東韃紀行(現代語訳)
教育社新書 原本現代語訳104(1981.1)
間宮林蔵著 大谷恒彦訳
200年前のサハリン島とアムール川下流域の探検記。東韃地方紀行、北蝦夷図説など、間宮林蔵の三部作の現代語訳がたったの1000円。残念ながら絶版。しかし古本400円で手に入りました。平凡社東洋文庫にもあり。間宮に関する解説パート、後世の科学で見るといかに間宮海峡の天候、海流、地形が近づき難いかを検証した章もあり、とても理解しやすい良書。
19世紀初め、間宮林蔵が、サハリンと大陸の間が海峡であることを確かめ、現地の民族、ギリヤーク人の案内で海峡を越え、黒竜江を遡り、清朝政府の出先交易所デレンまで行って帰ってくる話だ。北蝦夷図説という図解版には当時の図版が豊富に描かれている。わずか200年前なのに今はほとんどいなくなってしまったツングース語系の諸部族たちの、日常の姿が詳しい。子供を板に挟んで天井から垂らしたヒモで吊っておく習慣などおもしろい。皆、どこへ行ってしまったのだろう。
サハリン島が1905年に日露のあいだで分割されたとき、南北を分ける人工的な線が引かれたのは何故なのかこれまでわからなかったが、この本を読んで大体わかった。この線を境に南は樺太アイヌ、北はギリヤーク(ニブフ)やウイルタ(オロッコ)が住んでいて、両者は全然違う顔と言葉の民族なのだ。
北方民族たちの呼び名は、自称、隣の民族による呼び名、隣の隣の民族による呼び名・・・と、たくさんあり紛らわしい。が、彼らの愉快な風俗がおもしろく、ついつい全部詳しく憶えたくなってくる。
ニブフ(自称)=スメレンクル(アイヌによる)=ギリヤーク(ロシア人による)
ウイルタ(自称)=オロッコ(アイヌによる)
マングン(自称)=サンタン(アイヌ、和人による)、
ナナイ(自称)=コルデッケ(他称)=ゴリド(他称)=赫哲族ホーチォ(中国人による)、
オロチョン(ロシア人による)
ウデヘ
更に北へは、サハ=ヤクート、イテリメン=コリャーク、ユカギール、エベンキ=ツングース、エベン、ネギダール・・・言葉も文化もさまざまなこれらの人たちへの興味をひく。同じ民族が別のところで別の名を持つこともあり、ただ他者による呼び名が幾つかあることもあり。
アジア極東の彼ら消えゆく民族への最初の興味のきっかけは、黒沢明の映画「デルスウザーラ」と、その原作の「デルスウ・ウザーラ」(平凡社東洋文庫・アルセーニエフ著)だった。デルスウはナナイ人。デレンより、もっと上流のウスリー川右岸、シホテアリン山脈でのロシア軍探検家アルセーニエフの20世紀初頭の探検記だ。たき火も川もアムール虎もすべて「人」あつかいで生きるデルスウの「土人」ぶりには、坂本直行の描いたアイヌ老人「広尾又吉」の話に通じるものを感じた。間宮がデレンで会う清朝仮府の役人がこのナナイ人だ。
100年前のアルセーニエフの記録でも興奮したが、200年前の間宮の記録は更に興奮する。アルセーニエフとデルスウの、「探検家と案内人」の関係に対して、間宮の時代の場合は侵略者としての強い立場が無く、ありのまま、未だ無傷の異文化社会にたった一人で入り込んでいる点が貴重なのだ。立場としては非常に弱く、死と隣り合わせの自覚だったろう。
間宮の大冒険の神髄は、大部隊を率いて成し遂げたのではなく、またたった一人で成し遂げたのでもない。現地のこれら異民族と、出会い、慣れ、信頼を受け、協力を得るという行いによって成された。同時期にロシアやフランスの軍艦がサハリン西岸まで来ていながら、嵐の海で海峡を見つけられなかったのとは対照的だ。間宮は現地のギリヤークの協力で、小さなサンタン船一艘で目的を果たした。
関連の実物展示で、
先日函館市立図書館が建て直しになった。ここには収蔵品が多くあり、蠣崎波響の蝦夷夷酋列像など、頼めば見られるかと聞いてみたら、本物が見られるのは展覧会の時だけだそうで、複製が見られるだけとのこと。それでも大きいので見る価値はある。
函館市北方民族資料館では、サンタン貿易のサンタン服(清朝中国産)の展示を見た。ちなみに函館市立博物館にはウラジオストクのアルセーニエフ記念博物館と姉妹提携しているという旨の展示があった。ここは極東一の収蔵品だという。しかしパネル展示のみでいまのところ凄いものを見られるわけではない。今後に期待。
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コン・ティキ号探検記
T.ヘイエルダール著
水口志計夫訳
ちくま文庫
本屋の寂しい町に引っ越してしまったので、これまで家に買い込んだ本と、図書館通いが読書の糧だ。こういうときには古典に限る。というわけで、漂流記の古典中の古典を読みました。古典の良いところは必ずハズレが無いことです。久々に本屋で買える本の書評です。ここ数年の本で一番おもしろかった。
札幌から函館に向かう函館本線の列車で読んだ。
1947年。ノルウエイのトール・ヘイエルダールが、ペルーからバルサ材の筏でインディオ達が流れ着いたという学説を裏付けるため、自ら筏で南米沖からポリネシアに漂流した、その漂流記。
何より文章がおもしろい。村上春樹くらいはおもしろいんじゃないかな。いろんな人々やいきさつが、とてもコミカルに書かれている。こっけいに書かれてはいるが、一介の研究者がペンタゴンの兵站担当者やエクアドルの軍司令官やペルーの大統領に会見を求めて協力してもらう話をまとめていく様は凄い。企画力と、行動力も並はずれていたのだろう。この時代、世界はもっと探検に理解があったのかもしれない。
20mもある巨大ジンベイザメの顔がマヌケだからといって、6人みんなが指を指して狂ったように笑い転げるくだりなんかは最高だ。さまざまな生き物が筏を見物に来て、また別れていく。波濤を立てて進む船でしか海を渡ったことの無い人には気づかない、海水面近くの様々な生き物との出会いがおもしろい。クジラから、プランクトンまで。ヘイエルダールによれば、がさがさと森の中を行く者には何も見えないが、腰を降ろし、静かにしていれば様々な生き物の気配をすぐに感じることが出来る。それと同じだ。
出発前、船乗りは揃って危険だからやめろと言ったが、漂流の経験者はいなかった。筏が荒波に対しては水を逃がしてしまい優れていること、丸太を結ぶ縄が柔らかいバルサ材に食い込んで、まったくすり切れないことなど、誰もやったことがないからわからなかったけれど、多分インカの時代はこうだったという確信で実行し、どれも成功を実績で確認していくのが凄い。筏と船と、漂流と航海とは全く違う行いなのだ。
椰子の実、サツマイモの伝搬に関しても納得いく記述がある。水も何とかなるし、魚なんか放っておいてもトビウオが毎日筏に飛び上がってくる。そのトビウオをエサにマグロを釣る。シルクの網を引っ張って走ればプランクトンやちりめんじゃこをスプーンでもりもり食べられる。「餓死するなんて不可能」らしい。
昼も夜も、ただの漂流物になって海流に乗っていくと、大自然の猛威とはぶつからずに、筏の上の波のように、さっとくぐり抜けて、「それ」と一体になってしまうのだ。手ぶらの美学がここにもあった。
ヘイエルダールの学説は航海前は学会からまったく無視されたが、ポリネシア各島の「先祖は海の彼方から来た」の口承がこの漂流によって証明された。
函館本線は噴火湾沿いを長く走る。海の上を走っているようだ。夕方、海と空の色がどんどん変わっていくのを眺めながら読んだ。
コン・ティキ号探検記
T.ヘイエルダール著
水口志計夫訳
ちくま文庫
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高い山はるかな海―探検家ティルマンの生涯
J.R.L.アンダーソン (著), 水野 勉 単行本 (1982/11) 山と渓谷社
ヒマラヤ探検時代から黄金時代に活躍したイギリスの探検家、W.H.ティルマンの生涯をうまくまとめた伝記です。ティルマンの人生全体を俯瞰できて良い本です。
残念ながら絶版で、今度はさすがの北大山岳館蔵書にも見あたりませんでした。(追記:その後入りました)文庫本にでもならないものか。毎度絶版本の書評ばかりで恐縮です。「読めない本の書評シリーズ」これは新分野かもしれません・・・。
冬の黒部剣岳の登攀者、大阪の和田城志氏を訪ね、24時間近く酒を飲んだり風呂を浴びたりして(和田氏は住宅街の庭に手製の露天風呂がある)山の話をしたその中で、H.W.ティルマンの生涯をまとめたこの本を読めと勧められました。既に絶版、古本屋で買い求めました(インタネットは古書を探すのに革命的に便利になった)。
探検家シプトンと共に有名なティルマンは、戦前のイギリス統治下のヒマラヤ探検時代にガルワールの名峰ナンダデヴィに初登し、1938年にはエベレスト北面のアタックをわずかに残して帰還、戦後は中央アジア、ネパール、ビルマと空白部を歩き、50代半ばで高峰登山を諦めてからはヨットを使った遠洋航海+山登りを始め、パタゴニア、南極海、グリンランド、バフィン、シュピッツベルゲン・・・と80歳で行方不明になるまで探検を続けた。彼の最後の航海の船の名はアナヴァン(前へ)でした。
イギリス人だ!と痛切に思うのは彼の戦争体験だ。1898年生まれの彼は第一次大戦の西部戦線で奇跡的に生き残り、第二次大戦では探検家の名声を一切利用せず、40歳過ぎの「老兵」として過酷な空挺部隊に志願、アルバニアや北イタリアに降下してパルチザンと共にドイツ軍と実戦を戦った。戦争と聞けばどう逃げるかを考えるのが現代日本人の発想だろうが、ティルマンは戦争が始まると探検を切り上げて急いで帰国します。
時代の常識、イギリスという特殊国の事情、ご本人の資質などあまりにも日本のこの時代と違います。しかし、彼のやり方に深く共感しました。自分の体で背負える規模の遠征を良しとし、ノート用紙一枚で説明できないような計画を立てない。物資を持ち込まず現地の小麦を使って自分でパンを焼く。自転車でアフリカを横断し、小さなヨットで地球を縦断する。科学技術や組織ではなく、人の身体に付けられる能力だけを使って企画し実行し通しました。旅行、山旅は、装備を省き、主体的に、自分の知力、技能を最大限生かし切ってこそ価値あるものになるし、力も高まる。
僕もいつかヨットを始めるかも知れないと予感しました。ティルマンの人生を読んだだけで、自分の人生の先までが楽しみになり勇気が湧くという本です。現在日本では、ティルマンの著作は「ナンダデヴィ登頂」始めすべて絶版、この伝記さえも絶版とあっては全くがっかりだ。図書館で探せば、あるいは見つかるかも知れません。
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関東山地日帰り縦走ー36ルート集
北大山の会東京支部編
東京支部にて木村俊郎会員がリーダとなって続けてきた「OnrDayHikeが1冊の本になりました。
北大山の会会員へ特別価格でご提供していますので、ご希望の方は東京支部幹事までお申し込
み下さい。
本体価格 1冊1,500円
送料1冊290円、2冊340円、3〜5冊450円、6〜9冊590円、10冊以上無料
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ガッシャーブルム4〜カラコルムの峻峰登頂記録〜
フォスコ・マライーニ著・理論社刊1962
北大山岳館に蔵書あり
https://aach.ees.hokudai.ac.jp/MT/kensaku.php戦前、北大山岳部のペテガリ岳初登頂の前にイグルーを伝えたとされるイタリア人登山家のガッシャーブルム4峰初登頂記。
ガッシャーブルム4峰は、ガッシャーブルム山群の中で3番目の高さだが、一番格好良く、しかも難しい山だ。バルトロ氷河の突き当たりに、北斎の富士山をもっとデフォルメしたような凄い山が見える。「輝く壁」ガッシャーブルムの名はそもそもこの4峰につけられた名だったという。1958年、イタリア隊の初登の記録。メンバーにはリッカルド・カシンやワルテル・ボナッティーもいる。この年バルトロにはガッシャーブルム1のアメリカ隊、チョゴリザの京大隊もいた。ベースキャンプではチョゴリザを登って、前年遭難したヘルマンブールのピッケルを拾ってきた京大隊の桑原氏と、マライーニが日本語で挨拶をかわす下りもある。
著者のマライーニは戦前、京大と北大に留学し、アイヌ研究などで8年過ごした。そのときペテガリの冬期初登を目指していた北大山岳部員とイグルーの制作練習を重ねていた。1940年のコイカク沢の雪崩遭難には、遅れて入山したため助かっている。翌1941年コイカク山頂に作り、ペテガリ冬季初登成功に役立ったイグルーは、マライーニからAACHに伝わった技術だと高澤光雄氏の文で知った。(「山岳文化」2004・第二号)
昨年、91歳で亡くなったイタリア人マライーニは多才な人物だった。日本での留学のほか、チベット遠征もしていて、東アジアの文化、民俗を広く理解している。写真、記録映画もよく残している。1937年から45年までの憂鬱な時代だったろうが、日本のさまざまなものに愛着を持って理解をしているのがこの本からもわかる。
現地の民俗的、歴史的、地理的な説明と考察なども盛り込まれているので370ページもある。出会ったさまざまな人との会話なども丹念に書き込まれトーマス・マンの長編を思わせる冗長さも時にあるが、多芸多才なマライーニが感性を全開にして見聞してきたこの遠征隊の一部始終に、とことんつきあいたくなる。マライーニ撮影の写真が天然色で豊富に使われている。いずれも秀逸だ。バルトロの山と人は今と殆ど変わりがない。
(2005.9月)
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百の谷、雪の嶺
沢木耕太郎「新潮・8月号」
著名な沢木耕太郎が、山野井泰史の2002年のギャチュンカン登攀のいきさつ全てを書いたノンフィクションを読みました。その読書感想文です。
山野井泰史は同時代で最も興味深いクライマーだ。同じく才能あるクライマーの妙子夫人と奥多摩の古い民家に住み、お金のかからない暮らしをして、自分で稼いだお金だけを使って自分のやりたい山登りを自分の為に登る。正直に、登攀以外の事では(恐らく)葛藤少なく偉業を成し遂げている。
TVメディアは山野井をあまり取材できない。分かりやすい偉業が登山界から無くなって久しいが、山野井の山は誰にでもわかる世界記録ではないからだ。そして山野井も資金に困るほどの大規模な山登りをしないので、テレビで知られて、お金をもらう必要がない。でも取材ができない理由はそれ以上に、山野井と妙子が行く山は、取材者が付いていけない場所だからだ。テレビカメラが撮れる山は、本当の意味で困難な山の困難な瞬間ではない。だが文章表現の分野ではそれは可能だ。
沢木耕太郎は有名なノンフィクション、フィクションの書き手だ。ギャチュン・カンの壁に一緒についていったわけではないのによく書いている。話を聞いて、現場の麓まで行っての取材だけで、ここまで書ける沢木はさすがだ。文章メディアの羨ましいところでもある。
垂直の記憶 岩と雪の7章 山野井泰史 2004山と渓谷社
だが昨年山野井自身が初めて書いた「垂直の記憶」を読んでいる身には、沢木の文章は、山を登らない人に山野井の存在を知らせる効能を超えていない。沢木の、気負いのない言葉の選び方、並べ方は悪くない。だが山野井自身の文章が誠実で優れている。言いたいことを実によく理解できる。「垂直の記憶」が名著なだけに、沢木の今回のノンフィクションはそれほど新しく感じなかった。ネタが先にばれていた話で勝負するには、山野井の「垂直の記憶」が凄すぎた。
山に関わり合いの無い多くの人が沢木の名前でこれを読み、山野井の行いを知る。そして特に山に限らなくとも、自分の分野の中で、山野井的な人生を意識していくとしたらそれは楽しみなことだ。
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書評
ブロードピーク(8047メートル)
マルクス・シュムック著、横川文雄訳
1964・朋文堂
2005.6.9
ブロードピークの初登攀記を札幌の古本屋で見つけた。その後の再版は見かけない新書版だ。1957年、未踏の8000m峰はあとこのブロードピークとダウラギリ、GI、シシャパンマだけに残った時分とはいえ、この遠征隊は他と違う。たった四人のハイポーター無しで、8000の未踏峰アタックを成功させている。物量を投入した大遠征隊が常識だった当時としては、信じられないくらい画期的な計画を貫徹していた。1953年のナンガパルバットでは大遠征隊で出かけながら、最終キャンプからの標高差1000m、直線距離6キロを超えるアタックをたった一人で登って帰ってきたあのヘルマン・ブールがメンバーで参加しているのがうなずける。そしてそのブールは、このブロードピークの成功のすぐ後についでに登ったチョゴリザで雪庇を踏み抜いて死んでしまった。
ヘルリコッファーの「ナンガパルバット」にも、ブール自信の書いた「八千米の上と下」にも無い、ブールの人柄がこの本には書いてある。著者で隊長のマルクス・シュムックはその後のヒマラヤ記録に見ないが、ブールはじめメンバー達の生き生きした記述が良い。
ブールと最期の山を共にした最年少隊員だったクルト・ディームベルガーの、その後の長いヒマラヤ人生の、ごく初期の活躍記録でもある。ディームベルガーはこの史上初めての8000m軽装登山を皮切りに、現代に至るまでヒマラヤを登り続けている生き字引だ。
ヘルマン・ブールに別れを告げるくだりで、彼らが歌った「カメラーデンリート」の記述があった。北大山岳部では遭難者追悼の折りに必ず歌う歌だ。他で歌っている話を知るのは初めてだ。この時代のドイツ、オーストリア登山家の間では一般的な習いだったものを山岳部が受け継いだのだろうか。
このようなわけで、今はなき良書出版社の朋文堂がわずか一瞬、新書版でのみ発売した貴重な記録を、古本屋で、たった千円で手に入れられて幸運だった。
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AACH-MLで吉田さんが紹介されていた本,丁度私も読んでいたところでした.ちょっと私も一言書きたい気分になったので,がらにもなく書評というか感想を記したいと思います.(澤柿)
大学に入って本格的に山登りを始めるようになった十代後半から二十代前半にかけて,山岳書をむさぼり読んだ時期がありました.それらは,自分が育ち,歩き,そしてこれから目指そうとして夢見る山々で繰り広げられてきた登山界の栄光と悲劇の記録です.ことに,槙 有恒のアルプス登攀,板倉勝宜の遭難,AACKの創立とヒマラヤへの夢,加藤文太郎の単独行,冠 松次郎の黒部川溯行記録など,日本のアルピニズムの草創期のヒーローとも言うべき人々の著書や記録に夢中になったものです.
あれから10年以上がたちましたが,つい最近,山渓から出版された「芦峅寺ものがたり」(鷹沢のり子 著)を読み,久しぶりに良書に巡り会ったという気分になりました.実は,本書の中に記されているエピソードは,学生のころにむさぼり読んだ多くの山岳書にすでに記されてきたものであり,単純に読み流してしまえば,ああこの話なら知っている,と思ってしまうようなものも多く含まれています.たとえよく知っている話が多くても,私が生まれ育った富山の故郷の先人たちの記録がつづられていることでもあり,私にとっては思い入れのしやすい本ではあることは確かです.しかし,私が格別の感想を抱いたのはそれだけではありません.
それは,本書が,芦峅寺の立山ガイドたちの記録を掘り起こすことで,すでに多くの山岳書で語り尽くされた物語の別の側面をみごとに語り出しているからです.今この本を読んで,英雄伝とも称される数々の登山の影で,地味にも頼もしい存在として立山登山を支えてきた芦峅寺のガイドの物語に触れ,新たな感動を覚えると共に,学生時代に感化された物語をもう一度別の面から楽しむことができました.
逆に,面白く刺激的な登山をしてみたいものだと志をいだいていた血気盛んなころは,故郷の立山や北海道を舞台に繰り広げられたヒーロー達の物語に士気をかきたてられましたが,それはある種のヒーローへの憧れでもあり,ガイドの雇い主であるいわば主人公としての視点で,あるいは主人公に自分を投影して読んでいたことになるんだなあ,と思い返すことにもなりました.この,主人公への共感から脇役への共感という,私の読み手としての感想のコントラストは,田舎から北大に来て登山に意気込んでいた若気の気持ちと,職に就き妻子を持つようになって故郷を思い返す今の気持ちとのコントラストにも相応するように思えてきます.
最近の現役は,古い話にあまり興味をもたないようだという話をよく聞きますが,学生のうちにまずオーソドックスな英雄伝や定番と呼ばれる古典を読んでおくといいと思います.そのうち,もう一度別の意味で物語を楽しませてくれる機会に巡り会うかもしれませんから.本書は逆に,そういうプロセスを経てから読んだほうがずっと楽しめる本だと思います.事実の物語には,ひととおりの語り口では著せないほどの多くの側面があるということなのでしょう.
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