第4回
夕日沢のビバーク
昭和二十五年の秋、小生が入部した年のヘルベチア祭りは二十五周年記念ということ
でヒュッテの柾を葺き替えることになっていた。
柾はルームの前に山と積まれ、部員は事前に一人一束ずつヒュッテまで背負って行く
ことになっていた。一束の柾は十五キロ一俵の炭俵よりだいぶ重かった。ヒュッテに一
泊となるので、そのうえにシュラフや食料を持つので、かなり重いぞ、ということだっ
た。小生は若気の至りで、つい「二つぐらい背負えるぞ」と軽口をたたいてしまった。
さて、同輩の石谷邦次ことバスコムと二人で行くことになり、二束持てると言ってし
まったので後には引けない。しかし、積んである柾を持ってみると、湿り具合によって、
ずいぶん重さが違っていた。ずるく構えて一番軽そうなのを選んで二束を背負子につけ
てその上に個人装備のルックを、くりつけて出掛けた。
バスコムは一汽車遅れて後から来るというので小生一人で銭函から歩き始めた。峠の
手前の登りは結構なものだった。後で聞いた話だが、ここを「ガタのフラウの泣きどこ
ろ」と言っていたそうである。通称ガタ、山縣浩大先輩が家族づれでヒュッテに行った折
に奥さんがアゴを出した所だそうである。
峠を過ぎると楽になった。「下りよりは登るほうが楽だ」なんて言っていたのは見栄で
一人で歩いてみると、やはり下るほうがはるかに楽だった。どんどん、とばしてヒュッ
テに着いた。しかし、とばし過ぎたせいか、ヒュッテの扉を開けて腰を下ろすとすぐ長
くなってしまった。
目を開いた時にはもう真っ暗だった。だが、後から来る筈のバスコムは来る気配がな
かった。さらに汽車に遅れて止めてしまったのだろう、くらいに思って、飯と味噌汁で
夕食を済ませて寝てしまった。
翌日は空身同然で、悠々と定山渓を廻って帰った。それから数日後ルームで駄べって
いたらひょっこりと彼が現れて柾運びのことを話し始めた。
ひと汽車先に言った小生を追ってヘルベチアへ急いだが銭函峠を越えるとじきに日が
暮れた。夕日沢と覚しき辺りで真っ暗になりビバークした。小雨がばらついてきたので
柾の梱包を解いて体の上に並べて一夜を過ごしたのだという。
「シンマルがヘルベチアにも行けずにビバークした」と、当然のことながら話は大げ
さになりながら広まってゆくと、思いがけない噂がでてきた。数年先輩のベテランが
「実は俺も以前に夕日沢で迷ってビバークした。あの辺りはちょっとした鬼門だ」と言
っていたとか。大々先輩の誰それも冬の夕日沢でビバークしたことがあるのを明かした
とか。気が軽くなったせいか結構何人かの人がビバークを白状したようだ。いと妙(た
え)なり。
思い当たる人は、もっといるかも知れない。失礼。
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