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書評・出版・ 2026年4月30日 (木)

【讀書備忘】『雪線』―山に賭けた青春の群像ー和田城志  米山悟(1984年入部)


『雪線』―山に賭けた青春の群像ー
和田城志

大阪市立大学山岳部
大阪市立大学山岳会
2026年3月26日 発行

大阪市立大学山岳部の前身含めた部報22冊のダイジェストが届いた。

いまは大阪公立大学になった大阪市立大学は戦前大阪商科大学、更にその前身の大阪市立高等商業高校山岳部で1917年創立。その部報『雪線』の創刊号は1928年12月5日。戦前最後の18号(1942年12月25日)まではほぼ毎年発行。戦争期の空白を挟んで、戦後は19号が復活(1955年6月)、最後は22号(1965年10月10日)である。

大阪市大山岳部といえば1961年から1978年の初登成功まで数度の挑戦を続けたランタンリルンだ。第二次ランタンリルン遠征1964の報告を含む22号が最後。そのあとは、山岳部の活動を記録した部報は発行されなかった。その21冊(5号は欠損)の解題を和田城志氏が記したのが本書。和田氏とは、1969年〜1973年まで在籍し、1978年、念願のランタンリルン初登者となったうえに、その後生涯通じて雪劔、雪黒部横断、数次のナンガ・パルバットの敗退男にかけては世界一の和田城志である。

大阪市立大山岳部は、もう存続していないとのこと。残された貴重な部報の、読書家である和田氏によるダイジェスト、解題版である。

※以下「  」は和田氏文面からの引用

創刊号、第二号は部室の火事を免れた貴重なもの。それ以降はWEBの古書市で探したという。初期の部報は、積雪期登山なども行われず、「見るべき記録はない」とのことだが、当時の優秀な学生たちの洋書翻訳を含む研究や文芸、それに随想が目を引く。

同書では同時代の文献なども和田氏が引用し、時代背景の解説も充実している。特に1930年からはAAVK(関西学生山岳連盟)報告との合わせ読みで、京都帝大AACKや同志社、大阪醫大、神戸商大、甲南高校、三高の活動内容との比較がある。また1933年創刊の『ケルン』(関西のクライマーの月刊誌・藤木九三らによる)との合わせ読みの背景解説も読みどころだ。

第七號(1932)電源開発盛んな黒部川を案内人夫とともに平の渡しまで歩いている。冠松次郎探検同時代、電源開発工事同時代だ。

第十號(1935)から積雪期の山行記録が見られるようになる。薬師岳北西尾根を3月に登るなど「あまり知られないルート記録」あり。3月、岳沢から畳岩のコルへ上がって、ジャンダルムと奥穂高の、17時間ダブルアタックなど。

第十二號(1936) 3月−4月春山劔岳西面、現在は(雪崩のため)条例で入域を禁じられている池ノ谷周辺を夜間含め縦横に一気に敢行している「うらやましい記録」。

第十三號(1937) 対中戦争が始まった。初の海外遠征 夏の台湾北部、次高山(現在の雪山)遠征記録あり。

第十四號(1938) 加藤文太郎遭難の2年後の北鎌尾根3月記録「スマートさには欠けるが慶応や立教に先立つ素晴らしい記録」日中戦争の2年目、入営、戦地歓送の言及あり。ためらいの時局言及。

第十五號(1939)「最も輝かしい記録集」とある。延々25日間の積雪期黒部横断記録がある。「AAVK報告8號(1935 )の関西大記録に触発されたのだろう」とのこと。総勢13名、「ヒマラヤ遠征を思わせる布陣」。同時期の関西大の記録も引用して、その黒部横断記録に関する分析と考察を称えている。黒部横断歴世界一の和田氏ならではの分析だ。

第十六號(1940)白頭山の鴨緑江源流3月遠征記録。数年前のAACKの白頭山遠征の報告がメイン。1935AACK白頭山遠征の後追い的ではあるが、来たるヒマラヤ遠征のステップとして当時の海外遠征山行は国内の「外地」に限られたのか。国連を脱退し孤立した日本でなければという思いはあったろうか。周辺解説としては、1935京大のほか、1940年三高のユニークな白頭山遠征も言及あり。梅棹忠夫、藤田和夫、伴豊の20歳トリオ、のちの名高い研究者たちだ「白頭山の青春」。それに吉良竜夫、川喜田二郎も別に入山していたという。みなのちの京大学派だ。チンネ左稜線記録の森本はその後ランタンリルンの雪崩で死に、入江はインパールで死んだ。二度読み返すと愛おしい。

第十七號(1941)対米英蘭戦争が始まった。時局を受けた部長の緒言「錬成登山」という新語との葛藤。春の毛勝、猫又縦走。まだ未踏だった劔までの縦走を計画したが、ブナ倉沢までとなった。関西大と合同で17名。外国文献の翻訳と研究は、「中央アジア探検史要」「外國旗の下極地に活躍せる諾威船舶」「橇」など極地探検分野が充実している。


第十八號(1942)戦前最後の部報。「臺灣行」戦時体制の当局が何度も電報を送ってまで「中止を勧告したのに」登山を強行、遭難の誤報まで浴びて「次局柄益々自重せよ」と叱責を受けたが、無視して敢行した。大覇次高山縦走―霧社ー新高山ー八通關越ー玉理ー關山越ー高雄。「強者」だ。3月西穂から奥穂往復、滑落遭難ありきわどく生還。

第十九號(1955)戦争を挟んで13年ぶりの発行。これまでの記録で活躍した部員たちのほとんどが戦死していた。1936−1943年入部の12人がフィリピン、ラバウル、インパール、沖縄で戦死し、シベリア、北京、武漢で衰弱死していた。丁重な追悼文。山岳部技術の継承はほぼなされていないようだ。1955年の前穂北尾根で滑落に伴うナイロンザイル切断事件は社会的に話題になった。このとき落ちたが生還した大島はランタンリルンの雪崩で死んだ。AAVKの戦後復刊第一号(1957)の引用で阪大、京都工芸繊維大、京大、甲南大、神戸大、大阪市大と、各大学戦後復興の10年歩みも紹介している。京都工芸繊維大の、御嶽山冬季初縦走に目が止まる。

第二十號(1959)日本山岳会マナスル(1956)、京大のチョゴリザ(1958)を始め、戦後の復興で部員も増え、ヒマラヤ登山にむけ、意識が高まる。戦前1941年、途中までだったブナ倉沢から剣岳までの続きを果たす。

第二十一號(1962)日本で初のヒマラヤ死亡遭難のあったランタンリルン1次遠征1961の報告は別冊として出ている。「商大山岳部の黄金期が1938−1941とすると、市大山岳部の黄金期は1958−1962ということになろうか」部員数は最大で、複数の充実した積雪期参考記録があるとのこと。61年の遭難をものともせず伴明を中心に、滝谷、甲斐駒ー聖岳縦走、笠ヶ岳西尾根、北アで黒部横断を含む烏帽子隊、薬師隊など3パーティーの大縦走を行った。多発する遭難死とヒマラヤへの熱情。当時の空気をルーム日誌からの引用が伝えている。「第21号は全編伴の心情があふれた部報である。それはヒマラヤのみならず国内の山行にも表れている。彼は多分熱狂していたのだ。」と物語る。

第二十二號(1966)『雪線』の最終号。失敗に終わった第二次ランタンリルン報告1964も含む。西穂―奥穂、笠ヶ岳東面、小窓早月、明神―北穂、北鎌尾根縦走、烏帽子ー白馬など、唯一の女子部員岡内の屏風岩第一ルンゼ記録あり。

本誌にはこのほか、1961、1964、のランタンリルン、1972カンジロバ・ヒマール、1980ランタンリルン初登、1990四光峰の報告書のダイジェストと写真・図版がある。

大阪市立大山岳部はもう途絶えていて、OB会の山岳会は解散になるとのことで、まとめた100年近くの記録冊子だ。ダイジェストのダイジェストとしてこの場にまとめた。冊子の部数は多くは無さそうだが、ぜひ和田氏に連絡を取って、一読してもらいたい。

北大山岳部は今年創部1926年から100年で、秋までに出す記念誌をいま一生懸命書いている。日本の山岳部的山登りが始まって100年。若者たちの熱狂に時代周期というものがあるなら、どんなものなのだろうか。時間を越えて伝わる同じ熱狂は確かにある。そんな記録に出会うと、ひたすらに泣けてくる。
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