こくわ会から出た駒
北大山の会東京支部・木村俊郎(1950年入部)
昭和39年に小生、日本橋の本社に転勤になったある日の夕方電話がきた。「山ケンだが」という。電話番号は山の会の名簿で見たのだろうから、その時は40年代に入っていたかも知れないが。
電話は「今、銀座の近のレインボーグリルにいる。山の会の古老が集まっているから、出て来ないか」というものだった。
時間は少し早かったけれど銀座は会社のすぐ先なので早速ズッコケて出掛けてみた。行ってみると山口健児、桜井信雄、小平俊平、大和正次、福島建夫、他数人の古老が札幌から来られた渡辺千尚(ダブサン)大先輩を囲んでいた。
話は一寸横道にそれるが、渡辺先輩は幅があったので俗称ダブなのだが、面と向かってはダブとも言えないので「ダブさん」とよんでいたが御本人はルームノートなどには一寸バター臭く「ダブソン」とサインしていたそうである。
このレインボーという店は、昭和15年に「こくわ会」で盛大なパーティーをやった所だという。そもそも「こくわ会」とは、いったい何であろうとケゲンな顔をしていた小生に山ケン先輩が、とうとう語り出したのが以下の話である。
東京在住の会員が初めての会合をもったのは昭和7年、東京駅の待合室だったという。東京の大学山岳部OBは適当な会を作って山に行ったり集会などもやっている。北大のUターン組は東京に母体もないので、この時の人達が主になって以前集まっていたのが「こくわ会」なのだそうだ。
その名は、第3回の折に栃内先生が上京したというので銀座の千疋屋フルーツパーラーに集まった折にこの会にも名前を付けようということになり、栃内先生と面識のあった千疋屋のご主人が「北海道にはコクワというユニークな果物がある」と言ったことから、この会を「こくわ会」と呼ぶことにしたそうである。山の会の初期の会報にはこの名称が登場してくるので、これは事実であろう。
そして冒頭に述べたグリル・レインボーでの昭和15年の会合の折に「もはや北海道のコクワを強調することもあるまい」ということで北大山の会を名乗ることにしたという。
これが支部の始まりであろうが昭和40年頃の会合やスキーの会の通知状は「北大山の会」としていた。東京支部の名称が明確になったのは、山岳部創立50周年記念にカナディアンロッキー登山を東京支部として編成した頃からであろう。当時、会則を見直して会則の第5条に「支部をおくことができる」を確認、対処して「東京支部」の名称が定着したといえよう。
ともあれ支部の発祥ともいうべき「こくわ会」を知る第一世代、すなわち明治の香りの残る先輩は、既に東京にはおられないのではなかろうか。
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山を下りたら昭和の御世だった
北大山の会東京支部・木村俊郎(1950年入部)
山の会東京支部で昭和40年頃の中心的な長老は山口健児(山ケン)先輩だったといって語弊はなかろう。
その頃は支部の行事として穂高、剣岳、北岳などの夏山に出掛けたものだが、剣岳では台風の余波で前剣から退却して剣沢小屋での停滞となった雨の日、つれづれなるままに山ケン先輩の語る山岳部創立と当時は次のようなものだった。
大正15年11月に山岳部の発会式があった。先ずは冬季スキー合宿の計画が大きな行事だったという。候補地は新見温泉、小森五作、和辻廣樹の二人が現地の偵察までして決定したという。
12月22日早朝、札幌駅を出発、9時過ぎには蘭越駅に着き初心者をシンガリにして夕方には温泉に着いた。
合宿では三段山で風雪に逢ったり、スロープで快適に滑ったり目国内岳に登ったりと結構なものだったそうで、29日にワイスホルンに登る人たちと別れて蘭越の駅に戻った。
そして新聞を見たら「元号が昭和だった」という。
語り手の山ケン先輩はこの合宿でE班だったとの記録があり、部員章はNo.8である。
因みにNo.1は、時の山岳部長栃内吉彦教授である。蛇足ながら小生は同教授との面識はないが、初めて夏山でチロロ川を遡行して北トッタベツ、トッタベツ、幌尻へ登ったが、そのいずれだったかの頂上のケルンの下に埋められたマヨネーズの瓶の中に先生の名刺が入っていた。慎重に蓋を締めて埋め戻したのでシンマルを感激させた初代山岳部長の足跡は、今もあのケルンの下に残っているだろう。
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