昭和期4(1941〜1946)について
歩み/有馬洋・葛西春雄/1941
Review/syowa4/ayumi.html
歩み/有馬洋・葛西春雄/1941 50 歩み 有馬洋・葛西春雄(ありまひろし・かさいはるお)/1941/私家本/316頁
故人の衣類を使った表紙
故人の衣類を使った表紙
カムイ岳(葛西撮影)、昭和13年1月6日冬季初登頂
メンバー:中野征紀、有馬洋、葛西晴雄
カムイ岳(葛西撮影)、昭和13年1月6日冬季初登頂
メンバー:中野征紀、有馬洋、葛西晴雄
ノート、葛西晴雄
序を書いたまま残された
ノート、葛西晴雄
序を書いたまま残された
木版、有馬洋
昭和13年3月北見の山を歩いた時の印象
木版、有馬洋
昭和13年3月北見の山を歩いた時の印象
内容
1940(昭和15)年1月5日、ペテガリ岳厳冬期初登を目指した北大山岳部員10名の内8名が、コイカクシュサツナイ岳直下で雪崩の為遭難死した。本書は遭難した葛西晴雄と有馬洋の遺稿集である。B6版、装丁は坂本直行OB、表紙に遺族から提供された故人の愛用した衣類が使われている。
葛西、有馬は、共に1934(昭和9)年山岳部入部、遭難当時は山岳部6年目、隊のリーダーであった。編集を担当した林和夫と星野昌平は、両氏と同期入部で、本書の出版の意義を「両者への友情の絆の一つになれば幸いと思う」と、出版の挨拶状の中で述べている。また、挨拶状の中で題名「歩み」の由来について、
「即ち進歩のある生活、前進、登高的な歩みがこの一遍に盛られるように心掛けた次第です。従って題にした「歩み」も追悼的な、歩みし跡の意味ではなく、もっと積極的な、之に続く歩みは吾々のこれからの一歩一歩だと言う生きた「歩み」の意味でつけました。多少幼稚に過ぎると思われるものも加えました。幼稚ではあっても誰しも通る真剣な歩みの一過程だと考えたからです。」
と述べている。
内容は、山崎晴雄先生による「序」、葛西と有馬による「ペテガリ岳―厳冬期における―」、葛西晴雄の遺稿「山の生活六年間」他17編の紀行・随筆、日誌、書簡、有馬洋の遺稿「ペテガリソナタ」、日誌、書簡、両者の登山略歴、弟らによる小伝である。最後に雪崩から九死に一生を得て生還をした内田武彦が、事件から2週間後に入営中の先輩朝比奈英三に宛てた書簡「遭難当時の模様」が掲載されている。
「ペテガリ岳―厳冬期における―」は、昭和12年1月〜2月に行われた第1次ペテガリ隊の記録を部報6号から転載したもので、「まえがき」を葛西が、「経過」を有馬が書いている。この隊は、特別参加の坂本直行OBを除く11名全員が予科生で構成され、極地法に似たサポーティング・パーティー形式を採用した。北大山岳部では過去に経験の無い稜線での幕営が必要なことから、テントが強風に耐えるよう新たに設計・製作し、十勝岳冬期合宿で性能試験を行うなど万全を期したが、稜線でテントが暴風に裂かれ、1599峰に到達したのみで敗退した。
葛西の遺稿「山の生活六年間」は、葛西が昭和14年暮の十勝岳冬期合宿、引き続いて行われたペテガリ岳計画の出発前に、過去六年間の山岳部生活を振り返る随筆をしたためようとして残したノートで、「序」以外は空白のまま残された。以下にその全文を紹介する。
「之から此処に誌さんとする私のたどたどしい随筆は過ぎし六年間北大山岳部員として暮して来た私の山の生活への思い出の日誌である。ただわけもなく山を憧れた頃、少しは山なるものに『疑い』を持ち始めた頃、さては山岳部の組織、現状への懐疑的時代、さらにその部を動かすの任に当たっての気持ち等、思い出すままに誌して見よう。或いは文体をなさぬかも知れない、自己宣伝になってしまうかもしれぬ、いや自らの下らなさを曝け出す結果以外の何者でもなくなるかも知れぬ。しかしそんな事はどうでも良いではないか。私が真面目な態度をもって、幼稚なときはそれらしく、その時々に感じ考えたであろう事になるべく忠実ならんと務めたならば、この拙文は自ら一人の人間の山への愛の息吹きとを示してくれるに違いないから。」
優秀なリーダーであった葛西にぜひ書き残してもらいたかった随筆である。
有馬の遺稿「ペテガリソナタ」は、予科2年夏ペテガリ岳に登頂した時の紀行で、予科旅行部部内誌“カール”3号に載せたものである。有馬は、冒頭でこの山旅について次のように述べている。
「今僕の山への心は全く夏のペテガリの思い出と二月のペテガリの思いで満たされている。辛かったペテガリの登り、カールの篭城、岳樺の尾根、コイボクサツナイのキャンプ、その下りに雨の中をへずった根曲がりの急斜面、総てはつらい、苦しみの連続であった。苦しいのを想像し求めて向かった我々だったが、実際の困難、つらさは余に大きなものであった。だが苦しみの度が大きなだけに我々の心に与えられた喜びも大であった。」
ペテガリ隊遭難の公式報告は、部報7号(昭和15年2月発行)に掲載されている。この中で雪崩の発生原因の究明に当たった石橋正夫先輩(昭和11年卒業、当時理地鉱助手)は、登山における馴れへの反省を込めて次のように述べている。
「彼らの平常の言行が示していた如く、あの様に雪崩に対して綿密な研究と周到な配慮とを怠らず、且又十勝事件以来特に敏感になっていた彼等が、しかも前回ペテガリ行の際、降雪があったので沢の下降を止め、迂回して郡境尾根を下った彼等が、何故に次第に危険を孕みつつあった沢を棄て、尾根に登路を変更しなかったろうか。
私はうつろなる札内川を、彼らの架けた橋を渡り、彼らの切り開いた道を幾度と無く往復しつつあった時、ふと今回のベースキャンプまでの前進に要された予定以上の日数と予想以上の労苦とがこうした結果をもたらしたのではあるまいかと思われ、又今日まで成された日高山脈の冬期登山の成功の多くが、或は甚だ特殊な好条件に恵まれていたのかも知れないにもかかわらず、次第にその危険に馴れて来たことが、斯様な貴重な犠牲を支払わしめたものではあるまいかとも考えられたのである。」
このパーティの遭難者では他に戸倉源次郎の追悼集が、1941(昭和16)年6月、父幸二氏により発行されている。戸倉は、1936(昭和11)年、山岳部入部、遭難時は山岳部4年目。追悼集の題名は「氷魂」、坂本直行先輩が挿画、装丁した文庫版の大きさである。内容は、一故児小歴、二遺文、三哭児小記、四故児生活断片、五山の道千首の内五百種、六追憶五百種、後記からなる。
表紙
表紙
見開き
見開き
五山の道は、息子の遭難後、父が読んだ山の道で始まる短歌千種から五百種を選定したものである。
「山の道千首の悲願逝きし児と合作なりと思い入りつつ」
六追憶から、
「永遠(とことは)に山ゆ往き往く吾児なり思出の国をせめて忘するな」
突然、児を失った親の悲しみがせつせつと胸に迫る。
「一月十一日南札内の空冴えて
“氷魂のほの三日月と磨かれてコイボクの峰にかかれる夕べ”」
山岳館所有の関連蔵書
北大山岳部部報6,7号/1938,1940/北大山岳部
北大山岳部部報7号/1940/北大山岳部
Kar/予科旅行部/1936/北大予科旅行部
氷魂/1941/戸倉幸二/私家本
霧の山稜/加藤泰三/1941
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霧の山稜/加藤泰三/1941 51 霧の山稜 加藤泰三(かとうたいぞう)/1941/朋文堂 /309頁
表紙カバー
表紙カバー
雪の上で
雪の上で
霧の山稜
霧の山稜
表紙
表紙
標高
標高
初冬
初冬
加藤泰三(1911-1944) 彫刻家、画家、登山家
東京本郷に彫刻家加藤景雲(1874-1943、高村光雲の弟子)の三男として生れる。1930年、東京美術学校彫刻科に入学、卒業後は東京府立4中(現都立戸山高校)の教員となる。石井鶴三(1887-1973、彫刻家・画家・登山家、日本芸術院会員、東京芸大名誉教授、日本山岳会永年会員)に師事しながら制作を続け、院展に入選するなど将来を嘱望された若手彫刻家であった。傍ら装丁や挿絵の仕事もこなし、短歌や詩も手がける多才の人だった。山登りは中学3年から始め、先鋭的な登山家ではなかったが、東京近郊の山々、北アルプスなどに登った。第二次大戦に応召し、33歳の若さで戦没した。
内容
第二次大戦で戦没した山好きな一人の若い彫刻家が残した画文集である。
冒頭の「雪原」から最後の「高湯だより」まで全部で55編。そのすべてが短文と画との組み合わせで、平易な言葉で書かれている事と、魅力的な絵がふんだんに盛り込まれているために、読みやすく楽しい。山岳書というくくりになっているが、山の事だけが書かれているのではない。仲の良かった姉とのやりとり、植物や昆虫をテーマにした散文や詩、教師をしていた中学校の生徒との交流なども含まれている。「序」に師の石井鶴三が、蒲柳の質であった泰三が北鎌尾根を登るまでになったことを喜ぶ文章を載せている。
紀行文には登山した月日や時間などは一切書かれていない。登山に対する気負いも無い。「どの山にいつ登った」のかは重要ではなく、純粋に「山が好きだから、好きな時に登る」と言う著者の姿勢が浮彫にされている。
復刻版が多く出版されており、昭和30年代に朋文堂から2回、昭和46年に二見書房から、平成10年度には平凡ライブラリーに収められている。時代を超えて愛されて来た本である。
「雪原」
空は蒼すぎて暗く、山は白すぎて眩しい。
影は濃すぎるのに透徹り、空気は新しすぎて生物のようだ。
雪面に明滅する無数の輝きはダイヤの七彩、
歩く僕を取巻き、両側に流れて僕を送る。
僕の真赤な筋肉の塊は、烈しく血潮を汲み高らかに僕の命を刻んでいる。
炭酸水に立ち昇る気泡のように、僕の胸に沸々と湧くものがある。 −後略−
「雪の上で」(写真参照)
雪山の何処に住むか
兎、木の根に住むか
雪の中何を食うか
兎、木の根を食うか
雪の上逃げて行くよ
兎、何処まで行くか
こちら向いて、一度お見せ
その顔を、走るさまを
雪の上で、僕に
「霧の山稜」(写真参照)
偃松の香に噎びつつ
霧疾き山を描きて
午たけにけり
「初冬」(写真参照)
今年また
冬めぐり来て
たたなはる
かの山々よ
雪ぞ光らむ
「標高」(写真参照)
歓喜と悲哀は等量である。
それは雨天に登っても、晴天に登っても、山の高さは変わりはしないと言う事位に、確かな事だ。
それなのに僕らは錯覚をする。
殊に悲哀の中に於いて錯覚をする。歓喜と悲哀は等量ではないと。
僕らは、結局晴天にだけ登っていては、山の深さを知ることができない。
雨の中で登りながら、僕らを勇気づけているのは、今、標高は求められつつあると言うことだけだ。
ああ、それだけだ。
それだけだ。
静かなる登攀/高須茂/1941
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静かなる登攀/高須茂/1941 52 静かなる登攀 高須茂(たかすしげる)/1941/朋文堂/184頁
表紙カバー
表紙カバー
新雪
新雪
高須茂(1908-1979) 登山家、ジャーナリスト、時代考証家
東京に生れる。大東文化学院(現大東大)卒業後、フランス語専修学校に学ぶ。15歳のとき、白馬岳に登ったのが登山の始めで、本格的には20才頃から始め、山旅倶楽部を主宰。「山小屋」「山」など終始山関係の雑誌の編集に携わった。戦時中は軍務に服し、戦後は1949(昭和24)年以来、「岳人」の編集同人として活躍した。登山技術書、入門書を交えて著書も多岐にわたっている。山への足跡も広く、登山技術にも長けていた。スポーツとしての登山を提唱、日本登山界の広がりを大きくすることを目指し、ジャーナリズムを通して発展させ、数多くの優秀な人材を育成した。
若い時から佐藤春夫に師事し、俳句、随筆に長け、また江戸時代の故事習俗の考証家でもあった。代表作「山河誌」は、北斎、広重、西行、ウェストン、寺田寅彦、播竜、本多平八郎、など様々な人が登場、それらがいつの間にか現代の山と密着するという興味の尽きない今昔余話である。
内容
本書は、高須が20代の頃に雑誌などに発表した作品が収められている。「穂高薄暮」「稲妻と蝶」「平行と交錯」「酸き葡萄」の4部構成の中に、59編の随筆、詩、短歌、俳句からなる。「序」で師であった佐藤春夫が、高須について次のように述べている。
「君は正に学東西を兼ぬといふべきである。また詩藻富み、吟詠の見るべきものも少なくない。しかし余の君に服するところのものは、必ずしもその好学の風と教養と詩藻の才華のみではない。その塵埃の気を絶した為人の自らに古の風あるを敬重し親愛するものである。」
後記で「私の登山には決して明るさもなければまた輝かしい理想もなかった。あるのは極地の空に明滅するあのオーロラのように虚しい光と影ばかりであった。」と述べているが、書かれているものは決して暗い影ではなく、若者の前向きな姿である。
「チムニーはすぐそこで終っていた。あと数メートルで、
湖水のように澄んだ、悲しいばかりの青空があった。
私は思はず微笑した。
私はザイルをひき、ジッヘルしている友に合図すると、―また
静かに登り始めた。」(幸福)
「今日は槍の頂上まで雨だ。―そんなことを富さんが言っていた。
軒の氷柱も落ちつくした。
梓川の流れに注ぐ雨のピアニシモ」(雨の日の上高地)
山岳館所有の関連蔵書
岩・氷・ランプ(J・コスト翻訳)/1938/朋文堂
榾火−山小屋随筆集/1943/朋文堂
登山講座−冬山、春山、夏山、秋山/高須茂・跡部昌三・諏訪栄蔵/1965-66
登山談義/1963/東京中日新聞
日本山河誌/1976/角川書店
単独行/加藤文太郎/1941
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単独行/加藤文太郎/1941 53 単独行 加藤文太郎(かとうぶんたろう)/1941/朋文堂/286頁
表紙カバー
表紙カバー
千丈沢俯瞰
千丈沢俯瞰
剣岳頂上にて
剣岳頂上にて
加藤文太郎(1905-1936) 登山家、製図技師
兵庫県浜坂町(現新温泉町)出身。浜坂尋常高等小学校卒業後、1919(大正8)年、当時の神戸三菱内燃機製作所に勤務しながら、兵庫県立工業学校夜間部卒業。1923(大正12)年頃から本格的に登山を始める。六甲山全山縦走など関西の山を数多く登り、1928(昭和3)年にRCCに入会する。この頃までに南北アルプスの主だった峰は、ことごとく登った。1928(昭和3)年頃から毎年、専ら単独行で日本アルプスの数々の峰に、エネルギッシュな積雪期の単独登頂を果たした。中でも1930(昭和5)年2月の槍ヶ岳冬期単独登頂、1931(昭和6)年1月、薬師岳・上の国〜烏帽子岳を10日間かけて縦走、1932(昭和7)年2月、槍ヶ岳肩の小屋から32時間連続行動をして笠ヶ岳往復などの成果により「単独登攀の加藤」、「不死身の加藤」として有名となる。1930(昭和5)年1月には東大山の会の剣沢遭難直前に偶然遭難パーティと同行した(B-17「銀嶺に輝く/剣沢に逝ける人々参照」。1936(昭和11)年1月、数年来のパートナーであった吉田富美久と共に、槍ヶ岳北鎌尾根に挑むが猛吹雪に遇い、天上沢に滑落して30歳の生涯を閉じる。遺稿集「単独行」には登山記録が総てまとめられている。
郷里浜坂町に記念碑と町立加藤文太郎記念図書館がある。小説(新田次郎『孤高の人』)やドラマのモデルとなった。
内容
北鎌尾根で遭難死した加藤文太郎の遺稿集「単独行」(私家本)は、関係者に配布されたが、その後1941年に朋文堂から再編集されて一般刊行された。26編の随筆と紀行からなる。読みやすい文章ばかりではないが、人には決して真似のできない体験が、本の中に生々しく脈を打っている。今なお、多くの登山者に読まれる由縁である。1973年、二見書房より復刻版が刊行されている。
「序文」でRCCの創立者であり、先輩であった藤木久三は、加藤文太郎について次のように述べている。
「がっちり組んだ四つ相撲―わたしは嘗て加藤君の山の登り方について、そういふ風のことを筆にしたことがある。実際加藤君はいつも正面から正々堂々と、「山」にぶつかって行った。その勇気、沈着、用意周到な挑戦ぶりは、まったく男らしさといふ形容に尽きていた。そして加藤君こそ、わが国登山史を通じ、身をもって「単独」の実践に偉大なる業績をのこした第一人者であった。---------そして加藤君のように、生まれながらの環境と資性から単独行に走った人は類が少ないと思ふ。この点加藤君はまったく生まれながら単独行者の風格を備えていた。そしてある意味では、真に国宝的な存在であった。」
冒頭の「単独行について」で加藤は、過去12年間の山行から確立した自分の単独行について次のように明確に規定している。
「------危険だから、危険でないとか、技量等をもって単独行を云々することはできない。単独行をしたい人こそ単独行をすべきであり、またさういふ人こそ単独行をなしうる第一の資格がある。-------単独行者よ、見解の相違せる人のいふことを気にかけるな、もしもそれらが気にかかるなら単独行をやめよ。」
「一月の思い出―剣沢のこと」は、剣沢小屋で田部、窪田ら東大パーティーと偶然一緒になった時の記録である。加藤は一足先に下山をして難を免れたが、東大パーティーの6人は、雪崩に小屋ごと押し流され埋没死した。加藤はこの遭難について、「一月のことを思い出すのは僕には耐えられぬほど苦しい。だがそれをどうしても話してしまわなければ、僕は何だか大きな負債を担っているような気がしてなりません。」と言って、遭難パーティーとの邂逅のいきさつを記し、自分の態度が悪かったので東大パーティーの気分を悪くした等と反省をしきりにしている。全体を読むと、加藤の非よりもむしろ、冬の山小屋に同宿しながら加藤を疎外する東大パーティーの態度に違和感を覚える。
山岳館所有の関連蔵書
単独行/加藤文太郎/1973/二見書房(復刻版)
山と雲と蕃人と/鹿野忠雄/1941
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山と雲と蕃人と/鹿野忠雄/1941 54 山と雲と蕃人と 鹿野忠雄(かのただお)/1941/中央公論社
表紙
表紙
見開き
見開き
昼飯に憩うブヌン達
昼飯に憩うブヌン達
弓琴を奏するブヌン
弓琴を奏するブヌン
鹿野忠雄(1906-1945)民俗学者、探検家
東京に生まれる。1924(大正13)年、開成中学卒業。幼い頃から昆虫採集に夢中となり、やがて昆虫の宝庫である台湾に憧れるようになった。一浪ののち設立されたばかりの台湾の台北高等学校入学。在学中は、台湾の山岳地帯をくまなく歩き回り、昆虫採集に没頭する。それぞれの土地で原住民たちと交流をもち、次第に彼らの文化に魅せられていった。1929(昭和4)年、台北高等学校卒業、1930年、東京帝大地理学科入学。1933(昭和8)年、同大学院進学。大学院生のまま、台湾総督府の嘱託職員となる。渋沢敬三(註)の援助を受けて、バイワン族、ヤミ族の調査を行う。調査の過程で氷河地形を発見、過去の氷河が台湾まで覆っていたことを証明する。1938(昭和13)年、ヤミ族の調査報告を東京人類学会で行い、好評を得る。以後、調査の興味は先住民族の言語学、考古学にまで及んだ。1942(昭和17)年、陸軍嘱託としてマニラに「比島先史学研究所」を設立。1944(昭和19)年、北ボルネオに民俗調査を目的に派遣されるが、1945(昭和20)年、現地で消息を絶つ。
内容
1930年頃の台湾の新高山(現玉山)を中心とした山行記録である。「自序」で出版の意図について次のように述べている。
「収めるものは数多い山行の中、台湾中部の新高山を中心とするブヌン族の領域の七の山行記録である。高校と大学時代に歩いたものであり、最後の「新高雑記」を除いて何れも当時書いた旧稿で、其の上日本山岳会機関紙『山岳』にかつて登載したものである。この様なものを此処に今更公表するのは恥ずかしくもある。然しそれらの山行は初登攀乃至新登路の記録を成すものであり、且同地方のブヌン族蕃人が最近理蕃政策により平地近く移住した現在、あらためて懐古的な意義を帯びるものである。」
新高山は、日本の植民地時代の名称で、現在の玉山(3,952m)である。ブヌン族は、現在中華民国政府によって認定されている14の先住民族の一つである。日本植民地時代は、高山に居住する先住民族を一括して生蕃人、あるいは高砂族と呼んでいた。台湾総督府は、警察官を先住民族の蕃社(村のこと)に常駐させ、徹底した威圧と指導を行なっていた。
冒頭の「新高南山と南玉山の登攀」は、1931(昭和6)年夏、台風をやり過ごす為、2週間を郡大渓に点在するブヌン族の村々に過ごしたのち、新高駐在所(標高3,090m、この様な山奥にも警官が常駐した)の警官とブヌン族を一人連れて、玉山、南山(現南峰3,844m)、南玉山(3,384m)を1日で踏破したときの記録である。
玉山を越えた尾根の上で、
「其処には見事なニヒタカビャクシンの樹海が広がって居た。その下陰に、ニヒタカフウロ、ニヒタカリンドウ、コダマギク、ニヒタカコケリンドウが、花咲いて、この高山の一角を飾っていた。--------それは確かに絵のように美しく、足を引き止める平和な情景ではあった。」
そして南山を経由して、岩場の通過に苦労しながら南玉山頂上に立つ。
「結局、南玉山の最高点は、三番目の頭であった。其処には静かな草の上に、灰色の雲が舞って居た。それは永劫な天地を思わせるものであった。其処には一抹の人の香も感ぜられなかった。
南玉山は、今まで未登攀の山だと聞いては居たが、正直の所、僕は何人かによって登頂せられては居ないかと心中穏やかではなかった(これに対して醜しと僕を責めるものあれば、僕は黙って叩頭するばかりである)。然し事実は、何人もこの聖なる頂に辿り着いた者は、無かったらしい。親しき山より遠く隔って居ることと、凶蕃の脅威は、この山頂を、千九百三十一年の今日まで、全く原始のままに置いたのであった。」
帰路は、自分のテリトリーに侵入した人間を見つけると、首狩りを挑む凶蕃ラホアレ一味(原文のまま)の襲撃に怯えながら渓を下り、その日の出発点である新高駐在所へ帰着した。
随所に民俗学者としての視点から先住民の起源、活動範囲、生活形態や山名の由来、登路などが述べられており、台湾の探検的時代の山を楽しむことができる。
(註)渋沢敬三(1896-1963)
旧子爵、実業家、民俗学者。東京帝大経済学部卒業。柳田國男との出会いから民俗学に傾倒し、三田の自邸の車庫に私設博物館「アチック・ミュージアム」を開設、多くの民具を収集した。収集された資料は、国立民族学博物館の収蔵資料の母体となった。多くの民俗学者を育て、また今西錦司、川喜田二郎、梅棹忠夫ら多くの学者が、海外調査に際し渋沢の援助を受けた。
北大理学部創設時の教員の一人鈴木醇教授(岩石学、鉱床学)とは旧制2高時代からの友人。
山岳館所有の関連蔵書
台湾の山/児島勘次/1934/梓書房
海外遡行研究‐台湾の谷(1963-1993)/茂木完治ほか編/2007/海外遡行同人
台湾山岳35/2001/洋書
台湾高山全覧図
開墾の記/坂本直行/1942
Review/syowa4/kaikon.html
開墾の記/坂本直行/1942 55 開墾の記 坂本直行(さかもとなおゆき)/1942/長崎書店/314頁
表紙(B6版)
表紙(B6版)
越年小屋(最初の小屋)
越年小屋(最初の小屋)
丘の下の谷地に咲いた黒百合
丘の下の谷地に咲いた黒百合
早春の放牧
早春の放牧
大雪の春(暮から降った大雪は5月になっても溶けなかった)
大雪の春(暮から降った大雪は5月になっても溶けなかった)
ニリン草とエンレイ草
ニリン草とエンレイ草
坂本直行(1906-1982) 登山家、開拓農民、山岳画家
1906(明治39)年、釧路に生れる。1919(大正8)年、札幌第二中学入学、入学後山登りを始め、同時に絵を描き始める。当時の二中は登山が盛んで、徳永正雄・芳雄兄弟、相川修(何れも山の会会員)などが活躍しており、直行さんの挿絵の入った内容のある旅行部部報「ヌタック」(1,2号)を発行している。1924(大正13)年、北大農学実科に入学、1926(昭和元)年、北大山岳部創立と同時に入部、道内の山々を精力的に歩いた。北大卒業後、東京の園芸会社に2年ほど勤務、その後北海道に帰った。1930(昭和5)年、北大の同級生で岳友の野崎健之助会員が広尾で経営していた牧場に誘われ、同牧場で6年間働く。同じ時期働きに来ていたツルさんは、のち直行夫人となり、終生直行さんを支えた。直行さんの処女作「山・原野・牧場」は、この時代の生活を描いたものである( 39参照)。
1935(昭和10)年秋、野崎牧場から独立して、下野塚の原野で念願の自力での開墾農業を始めた。原野での生活は、これから1960(昭和35)年の豊似市街へ居を移すまで続く。「開墾の記」は、入植後5年間の生活を描いたものである。
多忙な開拓生活ではなかなか山へ入る暇は無かったが、その間にも北大時代の仲間と冬の楽古岳、コイカクシュサツナイ岳−ヤオロマップ岳−8の沢−カウイエクウチカウシ山、第一次ペテガリ隊など、冬の日高のパイオニアとして立派な記録を残している。
入植から30年経った1965(昭和40)年、開墾生活に別れを告げて札幌に移り、画家生活へとスタートを切った。
直行さんの良き理解者であった林和夫会員は、直行さんの30年間の原野生活を次のように評価する(アルプ295号“日高の夜空に輝く星”より)。
「人間が真面目に営々と努力を積み重ねれば必ず良くなるのかと言えば、稀にそうでない場合もあることを、三十年かかって身を以って証しされたわけである。−−−−あの強健な身体と心、ユーモアと温か味のあふれた人柄、すぐれた画才と文章力などの本来的な能力に一層磨きをかけ、後年多くの人々を魅きつけた源は、この原野の時代に発している。直行さんの全ては、この時代に蓄積され、それが後年花開いたものと考えている。」
内容
本書は、1936(昭和11)年に入植した下野塚での最初の5年間の開墾生活の記録である。内容は、「まえがき」と「十勝原野 新しい生活への準備」「新しい生活 第一年目」「希望と現実 第二年目」「建設の戦い 第三年目」「雪、雨、霧、霜 第四年目」「百姓の未来 第五年目の春に」の6章からなる。
前作の「山・原野・牧場」の時代は(B-39参照)、激しい労働の明け暮ではあったが、施設の整った農場での生活には気持ちにも余裕があった。その時の牧場生活の充実感を次のように述べている。
「原野の物は何でも美しく、また楽しい物ばかりに見えて、それを絵にしたり、文にしたりすること自体、原野での生活から生れる予想外のうれしい副産物でありました。」
下野塚に25町歩の土地を得て、いよいよ入植の準備を始め,これからの生活を明るい希望と多少の気負いをもって冒頭の「十勝原野 新しい生活への準備」で次のように記す。
「海岸との間には防霧林として残された柏の大森林が横たわっていた。海までは半里程なので、荒天には遠い怒涛の響がこの山の中まで伝わってくる。景色は美しかった。しかし瘠薄な地味と冷酷な自然の所作に対する戦いは長年にわたるであろう。希望のすべては酪農にのみつながれた。−−−−
しかし私の目的への情熱は、来らんとするあらゆる困苦を乗り越えて、消えつつも細々と湧き出る泉の如く、遂にはおおらかにうねって流れる大河となり得るような希望を常に心に固く握らせてくれた。」
入植は、生活の為の掘立小屋建設から始まった。そして、その後に続いた開墾生活は、原野とのすさまじい戦いであった。それに立ち向かう直行さんのエネルギーと情熱、そしてそれを支えたツル夫人の献身にはただただ驚くばかりである。しかし、直行さんの人に抜きん出た知恵と学識と伝説的な体力をもってしても、生活の困苦から開放されることはなかった。
最終章「百姓の来年 第5年目の春に」で次のように苦しい現状について述べる。
「私はこれ以上書き続けることが出来なくなった。春の融雪は私に時間を与えてくれなかったし、石油とローソクの欠乏は、日没とともに私達を寝床の中に無理に押し込めたからである。しかしそれから二年後の大凶作は、恐らく私達の生涯を通じて特筆されるべき事柄でもあるであろうし、芋と大根で冬を過ごした生活は、私たちに尊い多くの経験と教訓とを与えた。
五月の播種時期が一番に暖かくて、それからだんだんに寒くなり、除草期に入って連日のガスと降雨で、盛夏の頃もストーブを焚いて暖をとった。日照時間の極度の減少と低温とは、収穫皆無に近い秋を私達にもたらした。−−−−
深刻な食糧難が、私達の生活を襲った。牛馬はようやく命をつないだ。一年間汗水たらして、高い肥料をただ畑に捨て、徒らに借金を増やしただけで、農家の困苦欠乏は極度に達した。」
直行さんの困苦欠乏の原野生活は、この後さらに25年間続く。
長崎書店主長崎次郎氏による“あとがき”に佐々(茂雄)教授と佐々(保雄)助教授の名が出てくるが、佐々教授は函館高等水産学校(旧北大付属水産専門部)の初代校長を務めた方。佐々助教授は、佐々教授の令息で当時理学部地質鉱物学科、のち同教授、山の会名誉会員、日本山岳会会長(1981-84)。長崎書店主が佐々助教授に依頼され、刊行に到った経緯を述べている。
長崎次郎は北大農学部学生時代、札幌の坂本家の家庭教師として出入りしていた。在学中にキリスト教の洗礼を受け、卒業後は出版社長崎書店を起こした。新教出版社のルーツである。
本書は柏葉書院(1947)、日本週報社(1956)、茗渓堂(1975)、北海道新聞(1992)から再版された他、没後発見された原稿を北海道新聞が1994年「続・開墾の記」として刊行している。
山岳館所有の関連蔵書
続 開墾の記 坂本直行/1994/北海道新聞社
原野から見た山 坂本直行/1957/朋文堂
蝦夷糞尿譚 坂本直行/1962/ぷらや新書
私の草木漫筆 坂本直行/1964/紫紅会
雪原の足おと 坂本直行/1965/茗渓堂
山・原野・牧場 ある牧場の生活 坂本直行/1975/茗渓堂
私の草と木の絵本 坂本直行/1976/茗渓堂
坂本直行作品集 坂本直行/1987/京都書院
坂本直行スケッチ画集 坂本直行/1992/ふたば書房
ヌタック1〜2号 札幌第2中学山岳旅行部/1928・1930
北大山岳部部報1〜14号 北大山岳部
北大山の会会報1〜103号 北大山の会
雑誌「山」(復刻版)1巻〜6巻 梓書房/復刻版:出版科学総合研究所
北の大地に生きて/2006/高知県立坂本龍馬記念館
日高の風 滝本幸夫/2006/中札内美術村
他
山麓滞在/岩科小一郎/1942
Review/syowa4/sanroku.html
山麓滞在/岩科小一郎/1942 56 山麓滞在 岩科小一郎(いわしなこいちろう)/1942/体育評論社/241頁
表紙
表紙
扉
扉
カンジキ各種
カンジキ各種
岩科小一郎(1907-1998) 民俗研究家、登山家
東京出身。山村民俗の研究者として知られる。柳田國男に心酔し、山と民俗の研究に半生を捧げた。長年、山村民俗の会を主催し、機関紙「あしなか」の編集に携わる。この雑誌は、昭和14年より現在に到るまで刊行が続いている息の長い雑誌である。カメラハイキングクラブ(日本山岳写真協会の前身)、東京山嶺会の創立に尽力する。特に秩父、大菩薩の山々を好み、著書に「大菩薩連嶺」がある。登山家であると同時に山村民俗研究の尖兵であり、登山と民俗学を結びつけた先駆者である。富士講研究家としても知られ、著書に「富士講の歴史:江戸庶民の山岳信仰」がある。
内容
山に登る時は必ず山麓に滞在して、民俗学上の調査に幾日かを費やして採集、整理した成果の中から28編のエッセイをまとめたものである。山人の話、山村の雨乞い、熊や猿や人間、天狗談義、カンジキ各種、焼畑と地名の関係、山名伝説、山の妖異・怪獣、浅間と富士信仰、大山参り、山の神々と山村民、山と英雄伝説、山名考、本さがし、山村の民家、山村民俗研究法など山の民俗の話が盛だくさん語られている。
著者は大変話し上手で、ユーモアたっぷり、面白いので思わず引き込まれてしまう。ああ、似たような話を子供の頃聞いたなと頷かされる昔話がなつかしい。
山岳館所有の関連蔵書
大菩薩連嶺/岩科小一郎/1959/朋文堂
山村滞在/岩科小一郎/1981/岳出版
あしなか 復刻版全9冊/山村民俗の会/1982/(株)名著出版
氷河の山旅/田中薫/1943
Review/syowa4/hyoga.html
氷河の山旅/田中薫/1943 57 氷河の山旅 田中薫(たなかかおる)/1943/朋文堂/334頁
表紙
表紙
(上)ヨステダールスプレ大氷河と巨人の住むという池、池畔に散在するのは氷河と岩盤の間の削磨を受けた丸石
(下)ルンダブレ氷河の凶暴な姿態
(上)ヨステダールスプレ大氷河と巨人の住むという池、池畔に散在するのは氷河と岩盤の間の削磨を受けた丸石
(下)ルンダブレ氷河の凶暴な姿態
西岳小屋から見た十月の天狗原圏谷―左方上部は南岳の尾根、右下は槍沢
西岳小屋から見た十月の天狗原圏谷―左方上部は南岳の尾根、右下は槍沢
田中薫(1898-1982) 地理学・経済地理学者、登山家
湖沼学の権威田中阿歌麿博士を父として、東京に生れる。東京高等師範学校付属中学に入学し、大関久五郎(1871-1918、明治-大正期の地理学者、日本アルプスの地形などを研究)に学ぶ。1924(大正13)年、東京帝大理学部を卒業後、欧州、米国に留学、現地の山々を調査、研究して氷河学に多くの成果をもたらした。神戸商業大学(現神戸大学)教授を長く続け、南北アメリカ、東南アジア経済地理学に貢献した。戦後、神戸大学山岳部長として幾度かの海外登山を計画、1957年には日本初のパタゴニア探検を行なう。神戸大学を退官後は、婦人の千代と共に田中千代学園の創立にあたり、副理事となる。
内容
氷河に魅せられた地理学者の欧米・日本の氷河・氷河跡を歩きながら綴った随筆、紀行集である。「氷河」他随筆5編、大政翼賛会の文化政策の一環として松竹が製作した文化映画「日本の氷河」制作記録3編、アルプス・北米紀行8編、エトロフ・台湾紀行などからなる。いずれも昭和初期から戦時下昭和17年までの作品である。
「序」で、著者が氷河学に入ったきっかけを次のように述べている。
「私は大正元年に、東京高等師範学校付属中学校に入学したが、そこの地理の先生は、その数年後、氷河学者として有名になった故大関久五郎先生であった。私は『山』より先に『氷河』について学んだと思う。大学時代に、故山崎直方先生や、辻村太郎先生の如き優れた氷河学者の教えを受けたが、氷河に対する不思議な憧れの心持は、やはり子供の頃、大関先生から植え付けられたものだと思っている。そんな訳で、私における『山』と『氷河』との関連は、学問的でなく、素人的であるが、寧ろ、主観的に深い物があると思う。」
山岳館所有の関連蔵書
大氷河を行く‐南米地理・パタゴニア探検/田中薫/1958/毎日新聞社
雪に生きる/猪谷六合雄/1946
Review/syowa4/yukini.html
雪に生きる/猪谷六合雄/1946 58 雪に生きる 猪谷六合雄(いがやくにお)/1943/羽田書店/508頁
表紙カバー
表紙カバー
山小屋の朝
転居先毎に5回小屋を建てたが、全て自作である。
山小屋の朝
転居先毎に5回小屋を建てたが、全て自作である。
アンサッツ
家族で作ったゲレンデで六合雄(左)と千春
アンサッツ
家族で作ったゲレンデで六合雄(左)と千春
猪谷六合雄(1890-1986) スキー指導者
群馬県赤城山の旅館の長男として生れる。小学生の頃、大沼でスケートを始め、中学に入ると油絵に熱中した。1914(大正3)年の正月、24歳の時にスキーを始める。スキー、ストック、靴、衣類、なんでも自分で作った。大正末期からジャンプに専念、次々とジャンプ台を自力で構築し、1928(昭和3)年には5つ目、50m級の大台を完成させた。翌1929年2月、この台を使って赤城ジャンプ大会が開かれ、折からスキー使節として来日中のヘルセット中尉らノルウェーの選手達(註1)が参加して50m超を飛躍、猪谷も46mを飛んだ。この大会の成功は、日本のスキー史の1頁を飾るものである。
この年、赤城山を離れて北海道から国後島へ渡り、1935年までの6年間を過ごす。その後、赤城山、乗鞍、志賀高原、八甲田山など、スキー環境に恵まれた土地を求めて、転々と居を変える。家族でスキー技術、用具の研究をするほか、独自のシステムで息子千春の英才教育を行い、オリンピックで活躍させた。千春は1952年、オスロ(ノルウェー)オリンピック大会で11位、1956年、コルティナ・ダンペッツォ(イタリア)大会では男子回転で2位に入賞、銀メダルを獲得した。この大会でトニー・ザイラーは、回転、大回転、滑降の3部門で金メダルを獲得した。,br>
1951(昭和26)年、志賀高原にパラレルスキー学校(プロスキー学校)を開設する。1969(昭和44)年、80歳でイタリヤ・ステレフセルヨッホで3000mの大滑降を敢行する。
内容
赤城山でのスキー修行、そして国後から日本各地へと雪を求めての放浪生活を綴った異色の人生記録である。
赤城大沼湖畔で旅館を営む家に生れたが、狭い山中に納まりきれずに妻の定と故郷を出る。北海道から国後島に渡り、6年間を過ごし、千春、千夏の二人の父となる。千春が長ずるに及んで、息子にスキーの夢を託し、英才教育に打ち込む。 小屋を大工の手を借りずにすべて自分で造り、藪を払い、岩を割って家族だけでゲレンデを作り、回転技術の研究、練習を行なった。
国後島へ渡る前、小樽に立ち寄り、秋野さん(註2)とベートーベンのレコードと蓄音機を背負ってヘルヴェチア・ヒュッテを訪ね、小屋生活を楽しんだ。
「しかしその御蔭で小屋では楽しかった。代わる代わる当番となって、昼も夜もかけて聴いた。私はその後もミサを聞くとヘルヴェチアを思い出した。この小屋は実によく設計されていた。北大の先生をしていたスイス人が作ったと言う話だったが、わずか七坪半の程の小さい面積なのに驚くべき収容力を持っていた。それでいて中々居心地も良かった。一方の屋根裏みたいな高い所のベッドを指して、あそこに、秩父宮さまが一晩お休みになったことがある、と秋野さんが話していた。小屋の周りの白樺の林も実にきれいだった。裏を流れてる小川の水は未だ冷たかったが、それで身体を拭いたりした。」
3泊の後、羆に出会ったときの闘い方などを話しながら、定山渓に下った。ヘルヴェチア・ヒュッテの宿泊者名簿には、6月12日―15日に秋野武夫、猪谷六合雄、定の署名が残っている。
(註1)ノルウェーのスキー使節
“札幌に冬季オリンピック用のジャンプ台を”、と言う秩父宮殿下の意向を受けた大蔵喜八郎男爵の寄附で、1932(昭和7)年、大倉山にジャンプ台が完成した。このジャンプ台の場所選定と設計は、大倉男爵の招きで1929(昭和4)年に来日したヘルセット中尉らによって行なわれた。
(註2)秋野さん
秋野武夫、小樽出身、ジャンプ選手。1936年第4回冬季オリンピック・ガルミッシュ・パルテンキルヘンにジャンプのトレーナーとして参加した。
山岳館所有の関連蔵書
私達のスキー/猪谷六合雄/1948/羽田書店
山なみ/朝比奈菊雄ほか/1955/茗渓堂
パラレルへの近道/猪谷六合雄・千春/1959/日刊スポーツ新聞社
大野精七の歩み/1981/大野精七先生伝記編集委員会
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