OBの山行記録・ 2005年2月14日 (月)
オロフレ山(1231m)記録
オロフレ山(1231m)
●2005年2月
オロフレ山
【ルート】
盤渓→西尾根→オロフレ山往復
【メンバ】
米山悟、斉藤清克、梶川耕司
【日 程】
2月12日
盤渓(12:30)→西尾根750mでイグルー(15:00)イグルー完成(16:00)
2月13日
イグルー発(9:00)→山頂(11:00-20)→イグルー(12:15-40)→盤渓(13:40)→オロフレ峠の遭難現場へ
●2005年2月
オロフレ山
【ルート】
盤渓→西尾根→オロフレ山往復
【メンバ】
米山悟、斉藤清克、梶川耕司
【日 程】
2月12日
盤渓(12:30)→西尾根750mでイグルー(15:00)イグルー完成(16:00)
2月13日
イグルー発(9:00)→山頂(11:00-20)→イグルー(12:15-40)→盤渓(13:40)→オロフレ峠の遭難現場へ
1990年に死んだ小松の追悼で遭難現場に集まる。札幌の斎藤と室蘭の梶川とでオロフレ山の西尾根を登って、山頂を踏んでから追悼会に合流することにした。
鉄道で伊達紋別へ。駅横のよろず屋でパンとピーナツを買う。梶川に拾ってもらって盤渓へ。僕は20年ぶりの再訪だ。鉄道は消え、小学校は自然体験施設に変わっていた。小学校横の林道を進む。ヒザ近くのラッセルだ。細いハンノキやカンバの急斜面を登る。タンネが全然無い。誰かが切ってしまったのだろう。
標高750mあたりでイグルーを作る。皆、慣れたものだ。三人ゆったり、壁も特厚の立派な物が1時間で出来た。一段目はマジメに踏み固めた大きく硬いブロックが必要だが、二段目以降は、表面の30センチほどのパウダー層をかき分けた下の、自然に圧雪された層を切るだけで軽くてまとまったブロックが出来ることを発見した。これは樹林帯では手抜きでいい手だ。立ち枯れの木を倒して焚き火。斎藤がアルミ製のジンギナベを持ち上げていて、塩ホルモンを堪能した。時折降雪、気温は氷点下ヒト桁くらい。
完璧なイグルーのため熟睡して7時起床、9時発。ゆるやかな樹林帯をヒザ下のラッセルで抜ける。時々ニレやイチイの大木がある。広い稜線に出ると風が強く、カンバも背が低い。下降点がわかりにくいのでデポ旗を三枚カンバに結ぶ。南へ右折し、ズボズボの強風帯を行く。視界は100m以下、結構な吹雪だ。カンバの影も見えず、ついに視界が50mを切った頃山頂。20年前はオロフレをカットしてホロホロ山にのっこしたので、初登頂だ。
帰りは強風の向かい風の中、目出帽をデストロイヤーにして磁石見てマジな下山。斎藤はほっぺたにシモヤケ。首尾良く旗を見つけ、樹林密度のやや高い尾根をシールはずして下山。育ちの同じ山岳部員同士のパーティーは、何かと手はずが良い。言葉に出さなくとも仕事運びが良く、心地よい。
下山後、札幌から来ていた澤柿、ディック、中村、野村、銭谷とオロフレ峠近くの遭難現場で合流、小松の里の秋田のうまい酒を捧げて、カメラーデンリートを歌う。
小松は雪庇踏み抜き、雪崩埋没で突然死んだ。前の瞬間までそんな予想もできないだろう一年生だった。僕も一年目の時、全く同じ失敗をしたのでわかる。山の怖さなんか全く知らない、登るのが楽しいだけの時期だ。生きていればまたいろいろ危ないこともあったろうが、まだ登っていただろうか。15年経って集まった面々を見て変わらないなと思ったろうか。皆まったく変わっていなかった。
風呂を浴びて、蕎麦食べて解散。僕は東室蘭駅から函館行き列車に乗る。
新しくコメントをつける