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山の会昔語り・ 2009年1月31日 (土)

山の会裏ばなしー(27) 帰りは札内川をボートで下る積もり
山の会裏ばなしー(27)

  帰りは札内川をボートで下る積もり

北大山の会東京支部・木村俊郎(1950年入部)
昭和三十四年は神岡の事業所で五年目を向かえ数年前から薬師岳への冬山に熱中していた。社宅から荷物を全部背負ってスキーを使って峠を一つ越して北ノ俣岳への尾根から試みていた。一月には太郎兵衛平からの退却だった。この年の夏にはO君をリーダに、S君などの三人組が現れた。社宅は少し大きなところに移っていたので泊まってもらうのには不自由はなくなっていた。彼らは劔岳での合宿の後三パーティーに分かれ、薬師岳から双六岳を経て蒲田川に下ったA、B班八人の内の三人がわが家に現れたのだった。食後、山での話も尽きた頃

「最近の札内川はどうかね」

との問いに、出てきた話のうちの傑作が次の話である。これは二十八年入部のI君、通称の頭文字がZからの伝え聞きだそうだったが、詳細は後に彼が書いた佐伯さんへの追悼に名文が残っている。とにかく概要は次のようなものだった。昭和三十年にK先輩通称Gさんが日高の地質調査のために部員二人をアルバイトに雇うことにしたそうである。それに応募したのが前述のI君、しれに佐伯富男先輩だった。佐伯さんは踏査後札内川を源流からゴムボートで一気に帯広まで下る魂胆で米軍放出の救命ボートを持ってきた。しかもこの旅のロケーションやって「興行収入は山分け」とまで吹き十六ミリカメラまで持ってきたそうである。調査は雨にも祟られたが、ひと苦労してコイボクから国境に出て沢へ降りゴムボート三隻を木の枝で繋いで流れに入れた。昼には帯広到着と思ったとたん、すぐに瀬に入って繋いで流れていたボートはバラバラ、そして先頭のI君は岸から垂れ下がって突き出した木の枝にルックもろとも引っ掛かってボートはサット流れいってしまったそうだ。中州に上がって干し物をしていると、後ろからは諦めた二人がボートを畳んでルックに入れて歩いて現れたという。

これは後で聞いた話だが、ボートで下るという着想は当時うけていたマリリンモンローの「還らざる河」に発していたそうで、残ったボートや重い岩石のサンプルを背負って中札内へトボトボ歩きながら誰かが口ずさんだモンローの歌う「ノーリターン」はノータリン、脳足りん、と聞こえたという。
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