書評・出版・ 2017年4月19日 (水)
【読書備忘】無名峰 島田茂 米山悟(1984年入部)
奥深くの難関地域を含む日高全域の、これほどの個人山行記録集がこれまでに在っただろうか。40年という歳月なくして、しかも継続し続けた島田茂氏でなければできなかったと思う。どの山行も週末の2,3日の山行ではなく、最短でも5日以上の山行ばかり。日高とはそういうところで、冬季に主稜線を往復するだけでも週末山行では無理なのだ。学生時代はともかく、社会人になっては一週間の山行に付き合ってくれる仲間はそうそう居ない。彼はそれでも一人で続けた。
この長いカタカナ地名の山行記録の記録タイトルを読んで、脳内の地図上にルートを描ける人はいかばかりいようか。日高にぞっこんの経験を持ち、地形図を穴があくほど見続け、通い続けた岳人だけのリテラシー(読解力)が求められる書だ。5日以上の日程で日高に数多通った経験を持つ人だけが、記録のひとつひとつに地図説明のないこの本の山行記録を読んで理解ができるのではないだろうか。その点読者にはハードルが高い。だがそれを補うようにすばらしい写真や絵の数々がこの書の魅力だ。
もとより、この本をガイド本として読んではならない。カムエク沢やピリカ南面沢を目指す者が、いちいちテクニカルな情報を事前に得るというものでもないだろう。島田茂氏が、どのような気持ちでひとつひとつの山行に立ち向かい、どのように感じてきたかを読み取れば良いと思う。その点でも、島田氏の奥様との結婚前からのハードな山行の記録集は羨ましいの一語に尽きる、その後の「もう帰ってこなくてもいい」とまで言われたカムエク単独冬季山行のことまで含めて。人の人生の山に打ち込む時期の長さには長短がある。かつての戦友も変わる。これだけの山行を続けたことのある者であれば、誰しも思い至り共感することではないだろうか。もちろん女には女の言い分がある。もちろんだ。こんな宿六亭主には、そのぐらい言うことだってある。言っていいのだ、和子さん。
写真、スケッチ、遡行図とも本当にすばらしい。こんなふうに絵がかけたらなあと羨ましく思う。記録が山域別なので、時系列が行ったり戻ったりして、島田氏の個人史としての成長具合が追いにくかったかもしれない。とはいえ、記録をすべて読み、最後にすべての山行一覧を見ると島田氏の日高山行がすんなり進んだわけではないことがわかる。
学生時代は初級の沢と長距離の山行にとどまり、冬季の主稜線大縦走や難関沢への挑戦は5年目以降で、それも和子さんと共に20代の成長を遂げている。しかし30代になり、冬季縦走や難関沢に2のっこし(登って降りる×2)の10日を超える山行に付き合ってくれる仲間は居なくなる。30代後半にしてはじめて、一人での冬季長期山行(カムエク)に行く。これが彼の転換点と思う。普通はここで難関沢1のっこしか、3日で行ける日高の端っこの山を仲間とやりくりして諦めるのだが、ここからが彼の単独山行のはじまりになった。その後40代の彼は一覧を見るとほとんど単独山行での大きな記録を続けている。そして53歳でカムエク南西稜から東へ単独で東西縦走。
この本は、削いで削いで出来上がったのだと思うけれど、その隙間にこぼれた数々の山行ももっと見たい、そう思わせる記録集だった。
日高山脈こそは週末登山者などお呼びでない、空間的時間的に安心安全便利社会とは離れた本当の山登りが残っている、分かりにくく近づき難き山脈なのだと思う。日高横断道路なんかできなくなって本当に良かった。
表題の「無名峰」は、世間的には無名かもしれないけれど、日高の奥に燦然と輝く無名の峰、無名の沢の数々を知る、島田茂本人のことだと思った。表紙写真にもある究極の無名峰、1839m峰が、島田さんと和子さんにとって最も大切な山であったことも。大切なものには名前がない、大切なものは目に見えない。
大樹町で生まれ育ち日高を尽くした人生。60歳でこの本を出せた島田茂氏の人生は、大成功だった思う。私の10年前の世代。私も今後の10年を大切に生きていきたい。
3000圓(札幌秀岳荘・送料は360圓ゆうぱっく)
この長いカタカナ地名の山行記録の記録タイトルを読んで、脳内の地図上にルートを描ける人はいかばかりいようか。日高にぞっこんの経験を持ち、地形図を穴があくほど見続け、通い続けた岳人だけのリテラシー(読解力)が求められる書だ。5日以上の日程で日高に数多通った経験を持つ人だけが、記録のひとつひとつに地図説明のないこの本の山行記録を読んで理解ができるのではないだろうか。その点読者にはハードルが高い。だがそれを補うようにすばらしい写真や絵の数々がこの書の魅力だ。
もとより、この本をガイド本として読んではならない。カムエク沢やピリカ南面沢を目指す者が、いちいちテクニカルな情報を事前に得るというものでもないだろう。島田茂氏が、どのような気持ちでひとつひとつの山行に立ち向かい、どのように感じてきたかを読み取れば良いと思う。その点でも、島田氏の奥様との結婚前からのハードな山行の記録集は羨ましいの一語に尽きる、その後の「もう帰ってこなくてもいい」とまで言われたカムエク単独冬季山行のことまで含めて。人の人生の山に打ち込む時期の長さには長短がある。かつての戦友も変わる。これだけの山行を続けたことのある者であれば、誰しも思い至り共感することではないだろうか。もちろん女には女の言い分がある。もちろんだ。こんな宿六亭主には、そのぐらい言うことだってある。言っていいのだ、和子さん。
写真、スケッチ、遡行図とも本当にすばらしい。こんなふうに絵がかけたらなあと羨ましく思う。記録が山域別なので、時系列が行ったり戻ったりして、島田氏の個人史としての成長具合が追いにくかったかもしれない。とはいえ、記録をすべて読み、最後にすべての山行一覧を見ると島田氏の日高山行がすんなり進んだわけではないことがわかる。
学生時代は初級の沢と長距離の山行にとどまり、冬季の主稜線大縦走や難関沢への挑戦は5年目以降で、それも和子さんと共に20代の成長を遂げている。しかし30代になり、冬季縦走や難関沢に2のっこし(登って降りる×2)の10日を超える山行に付き合ってくれる仲間は居なくなる。30代後半にしてはじめて、一人での冬季長期山行(カムエク)に行く。これが彼の転換点と思う。普通はここで難関沢1のっこしか、3日で行ける日高の端っこの山を仲間とやりくりして諦めるのだが、ここからが彼の単独山行のはじまりになった。その後40代の彼は一覧を見るとほとんど単独山行での大きな記録を続けている。そして53歳でカムエク南西稜から東へ単独で東西縦走。
この本は、削いで削いで出来上がったのだと思うけれど、その隙間にこぼれた数々の山行ももっと見たい、そう思わせる記録集だった。
日高山脈こそは週末登山者などお呼びでない、空間的時間的に安心安全便利社会とは離れた本当の山登りが残っている、分かりにくく近づき難き山脈なのだと思う。日高横断道路なんかできなくなって本当に良かった。
表題の「無名峰」は、世間的には無名かもしれないけれど、日高の奥に燦然と輝く無名の峰、無名の沢の数々を知る、島田茂本人のことだと思った。表紙写真にもある究極の無名峰、1839m峰が、島田さんと和子さんにとって最も大切な山であったことも。大切なものには名前がない、大切なものは目に見えない。
大樹町で生まれ育ち日高を尽くした人生。60歳でこの本を出せた島田茂氏の人生は、大成功だった思う。私の10年前の世代。私も今後の10年を大切に生きていきたい。
3000圓(札幌秀岳荘・送料は360圓ゆうぱっく)
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