部報解説・ 2007年2月14日 (水)
積雪期の札内川からのアタック山行、夏のペテガリ周辺渓谷探査の当時最先端の記録。ヒマラヤを見据えた極地法研究が、他大学山岳部では始まっている頃。石狩岳でやってみようかなどとも書いてあるが、全体には北大は今と変わらぬ、少人数軽量長旅アタック山行が主流である。
部報5号(1935年)前半分
●一月の石狩連峰 徳永正雄
● 吹上温泉よりトムラウシ山 石橋正夫
● 一月の札内川上流 照井孝太郎
● 三月の一八三九米峰とカムイエクウチカウシ山 伊藤紀克
● ペテガリ岳 石橋恭一郎
● 三月の千呂露岳 奥田五郎
● ペンケヌシ岳 西村 正
【総評】
1933/10-1935/10の2年分の山行記録と13の紀行など。北千島幌筵(パラムシル)島の後鏃(しりやじり)岳からの千倉岳連峰パノラマ写真などを含む。編集長は照井孝太郎。価格は1円80銭、316ページ。石狩岳への新ルート(現、石北峠)から初の極地法登山、一月、三月の札内川からヤオロ、39、カムエクなどのアタックを狙う野心的山行、ペテガリ、ナメワッカなど日高深部への夏の挑戦、北千島や樺太の山域記事も久しぶりである。
【時代】
1934年東北地方大凶作、函館大火。毛沢東軍「長征」開始。ドイツ、メルクル隊の第二次ナンガパルバット遠征10人遭難で失敗。12月今西錦司ら京大AACK朝鮮白頭山冬季初登遠征。1935年、イギリス、シプトン隊の第五次エベレスト遠征。
●一月の石狩連峰 徳永正雄
1933年12月28日〜1月9日、10人を3班に分け、前進キャンプを設けて進む極地法を実践した。また、石狩岳冬季の登路として、石狩川側、音更川側に次ぐ第三の選択肢、イトンムカ川から峠越えで石狩川源流に入ってアタックする手を発案した。当時石狩川は層雲峡の大函の通過がポイント、音更川は本流の水量が多く、中流部の通過が難しいとされた。イトンムカ川からの峠とは、現在国道39号の走る石北峠の事だ。
「『なるべく多數の人員を伴つて、相當な山へ登り得べき計畫』にして、しかも所謂ポーラーメソッドといふやうな形をとつてみるのも面白からうといふ提案に對して撰んだのがこの石狩連峰であつた。」1931年京大の富士山の極地法登山に刺激を受けている。京大は翌冬、白頭山の遠征に成功している。
今は無き留辺蘂発造材事務所行き森林鉄道の様子がよい。九里の行程は「座席は勿論板張りで我々十人で超滿員である。六時半發車、この愛すべき小型の汽車の燃料は薪でスピードは案外出る。車の中で會話が出來兼ねる程えらく噪音をたてゝ搖れるが、これが卻つて我々を寒さから防いでくれるのであつて、停車すると急に寒さが全身に襲ふてくる。」
音更山の北面沢を登り、ユニ石狩岳、音更山、石狩岳の三山をアタックして成功している。
● 吹上温泉よりトムラウシ山 石橋正夫
吹上温泉での合宿後、美瑛岳の樹林帯中腹を捲き、美瑛川源流からトムラをアタックして硫黄沼の尾根を超えて俵真布へ下山の計画。
「この平らな廣い平原の上は風一つ吹かない。すべてがじつと靜止してゐる。クラストの雪を踏み散らし、いくら急いでも、いくら着こんでも寒い。一寸でも休むものなら體が冷え切つてしまひさうだ。〜〜眞冬の山頂で私達は一時間も休んで居た。チカゝ目を射る高原の上を、今朝は全く考へも付かなかつた氣持でてんでに考へ込んで歩いて居た。〜〜元旦の夕陽が夕張山脈を越して、十勝嶽を燒き、オプタテシケを燒き、私達まで燒いた。太陽がすつかり沈んで終ふと、三人とも滑降レースの樣に一せゐに、滑り出した。いゝ斜面と、いゝ雪とで惠まれたタンネの疎林の尾根を、一とほしに縫ひ、數分間でテントの前まで滑り降つた。」
● 一月の札内川上流 照井孝太郎
1933年12月29日〜1月13日、小屋掛けして16日間の山行。若手OBの坂本直行氏発案、現役、といっても医学部で6年目勘定(相川、照井)二名との1月札内川山行。コイカクから39アタック(引き返し)と、カムエク、1900、1840などのアタックをしている。部報4号に3月の記録があるが、1月は初めて。雪が少なく本流の渡渉が未知だった当時、計画が難しかったが、麓で働く坂本氏が案を練って山行を開始した。当時コイカク沢はコイボクサツナイ川と呼ばれていた。標高950まで沢の中を進み、ここでシーデポして尾根に上がるというスタイル。雪崩にたいする姿勢は今と違う。
コイカクの二股で3停滞の後、39アタック。快晴の稜線では例によってバリズボに消耗し、猛烈な風の中、ヤオロマップまでで引き返す。「直ぐ西に私達の目指した一八三九米峰は黄金色に輝く海を背に秀麗な弧峰を聳え立たせ、鋭い雪の稜線と精緻な山襞は愈々私達の登高慾を煽り立てた。峰頂に向つて測らざる事故のためとは云へ虚しく敗退しなければならなかつた友の心情がまざまざと憶ゐ出される。七年前此の頂を極はめんとして果し得ず今亦その頂を踏む事が出來ぬ相川は喰入る樣に見入つて居る。」雪の39峰、今回もまた未踏のままだ。
股までのゴム長まで使って渡渉しながら十五貫しょって本流を八の沢出会い下の小屋掛けまで移動、8の沢左岸尾根頭の1900m峰(現1903m)をアタックする。早朝「八の澤合流に着いた時黝い谿の間に仰がれる一八四〇米峰の山容にしばし足を止めた。その端麗な頂は紅に染抜かれ頂の光冠は炎々と燃えた。」一八四〇米峰とは1853mの「ピラミッド」のようだ。合流右手の尾根を登って藪と少ない雪に苦労して1900m峰を登頂する。「僅かに国境線より離れて居ると云う理由のために今日迄、何人にも踏まれずに取残されて居た此の一九〇〇米峰より足下に急に落ち込んだ左右の深い広々とした圏谷底に目を落とすと、渺茫たる山並に接した時とは異なった不思議な感興が湧いて来る。暮色は既に圏谷に這寄り圏谷底の雪水をあつめて落ちる瀧の音が幽かに聞こえて来る。黄昏の嶺に佇む喜悦はささやかではあつたが初登頂の悦びとあの苦闘の後の勝利感にも似た感情とで幾倍にもされた。」カムエクは時間切れ。
小屋は夏の間に直行らが骨組みを組んでおいたもの。タンネの葉で屋根や壁を葺くのに、内側に建築紙を張っておくと、焚き火をしても滴が落ちなくて良い。建築紙とは油紙の一種だろうか?楽しそうな小屋作りの一日がある。大鋸を持ち込んでタンネをめきめきぶっ倒し、四.五日分の薪を小屋の前に積み上げた。
カムエクの再度アタックは日を改めて沢を詰め、北のコルへの沢は滝が露出しているようなので、カールに達するルートをとる。カムエクの山頂でとっておきの羊羹を食べて、八の沢カールを滑って降る。「頂を極めた私達には大きな愉悦が殘されて居た。それはデポーより澤への滑降であつた。廣々とした圈谷壁の急斜面を思ひゝに處女雪をねらつて大きく弧を描いて滑り出す。鋭い囘轉毎に濛々たる雪煙を上げて、吸込まれる樣に圈谷底へと息つく間もなく豪快な滑降を續けた。登行二時間を要した所を僅々二十分を要したに過ぎなかつた。」
その後エサオマンを目指したがラッセルで時間が足りず、9の沢源頭の1853m峰(現・1855m峰)と1900m峰(現・1917m峰)のアタックに変えたが、滝壺付きの函を負けず、敗退。翌日も悪天なので小屋暮らしを満喫して下山した。
● 三月の一八三九米峰とカムイエクウチカウシ山 伊藤紀克
前の記録の二ヶ月後、同じく札内川から39とカムエクを登る。3月23日からまで。積雪期39峰初登頂。伊藤紀克、豊田春満、西村正+新人アイヌ人夫中田仁三郎。
コイボクサツナイ川(現・コイカクシュサツナイ川)の中を進み、沢山のデブリを発見しながら、アタックキャンプを沢の中に設ける。このころはまだこういう判断基準だった。記述は沢の中、函が巻けるか、渡れるかが最大の関心事だ。沢を詰め、1400附近から右の支尾根に取り付いて、稜線に出る。コイボクに13:40、ヤオロマップに15:15分。「當然引返さなければならない時刻である。三人とも暫くは一八三九米峰を望んで無言であつたが、誰しも時間の遲い事を氣にして居たのである。叉一方では天氣は急には惡くなりさうも無い事、氣温は割合高い事、それにコイボクサツナイ岳からの距離に較べると、此處からの一八三九米峰は、ほんの目と鼻の先である事等を考へて居たのであらふ。誰云ふと無く「行かふ」と云ふ聲に皆簡單に應じて三時二十分此の頂を後にして、今度の山行の大きな目的の一つであり、叉今日迄誰も其の雪の頂を踏んだ事の無い一八三九米峰に向つてヤオロマツプ岳の腹を急ぎ下つて行つた。」「処女峰アンナプルナ」のラシュナルとエルゾークの会話のようだ。
39峰に17:40分登頂、キャンプ帰着は夜中の24:00。深いラッセルだったが、気温高く風も静かなので、積年の課題、三九峰をアタックした。帰りは雪明かり。シーデポからの下りは暗くて滑れずスキーを引っ張って降りたため、時間も余計にかかった。
この山行、はじめはペテガリへの予定もあり、1599に天場を進めるつもりもあったが、やはりヤオロマップ以南の稜線は夏の状態を見てからと、思い直している。コイカク出会いまで人夫が運んでおいてくれた食料などを持って、八の沢出会いの前回の小屋に移動。その後はイドンナップを目指して10の沢から国境稜線まで上がったりするが結局8の沢からカムエクを登る。最後はカールの壁を右寄りにほぼ山頂に直登。カールボーデンからの下りは「一度滑り出すと久方振りのスキーの面白さに魅せられた如く、思い思いの方向に物凄く、すつとばして行く。未だ澤に入りきらない山腹の滑降では大斜面を余す所なく荒し回る如く、右を行く者と左を行く者との間隔は一町以上も開いてしまふかと思ふと、叉忽ち近寄って来る。眞に豪壮な滑降である。」8の沢のスキーがこんなに快調とは。今は誰もやらないだろう。
その後は悪天が治まらず、気温も上がり、下りの雪橋が心配になってきたので、まだ日数はあるし登り足りないが雨の中下山することにする。
● ペテガリ岳 石橋恭一郎
この時代に日高に残った未踏の地域、ヤオロマップから神威岳までの稜線と、その東西に流れる谷。この時点での最先端の探査をまとめた小文。いよいよ憧れのペテガリ岳を照準に合わせている。
1932年夏、慶応山岳部が日高側から全くの尾根伝いで初登頂。
1934年夏、北大山岳部がコイボクサツナイ川(コイカクシュサツナイ沢のこと)から、中ノ川から、日方川(歴舟川のこと)から3パーティーが登頂した。
1935年夏は、ポンヤオロマップ川遡行で目指したが、悪天で敗退。
しかし、どれも沢を最後まで詰めたのではなく、まだまだ幾多の魅力ルートがある、として研究している。サッシビチャリ川とペテガリ川は全く手つかず。人家からの距離が相当長そうで、中流部の函の通過が鍵となるとしている。
・ 日方川パーティーは、キムクシュベツ川の核心あたりで増水に合い、左岸の尾根に上がってのっこし、ヤオロマップ川一本北の、1599南東面の沢に降り、そこから1599南の国境に上がってそこから藪をこいでルベツネを超えてペテガリに達した。
・ 1934年夏中ノ川からの記録は上二股の間の「下降尾根」を登っている。そのときの記録が後半に詳しく載っている。以下にその紹介。
三股の上の核心の函は、捲きルート取りに苦労したが熊の足跡を発見してこれを追い途中ザイルを出して切り抜ける。上二股までの函の状況を詳しく記述している。そして二股。「左にするか右にするか、暫時私達は行路を求めた。左するも枝澤は凡て瀧の連續で到底利用し得べくもなく、叉右するも、るつぼの底の如き澤の相貌に、遂に決心して國境線まで六百米を登らざるを得なくなつた。草鞋と足袋を鞜に穿き變へ、これからの尾根歩きにと、水も充分水枕に詰めて、ブッシュを漕ぎ始めた。」このヤブ漕ぎ中にペテガリから降りてきた中野、相川と出会う。情報交換して別れる。
山頂にて「其處からお花畠を傳つて、頂上直下の偃松を少し分け、ペテガリの頂を踏んだのが一時間後であつた。頂の歡喜、幾日振りかの苦鬪の後の、而も此の快晴の日の頂、私達は唯々滿足と幸福とに溶け込んで行つた。不圖北の尾根を見ると、熊が一頭、お花畠で盛に何かを求めてゐる、その姿は實に山の親爺にふさはしい。「おーい」と呼ぶと「おや」と云つた顏つきで、後脚で立ち上がり、こちらを不思議さうに眺めてゐる。多分此の熊も人を見るのが初めてなのだらう。」
このあとカールで泊まって1599への稜線をヤブこぎで進み、ヤオロ、コイカク経由で下山する。「山に入る時の林道は頂への憧れの道であり、山を出る時の林道は里への憧れの道である。」
慶応大が延々と尾根からペテガリに登ったのに対し、北大山岳部は、少人数のパーティーで思い思いに三つの沢ルートから攻めている。本当は沢を最後まで完登したいのだが、当時はザイルを積極的に使うほどの沢登りセンスでは無かった。その時代最先端の必要最小エネルギーで、秘境のペテガリ山頂へ達している。
● 三月の千呂露岳 奥田五郎
1934年3月、奥田と初見による積雪期の初登頂記録。ピパイロ川八の沢二股からルベシベ分岐東尾根経由で、ルベシベとチロロのロングアタック。チロロはパンケヌーシ川の奥にあり、稜線からも離れているので、未踏のまま残っていた。計画ではピパイロ、芽室岳などもアタックざんまいの予定だったが、悪天で行けず。冬のピパイロ川の可能性について大いに考察している。
● ペンケヌシ岳 西村正
1935年9月、福地、有馬洋、西村と、千島から帰ったばかりの岡の4人。「僕達は今、その内懷に飛び込まうとしてゐるんだ。日高の北の端、地圖には名もなく今迄殆ど顧られてもゐなかつたペンケヌシ岳、何の考へがあつて目指す譯でもない。たゞ美しい山と聞いてゐたのと誰も登つてゐない山といふ漠然としたものとが、強ひて言ふならばあつたかも知れないが、然しそんな事はどうでもいゝんだ。僕達はそんな事よりか晴れた日高の山脈を享樂しやうと出て來たのだから。」元祖マイナーピーク山行だ。ルートは芽室川から国境を越えてパンケヌーシ川に降り、南東面沢(六ノ沢)からアタック。後パンケヌーシ川を下り、沙流川へ降りている。当時沙流川流域は未開で、日勝峠も不便。入山は十勝側からの国境越えが一番良かったということだろう。地図には「辨華主岳」と書いてある。
西村氏の愉快な文には、食べ物の記述が実に多い。「有馬の忍ばせてきた玉子はオムレツとしてみんなを喜ばした。食後のレモンテーまたよし。」「天幕の中では無駄骨折つた慰勞コンパとして有馬、福地はコンビーフキヤベジを料理に餘念がない。」「フランス料理と稱しフランスパンと紅茶で朝食を濟まして出發」「釣つた許りの岩魚は或いは燒かれ或いは玉葱と共にバターでいためられ腹を滿たした。茄子の味噌汁も惡くはない。」「初めて食べた生の卵巣も所謂『乙な味で鹽氣がある。ナトリウムを含んでゐる故であらふ。』それよりも食後澁い緑茶を飮みつゝ燒いたトーキビの味は斷然札幌の秋を想はしめて傑作であつた。」「五日の夜はカレーライスであつたが今日はライスカレー、物凄く辛かつた。」
パンケヌーシの源流はカール状地形で、稜線に上がると「廣い尾根は一面のお花畑。彈力のある低い偃松。限りなき喜悦を胸に一歩々々ゆつくり歩いた。ナーゲルの底を通して柔らかい感觸が五體を驅けめぐる。さうだ、かふいふ山を長い間望んでゐたんだ。頂上、ベルクハイル、一人で呟いたがみんなは默つて居た。よく晴れてゐる。北日高は勿論の事、中央高地の山、夕張の山、遠く羊蹄、惠庭、余市、札幌岳まで見えるのだ。今、日高に居るのは僕達だけだと思へば「ワーツ」と聲一つぱいに叫んでみたくなつた。札幌の方から「うるさい!」叱る誰かの聲が聞える。すると石狩の頂上からチョコレートを頬張つた林や湯川が「ワーイッ」と叫ぶんぢやなからうか。〜〜バロメーターは正確に一七五〇米を示してゐた。ケルンを積んで最初の名刺を入れた罐を埋める。」これが初登頂時代のしきたりだ。
下山した最終集落が右左府(ウシャップ)とあるがここはどこだろう。会話した老婆、「札幌で流行の歌を歌ってくれ」と頼む若い青年などとの話が面白い。現代なら、まるでブータンヒマラヤの麓のような話だ。
以下、後半分は次回です。
●シユンベツ川より滑若岳へ 水上定一
● 北千島 初見一雄
● 北樺太の山々
名好山 本野正一
樺太に関する文献表 水上定一
●知床半島の春 豊田春満
●三月の石狩川 石橋恭一郎
●創立前後の思出 渡邉千尚
年報(1933/10−1935/10)
写八点、スケッチ三点、地図五点
(解説前編/後編)
1933/10-1935/10の2年分の山行記録と13の紀行など。北千島幌筵(パラムシル)島の後鏃(しりやじり)岳からの千倉岳連峰パノラマ写真などを含む。編集長は照井孝太郎。価格は1円80銭、316ページ。石狩岳への新ルート(現、石北峠)から初の極地法登山、一月、三月の札内川からヤオロ、39、カムエクなどのアタックを狙う野心的山行、ペテガリ、ナメワッカなど日高深部への夏の挑戦、北千島や樺太の山域記事も久しぶりである。
【時代】
1934年東北地方大凶作、函館大火。毛沢東軍「長征」開始。ドイツ、メルクル隊の第二次ナンガパルバット遠征10人遭難で失敗。12月今西錦司ら京大AACK朝鮮白頭山冬季初登遠征。1935年、イギリス、シプトン隊の第五次エベレスト遠征。
●一月の石狩連峰 徳永正雄
1933年12月28日〜1月9日、10人を3班に分け、前進キャンプを設けて進む極地法を実践した。また、石狩岳冬季の登路として、石狩川側、音更川側に次ぐ第三の選択肢、イトンムカ川から峠越えで石狩川源流に入ってアタックする手を発案した。当時石狩川は層雲峡の大函の通過がポイント、音更川は本流の水量が多く、中流部の通過が難しいとされた。イトンムカ川からの峠とは、現在国道39号の走る石北峠の事だ。
「『なるべく多數の人員を伴つて、相當な山へ登り得べき計畫』にして、しかも所謂ポーラーメソッドといふやうな形をとつてみるのも面白からうといふ提案に對して撰んだのがこの石狩連峰であつた。」1931年京大の富士山の極地法登山に刺激を受けている。京大は翌冬、白頭山の遠征に成功している。
今は無き留辺蘂発造材事務所行き森林鉄道の様子がよい。九里の行程は「座席は勿論板張りで我々十人で超滿員である。六時半發車、この愛すべき小型の汽車の燃料は薪でスピードは案外出る。車の中で會話が出來兼ねる程えらく噪音をたてゝ搖れるが、これが卻つて我々を寒さから防いでくれるのであつて、停車すると急に寒さが全身に襲ふてくる。」
音更山の北面沢を登り、ユニ石狩岳、音更山、石狩岳の三山をアタックして成功している。
● 吹上温泉よりトムラウシ山 石橋正夫
吹上温泉での合宿後、美瑛岳の樹林帯中腹を捲き、美瑛川源流からトムラをアタックして硫黄沼の尾根を超えて俵真布へ下山の計画。
「この平らな廣い平原の上は風一つ吹かない。すべてがじつと靜止してゐる。クラストの雪を踏み散らし、いくら急いでも、いくら着こんでも寒い。一寸でも休むものなら體が冷え切つてしまひさうだ。〜〜眞冬の山頂で私達は一時間も休んで居た。チカゝ目を射る高原の上を、今朝は全く考へも付かなかつた氣持でてんでに考へ込んで歩いて居た。〜〜元旦の夕陽が夕張山脈を越して、十勝嶽を燒き、オプタテシケを燒き、私達まで燒いた。太陽がすつかり沈んで終ふと、三人とも滑降レースの樣に一せゐに、滑り出した。いゝ斜面と、いゝ雪とで惠まれたタンネの疎林の尾根を、一とほしに縫ひ、數分間でテントの前まで滑り降つた。」
● 一月の札内川上流 照井孝太郎
1933年12月29日〜1月13日、小屋掛けして16日間の山行。若手OBの坂本直行氏発案、現役、といっても医学部で6年目勘定(相川、照井)二名との1月札内川山行。コイカクから39アタック(引き返し)と、カムエク、1900、1840などのアタックをしている。部報4号に3月の記録があるが、1月は初めて。雪が少なく本流の渡渉が未知だった当時、計画が難しかったが、麓で働く坂本氏が案を練って山行を開始した。当時コイカク沢はコイボクサツナイ川と呼ばれていた。標高950まで沢の中を進み、ここでシーデポして尾根に上がるというスタイル。雪崩にたいする姿勢は今と違う。
コイカクの二股で3停滞の後、39アタック。快晴の稜線では例によってバリズボに消耗し、猛烈な風の中、ヤオロマップまでで引き返す。「直ぐ西に私達の目指した一八三九米峰は黄金色に輝く海を背に秀麗な弧峰を聳え立たせ、鋭い雪の稜線と精緻な山襞は愈々私達の登高慾を煽り立てた。峰頂に向つて測らざる事故のためとは云へ虚しく敗退しなければならなかつた友の心情がまざまざと憶ゐ出される。七年前此の頂を極はめんとして果し得ず今亦その頂を踏む事が出來ぬ相川は喰入る樣に見入つて居る。」雪の39峰、今回もまた未踏のままだ。
股までのゴム長まで使って渡渉しながら十五貫しょって本流を八の沢出会い下の小屋掛けまで移動、8の沢左岸尾根頭の1900m峰(現1903m)をアタックする。早朝「八の澤合流に着いた時黝い谿の間に仰がれる一八四〇米峰の山容にしばし足を止めた。その端麗な頂は紅に染抜かれ頂の光冠は炎々と燃えた。」一八四〇米峰とは1853mの「ピラミッド」のようだ。合流右手の尾根を登って藪と少ない雪に苦労して1900m峰を登頂する。「僅かに国境線より離れて居ると云う理由のために今日迄、何人にも踏まれずに取残されて居た此の一九〇〇米峰より足下に急に落ち込んだ左右の深い広々とした圏谷底に目を落とすと、渺茫たる山並に接した時とは異なった不思議な感興が湧いて来る。暮色は既に圏谷に這寄り圏谷底の雪水をあつめて落ちる瀧の音が幽かに聞こえて来る。黄昏の嶺に佇む喜悦はささやかではあつたが初登頂の悦びとあの苦闘の後の勝利感にも似た感情とで幾倍にもされた。」カムエクは時間切れ。
小屋は夏の間に直行らが骨組みを組んでおいたもの。タンネの葉で屋根や壁を葺くのに、内側に建築紙を張っておくと、焚き火をしても滴が落ちなくて良い。建築紙とは油紙の一種だろうか?楽しそうな小屋作りの一日がある。大鋸を持ち込んでタンネをめきめきぶっ倒し、四.五日分の薪を小屋の前に積み上げた。
カムエクの再度アタックは日を改めて沢を詰め、北のコルへの沢は滝が露出しているようなので、カールに達するルートをとる。カムエクの山頂でとっておきの羊羹を食べて、八の沢カールを滑って降る。「頂を極めた私達には大きな愉悦が殘されて居た。それはデポーより澤への滑降であつた。廣々とした圈谷壁の急斜面を思ひゝに處女雪をねらつて大きく弧を描いて滑り出す。鋭い囘轉毎に濛々たる雪煙を上げて、吸込まれる樣に圈谷底へと息つく間もなく豪快な滑降を續けた。登行二時間を要した所を僅々二十分を要したに過ぎなかつた。」
その後エサオマンを目指したがラッセルで時間が足りず、9の沢源頭の1853m峰(現・1855m峰)と1900m峰(現・1917m峰)のアタックに変えたが、滝壺付きの函を負けず、敗退。翌日も悪天なので小屋暮らしを満喫して下山した。
● 三月の一八三九米峰とカムイエクウチカウシ山 伊藤紀克
前の記録の二ヶ月後、同じく札内川から39とカムエクを登る。3月23日からまで。積雪期39峰初登頂。伊藤紀克、豊田春満、西村正+新人アイヌ人夫中田仁三郎。
コイボクサツナイ川(現・コイカクシュサツナイ川)の中を進み、沢山のデブリを発見しながら、アタックキャンプを沢の中に設ける。このころはまだこういう判断基準だった。記述は沢の中、函が巻けるか、渡れるかが最大の関心事だ。沢を詰め、1400附近から右の支尾根に取り付いて、稜線に出る。コイボクに13:40、ヤオロマップに15:15分。「當然引返さなければならない時刻である。三人とも暫くは一八三九米峰を望んで無言であつたが、誰しも時間の遲い事を氣にして居たのである。叉一方では天氣は急には惡くなりさうも無い事、氣温は割合高い事、それにコイボクサツナイ岳からの距離に較べると、此處からの一八三九米峰は、ほんの目と鼻の先である事等を考へて居たのであらふ。誰云ふと無く「行かふ」と云ふ聲に皆簡單に應じて三時二十分此の頂を後にして、今度の山行の大きな目的の一つであり、叉今日迄誰も其の雪の頂を踏んだ事の無い一八三九米峰に向つてヤオロマツプ岳の腹を急ぎ下つて行つた。」「処女峰アンナプルナ」のラシュナルとエルゾークの会話のようだ。
39峰に17:40分登頂、キャンプ帰着は夜中の24:00。深いラッセルだったが、気温高く風も静かなので、積年の課題、三九峰をアタックした。帰りは雪明かり。シーデポからの下りは暗くて滑れずスキーを引っ張って降りたため、時間も余計にかかった。
この山行、はじめはペテガリへの予定もあり、1599に天場を進めるつもりもあったが、やはりヤオロマップ以南の稜線は夏の状態を見てからと、思い直している。コイカク出会いまで人夫が運んでおいてくれた食料などを持って、八の沢出会いの前回の小屋に移動。その後はイドンナップを目指して10の沢から国境稜線まで上がったりするが結局8の沢からカムエクを登る。最後はカールの壁を右寄りにほぼ山頂に直登。カールボーデンからの下りは「一度滑り出すと久方振りのスキーの面白さに魅せられた如く、思い思いの方向に物凄く、すつとばして行く。未だ澤に入りきらない山腹の滑降では大斜面を余す所なく荒し回る如く、右を行く者と左を行く者との間隔は一町以上も開いてしまふかと思ふと、叉忽ち近寄って来る。眞に豪壮な滑降である。」8の沢のスキーがこんなに快調とは。今は誰もやらないだろう。
その後は悪天が治まらず、気温も上がり、下りの雪橋が心配になってきたので、まだ日数はあるし登り足りないが雨の中下山することにする。
● ペテガリ岳 石橋恭一郎
この時代に日高に残った未踏の地域、ヤオロマップから神威岳までの稜線と、その東西に流れる谷。この時点での最先端の探査をまとめた小文。いよいよ憧れのペテガリ岳を照準に合わせている。
1932年夏、慶応山岳部が日高側から全くの尾根伝いで初登頂。
1934年夏、北大山岳部がコイボクサツナイ川(コイカクシュサツナイ沢のこと)から、中ノ川から、日方川(歴舟川のこと)から3パーティーが登頂した。
1935年夏は、ポンヤオロマップ川遡行で目指したが、悪天で敗退。
しかし、どれも沢を最後まで詰めたのではなく、まだまだ幾多の魅力ルートがある、として研究している。サッシビチャリ川とペテガリ川は全く手つかず。人家からの距離が相当長そうで、中流部の函の通過が鍵となるとしている。
・ 日方川パーティーは、キムクシュベツ川の核心あたりで増水に合い、左岸の尾根に上がってのっこし、ヤオロマップ川一本北の、1599南東面の沢に降り、そこから1599南の国境に上がってそこから藪をこいでルベツネを超えてペテガリに達した。
・ 1934年夏中ノ川からの記録は上二股の間の「下降尾根」を登っている。そのときの記録が後半に詳しく載っている。以下にその紹介。
三股の上の核心の函は、捲きルート取りに苦労したが熊の足跡を発見してこれを追い途中ザイルを出して切り抜ける。上二股までの函の状況を詳しく記述している。そして二股。「左にするか右にするか、暫時私達は行路を求めた。左するも枝澤は凡て瀧の連續で到底利用し得べくもなく、叉右するも、るつぼの底の如き澤の相貌に、遂に決心して國境線まで六百米を登らざるを得なくなつた。草鞋と足袋を鞜に穿き變へ、これからの尾根歩きにと、水も充分水枕に詰めて、ブッシュを漕ぎ始めた。」このヤブ漕ぎ中にペテガリから降りてきた中野、相川と出会う。情報交換して別れる。
山頂にて「其處からお花畠を傳つて、頂上直下の偃松を少し分け、ペテガリの頂を踏んだのが一時間後であつた。頂の歡喜、幾日振りかの苦鬪の後の、而も此の快晴の日の頂、私達は唯々滿足と幸福とに溶け込んで行つた。不圖北の尾根を見ると、熊が一頭、お花畠で盛に何かを求めてゐる、その姿は實に山の親爺にふさはしい。「おーい」と呼ぶと「おや」と云つた顏つきで、後脚で立ち上がり、こちらを不思議さうに眺めてゐる。多分此の熊も人を見るのが初めてなのだらう。」
このあとカールで泊まって1599への稜線をヤブこぎで進み、ヤオロ、コイカク経由で下山する。「山に入る時の林道は頂への憧れの道であり、山を出る時の林道は里への憧れの道である。」
慶応大が延々と尾根からペテガリに登ったのに対し、北大山岳部は、少人数のパーティーで思い思いに三つの沢ルートから攻めている。本当は沢を最後まで完登したいのだが、当時はザイルを積極的に使うほどの沢登りセンスでは無かった。その時代最先端の必要最小エネルギーで、秘境のペテガリ山頂へ達している。
● 三月の千呂露岳 奥田五郎
1934年3月、奥田と初見による積雪期の初登頂記録。ピパイロ川八の沢二股からルベシベ分岐東尾根経由で、ルベシベとチロロのロングアタック。チロロはパンケヌーシ川の奥にあり、稜線からも離れているので、未踏のまま残っていた。計画ではピパイロ、芽室岳などもアタックざんまいの予定だったが、悪天で行けず。冬のピパイロ川の可能性について大いに考察している。
● ペンケヌシ岳 西村正
1935年9月、福地、有馬洋、西村と、千島から帰ったばかりの岡の4人。「僕達は今、その内懷に飛び込まうとしてゐるんだ。日高の北の端、地圖には名もなく今迄殆ど顧られてもゐなかつたペンケヌシ岳、何の考へがあつて目指す譯でもない。たゞ美しい山と聞いてゐたのと誰も登つてゐない山といふ漠然としたものとが、強ひて言ふならばあつたかも知れないが、然しそんな事はどうでもいゝんだ。僕達はそんな事よりか晴れた日高の山脈を享樂しやうと出て來たのだから。」元祖マイナーピーク山行だ。ルートは芽室川から国境を越えてパンケヌーシ川に降り、南東面沢(六ノ沢)からアタック。後パンケヌーシ川を下り、沙流川へ降りている。当時沙流川流域は未開で、日勝峠も不便。入山は十勝側からの国境越えが一番良かったということだろう。地図には「辨華主岳」と書いてある。
西村氏の愉快な文には、食べ物の記述が実に多い。「有馬の忍ばせてきた玉子はオムレツとしてみんなを喜ばした。食後のレモンテーまたよし。」「天幕の中では無駄骨折つた慰勞コンパとして有馬、福地はコンビーフキヤベジを料理に餘念がない。」「フランス料理と稱しフランスパンと紅茶で朝食を濟まして出發」「釣つた許りの岩魚は或いは燒かれ或いは玉葱と共にバターでいためられ腹を滿たした。茄子の味噌汁も惡くはない。」「初めて食べた生の卵巣も所謂『乙な味で鹽氣がある。ナトリウムを含んでゐる故であらふ。』それよりも食後澁い緑茶を飮みつゝ燒いたトーキビの味は斷然札幌の秋を想はしめて傑作であつた。」「五日の夜はカレーライスであつたが今日はライスカレー、物凄く辛かつた。」
パンケヌーシの源流はカール状地形で、稜線に上がると「廣い尾根は一面のお花畑。彈力のある低い偃松。限りなき喜悦を胸に一歩々々ゆつくり歩いた。ナーゲルの底を通して柔らかい感觸が五體を驅けめぐる。さうだ、かふいふ山を長い間望んでゐたんだ。頂上、ベルクハイル、一人で呟いたがみんなは默つて居た。よく晴れてゐる。北日高は勿論の事、中央高地の山、夕張の山、遠く羊蹄、惠庭、余市、札幌岳まで見えるのだ。今、日高に居るのは僕達だけだと思へば「ワーツ」と聲一つぱいに叫んでみたくなつた。札幌の方から「うるさい!」叱る誰かの聲が聞える。すると石狩の頂上からチョコレートを頬張つた林や湯川が「ワーイッ」と叫ぶんぢやなからうか。〜〜バロメーターは正確に一七五〇米を示してゐた。ケルンを積んで最初の名刺を入れた罐を埋める。」これが初登頂時代のしきたりだ。
下山した最終集落が右左府(ウシャップ)とあるがここはどこだろう。会話した老婆、「札幌で流行の歌を歌ってくれ」と頼む若い青年などとの話が面白い。現代なら、まるでブータンヒマラヤの麓のような話だ。
以下、後半分は次回です。
●シユンベツ川より滑若岳へ 水上定一
● 北千島 初見一雄
● 北樺太の山々
名好山 本野正一
樺太に関する文献表 水上定一
●知床半島の春 豊田春満
●三月の石狩川 石橋恭一郎
●創立前後の思出 渡邉千尚
年報(1933/10−1935/10)
写八点、スケッチ三点、地図五点
(解説前編/後編)
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部報解説・ 2007年1月19日 (金)
部報4号の後半の目玉はなんといっても中部日高、中ノ川の谷と冬の稜線への踏査。遠き山、ペテガリはまだはるかに望むばかりだ。秀峰1839峰への積雪期アタック初記録もある。
【部報4号(1933年)前編の続き】
部報4号(1933年)後半
● 札内嶽よりカムイエクウチカウシ山に到る山稜縦走及び十勝ポロシリ岳 石橋正夫
● 元浦川―中ノ岳―中ノ川 本野正一
● 神威嶽と中ノ川(ルートルオマップ川) 中野征紀
● 日高山脈登山年譜 徳永正雄
● アイスピッケルとシュタイクアイゼンの材質に就て 和久田弘一
● 高山に於ける風土馴化作用と酸素吸入に就て 金光正次
● 雪の日高山脈雑抄
・一月の戸蔦別川 金光正次
・一八三九米峰 石橋正夫
部報4号(1933年)後半
● 札内嶽よりカムイエクウチカウシ山に到る山稜縦走及び十勝ポロシリ岳 石橋正夫
1932年7月、トッタベツ川入山、札内岳からカムエクまでの十日間の稜線記録。その後8の沢を降り、スマクネンベツ川から十勝幌尻岳超えてオピリネップ沢を降りる。
エサオマンからカムエク北のコルまでの山稜はこれまで未踏。かなりひどいハイマツの部分もあったが、何より当てにしていた雪渓が無く、水に困った。
「九ノ澤上流の瘤につく。此の東北斜面は緩斜面で、相當の殘雪と平地がある。此處はエサオマントツタベツ嶽とカムイエクウチカウシ山との間では、キャンプ地として最良の處だ。こゝで二日振りで飯を焚いて喰つた。それは長い間の尾根の歩きにもかゝはらず、米の代りに干飯を持ち、少量しかパンを持つて行かず、春からの天候不良の爲、殘雪の多い事を期待して出掛けたが案に相違して飯が焚けず、前日でパンを喰ひつくした事による。」日高稜線の藪こぎ覚悟の山行ながら、記録無し、人跡無しの魅力が彼らを誘う。
● 元浦川―中ノ岳―中ノ川 本野正一
1933年7月10日-22日3人+人夫1、初めてのベッピリガイ沢遡行、中ノ岳登頂、中ノ川北東面沢下降記録。夏期の中部日高はこれまで、部報3号で中ノ川の遡行を断念して帰る記録がある。まだまだザイルを持って岩登りして登るというセンスではなく、懸垂下降もせず捲きルートを探す通過方法なので、中ノ川などは未踏のままである。今回も中ノ岳北東面沢を大変な苦労をしてノーザイルで下り、途中ビバークで一泊している。だが、着実に未踏の沢を踏破していく。中ノ岳登頂は部報では初記録。やはりみんなの憧れは美しいペテガリにあり、なんとかアプローチできないかとルートを検討している。遠い山だったのだ。今回も計画ではペテガリへの稜線の往復を考えていたが無理と判断している。
静内川水系のベッピリガイ沢へのアプローチは隣の元浦川からピリガイ山を乗っ越して行く。今はダムの底の静内川中流域の通過が困難なためである。ベッピリガイ沢のキャンプ地での記述「恐らくは登山者も、漁りを生業にしてゐるアイヌも、絶えて訪れた事のないであらう、コイカクシユシビチヤリ川の上流に入り込んでゐるのだ。幾重にも重なり合つて日高の其等の澤を包んでゐる山々、身動きする毎に大きな反響を起こしさうな程、靜まり返つてゐる日高の山々よ。僕達は憧れてゐた南日高の山懷に抱かれる事が出來たのだ。何がなしに涙の出るやうな感傷と、明日からの戰ひに對する新しいファイティングの湧くのを感じた」。当時、コイカクシュシピチャリ川という名称があった。ベッピリガイ沢の下流である。今はもう無い名だ。
函の通過に「・・・オーバーハングで登行不能となつたので卷くのを斷念して戻る。こんな事をしてゐる中に一時間半を費やした。筏を組まうとしたが、適當な材が見當たらない。凾の終はりが見透せるので、遂に泳いで渡ることにした。米などすつかりルックにしまひ込み、ルックを背負つたまゝ泳ぎ出す。」というのはいささかショックだ。泳ぐより先に筏という選択肢?当時はまだビニール袋が無かった。防水は油紙(油を和紙に染み込ませた物)のみ。米を濡らしてはまずかろう。このパーティーは稜線でのキャンプに水を運ぶため、ゴムの水枕を持って行ってこれがすこぶる快調だったとある。当時としては、なかなかのアイディアだと思う。
●神威嶽と中ノ川(ルートルオマップ川) 中野征紀
1933年2月、中ノ川遡行ソエマツ岳の北国境尾根往復の記録と1933年8月、中ノ川から神威岳の北東面沢からの登頂記録。遂に中ノ川左半分の様子が明らかになる。地図の間違いが多いとのことで独自の地図を示し、細かく符号を付けて解説している。
冬季記録2月5日から12日までは中ノ川を遡行し、神威ソエマツ間の1440峰北面のルンゼから南側の尾根に取り付いて1440に登り、引き返している。登っているのが神威岳でなくてすっかり落胆したとある。この季節に谷の中を歩く山行を今はもうしないが、結構奥までスキーでいけるものだ。同年8月はやはり10日をかけて中ノ川の神威岳北東面沢をアタック。ただし最後の核心は行けず、1440経由で稜線に上がり神威岳をアタックした。これにより中ノ川上流の様子を解明した。日高側に比べ十勝川の川の名にはアイヌ名が少ない、中ノ川のアイヌ名は「ルートルオマップ」であると書いてある。今もこの名を知る人は知るが、定着することは無かった。三股までは砂金取りや釣りの和人が多く出入りしたためだろう。
●日高山脈登山年譜 徳永正雄
1923年芽室川から芽室岳を往復した山岳部の前身、恵迪寮旅行部のち山岳部メンバーによる記録を日高の純登山初記録として、以下1933年8月までの日高の全記録。丁度10年ながら、日高の未踏山域は着実に踏破されていく。この時代に山岳部員だった人達の幸運をただ羨むのみ。
●アイスピッケルとシュタイクアイゼンの材質に就て 和久田弘一
おそらく工学部金属学科と思われる筆者による非常に専門的な低温下で使うピッケルアイゼンの組成について論じた小文。門外漢には殆ど意味不明だが、おもしろいのは鍛造の仕方を細かく書いてあるところ。当時、アイゼンピッケルは鍛冶屋に鍛造してもらったようなのだ。「アイゼンの製作中特別に注意すべき事は、火造り温度と、火造り後燒入れを行ふ前の燒なましである。何しろ一本の丸棒から之れを製作するのであるから、火造り後内部に不均衡な力が存在してをり・・・・」という具合。見れば巻末の広告欄には「PICKEL UND STEIG EISEN KADOTA SAPPORO MINAMI 1,NISHI11」などというおしゃれな広告もある。鍛冶屋に注文して鍛造していたのだ。私も数年前、国内最後のピッケル鍛冶の二村さん(愛知県豊田市)に鍛造してもらった。一本の丸棒からみるみるピッケルの頭が出来上がっていくのを見学させてもらった。このような装備に関する学術的考察研究の章は部報4号が最初だ。
●高山に於ける風土馴化作用と酸素吸入に就て 金光正次
続いて高所生理学に関する学術的考察の章。1933年当時、まだ日本でヒマラヤの高峰に出掛けていた登山隊は無い。1931年京大山岳部はカブルー遠征の準備をしたが頓挫。先鞭は1936年の立教大山岳部のナンダ・コートだ。
1924年マロリー、アーヴィン行方不明のエベレスト隊、1931パウル・バウアーのカンチェンジュンガ隊も未遂に終わっている。が、これらの報告書を読み、8000mでの高所生理を解説し、最新鋭の酸素吸入器の検討をしている。にもかかわらず、具体的なヒマラヤ高峰への憧憬一つとして書き留めていない。当時のAACHのヒマラヤ観はまだまだ現実感が薄かったのだろうか。たぶん日高の未踏の山河の方に夢中だったのだろう。
●雪の日高山脈雑抄
・一月の戸蔦別川 金光正次
1933年正月山行の戸蔦別川から幌尻、エサオマン、ピパイロアタック計画の随想。天候に恵まれず、戸蔦別岳のアタックのみで帰っている。1929年の幌尻冬季初登山行の時のほとんど壊れかけていた小屋を使う。記録に依れば既にOBの坂本直行氏も参加している。連日の焚き火で無心になったり月光の林を見詰めたりと、今も変わらぬ「焚火トリップ」をしている。「月の光で見る景色は幻想的なものだ。榛の木の淡い影、針葉樹の黒々と横たはる太い影の織合ふ中に雪の面は薄緑の螢光を發してゐるが木立の中には墨を流したやうな闇が漂つてぢつと見詰めてゐるとその中に引き込まれさうな不氣味さを感ずる。無心に焚火を弄るもの、呑みかけの紅茶の椀を手に、ゆらめく焔を見詰めてゐるもの、皆それぞれの想ひを過去の追憶に、現實に、或いは奔放な幻想の世界に馳せてゐるのであらふ。瞑想の谷間は月光を浴びて夢想者の彷徨を限りなく誘つて行つた。」
・一八三九米峰 石橋正夫
1933年3月中旬、コイカクの尾根から登って39アタックの記録。これだけ格好良い山だが部報で初登場。やはり中部日高は遠かったのだろう。当時はコイカクシュサツナイ岳(沢)をコイボクサツナイ岳(沢)と呼んでいる。コイカク〜ヤオロ間のバリズボを苦労して抜け、スキーを持ち上げる考察などを記している。残念ながらヤオロマップから39間の左右に出る雪庇を踏み抜き、転落、引き返している。「鞍部の最低部から一八三九米峰の一つ手前の瘤との間は地圖に記してある以上に痩せ且つ雪庇が斷片的に山稜の左右に交互して出てゐた。先頭は既に稜の右側の雪庇の上を通つて次に左側に出てゐる雪庇の方へ移つて了つてゐた。二番が右側の雪庇から稜へ渡らうとした時その雪庇が切れ、空中に投げ飛ばされ、もうもう立ち上る雪煙のあとから表層雪崩に乘つて、ころがり落ちて行つた。二百米も流れてから流れの外側になげ出された。雪崩はなほも下へゝとうねりつゝ流れて行つた。けれども幸ひなことには帽子と眼鏡を失つた位で別に負傷はしなかつた。落ちた方は助かつてしまへば今の事件が遠い夢の如く思はれたが、落ちなかつた者にとつて同じ状態にある幾つかの雪庇をさけて行く事は非常な心配があつたらう。友はこれ以上進むことに反對した。」部報初の重大事故記録だが。この日は気温が高く、また雪庇に対する認識も甘かったとしている。「一つの谷のしほれたテントの中で疲勞が焦燥と歸心ともつれ合つてゐた。――その中で一人は家に歸つた夢を見てゐた。もう一人は物凄く搖れるメリーゴーランドに乘つた夢を見て居た。外では夜霧が氷結して種々竒怪な形になつて谷を埋めて居た。」
年報(1931/10ー1933/10)
写真九点、スケッチ五点、地図6点
【部報4号(1933年)前編へ続く】
● 札内嶽よりカムイエクウチカウシ山に到る山稜縦走及び十勝ポロシリ岳 石橋正夫
1932年7月、トッタベツ川入山、札内岳からカムエクまでの十日間の稜線記録。その後8の沢を降り、スマクネンベツ川から十勝幌尻岳超えてオピリネップ沢を降りる。
エサオマンからカムエク北のコルまでの山稜はこれまで未踏。かなりひどいハイマツの部分もあったが、何より当てにしていた雪渓が無く、水に困った。
「九ノ澤上流の瘤につく。此の東北斜面は緩斜面で、相當の殘雪と平地がある。此處はエサオマントツタベツ嶽とカムイエクウチカウシ山との間では、キャンプ地として最良の處だ。こゝで二日振りで飯を焚いて喰つた。それは長い間の尾根の歩きにもかゝはらず、米の代りに干飯を持ち、少量しかパンを持つて行かず、春からの天候不良の爲、殘雪の多い事を期待して出掛けたが案に相違して飯が焚けず、前日でパンを喰ひつくした事による。」日高稜線の藪こぎ覚悟の山行ながら、記録無し、人跡無しの魅力が彼らを誘う。
● 元浦川―中ノ岳―中ノ川 本野正一
1933年7月10日-22日3人+人夫1、初めてのベッピリガイ沢遡行、中ノ岳登頂、中ノ川北東面沢下降記録。夏期の中部日高はこれまで、部報3号で中ノ川の遡行を断念して帰る記録がある。まだまだザイルを持って岩登りして登るというセンスではなく、懸垂下降もせず捲きルートを探す通過方法なので、中ノ川などは未踏のままである。今回も中ノ岳北東面沢を大変な苦労をしてノーザイルで下り、途中ビバークで一泊している。だが、着実に未踏の沢を踏破していく。中ノ岳登頂は部報では初記録。やはりみんなの憧れは美しいペテガリにあり、なんとかアプローチできないかとルートを検討している。遠い山だったのだ。今回も計画ではペテガリへの稜線の往復を考えていたが無理と判断している。
静内川水系のベッピリガイ沢へのアプローチは隣の元浦川からピリガイ山を乗っ越して行く。今はダムの底の静内川中流域の通過が困難なためである。ベッピリガイ沢のキャンプ地での記述「恐らくは登山者も、漁りを生業にしてゐるアイヌも、絶えて訪れた事のないであらう、コイカクシユシビチヤリ川の上流に入り込んでゐるのだ。幾重にも重なり合つて日高の其等の澤を包んでゐる山々、身動きする毎に大きな反響を起こしさうな程、靜まり返つてゐる日高の山々よ。僕達は憧れてゐた南日高の山懷に抱かれる事が出來たのだ。何がなしに涙の出るやうな感傷と、明日からの戰ひに對する新しいファイティングの湧くのを感じた」。当時、コイカクシュシピチャリ川という名称があった。ベッピリガイ沢の下流である。今はもう無い名だ。
函の通過に「・・・オーバーハングで登行不能となつたので卷くのを斷念して戻る。こんな事をしてゐる中に一時間半を費やした。筏を組まうとしたが、適當な材が見當たらない。凾の終はりが見透せるので、遂に泳いで渡ることにした。米などすつかりルックにしまひ込み、ルックを背負つたまゝ泳ぎ出す。」というのはいささかショックだ。泳ぐより先に筏という選択肢?当時はまだビニール袋が無かった。防水は油紙(油を和紙に染み込ませた物)のみ。米を濡らしてはまずかろう。このパーティーは稜線でのキャンプに水を運ぶため、ゴムの水枕を持って行ってこれがすこぶる快調だったとある。当時としては、なかなかのアイディアだと思う。
●神威嶽と中ノ川(ルートルオマップ川) 中野征紀
1933年2月、中ノ川遡行ソエマツ岳の北国境尾根往復の記録と1933年8月、中ノ川から神威岳の北東面沢からの登頂記録。遂に中ノ川左半分の様子が明らかになる。地図の間違いが多いとのことで独自の地図を示し、細かく符号を付けて解説している。
冬季記録2月5日から12日までは中ノ川を遡行し、神威ソエマツ間の1440峰北面のルンゼから南側の尾根に取り付いて1440に登り、引き返している。登っているのが神威岳でなくてすっかり落胆したとある。この季節に谷の中を歩く山行を今はもうしないが、結構奥までスキーでいけるものだ。同年8月はやはり10日をかけて中ノ川の神威岳北東面沢をアタック。ただし最後の核心は行けず、1440経由で稜線に上がり神威岳をアタックした。これにより中ノ川上流の様子を解明した。日高側に比べ十勝川の川の名にはアイヌ名が少ない、中ノ川のアイヌ名は「ルートルオマップ」であると書いてある。今もこの名を知る人は知るが、定着することは無かった。三股までは砂金取りや釣りの和人が多く出入りしたためだろう。
●日高山脈登山年譜 徳永正雄
1923年芽室川から芽室岳を往復した山岳部の前身、恵迪寮旅行部のち山岳部メンバーによる記録を日高の純登山初記録として、以下1933年8月までの日高の全記録。丁度10年ながら、日高の未踏山域は着実に踏破されていく。この時代に山岳部員だった人達の幸運をただ羨むのみ。
●アイスピッケルとシュタイクアイゼンの材質に就て 和久田弘一
おそらく工学部金属学科と思われる筆者による非常に専門的な低温下で使うピッケルアイゼンの組成について論じた小文。門外漢には殆ど意味不明だが、おもしろいのは鍛造の仕方を細かく書いてあるところ。当時、アイゼンピッケルは鍛冶屋に鍛造してもらったようなのだ。「アイゼンの製作中特別に注意すべき事は、火造り温度と、火造り後燒入れを行ふ前の燒なましである。何しろ一本の丸棒から之れを製作するのであるから、火造り後内部に不均衡な力が存在してをり・・・・」という具合。見れば巻末の広告欄には「PICKEL UND STEIG EISEN KADOTA SAPPORO MINAMI 1,NISHI11」などというおしゃれな広告もある。鍛冶屋に注文して鍛造していたのだ。私も数年前、国内最後のピッケル鍛冶の二村さん(愛知県豊田市)に鍛造してもらった。一本の丸棒からみるみるピッケルの頭が出来上がっていくのを見学させてもらった。このような装備に関する学術的考察研究の章は部報4号が最初だ。
●高山に於ける風土馴化作用と酸素吸入に就て 金光正次
続いて高所生理学に関する学術的考察の章。1933年当時、まだ日本でヒマラヤの高峰に出掛けていた登山隊は無い。1931年京大山岳部はカブルー遠征の準備をしたが頓挫。先鞭は1936年の立教大山岳部のナンダ・コートだ。
1924年マロリー、アーヴィン行方不明のエベレスト隊、1931パウル・バウアーのカンチェンジュンガ隊も未遂に終わっている。が、これらの報告書を読み、8000mでの高所生理を解説し、最新鋭の酸素吸入器の検討をしている。にもかかわらず、具体的なヒマラヤ高峰への憧憬一つとして書き留めていない。当時のAACHのヒマラヤ観はまだまだ現実感が薄かったのだろうか。たぶん日高の未踏の山河の方に夢中だったのだろう。
●雪の日高山脈雑抄
・一月の戸蔦別川 金光正次
1933年正月山行の戸蔦別川から幌尻、エサオマン、ピパイロアタック計画の随想。天候に恵まれず、戸蔦別岳のアタックのみで帰っている。1929年の幌尻冬季初登山行の時のほとんど壊れかけていた小屋を使う。記録に依れば既にOBの坂本直行氏も参加している。連日の焚き火で無心になったり月光の林を見詰めたりと、今も変わらぬ「焚火トリップ」をしている。「月の光で見る景色は幻想的なものだ。榛の木の淡い影、針葉樹の黒々と横たはる太い影の織合ふ中に雪の面は薄緑の螢光を發してゐるが木立の中には墨を流したやうな闇が漂つてぢつと見詰めてゐるとその中に引き込まれさうな不氣味さを感ずる。無心に焚火を弄るもの、呑みかけの紅茶の椀を手に、ゆらめく焔を見詰めてゐるもの、皆それぞれの想ひを過去の追憶に、現實に、或いは奔放な幻想の世界に馳せてゐるのであらふ。瞑想の谷間は月光を浴びて夢想者の彷徨を限りなく誘つて行つた。」
・一八三九米峰 石橋正夫
1933年3月中旬、コイカクの尾根から登って39アタックの記録。これだけ格好良い山だが部報で初登場。やはり中部日高は遠かったのだろう。当時はコイカクシュサツナイ岳(沢)をコイボクサツナイ岳(沢)と呼んでいる。コイカク〜ヤオロ間のバリズボを苦労して抜け、スキーを持ち上げる考察などを記している。残念ながらヤオロマップから39間の左右に出る雪庇を踏み抜き、転落、引き返している。「鞍部の最低部から一八三九米峰の一つ手前の瘤との間は地圖に記してある以上に痩せ且つ雪庇が斷片的に山稜の左右に交互して出てゐた。先頭は既に稜の右側の雪庇の上を通つて次に左側に出てゐる雪庇の方へ移つて了つてゐた。二番が右側の雪庇から稜へ渡らうとした時その雪庇が切れ、空中に投げ飛ばされ、もうもう立ち上る雪煙のあとから表層雪崩に乘つて、ころがり落ちて行つた。二百米も流れてから流れの外側になげ出された。雪崩はなほも下へゝとうねりつゝ流れて行つた。けれども幸ひなことには帽子と眼鏡を失つた位で別に負傷はしなかつた。落ちた方は助かつてしまへば今の事件が遠い夢の如く思はれたが、落ちなかつた者にとつて同じ状態にある幾つかの雪庇をさけて行く事は非常な心配があつたらう。友はこれ以上進むことに反對した。」部報初の重大事故記録だが。この日は気温が高く、また雪庇に対する認識も甘かったとしている。「一つの谷のしほれたテントの中で疲勞が焦燥と歸心ともつれ合つてゐた。――その中で一人は家に歸つた夢を見てゐた。もう一人は物凄く搖れるメリーゴーランドに乘つた夢を見て居た。外では夜霧が氷結して種々竒怪な形になつて谷を埋めて居た。」
年報(1931/10ー1933/10)
写真九点、スケッチ五点、地図6点
【部報4号(1933年)前編へ続く】
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部報解説・ 2006年12月27日 (水)
部報4号前半分の書評です。大雪も日高も、これまでに足跡のない山域を求め、新しい発見が意気盛んに記録されています。
部報4号(1933年)前編
● 積雪期の大雪山彙ー特に直井温泉(愛山渓温泉)を中心としてー
佐々保雄、村山林二郎
●冬の熊根尻山塊とウペペサンケ山 豊田春満
●一月のニペソツ山ー十勝川よりー 徳永正雄
●支湧別川よりの武利岳ー五月及び二月の登山紀行 伊藤紀克、本野正一
●幌尻嶽・イドンナップ岳・カムイエクウチカウシ山 中野征紀、相川修
部報4号(1933年)前編
【総評】
1931/10−1933/10の2年分の山行記録と13の紀行など。坂本直行氏の天然色油彩スケッチ画を含む。編集長は徳永正雄。価格は1円50銭、284ページ。積雪期大雪山のガイド的小文から始まる。登山史的側面としては、いよいよ夏の中部日高の険悪な沢の探査が進む。中ノ川周辺、ペテガリのアプローチなどが最先端の報告である。日高の登山史を年譜としてまとめている。アイゼン、ピッケル研究、高所生理などの技術研究も部報では初。前半部の山場は中野征紀氏のシュンベツ川カムエク直登沢探査だろうか。
【時代】
1931年は満洲事変が始まり、翌32年3月に満洲国建国。5.15犬飼首相暗殺、ナチスが政権政党に。33年3月、日本は国連を脱退。
● 積雪期の大雪山彙ー特に直井温泉(愛山渓温泉)を中心としてー
佐々保雄、村山林二郎
これまで層雲峡と天人峡からに限られた大雪山の登山口に愛山渓を強く勧める一文。1920〜22年の間に板倉氏らによって冬季初登された中央大雪の高地群はこの10年ほど顧みられなかったとある。たしかに東大雪やニペ、武利武華が多い。大雪山中央部が人臭くなったためとある。ほんの10年前は冬季初登だったのに、早い。温泉発見者の直井さんは権利を売り渡して、南米に移住したという話が「斗南の翼広げては」。
●冬の熊根尻山塊とウペペサンケ山 豊田春満
クマネシリとウペペサンケの、積雪期初登頂記録。1931年暮れ12月30日から1月7日まで5人で。この山行では芽登温泉からクマネシリ山塊を目指したがあまりに雪が少なく敗退、続いてウペペサンケを南西面シーシカリベツ川から入山、登頂に成功する。
続く3月17日から22日、再びクマネシリ4山にヌカナン川から挑戦する。ヌカナン川から西クマネシリの南の郡界尾根1250mあたりにあがり、そこから西クマネシリを踏んで、クマネシリと、ピリベツをダブルアタックしてBCに下る。翌日、南クマネシリを北北西の尾根からアタックする。
昨年12月に僕もこの山域を登った。やはり雪が少なく、イグルーをあきらめタンネで小屋がけしたが、寒かった。当時は林道が無かったから敗退も仕方ない。
●一月のニペソツ山ー十勝川よりー 徳永正雄
1932年12月31日から1月5日まで、4人の冬季初登記録。十勝川水系ニペソツ川支流ワッカレタリベツ川(ニペ南南西面)からのアタック。このときまでに積雪期の二ペソツは31年、32年の5月に幌加音更川側から登られている。積雪量の少ないこの山域は、音更川、十勝川とどちらも大きな川からのアプローチで、渡渉が大きな問題だった。登山成功は造材林道の延伸が大きいとある。この時代、丸山を「中ニペソツ山」と呼んでいる。陸地測量部の地形図が大いに違っていて、その点の記述が多い。沢をつめ、急になったら、更に急な側面を登って尾根に上がるのが、この時代の戦法である。「ワッカレタリベツ」は白き水の川の意味。かなり上流まで白濁しているという。最期の訳注「今後のニペソツ山のスキー登山としては、音更川本流から入る事だ。三股から奧にもう一つ天幕を張れば、ニペソツ、石狩、音更の三頂が一日行程の範圍内にあるから非常に面白いと思ふ。音更川本流には相當上流迄林内歩道があるが、少くも三股迄道が出來て橋がかゝらないと、川が大きい上に降雪量の尠い關係から、ベースキャンプを上流に設ける迄が仲々困難な仕事だらうと思ふ。併し早晩この登山の行はれるであらう事を確信する。」予言の通り、幌加音更川の林道開発は進み、今は冬季西面の記録はあまり見ない。
●支湧別川よりの武利岳ー五月及び二月の登山紀行 伊藤紀克、本野正一
「武利岳はもつと攀られていゝ山であるのに,之迄(略)記録は甚だ貧しい物であった」とあるが、これまでの部報を見る限り、結構記録は多い気がする。珍しい故、部報に多く載るという事か。支湧別側より、1932年5月と33年2月の山行。
5月28日〜ほとんど6月山行の風情だが、アイゼンやピッケルも使っている。スキーは途中、やっぱりよけいな荷物と化す。白滝から支湧別岳→武利岳。アタック後の天場上では残雪スキー大会に興じる。武利の北のジャンクションピーク(1758m)をニセイチャロマップ岳と呼んではどうか、とある。以前どこかでこの名で呼んでいる記録を読んだことがあり、僕はひとりそう呼んでいる。その後猛烈な藪こぎに往生するが、屏風岳を越えて層雲峡へ。
2月も白滝支湧別川からのアタック。
●幌尻嶽・イドンナップ岳・カムイエクウチカウシ山 中野征紀、相川修
このころまだ未知だった額平川、新冠川、シュンペツ川上流部夏期の探査山行。イドンナップも初めての記録だ。「未だ人の歩いて居ない澤、未だ人の登って居ない峰、例へ其れが如何に容易な峰であつてもー(略)ー最初に其れを行くことは何と大きな期待であらう。全く此の額平川には相當の期待を持つて居た。」幌尻を乗っ越して新冠川を下ると、アイヌの小屋など見つけ、アイヌの踏み跡に導かれていく。「其処からは左岸を高く搦まなくてはならなかつた。けれども微かな踏後が、殆どそれを期待せずには見出されまいと思はれる踏跡が、縷々として函の上を、泥付きの急斜面を、或は苔蒸した岩の傍を登り降りして私達を導いて行って呉れた。此れも忘れることの出来ない澤歩きの妙であった。而も私達は舊土人の跡を辿るのであり、舊土人は熊の足跡を追ふて居るのであり、そして再び熊が之れを通ふことでもあらう、所々に山の親爺の糞が置き忘れられてあつた。」アイヌの踏み後を辿る旅は、本当の前人未踏以上におもしろいことだったと思う。そして初めて見るイドンナップからの日高主稜線の眺めに賛辞を送っている。シュンベツ川からのカムエクはなんとカムエク沢左股に入り込んでいる。日高で最も難関の沢である。「其処から沢は岩壁の中を電光形に落ちる瀧の連続であつた。其の曲がりの度に深い滝壺を湛えて居た。其れは絶対に人を寄せ付け様ともしなかつた。」隣の尾根を苦労して登っている。カムエク沢の初記録と思われる。カムエクを超え、坂本直行の牧場へ下山。
以下、後半は次回。
● 札内嶽よりカムイエクウチカウシ山に到る山稜縦走及び十勝ポロシリ岳 石橋正夫
● 元浦川ー中ノ岳ー中ノ川 本野正一
● 神威嶽と中ノ川(ルートルオマップ川) 中野征紀
● 日高山脈登山年譜 徳永正雄
● アイスピッケルとシュタイクアイゼンの材質に就て 和久田弘一
● 高山に於ける風土馴化作用と酸素吸入に就て 金光正次
● 雪の日高山脈雑抄
・一月の戸蔦別川 金光正次
・一八三九米峰 石橋正夫
年報(1931/10−1933/10)
写真九点、スケッチ五点、地図6点
【部報4号(1933年)後編へ続く】
【総評】
1931/10−1933/10の2年分の山行記録と13の紀行など。坂本直行氏の天然色油彩スケッチ画を含む。編集長は徳永正雄。価格は1円50銭、284ページ。積雪期大雪山のガイド的小文から始まる。登山史的側面としては、いよいよ夏の中部日高の険悪な沢の探査が進む。中ノ川周辺、ペテガリのアプローチなどが最先端の報告である。日高の登山史を年譜としてまとめている。アイゼン、ピッケル研究、高所生理などの技術研究も部報では初。前半部の山場は中野征紀氏のシュンベツ川カムエク直登沢探査だろうか。
【時代】
1931年は満洲事変が始まり、翌32年3月に満洲国建国。5.15犬飼首相暗殺、ナチスが政権政党に。33年3月、日本は国連を脱退。
● 積雪期の大雪山彙ー特に直井温泉(愛山渓温泉)を中心としてー
佐々保雄、村山林二郎
これまで層雲峡と天人峡からに限られた大雪山の登山口に愛山渓を強く勧める一文。1920〜22年の間に板倉氏らによって冬季初登された中央大雪の高地群はこの10年ほど顧みられなかったとある。たしかに東大雪やニペ、武利武華が多い。大雪山中央部が人臭くなったためとある。ほんの10年前は冬季初登だったのに、早い。温泉発見者の直井さんは権利を売り渡して、南米に移住したという話が「斗南の翼広げては」。
●冬の熊根尻山塊とウペペサンケ山 豊田春満
クマネシリとウペペサンケの、積雪期初登頂記録。1931年暮れ12月30日から1月7日まで5人で。この山行では芽登温泉からクマネシリ山塊を目指したがあまりに雪が少なく敗退、続いてウペペサンケを南西面シーシカリベツ川から入山、登頂に成功する。
続く3月17日から22日、再びクマネシリ4山にヌカナン川から挑戦する。ヌカナン川から西クマネシリの南の郡界尾根1250mあたりにあがり、そこから西クマネシリを踏んで、クマネシリと、ピリベツをダブルアタックしてBCに下る。翌日、南クマネシリを北北西の尾根からアタックする。
昨年12月に僕もこの山域を登った。やはり雪が少なく、イグルーをあきらめタンネで小屋がけしたが、寒かった。当時は林道が無かったから敗退も仕方ない。
●一月のニペソツ山ー十勝川よりー 徳永正雄
1932年12月31日から1月5日まで、4人の冬季初登記録。十勝川水系ニペソツ川支流ワッカレタリベツ川(ニペ南南西面)からのアタック。このときまでに積雪期の二ペソツは31年、32年の5月に幌加音更川側から登られている。積雪量の少ないこの山域は、音更川、十勝川とどちらも大きな川からのアプローチで、渡渉が大きな問題だった。登山成功は造材林道の延伸が大きいとある。この時代、丸山を「中ニペソツ山」と呼んでいる。陸地測量部の地形図が大いに違っていて、その点の記述が多い。沢をつめ、急になったら、更に急な側面を登って尾根に上がるのが、この時代の戦法である。「ワッカレタリベツ」は白き水の川の意味。かなり上流まで白濁しているという。最期の訳注「今後のニペソツ山のスキー登山としては、音更川本流から入る事だ。三股から奧にもう一つ天幕を張れば、ニペソツ、石狩、音更の三頂が一日行程の範圍内にあるから非常に面白いと思ふ。音更川本流には相當上流迄林内歩道があるが、少くも三股迄道が出來て橋がかゝらないと、川が大きい上に降雪量の尠い關係から、ベースキャンプを上流に設ける迄が仲々困難な仕事だらうと思ふ。併し早晩この登山の行はれるであらう事を確信する。」予言の通り、幌加音更川の林道開発は進み、今は冬季西面の記録はあまり見ない。
●支湧別川よりの武利岳ー五月及び二月の登山紀行 伊藤紀克、本野正一
「武利岳はもつと攀られていゝ山であるのに,之迄(略)記録は甚だ貧しい物であった」とあるが、これまでの部報を見る限り、結構記録は多い気がする。珍しい故、部報に多く載るという事か。支湧別側より、1932年5月と33年2月の山行。
5月28日〜ほとんど6月山行の風情だが、アイゼンやピッケルも使っている。スキーは途中、やっぱりよけいな荷物と化す。白滝から支湧別岳→武利岳。アタック後の天場上では残雪スキー大会に興じる。武利の北のジャンクションピーク(1758m)をニセイチャロマップ岳と呼んではどうか、とある。以前どこかでこの名で呼んでいる記録を読んだことがあり、僕はひとりそう呼んでいる。その後猛烈な藪こぎに往生するが、屏風岳を越えて層雲峡へ。
2月も白滝支湧別川からのアタック。
●幌尻嶽・イドンナップ岳・カムイエクウチカウシ山 中野征紀、相川修
このころまだ未知だった額平川、新冠川、シュンペツ川上流部夏期の探査山行。イドンナップも初めての記録だ。「未だ人の歩いて居ない澤、未だ人の登って居ない峰、例へ其れが如何に容易な峰であつてもー(略)ー最初に其れを行くことは何と大きな期待であらう。全く此の額平川には相當の期待を持つて居た。」幌尻を乗っ越して新冠川を下ると、アイヌの小屋など見つけ、アイヌの踏み跡に導かれていく。「其処からは左岸を高く搦まなくてはならなかつた。けれども微かな踏後が、殆どそれを期待せずには見出されまいと思はれる踏跡が、縷々として函の上を、泥付きの急斜面を、或は苔蒸した岩の傍を登り降りして私達を導いて行って呉れた。此れも忘れることの出来ない澤歩きの妙であった。而も私達は舊土人の跡を辿るのであり、舊土人は熊の足跡を追ふて居るのであり、そして再び熊が之れを通ふことでもあらう、所々に山の親爺の糞が置き忘れられてあつた。」アイヌの踏み後を辿る旅は、本当の前人未踏以上におもしろいことだったと思う。そして初めて見るイドンナップからの日高主稜線の眺めに賛辞を送っている。シュンベツ川からのカムエクはなんとカムエク沢左股に入り込んでいる。日高で最も難関の沢である。「其処から沢は岩壁の中を電光形に落ちる瀧の連続であつた。其の曲がりの度に深い滝壺を湛えて居た。其れは絶対に人を寄せ付け様ともしなかつた。」隣の尾根を苦労して登っている。カムエク沢の初記録と思われる。カムエクを超え、坂本直行の牧場へ下山。
以下、後半は次回。
● 札内嶽よりカムイエクウチカウシ山に到る山稜縦走及び十勝ポロシリ岳 石橋正夫
● 元浦川ー中ノ岳ー中ノ川 本野正一
● 神威嶽と中ノ川(ルートルオマップ川) 中野征紀
● 日高山脈登山年譜 徳永正雄
● アイスピッケルとシュタイクアイゼンの材質に就て 和久田弘一
● 高山に於ける風土馴化作用と酸素吸入に就て 金光正次
● 雪の日高山脈雑抄
・一月の戸蔦別川 金光正次
・一八三九米峰 石橋正夫
年報(1931/10−1933/10)
写真九点、スケッチ五点、地図6点
【部報4号(1933年)後編へ続く】
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部報解説・ 2006年11月26日 (日)
部報3号の後半分。カムエクの積雪期初登記を中心に大雪山周縁山域の記録。冬季スキー合宿おぼえ書きは当時の様子を生き生き伝えていてとてもおもしろい。芽室アイヌの案内人、水本文太郎氏の追悼二点がある。
● 三月のカムイエクウチカウシ山とその附近 徳永正雄
●ニセイカウシュペ山(茅刈別川から)と屏風岳 江(巾者)三郎
●屏風岳−武利岳―石狩岳 徳永正雄
●沼ノ原山・石狩岳・音更山・ユニ石狩岳・三國山 中野征紀
●山の拡りと人間化(特に北海道の山岳に就いて) 伊藤秀五郎
●山岳部冬季スキー合宿おぼえ書き 江(巾者)三郎
● 記念
・野中保次郎君 須藤宣之助
・中村邦之助君 井田清
・水本文太郎爺さんの追憶 高橋喜久司
・同 井田清
【部報3号(1931年)前編の続き】
● 三月のカムイエクウチカウシ山とその附近 徳永正雄
いよいよ日高のK2、カムエクの積雪期初登頂計画が出た。比較的谷が広い札内川から近づき8の沢二股にBCを作り、カムエク、エサオマン、札内岳を初アタックする。過去数回、夏期などに登路をさぐり、考察して計画を立てる前文が、当時の未知ぶりを表していておもしろい。麓の農場で働く坂本君(直行)から、稜線の積雪量などスケッチ葉書でなんども送ってもらった。
BCで人夫二名は、テントは寒いので嫌がり縦穴の底の焚き火の傍らで寝たらしい。これまでも不思議に思っていたが、寝袋など持たない彼らの積雪期山行はこうしていたのだ。別の本でアイヌのマタギがこうしているのを読んだことがある。厚着をせず、火に背中を向けて寝るのがポイントで、火が消えかければ寒くて起き、また薪を足すらしい。このとき同行した人夫は水本文太郎氏の息子新吉氏で、文太郎はこのとき病床にいた。
8の沢(左岸尾根ではなく、沢の中!)をコンタ1200m二股でシーデポー(当時もこの造語あり)し、左の沢を詰め南のコルから山頂アタック。雪は締まって雪崩の恐れなく、日も穏やかな登頂日和だった。翌日エサオマン分岐の少し札内岳よりにある岩塊に突き上げる尾根を使って、エサオマンもアタック。翌々日の札内岳は南東面キネン沢から進んだが、上流部が悪く、1150mあたりから右岸の尾根に早くから取り付いて登頂。
沢から山頂をアタックするこのスタイル、現代では雪崩を恐れて行われていない。今回、一度もデブリを見なかった、日高のこの時期、沢からのアプローチは有効だとある。問題は札内川本流の積雪量(渡渉の都合)で、時期の選択が鍵になると考察されている。
●ニセイカウシュペ山(茅刈別川から)と屏風岳 江(巾者)三郎
1930年末、十勝の冬合宿後、そのまま旭川から入山。茅刈別川の最終人家からニセカウの北西尾根をアタック。その尾根は「そこのたんねは實に都合よく生えていた。降りのあのスウツとする様な感を思ひ浮かべて胸を躍らせながら登った。」というすてきな尾根。下りは期待通り「今これを書いて居ながらも胸がわくわくする様な、あの素晴しい滑降が始まつたのだ。登りの時眞直ぐに附けて來たラツセルに入っては、ホツケの姿勢では股が攣つてしまつて弱つた程長い直滑降を、殆ど矢の様に、そんな加速度で進んだらお終ひにはどんな事になることかと恐れて、二三遍はバージンの中に突つこんでスピードを落さねばならなかつた程の速さでスキーは飛んだ。叉ジツグザツグで登つた急斜面に、そこの大きなたんねんの枝の下を縫つて雪煙の尾を引いて下つて行けば、叉次の一人が、その未だ消え去らぬ雪煙の中に次々に消えていつた。」痛快、そこ滑りたい。
上川まで戻って、馬橇で層雲峡へ移動、屏風岳の南西の尾根にとりついた。時期が早いせいか雪少なく、小タンネが密生していて不快調で引き返した。
●屏風岳−武利岳―石狩岳 徳永正雄
1930年8月初旬。「この夏(昭和5年)林内歩道が石狩川本流をユーニ石狩川合流点まで出来上がつたといふ話を聞いて石狩川を道の出来ないうちに歩いておきたいといふ考へから」この三山を沢から繋いだ。
もちろん林道などまだ無いニセイチャロマップから屏風岳を南東面の沢をアタック。頂きには三角櫓があったとある。その後ニセイチャロマップ川から武利岳南西面の支流ムルイ沢から武利岳へ。石狩川本流は出来たばかりの林道をユニ石狩の支流まで行き、営林署の小屋で泊。ヤンペタップ二股までの記述、「これからはどこまでも續いて居るやうな廣い磧で、それが盡きたらそこで水流を徒渉してまた砂洲を歩み、浅瀬を渡るといつたやぅな、ほんたぅに浩やかな流れを遡つて行くのである。大雪山彙の山稜が雪をとどめて輝いて居るのがよく眺められる。以前から聞いてゐた通りまことに石狩川は美しい良い川である。私はこのときほど川歩きの愉しさ、北海道の夏のよさといつたやぅなものを深く感じたことはない。うねりながら緩やかに流れる石狩川はほんたぅにいい川である。」国道もダムも無い時代の広々した石狩川。今はもうこれを体感することは出来ない。書き留めておいてもらって本当に良かった。
大石狩沢から石狩岳をアタックしてヌタツプヤムペツを遡り、忠別岳へ。日数があるのでトムラウシもアタックして黒岳から層雲別温泉へ下山。12日間の長い旅。
●沼ノ原山・石狩岳・音更山・ユニ石狩岳・三國山 中野征紀
五月、忠別川の松山温泉(現・天人峡)から入山。化雲、忠別、沼ノ原経由で石狩、三国山まで1930年5月16日から10日間。後に第一次南極観測隊副隊長を務める中野征紀ら5人+人夫2人
石狩山頂では「音更川を遡行して此の登頂に成功した先輩田口、藤江、佐々木の三君がニペソツから尾根傅ひに來る筈の大島さん一行への置き手紙が八年を過ぎた今なほ岩の間にある。さびついた空鑵、雨にしみた文字、そして其中二人も山で逝った。此等の憶ひは吾々に此の頂をひどく愛着させた。」山岳部創設前、この周辺がほぼ未踏だったころのスキー部時代の面々の名だ。
三国山山頂にて。「蒼茫とたそがれ行く薄闇の頂上に立ち、浮動する雲の下に灰白の窮みなき深みと、遙に蜒々と続いてゐる尾根の白い階調をひどく愉快な氣持で飽かずながめた。山岳家(アルピナー)は山と日没と日の出とにかなり大きな感動をうけるものであるが、此の時程、太陽と山岳が生む空幻な情緒にかくも朗らかに感動した事はなかつた。」
●山の擴りと人間化(特に北海道の山岳に就いて) 伊藤秀五郎
北海道の山の良さは裾のに広がる原野を含んでいることと、人との歴史の浅さにある、という小文。「いはば北海道の山は、平原までもその擴りをもつてゐるともみられる。即ちその山としての内容を、平原までも擴げてゐるといふ事ができよう。例へば日高の南方の山などでは、山裾の牧場地方や更に平坦な開墾地域を通って、茫漠とした砂丘の彼方の砂濱に、潮にのつた太平洋の浪が蕩々と打寄せてゐる海岸まで出て來るとそこではじめてその山旅の終わつたことを感じるのである。」現代の山登り、いくら時間がないとはいえ、行けるところまでマイカーで行く山登りは、別の山であると思う。
大島亮吉の遺書「山」に収められた「北海道の夏の山」という一文を、強く新入部員に勧めている。
●山岳部冬季スキー合宿おぼえ書き 江(巾者)三郎
創部(1926年、昭和元年)以来五年間の冬合宿のあらましをおもしろおかしくよくまとめてある。最初の二回は新見温泉(ニセコ)、以後は十勝岳の吹上温泉。最初のころは、あの十勝連峰が、まだ初登頂から年も浅く、未知の山域だったからニセコにしたとある。
第一回合宿(1926暮れ):最初の夜の大コンパで敬語や丁寧な言葉を使わぬよう決め、みんなにあだ名が付けられた。合宿の最中に大正が昭和になった。スキー術のうまい先輩がたくさんいて、ズダルスキー派だの、アールベルク派だのと研究熱心である。部創立当時の熱情と意気が漲っていた。48名参加!
第二回合宿(1927暮れ):80名参加!新兵器アザラシ皮(シール)を使い急な直登トレースで登って、他のスキーヤーのラッセル泥棒の鼻をあかした。部員章もこの合宿から配ることにした。
第三回合宿(1928暮れ):この昭和三年の暮れまでには、十勝連峰の各峰の冬季初登山も行われ、ここに本格的な冬合宿の場として吹上温泉を選ぶ。参加72名で9班組織。上富良野の駅前では青年団が焚き火をして熱い牛乳を飲ませて歓迎してくれたらしい。当時の吹上温泉は藁靴を履いてランタン下げて一町降りて風呂に行くという風情があった。ステムクリスチヤニヤを全員が練習しスキーの腕を磨いた。以降、吹上温泉に定着。
第四回合宿(1929暮れ):雪が少ない年で気を揉んだが、先発隊から「スベレル」と電報が来た。申し込み107人、選抜して80人。天気は悪かったがピークをいくつも踏んで成果を残した。
第五回合宿(1930暮れ):札幌→旭川の列車は鉄道に交渉して、たこストーブ付きの車両を借り切り、早朝の富良野線への接続時間まで旭川で停車してストーブを焚いてもらった。前年は寒い待合室で往生したので。話せばわかる昔の国鉄。上富良野駅から吹上温泉までは荷物は全部馬そりに載せたが、皆三々五々歩き。夕方到着というのもいいなあ。合宿初の富良野岳へのロングアタックを成功させている。
合宿の組織など:九〇人を十班に分け、平均八人。当時から一年班(新人含む)、二年班(冬経験二年目以上)があったが、多人数の故、三年班、四年班も一つずつあった。合宿の形式は八十年前と全然変わってないじゃないか。弁当は凍る握り飯よりパンに限る。紅茶をテルモスに入れる。テルモスを使うなんて、今より上等だ。費用は交通費コミで17圓。「アザラシ皮無しで登ることに依つてデリケートな登り方のコツが解る。」などという時代でもある。
装備:米山現役時代の八十年代とほとんど変わらないのがびっくりだ。違うのは衣類の質だけ。「外套(レインコート、薄手の外套、叉はオロチョン)」、オーバーシューズの代わりに「ゲートル」とあるくらい。オーバー手も皮製。やはり合成繊維は戦後ずいぶん重宝したことだろう。「スキー服は何でもよいが、(略)初年班では學生服でも間に合ふが、古い制服かお祖父さんの背廣を貰って一寸改造したら充分である。」!。スキー修理具の中身が金槌、錐、針金、ビンディング予備などすべて変わらず。さすがに現在は予備でカンダハーなんか持っていかないかもしれないが、80年代まではあった。
● 記念
・野中保次郎君 須藤宣之助
1929年冬の幌尻岳初登メンバーのひとり。病没
・中村邦之助君 井田清
慶応義塾大学法学部予科時代から山に親しみ、山岳部創立前後に活躍。病没。
・水本文太郎爺さんの追憶 高橋喜久司
神威岳山行を中心とする、アイヌ老人・文太郎氏との旅。具体的で情感あふれる追悼文。「爺さん達は遠慮してか天幕には入らず、ゆつくりして良いからとて何時も外で毛布にくるまつて焚火の側に寝てゐた。私達が天幕に入つてからも焚火を圍んでは此の人達の部落の言葉で・・・・然し若い人達は日本式の教育を受けた為に祖先の、あの澄んだ清い言葉はあまり知らない様であつたが・・・・語り合つてゐた。此の人達は何を語り合つてゐる事だろう。爺さんの獵の手柄話か叉昔栄へた部落の物語りか、闇は此の人達の静かな生活を脅かしたシャモの詐欺や欺瞞のいまわしい思出を塗りつぶしてしまふ。焚火は唯北海の地に自由に雄飛した山の獵人のみを照らしてゐるのみである。自然の姿、原始林の中に叉小熊の戯るる山頂に、之の人々のみ立つべく似つかはしい。何等の感傷も、自然への逃避もなく、唯立つべく運命づけられた自然の姿である。」「熊は一人ぽつちが好きだ。大抵一平一匹だ、突然現はれた人間を見て、身をひるがへして谷底に逃げていく。若い人達は興奮する。爺さんは微笑している。(略)土人達にとつて熊は主要な獲物だつた。熊をカムイ視するのは、日本の農家が稲を神聖視する心と同じである。」「今晩は此の造材小屋に宿めてもらはうかと爺さんに相談したが、天氣も良いし河原に天幕を張つた方が氣楽で良いと云ふ。そうだ俺はすつかり忘れてゐたんだ。何處に行っても内地人は、此んな良い人達を差別待遇をする。」「汽車の出る時に爺さんはわざわざ叉停車場に來て、お酒でもつれた舌で、息子さんの将来の事や、自分たちを差別なし付合つてくれるのは學生さん達だけだとか、また何處かの山に一緒に行かうと幾回も幾回もくりかへしてゐた。」
・水本文太郎爺さんの追憶 井田清
井田氏の文章は抜粋に困る。この追悼文は絶妙なバランスで構成されていて、一部のみではなかなか紹介しきれない事をまずお断りしておく。戸蔦別川の天場、焚き火の傍らでの話。「組み合わせた三本の小枝の上にフキの葉を甍の様に重さねて、私達には全く奇異なフキのおがみ小屋をつくってゐた。その小屋の前には燈明の様に小さな焚火がともつて居た。水本の爺さんは、その中で神様のやうにニコニコとしてゐた。その笑ひも赤子の様に明るかつた。」「帶廣の傍に芽室といふ小さな驛がある。若しもその驛を過ぎる事があつたら、私は汽車の窓からの一眄に哀惜の情と爺さんのあの老劍士のやうな瞳の光を想ひ浮べる事を忘れはしまい。そして尚何處かの山の上から日高の山脈を眺める事が出來たなら、私は胸に爺さんの墓標を想ひ出して、そつと頭をたれる事を忘れはしまい。」
年報 1929/10−1931/9
写真10点、スケッチ3点、地図1点
【部報紹介・3号(1931)上へもどる】
● 三月のカムイエクウチカウシ山とその附近 徳永正雄
いよいよ日高のK2、カムエクの積雪期初登頂計画が出た。比較的谷が広い札内川から近づき8の沢二股にBCを作り、カムエク、エサオマン、札内岳を初アタックする。過去数回、夏期などに登路をさぐり、考察して計画を立てる前文が、当時の未知ぶりを表していておもしろい。麓の農場で働く坂本君(直行)から、稜線の積雪量などスケッチ葉書でなんども送ってもらった。
BCで人夫二名は、テントは寒いので嫌がり縦穴の底の焚き火の傍らで寝たらしい。これまでも不思議に思っていたが、寝袋など持たない彼らの積雪期山行はこうしていたのだ。別の本でアイヌのマタギがこうしているのを読んだことがある。厚着をせず、火に背中を向けて寝るのがポイントで、火が消えかければ寒くて起き、また薪を足すらしい。このとき同行した人夫は水本文太郎氏の息子新吉氏で、文太郎はこのとき病床にいた。
8の沢(左岸尾根ではなく、沢の中!)をコンタ1200m二股でシーデポー(当時もこの造語あり)し、左の沢を詰め南のコルから山頂アタック。雪は締まって雪崩の恐れなく、日も穏やかな登頂日和だった。翌日エサオマン分岐の少し札内岳よりにある岩塊に突き上げる尾根を使って、エサオマンもアタック。翌々日の札内岳は南東面キネン沢から進んだが、上流部が悪く、1150mあたりから右岸の尾根に早くから取り付いて登頂。
沢から山頂をアタックするこのスタイル、現代では雪崩を恐れて行われていない。今回、一度もデブリを見なかった、日高のこの時期、沢からのアプローチは有効だとある。問題は札内川本流の積雪量(渡渉の都合)で、時期の選択が鍵になると考察されている。
●ニセイカウシュペ山(茅刈別川から)と屏風岳 江(巾者)三郎
1930年末、十勝の冬合宿後、そのまま旭川から入山。茅刈別川の最終人家からニセカウの北西尾根をアタック。その尾根は「そこのたんねは實に都合よく生えていた。降りのあのスウツとする様な感を思ひ浮かべて胸を躍らせながら登った。」というすてきな尾根。下りは期待通り「今これを書いて居ながらも胸がわくわくする様な、あの素晴しい滑降が始まつたのだ。登りの時眞直ぐに附けて來たラツセルに入っては、ホツケの姿勢では股が攣つてしまつて弱つた程長い直滑降を、殆ど矢の様に、そんな加速度で進んだらお終ひにはどんな事になることかと恐れて、二三遍はバージンの中に突つこんでスピードを落さねばならなかつた程の速さでスキーは飛んだ。叉ジツグザツグで登つた急斜面に、そこの大きなたんねんの枝の下を縫つて雪煙の尾を引いて下つて行けば、叉次の一人が、その未だ消え去らぬ雪煙の中に次々に消えていつた。」痛快、そこ滑りたい。
上川まで戻って、馬橇で層雲峡へ移動、屏風岳の南西の尾根にとりついた。時期が早いせいか雪少なく、小タンネが密生していて不快調で引き返した。
●屏風岳−武利岳―石狩岳 徳永正雄
1930年8月初旬。「この夏(昭和5年)林内歩道が石狩川本流をユーニ石狩川合流点まで出来上がつたといふ話を聞いて石狩川を道の出来ないうちに歩いておきたいといふ考へから」この三山を沢から繋いだ。
もちろん林道などまだ無いニセイチャロマップから屏風岳を南東面の沢をアタック。頂きには三角櫓があったとある。その後ニセイチャロマップ川から武利岳南西面の支流ムルイ沢から武利岳へ。石狩川本流は出来たばかりの林道をユニ石狩の支流まで行き、営林署の小屋で泊。ヤンペタップ二股までの記述、「これからはどこまでも續いて居るやうな廣い磧で、それが盡きたらそこで水流を徒渉してまた砂洲を歩み、浅瀬を渡るといつたやぅな、ほんたぅに浩やかな流れを遡つて行くのである。大雪山彙の山稜が雪をとどめて輝いて居るのがよく眺められる。以前から聞いてゐた通りまことに石狩川は美しい良い川である。私はこのときほど川歩きの愉しさ、北海道の夏のよさといつたやぅなものを深く感じたことはない。うねりながら緩やかに流れる石狩川はほんたぅにいい川である。」国道もダムも無い時代の広々した石狩川。今はもうこれを体感することは出来ない。書き留めておいてもらって本当に良かった。
大石狩沢から石狩岳をアタックしてヌタツプヤムペツを遡り、忠別岳へ。日数があるのでトムラウシもアタックして黒岳から層雲別温泉へ下山。12日間の長い旅。
●沼ノ原山・石狩岳・音更山・ユニ石狩岳・三國山 中野征紀
五月、忠別川の松山温泉(現・天人峡)から入山。化雲、忠別、沼ノ原経由で石狩、三国山まで1930年5月16日から10日間。後に第一次南極観測隊副隊長を務める中野征紀ら5人+人夫2人
石狩山頂では「音更川を遡行して此の登頂に成功した先輩田口、藤江、佐々木の三君がニペソツから尾根傅ひに來る筈の大島さん一行への置き手紙が八年を過ぎた今なほ岩の間にある。さびついた空鑵、雨にしみた文字、そして其中二人も山で逝った。此等の憶ひは吾々に此の頂をひどく愛着させた。」山岳部創設前、この周辺がほぼ未踏だったころのスキー部時代の面々の名だ。
三国山山頂にて。「蒼茫とたそがれ行く薄闇の頂上に立ち、浮動する雲の下に灰白の窮みなき深みと、遙に蜒々と続いてゐる尾根の白い階調をひどく愉快な氣持で飽かずながめた。山岳家(アルピナー)は山と日没と日の出とにかなり大きな感動をうけるものであるが、此の時程、太陽と山岳が生む空幻な情緒にかくも朗らかに感動した事はなかつた。」
●山の擴りと人間化(特に北海道の山岳に就いて) 伊藤秀五郎
北海道の山の良さは裾のに広がる原野を含んでいることと、人との歴史の浅さにある、という小文。「いはば北海道の山は、平原までもその擴りをもつてゐるともみられる。即ちその山としての内容を、平原までも擴げてゐるといふ事ができよう。例へば日高の南方の山などでは、山裾の牧場地方や更に平坦な開墾地域を通って、茫漠とした砂丘の彼方の砂濱に、潮にのつた太平洋の浪が蕩々と打寄せてゐる海岸まで出て來るとそこではじめてその山旅の終わつたことを感じるのである。」現代の山登り、いくら時間がないとはいえ、行けるところまでマイカーで行く山登りは、別の山であると思う。
大島亮吉の遺書「山」に収められた「北海道の夏の山」という一文を、強く新入部員に勧めている。
●山岳部冬季スキー合宿おぼえ書き 江(巾者)三郎
創部(1926年、昭和元年)以来五年間の冬合宿のあらましをおもしろおかしくよくまとめてある。最初の二回は新見温泉(ニセコ)、以後は十勝岳の吹上温泉。最初のころは、あの十勝連峰が、まだ初登頂から年も浅く、未知の山域だったからニセコにしたとある。
第一回合宿(1926暮れ):最初の夜の大コンパで敬語や丁寧な言葉を使わぬよう決め、みんなにあだ名が付けられた。合宿の最中に大正が昭和になった。スキー術のうまい先輩がたくさんいて、ズダルスキー派だの、アールベルク派だのと研究熱心である。部創立当時の熱情と意気が漲っていた。48名参加!
第二回合宿(1927暮れ):80名参加!新兵器アザラシ皮(シール)を使い急な直登トレースで登って、他のスキーヤーのラッセル泥棒の鼻をあかした。部員章もこの合宿から配ることにした。
第三回合宿(1928暮れ):この昭和三年の暮れまでには、十勝連峰の各峰の冬季初登山も行われ、ここに本格的な冬合宿の場として吹上温泉を選ぶ。参加72名で9班組織。上富良野の駅前では青年団が焚き火をして熱い牛乳を飲ませて歓迎してくれたらしい。当時の吹上温泉は藁靴を履いてランタン下げて一町降りて風呂に行くという風情があった。ステムクリスチヤニヤを全員が練習しスキーの腕を磨いた。以降、吹上温泉に定着。
第四回合宿(1929暮れ):雪が少ない年で気を揉んだが、先発隊から「スベレル」と電報が来た。申し込み107人、選抜して80人。天気は悪かったがピークをいくつも踏んで成果を残した。
第五回合宿(1930暮れ):札幌→旭川の列車は鉄道に交渉して、たこストーブ付きの車両を借り切り、早朝の富良野線への接続時間まで旭川で停車してストーブを焚いてもらった。前年は寒い待合室で往生したので。話せばわかる昔の国鉄。上富良野駅から吹上温泉までは荷物は全部馬そりに載せたが、皆三々五々歩き。夕方到着というのもいいなあ。合宿初の富良野岳へのロングアタックを成功させている。
合宿の組織など:九〇人を十班に分け、平均八人。当時から一年班(新人含む)、二年班(冬経験二年目以上)があったが、多人数の故、三年班、四年班も一つずつあった。合宿の形式は八十年前と全然変わってないじゃないか。弁当は凍る握り飯よりパンに限る。紅茶をテルモスに入れる。テルモスを使うなんて、今より上等だ。費用は交通費コミで17圓。「アザラシ皮無しで登ることに依つてデリケートな登り方のコツが解る。」などという時代でもある。
装備:米山現役時代の八十年代とほとんど変わらないのがびっくりだ。違うのは衣類の質だけ。「外套(レインコート、薄手の外套、叉はオロチョン)」、オーバーシューズの代わりに「ゲートル」とあるくらい。オーバー手も皮製。やはり合成繊維は戦後ずいぶん重宝したことだろう。「スキー服は何でもよいが、(略)初年班では學生服でも間に合ふが、古い制服かお祖父さんの背廣を貰って一寸改造したら充分である。」!。スキー修理具の中身が金槌、錐、針金、ビンディング予備などすべて変わらず。さすがに現在は予備でカンダハーなんか持っていかないかもしれないが、80年代まではあった。
● 記念
・野中保次郎君 須藤宣之助
1929年冬の幌尻岳初登メンバーのひとり。病没
・中村邦之助君 井田清
慶応義塾大学法学部予科時代から山に親しみ、山岳部創立前後に活躍。病没。
・水本文太郎爺さんの追憶 高橋喜久司
神威岳山行を中心とする、アイヌ老人・文太郎氏との旅。具体的で情感あふれる追悼文。「爺さん達は遠慮してか天幕には入らず、ゆつくりして良いからとて何時も外で毛布にくるまつて焚火の側に寝てゐた。私達が天幕に入つてからも焚火を圍んでは此の人達の部落の言葉で・・・・然し若い人達は日本式の教育を受けた為に祖先の、あの澄んだ清い言葉はあまり知らない様であつたが・・・・語り合つてゐた。此の人達は何を語り合つてゐる事だろう。爺さんの獵の手柄話か叉昔栄へた部落の物語りか、闇は此の人達の静かな生活を脅かしたシャモの詐欺や欺瞞のいまわしい思出を塗りつぶしてしまふ。焚火は唯北海の地に自由に雄飛した山の獵人のみを照らしてゐるのみである。自然の姿、原始林の中に叉小熊の戯るる山頂に、之の人々のみ立つべく似つかはしい。何等の感傷も、自然への逃避もなく、唯立つべく運命づけられた自然の姿である。」「熊は一人ぽつちが好きだ。大抵一平一匹だ、突然現はれた人間を見て、身をひるがへして谷底に逃げていく。若い人達は興奮する。爺さんは微笑している。(略)土人達にとつて熊は主要な獲物だつた。熊をカムイ視するのは、日本の農家が稲を神聖視する心と同じである。」「今晩は此の造材小屋に宿めてもらはうかと爺さんに相談したが、天氣も良いし河原に天幕を張つた方が氣楽で良いと云ふ。そうだ俺はすつかり忘れてゐたんだ。何處に行っても内地人は、此んな良い人達を差別待遇をする。」「汽車の出る時に爺さんはわざわざ叉停車場に來て、お酒でもつれた舌で、息子さんの将来の事や、自分たちを差別なし付合つてくれるのは學生さん達だけだとか、また何處かの山に一緒に行かうと幾回も幾回もくりかへしてゐた。」
・水本文太郎爺さんの追憶 井田清
井田氏の文章は抜粋に困る。この追悼文は絶妙なバランスで構成されていて、一部のみではなかなか紹介しきれない事をまずお断りしておく。戸蔦別川の天場、焚き火の傍らでの話。「組み合わせた三本の小枝の上にフキの葉を甍の様に重さねて、私達には全く奇異なフキのおがみ小屋をつくってゐた。その小屋の前には燈明の様に小さな焚火がともつて居た。水本の爺さんは、その中で神様のやうにニコニコとしてゐた。その笑ひも赤子の様に明るかつた。」「帶廣の傍に芽室といふ小さな驛がある。若しもその驛を過ぎる事があつたら、私は汽車の窓からの一眄に哀惜の情と爺さんのあの老劍士のやうな瞳の光を想ひ浮べる事を忘れはしまい。そして尚何處かの山の上から日高の山脈を眺める事が出來たなら、私は胸に爺さんの墓標を想ひ出して、そつと頭をたれる事を忘れはしまい。」
年報 1929/10−1931/9
写真10点、スケッチ3点、地図1点
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部報解説・ 2006年11月20日 (月)
部報3号も二部構成とします。時代らしい文章を引用していたら、長くなってしまった。でも大部分の人は読めないので、エッセンスを載せていきます。
部報前半の目玉企画は夏の神威岳登頂記。険悪な中ノ川からの登路をあきらめ、ヌピナイからのアタック。カッコいい神威は南日高の憧れの目標だったようです。山案内人のアイヌ老人、水本文太郎氏との最後の山行でもあります。
次回後半はいよいよ積雪期カムエクの初登頂記からです。
●第零義的登山 部長 栃内吉彦
●神威嶽 相川修
●五月の武華・武利・支湧別岳 大和正次
●ニペソツ山よりウペペサンケ山 福島健夫
●ニペソツ山―トムラウシ川―トムラウシ山 徳永正雄
●五月のニペソツ山から松山温泉まで 佐藤友吉
【部報3号(1931年)前遍】
【総評】
1929/10−1931/9の2年分の山行記録と12の紀行など。「記念」として追悼4文。編集長は江(巾者)三郎。価格は1円50銭、300ページ。
ニペソツ周辺や武利岳周辺の記録が多い。ニペソツの幌加音更川と武利のイトンムカ鉱山の森林開発が進み、比較的奥まで入りやすかったようだ。その周辺の原始林との対比が顕著なのがこの時代である。日高では、名峰神威岳の無雪季登頂とカムエクの積雪期初登が看板記録である。ほか、追悼が数件。部員の遭難はまだ先の時代。2号以来たびたび登場するアイヌの水本文太郎老人の追悼もある。明治期の測量山行時代以来の案内人で、おそらく日高のいくつかの山頂の初登頂者だろう。
【時代】
1930~31にかけRCCの加藤文太郎が北アルプスのあちこちで冬期単独初縦走記録を立てている。
1931年、P.バウアー(独)第二次カンチェンジュンガ遠征
アジアでは前年の1928年、満州の軍閥張作霖が関東軍に暗殺され、1931年9月には満州事変が始まるという時代。西洋では1929年10月24日、NYで株価暴落、世界恐慌が始まった。
●第零義的登山 部長 栃内吉彦
一号、二号には無かった部長挨拶。アルピニズムとアカデミズムを山登りの第一義的、第二義的、どちらで登るか?「學が既に其の人の人生の基調となるの域にまで達した學究者にあっては、其の山登りは第一義も第二義をも超越した第零義的にものでなければならぬ」。多少理屈っぽいが学生よ山へ行け、と述べている。
●神威嶽 相川修
1930年7月、二名+案内人で9日間の記録。この数年来、北大や慶応大の山岳部が中ノ川やヌピナイ川などから山頂を目指していたが登れなかった神威岳。1920年陸地測量部が登った可能性はあったが、それがこの山かどうかは不明だったとある。
たびたび登場している芽室のアイヌ、水本文太郎老人との最後の山行。水本氏自身これまで何度も威を引き返していて、この登頂を後にとてもうれしそうにしていたとある。
ヌピナイ右股からソエマツに上がり、神威ソエマツ間の馬の背藪こぎの途中、中ノ川側に下りたところで前進キャンプ。ここから再び国境尾根の藪をこいで神威をアタックした。このキャンプは30mの崖の上の緩傾斜を無理矢理開いたところ。アタック後、中ノ川を下れればと偵察したが、滝や函で断念し、戻った。当時の技術と常識では中ノ川はまだきつかったのだ。
「一六四六米、之をソエマツ岳と名付けようと思ふ、元浦河のソエマツ澤の名を取って。之をヌピナイ岳とするよりは妥当であらう。」まだソエマツ岳に名が無かった。神威は格好がよい山だから、やはり別格の名があったのだろう。神威山頂には朽ち壊れた三角点があった。
●五月の武華・武利・支湧別岳 大和正次
五月下旬、残雪の大雪山。留辺蘂から森林鉄道に便乗して無加川を行き、イトンムカ川から武華山に登り、スキーをしながら武利に乗越し、その北、1758m峰(ニセイチャロマップ岳)から支湧別岳をアタックし、沢を北へおり、上支湧別、白滝へ下山した5日間。1758mの無名峰や、支湧別岳というマイナーピークを踏んだことを喜んでいる。当時からすでにマイナーピーク愛好派がいたのだ。「此の支脈の端に一人の登山者の訪れる者もなく、ポツツリ取残されて居た此の山は小さいながらも頂上近くにお花畑と岩を持った美しい山である。その暖かい乾いた岩に腰を下ろして、今まで寂しかったであらう山を初めて訪れた喜びに静かにひたりながら、しばしの名残を惜しんだ。」
●ニペソツ山よりウペペサンケ山 福島健夫
1930年八月初旬に一週間。幌加音更(ホロカオトプケ)川の六の沢の左岸にあたるニペソツ南東尾根からニペソツアタック。その後情報の無い五の沢を遡り、ウペペサンケをアタックする(おそらく初登頂)。六の沢から南東尾根は、前年営林署が頂上まで苅分をつけたとあるので意外や人臭いのかとも感じたが、糠平の手前でバスを降りてそこまでは、すべて徒歩でのアプローチだ。
五の沢は未知の沢だ。何が出るか、期待しながら進んでいる。「上の二股に辿りついた時,此は又意外にも沼の様に不気味に蒼く澄んだ水を湛えた処に遭遇した。周囲の鬱蒼と繁った樹々の影をその水面にうつして怪異な印象を与へる。その中にあって呑気そうに魚が群れをなして走り廻っている。此二股を左へ遡ると水は尽き、厚い濃緑色の苔に包まれた岩塊が続く。足をかけるとジュッとそれが浸み出て心地よい。」こんな天然林と、人夫三〇人が泊まる飯場があって山頂まで刈分道のある山が隣り合わせの時代だ。下降は南西面のシーシカリベツ川。伐採林道が奥まで来ていて驚いている。「此の分ではウペペサンケも遠からず楽に登れる様になるだろう」と。
●ニペソツ山―トムラウシ川―トムラウシ山 徳永正雄
1931年8月16日から10日間二人+人夫一名。幌加音更川の六の沢左岸尾根からニペソツへ。その後ヌプントムラウシ川に降りてトムラウシ川を登り再び十勝川水系に降りてシートカチ川から十勝岳を乗っ越す計画だったが、不良品わらじの減りが早かったのであきらめトムラ〜十勝間は山稜を繋いだ。この辺り一帯の原始の香る山谷を巡る紀行。
ヌプントムラウシ川の標高700附近、現在は林道が通っている沼ノ原温泉のあたりにさしかかってのくだり「その『花咲く原を流れる川』といふヌプントムラウシの名は、きつと此処から名付けられたのではなからうか。それにしても何んと適切な、うるわしい名ではあるまいか。いまはただ衰滅の悲運におかれつつある先住原始民族のもつ、甚だ素朴で而かも詩的なトポノミイが、北海道の山々を彷徨ふ登山者のみならず、平地旅行者にまでいかにしばしば深き興趣を感ぜしめたことであらうか。北海道の山の良さ、山登りの良さはまたここにも在るのだ。『アイヌほど美しい地名をつける種族はないやうだ』とは私達も全く同意するところなのだ。」
トムラウシ南面の本流沿いで垣間見た記述「一帯は美しい針葉樹の純林で、ここから眺めたトムラウシ山の、大きな堡壘の如く悠然と倨座する山姿の立派なのには尠からず驚いた。さうして同時に又「トムラウシってこんなにも高い山なのか」とまったく感心して了つた。化雲岳や奥硫黄山の方向から眺めても勿論その特異な山容は立派には違ひない。石狩岳あたりからも実際仲々立派に見える。けれどもそのやうな場所からは到底みられないところの、その山の高さ、奥深さ、端麗さはやく言えばトムラウシといふ山のほんたうの良さは『これだ。』とはつきりいま教へられた。」
トムラウシの美に惚れ込むこの山行、今では林道だらけだが追体験してみたい。ツリガネ山はスマヌプリで、コスマヌプリは小スマヌプリだったのを、この記録で知った。「コ」だけ日本語だ。
●五月のニペソツ山から松山温泉まで 佐藤友吉
5月下旬、5人+人夫1名。ニペソツと石狩の間の未踏の稜線を、残雪期を利用して繋ごうという計画。
ニペソツ北のコルから振り返っての下り、「ニペソツはこの尾根から実に立派に見えた。時々晴れる雲間から射す、幅の広い光の帯があの見事なホルンを照らし出すのである。その左に天狗岳〜略〜私達はストツクを押す腕を休めては、しばしば振り返つて見てその壮大な姿を仰いだ。その姿を見てもマツターホルンは思ひ出せなかつた。見事だなあとも感じなかつた。恐らくは私達の誰もがそんな気持におそわれた事だつたと思ふ。私達は此の時見たニペソツの姿ほどに山の威圧を感じたことはなかつた。長く目を向けて居る事が出来ない程、私達はニペソツに押しつけられて、小さくなつて居た。山はどこが大きいのであろうか、何処に偉大さを有つて居るのであらうか。」
天気に恵まれず、石狩岳には向かわず沼の原、五色が原の大平原へと濃霧の中磁石を頼りにかろうじて抜ける。「丁度その尾根の中の瘤を通過したと思ふ所で岩でもない怪しげな物に出曾つて仕舞つた。濃霧をすかして見てると動く様でもあり、動かぬ様でもある。熊にしてはあまり動かぬ。而し距離が非常に近いので、ありと凡ゆる音のする物を取り出してオーケストラを始めた。果たして反応があり、こつちに移動する気配がある。矢張り熊だつた。」クマに道を譲ったおかげで、せっかく濃霧の中正確に切ってきた方角を見失ってしまった、とあっておもしろい。
忠別川の渡渉点では橋が流されていて、2時間もかけて木を切り倒し丸木橋をかけた。松山温泉とは現在天人峡温泉と言われている所。改名は1937年。
以下、次回
● 三月のカムイエクウチカウシ山とその附近 徳永正雄
●ニセイカウシュペ山(茅刈別川から)と屏風岳 江(巾者)三郎
●屏風岳−武利岳―石狩岳 徳永正雄
●沼ノ原山・石狩岳・音更山・ユニ石狩岳・三國山 中野征紀
●山の拡りと人間化(特に北海道の山岳に就いて) 伊藤秀五郎
●山岳部冬季スキー合宿おぼえ書き 江(巾者)三郎
● 記念
・野中保次郎君 須藤宣之助
・中村邦之助君 井田清
・水本文太郎爺さんの追憶 高橋喜久司
・同 井田清
年報 1929/10−1931/9
写真10点、スケッチ3点、地図1点
【部報3号(1931)後編に続く】
【総評】
1929/10−1931/9の2年分の山行記録と12の紀行など。「記念」として追悼4文。編集長は江(巾者)三郎。価格は1円50銭、300ページ。
ニペソツ周辺や武利岳周辺の記録が多い。ニペソツの幌加音更川と武利のイトンムカ鉱山の森林開発が進み、比較的奥まで入りやすかったようだ。その周辺の原始林との対比が顕著なのがこの時代である。日高では、名峰神威岳の無雪季登頂とカムエクの積雪期初登が看板記録である。ほか、追悼が数件。部員の遭難はまだ先の時代。2号以来たびたび登場するアイヌの水本文太郎老人の追悼もある。明治期の測量山行時代以来の案内人で、おそらく日高のいくつかの山頂の初登頂者だろう。
【時代】
1930~31にかけRCCの加藤文太郎が北アルプスのあちこちで冬期単独初縦走記録を立てている。
1931年、P.バウアー(独)第二次カンチェンジュンガ遠征
アジアでは前年の1928年、満州の軍閥張作霖が関東軍に暗殺され、1931年9月には満州事変が始まるという時代。西洋では1929年10月24日、NYで株価暴落、世界恐慌が始まった。
●第零義的登山 部長 栃内吉彦
一号、二号には無かった部長挨拶。アルピニズムとアカデミズムを山登りの第一義的、第二義的、どちらで登るか?「學が既に其の人の人生の基調となるの域にまで達した學究者にあっては、其の山登りは第一義も第二義をも超越した第零義的にものでなければならぬ」。多少理屈っぽいが学生よ山へ行け、と述べている。
●神威嶽 相川修
1930年7月、二名+案内人で9日間の記録。この数年来、北大や慶応大の山岳部が中ノ川やヌピナイ川などから山頂を目指していたが登れなかった神威岳。1920年陸地測量部が登った可能性はあったが、それがこの山かどうかは不明だったとある。
たびたび登場している芽室のアイヌ、水本文太郎老人との最後の山行。水本氏自身これまで何度も威を引き返していて、この登頂を後にとてもうれしそうにしていたとある。
ヌピナイ右股からソエマツに上がり、神威ソエマツ間の馬の背藪こぎの途中、中ノ川側に下りたところで前進キャンプ。ここから再び国境尾根の藪をこいで神威をアタックした。このキャンプは30mの崖の上の緩傾斜を無理矢理開いたところ。アタック後、中ノ川を下れればと偵察したが、滝や函で断念し、戻った。当時の技術と常識では中ノ川はまだきつかったのだ。
「一六四六米、之をソエマツ岳と名付けようと思ふ、元浦河のソエマツ澤の名を取って。之をヌピナイ岳とするよりは妥当であらう。」まだソエマツ岳に名が無かった。神威は格好がよい山だから、やはり別格の名があったのだろう。神威山頂には朽ち壊れた三角点があった。
●五月の武華・武利・支湧別岳 大和正次
五月下旬、残雪の大雪山。留辺蘂から森林鉄道に便乗して無加川を行き、イトンムカ川から武華山に登り、スキーをしながら武利に乗越し、その北、1758m峰(ニセイチャロマップ岳)から支湧別岳をアタックし、沢を北へおり、上支湧別、白滝へ下山した5日間。1758mの無名峰や、支湧別岳というマイナーピークを踏んだことを喜んでいる。当時からすでにマイナーピーク愛好派がいたのだ。「此の支脈の端に一人の登山者の訪れる者もなく、ポツツリ取残されて居た此の山は小さいながらも頂上近くにお花畑と岩を持った美しい山である。その暖かい乾いた岩に腰を下ろして、今まで寂しかったであらう山を初めて訪れた喜びに静かにひたりながら、しばしの名残を惜しんだ。」
●ニペソツ山よりウペペサンケ山 福島健夫
1930年八月初旬に一週間。幌加音更(ホロカオトプケ)川の六の沢の左岸にあたるニペソツ南東尾根からニペソツアタック。その後情報の無い五の沢を遡り、ウペペサンケをアタックする(おそらく初登頂)。六の沢から南東尾根は、前年営林署が頂上まで苅分をつけたとあるので意外や人臭いのかとも感じたが、糠平の手前でバスを降りてそこまでは、すべて徒歩でのアプローチだ。
五の沢は未知の沢だ。何が出るか、期待しながら進んでいる。「上の二股に辿りついた時,此は又意外にも沼の様に不気味に蒼く澄んだ水を湛えた処に遭遇した。周囲の鬱蒼と繁った樹々の影をその水面にうつして怪異な印象を与へる。その中にあって呑気そうに魚が群れをなして走り廻っている。此二股を左へ遡ると水は尽き、厚い濃緑色の苔に包まれた岩塊が続く。足をかけるとジュッとそれが浸み出て心地よい。」こんな天然林と、人夫三〇人が泊まる飯場があって山頂まで刈分道のある山が隣り合わせの時代だ。下降は南西面のシーシカリベツ川。伐採林道が奥まで来ていて驚いている。「此の分ではウペペサンケも遠からず楽に登れる様になるだろう」と。
●ニペソツ山―トムラウシ川―トムラウシ山 徳永正雄
1931年8月16日から10日間二人+人夫一名。幌加音更川の六の沢左岸尾根からニペソツへ。その後ヌプントムラウシ川に降りてトムラウシ川を登り再び十勝川水系に降りてシートカチ川から十勝岳を乗っ越す計画だったが、不良品わらじの減りが早かったのであきらめトムラ〜十勝間は山稜を繋いだ。この辺り一帯の原始の香る山谷を巡る紀行。
ヌプントムラウシ川の標高700附近、現在は林道が通っている沼ノ原温泉のあたりにさしかかってのくだり「その『花咲く原を流れる川』といふヌプントムラウシの名は、きつと此処から名付けられたのではなからうか。それにしても何んと適切な、うるわしい名ではあるまいか。いまはただ衰滅の悲運におかれつつある先住原始民族のもつ、甚だ素朴で而かも詩的なトポノミイが、北海道の山々を彷徨ふ登山者のみならず、平地旅行者にまでいかにしばしば深き興趣を感ぜしめたことであらうか。北海道の山の良さ、山登りの良さはまたここにも在るのだ。『アイヌほど美しい地名をつける種族はないやうだ』とは私達も全く同意するところなのだ。」
トムラウシ南面の本流沿いで垣間見た記述「一帯は美しい針葉樹の純林で、ここから眺めたトムラウシ山の、大きな堡壘の如く悠然と倨座する山姿の立派なのには尠からず驚いた。さうして同時に又「トムラウシってこんなにも高い山なのか」とまったく感心して了つた。化雲岳や奥硫黄山の方向から眺めても勿論その特異な山容は立派には違ひない。石狩岳あたりからも実際仲々立派に見える。けれどもそのやうな場所からは到底みられないところの、その山の高さ、奥深さ、端麗さはやく言えばトムラウシといふ山のほんたうの良さは『これだ。』とはつきりいま教へられた。」
トムラウシの美に惚れ込むこの山行、今では林道だらけだが追体験してみたい。ツリガネ山はスマヌプリで、コスマヌプリは小スマヌプリだったのを、この記録で知った。「コ」だけ日本語だ。
●五月のニペソツ山から松山温泉まで 佐藤友吉
5月下旬、5人+人夫1名。ニペソツと石狩の間の未踏の稜線を、残雪期を利用して繋ごうという計画。
ニペソツ北のコルから振り返っての下り、「ニペソツはこの尾根から実に立派に見えた。時々晴れる雲間から射す、幅の広い光の帯があの見事なホルンを照らし出すのである。その左に天狗岳〜略〜私達はストツクを押す腕を休めては、しばしば振り返つて見てその壮大な姿を仰いだ。その姿を見てもマツターホルンは思ひ出せなかつた。見事だなあとも感じなかつた。恐らくは私達の誰もがそんな気持におそわれた事だつたと思ふ。私達は此の時見たニペソツの姿ほどに山の威圧を感じたことはなかつた。長く目を向けて居る事が出来ない程、私達はニペソツに押しつけられて、小さくなつて居た。山はどこが大きいのであろうか、何処に偉大さを有つて居るのであらうか。」
天気に恵まれず、石狩岳には向かわず沼の原、五色が原の大平原へと濃霧の中磁石を頼りにかろうじて抜ける。「丁度その尾根の中の瘤を通過したと思ふ所で岩でもない怪しげな物に出曾つて仕舞つた。濃霧をすかして見てると動く様でもあり、動かぬ様でもある。熊にしてはあまり動かぬ。而し距離が非常に近いので、ありと凡ゆる音のする物を取り出してオーケストラを始めた。果たして反応があり、こつちに移動する気配がある。矢張り熊だつた。」クマに道を譲ったおかげで、せっかく濃霧の中正確に切ってきた方角を見失ってしまった、とあっておもしろい。
忠別川の渡渉点では橋が流されていて、2時間もかけて木を切り倒し丸木橋をかけた。松山温泉とは現在天人峡温泉と言われている所。改名は1937年。
以下、次回
● 三月のカムイエクウチカウシ山とその附近 徳永正雄
●ニセイカウシュペ山(茅刈別川から)と屏風岳 江(巾者)三郎
●屏風岳−武利岳―石狩岳 徳永正雄
●沼ノ原山・石狩岳・音更山・ユニ石狩岳・三國山 中野征紀
●山の拡りと人間化(特に北海道の山岳に就いて) 伊藤秀五郎
●山岳部冬季スキー合宿おぼえ書き 江(巾者)三郎
● 記念
・野中保次郎君 須藤宣之助
・中村邦之助君 井田清
・水本文太郎爺さんの追憶 高橋喜久司
・同 井田清
年報 1929/10−1931/9
写真10点、スケッチ3点、地図1点
【部報3号(1931)後編に続く】
- コメント (1)
部報解説・ 2006年10月31日 (火)
部報2号の紹介、後半分です。
東大雪の沢をつなぐ原始林彷徨山行や、部報では初の利尻や芦別の積雪期記録に加え、国後のチャチャヌプリ、アリューシャン・アッツ島見聞録など、戦前の北洋時代ならではの記録が並んでいます。
【部報2号(1929)前編の続き】
● 十勝岳―十勝川―ニペソツ山 山縣浩
1928年8月、人夫水本さんと9日間の旅。吹上温泉から前十勝経由で十勝岳。美瑛をアタックして、十勝川源流地帯に降りる。シー十勝川、トムラウシ川を渡り、古い鉈目を頼りに道のようなものを歩いている。ニペソツ川を登路にする。頂上の北に上がる尾根から登頂。「ニペソツの山の形は地図で予想することは出来得ない。地図にはこの大きな東西の崖を全然書いていない。」とある。あの特異な山容を、事前に写真などのメディアを通じないで、ナマで出会える幸せさを想像した。ホロカ音更川を下り、上士幌まで歩く下山路はのどかな丘陵地帯の直線一本道。「先は見えていて、それでいて、歩いても歩いてもなかなか着かない。」
● 石狩岳とニペソツ山を中心に 伊藤秀五郎
この一帯の原始林で「谷から谷へ、澤から澤を思ふままに歩き回ってみたいといふ願望を、私はよほど以前からもつていた。」
然別川本流→ユーヤンベツ十の澤→然別沼→ヤンペツ川→ヌカビラ川→音更本流→石狩岳→石狩澤→クチャウンベツ→ヌプントムラウシ川→ニペソツ山→音更川→上士幌1929年八月、二週間の記録。
前半はまだ原始の雰囲気残る然別湖に、ペトウクル山から乗っ越して、今は自動車道路になっている糠平湖への峠を乗っ越す。糠平湖はまだもちろん無い。
石狩と音更のコルへの沢を登る。1400あたりで滝を越えられず右岸を捲き、そのまま稜線へ。ヌプントムラウシ川からのニペソツへは山頂から北に落ちている沢を登る。1600でどうしても登れない滝、尾根に乗って藪こぎで山頂。
● ニペソツ山 徳永芳雄
1929年四月初旬、積雪期初登頂の記録。幌加音更川の三の沢支流、盤の沢から。馬橇に乗せてもらって、三の沢あたりまで行っている。造材の小屋からアタック。好天を生かし、天気の変わる間際に成功させて下る。ウペペサンケの登路の考察もあり。
● 五月の芦別夕張連峰 山口健児
部報初の芦別記録。藪のため、北海道の縦走登山は5月に限られている、とある。発想として、本州のように縦走がしたいようなのである。4人+人夫一名、1929年5月中旬の記録。半分スキー、半分シートラ藪こぎである。ユーフレ谷から夫婦岩周辺で稜線へ上がる沢を間違えて藪の中で一泊。雨の中傾斜地に倒木を倒してテントを張り、焚き火までしてしまうのはサスガである。
芦別岳から南の地図が相当実際と違うとのこと。鉢盛山西北方の1435mピークと、1415m峰の美しさに言及している。「この岩峰は実に雄大で鳥渡日本の山とは思えない。黒い岩の皺に雪をわづかづつのせて、針葉樹の頂の虚空を垂直に抜く姿は捨てがたい」当時からマッターホルンぶりを発揮していたのだ。
吉凶分岐からの夕張岳アタック。広大な風景に惜しげなく賛辞を送っている。あそこの風景は今も昔も変わらないようだ。吉凶岳北東尾根からポントナシベツ川へ下山。下山路は桜咲く春の十梨別原野。
● 三月の利尻岳 井田清
1929年3月、小樽から15時間揺られて鬼脇。宿にスキーを立てかけておくと村中の子供が見物に来る。晴天待ち停滞で、若者が連れて行ってくれと訪ねてきたり、にぎわう銭湯に出かけたり。「山脈から独り離れて居るこの山は何処となく冷たい鋭さに寂しく光って居る。峰も頂の岩壁も絹の様に光つて居る。鋭い峰の若々しい雪庇は絹糸の様に細い。」鬼脇から山頂に向かう標高尾根をたどる。痩せた尾根が頂の直下で突き刺さるところで、雪庇に塹壕を掘って進み登頂(最高点には至っていない模様)。思索の多い井田氏の文章だが、天気待ちの停滞をする序盤から大いに読ませる。
● 国後島遊記 島村光太郎
1929年7月、未だ情報の少ない国後島へ。植物採集を兼ねて、「富士山の上に槍ヶ岳を載せたような」山、チャチャヌプリ登頂を目指す。結果は千島名物の濃霧で山中3停滞の上、翌日もガスと強風に阻まれて、肩の台地の少し先から引き返した。現代と同じくらい、当時も未知にくるまれて謎の山域だった事がわかる。
チャチャヌプリ南西面の乳呑路は30戸ほどの集落で、そこに根室からの船で降り立つ。西に海岸を20キロ進んだところが「賽の河原」。ここの佐々木さんというご老人に登路を教わり、イダシベナイ大沢を登る。途中をすぎると沢は不明瞭になり、ネマガリダケとミヤマハンノキの藪こぎになる。台地の上は砂礫地で火山の熱で靴が熱くなる場もあった。
国後の人たちは丁度昆布とりに忙しかったが、何処の家でも彼らを歓迎してお茶を飲んで行けと誘われた、小学生の子供たちは皆、立ち止まってこんにちはとお辞儀をしてくれたとある。今は失われたある時ある地の記録だ。
● アレウシアンの旅 高橋喜久司
1929年6月下旬、農林水産省の船に乗ってアリューシャンのアッツ島へ植物採集に行く機会があった。植物学教室の先生の助手として。船はラッコ密猟の監視のため、千島、アリューシャンの海獣地帯を行く。アッツ島の先住民アレウトが、外国人を警戒して、なかなか姿を見せない様など書いてある。訪れて植物を採集した島は、アッツ、アムチトカ、アトカ島。中部千島でも帰りに二ヶ月植物採集したとあるが、詳しく書いていない。残念。このような日本の官船が年一度千島やアリューシャンに寄るのに便乗した記録で、同時代の「千島探検記(ベルクマン・加納一郎訳)」がある。当時これらの離島への行き方はこれ以外無かった模様だ。山岳部の学生はこのころから学術調査の最先端で知力体力を発揮している。世間的に山岳部員の価値が認められる分野である。
● 日高山脈アイヌ語考 山口健児
アイヌ地名の意味紹介一覧。
・ピパイロを美生と当て字して、ビセイと読む人が増えたのを嘆いている。いまレキフネ川という川は歴船の字を「ペルプネイ」川に当てていた。当時和人は日方(ひかた)川と呼んでいたがこれは廃れた。
・ ヌピナイは最近ヌビナイと書いているし多数はビで呼ぶが、ルームはピのままである。(野の川の意)
・ 豊似川をトヨニと呼ぶのは誤なり。「トヨイ」(土の川の意)が正しい。
・ 野塚のもとは「ヌプカペツ」。たしかに、そう聞こえる。
など
● 山に就いて 伊藤秀五郎
雲で化粧する山は
藍色の深い呼吸をするが、
少しでも機嫌が悪いと
黒い頭巾をすつぽり被って
つんと肩を聳やかす。
しかし時には
白雲を髪に飾って
明るく
浅黄色に笑っているのだ。
年報 1928/4−1929/8
写真12点、スケッチ5点、地図3点
【部報紹介・2号(1929)上】
● 十勝岳―十勝川―ニペソツ山 山縣浩
1928年8月、人夫水本さんと9日間の旅。吹上温泉から前十勝経由で十勝岳。美瑛をアタックして、十勝川源流地帯に降りる。シー十勝川、トムラウシ川を渡り、古い鉈目を頼りに道のようなものを歩いている。ニペソツ川を登路にする。頂上の北に上がる尾根から登頂。「ニペソツの山の形は地図で予想することは出来得ない。地図にはこの大きな東西の崖を全然書いていない。」とある。あの特異な山容を、事前に写真などのメディアを通じないで、ナマで出会える幸せさを想像した。ホロカ音更川を下り、上士幌まで歩く下山路はのどかな丘陵地帯の直線一本道。「先は見えていて、それでいて、歩いても歩いてもなかなか着かない。」
● 石狩岳とニペソツ山を中心に 伊藤秀五郎
この一帯の原始林で「谷から谷へ、澤から澤を思ふままに歩き回ってみたいといふ願望を、私はよほど以前からもつていた。」
然別川本流→ユーヤンベツ十の澤→然別沼→ヤンペツ川→ヌカビラ川→音更本流→石狩岳→石狩澤→クチャウンベツ→ヌプントムラウシ川→ニペソツ山→音更川→上士幌1929年八月、二週間の記録。
前半はまだ原始の雰囲気残る然別湖に、ペトウクル山から乗っ越して、今は自動車道路になっている糠平湖への峠を乗っ越す。糠平湖はまだもちろん無い。
石狩と音更のコルへの沢を登る。1400あたりで滝を越えられず右岸を捲き、そのまま稜線へ。ヌプントムラウシ川からのニペソツへは山頂から北に落ちている沢を登る。1600でどうしても登れない滝、尾根に乗って藪こぎで山頂。
● ニペソツ山 徳永芳雄
1929年四月初旬、積雪期初登頂の記録。幌加音更川の三の沢支流、盤の沢から。馬橇に乗せてもらって、三の沢あたりまで行っている。造材の小屋からアタック。好天を生かし、天気の変わる間際に成功させて下る。ウペペサンケの登路の考察もあり。
● 五月の芦別夕張連峰 山口健児
部報初の芦別記録。藪のため、北海道の縦走登山は5月に限られている、とある。発想として、本州のように縦走がしたいようなのである。4人+人夫一名、1929年5月中旬の記録。半分スキー、半分シートラ藪こぎである。ユーフレ谷から夫婦岩周辺で稜線へ上がる沢を間違えて藪の中で一泊。雨の中傾斜地に倒木を倒してテントを張り、焚き火までしてしまうのはサスガである。
芦別岳から南の地図が相当実際と違うとのこと。鉢盛山西北方の1435mピークと、1415m峰の美しさに言及している。「この岩峰は実に雄大で鳥渡日本の山とは思えない。黒い岩の皺に雪をわづかづつのせて、針葉樹の頂の虚空を垂直に抜く姿は捨てがたい」当時からマッターホルンぶりを発揮していたのだ。
吉凶分岐からの夕張岳アタック。広大な風景に惜しげなく賛辞を送っている。あそこの風景は今も昔も変わらないようだ。吉凶岳北東尾根からポントナシベツ川へ下山。下山路は桜咲く春の十梨別原野。
● 三月の利尻岳 井田清
1929年3月、小樽から15時間揺られて鬼脇。宿にスキーを立てかけておくと村中の子供が見物に来る。晴天待ち停滞で、若者が連れて行ってくれと訪ねてきたり、にぎわう銭湯に出かけたり。「山脈から独り離れて居るこの山は何処となく冷たい鋭さに寂しく光って居る。峰も頂の岩壁も絹の様に光つて居る。鋭い峰の若々しい雪庇は絹糸の様に細い。」鬼脇から山頂に向かう標高尾根をたどる。痩せた尾根が頂の直下で突き刺さるところで、雪庇に塹壕を掘って進み登頂(最高点には至っていない模様)。思索の多い井田氏の文章だが、天気待ちの停滞をする序盤から大いに読ませる。
● 国後島遊記 島村光太郎
1929年7月、未だ情報の少ない国後島へ。植物採集を兼ねて、「富士山の上に槍ヶ岳を載せたような」山、チャチャヌプリ登頂を目指す。結果は千島名物の濃霧で山中3停滞の上、翌日もガスと強風に阻まれて、肩の台地の少し先から引き返した。現代と同じくらい、当時も未知にくるまれて謎の山域だった事がわかる。
チャチャヌプリ南西面の乳呑路は30戸ほどの集落で、そこに根室からの船で降り立つ。西に海岸を20キロ進んだところが「賽の河原」。ここの佐々木さんというご老人に登路を教わり、イダシベナイ大沢を登る。途中をすぎると沢は不明瞭になり、ネマガリダケとミヤマハンノキの藪こぎになる。台地の上は砂礫地で火山の熱で靴が熱くなる場もあった。
国後の人たちは丁度昆布とりに忙しかったが、何処の家でも彼らを歓迎してお茶を飲んで行けと誘われた、小学生の子供たちは皆、立ち止まってこんにちはとお辞儀をしてくれたとある。今は失われたある時ある地の記録だ。
● アレウシアンの旅 高橋喜久司
1929年6月下旬、農林水産省の船に乗ってアリューシャンのアッツ島へ植物採集に行く機会があった。植物学教室の先生の助手として。船はラッコ密猟の監視のため、千島、アリューシャンの海獣地帯を行く。アッツ島の先住民アレウトが、外国人を警戒して、なかなか姿を見せない様など書いてある。訪れて植物を採集した島は、アッツ、アムチトカ、アトカ島。中部千島でも帰りに二ヶ月植物採集したとあるが、詳しく書いていない。残念。このような日本の官船が年一度千島やアリューシャンに寄るのに便乗した記録で、同時代の「千島探検記(ベルクマン・加納一郎訳)」がある。当時これらの離島への行き方はこれ以外無かった模様だ。山岳部の学生はこのころから学術調査の最先端で知力体力を発揮している。世間的に山岳部員の価値が認められる分野である。
● 日高山脈アイヌ語考 山口健児
アイヌ地名の意味紹介一覧。
・ピパイロを美生と当て字して、ビセイと読む人が増えたのを嘆いている。いまレキフネ川という川は歴船の字を「ペルプネイ」川に当てていた。当時和人は日方(ひかた)川と呼んでいたがこれは廃れた。
・ ヌピナイは最近ヌビナイと書いているし多数はビで呼ぶが、ルームはピのままである。(野の川の意)
・ 豊似川をトヨニと呼ぶのは誤なり。「トヨイ」(土の川の意)が正しい。
・ 野塚のもとは「ヌプカペツ」。たしかに、そう聞こえる。
など
● 山に就いて 伊藤秀五郎
雲で化粧する山は
藍色の深い呼吸をするが、
少しでも機嫌が悪いと
黒い頭巾をすつぽり被って
つんと肩を聳やかす。
しかし時には
白雲を髪に飾って
明るく
浅黄色に笑っているのだ。
年報 1928/4−1929/8
写真12点、スケッチ5点、地図3点
【部報紹介・2号(1929)上】
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部報解説・ 2006年10月16日 (月)
昔の部報紹介の不定期連載です。さらっと読んで短評のつもりだったのですが、やはりとてもおもしろいのでさらっとは読めませんでした。地形図片手に80年前の記録を読むのはとてもおもしろいです。2号は記録も多いので、今回と次回、2度に渡って紹介します。
北大山岳部部報2号(1929年)
【総評】
1928.4-1929.8の1年5ヶ月分の山行記録と16の紀行、研究小文。編集長は須藤宣之助。価格は2円、334ページ。戦前の部報では最も厚い一冊である。1号発行からわずか1年半でこれだけの記録集。当時の山岳部創生期の熱気がムンムンしている。
【時代】
1928年山東で日中軍衝突。張作霖を関東軍が暗殺
1929年P.バウアー(独)第一次カンチェンジュンガ遠征
北海道駒ヶ岳大噴火
●知床半島の山 原忠平
部報1号には無かった知床特集である。過去数度の知床山行記録に基づく夏期登路案内。積雪期記録はこれまでに無いとのこと。宇登呂、羅臼に港は有るが陸路が無かったそうで、網走か根室から発動汽船を手配してアプローチするとのこと。「人夫はウトロにて雇うのが最も適している様に考えられる」ほとんど海外遠征だ。
・1928年7月、三日間でテッパンベツ川から知床岳往復の記録。
・同年同月、6日間でカムイワッカ漁場から硫黄山、羅臼岳縦走。途中、グブラー氏(スイス人教授。ヘルベチアヒュッテの設計者)と出会う一幕あり。羅臼平のコルで雨天停滞中、グブラー博士とドイツ語で冗談を交わすあたりが当時の大学生である。
・ テッパンベツ川河口で2週間、山にも登らず番屋暮らしをする記録。番屋でおむすびを握ってもらいルシャ乗越をして根室側に出、海中に湧くセセキの湯を引き潮のタイミングで入る。漁師の手伝いをして鱒採りなどして過ごす。
● 幌尻岳スキー登山 須藤宣之助
1号の目玉が冬期石狩岳初登記録なら、2号はこの記録である。石狩岳で中央高地の冬期登山に区切りをつけ、いよいよ冬の日高にねらいを定め始めた。
1929年1月。5人と人夫2人でほぼ10日間。登路はトッタベツ川を遡行しトッタベツ岳から直接降りる尾根をたどって、稜線をアタックと言うもの。石狩岳同様、秋のうちに小屋を建てている。ルートはもちろん行ってみなければわからない時代だ。B.C.の小屋からアタックの朝、伊藤秀五郎氏はスノーブリッジが崩れ沢に落ち、足を濡らしたのでリタイアしている。当時の装備では足も濡れやすかっただろう。南に見える「1900米の山」に目を惹かれている。エサオマンだ。積雪期日高の記録は、まだ1号のピパイロ岳とこの幌尻岳だけである。
● 美生岳・戸蔦別岳及幌尻嶽 星光一
1929夏、ピパイロ川から主稜線にあがりカムエクまでの計画だったが、天候悪く日数切れで戸蔦別川へ降りた。10日の山行。
● 日高山脈より新冠川を下る 坂本正幸
1928年7月ピパイロ川から1940を越えてトッタベツ岳、幌尻岳、未知のルート、プイラル沢へ降りて新冠川を下る。アイヌの水本新吉氏を人夫に一行4人。水本氏は遠くのクマをすぐに見つけるいい目をしている。現在はダムの底に沈んでいる中流域の様子が面白い。付録の地図にもリビラ山東面のシウレルカシュペ沢の下流に長いゴルジュが描いてある。日高側の里に下りると白い髭のアイヌの渡し守がいる渡船場がある。11日間の旅。
● トッタベツ川を入りカムイエクウチカウシ山を登る 山縣浩
1928年7月ピリカペタン沢から札内岳を越え、札内川8の沢からカムエク往復。一行の人夫はアイヌ老人水本文太郎氏。13の頃から日高の測量を案内し、56歳。著者山縣は老人の年季のいった風格と技能に、尊敬の情を隠さない。カムエクの8の沢は日帰りが出来る、北西面沢(シュンベツ川カムエク沢)は非常に困難な沢である、と語る。よく歩きこんで、何でも知っている。札内川下山も今はピョウタンの滝でヒッチするところだが、この先岩内川を越え、トッタベツ川の橋も越え、上清川の駅(当時あった十勝鉄道)まで20キロ歩いている。
● 静内川よりカムイエクウチカウシ山 福西幸次郎
1929年7月、16日間、3人+人夫1人
現在は高見ダムに沈んでしまっているメナシベツ川中流部の函函函を、泣き言を交えながら進んでいく。本人たちも現在地を把握できておらず、記録としてはどこの事を書いているのか判然としない部分もあるが、未知の長い沢を何日も恐れ喜びながら進んでいく彼らの様子がよく分かる。「ステップも切らずに急な斜面がへづれるなんて全く熊に御礼をいわなければならない」とあるほどクマだらけ。遡行10日後に国境に上がってみるとサッシビチャリのつもりがコイボク沢を23の北側に上がっていた。その後カムエクを登って札内へ降りた。札内川という歩きやすい川があるのに何もこの開拓期に苦労して日高側の静内川など登る物では無いと書いてあるのがおかしい。立派な静内川初期遡行記録である。
● 日高山脈中ノ川地形について 大立目謙一郎
林道のない時代に、河岸段丘のある下流から入山。中ノ川を登って神威岳を目指すが、函に苦労して天気も悪く敗退している。これまで戸蔦別川や美生川など、楽な沢の時代だったが、中部日高の沢に目を向け始めた頃の記録。「地形について」とは、敗退しているので、山行記録と書いていない様だ。「丁度川が西南に廻る所、984.3の三角点の下の辺で函に出会ふ。之こそ物凄い。水がめのようだ。中は真暗で急角度で折れ曲がる。両岸は跳べば越せる程せまく、とても、ぢき下からなど上る事は出来ない。」今では林道終点から数時間でこの函だが、下流部、中流部を何日もかけてここまで来ての敗退である。
● 日高山脈単独行 伊藤秀五郎
当時案内人を伴わずに日高にはいるのは珍しかったので、単独行としての日高沢旅の始めではないだろうか。単独行についての心持ちを大いに語っている。行程は8月27日〜9月9日
千呂露川から北戸蔦別岳に登り、戸蔦別川を下る(予定では新冠川、イドンナップ、シュンベツ川を考えていた)。そして一度帯広にでて、広尾まで乗り合い自動車(バスのことか?)、札楽古右股から楽古岳、パンケ川を下る。
油紙で小屋がけをするのがおもしろい。ビニールかブルーシートのような感じなのだろう。帯広から広尾への乗り合いバスで見る風景「それは、未だ嘗て斧鉞の加へられたことの無かった強大な柏の原生林だ。小高い丘陵地帯を概そ数里の間、人間の手からとり残されている広大な森林世界だ。私はこんな雄大な景観は多く知らない」。坂本直行の絵にこんな風景があった。この時代、山の記録以上に、麓の話が興味深い。
● 石狩川を遡りて音更川を下る 河合克己
瓔珞磨く石狩の源遠く問い来れば原始の森は暗くして雪解の泉玉と涌く(大正9年桜星会歌)
の歌詞そのまんま。層雲峡の大函を、胸まで浸って通過して、これまで遡行した誰もが口をそろえて美しいと称えた石狩川本流をまる三日かけて大石狩沢から登頂。稜線づたいにニペソツまで行く予定だったが、ブッシュのすごさに作戦を変えて音更川に降りる。途中大滝で行き止まり、尾根を藪こぎでまたぐ途中で暗くなり、横にもなれないところで朝を待つ。鉈でケガしたのでニぺはやめて音更川を下る。音更川は、十勝三股はもちろん、ニペソツ東面の幌加音更川の出会いあたりまでが原始林だ。南クマネシリからの13ノ沢出会いから1里続く一枚岩の岩盤が「音更川で最も美しいところ」とある。幌加音更川の林道は、昨年来たときにはまだ原始の森だったのが、わずか一年でニペソツのすぐ近くまで林道を延ばしたとある。このころの開発の進み具合がわかる。下山して最初の宿が「ユウンナイ温泉」今の糠平ダムの湖底と思われる。7月だというのに、「今年初めての客だ」といわれたというのがおかしい。
石狩川の焚火の傍らでの記述。「夕食後の雑談も長くは続かない。焚火を見つめて黙り込んでしまふ。何を考えて居るのか、それは誰にもわからない。自分にもわからないんだ。時々パイプから吐出される煙の様なものを考えて居るのかもしれない。此の時間が最も楽しい時だ。都会に住む自分等は山の中でなければ自分一人になれないのだ。」
以下、次回で紹介します。
● 十勝岳―十勝川―ニペソツ山 山縣浩
● 石狩岳とニペソツ山を中心に 伊藤秀五郎
● ニペソツ山 徳永芳雄
● 五月の芦別夕張連峰 山口健児
● 三月の利尻岳 井田清
● 国後島遊記 島村光太郎
● アレウシアンの旅 高橋喜久司
● 日高山脈アイヌ語考 山口健児
● 山に就いて(詩) 伊藤秀五郎
年報 1928/4−1929/8
写真12点、スケッチ5点、地図3点
【部報2号(1929)後編に続く】
【総評】
1928.4-1929.8の1年5ヶ月分の山行記録と16の紀行、研究小文。編集長は須藤宣之助。価格は2円、334ページ。戦前の部報では最も厚い一冊である。1号発行からわずか1年半でこれだけの記録集。当時の山岳部創生期の熱気がムンムンしている。
【時代】
1928年山東で日中軍衝突。張作霖を関東軍が暗殺
1929年P.バウアー(独)第一次カンチェンジュンガ遠征
北海道駒ヶ岳大噴火
●知床半島の山 原忠平
部報1号には無かった知床特集である。過去数度の知床山行記録に基づく夏期登路案内。積雪期記録はこれまでに無いとのこと。宇登呂、羅臼に港は有るが陸路が無かったそうで、網走か根室から発動汽船を手配してアプローチするとのこと。「人夫はウトロにて雇うのが最も適している様に考えられる」ほとんど海外遠征だ。
・1928年7月、三日間でテッパンベツ川から知床岳往復の記録。
・同年同月、6日間でカムイワッカ漁場から硫黄山、羅臼岳縦走。途中、グブラー氏(スイス人教授。ヘルベチアヒュッテの設計者)と出会う一幕あり。羅臼平のコルで雨天停滞中、グブラー博士とドイツ語で冗談を交わすあたりが当時の大学生である。
・ テッパンベツ川河口で2週間、山にも登らず番屋暮らしをする記録。番屋でおむすびを握ってもらいルシャ乗越をして根室側に出、海中に湧くセセキの湯を引き潮のタイミングで入る。漁師の手伝いをして鱒採りなどして過ごす。
● 幌尻岳スキー登山 須藤宣之助
1号の目玉が冬期石狩岳初登記録なら、2号はこの記録である。石狩岳で中央高地の冬期登山に区切りをつけ、いよいよ冬の日高にねらいを定め始めた。
1929年1月。5人と人夫2人でほぼ10日間。登路はトッタベツ川を遡行しトッタベツ岳から直接降りる尾根をたどって、稜線をアタックと言うもの。石狩岳同様、秋のうちに小屋を建てている。ルートはもちろん行ってみなければわからない時代だ。B.C.の小屋からアタックの朝、伊藤秀五郎氏はスノーブリッジが崩れ沢に落ち、足を濡らしたのでリタイアしている。当時の装備では足も濡れやすかっただろう。南に見える「1900米の山」に目を惹かれている。エサオマンだ。積雪期日高の記録は、まだ1号のピパイロ岳とこの幌尻岳だけである。
● 美生岳・戸蔦別岳及幌尻嶽 星光一
1929夏、ピパイロ川から主稜線にあがりカムエクまでの計画だったが、天候悪く日数切れで戸蔦別川へ降りた。10日の山行。
● 日高山脈より新冠川を下る 坂本正幸
1928年7月ピパイロ川から1940を越えてトッタベツ岳、幌尻岳、未知のルート、プイラル沢へ降りて新冠川を下る。アイヌの水本新吉氏を人夫に一行4人。水本氏は遠くのクマをすぐに見つけるいい目をしている。現在はダムの底に沈んでいる中流域の様子が面白い。付録の地図にもリビラ山東面のシウレルカシュペ沢の下流に長いゴルジュが描いてある。日高側の里に下りると白い髭のアイヌの渡し守がいる渡船場がある。11日間の旅。
● トッタベツ川を入りカムイエクウチカウシ山を登る 山縣浩
1928年7月ピリカペタン沢から札内岳を越え、札内川8の沢からカムエク往復。一行の人夫はアイヌ老人水本文太郎氏。13の頃から日高の測量を案内し、56歳。著者山縣は老人の年季のいった風格と技能に、尊敬の情を隠さない。カムエクの8の沢は日帰りが出来る、北西面沢(シュンベツ川カムエク沢)は非常に困難な沢である、と語る。よく歩きこんで、何でも知っている。札内川下山も今はピョウタンの滝でヒッチするところだが、この先岩内川を越え、トッタベツ川の橋も越え、上清川の駅(当時あった十勝鉄道)まで20キロ歩いている。
● 静内川よりカムイエクウチカウシ山 福西幸次郎
1929年7月、16日間、3人+人夫1人
現在は高見ダムに沈んでしまっているメナシベツ川中流部の函函函を、泣き言を交えながら進んでいく。本人たちも現在地を把握できておらず、記録としてはどこの事を書いているのか判然としない部分もあるが、未知の長い沢を何日も恐れ喜びながら進んでいく彼らの様子がよく分かる。「ステップも切らずに急な斜面がへづれるなんて全く熊に御礼をいわなければならない」とあるほどクマだらけ。遡行10日後に国境に上がってみるとサッシビチャリのつもりがコイボク沢を23の北側に上がっていた。その後カムエクを登って札内へ降りた。札内川という歩きやすい川があるのに何もこの開拓期に苦労して日高側の静内川など登る物では無いと書いてあるのがおかしい。立派な静内川初期遡行記録である。
● 日高山脈中ノ川地形について 大立目謙一郎
林道のない時代に、河岸段丘のある下流から入山。中ノ川を登って神威岳を目指すが、函に苦労して天気も悪く敗退している。これまで戸蔦別川や美生川など、楽な沢の時代だったが、中部日高の沢に目を向け始めた頃の記録。「地形について」とは、敗退しているので、山行記録と書いていない様だ。「丁度川が西南に廻る所、984.3の三角点の下の辺で函に出会ふ。之こそ物凄い。水がめのようだ。中は真暗で急角度で折れ曲がる。両岸は跳べば越せる程せまく、とても、ぢき下からなど上る事は出来ない。」今では林道終点から数時間でこの函だが、下流部、中流部を何日もかけてここまで来ての敗退である。
● 日高山脈単独行 伊藤秀五郎
当時案内人を伴わずに日高にはいるのは珍しかったので、単独行としての日高沢旅の始めではないだろうか。単独行についての心持ちを大いに語っている。行程は8月27日〜9月9日
千呂露川から北戸蔦別岳に登り、戸蔦別川を下る(予定では新冠川、イドンナップ、シュンベツ川を考えていた)。そして一度帯広にでて、広尾まで乗り合い自動車(バスのことか?)、札楽古右股から楽古岳、パンケ川を下る。
油紙で小屋がけをするのがおもしろい。ビニールかブルーシートのような感じなのだろう。帯広から広尾への乗り合いバスで見る風景「それは、未だ嘗て斧鉞の加へられたことの無かった強大な柏の原生林だ。小高い丘陵地帯を概そ数里の間、人間の手からとり残されている広大な森林世界だ。私はこんな雄大な景観は多く知らない」。坂本直行の絵にこんな風景があった。この時代、山の記録以上に、麓の話が興味深い。
● 石狩川を遡りて音更川を下る 河合克己
瓔珞磨く石狩の源遠く問い来れば原始の森は暗くして雪解の泉玉と涌く(大正9年桜星会歌)
の歌詞そのまんま。層雲峡の大函を、胸まで浸って通過して、これまで遡行した誰もが口をそろえて美しいと称えた石狩川本流をまる三日かけて大石狩沢から登頂。稜線づたいにニペソツまで行く予定だったが、ブッシュのすごさに作戦を変えて音更川に降りる。途中大滝で行き止まり、尾根を藪こぎでまたぐ途中で暗くなり、横にもなれないところで朝を待つ。鉈でケガしたのでニぺはやめて音更川を下る。音更川は、十勝三股はもちろん、ニペソツ東面の幌加音更川の出会いあたりまでが原始林だ。南クマネシリからの13ノ沢出会いから1里続く一枚岩の岩盤が「音更川で最も美しいところ」とある。幌加音更川の林道は、昨年来たときにはまだ原始の森だったのが、わずか一年でニペソツのすぐ近くまで林道を延ばしたとある。このころの開発の進み具合がわかる。下山して最初の宿が「ユウンナイ温泉」今の糠平ダムの湖底と思われる。7月だというのに、「今年初めての客だ」といわれたというのがおかしい。
石狩川の焚火の傍らでの記述。「夕食後の雑談も長くは続かない。焚火を見つめて黙り込んでしまふ。何を考えて居るのか、それは誰にもわからない。自分にもわからないんだ。時々パイプから吐出される煙の様なものを考えて居るのかもしれない。此の時間が最も楽しい時だ。都会に住む自分等は山の中でなければ自分一人になれないのだ。」
以下、次回で紹介します。
● 十勝岳―十勝川―ニペソツ山 山縣浩
● 石狩岳とニペソツ山を中心に 伊藤秀五郎
● ニペソツ山 徳永芳雄
● 五月の芦別夕張連峰 山口健児
● 三月の利尻岳 井田清
● 国後島遊記 島村光太郎
● アレウシアンの旅 高橋喜久司
● 日高山脈アイヌ語考 山口健児
● 山に就いて(詩) 伊藤秀五郎
年報 1928/4−1929/8
写真12点、スケッチ5点、地図3点
【部報2号(1929)後編に続く】
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部報解説・ 2006年9月23日 (土)
部報14号の発行が間近になったので、これまでの部報を読み返しています。登り覚えのあるルートも、時代が違うと驚くばかり。歴代部報の概略とさわり、短評を不定期連載で紹介します。
部報1号を読むには、北大山岳館の書庫へ出向いてください。僕は何年も前に86年頃出た復刻版(1〜7号揃い)を古書店で買いました。伊藤秀五郎氏の文章に限っては、中公文庫の「北の山」に何編かあったと思いましたが、今は絶版かと思います。坂本直行氏のトムラウシ行の文章を学生の時に読み、大正時代の大学生の国語力に憧れたりしました。80年前の青春記録集です。
ちなみに北大山岳部発会式は1926年11月10日午後7時とあり、今年でまもなくちょうど80周年です。
部報1号(1928年)
【総評】
山岳部の出来た1926年暮れからから1年5ヶ月後に発行された。山岳部前史としての10数年のスキー部時代も俯瞰できる。編集長は伊藤秀五郎氏。
スキーによる積雪期初登山を大雪、夕張、札幌近郊で行い、いよいよ奥深い石狩岳の冬期初登が大きな目標とされた。夏期は稜線のヤブこぎ山行などが十勝や大雪などで計画されていて驚く。
しかし興味深いのは阿寒湖、洞爺湖、狩場山周辺のアプローチの悪さ、原始林の深さである。今ならば自動車道路で全く味気ない。
千島のアライト登頂記録と当時の記述も、今となっては貴重なものである。
以下、各章のタイトルとその概略。
●冬の十勝岳 和辻廣樹
1926年山岳部発足前後の初登山行に基づいた、十勝連峰の冬期登山案内。十勝岳、上ホロ、美瑛岳、富良野岳などの冬期初登頂のいきさつやルートなどを解説している。現在も十勝連峰で使われている、D,Z,H,O,P,Nなどの地点名がAから入っている地図が付いている。ちなみに和辻氏は部章の原案を作図した。
●冬の石狩岳 伊藤秀五郎、和辻廣樹
1928年2月上旬、層雲峡から石狩川を遡り、前石狩沢から左岸尾根にのり、厳冬期の石狩岳初登頂をした約10日の山行記録。夏に簡単な小屋を途中に二つ作っておいた。当時の石狩川源流はもちろん無人地帯。層雲峡大箱の凍結を狙って通過した。上川から双雲別温泉(層雲峡)まで馬橇。奥深い石狩川の源流をたどる厳冬期石狩岳アタックは長年のテーマだったようで、部報1号を飾る山行記録。
●美生岳登山記録 須藤宣之助
1928年3月下旬ピパイロ川支流トムラウシ川(現ニタナイ川)から伏見岳北コル経由でピパイロ岳アタックの記録。2名で6日間
●三月の武利岳 板橋卓
1928年3月中旬五人+人夫二人でイトンムカ沢からアタックの記録。大箱(層雲峡の核心部)の氷が溶けてしまっているので、ニセイチャロマップ川からの登路を諦めた、という時代。北見ルベシベから馬橇でアプローチ。
●斜里岳 原忠平
武利のあと、メンバー2名で斜里に向かった。斜里の駅から徒歩で原野を歩いて山麓に向かう。飽かず斜里を眺めるアプローチだ。近づく斜里を眺めながらルートを練り、越川の駅逓より北東尾根からアタック。「海別岳」の読みを土地の少年に聞いて「ウナベツ」だったと知る下りがある。
●五月の石狩岳 野中保次郎
1926年5月中旬、層雲別温泉(層雲峡)から黒岳、忠別岳、ヌタップヤンベツ沢、石狩沢から石狩岳を往復した記録。上記の厳冬期初登の前に残雪期、稜線づたいに成された。谷の中は雪解け水で通れず、天気の安定した季節に高地を通って忠別岳まで近づいた。奥深い石狩岳である。9日間。
●三月のトムラウシ山 坂本直行
1927年.坂本直行氏、学生時代最後の山行。美瑛から俵真布(タロマップ)へ馬橇。ここの農家から辺別川左岸沿い硫黄岳経由でアタック。「ひたひたと足もとに寄する大小幾多の山脈。黒きタンネもてうづむる谷々・・・。」若き坂本氏の文章は身に覚えのある読者の心を揺らす。
●春の阿寒行 島村光太郎
1927年.3月下旬、美幌から網走線で北見相生まで鉄路(現在廃線)。そのあと釧北峠を越えて尻駒別の谷に入り、阿寒湖温泉から雌阿寒と雄阿寒をアタック。徒歩で峠越えをしてきたのに温泉小屋にはご主人がいる。「湖畔のアイヌ小屋」、「数日前に来たグブラー氏(ヘルベチアヒュッテの設計者)の足跡が俺等の二倍ある」などの記述あり。
●北海道スキー登山の発達 伊藤秀五郎
1911年、北大にスキーが伝えられてから、道内の山が冬季に登られていく歴史を俯瞰できる小文。大正年間に近郊、ニセコ・羊蹄山、芦別と、冬期初登頂の記録が並び、大正末期からこの部報1号にかけての時代に、中央高地や日高など、人里遠く、高い山々の厳冬期初登が成されていく。いわば北大山岳部前史の、スキー部、旅行部時代の冬期北海道山行記録の総集編である。
●狩場山 伊藤秀五郎
1928年3月下旬、伊藤秀五郎氏の単独行。寿都から千走まで馬橇。賀老から東狩場山南東尾根をアタック。狩場山は南東尾根を予定していたが時間切れで引き返す。この時代、極端に交通が不便。賀老高地の集落が雪で埋まっていて雪原になっていた様など記述有り。寿都への帰りは母衣ノ月山越えで帰っている。
●冬のニセイカウシュッペ山 原忠平
ニセイカウシュペの登山。途中南面の岩峰群に目を奪われる。「ギプフェルグリュック(山頂の感慨?)をさほど感じなかった」など、ドイツ語の借用語多し。外来語で気取っている感もあるが、当時の山好きはドイツ語の文献を通読していたようで、日本語では言いようのない概念などもあったと思われる。「シュタイクアイゼン」と書く人と、「クランポン」と書く人と二通りあっておもしろい。
●太陽・雪・スキー 伊藤秀五郎
伊藤による山スキー随想集。1923年(大正十二年)、伊藤が新人時代のニセコ連山三月の縦走、雄冬岳から増毛全山を暑寒別岳まで縦走する五月、明けて正月、狩太から羊蹄山麓の原野をスキーで歩き、洞爺湖までの記録。湖畔では数年前に切り払われた巨大な切り株を見て、失われた原始林に思いを馳せる。そのまま船で幌萌、滑って虻田、船で室蘭、連絡船で青森へ行き岩木山登頂。当時、冬期は人の通わない北見峠の駅逓の老夫婦を山スキーで訪ね、チトカニウシ南西尾根をアタックして、粉雪のスロープを滑り降りている。
●北千島の印象 伊藤秀五郎
1926年6月、伊藤氏が小森五作氏と共に北千島のシュムシュ、アライト、パラムシルへの調査船に便乗して見聞した紀行。函館を出て6日目にシュムシュ島に上陸。ほぼ2ヶ月、ほぼ無人のアライト島に小屋を作り、鱈を釣ったり、エトピリカなど野鳥を撃ったりして過ごした。ボートで島を2周し、植物や虫を採集した。トドの群れも観察に出かけている。
7月15日、千島最高峰のアライトに登頂している。登路は南東のルンゼ。山麓は見たことのない広さのお花畑。1500m以上は雪。
●三国山より石狩岳へ 山口健児
1927年7月、北海道三国を分ける、最も高い山脈を稜線づたいに行こうという計画。稜線のヤブはやはり歯が立たず、ユニ石狩沢に一度おりて、石狩岳を沢からアタックした。
●十勝岳より大雪山へ 徳永芳雄
なんと7月に十勝岳からトムラウシ経由黒岳までの縦走記録。予想に違わず、スマヌプリあたりでヤブこぎ地獄に。2週間の山行。5人+人夫1人
●漁岳とオコタンペ湖 河合克己
定山渓からまだダムのない豊平川を遡る10月。前年、この付近でタコ部屋(開拓の捨て駒にされた強制労働)脱走者と会った話もある。これは坂本直行氏の何か別の記録で読んだ覚えがある。「造材小屋で焚き火にあたっていると遠くに斧の響きが聞こえる」時代である。
オコタンペ湖から支笏湖に注ぐオコタンペ沢が函滝の連続で緊張する。その河口からは気の良い漁師の船をヒッチして丸駒温泉へ。そして千歳川河口まで2時間の船。ここからは王子製紙の軽便鉄道をヒッチして苫小牧へ。今とは全然違う原始の支笏湖周辺である。うらやましい。
●小さな岩登り 井田清
おそらく最古の赤岩文献。岩やルートの名は現代通っている名前は使われていない。おそらく西壁や東の岩峰の登攀を書いている。心情や、観念的な記述が多いが、当時の赤岩峠までのアプローチなど、周辺の様子は詳しく書かれていておもしろい。
●若き登山家の一小言 伊藤秀五郎
くだらない遭難と、登山をするなら避けられない危険とを混同する、世間の登山に無理解な人はあまりに冷笑的ではあるまいか?という、現代と全く変わらない社会状況にたいする考察。
友人大島亮吉の「アラインゲーエン(単独行のこと)に於いてこそ、自分は山登りの根本のものを感じる」に対する考察。
●旅・歩み・いこい 井田清
山と旅を巡る詩的な叙情文。
●山岳部の誕生 伊藤秀五郎
大正2年(1913)に出来たスキー部と大正9年(1920)にできた恵迪寮旅行部を両親に出来た山岳部の生い立ちを紹介している。スキー部はもとスキー登山をする部であり、旅行部は夏期の登山をする部だったが、どちらもメンバーは同じだった。大正9年(1920)あたりから部内でジャンプなどの競技スキーが盛んになり、やがてもとからの山スキー派が独立して山岳部を作るに至った。「最初から名前が山岳部だったなら、あとからスキー部が出来たはずである」という次第。山岳部誕生以前の時代に活躍し、発行直前に遭難死した板倉勝宣氏の功績や当時の人のつながりを詳しく述べている。
注・・スキー部の創立は公式には大正元年(1912年)。「北海道大学スキー部創立100周年記念史」 記念史編集委員会 平成24年6月2日発行による。1912年は7月30日に明治が大正にかわり、スキー部創設はその前後にあたる。文武会会報第67号(大正元年12月20日発行)には大正元年9月21日の委員会で正式決定された、とあるため。
年報(1926.11-1928.3)
写真11点、スケッチ4点(坂本直行)、地図3点
【総評】
山岳部の出来た1926年暮れからから1年5ヶ月後に発行された。山岳部前史としての10数年のスキー部時代も俯瞰できる。編集長は伊藤秀五郎氏。
スキーによる積雪期初登山を大雪、夕張、札幌近郊で行い、いよいよ奥深い石狩岳の冬期初登が大きな目標とされた。夏期は稜線のヤブこぎ山行などが十勝や大雪などで計画されていて驚く。
しかし興味深いのは阿寒湖、洞爺湖、狩場山周辺のアプローチの悪さ、原始林の深さである。今ならば自動車道路で全く味気ない。
千島のアライト登頂記録と当時の記述も、今となっては貴重なものである。
以下、各章のタイトルとその概略。
●冬の十勝岳 和辻廣樹
1926年山岳部発足前後の初登山行に基づいた、十勝連峰の冬期登山案内。十勝岳、上ホロ、美瑛岳、富良野岳などの冬期初登頂のいきさつやルートなどを解説している。現在も十勝連峰で使われている、D,Z,H,O,P,Nなどの地点名がAから入っている地図が付いている。ちなみに和辻氏は部章の原案を作図した。
●冬の石狩岳 伊藤秀五郎、和辻廣樹
1928年2月上旬、層雲峡から石狩川を遡り、前石狩沢から左岸尾根にのり、厳冬期の石狩岳初登頂をした約10日の山行記録。夏に簡単な小屋を途中に二つ作っておいた。当時の石狩川源流はもちろん無人地帯。層雲峡大箱の凍結を狙って通過した。上川から双雲別温泉(層雲峡)まで馬橇。奥深い石狩川の源流をたどる厳冬期石狩岳アタックは長年のテーマだったようで、部報1号を飾る山行記録。
●美生岳登山記録 須藤宣之助
1928年3月下旬ピパイロ川支流トムラウシ川(現ニタナイ川)から伏見岳北コル経由でピパイロ岳アタックの記録。2名で6日間
●三月の武利岳 板橋卓
1928年3月中旬五人+人夫二人でイトンムカ沢からアタックの記録。大箱(層雲峡の核心部)の氷が溶けてしまっているので、ニセイチャロマップ川からの登路を諦めた、という時代。北見ルベシベから馬橇でアプローチ。
●斜里岳 原忠平
武利のあと、メンバー2名で斜里に向かった。斜里の駅から徒歩で原野を歩いて山麓に向かう。飽かず斜里を眺めるアプローチだ。近づく斜里を眺めながらルートを練り、越川の駅逓より北東尾根からアタック。「海別岳」の読みを土地の少年に聞いて「ウナベツ」だったと知る下りがある。
●五月の石狩岳 野中保次郎
1926年5月中旬、層雲別温泉(層雲峡)から黒岳、忠別岳、ヌタップヤンベツ沢、石狩沢から石狩岳を往復した記録。上記の厳冬期初登の前に残雪期、稜線づたいに成された。谷の中は雪解け水で通れず、天気の安定した季節に高地を通って忠別岳まで近づいた。奥深い石狩岳である。9日間。
●三月のトムラウシ山 坂本直行
1927年.坂本直行氏、学生時代最後の山行。美瑛から俵真布(タロマップ)へ馬橇。ここの農家から辺別川左岸沿い硫黄岳経由でアタック。「ひたひたと足もとに寄する大小幾多の山脈。黒きタンネもてうづむる谷々・・・。」若き坂本氏の文章は身に覚えのある読者の心を揺らす。
●春の阿寒行 島村光太郎
1927年.3月下旬、美幌から網走線で北見相生まで鉄路(現在廃線)。そのあと釧北峠を越えて尻駒別の谷に入り、阿寒湖温泉から雌阿寒と雄阿寒をアタック。徒歩で峠越えをしてきたのに温泉小屋にはご主人がいる。「湖畔のアイヌ小屋」、「数日前に来たグブラー氏(ヘルベチアヒュッテの設計者)の足跡が俺等の二倍ある」などの記述あり。
●北海道スキー登山の発達 伊藤秀五郎
1911年、北大にスキーが伝えられてから、道内の山が冬季に登られていく歴史を俯瞰できる小文。大正年間に近郊、ニセコ・羊蹄山、芦別と、冬期初登頂の記録が並び、大正末期からこの部報1号にかけての時代に、中央高地や日高など、人里遠く、高い山々の厳冬期初登が成されていく。いわば北大山岳部前史の、スキー部、旅行部時代の冬期北海道山行記録の総集編である。
●狩場山 伊藤秀五郎
1928年3月下旬、伊藤秀五郎氏の単独行。寿都から千走まで馬橇。賀老から東狩場山南東尾根をアタック。狩場山は南東尾根を予定していたが時間切れで引き返す。この時代、極端に交通が不便。賀老高地の集落が雪で埋まっていて雪原になっていた様など記述有り。寿都への帰りは母衣ノ月山越えで帰っている。
●冬のニセイカウシュッペ山 原忠平
ニセイカウシュペの登山。途中南面の岩峰群に目を奪われる。「ギプフェルグリュック(山頂の感慨?)をさほど感じなかった」など、ドイツ語の借用語多し。外来語で気取っている感もあるが、当時の山好きはドイツ語の文献を通読していたようで、日本語では言いようのない概念などもあったと思われる。「シュタイクアイゼン」と書く人と、「クランポン」と書く人と二通りあっておもしろい。
●太陽・雪・スキー 伊藤秀五郎
伊藤による山スキー随想集。1923年(大正十二年)、伊藤が新人時代のニセコ連山三月の縦走、雄冬岳から増毛全山を暑寒別岳まで縦走する五月、明けて正月、狩太から羊蹄山麓の原野をスキーで歩き、洞爺湖までの記録。湖畔では数年前に切り払われた巨大な切り株を見て、失われた原始林に思いを馳せる。そのまま船で幌萌、滑って虻田、船で室蘭、連絡船で青森へ行き岩木山登頂。当時、冬期は人の通わない北見峠の駅逓の老夫婦を山スキーで訪ね、チトカニウシ南西尾根をアタックして、粉雪のスロープを滑り降りている。
●北千島の印象 伊藤秀五郎
1926年6月、伊藤氏が小森五作氏と共に北千島のシュムシュ、アライト、パラムシルへの調査船に便乗して見聞した紀行。函館を出て6日目にシュムシュ島に上陸。ほぼ2ヶ月、ほぼ無人のアライト島に小屋を作り、鱈を釣ったり、エトピリカなど野鳥を撃ったりして過ごした。ボートで島を2周し、植物や虫を採集した。トドの群れも観察に出かけている。
7月15日、千島最高峰のアライトに登頂している。登路は南東のルンゼ。山麓は見たことのない広さのお花畑。1500m以上は雪。
●三国山より石狩岳へ 山口健児
1927年7月、北海道三国を分ける、最も高い山脈を稜線づたいに行こうという計画。稜線のヤブはやはり歯が立たず、ユニ石狩沢に一度おりて、石狩岳を沢からアタックした。
●十勝岳より大雪山へ 徳永芳雄
なんと7月に十勝岳からトムラウシ経由黒岳までの縦走記録。予想に違わず、スマヌプリあたりでヤブこぎ地獄に。2週間の山行。5人+人夫1人
●漁岳とオコタンペ湖 河合克己
定山渓からまだダムのない豊平川を遡る10月。前年、この付近でタコ部屋(開拓の捨て駒にされた強制労働)脱走者と会った話もある。これは坂本直行氏の何か別の記録で読んだ覚えがある。「造材小屋で焚き火にあたっていると遠くに斧の響きが聞こえる」時代である。
オコタンペ湖から支笏湖に注ぐオコタンペ沢が函滝の連続で緊張する。その河口からは気の良い漁師の船をヒッチして丸駒温泉へ。そして千歳川河口まで2時間の船。ここからは王子製紙の軽便鉄道をヒッチして苫小牧へ。今とは全然違う原始の支笏湖周辺である。うらやましい。
●小さな岩登り 井田清
おそらく最古の赤岩文献。岩やルートの名は現代通っている名前は使われていない。おそらく西壁や東の岩峰の登攀を書いている。心情や、観念的な記述が多いが、当時の赤岩峠までのアプローチなど、周辺の様子は詳しく書かれていておもしろい。
●若き登山家の一小言 伊藤秀五郎
くだらない遭難と、登山をするなら避けられない危険とを混同する、世間の登山に無理解な人はあまりに冷笑的ではあるまいか?という、現代と全く変わらない社会状況にたいする考察。
友人大島亮吉の「アラインゲーエン(単独行のこと)に於いてこそ、自分は山登りの根本のものを感じる」に対する考察。
●旅・歩み・いこい 井田清
山と旅を巡る詩的な叙情文。
●山岳部の誕生 伊藤秀五郎
大正2年(1913)に出来たスキー部と大正9年(1920)にできた恵迪寮旅行部を両親に出来た山岳部の生い立ちを紹介している。スキー部はもとスキー登山をする部であり、旅行部は夏期の登山をする部だったが、どちらもメンバーは同じだった。大正9年(1920)あたりから部内でジャンプなどの競技スキーが盛んになり、やがてもとからの山スキー派が独立して山岳部を作るに至った。「最初から名前が山岳部だったなら、あとからスキー部が出来たはずである」という次第。山岳部誕生以前の時代に活躍し、発行直前に遭難死した板倉勝宣氏の功績や当時の人のつながりを詳しく述べている。
注・・スキー部の創立は公式には大正元年(1912年)。「北海道大学スキー部創立100周年記念史」 記念史編集委員会 平成24年6月2日発行による。1912年は7月30日に明治が大正にかわり、スキー部創設はその前後にあたる。文武会会報第67号(大正元年12月20日発行)には大正元年9月21日の委員会で正式決定された、とあるため。
年報(1926.11-1928.3)
写真11点、スケッチ4点(坂本直行)、地図3点
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