山を「中ニペソツ山」と呼んでいる。陸地測量部の地形図が大いに違っていて、その点の記述が多い。沢をつめ、急になったら、更に急な側面を登って尾根に上がるのが、この時代の戦法である。「ワッカレタリベツ」は白き水の川の意味。かなり上流まで白濁しているという。最期の訳注「今後のニペソツ山のスキー登山としては、音更川本流から入る事だ。三股から奧にもう一つ天幕を張れば、ニペソツ、石狩、音更の三頂が一日行程の範圍内にあるから非常に面白いと思ふ。音更川本流には相當上流迄林内歩道があるが、少くも三股迄道が出來て橋がかゝらないと、川が大きい上に降雪量の尠い關係から、ベースキャンプを上流に設ける迄が仲々困難な仕事だらうと思ふ。併し早晩この登山の行はれるであらう事を確信する。」予言の通り、幌加音更川の林道開発は進み、今は冬季西面の記録はあまり見ない。
●支湧別川よりの武利岳ー五月及び二月の登山紀行 伊藤紀克、本野正一
「武利岳はもつと攀られていゝ山であるのに,之迄(略)記録は甚だ貧しい物であった」とあるが、これまでの部報を見る限り、結構記録は多い気がする。珍しい故、部報に多く載るという事か。支湧別側より、1932年5月と33年2月の山行。
5月28日〜ほとんど6月山行の風情だが、アイゼンやピッケルも使っている。スキーは途中、やっぱりよけいな荷物と化す。白滝から支湧別岳→武利岳。アタック後の天場上では残雪スキー大会に興じる。武利の北のジャンクションピーク(1758m)をニセイチャロマップ岳と呼んではどうか、とある。以前どこかでこの名で呼んでいる記録を読んだことがあり、僕はひとりそう呼んでいる。その後猛烈な藪こぎに往生するが、屏風岳を越えて層雲峡へ。
2月も白滝支湧別川からのアタック。
●幌尻嶽・イドンナップ岳・カムイエクウチカウシ山 中野征紀、相川修
このころまだ未知だった額平川、新冠川、シュンペツ川上流部夏期の探査山行。イドンナップも初めての記録だ。「未だ人の歩いて居ない澤、未だ人の登って居ない峰、例へ其れが如何に容易な峰であつてもー(略)ー最初に其れを行くことは何と大きな期待であらう。全く此の額平川には相當の期待を持つて居た。」幌尻を乗っ越して新冠川を下ると、アイヌの小屋など見つけ、アイヌの踏み跡に導かれていく。「其処からは左岸を高く搦まなくてはならなかつた。けれども微かな踏後が、殆どそれを期待せずには見出されまいと思はれる踏跡が、縷々として函の上を、泥付きの急斜面を、或は苔蒸した岩の傍を登り降りして私達を導いて行って呉れた。此れも忘れることの出来ない澤歩きの妙であった。而も私達は舊土人の跡を辿るのであり、舊土人は熊の足跡を追ふて居るのであり、そして再び熊が之れを通ふことでもあらう、所々に山の親爺の糞が置き忘れられてあつた。」アイヌの踏み後を辿る旅は、本当の前人未踏以上におもしろいことだったと思う。そして初めて見るイドンナップからの日高主稜線の眺めに賛辞を送っている。シュンベツ川からのカムエクはなんとカムエク沢左股に入り込んでいる。日高で最も難関の沢である。「其処から沢は岩壁の中を電光形に落ちる瀧の連続であつた。其の曲がりの度に深い滝壺を湛えて居た。其れは絶対に人を寄せ付け様ともしなかつた。」隣の尾根を苦労して登っている。カムエク沢の初記録と思われる。カムエクを超え、坂本直行の牧場へ下山。
以下、後半は次回。
● 札内嶽よりカムイエクウチカウシ山に到る山稜縦走及び十勝ポロシリ岳 石橋正夫
● 元浦川ー中ノ岳ー中ノ川 本野正一
● 神威嶽と中ノ川(ルートルオマップ川) 中野征紀
● 日高山脈登山年譜 徳永正雄
● アイスピッケルとシュタイクアイゼンの材質に就て 和久田弘一
● 高山に於ける風土馴化作用と酸素吸入に就て 金光正次
● 雪の日高山脈雑抄
・一月の戸蔦別川 金光正次
・一八三九米峰 石橋正夫
年報(1931/10−1933/10)
写真九点、スケッチ五点、地図6点
【部報4号(1933年)後編へ続く】
【総評】
1931/10−1933/10の2年分の山行記録と13の紀行など。坂本直行氏の天然色油彩スケッチ画を含む。編集長は徳永正雄。価格は1円50銭、284ページ。積雪期大雪山のガイド的小文から始まる。登山史的側面としては、いよいよ夏の中部日高の険悪な沢の探査が進む。中ノ川周辺、ペテガリのアプローチなどが最先端の報告である。日高の登山史を年譜としてまとめている。アイゼン、ピッケル研究、高所生理などの技術研究も部報では初。前半部の山場は中野征紀氏のシュンベツ川カムエク直登沢探査だろうか。
【時代】
1931年は満洲事変が始まり、翌32年3月に満洲国建国。5.15犬飼首相暗殺、ナチスが政権政党に。33年3月、日本は国連を脱退。
● 積雪期の大雪山彙ー特に直井温泉(愛山渓温泉)を中心としてー
佐々保雄、村山林二郎
これまで層雲峡と天人峡からに限られた大雪山の登山口に愛山渓を強く勧める一文。1920〜22年の間に板倉氏らによって冬季初登された中央大雪の高地群はこの10年ほど顧みられなかったとある。たしかに東大雪やニペ、武利武華が多い。大雪山中央部が人臭くなったためとある。ほんの10年前は冬季初登だったのに、早い。温泉発見者の直井さんは権利を売り渡して、南米に移住したという話が「斗南の翼広げては」。
●冬の熊根尻山塊とウペペサンケ山 豊田春満
クマネシリとウペペサンケの、積雪期初登頂記録。1931年暮れ12月30日から1月7日まで5人で。この山行では芽登温泉からクマネシリ山塊を目指したがあまりに雪が少なく敗退、続いてウペペサンケを南西面シーシカリベツ川から入山、登頂に成功する。
続く3月17日から22日、再びクマネシリ4山にヌカナン川から挑戦する。ヌカナン川から西クマネシリの南の郡界尾根1250mあたりにあがり、そこから西クマネシリを踏んで、クマネシリと、ピリベツをダブルアタックしてBCに下る。翌日、南クマネシリを北北西の尾根からアタックする。
昨年12月に僕もこの山域を登った。やはり雪が少なく、イグルーをあきらめタンネで小屋がけしたが、寒かった。当時は林道が無かったから敗退も仕方ない。
●一月のニペソツ山ー十勝川よりー 徳永正雄
1932年12月31日から1月5日まで、4人の冬季初登記録。十勝川水系ニペソツ川支流ワッカレタリベツ川(ニペ南南西面)からのアタック。このときまでに積雪期の二ペソツは31年、32年の5月に幌加音更川側から登られている。積雪量の少ないこの山域は、音更川、十勝川とどちらも大きな川からのアプローチで、渡渉が大きな問題だった。登山成功は造材林道の延伸が大きいとある。この時代、丸山を「中ニペソツ山」と呼んでいる。陸地測量部の地形図が大いに違っていて、その点の記述が多い。沢をつめ、急になったら、更に急な側面を登って尾根に上がるのが、この時代の戦法である。「ワッカレタリベツ」は白き水の川の意味。かなり上流まで白濁しているという。最期の訳注「今後のニペソツ山のスキー登山としては、音更川本流から入る事だ。三股から奧にもう一つ天幕を張れば、ニペソツ、石狩、音更の三頂が一日行程の範圍内にあるから非常に面白いと思ふ。音更川本流には相當上流迄林内歩道があるが、少くも三股迄道が出來て橋がかゝらないと、川が大きい上に降雪量の尠い關係から、ベースキャンプを上流に設ける迄が仲々困難な仕事だらうと思ふ。併し早晩この登山の行はれるであらう事を確信する。」予言の通り、幌加音更川の林道開発は進み、今は冬季西面の記録はあまり見ない。
●支湧別川よりの武利岳ー五月及び二月の登山紀行 伊藤紀克、本野正一
「武利岳はもつと攀られていゝ山であるのに,之迄(略)記録は甚だ貧しい物であった」とあるが、これまでの部報を見る限り、結構記録は多い気がする。珍しい故、部報に多く載るという事か。支湧別側より、1932年5月と33年2月の山行。
5月28日〜ほとんど6月山行の風情だが、アイゼンやピッケルも使っている。スキーは途中、やっぱりよけいな荷物と化す。白滝から支湧別岳→武利岳。アタック後の天場上では残雪スキー大会に興じる。武利の北のジャンクションピーク(1758m)をニセイチャロマップ岳と呼んではどうか、とある。以前どこかでこの名で呼んでいる記録を読んだことがあり、僕はひとりそう呼んでいる。その後猛烈な藪こぎに往生するが、屏風岳を越えて層雲峡へ。
2月も白滝支湧別川からのアタック。
●幌尻嶽・イドンナップ岳・カムイエクウチカウシ山 中野征紀、相川修
このころまだ未知だった額平川、新冠川、シュンペツ川上流部夏期の探査山行。イドンナップも初めての記録だ。「未だ人の歩いて居ない澤、未だ人の登って居ない峰、例へ其れが如何に容易な峰であつてもー(略)ー最初に其れを行くことは何と大きな期待であらう。全く此の額平川には相當の期待を持つて居た。」幌尻を乗っ越して新冠川を下ると、アイヌの小屋など見つけ、アイヌの踏み跡に導かれていく。「其処からは左岸を高く搦まなくてはならなかつた。けれども微かな踏後が、殆どそれを期待せずには見出されまいと思はれる踏跡が、縷々として函の上を、泥付きの急斜面を、或は苔蒸した岩の傍を登り降りして私達を導いて行って呉れた。此れも忘れることの出来ない澤歩きの妙であった。而も私達は舊土人の跡を辿るのであり、舊土人は熊の足跡を追ふて居るのであり、そして再び熊が之れを通ふことでもあらう、所々に山の親爺の糞が置き忘れられてあつた。」アイヌの踏み後を辿る旅は、本当の前人未踏以上におもしろいことだったと思う。そして初めて見るイドンナップからの日高主稜線の眺めに賛辞を送っている。シュンベツ川からのカムエクはなんとカムエク沢左股に入り込んでいる。日高で最も難関の沢である。「其処から沢は岩壁の中を電光形に落ちる瀧の連続であつた。其の曲がりの度に深い滝壺を湛えて居た。其れは絶対に人を寄せ付け様ともしなかつた。」隣の尾根を苦労して登っている。カムエク沢の初記録と思われる。カムエクを超え、坂本直行の牧場へ下山。
以下、後半は次回。
● 札内嶽よりカムイエクウチカウシ山に到る山稜縦走及び十勝ポロシリ岳 石橋正夫
● 元浦川ー中ノ岳ー中ノ川 本野正一
● 神威嶽と中ノ川(ルートルオマップ川) 中野征紀
● 日高山脈登山年譜 徳永正雄
● アイスピッケルとシュタイクアイゼンの材質に就て 和久田弘一
● 高山に於ける風土馴化作用と酸素吸入に就て 金光正次
● 雪の日高山脈雑抄
・一月の戸蔦別川 金光正次
・一八三九米峰 石橋正夫
年報(1931/10−1933/10)
写真九点、スケッチ五点、地図6点
【部報4号(1933年)後編へ続く】
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