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山の会昔語り・ 2009年2月11日 (水)

山の会裏ばなしー(36) 三度の一度の佐渡島
山の会裏ばなしー(36)

  三度の一度の佐渡島
   
   北大山の会東京支部・木村俊郎(1950年入部)
昭和四十六年秋、小生は日本山岳会の会報で五百沢智也氏のヒマラヤトレッキング計画を知り、正月休暇を利用して、小型機をチャーターした数時間のフライトでヒマラヤ山脈のほぼ全域のフライトに同行する機会を得た。団体割引の航空券は半額という利点で利用したトレッキングの皮切りだったと思う。コンディー峰の肩まで登り、ナムチェバザールからの帰途ヒラリー卿と遭遇出来たのは偶然だった。

二月上旬には志賀高原でのスキーの会が恒例化していたが小生は少々クタビてスッポカしてしまったが翌年の志賀高原には既に述べた先輩の他、大和正次、中川一郎、福島健矢、江幡三郎、小平俊平など山口健児先輩に続く錚々たる古老連が集まった。昭和六年入学の中川一郎先輩にいたっては現役時代に大枚五円で買ったというスキー靴で現れ、フットフェルトのビンディングでテレマークを披露。テレマークといっても、膝をバッケンの前について屈み両手をヤッコ凧のように広げて曲がる大袈裟なものだった。この頃のスキー場では女性も混じったスキー教室も華やかになっていてゲレンデにはインストラクターを囲んで練習する一団がいた。中川先輩は大胆にも彼らの目を滑り降りた。ど肝をぬかれたインストラクターは、その華麗で珍妙な「曲げ」を指して生徒達に
「あれがテレマークです」
と叫ぶ一幕などがあった。
二日目は快晴に恵まれて横手山まで出掛けた。頂上に着くと桜井先輩が彼方を指して
「今日は佐渡島が見える」
と言われた。
これを聞いた「山ケン」先輩がすかさず
「おーい、佐渡島だ。三度に一度しか見れないそーだぞ。よく見とけよ」と・・・・、
当の桜井さんは、むきになって
「いや、三度に一度だと。十回やそこらじゃー見られやしないよ」と、
こんな冗談は、周りの人にすぐ分かるもので「山ケン」さんにいつもやられている連中が
「三度の一度のサンドガ島か」と・・・・。
クスクス、ニヤニヤと笑い出し、ご本人も気が付いて大笑いになった次第。

なお、このスキーの会の幹事役、言うなれば「山の会の小使いさん」で、明治生まれの長老達が行きたいという山を調べて通知状を作って配っていた役目は昭和五十七年に小生が海外勤務の内示を受けたので小枝一夫君が様式を変えて引き継ぎ、さらに四十二年入部のH君に移り会場を各地に広げ、様相も一新して現在に至っている。
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