部報解説・ 2007年1月19日 (金)
これまでの部報紹介・部報4号(1933年)後半/(米山悟1984年入部)
部報4号の後半の目玉はなんといっても中部日高、中ノ川の谷と冬の稜線への踏査。遠き山、ペテガリはまだはるかに望むばかりだ。秀峰1839峰への積雪期アタック初記録もある。
【部報4号(1933年)前編の続き】
部報4号(1933年)後半
● 札内嶽よりカムイエクウチカウシ山に到る山稜縦走及び十勝ポロシリ岳 石橋正夫
● 元浦川―中ノ岳―中ノ川 本野正一
● 神威嶽と中ノ川(ルートルオマップ川) 中野征紀
● 日高山脈登山年譜 徳永正雄
● アイスピッケルとシュタイクアイゼンの材質に就て 和久田弘一
● 高山に於ける風土馴化作用と酸素吸入に就て 金光正次
● 雪の日高山脈雑抄
・一月の戸蔦別川 金光正次
・一八三九米峰 石橋正夫
部報4号(1933年)後半
● 札内嶽よりカムイエクウチカウシ山に到る山稜縦走及び十勝ポロシリ岳 石橋正夫
1932年7月、トッタベツ川入山、札内岳からカムエクまでの十日間の稜線記録。その後8の沢を降り、スマクネンベツ川から十勝幌尻岳超えてオピリネップ沢を降りる。
エサオマンからカムエク北のコルまでの山稜はこれまで未踏。かなりひどいハイマツの部分もあったが、何より当てにしていた雪渓が無く、水に困った。
「九ノ澤上流の瘤につく。此の東北斜面は緩斜面で、相當の殘雪と平地がある。此處はエサオマントツタベツ嶽とカムイエクウチカウシ山との間では、キャンプ地として最良の處だ。こゝで二日振りで飯を焚いて喰つた。それは長い間の尾根の歩きにもかゝはらず、米の代りに干飯を持ち、少量しかパンを持つて行かず、春からの天候不良の爲、殘雪の多い事を期待して出掛けたが案に相違して飯が焚けず、前日でパンを喰ひつくした事による。」日高稜線の藪こぎ覚悟の山行ながら、記録無し、人跡無しの魅力が彼らを誘う。
● 元浦川―中ノ岳―中ノ川 本野正一
1933年7月10日-22日3人+人夫1、初めてのベッピリガイ沢遡行、中ノ岳登頂、中ノ川北東面沢下降記録。夏期の中部日高はこれまで、部報3号で中ノ川の遡行を断念して帰る記録がある。まだまだザイルを持って岩登りして登るというセンスではなく、懸垂下降もせず捲きルートを探す通過方法なので、中ノ川などは未踏のままである。今回も中ノ岳北東面沢を大変な苦労をしてノーザイルで下り、途中ビバークで一泊している。だが、着実に未踏の沢を踏破していく。中ノ岳登頂は部報では初記録。やはりみんなの憧れは美しいペテガリにあり、なんとかアプローチできないかとルートを検討している。遠い山だったのだ。今回も計画ではペテガリへの稜線の往復を考えていたが無理と判断している。
静内川水系のベッピリガイ沢へのアプローチは隣の元浦川からピリガイ山を乗っ越して行く。今はダムの底の静内川中流域の通過が困難なためである。ベッピリガイ沢のキャンプ地での記述「恐らくは登山者も、漁りを生業にしてゐるアイヌも、絶えて訪れた事のないであらう、コイカクシユシビチヤリ川の上流に入り込んでゐるのだ。幾重にも重なり合つて日高の其等の澤を包んでゐる山々、身動きする毎に大きな反響を起こしさうな程、靜まり返つてゐる日高の山々よ。僕達は憧れてゐた南日高の山懷に抱かれる事が出來たのだ。何がなしに涙の出るやうな感傷と、明日からの戰ひに對する新しいファイティングの湧くのを感じた」。当時、コイカクシュシピチャリ川という名称があった。ベッピリガイ沢の下流である。今はもう無い名だ。
函の通過に「・・・オーバーハングで登行不能となつたので卷くのを斷念して戻る。こんな事をしてゐる中に一時間半を費やした。筏を組まうとしたが、適當な材が見當たらない。凾の終はりが見透せるので、遂に泳いで渡ることにした。米などすつかりルックにしまひ込み、ルックを背負つたまゝ泳ぎ出す。」というのはいささかショックだ。泳ぐより先に筏という選択肢?当時はまだビニール袋が無かった。防水は油紙(油を和紙に染み込ませた物)のみ。米を濡らしてはまずかろう。このパーティーは稜線でのキャンプに水を運ぶため、ゴムの水枕を持って行ってこれがすこぶる快調だったとある。当時としては、なかなかのアイディアだと思う。
●神威嶽と中ノ川(ルートルオマップ川) 中野征紀
1933年2月、中ノ川遡行ソエマツ岳の北国境尾根往復の記録と1933年8月、中ノ川から神威岳の北東面沢からの登頂記録。遂に中ノ川左半分の様子が明らかになる。地図の間違いが多いとのことで独自の地図を示し、細かく符号を付けて解説している。
冬季記録2月5日から12日までは中ノ川を遡行し、神威ソエマツ間の1440峰北面のルンゼから南側の尾根に取り付いて1440に登り、引き返している。登っているのが神威岳でなくてすっかり落胆したとある。この季節に谷の中を歩く山行を今はもうしないが、結構奥までスキーでいけるものだ。同年8月はやはり10日をかけて中ノ川の神威岳北東面沢をアタック。ただし最後の核心は行けず、1440経由で稜線に上がり神威岳をアタックした。これにより中ノ川上流の様子を解明した。日高側に比べ十勝川の川の名にはアイヌ名が少ない、中ノ川のアイヌ名は「ルートルオマップ」であると書いてある。今もこの名を知る人は知るが、定着することは無かった。三股までは砂金取りや釣りの和人が多く出入りしたためだろう。
●日高山脈登山年譜 徳永正雄
1923年芽室川から芽室岳を往復した山岳部の前身、恵迪寮旅行部のち山岳部メンバーによる記録を日高の純登山初記録として、以下1933年8月までの日高の全記録。丁度10年ながら、日高の未踏山域は着実に踏破されていく。この時代に山岳部員だった人達の幸運をただ羨むのみ。
●アイスピッケルとシュタイクアイゼンの材質に就て 和久田弘一
おそらく工学部金属学科と思われる筆者による非常に専門的な低温下で使うピッケルアイゼンの組成について論じた小文。門外漢には殆ど意味不明だが、おもしろいのは鍛造の仕方を細かく書いてあるところ。当時、アイゼンピッケルは鍛冶屋に鍛造してもらったようなのだ。「アイゼンの製作中特別に注意すべき事は、火造り温度と、火造り後燒入れを行ふ前の燒なましである。何しろ一本の丸棒から之れを製作するのであるから、火造り後内部に不均衡な力が存在してをり・・・・」という具合。見れば巻末の広告欄には「PICKEL UND STEIG EISEN KADOTA SAPPORO MINAMI 1,NISHI11」などというおしゃれな広告もある。鍛冶屋に注文して鍛造していたのだ。私も数年前、国内最後のピッケル鍛冶の二村さん(愛知県豊田市)に鍛造してもらった。一本の丸棒からみるみるピッケルの頭が出来上がっていくのを見学させてもらった。このような装備に関する学術的考察研究の章は部報4号が最初だ。
●高山に於ける風土馴化作用と酸素吸入に就て 金光正次
続いて高所生理学に関する学術的考察の章。1933年当時、まだ日本でヒマラヤの高峰に出掛けていた登山隊は無い。1931年京大山岳部はカブルー遠征の準備をしたが頓挫。先鞭は1936年の立教大山岳部のナンダ・コートだ。
1924年マロリー、アーヴィン行方不明のエベレスト隊、1931パウル・バウアーのカンチェンジュンガ隊も未遂に終わっている。が、これらの報告書を読み、8000mでの高所生理を解説し、最新鋭の酸素吸入器の検討をしている。にもかかわらず、具体的なヒマラヤ高峰への憧憬一つとして書き留めていない。当時のAACHのヒマラヤ観はまだまだ現実感が薄かったのだろうか。たぶん日高の未踏の山河の方に夢中だったのだろう。
●雪の日高山脈雑抄
・一月の戸蔦別川 金光正次
1933年正月山行の戸蔦別川から幌尻、エサオマン、ピパイロアタック計画の随想。天候に恵まれず、戸蔦別岳のアタックのみで帰っている。1929年の幌尻冬季初登山行の時のほとんど壊れかけていた小屋を使う。記録に依れば既にOBの坂本直行氏も参加している。連日の焚き火で無心になったり月光の林を見詰めたりと、今も変わらぬ「焚火トリップ」をしている。「月の光で見る景色は幻想的なものだ。榛の木の淡い影、針葉樹の黒々と横たはる太い影の織合ふ中に雪の面は薄緑の螢光を發してゐるが木立の中には墨を流したやうな闇が漂つてぢつと見詰めてゐるとその中に引き込まれさうな不氣味さを感ずる。無心に焚火を弄るもの、呑みかけの紅茶の椀を手に、ゆらめく焔を見詰めてゐるもの、皆それぞれの想ひを過去の追憶に、現實に、或いは奔放な幻想の世界に馳せてゐるのであらふ。瞑想の谷間は月光を浴びて夢想者の彷徨を限りなく誘つて行つた。」
・一八三九米峰 石橋正夫
1933年3月中旬、コイカクの尾根から登って39アタックの記録。これだけ格好良い山だが部報で初登場。やはり中部日高は遠かったのだろう。当時はコイカクシュサツナイ岳(沢)をコイボクサツナイ岳(沢)と呼んでいる。コイカク〜ヤオロ間のバリズボを苦労して抜け、スキーを持ち上げる考察などを記している。残念ながらヤオロマップから39間の左右に出る雪庇を踏み抜き、転落、引き返している。「鞍部の最低部から一八三九米峰の一つ手前の瘤との間は地圖に記してある以上に痩せ且つ雪庇が斷片的に山稜の左右に交互して出てゐた。先頭は既に稜の右側の雪庇の上を通つて次に左側に出てゐる雪庇の方へ移つて了つてゐた。二番が右側の雪庇から稜へ渡らうとした時その雪庇が切れ、空中に投げ飛ばされ、もうもう立ち上る雪煙のあとから表層雪崩に乘つて、ころがり落ちて行つた。二百米も流れてから流れの外側になげ出された。雪崩はなほも下へゝとうねりつゝ流れて行つた。けれども幸ひなことには帽子と眼鏡を失つた位で別に負傷はしなかつた。落ちた方は助かつてしまへば今の事件が遠い夢の如く思はれたが、落ちなかつた者にとつて同じ状態にある幾つかの雪庇をさけて行く事は非常な心配があつたらう。友はこれ以上進むことに反對した。」部報初の重大事故記録だが。この日は気温が高く、また雪庇に対する認識も甘かったとしている。「一つの谷のしほれたテントの中で疲勞が焦燥と歸心ともつれ合つてゐた。――その中で一人は家に歸つた夢を見てゐた。もう一人は物凄く搖れるメリーゴーランドに乘つた夢を見て居た。外では夜霧が氷結して種々竒怪な形になつて谷を埋めて居た。」
年報(1931/10ー1933/10)
写真九点、スケッチ五点、地図6点
【部報4号(1933年)前編へ続く】
● 札内嶽よりカムイエクウチカウシ山に到る山稜縦走及び十勝ポロシリ岳 石橋正夫
1932年7月、トッタベツ川入山、札内岳からカムエクまでの十日間の稜線記録。その後8の沢を降り、スマクネンベツ川から十勝幌尻岳超えてオピリネップ沢を降りる。
エサオマンからカムエク北のコルまでの山稜はこれまで未踏。かなりひどいハイマツの部分もあったが、何より当てにしていた雪渓が無く、水に困った。
「九ノ澤上流の瘤につく。此の東北斜面は緩斜面で、相當の殘雪と平地がある。此處はエサオマントツタベツ嶽とカムイエクウチカウシ山との間では、キャンプ地として最良の處だ。こゝで二日振りで飯を焚いて喰つた。それは長い間の尾根の歩きにもかゝはらず、米の代りに干飯を持ち、少量しかパンを持つて行かず、春からの天候不良の爲、殘雪の多い事を期待して出掛けたが案に相違して飯が焚けず、前日でパンを喰ひつくした事による。」日高稜線の藪こぎ覚悟の山行ながら、記録無し、人跡無しの魅力が彼らを誘う。
● 元浦川―中ノ岳―中ノ川 本野正一
1933年7月10日-22日3人+人夫1、初めてのベッピリガイ沢遡行、中ノ岳登頂、中ノ川北東面沢下降記録。夏期の中部日高はこれまで、部報3号で中ノ川の遡行を断念して帰る記録がある。まだまだザイルを持って岩登りして登るというセンスではなく、懸垂下降もせず捲きルートを探す通過方法なので、中ノ川などは未踏のままである。今回も中ノ岳北東面沢を大変な苦労をしてノーザイルで下り、途中ビバークで一泊している。だが、着実に未踏の沢を踏破していく。中ノ岳登頂は部報では初記録。やはりみんなの憧れは美しいペテガリにあり、なんとかアプローチできないかとルートを検討している。遠い山だったのだ。今回も計画ではペテガリへの稜線の往復を考えていたが無理と判断している。
静内川水系のベッピリガイ沢へのアプローチは隣の元浦川からピリガイ山を乗っ越して行く。今はダムの底の静内川中流域の通過が困難なためである。ベッピリガイ沢のキャンプ地での記述「恐らくは登山者も、漁りを生業にしてゐるアイヌも、絶えて訪れた事のないであらう、コイカクシユシビチヤリ川の上流に入り込んでゐるのだ。幾重にも重なり合つて日高の其等の澤を包んでゐる山々、身動きする毎に大きな反響を起こしさうな程、靜まり返つてゐる日高の山々よ。僕達は憧れてゐた南日高の山懷に抱かれる事が出來たのだ。何がなしに涙の出るやうな感傷と、明日からの戰ひに對する新しいファイティングの湧くのを感じた」。当時、コイカクシュシピチャリ川という名称があった。ベッピリガイ沢の下流である。今はもう無い名だ。
函の通過に「・・・オーバーハングで登行不能となつたので卷くのを斷念して戻る。こんな事をしてゐる中に一時間半を費やした。筏を組まうとしたが、適當な材が見當たらない。凾の終はりが見透せるので、遂に泳いで渡ることにした。米などすつかりルックにしまひ込み、ルックを背負つたまゝ泳ぎ出す。」というのはいささかショックだ。泳ぐより先に筏という選択肢?当時はまだビニール袋が無かった。防水は油紙(油を和紙に染み込ませた物)のみ。米を濡らしてはまずかろう。このパーティーは稜線でのキャンプに水を運ぶため、ゴムの水枕を持って行ってこれがすこぶる快調だったとある。当時としては、なかなかのアイディアだと思う。
●神威嶽と中ノ川(ルートルオマップ川) 中野征紀
1933年2月、中ノ川遡行ソエマツ岳の北国境尾根往復の記録と1933年8月、中ノ川から神威岳の北東面沢からの登頂記録。遂に中ノ川左半分の様子が明らかになる。地図の間違いが多いとのことで独自の地図を示し、細かく符号を付けて解説している。
冬季記録2月5日から12日までは中ノ川を遡行し、神威ソエマツ間の1440峰北面のルンゼから南側の尾根に取り付いて1440に登り、引き返している。登っているのが神威岳でなくてすっかり落胆したとある。この季節に谷の中を歩く山行を今はもうしないが、結構奥までスキーでいけるものだ。同年8月はやはり10日をかけて中ノ川の神威岳北東面沢をアタック。ただし最後の核心は行けず、1440経由で稜線に上がり神威岳をアタックした。これにより中ノ川上流の様子を解明した。日高側に比べ十勝川の川の名にはアイヌ名が少ない、中ノ川のアイヌ名は「ルートルオマップ」であると書いてある。今もこの名を知る人は知るが、定着することは無かった。三股までは砂金取りや釣りの和人が多く出入りしたためだろう。
●日高山脈登山年譜 徳永正雄
1923年芽室川から芽室岳を往復した山岳部の前身、恵迪寮旅行部のち山岳部メンバーによる記録を日高の純登山初記録として、以下1933年8月までの日高の全記録。丁度10年ながら、日高の未踏山域は着実に踏破されていく。この時代に山岳部員だった人達の幸運をただ羨むのみ。
●アイスピッケルとシュタイクアイゼンの材質に就て 和久田弘一
おそらく工学部金属学科と思われる筆者による非常に専門的な低温下で使うピッケルアイゼンの組成について論じた小文。門外漢には殆ど意味不明だが、おもしろいのは鍛造の仕方を細かく書いてあるところ。当時、アイゼンピッケルは鍛冶屋に鍛造してもらったようなのだ。「アイゼンの製作中特別に注意すべき事は、火造り温度と、火造り後燒入れを行ふ前の燒なましである。何しろ一本の丸棒から之れを製作するのであるから、火造り後内部に不均衡な力が存在してをり・・・・」という具合。見れば巻末の広告欄には「PICKEL UND STEIG EISEN KADOTA SAPPORO MINAMI 1,NISHI11」などというおしゃれな広告もある。鍛冶屋に注文して鍛造していたのだ。私も数年前、国内最後のピッケル鍛冶の二村さん(愛知県豊田市)に鍛造してもらった。一本の丸棒からみるみるピッケルの頭が出来上がっていくのを見学させてもらった。このような装備に関する学術的考察研究の章は部報4号が最初だ。
●高山に於ける風土馴化作用と酸素吸入に就て 金光正次
続いて高所生理学に関する学術的考察の章。1933年当時、まだ日本でヒマラヤの高峰に出掛けていた登山隊は無い。1931年京大山岳部はカブルー遠征の準備をしたが頓挫。先鞭は1936年の立教大山岳部のナンダ・コートだ。
1924年マロリー、アーヴィン行方不明のエベレスト隊、1931パウル・バウアーのカンチェンジュンガ隊も未遂に終わっている。が、これらの報告書を読み、8000mでの高所生理を解説し、最新鋭の酸素吸入器の検討をしている。にもかかわらず、具体的なヒマラヤ高峰への憧憬一つとして書き留めていない。当時のAACHのヒマラヤ観はまだまだ現実感が薄かったのだろうか。たぶん日高の未踏の山河の方に夢中だったのだろう。
●雪の日高山脈雑抄
・一月の戸蔦別川 金光正次
1933年正月山行の戸蔦別川から幌尻、エサオマン、ピパイロアタック計画の随想。天候に恵まれず、戸蔦別岳のアタックのみで帰っている。1929年の幌尻冬季初登山行の時のほとんど壊れかけていた小屋を使う。記録に依れば既にOBの坂本直行氏も参加している。連日の焚き火で無心になったり月光の林を見詰めたりと、今も変わらぬ「焚火トリップ」をしている。「月の光で見る景色は幻想的なものだ。榛の木の淡い影、針葉樹の黒々と横たはる太い影の織合ふ中に雪の面は薄緑の螢光を發してゐるが木立の中には墨を流したやうな闇が漂つてぢつと見詰めてゐるとその中に引き込まれさうな不氣味さを感ずる。無心に焚火を弄るもの、呑みかけの紅茶の椀を手に、ゆらめく焔を見詰めてゐるもの、皆それぞれの想ひを過去の追憶に、現實に、或いは奔放な幻想の世界に馳せてゐるのであらふ。瞑想の谷間は月光を浴びて夢想者の彷徨を限りなく誘つて行つた。」
・一八三九米峰 石橋正夫
1933年3月中旬、コイカクの尾根から登って39アタックの記録。これだけ格好良い山だが部報で初登場。やはり中部日高は遠かったのだろう。当時はコイカクシュサツナイ岳(沢)をコイボクサツナイ岳(沢)と呼んでいる。コイカク〜ヤオロ間のバリズボを苦労して抜け、スキーを持ち上げる考察などを記している。残念ながらヤオロマップから39間の左右に出る雪庇を踏み抜き、転落、引き返している。「鞍部の最低部から一八三九米峰の一つ手前の瘤との間は地圖に記してある以上に痩せ且つ雪庇が斷片的に山稜の左右に交互して出てゐた。先頭は既に稜の右側の雪庇の上を通つて次に左側に出てゐる雪庇の方へ移つて了つてゐた。二番が右側の雪庇から稜へ渡らうとした時その雪庇が切れ、空中に投げ飛ばされ、もうもう立ち上る雪煙のあとから表層雪崩に乘つて、ころがり落ちて行つた。二百米も流れてから流れの外側になげ出された。雪崩はなほも下へゝとうねりつゝ流れて行つた。けれども幸ひなことには帽子と眼鏡を失つた位で別に負傷はしなかつた。落ちた方は助かつてしまへば今の事件が遠い夢の如く思はれたが、落ちなかつた者にとつて同じ状態にある幾つかの雪庇をさけて行く事は非常な心配があつたらう。友はこれ以上進むことに反對した。」部報初の重大事故記録だが。この日は気温が高く、また雪庇に対する認識も甘かったとしている。「一つの谷のしほれたテントの中で疲勞が焦燥と歸心ともつれ合つてゐた。――その中で一人は家に歸つた夢を見てゐた。もう一人は物凄く搖れるメリーゴーランドに乘つた夢を見て居た。外では夜霧が氷結して種々竒怪な形になつて谷を埋めて居た。」
年報(1931/10ー1933/10)
写真九点、スケッチ五点、地図6点
【部報4号(1933年)前編へ続く】
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