海外溯行研究
台湾の谷(1963〜1993)
2007海外溯行同人No.1溯行流程40キロ、溯行日数一週間、高度差3500m、両岸高さ数百mの函、大理石の豪快な滝、釜、滝、釜。こんな沢登りが日本でできるだろうか。未知の沢、凄い沢を追い求めて、ついに台湾にはまった、全国の沢キチたちの会、海外溯行同人の記念すべき報告書第一号である。沢が好きなら、読むべし。
台湾には、黒部や飯豊を何倍も深く、長くした谷があり、九州と同じくらいの大きさの島の真ん中から東半分はほとんどが山。標高3952mの最高峰玉山はちょうど北回帰線の上にあるが、雪の積もる高山だ。台湾山脈全体が、日高と同じ褶曲山脈で、プレートの押しくらまんじゅうで今もぐいぐい押し上げられているアツい島なのである。
同人代表の茂木完治氏らが台湾の沢を始めたのが1982年。80年代は茂木氏や清水裕氏らが所属していた大阪わらじの会と、関根幸次氏のいるわらじの仲間が中心になって台湾五岳(いずれも3000m級の名峰)の各沢を次々溯行した。これには荘再傳氏はじめ台湾の岳人たちの協力が大きい。台湾の山は台湾人の協力無しに入れないためだ。この間に交流を重ねて沢登りも台湾に根付きはじめた。
90年代になると台湾をねらいに定めたメンバーは全国各地から山岳会を越えて集まった。青島靖氏(チーム野良犬)、成瀬陽一氏(充血海綿体)、松原憲彦氏(AACH)を中心に、東面の未知の渓谷に精力的に溯行が成された。
そして1998年、海外溯行同人が結成され、より広く全国の沢好きを台湾溯渓、海外溯渓に巻き込むようになった。この一号はこの前半部分(茂木、関根時代)にあたる。続く二号で90年代の記録が見られる予定。
また1963年日本山岳会関西支部と1967年九州大学山岳部、1982年には大阪山の会がいずれもそれぞれのルートで最高峰玉山を登っている。その記録も収められている。
溯行記録は以下の16本
1982.8/14-17 玉山・沙里仙渓
1983.10/29-11/3玉山・沙里仙渓
1984.4/30-5/4雪山・七家湾渓
1985.4/29-5/5南湖大山・陶塞渓
1985.10/5-10/11関山・唯金渓
1985.12/29-1/5北大武山・隘寮南渓
1986.11/2-11/8大覇尖山・大安渓(下流)
1988.5/3-5/8大覇尖山・大安渓(上流)
1986.11/2-11雪山・大甲渓支流・伊下丸渓(高山渓)
1987.4/29-5/6台北近郊・南勢渓支流・扎孔渓左俣
1988.10/1-11玉山・楠梓仙渓(中退)
1989.10/5-8玉山・楠梓仙渓
1989.8/13-17奇莱主山北峰・塔次基里渓源流
1987.12/28-1/2北大武山・太麻里渓・南大武東渓
1991.12/30-1/6北大武山・太麻里渓・包盛渓
1992.12/25-1/3太麻里渓・北大武東渓
これに加え概念図と丁寧な溯行図で44p分。写真7p、巻末にメンバーの小文集あり。茂木さんの漫画5p付き。全記録の溯行図と写真が豊富な付録CD付き。A5版232p。発行は2007.6/23。
1987年の李登輝総統に変わるまでは、今の台湾からは考えられない厳しい政治体制だった。その困難な時代によく溯行許可などを得たものだと思う。荘氏はじめ、人のつながりが、これまでの台湾溯行の歴史を繋いでいる。
米山は海外溯行同人に98年から加わっていながら、未だ溯渓の機会を得ていないが、以前道ルートからの玉山、太魯閣渓谷のさわりなどを見、原住民族の老人の村を訪れた。台湾の山と人は世界中で唯一日本人と共有できる共通項を持っているのではないかと思える。懐かしく、一際大きい。
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・一般価格2500円(送料別)ただし五冊以上で送料無料。
kaigai_2007@ares.eonet.ne.jpに
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・ 申し込みを確認したら、出版局より金額(本代+送料)と振込先口座番号を知らせます。
・ 指定口座への振り込みを確認したら本を送ります。とのことです。
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今後は台湾その2,ニュージーランドやグアムの沢、韓国の沢など、まとめていく予定とのこと。
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『ganさんが遡行(ゆく)北海道沢登り三昧』
岩村和彦著 /共同文化社
全26ルート 初級中級
2100円
昨年夏に紹介した道内沢登り記録集の続編。今回も26本。山域は、I.道央積丹増毛夕張、II.日高、III.道南に絞っている。
ルートはすべて初級者向けである。しかし、これは経験者向けの本でもある。それは、地形図を見てこれはとあてを付け、情報無しで、現地で確かめた沢が沢山盛り込んであるからだ。この過程こそ経験者が共感する楽しみではなかろうか。
ガイドブックを見て行く沢登りはそのうち飽きる。本や雑誌に紹介されているハズレのない沢を一通り登ったって、何の自慢にもなりはしない。沢登りの喜びの本質は、行ってみなければわからないがおもしろそうな未知の沢を嗅ぎつけることであり、結果少々レアな山頂を踏めれば満足だ。この本ではトイレに地形図を持ちこみ、著者が嗅ぎつけ、実地で探り当てた粋な沢の数々が並べられている。この課程が、経験者向きたる所以である。経験者たるもの、日本百名山なんかにうつつを抜かしていてはいけない。地形図をくんくん嗅いで、「オレのライン」をどうデザインするかではないだろうか?
著者は巻末に「山のトイレを考える会」代表とあるが、「山をトイレで考える会」でもあるようだ。
収録ルート
I 道央・積丹・増毛・夕張山塊の沢
●蝦蟇沢→札幌岳●漁川→漁岳●発寒川→871林道●狭薄沢→狭薄山●ラルマナイ川→空沼岳●漁入沢→漁岳●大沢→風不死岳●豊平川本流→1128●幌内府川→余別岳●黄金沢→635●ユーフレ川本谷→芦別岳
このあたりは札幌から近いこともあり、学生の頃大方登った普通のルートだ。でももう昔のことなのでほとんど記憶に残っていない。いつか札幌周辺にでも住んだら老後の楽しみにでも取っとこう。山岳部なら1年班にお勧め。この山域にはサスガに新発見沢は無かった(大沢は知らなかった)。
II 日高の沢
●貫気別川南面沢→貫気別山●芽室川北東面直登沢→芽室岳西峰●額平川北カール直登沢→幌尻岳、戸蔦別岳●カタルップ沢→神威岳●リビラ沢西面→リビラ山●沙流川455左沢→1042●額平川400右股→苦茶苦留志山●パンケヌーシ川5の沢→1753●ウエンザル川北面沢→1073(宇円沙流岳)●コイボクシュメナシュンベツ川→十勝岳●シュウレルカシュペ沢→イドンナップ岳
・・・どうでしょう。山岳部によくある記録のパターンを完全に逸脱しています。どうせブタ沢だろう〜?と思って、挑むのをやめてこなかったか?ここに紹介してあるのはいづれも美しい渓相の沢ばかりなのだそうだ。貫気別やリビラは、この冬行ったばかりなので目を引いた。やはり、道から行ったんじゃあつまんない。良さそうな沢は無いか、良さそうな雪のルートは無いかと探す気持ちが共感する。苦茶苦留志山?おもしろそうだ。芽室の沢やカタルップなどは冬ルートのすぐ隣。気にしたことも無かった沢だ。
しかし、こうして探査した沢の中には、とても御紹介できないブタ沢も数多くあったことだろう。続編では「ブタ沢だけどこのレアピークに行くためにはこれを行くしかなかった!」という沢の特集をぜひ読みたい。
III 道南の沢
●鷲別来馬川裏沢→鷲別岳●泊川→大平山●浄瑠璃沢→冷水岳●松倉川→アヤメ湿原
道南在住者としては、日高のノリでの新発見沢を期待したが、それは僕たち住民がやるべきでしょう。札幌に住んでいると道南は遠い。僕も以前は全く関心が湧かなかった。しかし最近ganさんに加えHYMLの沢好き函館在住メンバーによってこれまであまり知られ無かった美しい沢の報告が相次いでいる。黒松内岳の沢や、大千軒の南の沢など。探せばまだまだあるものなのだ。
実はまだ松倉川に行っていない。函館ももう三度目の夏を迎えてしまった。今年こそは行ってみよう。
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書評・凍れるいのち 川嶋康男
柏艪社2006.12
1962年暮れからの大雪山で、北海道学芸大学函館校(現・道教大函館校)山岳部が遭難した。10人遭難、リーダー1人のみ生還。北海道山岳史上最悪の事故だった。これまで報告書以来語らなかったリーダー野呂幸司の45年経てのインタビューを元に野呂のその後の人生を含めたノンフィクション。巻頭カラー写真の市根井さんが野呂氏の同期とは初めて知った。
この遭難については、「北の山の栄光と悲劇・滝本幸夫著(1982・岳書房)」という本を現役の頃読んでいた。旭岳から石室へ降る尾根は金庫岩の所でしっかり磁石を見ていても迷いやすい。雪洞が崩壊して吹雪に投げ出されるイメージ。この二つは強く心に残り、山行の際の最悪想定のイメージとして常に持っていた。今回久しぶりにこの遭難の顛末を読んで、別の感想を持った。
この遭難の数々の過失を80年代の現役だった僕や、その後の山行経験を積んだ僕が検証するのは容易い。しかし、24歳の野呂が、それまでに築いたすべてを失って深い孤独にあった事、そこから這い上がるその後の人生は想像にあまりある。当時の函学大山学部は、函館東高校時代から高校生離れした登山経験を積んでいた野呂が、ハイキングクラブからの脱皮をさせて4年目、第一級の大学山岳部レベルにしようとしていた矢先の事故だと初めて知った。野呂が唯一人生き残ってしまったのは、仲間を見捨てたわけではなく、様々な消耗する仕事を尽くした最後に帰還できるだけの、ずば抜けた体力を野呂だけが持っていた事もわかる。
本書でわかるのは、野呂のその後の人生。両足首切断のあと鍛錬し、1984年のインスブルックパラリンピックで活躍するまでになった。そして別れた10人とのその後のつきあい。著者は原真の言葉を引用している。「二十代の山仲間との友情を、そのままの状態で長く保たせる事は実際には難しい。しかし、死んでしまった仲間には、そのようなわびしい思いは起こらない。彼らは、人生の白熱の時に死に、残された者の心に、決して老衰することのない青春の姿で生きている。彼らの思い出は、常に未来を感じさせる。死んだ仲間への悲しみは、時経るにしたがって親しみに変わり、時には羨望に変わることさえある。(頂上の旗・1988筑摩書房)」45年間黙ってきたというが、もちろん報告書も出ているし、なすべき事はしている。黙ってきたのは死んだ仲間の家族の為だろう。
野呂が樺太の知取出身で、引き上げ船泰東丸に乗りそびれたおかげでソ連に撃沈されずにすんだ話、五稜郭近くの引き揚げ者住宅に居た話など僕には興味深い。
最後に。ノンフィクションの手法なのかもしれないけれど、全体に会話体のセリフが多く、どれもリアリティーに欠けて興ざめする。山では皆そんなに喋らない。「旭岳から元気をもらったぞ」などという日本語は、当時は無かった今時多用されることばだと思うし、会話に関して少々創作しすぎの印象がある。山のドラマやノンフィクションなどを見て、足を突っ込んだ者としていつも感じる違和感だ。ただ、それは山と無縁の大多数の人にとっては些末な事かもしれない。この題材でノンフィクションを企画した著者が、45年間沈黙を守った野呂から取材出来た点を評価する。
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山わたる風
伊藤健次
2006.7.21
A5版1800円
山スキー部OB、同世代の写真家伊藤健次の写真文集。2002〜2004年、朝日新聞(北海道版)で連載していたものの再編集とのこと。本人からの年賀状で推薦してあったので買った。
写真の動物たちがどれも表情を持っている。木の穴の中であくびするテン、降る雪を見上げるエゾシカ、草の茎を振り回すリス、広い風景の中のエゾシカの群れにさえ表情がある。こういう絵はなかなか撮れる物ではない。山を登る技術あっての過ごす時間であり、過ごした時間あっての写真だと思う。
デルスゥ、劉連仁・・・。北海道の天然に身を置けば連想する人への感傷も共感できる。
画と写真の違いはあるが、串田孫一、上田哲農を思い起こす間があると思う。同世代の写真家が北海道の天然をテーマに良い画文集を出したのがうれしい。この10数年、僕が寄り道ばかりしている間に伊藤健次は確かな経験を積んで確かな言葉を手に入れたと思った。
同世代といえば、恵迪寮で同じ部屋だった佐川光晴が今回も芥川賞を逃した。賞は逃しても小説がおもしろければそれで良いけれど。
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『北海道中央分水嶺踏査記録〜宗谷岬から白神岬まで〜』
発行:日本山岳会北海道支部
2006.10.14
A5版188ページ/1000円
昨年貫徹した、日本山岳会の日本列島中央分水嶺踏破計画というのがあった。その一環、北海道支部の2004年から2006年にかけて2年半の記録集。宗谷岬から白神岬まで約1130km。201回の山行、延べ968人を掛けて繋いだ。編集代表の高澤光雄氏に部報14号の返礼に頂いた。
道のない部分がほとんどなので、冬季と残雪季が稼ぎどころだ。この割合も、踏破距離も北海道が全国でダントツらしい。当然ながらマイナーな稜線の貴重な記録が山盛りである。一回あたりの山行人数は一人の区間もあり20人近くの区間もある。メンバーをみると中心実働メンバーは10人前後。山行日数は長くて4日、殆どは日帰りか一泊でコツコツ繋げた。なるべく沢山の人が参加する趣旨なので、長期の計画で一気に稼げなかったという。
日本山岳会といえば近年は実際に山に登らぬサロン的印象が強かった。それは若手がいないからである。にもかかわらずこれだけの快挙を挙げているのは、長く山行経験を積んだメンバーが豊富な為であろう。このテーマは一見地味だが玄人向きでやりがいあるおもしろいテーマだということが、文章を読めばわかる。当人達の達成感はさぞや大きい物だろうと思う。経験豊かな熟年メンバーだからこそ価値を知り、貫徹できる良い課題を見つけた物だと思う。
これだけの大作戦なのだから、もっと若い世代も巻き込んでできれば良かったと思う。しかしそもそも今や広い世代を抱える山登り集団自体が存在しないのではあるが。日本山岳会がこれからどうなっていくべきなのか少し考えた。「最も伝統あるただの一山岳会」で居続けられるのは、今回の主力メンバーの世代で最後ではなかろうか。今後はフランス山岳会やドイツ山岳会のように、より公共性の強い、すべての登山者の為になる、日本を代表する山岳組織の役割を担う事を期待している。その意味で他団体の投稿など緩やかな参加を認めた「きりぎりす」を発行している日本山岳会青年部の活動に注目している。
以前から宗谷岬〜襟裳岬の踏破をライフワークにしていた日本山岳会北海道支部長にしてルームOBの新妻徹氏(1950年入部)自身が今回、率先して結構な区間を繋いでいる。日本山岳会北海道支部が北大山の会のように名実ともに「実際に山に登らぬサロン」となっていないのは、新妻氏のようにマジな山をやめない熟年登山者実働部隊がいるからこそであろう。
初踏査や顕著な記録などの歴史も盛り込んで全域を解説した高澤光雄氏によるパート、今は現役を退いた先達の、回想を含む寄稿文なども随所に添えて(野田四郎OB〈1947年入部〉の十勝大雪冬季初縦走回想もある)、単なる報告書以上のおもしろい本になっている。今後はオホーツク/太平洋の分水嶺、樺太の分水嶺も視野に入れているとか。期待している。
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書評・(新版)ガイドブックにない北海道の山々
〜私の全山登頂情報〜
著者:八谷和彦
印刷製本:アイワード(自費出版)
発行日:2006/12/12
定価:1470円
著者は、道内の標高1000m以上の全山登頂者。積雪期と沢遡行で、求める山頂の最もふさわしい季節とルートを選んで登る。紹介されている山が、絶妙のマイナー度だ。西クマネシリには登ったが、南クマネシリはちょっと・・・。とか、ポントナシベツは登ったけど、シューパロ岳はさすがに、とか、普通に登っていたら行かない、ちょっとはずした山ばかり。日高のリビラ山、ピラトコミ山、夕張の小天狗岳、道南はオコツナイ岳に利別岳、ああ、ここ数年内に静かに行こうと思っていた山ばかり。僕だって道内の山は山頂で数えたらこれまで132座登っているのだが、この本に紹介されている山頂で踏み憶えのあるのは紹介されている80座のうち、たったの3座だ。
山登りの一番おいしい所は、何が起こるかわからない所だと思う。新人は何から何までわからないのでこれはおもしろい。経験者は、予想が付くようになったようでやっぱり付かないところがおもしろい。この本の魅力は、この未知を味わう課程が100パーセントであることだ。
各山の構成は、「どんな山か」「登頂ルートの考察と研究」「記録」からなっていて、この登頂ルートを考察し、作戦立案のプロセスを読めるのがおもしろい。
10年前には、北海道の地味な山に登る人などあまり居なかった事だろう。著者はもちろん、長い間続けてきたのだが、こんな本が世に出て、価値を味わう人が増えた事を思い、今や北海道の登山者の志向の層は厚いと思った。
他のガイドブックにある山はわざわざ省いているという入れ込みぶり。前回出版(5年前)は1500部が完売したとのこと。部報14号の倍刷っていて。しかも出版社も同じです。
北海道にもまだまだ知らないピークがあるって事がわかる一冊。隠居するのはまだ早い。僕も同じ季節、同じルートでの計画をやっぱり考えていた利別岳に、今シーズンは行ってみよう。
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みなさま
お待たせしました。ようやく部報14号の発行日のメドが立ちましたのでお知らせします。これから印刷を始めまして、12月8日に出来上がります。その後連番のハンコをついて、10日あたりから発送を始めます。
早々にご予約を頂いた方、楽しみにお待ちしていただいた皆様に感謝いたします。これまでの編集に大きな励みとすることができました。
是非次号の部報15号に続けて行きたいと思います。今後とも北大山岳部の活動にご期待ください。
尚、11月30日までに部報販売サイトで予約注文していただければ、送料が無料です。12月以降は冊数と送付宛に応じて送料ががかかります。
部報14号編集長・大野百恵(1997入部)
『ganさんが遡行(ゆく) 北海道の沢登り』
岩村和彦著 /共同文化社
全26ルート 初級中級
週末の沢登りにいれあげている、サラリーマンのおっさんの道内沢登り記録集。
写真豊富な本だ。このスジの本は関西の「わっさかわっさか沢登り」などあったが、道内では初めて。というか道内のヤマ本は「登山大系」と「山と谷」しか無かったけれど。
沢を楽しむおっさんの情熱があふれかえっている一冊である。
北海道の山メーリングリスト(HYML)にはとてもたくさんの人が書き込みをしていて、一日に10や20のやりとりがある。Ganさんはその中でも沢派で知られ、山頂からは毎度一言メッセージが届くほどだ。入り込みやすく情報量の多い独自の文体である。細かな描写が豊富なのにさらりと書いてある。
ザイルを使わない難易度の沢が対象で、基本的に金曜夜発日曜深夜帰宅という制限内の週末休みを使うサラリーマン登山なので学生バリバリ沢族にとっては易しい沢が多いが、上述の既存の沢案内本からはこぼれた銘渓がまだまだあちこちにあることを知る。
著者ganさんとは、昨年夏、大千軒岳の山頂で初めてあった。知内川奥二股沢を登って山稜のお花畑で熊のうんこを踏んで登頂したら、いた。先行パーティーだった。登った滝の話などして別れた。その日、帰りの食堂で新聞を見たらganさんが山小屋のウンコ掃除している写真が載っていた。山のオーバーユース問題の解決に活動していた記事だった。人の多い山には行かないようにすればいいやと僕なんかは思ってかたづけていたが、社会との接点を尊重し、奉仕活動をする姿はやはり尊い。
https://aach.ees.hokudai.ac.jp/MT/archives/2005/07/000092.phpそれはともかく、沢をやめちゃったOB諸氏のみなさん、これを読んで復活の機会にしてみてはどうでしょう。日本の夏を楽しむには最高の遊びではなかろうか。
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サバイバル登山家
服部文祥著
みすず書房(2006.6)
服部文祥はいま岳人の編集部にいて、僕にイグルーで登る山(テントを持たずに雪山へ行こう)という文章を書くよう勧めてくれた。道具を持たずに山に行くと、体は自由になり、身に付いた体術と知識で山の中を渡り歩いていける。そういう喜びを実践した記録だ。夏はストーブ無しの焚き火で長期山行をし、冬はテントを持たずイグルーで登る北大山岳部の御同輩だ。共感する。
氏はこの思想をフリークライミングから得たという。たしかに言われてみれば納得だ。Freeという言葉が、「道具無し」という言葉と「自由」という言葉の2つの意味を持つことに納得がいく。「タダ」という意味もあるのがなかなか深い。
表紙はシャケを喰うクマみたいに氏がでかいイワナをつかみ食いしている衝撃的な写真だ。読んでみると蛙を喰う話が平気で書いてあり、オレにはちょっとそこまではなあ、などとも思うのだが、実はこれ、捌いたイワナの皮を、前歯でひっぱってむいているところなのである。つまり、お刺身にして文化的に食べようとしているところ。映像ってのは本当に刺激が強い。「前歯でひっぱると皮が簡単に剥ける」とあるので、僕もシメサバを仕込むときやってみた。これは便利、以後真似しよう。指でいじいじ剥くより早い。
いままで僕などは踏んづけて歩いていた草だが、食べられる草を紹介してあり、興味が湧いた。山が豊かであるほど、人は手ぶらで入山出来る。電源開発で固められると、サカナが減り、手ぶらでは飢える。クマの身になって考える事ができる。道具持ち込みで山に行ってはそういうことに気がつくまい。
「舌はうまいかまずいかを感じる器官ではなく、食えるか食えないかを感じる器官だ」に同意。
読書中、ちょうど3ヶ月ザックに入っていたチーズを発見(3月知床のあまり)。銀紙の下はカビだらけだったが、これを丁寧にオピネルで削いで、中の部分を食べ、舌で転がしてみた。凄く臭い家畜小屋のような臭いがするのにうまい。いつかヨーロッパで食べたクサクサチーズのうまみになっていた。こういうことを話すと人はイヤーな顔をするが、食えるものか食えないものかを自分の舌で判断できず賞味期限見ただけでポイするような者が、あの店はうまいだのまずいだの言うのは、おかしくて聞いていられないと僕は常々思う。
フンザで肉屋が牛の頭を石で叩いて殺し、肉を切り分ける様を書いた一文がある。最近「いのちの食べ方」(森達也著)という子供向けの本を読んだ。日本でもどこかの誰かが牛を屠り、うまく肉に切り分けてくれるから毎日肉を食べている。なのにその様子は世の中に知らされない。自分で殺生してこそ、食べ物をありがたく食べられる。
冒頭、3月下旬の知床単独行の最中、南岸低気圧の直撃を受け、テントをつぶされ雪に埋まって4日間過ごす一文から始まる。「いちばんやばい状況で、いちばん居てはいけない場所に、自分がいる。」あの稜線で低気圧を迎え撃った経験を共有する、仲間意識が湧いた。ただし僕は完全なイグルーで武装し、三日間の爆風に耐えた。外に顔を出せば、まるで滝壺に落ちたときのようにもみくちゃの暴風雪の三日間だった。テントなら死んでいる。
氏にイグルーの作り方を教えて欲しいと言われ、是非にと返事をしたけれど、まだ約束を果たせていない。
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梅里雪山・十七人の友を探して
小林尚礼著
山と渓谷社2006.1
1990年の京大、梅里雪山の事故は大変だった。C3の17人が雪崩と思われる遭難で突然音信不通になり、その場を誰も確認できなかった。戦前のナンガパルバットでもこういうことがあった。著者はその年少隊員の同期で、その後今日まで梅里雪山に関わって生きてきてしまった。僕とほぼ同世代の山好きだ。
80年代を山岳部で過ごした者にとってヒマラヤは憧れだったが、90年代の現実は変わり目だった。大学山岳部が目指す未知の山域は数少なくなり、高い山にはツアー登山隊が押しかけた。梅里雪山はそんな中で残った最後の秘境の山域だった。
著者はその数年後、再挑戦の隊員として山頂近くまで迫っている。ここまでは普通の展開だ。だがその数年後、雲南のヒマラヤの速い氷河が思わぬ速度で流れ、氷河末端で仲間たちが発見され始めた。遺体と遺品の収容のため、麓の村で長い滞在をするうち、チベット人たちの暮らしの中でいかにその山が大切に思われているかを知り、変わっていく。この本は、ただの山好きが成長していく過程を書いている。梅里雪山という中国語が「カワカブ」というチベット語に変わっていく。
巡礼旅行の途上、カワカブが見えたとき、吸い込まれるようにお祈りを始めたチベット人の仲間を見て著者は、「世界で始めてカワカブの南面の撮影をした」と喜んでいた自分を恥じた。「カワカブに登るのは、親の頭を踏むようなものだ」という麓の人の気持ちに少しずつ近づいていく過程が読める。
チベット南部や東部の山あいで、僕も長居をしたことがある。今の日本にいると人が祈る姿をほとんど見かけないが、ここでは「祈る」、「信じる」にはじまり「食べる」も「歩く」もみな日本と違う。登山隊として素通りするだけではもちろん、山頂を目指してやってくる北京や日本の人がそれを知るには時間が要る。著者が時間をかけてそれを理解していく様がうらやましい。
山好き、麓の人、それから遭難者の遺族それぞれにとっての大切なカワカブが描かれる。著者はカワカブのために写真家になり、霊峰カワカブと世界最深の峡谷地帯、それに雲南チベット族の貴重な暮らしぶりの写真が豊富に添えられている。
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