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2024-11-2 14:45
ヤマレコAACH
今季もよろしくお願いします
半年ぶりのイグルスキーです
2024年は、春、定年退職して自由になりました。イグルスキーはイグルーとスキーを使った長期山行が大好物です。60歳なので長期山行の重荷で登る力には時限があるとは思いますが、代わりに自由な時間を手に入れました。これまで計画してきた地味山域の長期山行ラインを実践していきます。単独が好きなわけではないのですが、予定が合う人はなかなかいないと思います。
前回のブログは信越国境長期計画を「入山延期」と中途半端に終っていました。その後出発しましたが、暖冬&雪不足で、というか時期が半月遅くて、後半部分の熊笹藪藪エリアを前に下山しました。雪の溶け目が山行の切れ目になってしまいました。一気に行くのも美学ですが、後半は湯沢からこの冬出直したいと思います。未踏のビッグピークスです。前半の森と湖の志賀高原深部は凄く良かったです。記録は以下を御覧ください。
山行記録: 《上信国境》横手山 志賀山 赤石山 大高山 野反湖
2024年04月25日(3日間) 志賀・草津・四阿山・浅間, 積雪期ピークハント/縦走 / yoneyamaの山行記録
4月25日の残雪期ですが、こんなふうにキチッキチのキトラ古墳みたいなやつも苦労なく作ります。でも気温が高くて、夜中に屋根は溶け落ちてしまいました。On April 25, during the late snow season, I was able to easily create a tight, precise structure?like the Kofun tombs at Kitora. However, due to the warm temperatures, the roof melted and collapsed overnight.
2024夏の報告
夏の間は沢ルートで信州の未踏名峰をいくつも満足行くラインで登りました。茶臼山(中ア)などは木曽の奈良井宿から、いにしへの峠3つ越え山間集落巡って奈良井川源流の一滴を吸って登りましたし、経ヶ岳も木曽義仲の隠し砦の残り香プンプンの横川渓谷から。
「越境」テーマで鬼面山、錫杖岳、虫倉山、守屋山、三才山越え、山岳部若手との山行で甲斐の笊ヶ岳と、未踏の気になる山頂を独自ルートで辿り、満足の夏でした。ただ、お盆や連休の、仲間との3〜5日間沢山行のような長尺山行を、体調の不良で2度もスッてしまいました。残念。山行は結果的に初夏と晩夏に集中、猛暑の期間は完全に登山欲も失い読書に励みました。以上の山行記録、詳しくは下記です。
山行記録一覧 [イグルスキー米山さんのHP]-ヤマレコ
今季のイグルー講習
今季のイグルー講習、ちらほらお問い合わせをいただいています。ありがとうございます。グループ希望の2月、3月はすでに一杯になりました。個人〜数人の希望であれば、今年も松本市山岳フォーラム主催のイグルー講習会を開催いたしますので、そこへの参加でお願いいたします。日程は2月15日(土)と3月8日(土)に予定しています。まだフォーラムでは募集していないと思いますが、始まったらここでもお知らせいたします。講習は土曜日1日ですが、そのあと各自で泊まったり、登ったりもできます。会場については、例年通り松本市の乗鞍岳スキー場で希望ですが、先月のニュースでは今季のスキー場営業見合わせとも言われ、いやいやなんとか実現にこぎつけそうとのニュースもあるようなので現在は未定です。
イグルー「講習」に適した条件
積雪30センチあればイグルスキーはどんなところでも作って泊まる自信がありますが、講習会となると、全参加者に完成させてもらいたいし、近接した場所で10〜30個作れる、積雪量も締まり方も適した十分な環境(標高の高いところ)が欲しい、それに講習に時間を割きたいから、なるべくリフトなどでアプローチに時間短縮を図りたい。雪山経験未知の参加者が対象なので、なるべく山奥ではないところが望ましい、などの理由でスキー場終点の近くになります。また、スキー場によっては登山者の出入りや周辺の宿泊に関して規制の強いところもあり、その条件で場所を選んでいます。乗鞍岳や五竜遠見尾根のスキー場はその点いつも好意的で助かっています。講習ではそういう場所を選びますが、実践する際はわざわざスキー場の近くじゃなくて、人の通らない場所が良いと思いますよ。ぜひぜひ自分だけのイグルー天国ラインを実践してください。
では、今季もよろしくお願いいたします。
Back to the Igloo and Ski Adventures After Half a Year
In the spring of 2024, I retired and gained my freedom. Igloo and ski-based extended mountain trips are my absolute favorites. Now that I’m 60, I know there’s a limit to how much weight I can carry on long journeys, but in exchange, I’ve gained free time. I plan to tackle some lesser-known mountainous areas, putting into action the long mountain routes I’ve been mapping out. It’s not that I prefer going solo, but finding people with matching schedules isn’t easy.
My last blog post left off on a “postponed departure” note for a long expedition along the Shinetsu border. I eventually did set out, but the mild winter and snow shortage?and being about two weeks late?led me to descend just before the dense kuma-zasa bamboo area in the second half. The snowmelt marked the end of the trek. Although there’s a certain satisfaction in completing such a trip in one go, I’d like to tackle the second half starting from Yuzawa this winter. There are still some untouched big peaks left. The deep forest and lakes of the Shiga Highlands in the first half were absolutely stunning. For records of the journey, please see the details upper link.
Report for Summer 2024
During the summer, I successfully climbed several unexplored peaks in Shinshu via valley routes. For instance, I ascended Mount Chausu (in the Central Alps) by traversing three ancient mountain passes and visiting mountain villages from Narai-juku in Kiso, absorbing a drop from the headwaters of the Narai River. I also climbed Mount Kyogatake from the Yokokawa Valley, which still carries the scent of Yoshinaka Kiso’s hidden fortress.
With the theme of “cross-border,” I tackled Kimenzan, Shakujōdake, Mushikura Mountain, Moriyasan, and climbed over Misayama. While hiking with the younger member of the mountain club, I followed unique routes to intriguing, unexplored summits on Zarugatake in Yamanashi prefecture, making it a satisfying summer.
However, I regrettably had to cancel two long multi-day valley trips with friends during the Obon holiday and extended weekends due to health issues. Unfortunately, the climbing activities ended up concentrated in early and late summer, while I completely lost my desire to hike during the extreme heat, instead focusing on reading. For more detailed records of my climbs, please see upper link.
This Season’s Igloo Workshop
Thank you to those who have already reached out about this season’s igloo workshop. The group sessions for February and March are fully booked. For individuals or small groups interested, we will once again be holding igloo workshops hosted by the Matsumoto Mountain Forum this year. The sessions are scheduled for Saturday, February 15, and Saturday, March 8. I don’t think the forum has started taking applications yet, but I’ll post an update here once registration opens. The workshop itself is a one-day event on Saturday, but participants are free to stay overnight or go hiking afterward. As for the location, we hope to hold it at Norikura Ski Resort in Matsumoto City as usual, but recent news mentioned that the resort may suspend operations this season. However, there are also reports suggesting they might still open, so the venue is currently undecided.
Conditions Suitable for an Igloo “Workshop”
With 30 cm of snow, I’m confident I could build and stay in an igloo anywhere, but for a workshop, I want all participants to successfully complete their own igloo. Ideally, we need a place that can support the creation of 10-30 igloos in close proximity, with enough well-compacted snow in a suitable high-altitude area. Additionally, since we’ll be focusing on instruction, it’s helpful to have a lift for easier access to save time on the approach. We also prefer locations that aren’t too remote, as the workshop is open to those new to winter mountain conditions. For these reasons, we usually choose areas near the upper ski resort stations. Some resorts have strict regulations regarding mountain access and nearby accommodations, so we select locations that meet these requirements. Norikura and Goryu-Toomi ski resorts have always been supportive in this regard, which is very helpful. While we choose accessible locations for the workshop, when you’re practicing on your own, it’s best to find a spot away from people, rather than near a ski resort. I encourage you to create your own “igloo heaven” line!
Looking forward to another great season with you all!
2024-10-19 1:20
ヤマレコAACH
前穂東壁Dフェース〜屏風岩東壁
前穂東壁Dフェース〜屏風岩東壁(フリークライミング/槍・穂高・乗鞍)日程:2024-10-11〜2024-10-14メンバー: gt2010 Takenaka2017コース状況/その他周辺情報:前穂A沢は落石の巣屏風岩T4尾根付近は落石注意写真:奥又白1p目フォロー竹中シェフ2p目ビレイマッス崩壊地帯東壁DフェースA沢T4尾根取付き3p目終了最終支点前穂東壁朝2p目クラック前穂東面北尾根方面屏風岩パノラマコース分岐感想:今回はGTー竹中、羽月ーマスダの2パーティによるOB岩合宿になった。我々チームGTは前穂東壁Dフェースを登った。◯前穂東壁Dフェース都立大ルート1p:ペツルボルトが1本ある地点からスタート。湿った草付きやヌメヌメしたホールドスタンスに気を使いながらフリーで登る。25m程度。GT2p:スラブに入ったフィンガークラック。このピッチを楽しみにしていたが、草と泥がぎっしり詰まっており本格的に掃除しなければフリーで楽しめる感じではなかった。竹中と交代してGTがエイドでハング下まで。15m+。 GT3p:右へ高度感のあるトラバースを続けて行くと逆層積み木状の赤茶けたボロボロの岩質になる。崩壊中の岩場に入り込んでしまった感じだ。どうやら途中から凹角を直上するのが正解だったらしい。ギアを使い果たし残置リングボルト3本を入念にチェックしてビレイ。30m程度 GT4p:崩れそうな足場に気を使い、カムで固めどりしてからハングを越える。易しい凹角に入るが、大きな不安定な岩がゴロゴロしている。1・2峰間リンネへ出る。GT竹中はデナリの後遺症なのか、「うわあ!」「◯ねる‥」「終わってる‥」等終始つぶやきながらフォローしていた。居候先の霊媒師お婆さん?から霊気を吸われてしまったのか…ガスに包まれた前穂ピークで休憩していると、雪、アラレが吹き付けてきた。天気が崩れたお陰か、ライチョウの家族に遭遇し撮影会になる。A沢の下降点でマスダPと合流する。A沢は落石の巣なので4人まとまって下降した。びしょ濡れになって奥又白に帰着するが皆充実して嬉しそうだ。3日目はのんびり屏風岩へ移動した。この時期はカツラのあまい香りが心地良い。T4テラスでビバーク予定だったマスダPはT4尾根取り付きで落石に遭ってしまった。連休中日なので人気の雲稜ルートを下降するパーティが多くいたようだ。自分たちは最終日に屏風岩東壁フリークライミングの下部だけ登り、下降した。東壁は午前中よく陽が当たり半袖でも暑いくらいだった。徳沢園のソフトクリームの味を現役に教えてあげたいものだ!
2024-10-15 3:14
ヤマレコAACH
《諏訪伊那郡》茅野駅【諏訪大社上社・守屋山】辰野駅
《諏訪伊那郡》茅野駅【諏訪大社上社・守屋山】辰野駅(無雪期ピークハント/縦走/甲信越)日程:2024-09-25(日帰り)メンバー: yoneyamaコース状況/その他周辺情報:守屋山の西側は完全にバリルートなので、地形図を読める人のみ。写真:農耕放棄地が遠くに見える。トンボの向こうは木曽山脈守屋山最高点後山集落に降りていく。中腹の緑の葺き屋根が登る神社。分杭平、突然ファミリー鉢盛山と穂高田んぼの畔に腰を下ろして休む、よく歩いた。沢の中で古いケルンあり諏訪大社上社本宮。諏訪大社は上下それぞれに、本宮前宮、春秋とあって4つもあるんだよヒコバエかな、放射状ブナの木オフネ古墳。5世紀とのこと。坂を降りたらお地蔵さん広場甲斐駒〜北岳〜仙丈ヶ岳と中ア後山への下降路、踏み跡はかすか。赤テープは連打してある。裏山の杉林、深淵東峰より穂高〜鉢伏山すすきと、麦みたいな変な草原東峰直下の樹林の切れ目から空神社裏から踏み跡は確か牛首尾根から諏訪湖を遠望傘が特大権益域を過ぎると看板がなく静かになる。甲斐駒北岳仙丈ヶ岳傘が特大いきなりこれじゃあ、素通りできない入山禁止の看板が10mおきに並ぶ沢底集落からは木曽山脈が見える稲刈り機が動かないのか?トリカブト蓼科山〜八ヶ岳人影がない風情ある民家諏訪湖と美ヶ原空木駒ケ岳茶臼経ヶ岳最高点は腰掛け多し。左奥に倉庫のような避難小屋が見えるトタン屋根の上にヒノキが根を張る。稲刈りまっさかりだそばかな。人影なし門をくぐる山越えして降りていく途上のハイオク茅野駅坂の上より守屋山方面まだ細い天竜川をわたる 木曽駒と空木が見える登山道、さがしまくってここだった本宮の拝殿長い廊下はざ掛け終えている。これをやるの大変なんだ。集落を見下ろす神社。屋根は手入れされている。中央道をまたぐ橋の袂から辰野の町見下ろす東峰より鉢伏〜美ヶ原〜霧ヶ峰弓と鎌と丸石急登に巨大カヤの木守屋神社 奥宮だ。沢底集落の公民館前広場怒りが食い込んでいる守屋山最高点広い芝刈地跡に出た脇の杉が太いケヤキも太い沢底集落が見えてきた感想:諏訪大社御神体の守屋山だから、里宮から登りたかった。昨日から突然猛暑の夏が終わり、低山シーズ入り。松本から朝一番列車で茅野駅、ここは穂高連峰が見えるんだ。坂下って巨大傘地蔵を二度見して大社本宮へ。ここへは初めて来た。木曽義仲の軍資金を提供し、平家打倒の信濃武士団の後ろ盾になった諏訪族の要。信玄もここを行ったり来たりしたものだ。神社裏手の道がわかりにくい。矢印看板が変な方を向いていて、探した。道も余り踏まれていない。周辺からの守屋山への道はいくつもあるようだが、地元では一番南の道を推しているようだ。理由は行ってわかったが、きのこ盗掘が多く、この辺りからは登ってほしくないようにみえる。中腹の、林道から近づきやすいあたりには、茸を取ったら厳罰という看板が、100枚以上貼られていて、有刺鉄線も続き、穏やかならぬ雰囲気。登山道歩いていても気が滅入るくらい。道も歩いちゃ駄目なのか?という気になってくる。財産区が終わると急にフレンドリーな案内標識が連発する。極端だよなあ。小さな峠を越えて分杭平に降りると子どもの遠足団体がいる。近くまで杖突峠からの車道が来ているようだ。登り切ると樹林が無く、展望が良い東峰。遠くの山まで澄んでいる。きょうは穂高もよく見える。浅間山も見えている。これから諏訪に来たら、この山の頂をさがそう。山頂祠には弓と鎌が供えてある。最高点山頂にはベンチが多数。周囲のヤブもよく刈り、手入れされている。山頂近くに避難小屋があり、一坪くらいの部屋においちゃんが二人で座ってご飯食べていた。灯油ストーブもあり、地元の人が飾り付け、手入れしている小屋のようだ。なかを少し見学させてもらった。名久井岳にあった小屋に雰囲気が似ているな。地元の人の親しみぶりがわかった。二度目の山頂も満喫して、いよいよ不明瞭なルートへ突撃。後山集落に降りる道は五万図にはあるけどほぼ廃道の気配。赤テープは誰かが付けてあるが、沢に入った途端になくなる。この道は他所から来る人は使わないだろうから、後山集落の人が守屋山に登るための道だったのだろうか。谷が広がると、山間で耕作している家があった。人影は見えなかった。後山はかなり隔絶した集落だが車が何台も停めてあり、今も人が住んでいるようだ。でも誰にも会わなかった。神社の裏から最後の峠越え道を登る途中、昭和26年の慰霊碑があった。災害ではなくおそらく戦没者だろう。11名の男の名が刻んである。元は集落を見下ろす高台だったろうけれど、樹木が生い茂り、森になってしまっていた。この小さな集落から11名。峠からの下りも、地形図通りには踏み跡は無い。大してひどいヤブでもないから磁石を切ってバンバン進むが、ノイバラが多くて閉口する。コルのところでふと見るとブル道が上がってきていて、そこできょうの藪漕ぎは終わった。道は草こそ生えているが落石崩落も無く、歩きやすい路面で快適に沢底川の本流へ導かれた。集落までは、地形も緩いおかげで林道の崩落もなく、のんびりと長々歩いていく。このあたりは谷が緩く細長く奥まで伸びていて面白い。車道としては行き止まりだから、知らない人は通らないけど古代とか中世とかからも結構人が住んでいたのではないかな。そんなことが鎮神社の立札にも書いてあった。三河攻めの秋葉街道ルートなどで武田信玄だって通ったことだろう。沢底集落では稲刈りの最中だった。先日友達の実家の稲刈りを手伝って、ハザ掛けを一日やったのでわかる。今が一番人手がいる。この時期に抜かりがあると、年間の稼ぎがパアになる重要時期だ。稲刈り機でハザ掛けの家と、コンバインで一気にやってしまう家とある。コンバインは楽だが機械は高額で、故障したらアウトだ。どうも動かなくなって、業者を呼んでいるようだった。沢底川右岸の尾根をまたいで、新興住宅街造成地の脇を抜け高速道路をまたいで、天竜川を渡って辰野駅へ。駅前食堂あたりでカツ丼かラーメンでも食べたかったけど、商店街は全滅していて、歩き回る楽しみもなし。1時間の電車待ちは、駅となりの公共施設の一角の喫茶コーナーでコーヒーのみだった。農家の人は70代後半以上、商店街は多分みな亡くなったのだろう。10年後には稲刈りを見ることもできなくなるかもしれない。我々の世代以下で山間農家をしている人を見かけたことがない。どうしてもとんかつが食べたくて、松本駅前の松電地下スーパーで買い求め、自転車こいで帰宅して温めて食べた。妻は麻婆豆腐を作ってくれていて、これもうまかった。御神体守屋山に、気になる集落2つ訪れて充実した。
2024-10-15 3:13
ヤマレコAACH
《筑摩山地》美ヶ原温泉〜烏帽子岩〜三才山峠〜鹿教湯カレー
《筑摩山地》美ヶ原温泉〜烏帽子岩〜三才山峠〜鹿教湯カレー(無雪期ピークハント/縦走/甲信越)日程:2024-10-10(日帰り)メンバー: yoneyamaコースタイム:コース状況/その他周辺情報:市ノ瀬〜三才山峠間以外は道なし。三才山峠の北の内山沢に降りる尾根は細く両側急斜面で、安心安全とは言い難い。廃林道は全般に、幅の広い夏道くらいの感じ。写真:扇状地を奥へのぼり振り返る。松本盆地は雲海気味烏帽子背景市ノ瀬バス停前の道祖神慰霊塔はおしまいらしい 本郷公民館に訪ねてみよう逃せないバス尾根上部には炭焼き窯の跡朽ちている遊歩道朽ちた祠烏帽子岩と武石峰昆虫学者小松氏のハイマート、藤井沢の蟻塚の記事戸谷峰と女鳥羽川源流部。遠くは穂高連峰ご主人と市ノ瀬に降りていく尾根末端近くには階段状に整地した耕作面があった。桑畑だったのかもしれない。藤井沢扇状地の坂道と古い町並み良かった。ダムの向こうに道が通じている。ダム湖これは・・鹿教湯に来訪ヤブの向こうに烏帽子岩火山岩と思われる露頭武石峰〜三才山峠の林道。こんな道なんだ。子供の頃天体望遠鏡で稜線に見た「ミサイル基地」は、戦没者慰霊碑だったのか!ダムの堤体急傾斜絶壁尾根を終えて振り返る。核心部では写真撮るのわすれた。カレー屋発見鹿教湯病院 閉店の様子ダム素性市ノ瀬の右俣ドンツキあたりに出たカレーだ!女鳥羽川源流の橋をわたる尾根上端近く、シダとカラマツの爽やかな木立烏帽子の尾根道は最高の道設計角度廃道林道っぽい雰囲気通れるのは許可車のみという雰囲気。バングラディシュカレーをお願い緩い谷状の底で、イノシシの野郎のヌタ場切り株にきのこ奥宮郷土だけじゃなくて全国なのか。ここに建てた経緯も知りたい。穴の空いた階段烏帽子岩の奥宮いろんな営みがあったこんな傾斜地にも石垣で耕作面道祖神と秋の萩?三才山峠。18世紀以前の大名はここを超えて参勤交代していたんかい!腰掛けのあるお休み処忽然と現る。道も何も無い山の中。切り株にきのこ烏帽子奥宮前の格好良い松カレーだ!おお、内山ダムと獨鈷山。遠くに浅間山。鹿教湯は見えないな〜外観 かなりこったデザインだと思う山に入る時お祈りする山神さまとのこと烏帽子岩は松本旧市街からは見えず、南部や西部、塩尻から見える大きな建物は広丘のセイコーエプソン感想:ひなびっぷりも板についてきた丸子の鹿教湯温泉。ここで知人のカレー屋を継いで4年前からコロナを乗り越えて続けているご主人の店に、山と絡めて行きたかった。長雨があけたので決行。山の近くに住んでいると、自宅から歩いて行けて最高。うちから山に突撃すると藤井沢の扇状地に導かれる。先日の新聞でここの砂防堰堤には凄い蟻塚のあるクヌギの大木があり、それを何十年も研究している人(小松貴さん)の話を読んだ。大木は見つけられなかった。堰堤を超え、鹿柵ゲートを超えていきなり道無し尾根に。道はなくても獣道はあり、グイグイ登ればそのうち人の踏み跡にも合流する。最初の山越えは全国戦没学徒の慰霊碑のタワーあり。ちょっとデザイン建築風の慰霊塔だった。突然思い出した。これは小学生の時天体望遠鏡で実家からよく見た。対宇宙人戦のミサイル基地ということにしてあった施設だ。最近見えなくなっていてなくなったのかと思っていたが、周りの樹林が伸びすぎて、隠れていたのだった。高さ20mはあろうかという大きなものだが。あちこちの山で見る、故郷を見下ろす丘の上に50年前に建てた戦没者慰霊塔、今はどこも樹林に覆われて、故郷は見えなくなっている。弔う人も居なくなっている。ここも8年前に魂抜きしたとのこと。修理してくれれば樹林が伸びただけに松本を見下ろす良い展望塔なのだが。1967年竣工、2016年立ち入り制限。あのような全社会的な惨事の死者は20年後に漸く慰霊され、その50年後には弔う人もこの世からいなくなる。修理ぐらいすれば良いのにな。市ノ瀬への道は、はじめ林道だったが次第に怪しくなる。集落の近くでは見失った。廃林道ではトゲだらけのノイバラが茂る事が多い。人工物の名残を好むのか。民家の裏の畑の畔に出た。尾根末端は以前は開墾して多くの平面を切ってあったが、いまはもう手が回らない様子。市ノ瀬は以前も山越えの途中で通ったが、完全保存の山里集落だ。7年経って、住人は減っているかもしれない。今回は人に顔をあわせられなかった。烏帽子岳への登山道は、傾斜角といい、足の踏みしめ感触といい、よく整備された道だ。送電線の補修があるからきれいに管理されているのだろうか。きょうも送電塔に保守の人が居た。烏帽子岩は松本の旧市街地からは見えない。広丘のエプソンのあたりが見えている。残置ボルトが見えた。武石峰北面の2つの谷も、女鳥羽川の源流だ。沢を詰めてみたい気もする。故郷の川だから。武石峰から三才山峠への林道は、これも廃林道の雰囲気。走れない事はないがガタガタの車道。舗装もまちまち。広めの登山道の感じ。三才山峠の立て札を見ると、堀田藩主までのほぼ1600年代いっぱいは、この峠を殿も含めて参勤交代で超えたとな。マジか!具体的にどんなラインだろう。松本側も急だが、上田側の斜面はかなり急だ。ちょっと想像がつかないよ。でも古代から、鎌倉街道含めてこっちがメインとのこと。水野藩主時代に稲倉峠+保福寺峠のダブルのっこしルートに替えたのが地形をみればわかる。ここから沢を下ると、自動車道路の動線に入ってしまうので、少し北に進んで、緩そうな尾根を下る。しかしこの下降尾根の上部は細い上に両側が切れていて、かなり緊張する。細いからルート間違いはしにくいけれど、細い尾根が崖で切れて、脇から巻いて急斜面を下るのが何度もある。やはり踏み跡はかすかにあるが。末端は傾斜も落ちて、牧歌的に下る。鹿とリスを何度も何度も見た。鹿教湯病院の裏に降りる。ここの病院は閉店したようだった。ここから延々沢底の道を温泉目指して歩く。右岸中腹に幹線自動車道路が走り、その走行音が谷中に響く。以前仕事で上田方面に行くときはよく通った道だが、あの道は味気ない。ノコノコ歩いていたら轢き殺されそうだ。トンネルも怖い。谷底の道はほぼ貸し切りだ。地形図を見る限りつながっているけど、本当に行けるかどうかはヒヤヒヤだった。最後のダム脇の歩道橋も通れて安心した。人造物に阻まれると、マジで絶壁になるのが怖い。ダム建設前の昭和40年代にはあったであろう集落の祀った鳥居や祠もある。三才山峠手前で電波が通じたのでカレー屋に電話していた。到着は閉店ギリギリになりそうだったので、計画にあった三才山や六人坊のアタックはカットした。今日のメインは烏帽子とカレーだ。半地下の店に、開いている時間に入ることができた。ご主人は穏やかな話しぶりのかっこいい人だ。置いてあった本のことできいたら書いた人だった。いろいろ話していたら互いの実家がすぐ近くで、先日図書館帰りに初めてあって話をして、話が弾んだ94歳の西村さんとも今の家が町会一緒とのことだった。それに中学高校が19年先輩で、楽しい話がたくさんできた。逃したらまた歩いて山越えしなきゃならない路線バスの、出発時間まで話した。発車するまで遠くて見てくれていた。この路線バスはありがたいのだが、行きでは時間が遅くて山行には使えず、帰りもちょっと時間が早い。希望を言えば、昔みたいに上田までつないでほしい。でもバスは今、大変だからな。あるだけでも感謝だ。町の中に降りて来るまで、他の客は居なかった。和泉町でバスを降りて女鳥羽川を渡って元町の古書店に寄ったら、さっきの本をちょうど置いてあり、重いやつ背負って徒歩帰宅する。きょうはよく歩いた。マンポ計は45500歩だった。良い出会いあり。未踏ピークも踏めた。晩ごはんにノンフライ・焼きコロッケを作ったら好評だった。
2024-10-15 3:10
ヤマレコAACH
笠谷右俣B沢‐錫杖岳‐錫杖沢‐クリヤ谷
笠谷右俣B沢‐錫杖岳‐錫杖沢‐クリヤ谷(沢登り/槍・穂高・乗鞍)日程:2024-08-04〜2024-08-05メンバー: yoneyama nishinakentaコースタイム:コース状況/その他周辺情報:笠谷林道の3分の2は廃道錫杖南コルからクリヤ谷二股までは大滝に巻道はあるが、沢登りルート写真:コルから先は踏み跡ある赤い風化花崗岩の緩いナメ滝が続くロープ出す登山口案内板は風化中藪の中の倒木に生えた地衣類美しき毒草側面は絶壁に覆われている平湯の湯、無人露天300円ラ王と西名さん紫の蕾赤い風化花崗岩の緩いナメ滝が続く本当に行けるのかヨと思うとき水が絶えた涼しいな二段目の10m弱は右岸のがれ脇の草付きに取り付くがもろく傾斜あり断念またまたナメ滝笠ヶ岳とクリヤかザレの下は奈落という場面にトラロープ赤い風化花崗岩の緩いナメ滝が続く赤い風化花崗岩の緩いナメ滝が続く笹の海の中、倒木にすがる段差平湯の湯、無人露天300円赤い風化花崗岩の緩いナメ滝が続くきょうも素敵な遡行踏み跡なので見失うことシバシバガスが行ったり来たりほぼ沢ルートコルまでヤブコギかその左寄りのくさのない急傾斜ガレルンゼをチムニーで登ったらかなり厳しい。脇の草付きでうごけなくなっている赤いヘルメット下降の沢より見上げる錫杖岳滝10m以下の脇を行ける滝が多い釜もあり天場は個々のほかはあまり適地無し遠くに滝凄い壁数m差の最高点はあの左の峰のようだ笠谷林道、森の中は快適赤い風化花崗岩の緩いナメ滝が続く紅い花林道終点から本流を見下ろす朝ラーメン。きょうはラ王懸垂終えたとこ錫杖岳の屹立を見る二段滝の一個目は左岸脇を登る岩峰群を顧みる山頂クライムダウンはできるが一般的ではない感じの大滝左岸のヤブにトラロープはある崩壊林道のガレの上から絶壁奈落赤い風化花崗岩の緩いナメ滝が続くナメ滝ガレルンゼを更に上に抜けた目指し赤い風化花崗岩の緩いナメ滝が続くこのあたりは地形的に狭い谷ガスもいいね行けるナメ滝林道終点から、ややわかりにくい右俣赤い風化花崗岩の緩いナメ滝が続く感想:一日目元同僚の西名さんと沢。松本のウチまで車で来てくれた。前夜泊ウチでして、早朝1.5時間で栃尾温泉。1日2本のみのバスに乗って笠谷下車。西名さんはこの林道何度か以前歩いたとのこと。1時間ほどの林業飯場までは整備されているがその奥は放置の廃林道で、平成元年工事の標識あり。ヤブに覆われ、落石のガレが急斜面ほど多く、高度感あるトラバースもあり。200年前播隆上人は槍ヶ岳開山の前にこの笠谷から南西尾根に取り付いて笠ヶ岳開山したらしいのだが今は痕跡無し。石仏10のうち8は見つかって山麓の資料館にあるとのこと。こんな林道でも上人ルートの本谷を遡行するよりは早い。左右の二股で入渓。少しその上流まで道があり、右俣への入口は少々変わっている。下りできたら林道を当てられなそうだ。薄くしく容易なナメ滝が連続する。大きい滝も多いが困るものはない。1290mにある二段の滝の上段は、右岸〜トラバース〜左岸という案もあるが右岸の急なガレルンゼの草付きに取り付く各々数メートル違うルートを登り始めてしまって結構行き詰まる。米山の取り付いた左側のボロボロのスレスレチムニーで10m程上の立ち木灌木まで到達。そこから、右ルートのボロボロ草付きの途中で行き詰まっていた西名さんに手持ちのシュリンゲをすべて継ぎ足したお助け紐を投げて窮地を抜ける。ちゃんと始めからザイルを出して行くべきだった。一発目の核心でズルズル始めてしまい反省。ノーザイルの距離ではなかったが、灌木までは手も足も出なかった。藪の中からザイル出してトラバースして下降点を探す。下は流れが白くなっていて1.5ピッチほど進んだところから懸垂。巻道のような痕跡はあった。その後も大小きれいなナメ滝が延々連続するが困ったやつはなかった。1490mに良い場所がありタープで泊まる。薪は湿っていたが着火炊事は問題なし。なんだか眠く、明るいうちから寝床に入る。夜中はシュラフカバー一枚ではやや寒く、かっぱを着て寝直す。下界の酷暑が夢のようだ。深夜大型動物が沢を渡る物音を西名さんが聴く。二日目ほどなく二股。計画では左側の錫杖岳の北のコルに上がる沢から山頂目指すつもりだったが、よく考えたら稜線に踏み跡レベルながら道のある南コルを目指したほうが良いと思い、ここは右俣を取る。水のあるうちは快適なナメ滝が続き、1800mで標高差200を残して笹薮に突入。源頭は広い緩斜面なので笹は多いが淡々とコルに向かって突き進む。ヤスヒロさんは北のコルから二股に滑り、右俣を登り返したのだとか。コルには、クリヤ谷からの踏み跡ルートのピンクテープがある。山頂まで、際どい未整備道を辿っていくと、岩峰群の弱点を縫って山頂まで至る。ガスが行き来して幽玄な気配。本当の最高点は少し先だがまあいいやって感じになる。少しして、岩の基部から人が現れた。聞けば町田さんという藪山歩き登山愛好家の方で、地下足袋のご同輩。6日ほど北アルプスの藪山岳を巡っているとのこと。こんな無人域で突然会って驚く。下りに取るとピンクテープありとはいえ、ルンゼからトラバースに入るところとか、うっかり行き過ぎる道失いポイントの罠はいくつもある。コルからクリヤ谷への下降路も左にトラバースする1910m地点はわかりにくく、要注意だ。あとは傾斜のある沢登りルートを下る。大滝には巻道が付いているが、夏道登山道ではない。錫杖岳岩峰群へのクライマーの取り付き道分岐が多い。クリヤ谷本流の対岸にはクライマーの幕営跡地いくつかあり。クリヤ谷からクリヤの頭経由笠ヶ岳への登山道は今や廃道らしい。西名さんはなんと10数年前の大学山岳部時代に北アルプス大縦走の下山路で通った事があるらしい。その際にもかなりヤブに覆われていたという。北アルプスと言っても人が多いのはごく一部だ。中尾高原口バス停からは、1時間に一本のバスで車デポの栃尾温泉へ車回収に。平湯の湯という無人露天風呂で静かに浸かる。300円。栃の木と桂の木と楓の木に覆われた良い湯船だった。降りてから日本登山体系を読む。あの二段滝、地形が変わったのか、水量が多かったのか特に問題の記述はない「上段はシャワークライミングとなる」ってやつかな。岐阜百秀山も読み返す。円空仏の背に1690年、この山の名前があったのかあ。岐阜百と白籏史朗の百がイッコ増えていたのはささやかに嬉しい。3日に塩尻で仕事があったため、4-5日のプランで行けそうな沢ないですか?と先輩を誘う。複数案あったが錫杖岳が未踏だった事と2年前に笠谷に行った経験を生かして今回の計画に決定。車の回収などが肝となるが、栃尾温泉に車を停めて、行きは1日2便しかないバスで笠谷までアプローチ。相変わらずの林道で途中の木材業者の飯場にはトマトの家庭菜園もあり時の流れを感じた。笠谷本流と支流の分岐から入渓。登山体系にはシャワークライミング云々書かれている滝が1番の難所。ガレタルンゼを先輩が突破。ガレが半端なく一度滑り落ちて手を切ったので草付きから攻めるも行き詰る。お助けスリングで事なきを得て2ピッチトラバース。1ピッチ懸垂で川床に復帰。滝をシャワークライミング直登もできなくは無かったが、ランナーが取れずビレイ点も不明、落ちたら死ぬ高さの滝なので、ガレたルンゼから行かざるを得なかったが、ロープを初めから出せば良かった。その滝の周辺だけ岩がとても脆かったと思う。その後は支流らしく狭めの遡行が続く。適切な幕営地も2ヶ所ほどしかなく我々が泊まった所が最も上流で適地だと思う。 先輩の焚き火技術は流石でした。翌日は沢を詰めて錫杖岳南のコルを目指す。最後の100mは薮がすごい。 コル以降はピンクテープ有 下山時に1ヶ所間違える。 錫杖沢の下りも水流が多く沢下りに近い、登山靴だとコケで滑るし危ないので沢靴推奨。10年ぶりのクリヤ谷を通過して下山。中尾温泉からバスで車を回収し先輩を松本に送り岐阜に帰る23時帰宅。
2024-10-15 2:29
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荒船山 内山峠‐艫岩‐経塚山‐兜岩山周回
荒船山 内山峠‐艫岩‐経塚山‐兜岩山周回(無雪期ピークハント/縦走/赤城・榛名・荒船)日程:2024-10-12〜2024-10-13メンバー: yoneyamaコースタイム:写真:変わった車両席昭和初期の信心深い重そうな石柱鋏岩修験場跡岩塔多き山域、遠くは威ぬ牟畿不動威怒牟畿不動 帰り道荒船不動荒船不動こっちラインは四掛け、あっちラインは二人掛け信仰の祠帰り道の1380峰ピーク苔むした堰堤の谷造形作家のお宅前名前知らず茸マツダランプかぁ経塚山艫岩から見とる。経塚山鋏岩修験場跡中込駅前歩行者通り荒船不動あずまや下山路より振り返る兜岩山からローソク岩など頂上台地は独特の植生に思える霧の朝鋏岩修験場跡佐久市役所近くの佐蔵で醤油味沢で泊まる頂上台地は独特の植生に思える霧の朝兜岩山が見えている最高点の経塚山、遠望艫岩からも見えた醜いパネル原頂上台地の笹原甲岩山山頂台地 フジ撮影絶壁 フジ撮影神津牧場見えとる鋏岩修験場跡荒船は見えない。あのへんは男山あたりか。艫岩手前の覗き場から見下ろす鋏岩修験場跡めくれ上がりの根と霧の林あずまや、部屋もあった艫岩見上げる小海線は若草色だ。見かけない木東京への帰路より フジ撮影草原のような谷沢で泊まる中込駅より。遠く浅間山小諸駅でしなの鉄道から小海線に乗り換える。新幹線のお陰で在来線がズタズタじゃよ。通しの切符も買えない。えっ?もう30年も経つのか。東京への帰路より フジ撮影御嶽山経塚山星尾峠荒船不動小諸駅には鉄道部品市場があったよ。威ぬ牟畿不動乗り換え時間があり、小諸駅前をぶらつく。どこかの絶壁 フジ撮影荒船不動感想:東信州の名山。電車で行くと中込駅から内山峠まで3時間半歩きのところ。車が多くてあまり歩きたい道ではなかったが、ちょうど東京の藤原さんとの中間位置の山域なので車で来る藤原さんと車入山の計画に変更した。もともと車なら日帰り行程の山を駅入山で2日にしていたので、車入山でも2日とって、余裕の山歩きに。もう沢は寒いし、いい山域だった。有名山だから人は多かった。小海線中込駅まで松本からあさイチの普通列車で2000圓ちょっと。篠ノ井線、しなの鉄道、小海線乗り継いで3時間。藤原さんが三連休の渋滞で1時間遅れたので、中込駅前商店街などをぶらっとする。この町はたしか佐久市を構成する3つの町の一つだ。佐久はもともと複合都市だが、90年代にインターと新幹線駅がその3つのどこでもないとこにできて大型店スポットになり、3つの街の駅前個人商店街はそれ以来時が止まっているという印象だ。もう30年経った。内山橋から歩きスタートで内山峠、登山道。藤原さんとは世代の話やルームの話、団塊の世代の話などで話が盛り上がり、始終話し続けていた。艫岩のところでちょうど10人以上の団体さんとカブった。全員が熊鈴を付けていて、荘厳な鐘の音だ。カウベル付けた牛の群を率いているスイスの牧場を想像した。藤原さんがパタゴニアでテント張っていたら牛が集まってきてテント潰されそうになった話。僕もチベットでテント張っていたら周りにした小便を舐めに牛が集まって来た話になる。荒船山は航空母艦のような山で、絶壁と岩窟には修験の名残がある。植生も独特で、山頂台地の上は、笹も丈が低く草原状で、立ち木はそのへんで見かける知っている広葉樹ではなくてりんごの木みたいな名を知らぬクネクネの広葉樹が多い。東信のせいなのかこの地形のせいなのかはわからない。なんだかパタゴニアのパイネ周回コースの風景ににている。風が強いということなのかもしれない。藤原さんが書いた「酔いどれクライマー永田東一郎」の話で、永田さんが大島亮吉が書いた「荒船山と神津牧場」の文章をほとんど全部暗記していた下りがあって、大島の文章の話になる。今回は事前に読んでいったのだが、失礼ながら「暗誦するほどの美文だったかな」なんて話をした。高校生時代の読書って極端だよなあ、とか。一泊したところは沢に標高差50mほど降りて、水が汲めるところ。水があるところはあまり平らではなかったが2人ならどこでもツエルトで泊まれる。薪は殆ど無く、全部湿っていた。地形図でアテを付けて選んだ。赤ワインと燻しアーモンドで、ズールー語の話など聞く。軽いツエルト一つで温かい。翌朝は最高点を踏んで兜岩山を往復して、不動尊への道を下る。はじめは兜岩山の南の緩そうな沢を降ろうと思っていたが、荒船不動尊に寄りたくなったので変更した。大島亮吉が通った初谷温泉は、日帰り入浴できないとのことで、佐久市役所近くの佐蔵でラーメン、近くの温泉ホテルの日帰り風呂による。鈍行でのんびり松本へと帰りたかったが、きょうは姉の一家が松本に来ているので、奮発して新幹線と特急しなのを乗り継いで3時間半のところを2時間弱で、料金はほぼ倍額で松本へ帰る。親戚10人集まって楽しかった。日本は山が豊かでどんなところにも良い山があり、たとえ人がいっぱいいようが、日帰りコースのように見えていても、自分で計画を設計して独自の山行をすることができる。自由だ。
2024-10-14 12:29
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手稲山南壁
手稲山南壁(アルパインクライミング/札幌近郊)日程:2024-10-14(日帰り)メンバー: saito1987 zeniya1990写真:白樺テラスへ懸垂左側のワイドクラックも中央チムニー側から繋げて登れば面白そう!「道内でも比類のない」チムニー〜ワイドクラックのルートだ。中央チムニー中間部南壁の上から札幌中心部を眺める感想:秋晴れの1日、マイナー岩場でチムニー登り(中央チムニー⇒変形チムニー)を楽しむ。
2024-10-14 2:25
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ペテガリA沢
ペテガリA沢(沢登り/日高山脈)日程:2024-10-12〜2024-10-14メンバー: Iida_2017 kurokiri96写真:「希望」をば濡れたくないさげぽよ常勝930の滝Depoヤカラ控えめ俺たちのセラーズ西沢あげぽよテンバからペテガリ夕暮れ奥に1350の50m滝感想:96が北海道に来てペテガリ行くというので、せっかくならA沢で行こうぜと誘った。九州でヌクヌクしてんじゃねえぞ、久々に北海道の冷や水浴びろクヌヤロウ、ゴクい山行お見舞いしてやる。と思っていたが、なんのなんの秋のド真ん中スバラシ山行になった。日高が一番信用出来る。96は「山岡家食ってた」と集合に30分遅刻。コイツは全然信用出来ない。神威山荘でC0。中身のない議論に花が咲き、23時過ぎに就寝。やれやれ。DAY1:神威山荘(5:45)ペテガリ橋(8:15)BC沢出合(13:15)=C1晴れ めちゃくちゃ二日酔い。スマートに二度寝を決めた結果、だいぶ遅れて行動開始。温度計は2℃を示しておりビビる。酔いも覚め、太陽もだいぶ昇ってきたころに橋。酒をデポして入渓。2段滝の前の滝を左岸からまく。2段滝と呼ばれるやつも左岸から。笹に突っ込む前の10mくらいザイル垂らした。200mくらいササ藪をトラばって懸垂なしで沢に復帰。以後へつったり、胸まで浸かったりしながらワーキャー進む。水線二股を左に入ると急に沢が開け、よくある歩きやすいゴーロに。結局全然泳がずこの時期でもカイテキだった。BC沢出合でC1。ペテガリがよく見える。素晴らしい秋晴れ。焚火を付けた途端、叫ぶ96。わかるぜ。「まータープ張らなくてもいっしょ」となげやりな態度で寝たら、なげやりな雨が未明から降る。DAY2:C1(7:00)ペテガリ岳(12:00-12:30)ペテガリ山荘(16:45,18:00)=C2晴れ。 雨雲はみるみる流れ、出発するころには再び抜けるような秋の青空。背中に太陽をばっちり浴びてぽかぽか遡行。沢が北に向くと函っぽくなり、快適に登れる滝がポツポツ出てくる。930の滝は右岸からとりつき、最後の10mはザイル出して登る。グズグズで悪かった。木つないで懸垂なしで沢に復帰。チョックストーンの滝は96は辛そうなのでザック吊り上げて空身にする。1350の大滝は右岸の枝沢を詰めて上部まで登った後、カンバつないで滝のほうに戻り、落ち口下10m位をザイル出して直登。日高的詰め&30分程度の日高体操で勝利。西沢をニヤリ目で鑑賞しつつ、クソ尾根を下る。ペースが上がらない96を見捨ててデポを回収のために駆け降りる。96は真っ暗になってから到着。あったかい小屋でいっぱい酒飲んで大勝利。DAY3:C2(8:00)神威山荘(10:30)自然起床のちベッピリガイ乗越。最高の3日間だった。と、おもったらまさかのパンク。くそがと思った。様似からJAFで来てくれたおじさんと帯広のタイヤ屋まで2,3時間のドライブ。めちゃくちゃいい人で、おれも人にやさしくしたいと思った。パンクしてよかった、とは全く思わなかったが。北の常勝軍団とは俺らのことだぜ。
2024-10-9 8:39
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境谷〜市房山
境谷〜市房山(沢登り/九州・沖縄)日程:2024-09-21〜2024-09-22メンバー: aach_17inoue kurokiri96 kamiya2015コースタイム:写真:50m滝巻き途中鬱憤を木にぶつける顔がやばい救出だからなんなんだ15m滝稜線へ949m二股テン場に散らばるClassicスラブ滝20m滝入渓地点ほぼ北18条お世話になりました宴不安になる角度40m滝桃源郷?感想:市房山は魔の山だった。椎葉の夜に乾杯。九州支部も元気に活動中です。
2024-10-7 18:20
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2024.8.13-19(7-0) 1年班夏メイン北日高
報告_2024.8.13-19(7-0) 一年班夏メイン北日高 幌尻岳〜新冠川〜エサオマントッタベツ岳〜山スキー沢〜札内岳〜ピリカペタヌ〜勝幌 L柴部(5AL小野寺(3M西園(3玉木(2竹下鶴留(1 〈時間とルート〉 D […]
2024-10-7 18:13
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2024.08.12-16(5-0)2年班夏メイン
報告_2024.08.12-16(5-0) 2年班沢メイン ショートカット ヌピナイ右股〜ソエマツ南東面〜ソエマツ岳〜ソエマツ北面〜神威北東面〜神威岳〜神威東面〜添松林道 〜ツッパリ!羽虫と葉虫の猛襲〜 L齋藤(4 AL […]
2024-10-5 5:39
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2024沢メイン2年班ショートカット ヌピナイ右股~ソエマツ南東面~ソエマツ岳~ソエマツ北面~神威北東面~神威岳~神威東面~添松林道
2024沢メイン2年班ショートカット ヌピナイ右股~ソエマツ南東面~ソエマツ岳~ソエマツ北面~神威北東面~神威岳~神威東面~添松林道(沢登り/日高山脈)日程:2024-08-12〜2024-08-16メンバー: misa2021 Sugiyama_2022 kaneko23 watanabekaコース状況/その他周辺情報:報告_2024.08.12-16(5-0)沢メイン2年班 ショートカットヌピナイ右股~ソエマツ南東面~ソエマツ岳~ソエマツ北面~神威北東面~神威岳~神威東面~添松林道-ツッパリ!羽虫と葉虫の猛襲-L齋藤(4 AL杉山(3 M市川金子渡邊(2<時間とルート>Day1:鹿鳴橋1km先(6:00)下二股(7:00)第一の函(10:30-12:30)上二股(16:00)=C1[小雨]車2台体制で行き、下山地点にフリードを置いてセレナで入山地点に送迎してもらった。途中でフリードの鍵を閉め忘れた可能性に気づく、が山行中は忘れることにしよう。右岸林道のテープが張られているところまで車で入り、そこからきれいな林道を歩く。下二股から入渓。・507二股からゴルジュが始まり釜持ち滝がいくつか出てくる。何度もニコニコで全身浸かった。第一の函は中を泳いで突破を試みたが全然歯が立たない。渋々左岸トラバースにする。残置ロープが張ってあったのでそのラインを行く。一箇所難しいので残置ロープを使ってザック受け渡しをした。ALが重荷と高度感で弱気モードになってしまっていた。その後の二段の滝はまとめて左岸を巻くのが良い。ここを抜けるとだんだんの険しさが無くなる。石が黒い七ツ釜もどきの後に石が白い七ツ釜が現れる。曇りだったからか何の感動もない。そこからは巨岩の河原を登って上二股へ。耐えられる快適テンバ。小枝が濡れきっていてなかなか焚き火がつかない。格闘すること3時間ついにサヨナラ勝ち。普通なら顔が死ぬところ謎に盛り上がって焚き火をつけた。教訓は着火時小枝だけ南国式にすること、黒くなるだけの小枝も投入し続けること。また次の着火用に細めの枝を炭にしておいて焚き火セットを持ち歩くのも良かった。金子が焚き火を眺めながらシューっていってる、、と呟いた。Day2:C1(4:50)ソエマツ岳(9:00-12:00)Co686二股(16:00)=C2[小雨のち曇り]朝焚き火が小さく時間がかかる。40m滑滝は左岸登って途中からブッシュ使って巻く。上部はv字谷地形。ピリ辛小滝もある。広々とした草原を歩いて藪漕ぎ5mで稜上に出る。ピークはガスガス強風で寒い。auだけ電波入り予想天気図と天気予報とを見た。予想天気図は悪いが天気予報はなぜか悪くない。新しい台風も生まれていた。低いもの含め全ての可能性を考えてうだうだ話し続け、準山の反省から支五の沢をショートカットする方針に。ソエマツ北面沢を下る。Co1400あたりから滑滝が連続するが左岸巻けるので問題ない。Co1150二股手前の50m近く続く滑滝は左岸中間尾根から回収用使ってab。その後の滝は残置ハーケンでab、Lのみギア回収してcd。その後の滝は慎重にcd。2,3回cdした後はガレになる。各々無心で下る。テンバに着くと前を行っていた市川金子がいない。30分くらいで気づいて引き返してきた。ここは奥二股まで近い良いテンバ。だと思っていたが雑炊が出来上がる頃に地面から羽アリが大量に湧き出てくる。Ls発狂する。奴らは食感も味もないので見なければ知覚しないことが可能。だもんで杉山は1匹も食べていないらしい。明日は北海道全域悪天で、2つの低気圧に挟まれている日高だけ降らない予報。天気図的に動けないだろうと言ってナチュゲを決める。Day3:C2(8:50)奥二股(9:20)Co1000(16:00)=C3[晴れ]朝起きるとすごく晴れていた。Co1000までなら動けるんじゃないかと急いで準備し出発。いくつか函を巻いて奥二股まで。C2より奥二股に近い場所も泊まれる耐えられる。奥二股入ってすぐに狭い函滝。頼りになるALが空身で激流を突破、後続ゴボウ。今メイン一番のハッスル。側壁も登れそう。屈曲までもいくつか函滝。一つ目の函は右岸テラスから簡単に巻く。巻き終わって振り返ると見たことないほど暗いゴルジュだった。二段の滝は一段目泳いで取りつき左岸を登る。二段目は左岸を空身で登りザック吊り上げ。続く函滝は左岸ツルツルを一段登ってからトラバース。沢に戻るところもツルツルで、市川が危なくない感じで滑り落ちた。その後の人には下の人が手でスタンス作った。その後も突っ張り多用で進む。2条の滝をシャワークライムして函地形は終了。河原になる。20mの滑滝はALリードで左岸直登、ザイル出して良かった。ぐんぐんコンタをあげてCo1000二股まで。メインらしい山奥のテンバ。暗くなるのを待って花火した。Day4:C3(9:00)神威岳(12:00)Co640二股(16:00)=C4[晴れのち曇り、一時通り雨]昨晩からALがラジオを聴きまくる。朝晴れているが概況から動けないと判断していたが、時間が経っても天気がいいのでピークまで行ってみる方針に。Co1000二股直後の2段Fは右岸巻き。その後はどこまでも小滝が続く。薄い薮漕ぎで快適にピークまで。念願のピークはイタヤハムシと思われる虫が大量発生していた。服の中に潜り込んでくるし潰れると黄色い。Lsまたも発狂する。時間が微妙だがあまりに辛いのでテンバを下げたい。急遽ネットで記録を探してCo640二股のテンバを見つける。稜線の向きが変わることを確認して沢に下る。上部あまりに急なので心配になるが問題なかった。10分間ほど強い雨に打たれた。Co1200あたりから滝が連続する。1つ目の滝はcd、2つ目の10mスラブFは残置ハーケンでab、3つ目の8mFは残置シュリンゲでab、4つ目5つ目の滝はザック受け渡しして慎重にcd。Co1000三股で核心終了。あとは河原。Co650に意外な函地形が出てきて右岸巻く。Co640二股以降は広い河原になりどこでも耐えられる場所がある。適当な草原を切り開いてC4。雑炊に台湾メンマがよく合う。夜に鹿が鳴きまくるので怖くて泣きそう。Day5: C4(8:45)・404(9:45)林道終点(10:20)添松林道入口(12:45)[晴れ]ナチュゲで青空幸せいっぱい。河原をてくてく歩く。渡邊がずっこけて足を痛めていた。Co500くらいの函は右岸巻いた。林道は踏み跡から簡単に見つかる。熊スプが一つしかないのでまとまって歩く。足の痛みで辛そうに歩く渡邊のスピードに合わせて金子と市川がずっと話していた。2年班でもこんな明るいことあるんだなぁ。鍵のかかっていないフリードに着いて完。<パーティ>2024沢メイン2年班 貫徹ならずショートカット(計画ではソエマツ岳から支五の沢を下って奥二股まで登る)Ls 慎重に判断したM 自立した齋藤 時計壊し(Day3)市川 時計紛失(Day5)金子 体力◎、肩負傷(Day4)渡邊 ATC落とし(Day2回収)、足捻挫(Day5)<感想>齋藤 行ってみたかった沢に自分たちの力で行けて、できることが広がったように感じた。日高にはまだまだ楽しい沢があるんだろうな。来年はMたちに連れて行ってもらいたい。杉山 2年班的な沢はやっぱり怖かった。無事に終わり本当によかった。愉快なパーティで楽しすぎる夏の旅でした!市川 退屈なことがない沢で、本当に楽しかった。またこんな山行をしたい。パーティに感謝。金子 自分の生きがいを見つけられたような気がして、最高に楽しかった。連れて行ってくれたLsには本当に感謝。渡邉 沢もテンバもとても楽しかったです。ありがとうございました!!<ルートの評価>神威北東面はツルツル岩質での突っ張りムーブが特徴的で、準山で対策とる感じではない。準山ヤオロ右沢で十分足りていた。神威岳ピークでは昨年のネットの記録でもイタヤハムシが大量発生していたとのこと。8月下旬は泊まれないのかもしれない。写真:山深い良いテンバ始まる奥二股 支7の沢に入るすぐに一番大変な函ツルツル続くCo1000三股曇りの七ツ釜閲覧注意全身運動函泳ぐまだまだ遊べる神威東面上部はすごく急開けてくるC2ソエマツ登り20mF2条の滝で核心終わる結構泳がなきゃいけないガスガスピークソエマツ下り 30m懸垂小滝は続くよ♪巻いた函ソエマツ林道Co1000でC3儚いね中は厳しい2回懸垂したツルツル虫のおかげでいい笑顔最終日はいい天気・507ちょっと汚い高みを目指すハムシ 閲覧注意第一の函プールを泳いで取り付きcd40m滑滝広い河原を歩いて上二股までツッパリ巻くv字感想:準山からメインまでずっと思い描いていたのは明るく楽しい山行!裏テーマは自分の弱さを外に出すこと。そのおかげか今までのメインの中で一番自然体で過ごせて自分らしい山行になりました。かっこいいリーダー像とは程遠いLだったけど、補い合って一緒に頑張ってくれたパーティのみんなに感謝。いつも想像以上な山にも感謝。
2024-9-29 8:12
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田代山と帝釈山
田代山と帝釈山(ハイキング/東北)日程:2024-09-24(日帰り)メンバー: babaa1986コース状況/その他周辺情報:猿倉登山口〜田代山〜帝釈山〜田代山〜猿倉登山口写真:曇り空の下、出発帰りの田代山湿原はガスがかかっていた田代山山頂?倒れた木の根っこに木が生えている帝釈山山頂遠くの山々無風快晴で池塘が鏡になっている小田代と田代山、上にきたら晴れていた日光の山々は雲の上湯の花温泉、入山前にも入浴下山後も入って汗を流して帰路に帰ってきた池塘群の向こうは会津駒感想:田代山と帝釈山に行ってきた東京から意外と近かった
2024-9-22 1:55
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笛吹川東沢から甲武信ヶ岳
笛吹川東沢から甲武信ヶ岳(沢登り/奥秩父)日程:2024-09-20〜2024-09-21メンバー: saito1987 babaa1986コースタイム:写真:満月に照らされ夜中も明るい一晩中焚火の横で過ごす千畳の滑をひたひたと、と思いきや案外ヌメるので気が抜けない東のナメ沢おいしそう甲武信ヶ岳山頂しばらくガレガレ乙女の滝合流東沢に入り、沢沿いの踏み跡を辿っていく楽しい河原歩き釜ノ沢に入りすぐの魚留滝上流部のナメ西のナメ沢合流両門滝手前Co1530の小屈曲部に良い天場あり朝すぐに両門滝感想:温故知新。渓歩きの古典ルートを味わい尽くす。
2024-9-19 1:50
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大洞川井戸沢〜滝川槇ノ沢下降〜八百谷〜東仙波
大洞川井戸沢〜滝川槇ノ沢下降〜八百谷〜東仙波(沢登り/奥秩父)日程:2024-09-14〜2024-09-16メンバー: mizushu2016コースタイム:写真:ピーク八百谷の巻いた滝最後の細いところ大滝上部終わり東の尾根を下りる・1872から1920のコルへシャワーCo1650あたりのザイル出した滝白樺広場とは?平らなテンバ泳ぐ人その2槇ノ沢の上部、苔ロードができていた巻いたやつ?最初は段差林道崩壊地点を見下ろすカモシカ。ピンボケ将監峠こんにちは積極的に泳ぐ人ぐんぐんコンタを上げる懸垂で下りたCSの滝感想:一泊してももう一泊ある、丸々1日沢で遊んでから焚火ができるそんな贅沢。週休3日にならないかな〜。新たな場所でも頑張ってください。
2024-9-18 1:54
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白山の短め沢旅(加須良川〜ボージョ谷〜フカバラ谷)
白山の短め沢旅(加須良川〜ボージョ谷〜フカバラ谷)(沢登り/白山)日程:2024-09-14〜2024-09-17メンバー: hazuki2012r fukumoto_2013写真:フカバラ谷へ50m滝この沢の核心30m滝おいずるが岳直登沢左岸の藪を漕いで越したなおも滝は続く60m大滝は2ピッチで懸垂加須良川の地図に載っていない貯水施設すぐに25m滝右股に入るとすぐゴルジュ一癖ある小滝がいくつか続くセミになりながら撮影した写真日が沈むころに豪雨となり焚火が流されてしまった開放的な巨岩の河原この滝を左から容易に登ると登っている記録も見るがハーケンを持っていないので左岸捲きスラブの区間を越えて藪に入ってからトラバースするそのまま自然に右股へ入っていくとにかく暑いこのチョックストーンは荷揚げゴルジュの中にピリ辛小滝が続く1000あたりの15m滝急に平和な雰囲気に1120二股付近で福本は今年4度目のクマ遭遇三俣で少し開ける ここで泊まる4日目 奥に見えてるスラブのあたりに…「境」川を渡ってまずは岐阜側へ藪漕ぎ5分で登山道スラブをクライムダウンしたり捲いたりする懸垂して次の釜滝を右岸から登るト谷セミになりながら撮影した写真ばっちり落ち口に出た3日目まずは40mナメ滝を下る二日目釜滝を越えていく素晴らしい景観 個人的にはオバタキ谷のそれより好き左股方面ハング上を右にトラバースして左上気味に登る岩はしっかりしていて快適15m滝の登攀地図記号も載っている最初の滝 左岸ルンゼから捲いた滝記号の支沢巨岩帯を少し挟むお疲れ様でした入渓後しばらく歩くと素晴らしいゴルジュだが何があるというわけでもないへつる場面が多いこっちは瓢箪山直登沢セミになりながら撮影した写真懸垂を3度ほどナメ小滝がいくつか50m滝の上から見下ろす780二股1470コルからボージョ谷を見下ろす雨が少しぱらつく 以後降ったり止んだりに20m滝巨岩一癖あるものも感想:進歩のないことにルームの夏メインみたいな沢旅がいまだに一番好きで、やりたい計画がたまっている。本当は1週間くらいあればフカバラ谷を詰めた後に瀬波河左股→右股→犀川を金沢まで下降したかったのだが、そんなこと言ってたら一生行くタイミングは来ない。1日目夜行バスと電車、レンタカーを乗り継いで桂湖へ。車を置いて林道を歩き加須良川へ尾根を乗越す。しばらく歩くと地図の中州のあるあたりに小型のダムがあった。藪を漕いで小さな池を越えて入渓する。しばらくなんともないゴーロだがじきに両岸高まりかなりイイ感じのゴルジュとなる、が、特に何もない。地図記号のあるあたりで12mほどの滝。登れないので左岸捲き。懸垂で滝の裏に降りて直後の小滝は容易に登る。しばらく行き770あたりの河原でC1。蚊が多く閉口する。2日目天気が崩れる予報だが青空が出ている。釜持ち小滝のへつりを繰り返すと940二股。両股滝で出合っているが今回は右の本流にかかる30m大滝を登る。登山体系に「非常に困難」と書かれているので警戒していたが、案外岩はしっかりしており三級ほどのクライミングで快適に登ることができた。ところがここでハーケン忘れが発覚。大滝の先の巨岩の急なゴーロを登ると沢が平らになり開ける。ここで福本は今年4度目のクマ遭遇。1470コルに突き上げる沢に入り、小滝をいなしながら登ると5分ほどの藪でコルに到着。休憩していると雨がパラパラ降ってきたのでボージョ谷を下降開始。以後雨は降ったり止んだりするが本降りという感じではなかった。沢筋を下っていくとちょっとしたスラブが出てくるがフリクションが良くすたすた降りられる。急なところはブッシュ帯で捲くと8mほどの滝があり懸垂。そのほかも全部で3回ほどの懸垂をし、河原をしばらく歩くと40mナメ滝の落ち口に到着。時間はまだあるが下手に降りて境川本流などで雨脚が強まっても困るのでこの辺りの河原で泊まることにする。ちょっとした砂地を土木工事して均し、服を乾かしながら優雅に過ごす。しかし日が暮れたころにザーザーぶりとなりチョロ川がみるみる増水し、焚火しているところを水が流れ始めた。あわてて別の場所に焚き木を移すが火が消えかけてしまう。せっかく乾かした服が濡れてはかなわないと二人して全裸ずぶぬれになりながら必死に扇ぐが後の祭り、焚火は放棄する。その後さらに水位が増し、移動先も浸水していた。やがて寝ている場所のすれすれまで水が来た。荷物をまとめ靴を履いたままマットだけ敷いて横になる。結局寝床は何とか浸水から逃れることができた。しかしそんなさ中でも蚊は元気に飛び回っていた。Hey‐KOHした。3日目夜の間も雨は降ったり止んだりするがある程度減水したようだ。日が昇ると薄曇りでほんのり青空も見え、回復基調の予報が信用できそうであったため進むことにする。テン場の下にある40mナメ滝は右岸の木から懸垂。少し下るとすぐに50m滝があるのでこれも右岸のブッシュ帯を巻き下ってから適当な木で懸垂する。その下も巨岩や段差などをクライムダウンしながら進むと3段くらいになった60m程度の滝。こちらも右岸から懸垂するが、ロープが足ら無さそうであったため途中に1本だけ生えている灌木で切る。さらに連瀑を懸垂とクライムダウンの連続で降り、本流出会いに着く頃には10mあった捨て縄が1mくらいになっていた。境川本流の水量は問題なく進めそうな具合であったので先へ。両岸が立っているもどこか開放的な巨岩ゴーロが笈直登沢出合まで続いた。日が照って焼け付くような暑さ。熱中症になるのではないかと思った。笈直登沢出合のテン場に着くとまだ12時なので三股まで行くことに。右俣に入るとすぐに威圧感あるゴルジュとなる。段差を2つほど登り右に屈曲する箇所で15m滝。両岸考えられるが落ち口の下まではすんなり登れそうな右岸を選択する。羽月リードで登るがやはり抜けが悪かった。その上にすぐ25m大滝がそびえる。こちらは右岸の草付きルンゼより取り付きまいていく。灌木がでてくるまでの泥壁が非常に悪くここはスパイクが欲しいところ。灌木帯に入ったらかすかなリッジ状をモンキークライム。右にトラバースしていき適当なところで踏まれた草付きを渡る。トラバースしきったところでピッチを切る。もう一段上がるとぴったり落ち口。大滝の上もゴルジュが続き5m前後の滝が続く。中には一癖あるものも。やがて三俣の手前でゴルジュが切れて開ける。C3。ここも蚊が多かった。4日目テンバから先に見えている崖のあたりに20mの滝がある。左岸から捲く。ちょっとしたスラブを越えて藪に入ったら適当にトラバースする。そのまま自然に右股に入りコルを目指して詰める。シブい小滝が連続。ザック吊ったり御坊したりする場面もあった。5分ほどの藪漕ぎで夏道にでる。雨がぱらつく中下った。下は晴れていたのでオートキャンプ場で装備を干し、庄川沿いにのんびり高岡まで。特に深い意味はないが境川の沢を北斗の拳で例えたらこんな感じオバタキ谷:ラオウボージョ谷:トキフカバラ谷:ケンシロウ開津谷:ジャギト谷:たぶんサウザーくらい
2024-9-18 1:54
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ニセイノシキオマップ川
ニセイノシキオマップ川(沢登り/北海道)日程:2024-09-16(日帰り)メンバー: Iida_2017写真:最後。景色いいF2この時期に見てもいかつい秋だもね〜F3あっこにつっこんでいく秋なわけでF1。冷たい。感想:車(6:50)ニセカウ(10:30)車(13:30)寒くて憂鬱な朝、車の外気温計では7℃。秋の沢である。とっとこ歩いてルンゼまで。F1は一段登ったあとが渋く、上からザイル垂らした。水冷たい。指の感覚がなくなる。F2、3はなんも。そのまま急なルンゼを詰めると大槍のわきに上がる。人いっぱいのニセカウを踏みに行き、1560コルから再び沢に降りる。スムーズに車まで。沢の内容は呆気なかったが、乾いた風と色づきはじめた木々に初秋の雰囲気を感じられた。疲れていたのでちょうどいい行動時間。ゆるふわ月曜日なのであった。
2024-9-16 12:15
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前穂高岳北尾根
前穂高岳北尾根(アルパインクライミング/槍・穂高・乗鞍)日程:2024-07-30〜2024-07-31メンバー: gt2010 inoue2009コースタイム:コース状況/その他周辺情報:アイゼン必須写真:B沢の途中でザック発見。快適な北尾根朝焼け快適な北尾根ゴルジュ入口雨降りしきる、奥又白のテン場コケたら大滑り台テン場へ戻るb沢へ向かう感想:平日有休カードを2日発動して初めての前穂/東壁を計画した。初日は夜遅くまで雨が降った。壁は濡れてそうなので遅めに出発する。とりあえず東壁に向かいゴルジュに入ると、滝のふもとに冬装備の巨大なザックが!遭難者の物かもしれないと一応身元の分かりそうな物を確認すると、カビの生えた容器に「AACH NARITA」の文字。「ウヒョー!」と二人でひとしきり写真を収め、気をあらためて壁の取り付きへ向かう。目当てのルートはコンディションが微妙そうなのと時間が押している(本日中に17時台のバスに乗らねばならない)ためルートを北尾根に変更し3・4のコルへ出る。雪渓の詰めは4本簡易アイゼンでもなんとかなった。山頂までは3pほどロープを出した。A沢の下降は雪渓べったりのロング滑り台状で、一番緊張した。自分は前爪のない簡易アイゼンのためバックステップができず、概ね側壁の岩をへつりながら慎重に下った。晴れて清々しい奥又白のテン場に着く。JUN氏のコーヒーを頂き、1時間も経たずに速やかに撤収し下山する。学生時代の、北日高のカールで過ごした時間のなんと豊かなことか...もっとテン場でゆっくりしたかった。(ザックは後日、本人が回収しました)久方ぶりに山に抱かれました。山行後にまともに歩けるようになるまで1週間程かかった。井上靖の氷壁の舞台を、季節は違えど見てこれたのは良かった。
2024-9-16 11:17
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トヨニ川右股沢〜トヨニ川左股沢
トヨニ川右股沢〜トヨニ川左股沢(沢登り/日高山脈)日程:2024-09-13〜2024-09-14メンバー: kasaisnt2016 shu2019コースタイム:写真:左岸難しくないお待ちかね雰囲気が出てくるもうメインなんてむりっす最上段釜持ち小滝が二つ。容易。高度感あり緊張した「早く酒飲みたいっすね」これは支沢大きめのやつ水が冷てえきれいですなるべくへつりで越える感想:遅ればせながら札幌本部活動開始。久々のしっかり沢で全身バキバキっす。今年も日高に行けて良かった。パッション。
2024-9-15 2:02
ヤマレコAACH
石鎚山
石鎚山(沢登り/四国)日程:2024-09-07〜2024-09-08メンバー: yumepporo Mt-sunny onodera22コースタイム:写真:安珠は下山後は常に天丼の口らしい明日からも頑張りましょうね最初の滑久しぶりの藪漕ぎ北海道よりは易しめかもmadchen
2024-9-11 8:46
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パンケメクンナイ
パンケメクンナイ(沢登り/積丹・ニセコ・羊蹄山)日程:2024-09-05(日帰り)メンバー: shibabemaru Sugiyama_2022 tamaki_2023コースタイム:写真:F10F6二段目F1Co360不明入渓F12上多分F7F5一段目F2か3?感想:緊張した。
2024-9-11 5:33
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笊ヶ岳 雨畑川奥沢谷北のタル沢
笊ヶ岳 雨畑川奥沢谷北のタル沢(沢登り/塩見・赤石・聖)日程:2024-09-09〜2024-09-10メンバー: yoneyamaコースタイム:写真:石組と民家あと遠くに続々右岸まいたら行手にすごい滝30mマンガみたいなきのこ右岸、倒木の左に取り付いて見てくるところ最後の連瀑帯始まる切り通しが通じている。多分1950年代の林業あと広河原で釣り巻き終わり振り返る多分、1997年に古元さんが落ちて死んだ所。この先の数メートルのトラバースが悪いまずは小笊をアタック下りの尾根は長かったプール付き滑り台の滝連瀑帯始まり最終民家あと喉(ゴルジュ)というか食道ビビンバ、行者ニンニク餃子20コ、富士宮焼そば大盛り右岸巻く弱点探して這い登るC1朝狭いとこ、右岸ルンゼ登って巻く左岸を巻いたりして進む左岸を巻く登っても登っても現れる素敵な天場適地懸垂して降りる。行くてに続々見えるけど、降りてみないとわからん杉植林の登山道北タルの沢、出だし、ガスのような晴れのような見通せないほど巨岩帯源頭の長いガレを抜けて多少木の生えたコル付近まだまだ続く細い滝堰堤みたいな30m滝狭いとこ見えてる越えた向こうは良心的、の函滝米山の足元右岸の緩いリッジから小さく巻く。トラロープの朽ちたのあり一番奥のやつ巻き終わってガマガエルの祝福ここからしばらく単調な河原日陰で支度数えきれない滝の嵐吊り橋小滝現れ両岸狭まる取り付いてみると細かいスタンスありこの水流に落ちて溺死したとのこと。この下流側も一段トイ状滝が続いているルート見極める巻きの途上で横に見る巨岩帯で、消耗笊ヶ岳老平の駐車場看板水際を行くおお、笊ヶ岳がチラ見え感想:山岳部の6年目、この春日高の全山単独縦走して、今は小川山山麓でクライミング修行中の中川さんから本州の沢登りっぽいところいきましょうとお誘いがあり、未踏の気になる沢と山頂を選んだら、結果、日高みたいな沢になってしまった。笊ヶ岳の雨畑川奥沢谷は、記録があまりWebにはなく、登山体系を読んだが、全く状況は変わっていた。50年も経ったら沢は変わるのだ。行きたいと思っていた甲府在住のころはもう10年も前だ。白根南嶺の要のピーク。甲府の町からいつも眺めていた山。広河原までの登山道は岸壁に穿った道で、おそらく1950年代までの林業の軌道あとではないだろうか。下降尾根のジグザグ道も多分林業作業用の名残だろう。あんなマイナー山にあんな根気よく道を作る理由がないから。広河原から中川さんが釣りを試みてから入渓。両岸が狭まると始めからゴルジュ状が連続して、微妙に行ける滝もあるがエグいのもある。初日はロープ2回だして巻き、懸垂を一回。右岸から左岸から、巻き自体は怠らなければそれほどエグくはない。ただ、ほんの数メートルの悪いところが最後にあったりする。標高1170にある数段組のすべすべゴルジュの奥の4mほどの滝の左岸側、滝の落ち口の手前数mが悪い。ここで1997年に東京の山岳会の友人が落ちて水流で死んだとのこと。その前の数年間にパソコン通信でやり取りして知り合った。白鳥山でイグルー×スキー山行をしたこともあった。記録をすごく書く人で、短歌もうまくて、生きていたら今頃ヤマレコであえたことだろう。ずっと挨拶したかったのが叶った。中川さんはクライミング修行中とあって、ルーファイが的確で、見ていて安心だ。巻きの判断も早い。後続に対する配慮も完璧。同じ育ちの山岳部は、行動の呼吸が同じだから初めての山行でも安心して行動できる。1170を過ぎると巨岩の群れではーはー言いながらよじ登る。北ダル、南ダル分岐の二股の真ん中に一段高いテラスがあり泊まる。中川さんがロープをピンピンに張って快適にタープを張ってくれた。う〜む美しい。薪は豊富。食事は伝統食の晩カレー雑炊、朝棒ラーメン。【二日目】明け方軽く降雨だったが止み、霧の中出発。天場の1260二股から1650mくらいまではまたまたゴルジュと急な滝が連続して巻いたり登ったりを繰り返す。右岸を巻いたら行く手に落差30mの直瀑が現れ、そのまま薪続けようかと思ったけど途中には急で幅のあるガレルンゼがあるため、一旦降りてそのガレルンゼの左岸あたりに、大滝との間の巻きルートを見出す。この30mを超えると普通の河原が続く。小笊の右と左に上がる沢の二股2030mから、左股を選んで登ると細い連瀑で始まる。いきなり行けず。右俣に少し入って右岸ルンゼから左俣の左岸のヤブ尾根を並行して巻いていく。降りたりまた上がったり。ここでも一箇所最後のトラバースに落ちたら水流に揉まれそうなヤバい箇所あり、横着せずに巻き上がる判断。2370で突然水流が膨大なガレの下に消える。ここから上は見渡す限りガレガレの景観。足を置けば崩れて流れ、ラッセルしているかのよう。小尾根上に草や木が生えているところを辿ってコルまで。空身で小笊をアタックして笊ヶ岳へ。視界は時々七面山や北のほうがチラリと見えるくらいで、地味な山頂である。ここからは夏道だ。とはいえ道だってトラップみたいなポイントがいっぱい有って、外さないよう要注意だ。布引山経由で延々下るこの登山道は、いかにも南アらしいというか、樹林の中をひたすらジグザグ下る。途中大規模なワイヤー・ケーブル廃墟あり。やはり往年はこの稜線のシラビソをバンバン切って運び出し、その後の細いシラビソ密林になっているようだ。これのために切った道だったのだ。C1二股の上にも架線が3本残置されていた。尾根末端の広河原で17時。水をガブガブ飲んで脱水を脱出。ここで足はヨレヨレになっていたけど、泊まらずに帰ろうかってことになる。2日で済んだけど、3日とってあるから、早く帰って下山連絡入れなきゃまずいっていう焦りが無いのが本当に幸せだった。やはり山の日程はキツキツだといけない。長く暗い登山道+林道は結構危ない崖もあるので慎重に帰る。中川さんは最後まで問題箇所の通過では振り向いて光を当てて待ってくれていた。できるリーダーである。身延町の「うまいもん屋」という店が遅くまでやっていて、身延ギョウジャニンニク入り餃子20個+富士宮やきそば大盛り+石焼きビビンバを食べて満足。まだ将来どんなことになるのか、本人にも、まして周りにもわからない状態の若い人とあれこれ話すのが楽しかった。山登りという経糸を伝って世代が進んでいく。
2023-9-13 15:28
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2023.2.27-3.5(6-1)一年班春メイン 極北日高
報告_2023.2.27-3.5(6-1) 一年班春メイン極北日高 オダッシュ山〜日勝峠〜幌内岳〜芽室岳〜ルベシベ山 -遥かなる稜線へのエントランス- L宮下AL山下(3M柴部(3齋藤(2杉山小野寺(1 <時間とルート> […]
2023-8-5 4:57
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Re: 【書評】北アルプス鳴沢岳遭難報告書(米山1984入部)
2023-4-5 17:55
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2023.03.08-13(5-1)1年班春メイン 増毛山塊スキー縦走
ラストメイン
2023-2-26 21:43
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千代志別MIX”SKY FALL”
LAST CHANCE
2022-12-28 12:32
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Re: 【道南】オコツナイ川〜小田西川
2022-12-27 14:41
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Re:板倉勝宣遺躅の碑 /北大山の会東京支部 石本惠生(1961
2022-1-24 0:06
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第94回ヘルヴェチア祭...
この投稿がうまくつながらなくて、だいぶレポートが遅くなったが、昨年晩秋のヴェチア祭り。コロナで私以外のOBは写ってません。女子が4名も
前夜祭。現役が料理をふるう
私はコロナを避けて乾杯後、小屋管理のアドバイスをして退散
翌朝私は再訪して祭りに参加。祭りといっても記念写真を撮るくらいだがヴェチアの歴史を少し語った
部歌の山の四季を歌ってヘルヴェチアの神様に献杯!だけはした
祭り後は大掃除に薪割り。女子もチャレンジ。今年の薪はトイレ脇の大きくなりすぎて、また小屋に傾いたキハダの木で夏に伐採したもの。
煙突掃除の後は床掃除とワックス磨き。他の北大小屋から比べると床が汚いので、ハッパをかけてしっかり磨いてもらう
2021-4-30 16:48
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山の会会報
2021-4-24 23:18
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【読書備忘】岐阜百秀...
地方の百名山の書は数あるけれど、県山岳協会や当地の新聞社が手分けして踏査して協議して選んだ本が多いのではないだろうか。中には各市町村に公平にというような選定もある。岐阜にも、上述のような選定を経た1975年の「ぎふ百山」があったが、124山と絞りきれていない。また高速道路ができ徳山ダムができて環境の変わった今の時代にふさわしい「佳き山」を選びたいと、著者清水克宏氏は最新情報を載せるため五年に限って踏査し選定したという。
ひとり個人が候補の100以上を登って選んだというものは、深田久弥の日本百名山と清水栄一の信州百名山だけではないだろうか。強い計画力と実行力とを要する情熱、そして教養がなければなし得ないのではないか。
私は先月3月に石徹白から白川郷まで一週間の白山縦走をしてきたばかりで、歩いてみて知りたく思ったこと
「なぜ三つの越前、加賀、美濃の禅定道のうち最も泰澄法師ゆかりで正統のはずの越前道がいま見るかげもないのか?」
「なぜ石徹白はあの独特の雰囲気なのか?」
「念仏尾根の妙法山周辺の複雑な地形もやはり古くから人が通ったのか?」
などすべての好奇心の答えを、この本は歴史的な視点から教えてくれた。
信州人の私の目線で岐阜県とはどんな県か。長野県と北アルプスを挟んで対称の位置にありながら、信濃にはない多様性がある。北陸豪雪地域に面した山嶺が長く、標高はなくても遠く深い奥美濃や、白山に連なる国境があるかと思えば、鈴鹿山脈にも木曽山脈にも引っかかっていて、実に多様。それから低山だけれど個性ある山と人里の多い県中央の山間部。これらを俯瞰して一冊の中に眺めることができた。
この多様な山域の隅々まで、歴史的背景や地名山名の由来なども漏らさず盛り込まれている。往時の修験者、木地師、鉱山師に関する話も、知れば山歩きで見える風景を変える要素だと思う。とりわけ、徳山ダムで沈み非常に行きづらくなった千回沢山(とても100山に入れるわけにはいかなかったとある)や、廃村の馬狩で出会う現地の人とのささやかな交流の話などはとてもおもしろい。日本の山里には従来、人と文化があり、今はそれが失われゆく時代なのだ。こうしたさりげない話が貴重なのだと思う。そうした時間軸を意識すると、コラムで触れていた奥美濃の山を紹介した昭和15年刊行の「樹林の山旅」には、たいへん興味を惹かれた。
岐阜県の山にはその名前が地形図に載っていないものが多いという。信州との対比で、濃尾平野以外は山がちなので、遠くの名山が抜けて見えない、そのため名前が広く認知されなかったり、飛騨山脈が視覚としても印象に残らないのではないか、との話もしていただいた。本書に一貫するのは、そんな「少し不遇な」岐阜の山への愛着である。
私はいくつ登ったのかな?うきうき数えてみたら34だった。楽しいものだ。
私も、筑摩、安曇両郡(犀川流水域)50名山を選んでみた。故郷の山への愛である。
ナカニシヤ出版2021年5月
森の国水の国 岐阜百秀山
清水克宏
2200円
2021-3-22 4:03
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Re: 【中部日高】ナナシ沢1823m峰南面直登沢→コイボクシュシビチャリ川
2021-3-7 10:29
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【読書備忘】ぶらっと...
毎日新聞夕刊で特集ワイド面記事を書く、藤原章生会員(1980年入部)の最新刊です。海外取材の長い58歳記者(当時)の、プライベートなダウラギリ2019年遠征記。
なぜこの年齢になって八千m峰を目指すのか。著者の幼年期の体験、青年期の山、海外支局取材時のさまざまな話を交え、高所の及ぼす脳や精神への影響から、話はどんどん死と時間、恐怖と勇気、シンパティコ、達観と情熱、なぜ山に登るのかというテーマに至る。昔から相当な読書量だったうえ、著名人のインタビュー経験が豊富であり、ジミー・チン、メスナー、原真、リカルド・カシンなどの発言や行間にふれる部分が面白い。大澤真幸の「他の誰にも出来ない仕事」の話が良かったです。
故郷を出て男ばかりの共同体に初めて入門した1984年の私にとって、東京の下町の育ちだそうで、きっぷの良い話しぶりに、人をじろりと見る目つき、あけすけにものをいい、最後にニヤリと笑える話を添える藤原さんはちょっとワルなインテリとして、憧れの人でありました。直接の先輩である2,3,4年目のひとつ上の5年目でもあり、何より1984年のガルワール・ヒマラヤ、スダルシャン・パルバットのメンバーでした。1年目の私には近い将来の憧れの未来そのものでした。興味はなかったけど、くわえタバコの麻雀にものこのこついていきました。
私が半人前を終えかけた3年目の4月上旬、藤原さん鷲尾さんに誘われて、立山、剣に登りました。大町の扇沢からスキーかついで冬季休止中の関西電力のトロリーバストンネルを延々歩いて、ケーブルカーの真っ暗な階段トンネルも延々登って、いきなり立山の東面に出るアプローチでした。今では考えられないけど、当時は特に止められなかったし許可とか危険とか、そういう日本社会ではありませんでした。ここに雪洞を掘って3日間、悪天缶詰になって、最後は雪崩が危なく日数切れで引き返しました。4泊も穴の中でヒマだったかといえば、藤原さんの面白い話を朝から晩まで聞いて、ゲラゲラ笑って過ごしたのを覚えています。全く話の上手い人でした。本書にも出てくるけれど、20代の若い時代特有の「シンパティコ(人懐っこさ)」の話には、このときのことを思い出しました。当時、名前しか知らなかったOBの小さな話を、顔マネ、口真似しながら藤原さんが話してくれるのですが私は腹を抱えて笑いました。
その後、藤原さんは新聞記者、私はTVカメラマンになり、業界は同じでも全く違う仕事でした。はじめ私は山岳撮影が主な関心でしたが、藤原さんのように誰か興味深い人にとことん話を聞くドキュメンタリーのような仕事にあこがれてきました。留学や海外支局で日本を離れた藤原さんを、グアダラハラ、ヨハネスブルク、ローマと、夏休みなどによく訪ねました。昔からずば抜けた読書量で、あるとき話のはずみで文庫本の巻末にある他の本の紹介広告のタイトルを見ながら、これも読んだ、これも読んだ、と数十冊ほとんどすべて読んでいた話を聞いて驚きました。彼に勧められて読んだ本も数多くP.フォーバス「コンゴ川」、G.マルケスあれこれ、関川夏央、丸山健二など、私が本を読むようになったきっかけかもしれません。特集ワイドの取材でインタビューに行く前に、相手の著書は全集含めてほとんど読んでいくとあり、納得します。
本書では、やはり高所登山中に受ける精神的な影響の話で死に対する考察があります。いつか20代の頃、どこかの国を訪ねたときの雑談で「俺は最期、死ぬ時に、間際にどんなことを思うのか、横になり朦朧としながらも、心に浮かぶこと、考えることを様々、全部ペンに書き取りながら死にたいね」と言っていたのを読書中に思い出しました。やはり、ずっとこれは大切なテーマだったんだ。
あらすじを書いてもネタバレになるので、藤原さんの追悼文のようになってしまったけれど、少し上の先輩の勤め人の節目である定年退職間際の心の内など、私も大いに関心が高く、今後の人生でも常に先を行くセイパイに変わりありません。まだ30年、人生は続く。
2021-1-28 17:32
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【読書備忘】 リュック...
100年を迎えた早大山岳部と稲門山岳会の100周年記念事業誌。昨年はお祝いの催しも計画していたが、covid19の影響で中止になったとのこと。
1920年前後、第一次大戦後の好景気で日本社会は鉄道が伸び、大衆の観光や旅行や登山活動にも広い裾野が伸びた。以前から大学生を中心に行われていた登山界にも逸材が流れ込んできた時代で、老舗の大学山岳部はこの頃相次いで山岳部を創立した。北大もスキー部が1912年から創部、そこから山岳部が独立したのが1926年。
リュックサックはもともと現役の部報であり、2011年に14号が出ていて、今回は15号。1990年代・平成以降は現役部員が少なかったためリュックサックは次第に両者合同の内容で編集されているようだ。内容は過去100年の早大山岳部のあゆみがダイジェストで記される一方、14号以降の10年分の活動報告が厚めに盛り込まれている。
冒頭のまとめはよくまとまっていて、早稲田の100年を今回初めて知ることができた。実は早稲田の歴史について、失礼ながらこれまであまり印象がなかった。K2の大谷映芳氏と、翻訳家の近藤等氏と、あとは80年代の同世代数人の名を知る程度だった。早稲田は伝統があり部員も充実していたのに、死亡遭難事故や不運が多くヒマラヤ登山では79年ラカポシ、81年のK2まで成功を得ることができなかったことを初めて知った。また、その後の世相の変化による90年代以降の部員減少期の組織的葛藤や不信。ヒマラヤで活躍を期待されたやる気に満ちた若手が次々に死亡遭難事故で失われる苦しみなど、かなり踏み込んで事情を読むことができた。
他大学との対話でこれからの山岳部を考える、という企画のひとつに、北大山の会から11人が座談会に出席し、北大的な山岳部気質などを紹介する機会が設けられた項目がある。私達にとって、早稲田も含めた東京の山岳部の活動は、「監督、コーチ」「合宿」「トレーニング」という存在が示すように、かなりスポーツ的に見える。歴史的にも、他校山岳部との競り合いを強く意識している気配を感じる。「スポーツ科推薦入試」も2000年代にあったとあり、発想としては競技スポーツを連想する。極端に言えば、彼らから、その要素を引き算して、さてどう山に登ろうか!といったものが北大流だったのだということを感じた。そしてそれぞれの寄稿を読むと、やはり早大自身の中にも「個人山行⇔合宿」という大きな対立する概念があり、それを内的に処理できず、苦悩して来ているように思えた。
巻末に年次順の会員名簿が併記されている。おかげで記録を見る際にたいへん助かるのだが、会員の総数が、ここに載せられるほど少ないことに驚いた。80年代以降のほとんどの年は一学年一人か二人しかいないのである。よくぞ続いてきたものと思う。
どんな時代でも大学山岳部にしかない魅力は、学生時代の当事者にはその時はわからないけれど、100年も続いた縦の時間軸を越えて、皆が同じ青年期を過ごした経験を共有できることだ。行く山は同じでいい(違う山でもいいけど)。馴染みのメンバーが生涯居る。おなじみの雪稜で迷い、おなじみのナメ滝で滑り落ち、おなじみのクラックに右手を突っ込む。おなじみの飲み屋におなじみのヒュッテ。ヒマラヤやデナリはオマケだ。老いたメンバーはそのおなじみの定点があることで、自分がどれだけ遠くまで来たか確かめる。若いメンバーには尊敬する先輩がいればそれでいい。そして、山で死んだ仲間のことを時々思い出すのだ。人のライフサイクルをまたいだそういう共同体は今、日本でほぼ失われつつある。なにかに勝たなくていい、文化を伝承するのが、大学山岳部でありたい。
2021-1-26 13:21
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【読書備忘】サガレン...
著者は硫黄島1945司令官、栗林中将のノンフィクション「散るぞ悲しき」で憶えのある著者。かなりの鉄道オタクとのこと。特に廃線ジャンル。樺太鉄道は憧れなので期待して読む。雑誌の連載紀行をまとめたものなので旅行記として読みやすい。
サハリンは、アイヌ・ニヴフ・オロッコ、ロシア、日本、ソ連の時代変遷で地名が三つある。ロシアとソ連時代でも違う。サハリンの地図を片手に、更に地名対照表を片手に読むと更に楽しい。
白秋、賢治など日本統治時代に訪れた人々の足取りも盛り込まれチェーホフ、林芙美子、村上春樹まで改めておさらいできる。後半の宮沢賢治の亡き妹を悼む詩集と辿るパートは東北本線や津軽海峡の下りなどの検証なども含めてサハリンからは離れるけれど、時刻表や車種の証拠からも詰める乗り鉄オタク手法込みのノンフィクション検証で、1923年の傷心の旅を解析するところはお見事。賢治の詩編の一言一句の吟味になるが、これはこれで大変面白かった。はるか昔読んだ賢治の詩は不思議と心に残りあり、詩特有の曖昧な受け取りだった言葉の数々も先行研究もうまくまとめられてこの本で明確になりました。賢治特有の草花や鉱石の解説も詳しい。妹の死、樺太鉄道旅行、そして銀貨鉄道の夜への流れを解釈する。
やはり樺太山脈スキー縦走に行かなければならないなあ。山岳部の仲間と、コロナが収まったら、旧国境を積雪期に越えて北上したい。帰りは鉄道で帰るのだ。やる気が出てきました。何キロくらい、無補給で行けるだろうか。
2020-12-16 21:09
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【読書備忘】追憶のヒ...
日本山岳会東海支部で、1970年のマカルー南東稜初登以来、50年間名古屋岳人のヒマラヤ遠征、東海支部の組織運営を担ってきたご本人77歳の総まとめ自伝本。東海山岳に関わった人にはたいへん興味深い歴史の、一つ一つの裏側を語ってくれる。
そして、AACHにとっては、偉才、原真氏の右腕として尾上氏が携わった数々の話が興味深い。東海支部設立、アンデス、ヒマラヤ遠征のゼロからのスタート、組織作り、資金集め、日本山岳会本部との確執(というかみんなが知っている妨害工作)、現場での破綻、遭難スレスレの格闘と成功などの歴史が尾上氏目線で語られる。関係者の多くが亡くなっているのも、おそらく今書ける理由でもある。やはり生き残った強みである。みんなが知りたいことでも、関係者が居る前ではなかなか文字にはできないものだ。何より尾上氏のその後果たしてきた実績と信用が、彼の書くことならと、周りを納得させられたのだろう。50年経って、やはりマカルー南東稜は歴史になったのだ。
1970年マカルー南東稜初登は、ヒラリーに「あの南東稜をまさか日本人が登るとは」と言われた、当時難しすぎる未踏8000mのバリエーションで、同年の日本山岳会(本部)のエヴェレスト(ノーマルルート第六登)に比べると、事情を知るものには段違いの快挙だった。だが、これは「思想家・原真」の強烈すぎるリーダーシップによって鍛え上げられた先鋭集団だから成功した。そのいきさつを、原さんの右腕役を務めた尾上氏が文章にした本書は、まことに興味深い。マカルーを、東海支部を、新撰組にたとえる下りがある。「尾上、明日までに○○を切れ」とささやく原さんはまさしく土方歳三ではないか。ぞくぞくするような展開である。
本書後半では、原さんが去った後の東海支部の40隊にも及ぶ海外登山隊の切り盛り、尾上さんを育てた東海高校剣道部、日大山岳部の活動なども触れられる。名古屋という土地に於ける人のつながり、その時代の背景が、門外漢にも判って大変おもしろい。1960年代の日大山岳部が極地山行に傾倒していたのを少々知ってはいたが、ここまでグリーンランドや北極点に通っていたとは。ヒマラ高峰系の海外ではなく、ソリを曳いて未知未踏の極地エリアに分け入るスタイルは北大の志向に近いものがある。日大山岳部の池田錦重氏や、名古屋山岳会の 加藤幸彦氏も触れられる。私はお二人と90年代にガッシャブルムやチョモラーリで山行を共にしたことがあり、知らなかった一面を読むことができた。人には出会う以前から歴史があり、そのいきさつを知ると、知っている人であってもまた多面的に見えてくる。
「誤解を恐れずに書けば、山登りは死ぬほどおもしろいのであり、おもしろいほどあっけなく人が死ぬ世界である。」ぎくりとするが的を射ている。誤解されそうなので書くが、人の死がおもしろいのでなく、「(その山登りがギリギリ生還するような過酷なレベルのもので、おもしろければ)おもしろいほどあっけなく人が死ぬ」という意味と解釈する。敢えて誤解されそうな書き方をするところが尾上氏流の味かと思う。こんなお節介は不要か。原真も書いていた。「山には死があり、したがって生がある。下界の多くにはそれがない。」
また原さんの本をよみたくなった。
尾上昇(おのえ・のぼる1943年生まれ) 2020 中部経済新聞社 1600円+税
2020-11-11 14:32
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第93回ヘルヴェチア祭...
今回はコロナ対策としてOBには案内は出さず現役のみで企画、開催。
ヴェチア幹事の佐藤君(4年目)からの報告を混ぜてレポートします。
参加者は現役13名、2013以降の若手OB7名 水産4年1名。指導のため特別参加のOBは井ノ上、石川部長と私。現役と若手OB2人は昼間は赤岩で登ってから到着。
17時頃から前夜祭。部長から挨拶と小屋生活や山行を通しての山仲間の意義を、私から作った小屋管理マニュアルの説明の後、幹事(オレンジ帽子)が乾杯。料理は2年目シェフ田中君により、豚汁、唐揚げ、大根の煮物、サラダ等。
現役と若手OBら。3年目がいないが1年目が4名いて全体で15名近くと何とか部員数は維持。若手OBに協力してもらって2年班のリーダースタッフをお願いしたい。
女子が3名も。焚き火を囲んで自己紹介、山の四季などを歌いお開き、一部の者は日付をまたいで話し込んでいた。
我々OB3名は19時頃に退座して帰ったが、その前に現役は山の四季含め、カメラーデンリートも知らないというので2〜3曲と、森田君(1973入)が現役2年目に作った「ヘルヴェチアコンパの歌」も歌唱指導してきた。部室には1993発行の歌集「山の四季も」あるというが、山と歌は我々には切っても切れないものなのだが〜OBの指導が必要か。
ヴェチア祭り記念集合写真、ロゴと国旗は佐々木ロタ(1955)の90周年の際の労作。本祭としてヴェチアの女神に祈りを捧げ、集合写真を撮り解散。
小屋大掃除での床ワックスがけ。以前より木目が浮き出てきた。
前日私が砂利を積んだダンプで小沢を越えて砂利敷き。山の会会計に了解を得ての作業でバイト代として現役にもカンパをしてきたが、途中でぬかるみにはまり動けず、結局レッカーを救助要請して高いものになってしまった。
2020-9-29 15:20
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【読書備忘】人間の土...
東海大山岳部で2006年、若くしてK2登頂を果たした小松由佳さんは、その後山をやめてシリアの遊牧民を撮影するフォトグラファになった。なぜ山をやめたのか、以前はそれを知りたかったが、今は少しわかる。K2登頂生還者というオリンピック並の金メダルは、その後自分の山登りを若々しく無邪気に正直に続けていくのには重すぎるものだったのかもしれないと推測する。信頼できる仲間、積み上げた技術と体力、高所で酸素が切れてもヤラれなかった才能、これだけそろえても更に強い運が加わらなければK2から生還はできない。彼女は賢明で、成功のあと、足りたものを知り、無理に世間の期待や相場に合わせて「高所登山中毒」に陥ることなく、自分の別のテーマにすっと移行したのではないか。
家族を大切にし、伝統の中に価値を見出し幸福に暮らすシリアの家族を撮影した写真集、「オリーブの丘へ続くシリアの小道で」は、彼女の新しい世界をみせてくれた。しかし、2011年に始まった民主化運動を弾圧するシリアの内戦はその後地獄と化して、今現在も10年近く続く終わらない悪夢だ。シリアに関わった彼女は、幸せだった人たちのその後の窮状を危険な治安機関の制限のなか撮影、あるいは取材し続ける。
https://aach.ees.hokudai.ac.jp/xc/modules/AACHBlog/details.php?bid=745&cid=7 帯に角幡氏とヤマザキマリ氏の推薦文が。探検家角幡氏はわかるが、ヤマザキマリの応援はなるほどと思った。小松氏は、シリアの60人もの大家族の末っ子男性と結婚し、元ベドウィン(遊牧民)の砂漠伝統家族の仲間入りをするという、思い切った人生を選択していて、この点が「モーレツ!イタリア家族」の一員になったヤマザキ氏や、イギリス人と結婚し最近おもしろい本を連発しているブレディみかこ氏に通じるたくましさがある。本著の前半はそんなベドウィン風の古き良きイスラム的大家族の幸福な魅力が語られるのだが、今世紀最悪のシリア内戦の当事者として、ストーリーは続いていく。
思うに彼女は、選ばれてしまった人なのだ。強剛登山家が4人に一人の確率でがあっけなく死んでしまうことで有名な死の山K2から、仲間と才能と努力と運に恵まれて生還した運命といい、地獄と化すなんて想像もしなかったほんの数年前の幸福な時代のシリアを知った上で、今の惨状を知ってしまった運命といい、本人も予期しなかったことではないか。
しかし、アフガンの故・中村哲氏も言っていた、「見てしまった、知ってしまった、放っておけない」これが彼女の運命ではないかと思う。そして運命は、弱い人間を選びはしない。大学山岳部で山登りにとことん打ち込み、強い心を持った彼女だから、今こうしてシリアの内戦から逃げずに歩んでいけるのだ。そしていま最もやりがいのある仕事、ちいさな二人の子供と歩む実り多い人生を過ごしているさなかだと思う。
「山岳部員出身」というちかしさから、20代の数年間を山登りのことばかりを考えて過ごしたという共感から、彼女の人生をひとごとと思えない。彼女は、自分で選んだ人生の舵を決して離していない。船は波に漂うが、舵だけは自分で握り続け続けている。子どもたちのビレイを続けながら。その姿がとても尊い。
人間の土地へ
小松由佳
2020/9
集英社インターナショナル
2020-4-15 21:46
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【読書備忘】渓谷登攀...
大西良治著「渓谷登攀」が出版された。ガイド本を除いて、沢登りの本としては成瀬陽一氏「俺は沢ヤだ」以来の事だろうか。いや、「外道クライマー」以来か。
登山者人口が増え、情報もそれなりに流れるようになりかつてのハードル高さも減じて夏道登山だけに飽き足らずクライミングや雪山、そして沢登りにも手を染める人達も徐々に増えてきたように思う。それにしても、このような特殊な本にまで手が伸びるとは到底思えず、出版元の山と渓谷社の英断を称えたいし、こうして沢登りの深部が紙媒体として残ったことを祝いたい。装丁も、表紙からして配色やI滝と文字の配置よろしく洗練されており、編集者の労をねぎらいたい思いだ。目次等、背景が黒で文字を浮かばせたそれらは、渓谷内のゴルジュを意識したものだろうか。
台湾渓谷での沢登り(溯渓)や日本の険谷遡行に多少なり関わってきた身として、この本がどういった価値を持つ本なのかを語ってみたい。
著者である大西良治氏については御当人の開設する「SOLOIST」を参照頂くとして、ここでは客観的な補足に留めたい。クライミングに魅入られて入れ上げる多くの人々が、登山総体の中での一ジャンルに過ぎないクライミングという行為自体を目的としてしまうだけに満足する中で、大西氏はクライミングを手段としてこれまで通過やトレースが許されてこなかった大滝や不明だったゴルジュを解明し、時に新ラインを引いて我々オールドスクール出の溯行愛好家を驚かせた。またそれらが主として単独で成された点に尚、驚かされた。
まずは国内掲載の「日本の渓谷」について。25本の掲載があるが、私の少ない経験に照らしてもどれをとっても一筋縄ではいかない険谷群の羅列である。登攀的要素が強く、単独でロープを出すとなれば「ソロイスト」という制動ギアを使用した登り返しの必要な倍手間を喰うシステムとなるし(赤川地獄谷、オツルミズ沢、池ノ谷、梅花皮沢滝沢、剱沢等)また、泳ぎを強いられる谷(不動川やザクロ谷、五十沢)では水流への引き込まれを回避できる確実な方法がないために“賭け”ざるを得ない場面も現れる。増してや滝や高捲きのフリーソロ部分では絶対に落ちられない。一本一本が遡行愛好家の究極の目標たり得るものばかりであるが中で「日本の渓谷」のハイライトは『称名川』、の項である。入口とも言える称名滝(しょうみょうのたき)が世紀末周辺に登られ出すや、次に注目されたのが当時未踏を誇った「称名廊下」であった。探検家である角幡唯介氏や北大探検部卒の故・澤田実氏、そして上記成瀬氏もこの「日本最後の地理的空白地帯」に注目して懸垂下降しては廊下部分の踏査をし、写真を残していた。成瀬氏に至っては計画の発案者である青島靖氏と共に称名滝落ち口からの溯行や、称名廊下終点からの下降とトライアルを重ねたものの水量の多さやスケールの大きさから「今までの溯行スタイルを越えた何かを掴まえること」が初溯行には必要となるだろうと記録に書き残し中退している。これら動きに連動してか、大西氏もこの称名廊下にエントリーして、氏としては”不本意ながらも”初めての偵察やエスケープ路の確保をした上、初溯行を成功させた。それらにも飽き足らず、更には称名滝(フリー)登攀から称名廊下、そして源頭の室堂までの溯行を(デポを置きながらも)ワンプッシュで完成させ、区切りとしている。誰の手も借りることなく。これら一連の行為に投じられた情熱や労力の総量たるや、計り知れないものがある。
この本に紹介された記録には、幾本かの重要な意味を含んだ山行が採用されている。それは、引き返しの効かない地点を意志的に踏み越え、困難を乗り越えた末に生還している点である。しかも“良いスタイル”で。台湾の大渓谷に踏み込むにあたって、谷中でトラブルやアクシデントに見舞われた際にはその奥深さ故に救援は全く見込めず、自力で対処し行くか戻るかの判断を迫られることもあり、何があってもパーティー内で処理し、覚悟を持って入渓する点は多少なり救援の見込めるヒマラヤ登山以上の心理的ハードルがある。その意味で「台湾の渓谷」での記録はその“ある地点”言い換えれば「境界」をどれも踏み越えているし、称名滝右壁登攀、そして「CANYONING」の項では剱沢や恰堪溪(チャーカンシー)の1st descent、Gloomy Gorgeの2nddescentもソレに該当している。
尚、我々が行っていた二十世紀末の台湾溯渓は、同行する現地の嚮導者の人数や力量もあって実にオーソドックスな遡行スタイルに終始し、困難な滝やゴルジュ帯が現れれば一日掛かりの大高捲きを敢行して回避し自然、日数に制約を受けた“そこそこの”中規模渓谷までの溯渓に限られていた。しかし世紀改まり、台湾溯行の際の嚮導者、人数等の制約事が良好に改善されたことも手伝って且つ日本からは精鋭達が集い、この魅力溢れる台湾島の未踏大渓谷群にありったけの情熱や力量を注ぎ込むことが出来た結果、たった一本の渓谷に二週間にも渡る沢登りとしては長期の日程を投じて高捲きを極力排した完成度の高い溯渓が次々と成された成果が、この本にある。規模の大きな台湾渓谷での高捲きは溯行に際して日数を食い潰す排すべきスタイルであり、高捲きを選択せず些か強引な手段を採ってでも中を通過した方が遡行は遥かに捗ることを示した。高いクライミング能力を武器に、ボルトの使用すらも排し、且つ不明部分をつくることなく行程を早く進められる。そのことは、前記青島・成瀬両氏が長渓、豊坪渓を三度に分散して完溯したのに比べ、彼らは(途中入渓だったとしても)ワンプッシュで左俣を成し遂げたことにも現れている。
渓谷溯行で現れる、一見して通過不能と見える鬼気迫る暗いゴルジュや廊下が人生の苦悩の、登攀困難な滝が人生の困難を象徴するならば、これまで殆どの人達に高捲かれ内院を覗かれず未知として残されてきたそれら空白部分に、著者である大西氏は時に単独で怯むことなく挑んで最も数多くそれら困難を乗り越えてきた人物といえる。
ただ本人が単調な表現の繰り返しを避けるのに苦労したと言っていた通り、志水哲也の「大いなる山 大いなる谷」が発刊された際に柏瀬祐之氏(「山を登りつくせ」の著者)が指摘したのと同じこと思ったのも正直なところである。それと、我々が台湾の沢登りを現地語で「溯渓」と呼称した言葉がここには殆ど現れなかった点は、我々が積み重ねた溯渓と氏が行った台湾溯行とが地続きで(水脈で繋がってい)ない感じを受けたのは少々残念であった。
とは言え、アルパインクライミングにも引けを取らない沢登りの可能性を未来に提示した点で、本書は価値ある一書である。素晴らしい大判の写真を目にするだけでも本書で展開された行為の迫力の一端に触れられる。
私が台湾溯行に手を染めた頃、極秘入手したその広げたゲジゲジ台湾地図を前にして解明される未来などまずやって来まい、そう手前勝手に思い込んでいた1990年代初頭時から凡そ30年、21世紀を迎えて主たる水系はあらまし溯行され解明されてしまった! 驚くと同時に、そんな同時代を生きて目の当たりにすることが叶ったのは幸いだった。
最後に名誉の為に申し添えたいのだが、日本の険谷登攀はじめ、称名滝、称名廊下、そして台湾大渓谷のこれからを将来に向けて世紀末の段で既に提示していた青島靖氏(大阪市大山岳部OB)の先見の明について、ここに記して本文を締めたい。【20200413記】
2020-2-24 15:43
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2020年関西支部新年会
日時:2020年1月25日(土)
場所:京都三条木屋町 温石 左近太郎 参加者(敬称略、入部年西暦下二桁):吉田(57)、相田(58)、神戸(59)、高橋(59)、田中英(59)ご夫妻、内藤(59)、渡邉(59)、川道(62)、須田(62)、岸本(65)、池上(70)、宮本(82)、岡島(83)、多田(86) 合計15名
報告:岡島(文)、宮本(写真)
会場の「温石 左近太郎」は、典型的な京都の「ウナギの寝床」であり、3回続けて会場になったためか、慣れ親しんだルームを思い浮かべた。12:30開催で、実に4時間にわたり、30年の入部年度差にもかかわらず、あちこちで話が咲き続けた。会費もなく遭難対策もない、親睦の集まりであるが、最後は肩を組み山の四季で締めた。
「若いOBの参加をもっと呼び掛けるように。」との川道支部長の号令を受け、脈のありそうな数名に直接コンタクトを取るものの、皆々ご家庭の用事があるとの事で残念ながら「ご盛会をお祈りします。」とのご返事。新しい面子が得られない中で、池上宏一さんが久しぶりに関西支部の集まりに顔を出された。
昨年10月の湖北合宿の報告に記した朝比奈英三先生と川道支部長とのアラスカ大学での件を池上さんが目にされ、1972年マッキンレーの下山後にアラスカ大学に川道さんを訪ねて行かれたことを懐かしむコメントをAACHのメール連絡に載せられた。私も30年近く前にデナリ公園でキャンプしたときにマッキンリーを北面から望んだことがあり、部報12号に掲載されているマッキンリー遠征のダイジェスト版を読み直した。
カヒルトナ氷河からウェストバットレス経由で頂上アタックはノーマルルートを辿るが、登頂後の下山が他所では考えられない行程となっている。詳細は「寒冷の系譜」にも記されており、越前谷さん達が語っている様にルームのセンスに徹した「3年班」と位置づけている。また東晃先生がこの長いワンデリングを褒めておられた事も嬉しい。まさに冬山メイン山行で、十勝川からトムラウシを登って石狩川に乗越すスタイルをアラスカで実践されたのだと思った。
池上さんは1980年のバルンツェにも登頂されている。この時の装備開発と気象研究が2年後の冬期8000m峰につながった経緯が「寒冷の系譜」に詳しく報告されている。 そして更に、越前谷さんが「池上の作った膨大な事務局ファイルというのは、全部記録として残っている。このファイルはAACHが初めて立派な登山報告書を作る上に貢献した。」と評価されている。その談の通り池上さんは、1本締めのアタックザックに収めたマッキンリー遠征のアルバムと地図を持参して下さった。
アルバムには写真とスケッチが丁寧に整理されており、報告書で見た覚えのあるチロリアンブリッジでクレバスを越える写真が、何故か目に焼き付いている。
さて、関西支部の報告というよりも池上さんを巡る“寒冷の系譜”を断片的に追った内容になったが、関西支部の常連メンバーは益々ご健勝につき詳細報告は割愛させて頂きたく。終わりに、今回欠席の連絡を頂いた窪田さん、伏見さん、福本さん、米澤さん、石松さん、川井さん、中谷さん、鈴井さん、三瓶さん、またの機会にお会いしましょう。
2020-2-6 14:13
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2019年秋関西支部会員...
2018年9月20日に京都駅前のビアホールで「甚暑祓い/豊穣祈願」の飲み会を開いた。この年の関西は梅雨時から尋常ではない暑さが続き、関西支部の先輩の何人かは、参ったと弱音を吐いておられたので、少し涼しくなったら顔を合わせ気分転換をはかるのも良いのではと急遽集合を設定したもの。(飲み会参加者:安間、相田、高橋(昭)、田中(英)、内藤、伏見、川道、岸本) 勿論皆様お元気でいつものようにジョッキ片手に近況雑談で盛り上がりました。席上、安間さんから空沼小屋の現状を話していただき、胆振東部地震がありスタートが遅れたがこれから北大当局を説得し、空沼小屋及びヘルベチア小屋を有形文化財として登録申請するように進めてゆくとのこと。
2020-1-14 21:44
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2019ヴェチア祭り レポ...
現役のヴェチア幹事岡崎君から第92回ヘルヴェチア祭りが10/27に催され、写真とレポートが来たので遅くなったが編集しました。
OBは川道(1962入)、小野寺(65)、高橋(66)、安藤(70)、岩間(70)、中村(88)の6名、 現役は15名、若手OB2名他2名で計26名。峠越えは若手OB神谷(2015)1人のみ。主任幹事の笠井(4)の挨拶で前夜祭スタート。現役は今年は1年目6人が入部し将来は明るい。途中小雨もあったが焚き火を囲む。OBからの酒や料理の差し入れが例年より多くありがたい。例年の現役ワンコイン、OBからは3000円の会費で間に合う。メニューは生ハムにクラッカー、ラーメンサラダ、鍋、ポテトサラダ、牛丼、とりわさ等。
朝は昨晩の鍋にうどんを入れて朝食。11時ごろまで小屋の掃除や薪割り、煙突掃除など。手こずった薪割り用の切株数個残して記念撮影。11時半ごろ解散。
北海道新聞20200112別冊
道新記者が当日取材しにきて、丁度1/12日曜版別冊に山小屋の鎖という題で2面に渡り特集を組んでくれた。
ヴェチア幹事の岡崎君や小泉前会長、空沼小屋の保存を考える会の安間会長のコメントもあり、なかなかの小屋PR記事になっている。14年前理学部博物館で催された山小屋展の再現ともいえる記事。写真入りのインタビュー記事の在田氏は山スキー部OBで当時の館長。
2019-11-2 14:56
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関西支部 月見の会
日時:2019年10月19〜20日
場所:奥琵琶湖キャンプ場
参加者(敬称略、入部年西暦下二桁):吉田(57)、相田(58)、高橋(59)、田中英(59)、内藤(59)、川道(62)、須田(62)、米澤(69)、奥様タップティムさん、石松(73)、宮本(82)、岡島(83) 合計12名
記録的短時間大雨情報が千葉県に発表されるなど、10月19日土曜日は関西地方も天候が不安定。今夜は外でのBBQは無理かなと思案しながらJR湖西線の安曇川駅に向かい宮本さんと合流する。天候は回復に向かい12時過ぎに駅に着く頃には雨は上がった。
安曇川は琵琶湖に流れ込む二番目に大きな河川で、比良山系の雪解け水が流れ出す春先には、「琵琶湖の深呼吸」と呼ばれる全層循環を引き起こす要因の一つであると、以前の月見の会で伏見さんがレクチャーされた事を思い出す。
我々先発隊は先ず、淡水魚専門の養殖場でイワナを仕入れる。養殖池にはニジマスやビワマス、鮎やコイがたくさん泳いでいた。次のスーパーで酒や肉、野菜の買い出し中に石松さんと遭遇。石松さんに永原駅での須田さんの迎えをお願いし、宮本号は今回のベースキャンプとなる奥琵琶湖キャンプ場へと直行する。
ここ湖北の西浅井町は、柴田勝家と羽柴秀吉の合戦となった賤ヶ岳が直ぐ東にあり、西方は鯖街道など御食国の若狭から朝廷に水産物を貢いだ街道も多い。また今回のベースの最寄りの集落である永原は、隣町の塩津と合わせて古代から琵琶湖の水運の要衝であった。更に、北方の山並みの向こうは越の国となり、敦賀・舞鶴からは小樽行きの船便(北前船)が蝦夷ヶ島に通っている。現代は塩サバに代わって、大飯・高浜の原子炉から赤坂山を越えて高圧送電線を電気が送られて来る。ちなみにこの辺りは関西では貴重な山スキーのエリアである。
今回の会場は薪ストーブ、キッチン、冷蔵庫、ベッド、風呂、ウォシュレットトイレ付の別荘風の2階建てのコテージ。玄関前のバルコニーを宴会場として、テーブルと椅子を並べ、夕食や炭起こしの準備をしている間に12名全員が集合し、午後4時に開宴となった。イワナの塩焼き、焼肉、鳥鍋、鯖寿司、マス寿司と饗宴が続き、米澤奥様のタップティムさんが華を添えて、インターナショナルな会話が弾んだ。
雲も晴れ、月も望めた9時過ぎに山の四季を歌い屋内へ移動。その後、高橋さんが準備された空沼小屋とヘルべチアヒュッテを巡るスライドショーの上演となった。またこの会に先立って芦峅寺の佐伯トンコのご長男である高男氏を訪問され、関西支部の山小屋に置かれていたヒュッテン・ブッフやアルバムを持参された。小屋ノートの緒言は吉田さんで始まり、途中には富山での雪氷学会の折に立ち寄られた木崎ジミーの筆跡もあり、最後は高橋さんの文で終わっていた。
高橋さんが探されていた物の一つは、芦峅寺の山小屋「北大山の会関西支部ヒュッテ」に掛けられていた伊吹良太郎さんの墨跡の看板でした。しかし残念ながら見つからなかったとのこと。確か30年ぐらい前の山の会会報に看板が写った写真付きの記事が載っていた記憶がある。「関西支部の名越ら悪童たちがまた今年もやって来た・・・」と記した恐らくトンコの寄せ書きだったと思う。私の手元にはこの会報は見当たらなかったが、平成11年に編纂された北大山の会会報の総集編を捲ると、昭和53年12月第46号「中野征紀前会長追悼号」10頁(p472)に「芦峅寺の山小屋」の題で関西支部の一文がある。
また、平成7年に編集された「芦峅の自然児・トンコ−佐伯富男追悼集−」に寄せられた思い出話しも芦峅寺の山小屋での場面であったのかも知れない。また別の機会に、芦峅寺のトンコの山小屋の資料が公開されることを期待したい。その他の話題として、伊吹さんが編纂された「行手は北山その彼方−京都一中山岳部85年の歩み」(2003年12月発行)の資料の紹介もあった。
伊吹さんの京都一中時代の貴重な写真をはじめ北大に関する章もあり、一行を紹介します。「当時は一中から三高へ進むのが一般的なコースであった。しかし、『謀反』を起こして北を目指す人たちがいたのだ。その中で、最初にブランキスト線−津軽海峡を越えたのは加納一郎(大正5年)ではないだろうか。・・・」このような会話が盛り上がる中、夜は更け11時過ぎ、7時間にも及んだ大宴会はお開きとなった。
翌朝はパンとサラダ付きベーコンエッグ、スープとコーヒーの朝食で始まる。合宿なので自炊である。朝食の後、皆さんの近況と今後の抱負を語って頂いた。
吉田:学生のヒマラヤでのフィールドワークを企画しています。ゴンドワナ地質環境研究所まで。
相田:六甲山を越えて有馬温泉に通っています。
田中:クルージングの海外旅行を楽しんでいます。同期会が段々と閉会し、世代を超えた山の会の集まりは大切な時間です。
内藤:家内と孫の世話をしています。若い人向けの料理も作って食べさせています。
川道:大学院生の海外での学会発表の支援をしています。川道国際学術交流協会まで。
ムササビの写真集を米国で出版するための編集中です
須田:自給自足の農業を営んでいます。
米澤:タイと日本の季節の渡りをしています。
タップティム:タイにいらしたときはぜひ遊びに来てください。
石松:定年後で余裕が出てきたので出席しました。アルバイトで足腰を鍛えています。
宮本:災害情報に関するインフラ整備の事業を立ち上げています。
岡島:冬山は雄山東尾根を考えています。
湖畔のベースキャンプを10時に撤収し、永原の駅前で散会となった。吉田さん、相田さん、内藤さん、川道さん、須田さん達と湖西線の客車のコンパートメントに二班に分かれて座り、車窓から琵琶湖の向うの横山岳、伊吹山、鈴鹿山脈を眺めながら話に花が咲いた。
川道さんの50年来の秀岳荘のアタックザックの話に始まり、51年ぶりにロシアとジョージアの国境にあるウシュバ南峰(カフカス山脈)下の氷河で見つかった小林年さんのザックの話に発展。ネンさんがザックを落とした理由として、秀岳荘のザックなら背負い紐が切れたのではなく、バックルの留め金のピンが革バンドの穴から外れたのではないか?
「ネンさんの岩登りの上手さは特別だ。」と川道さんが回想。その後は、写真家の星野道夫さんと朝比奈先生との交流の話も出た。「旅をする木」に記されている内容ですが、動物研究者でアラスカ大学に学んだという共通項で繋がった川道さんの話を聞くと、星野道夫と朝比奈先生の繋がりがぐっとリアルに感じられた。(注:低温研の朝比奈先生はアラスカ大学北極生物研究所のアドバイサリー・コミッティの一員として、留学中の川道とお会いしました)。合宿帰りの汽車の中の様な、ゆったりとした時間が流れた。
まだ陽も高いので、私は途中の叡山坂本で下車し、比叡山延暦寺を越えてキララ坂を下って修学院離宮の側に降りた。明後日の10月22日は即位礼。風水害が治まりますよう鎮護国家を祈念しながら帰路に就いた。
(文:岡島、写真:高橋、宮本)
2019-10-19 22:58
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【読書備忘】熱源 米...
熱源
川越宗一 文藝春秋社 2019.8
日露の文明に飲み込まれたかに見えるサハリン島の樺太アイヌと、独露の圧政にあり123年間独立を喪失していたポーランドの、19世紀から1945年の物語。
クライマー、ヴォイテク・クルティカの評伝をきっかけに、ポーランド関連本をこれで5冊目ハシゴしている。巨大なロシア文明に飲み込まれた東西の少数民族文化の数々に興味がある。19世紀はその滅びゆく最後の時期にして学術記録も残された時期。興味深いテーマの史実が盛り込まれたフィクションで、この秋の新刊。フィクションを思って手にとったけれど、かなりの部分が史実で驚いた。
以前からなんとなく思っていたが樺太の北緯50度線は、ただ日露が半分に引いた線ではなく、もともと南のアイヌと、北のニブフ(ギリヤーク)との大体の境だったのだろうか。
1875年の樺太千島交換条約での樺太アイヌの北海道への半強制移住、1904年日露戦争の日本軍による南樺太侵攻と40年間の統治、そして1945年のソ連南樺太侵攻。この時代に翻弄されて生きた樺太アイヌのヤヨマネクフと、1795年以降国を亡くしていたリトアニア・ポーランド人のブロニスワフ・ピウスツキ。遠く離れていたが流刑地としてのサハリン島で出会う両者。
読みすすめるうち、ブロニスワフの姓、ピウスツキと、ペテルブルクでのナロードニキの先輩革命家、ウリヤノフの名に既視感を感じてはいた。後半になって、実在有名人がたくさん出てくるに至って、ブロニスワフもヤヨマネクフも、実在の人物だったのを初めて知った。二人だけではなく、登場し生き生きと描かれる樺太アイヌたちのほとんども、民俗学者ブロニスワフによって記述され記録された人々だった。
登山愛好家の読者として注目するのは、1912年白瀬矗の南極探検隊の犬ぞり担当者として参加したヤヨマネクフの働きだ。わが主人公は歴史上ではこの役割によって名を留めているが、少数民族として南極隊に参加する動機とその葛藤、消えゆく存在とみなされることへの反発など、心の内がずっと描かれている。同じく終章で登場するウィルタ族の若く優秀な射手もまた、対照的なひとつのあり方として描かれていた。
この本で一番読みたかったくだりは、ヤヨマネクフがブロニスワフの録音機に、未来に向かって話した「願い」とも「祈り」ともいえる言葉だ(p249)。
「もしあなたと私たちの子孫が出会うことがあれば、それがこの場にいる私たちの出会いのような幸せなものでありますように」
「そして、あなたと私たちの子孫の歩む道が、ずっと続くものでありますように」
19世紀は近いようで遠い。自分の先祖でどんな人生を送ったか伝え聞いているのはせいぜい三代前までではないだろうか。1964年生まれの私なら父は1934年生まれ、祖父は1905年、曽祖父は1870年代、知っているのはそこまでだ。そして先祖の数は3人だけではない。母方にもその母方にもいて、2の階乗の和で増えていく。2+4+8+16ヤヨマネクフの同時代でも16人の直接の先祖がいるはずだが、ほぼ知らない。自分が「純粋な日本人」だと思っている多くの人も、明治初期の4代前の16人全員の生涯を知っている人は多くはないはずだ。アイヌもコリアンも無関係と思っていても、そうではないのだ。自分は旧家の10代目です、という人がいても、2の10乗=1024人のうちせいぜい一人の素性を知っているだけだ。子孫に伝えられなかった、多くの先祖たちの人生を思う。
「熱」という言葉は要に何度も出てくるこの作品のテーマだ。21世紀になり、姿を消したかに見える樺太アイヌの独自環境に根ざした暮らしぶりや習俗。しかし文化、物語は形を変えて残っている。見えないエネルギーの象徴として、「熱」が語られるのだろうか。
先週ちょうどラジオの音楽番組で、アイヌ音楽家のOKIがトンコリを奏でるのを聴いた。90年代半ば以降になって、ようやくアイヌ文化の価値を差別的偏見を通さずに評価する時代になった気がする。30年ほど前の北海道では、今では考えられない、ここに書きたくもないほどの差別的な体験を見たことがある。人が差別的になるときに、両者の無知を思う。作品中の主人公たちが人生通じて、無知からの脱却のために学校を作ろうと努力をし続けたことが印象的だ。
日本統治時代には近代化の開発が進み、ロシア統治時代にはかなり放置される傾向があったように思う。樺太の山河は幸か不幸かロシア統治下で21世紀にも物理的に比較的未開発のままだ。もし戦後も日本領だったら、高度経済成長期やバブル期に今の天然山河は失われていただろう。北大山岳部的には、すぐ近くにある「システム外」の秘境山域を、どこまでも山スキーとイグルーで北上していきたいと思うのである。アイヌ、ニヴフ、ウィルタたちの伝説を読み返しその世界を空想しながら。
2019-10-14 22:33
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北大寮歌祭(東京・蒲...
2019年10月14日(月・祝)に、東京・蒲田の大田区産業プラザで開催された北大寮歌祭に、AACHから9名が参加し、山岳部部歌「山の四季」を披露しました。
左から、中村(1979)、土田(1973)、清野(1979)、竹田(1968)、清原(1986)、 石村(1953)、山森(1986)、大村(1965)、山森娘(小6) 今年はAACHで1テーブルを専有し、世代を超えて交流を深めました。
壇上では、山スキー部、ワンゲルをはじめ大勢の「山の四季」ファンの方々の 応援をもらいました。「山の四季」が幅広く愛されていることを実感しました。
来年は、「2020年9月27日(日)、於:大田区産業プラザ」の予定です。 皆様、ありがとうございました。来年もよろしくお願いします。
北大寮歌祭サイト
http://www.ryoukasai.org/
北大寮歌祭動画配信サイト
https://www.youtube.com/user/ryoukasai
スマホ用の寮歌集アプリ
http://www.ep.sci.hokudai.ac.jp/~mkuriki/phone/ryoka/list_ryoka.html
山森聡(1986入部)
2019-9-28 15:38
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【読書備忘】アート・...
1980年代から1990年代にかけて8000m級を含む高所の困難なルートに、創造的なルートを見出し、事故もなく、数々の「芸術的」とも言えるラインの登攀を成功させて生き延びたヴォイテク・クルティカの評伝の和訳が8月に出版されて、かみしめながら、こってりと読書した。
表題がart of climbing でも freedom of climbing でもなくart of freedomというので、意味を考えながら読み続けた。読み終えるころ、納得する。山登りの喜びの芯の部分は、「自由」にある。
「自由」こそ、私自身が少年期から山に求めて飽きずに登ってきた山登りの魅力の本質の部分だと思っている。free。道具を持たず、社会システムの保護と制限から逃れて行ける所、それが「山」のはずだ。描くそのラインは、既存のものでも制限下のものでもなく、そして何より美しくなければならない。ガッシャブルムI,II峰縦走、ガッシャブルムIV峰西壁。今でもその美しさを後追いできない。
1947年生まれ。40歳前後のヒマラヤ高所で活躍の時代は、私の山登りを始めた時期であったのだが、同時代ではやはりメスナーとククチカの記憶はあったけれど、クルティカの憶えは無かった。その理由は、本書を読んでわかった。ククチカとクルティカ。名前が似ていて同時代の対照的なふたり。クルティカの軌跡は、当時のメスナーとククチカの「8000m争い」の時代に、惑わされず、始めから最後まで一本芯が通っていた。
「8000m峰全山完登という王冠」を懸けて「クライミングという高貴な芸術を、価値のない見世物に貶めた」。クライミングが持つ「ロマンチックで形而上的、そして美的な価値観を」無視し、「アルピニズムを序列化という罠に陥らせ」た。ということばに、クルティカの考えは集約される(330頁)。おそらくそれとつながる理由で、クルティカは何度もピオレドールの受賞を丁重に辞退し続けた。世から賞嘆を受け、自分がそれにふさわしいものと思い込んでしまう可能性を恐れたために。その丁寧に固辞する文面に、彼の誠実さがにじみ出ている。
読書途中で見た、ジミー・チン監督のドキュメンタリ映画「フリー・ソロ」のアレクス・オノルドの慎重で控えめな人格が何故かかぶってしまう。こちらも「フリー=道具なしあるいは自由」が主題。エルキャプの4時間フリーソロは快挙だけれども、同時に読んでいたクルティカのガッシャ4峰西壁は、誰にも映像化できまい。サードマンまで現れる限界の生還。どちらも「自由の芸術」にふさわしい行いだと思う。
ポーランドにはなぜ、あの頃突出したヒマラヤクライマーが続出したのか?これは個人的に長い間の疑問だった。70-80年代の社会主義体制に理由があったのかな?チェコスロバキアやハンガリーにだってタトラほどの山はある(と思う)。この疑問は何度か本書でも述べられる。この本を読んで少しわかったのは、クルティカの脱法精神が不条理な社会主義体制に育まれた面だ。「違法であることは創造的人生の一部なのです」「制約はほとんどが世界の悪者によって押しつけられ、私達を奴隷化します。これは自由の感覚を台無しにします。」(332頁)ディストピアや他国による長い圧政の歴史が芸術を生み出す、これは映画や文学でも多くあり「東欧産」には僕は心惹かれる物が多い。
クルティカの独白部分の一人称訳が、「です・ます」調であることに、はじめ小さな違和感として気にとまった。外国人の翻訳セリフや字幕は必要以上にフレンドリーというか、ときに馴れ馴れしいほど軽率な言葉遣いになりがちだ。これは日本メディアの悪習だと思うけれど。特にスポーツ選手や元気のいいキャラの場合は間違いなし。読み進めればすぐに分かるが、クルティカの言葉は思慮深く、難解とも言える言葉遣いだが、考えつくされて選ばれて出された言葉なのだろう。おそらく日本語ではこの丁寧な言葉遣いの訳がふさわしい人柄なのだと思う。それがわかるのが、意見の違いで別れていくパートナーたちに対する慈愛に満ちた言葉の数々だ。「アルパインスタイルの登攀には、とても深い倫理的理由があります。私は自分が大切に思う人としか行きません」(269頁)。
マッキンタイアと聴いたマリアンヌ・フェイスフルの歌(Broken Englishかな?)、トランゴで落っこちた後、ロレタンが聴かせてくれたダイア・ストレイツの歌(たぶん「Brothers In Arms」)。聴いてみると当時に時代を引っ張り戻してくれる。ポーランド人の名前や地名の発音しづらさが面白くてポーランド語初級教本やポーランドの地図と略史なども読みながら読み進めた。ポーランド、行ってみたくなってきました。
英語版で買って読んでいたクルティカファンもいるけれど、日本語でなければ私は読めなかったでしょう。理屈っぽくて言葉を選びに選ぶクルティカの独白を日本語にしてくれた翻訳者、恩田さんにも大いに感謝です。
2019-9-27 22:50
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51年前のザック・氷河...
51年前のザック・氷河で発見(小林年さんのザック)北海道新聞9月26日夕刊より
2019-9-14 21:05
山岳館
第13回世界の山々にナキウサギを訪ねる
2019-8-27 20:27
山岳館
北大山岳館
2019-5-21 14:11
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北海道流探検登山熟成3...
17日、1987年探検部入部の澤田実氏が、カムチャツカのカーメンの大岩壁の登攀山行中に事故死したと連絡があった。氏が高田馬場のカモシカスポーツにいた時、ライペンの褪せ柿色ザックと、伸縮性のカッパズボンを冬用に買った。今も継ぎ接ぎしながら履いている。そろそろ捨てようかと思っていたけど捨てられなくなってしまった。昨年3月、遠見尾根でイグルー作っていた時会ったのが最後。ニコニコしていた。
2年前、氏の著書の書評を編集部から依頼されて書いた原稿を以下に転載します。
山と溪谷 2017年2月号 書評記事より
北海道流探検登山熟成30年の技術論
北海道大学探検部の現役学生が北海道最大の鍾乳洞を発見し、彼らを取材したことがあった。函館で仕事をしていた10年ほど前だ。神秘的な深い穴の奥でその学生にきけば、「世界中の誰も来たことのない場所を僕らが見つけて、むふふという気分です」と答えた。誰も行かないところに行きたい。探検部員の真髄の言葉だったと思う。
著者澤田実氏は北大探検部、私は北大山岳部で、数年の違いで共に北海道の探検的山登りの洗礼を受けた。北海道の山は伝統的に未開であり、山岳部も探検部も共に探検的思想無くしては登れない。北大は、「遠くに行きたい、大自然に飛び込みたい」と考える若者が集まる所なので、活発な山系クラブがいくつも共存し栄えている。これは昔も今も変わらない。
実は私自身がつい三ヶ月前に、北大で育った登山経験を核に「冒険登山のすすめ」という本を出していて、今回澤田氏の本を読み、「・・・これはモロかぶりだ」と思った。山岳ガイドである氏が、初級者と登って気がついた沢や雪山の経験的な登山技術を書いていながら、雪洞(私の場合はイグルー)、焚火、地図読み、山スキーと排便問題にただならぬ力点を置いた特異な登山論が両者全く同じだった。なんだか自分の本の書評を自分で書いているような奇妙な状況である。しかし当然ながら、モロかぶりだからこそお勧めする。この本を読んでほしい。
澤田氏と私とは学生時代はほぼ入れ違いで、共通の友人は多くいるけれど長く話した事はない。示し合わせたわけでもないのに、同じ時期に刊行された必然について考えた。
今は登山ブームと言われるが、20代で山を初める人は多くはない。学生登山家として山を始める強みは、経験豊富なガイドではなく、数年しか違わない先輩と失敗しながら手作りで鍛える初期経験である。歴史あるクラブの経験智を引き継ぐおかげで、なんとかギリギリ死なずに、恵まれた時間と体力で長期山行をして、初めて得られる登山力である。我々の頃にはそれが当たり前だったけれど、今その環境はほとんどないと言っていい。90年代、中高年登山ブームとは裏腹に若者が山離れし、北大以外の大学山岳部は全国的に数を減らし衰退した。今再び若者が山に戻りつつあるが、どこも先輩が積み上げた経験智は途切れ、ゼロから積み直している所が多い。先輩がいなければガイドから教わる他はない。そんなに確か過ぎて責任を取ってくれる人から教われば、先輩から教わったような手探りでほどほどの失敗感がない。これは学生に限らずとも現代登山初心者の弱みではないだろうか。今はプロと初級アマに二極化し、中間の中上級アマ層がとても少ない。ヒマラヤ登山を見れば明らかだ。プロがアマを連れて行くガイド山行は盛んだが、手作りのヒマラヤ遠征に行くような上級アマチュア登山隊の話を聞かなくなった。山の世界の本当の胆力はこの層の厚さが重要なのではないか。
澤田氏と私の世代は、学生登山家が知恵と手探りと若い情熱で繋いできた部活登山の、最後の世代なのかもしれない。あの頃日本にプロガイドはほとんど居らず師匠の外注はなかった。手作りで泥臭い北海道式探検山登りの若者が本州に来て感じたアウェイ感を 、30年ちかく熟成させた登山哲学が揃って著作になったのだ。今の時代こそ読んでほしい山登り法だと思う。
「サスガは探検部」のクマスプレー被爆体験は必読である。山岳スキー競技の世界は、新しい道具にではなく新しい発想を新鮮と感じた。岳人誌に2010年頃連載していたものがもとだが2014年の冬期黒部横断長期山行の経験なども盛り込まれ大幅に書き直している。
よねやま・さとる1964年松本市生まれ。北大山岳部、カメラマン。ヒマラヤ、パタゴニア等を山岳取材。著書「冒険登山のすすめ」。
2019-2-2 12:55
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関西支部 新年会
関西支部新年会
日時:2019年1月26(土)13:00−16:00
場所:京都三条木屋町 左近太郎
鴨川と高瀬川に挟まれたウナギの寝床の様な京家にて、昨年に引き続き新年会を催しました。
周辺には角倉了以邸跡や佐久間象山遭難之碑、大村益次郎、桂小五郎、山縣有朋の寓居跡や別荘跡の碑が建っていて、島津製作所資料館が創業当時の姿で残っています。
江戸から明治にかけての事物が雑多に混ざった街角で、平成最後の関西支部のイベントを行いました。
先ずは川道支部長のご発声で、皆さんのご健勝と再会を祝して乾杯。
続いて岸本さんから、酔っぱらう前に、「北大山の会-関西-変遷史」編集の提題がありました。
関西支部の発足は昭和37年チャムラン遠征の募金活動や、坂本直行さんの大阪での個展開催(昭和39年)に遡ります。これら事業の応援に関西在住OBが参集したことが支部発足の契機です。その発足当時の資料を収集、編纂して記録に残すべく活動について出席者の賛同いただきました。参加者の年齢を考えますと、今こそ資料を収集する時期と思います。発足当時の記録や写真をお持ちの方は岸本さんまで情報提供をお願いします。
さて、宴のメニューは京料理の小鉢に始まって、太刀魚や寒ブリの刺身、メインはテッサ、唐揚げ、てっちりとフグのフルコース。宮本幹事の計らいにより京の地酒の飲み放題。月桂冠の大吟醸をはじめとする一升瓶をテーブルに三本並べてセルフで徳利に分注するところは、札幌の北18条界隈の安酒場のスタイルと変わっていません。
皆さんの近況報告や、登頂を断念した三浦雄一郎氏の話などで盛会の中、時折激しく降る雪を格子戸の向うに眺めながら札幌の冬に想いを巡らせました。
実は、昨年の新年会当日も激しい降雪で、田中夫妻は福井から参加できませんでした。今年もか、と憂慮していましたが、無事参加いただきました。田中さんの奥様の着物姿が京都の古い屋敷のたたずまいに溶け込んでいました(奥様は踊りの名取だそうです)。
奥様は、帰りの地下鉄からJRの駅に向かう途中も、上機嫌な田中さんの右手を肩で受けながら仲良く寄り添って歩かれて行きました。
「さあ、帰って全豪オープン・テニスを見よう。」という神戸さんの潮時を告げるコール。
肩を組んでの「山の四季」に続いて、応援団出身の窪田さんによる前口上で明治45年寮歌「都ぞ弥生」を高唱して平成の宴はお開きとなりました。
楽しく懐かしい時はすぐに過ぎ去ってしまいました。また秋に観月の宴でお会いしましょう。
若手OBの参加をうながす努力・秘策を探し求めています。
参加者(敬称は僭越ながら略、数字は入部年19xx)
窪田58、相田 58、高橋 59、田中ご夫妻 、内藤 59、渡辺(尚) 59、神戸59、伏見 61、川道62、須田 62、岸本 65、宮本 82、岡島 83、多田86
文:岡島、写真:伏見、宮本
2018-11-25 10:43
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関西支部 月見の会
日時:2018年11月10日(土)16:00〜
場所:琵琶湖畔 はなれ山水 大コテージ
参加者(敬称略、数字は入部年19** ):相田 58、内藤59、高橋 59、田中(英) 59、伏見 61、川道62、須田 62、岸本 65、米澤64ご夫妻、小泉74(ゲスト)、宮本 82、岡島 83 計13名
今年の月見の会は、趣向を変え、琵琶湖畔の貸切りコテージで開催することとなった。また、小泉会長と、米澤ご夫妻に初めてご参加いただいた。
開宴後、小泉会長から近況報告。北大山岳館の図書受入れ、空沼小屋の状況、北大山の会組織の今後の見通し等に関する説明があった。遠く離れた札幌で、山の会の運営に尽力されている方々のご苦労を察する。続いて、米澤さんからのご挨拶。仕事の関係で、長年、海外生活を送り山の会の活動に参加できなかったため、今後、山の会の活動にも参加していきたいとのこと。
その後、日が暮れ、差し入れの鮒ずしや、焼肉、鍋もの等をつまみながら、いつものように話が盛り上がり夜は更けていく。
今年は11月8日が新月であり、月見は期待できなかったが、それでも、細い三日月が見えた。これから満月に向けて新しく誕生した月を眺めるのも悪くはないが、次回は満月に近い日程での開催を目指したい。
焚火がないのが寂しいのか、岡島君が松の枯葉を集めてきてバーベキューコンロに投入。すると、誰ともなく紙コップや、食材の運搬に使用した段ボールなどを燃やし始め、人の背丈ほどの焚火ができた。
本格的な焚火なしでは寒い時期であり、また、近くのコテージに宿泊している数組の若い家族連れなどにも遠慮して、山の四季を歌うこともなく宴会はお開きになった。この点は次回の月見の会に向けた反省点である。
その後、コテージに入っても、進化論の話や今後の山の会の運営に関する議論を深め、少し薄い布団で眠りについた。
翌日は、スカッ晴れ。遠くの山々まで見通せる中、各自、寒い寒いと言いながら淹れたてのコーヒーをすすり、コテージの前で立ち話をしたり、散歩をしたりと自由に過ごす。
その後、近くのパン屋の焼き立てパンやゆで卵などの簡単な朝食を食べながら各自近況報告。そして、別棟で宿泊していた米澤さんを加え集合写真。
解散後、小泉会長を含む有志三名は、午後のフライトで帰札する小泉会長のスケジュールに合わせ、比良山系の堂満岳を往復。また、他のメンバーは最寄りのマキノ駅まで湖畔を歩き、三々五々帰路に就いた。
余談ではあるが、火を見ると何でも燃やしたくなるルームの習性がひと騒動を引き起こす。コテージのチェックアウトの際、コテージの女性管理人に「燃えるゴミは持ち帰りしているか?」と聞かれ、燃えるゴミは、すべて燃やしたと回答。
管理人は「そんなはずはない。通常このような大勢の宿泊の場合、大量のゴミが発生するはずだ。小さなバーベキューコンロで燃やせるはずはない」と言う。いくら燃やしたと言っても信じてもらえず、「コテージを確認するから一緒に立ち会え」と言う。結局、管理人と一緒にコテージに戻ったが、コテージは整然と後片付けされており、(恐らく管理人が想像していたのであろう)ゴミだらけの状態ではなかった。そして「山登りの人達は何でも燃やすのね」と一言。「いえいえ、我々だけですよ」と説明しようとしたが、先を急ぐので、誤解を解くことなく車を走らせた。
(記:宮本、写真:伏見、小泉、米澤婦人、宮本)
2018-9-9 20:11
山岳館
第12回北海道の森林変遷史 −花粉化石から復元された15万年間−
2017-12-27 18:01
山岳館
蔵書目録
2017-12-2 9:30
山岳館
部報2号
2017-12-2 9:30
山岳館
部報1号
2017-12-2 9:27
山岳館
カール
2017-12-2 9:26
山岳館
山の会会報
2017-9-9 20:41
山岳館
第11回山と美術と音楽と
2017-7-3 14:46
記事
北海道新聞に式典の記事が掲載されました(2017年7月3日)
2017-6-9 13:52
山岳館
山水無尽蔵/小島烏水/1906
2017-1-29 17:43
コメント
Re: これまでの部報紹介・3号(1931)上/(米山悟1984年入部)
2016-12-17 19:42
コメント
Re: ペテガリ冬季初登・72年前の今村さんのゲートル 米山悟(1984年入部)
2016-9-9 22:58
記事
空沼小屋改装仕上げ作業のご案内(2016年10月1~3日)
2016-7-28 22:47
コメント
Re: 暮しの手帖96 特集戦争中の暮しの記録 1968 うちにありました
2016-7-4 13:41
コメント
Re: 医学部戦没同窓生追悼式のご案内
2016-6-17 9:54
コメント
Re: 道新に今村昌耕会員の記事
2016-6-12 11:16
記事
空沼小屋修復工事いよいよ開始(2016/6/12)
2016-2-26 19:14
記事
北大・空沼小屋 修復保存工事決定と募金のお知らせ(2016年2月掲載)
2015-12-22 23:49
コメント
Re: おくやみ・谷口けい 米山悟(1984年入部)やま
2014-5-17 19:51
スケジュール
山岳館開館日
2012-6-21 12:49
海外遠征
パミール・レーニン峰(7134m)登頂
2012-5-24 9:42
記事
ダウラギリとその時代
2011-12-8 22:40
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リンク
2011-6-30 17:09
海外遠征
北大ネパールヒマラヤ学術調査隊1969
2011-6-30 16:34
海外遠征
スダルシャン・パルバート
2011-6-30 16:33
海外遠征
81-82年パタゴニア
2011-6-30 12:47
海外遠征
海外遠征の記録
2011-6-30 12:29
海外遠征
96ロルワリン・タンナ・リ峰遠征
2011-6-30 12:26
海外遠征
ヒムルンヒマール(7126m)初登頂