80周年記念写真集(DVD)について
第1章 山岳部創立前史(大正期)
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第1章 山岳部創立前史(大正期) 第1章 山岳部創立前史(大正期)
解説
北海道では夏山登山が隆盛になるより前に、冬期のスキー登山が発達した。それは、まだ夏の山登りがほとんど行われていなかった時代に、独墺の山岳地方に発達した山岳スキー術が、北海道に輸入されたからである。
北海道にはじめてスキーの輸入された1911(明治44)年から、中央高地の山岳にスキー登山の試みられる最初の年1920(大正9)年まで、登山は羊蹄山のほかもっぱら札幌付近の山々で行われていた。したがってこの時代は登山記録として特に重要なものは少ないが、すべては全く新しい経験であったから、その時代の人たちの苦心と努力は、むしろその後の時代より大きかったかもしれない。この期間のスキーで初登頂された山には、手稲山、奥手稲山、百松沢山、チセヌプリなどがある。大正時代の終わりごろ、北大スキー部に一群の極めて優秀な登山家が輩出し、北海道スキー登山史上一つの黄金時代を造った。その中軸をなした人たちは、六鹿一彦、福地義三郎、板倉勝宣、加納一郎、松川五郎、板橋敬一、後藤一雄など、当時第一線で活躍した山岳人である。1920(大正9)年から22(大正11)年にかけての3年間に余市岳、ムイネ山などの西部山塊の主峰をはじめ、十勝岳、芦別岳、旭岳、黒岳など中央高地の山々の登攀が次々に成就された。
この時代の北大スキー部のスキー登山の中心をなした人たちは同好会を作り、本邦最初の月刊山岳雑誌「山とスキー」を刊行した。これはスキー部の機関紙であったが、槙有恒、松方三郎、大島亮吉など北大以外の人たちも常連の寄稿家で、きわめて高級な内容を持っていた。「山とスキー」は8年続いて刊行された後廃刊されたが、我が国の登山界に対する貢献は大きかった。 <中略>
スキー登山の発達は、いうまでもなく夏山の開拓に平行して行われたものである。夏山は1919〜20(大正8〜9)年に予科に入学した板橋敬一、松川五郎、加納一郎、館脇操らによって設立された恵迪寮旅行部が主に行い、中央高地の山々を始め、登山家の間には全く未開の処女地であった日高山脈も、1924(大正13)年以降、夏山の記録は急速に増大した。(伊藤秀五郎 北大山岳部五十周年記念誌 1978)
第2章 北大山岳部創立と日高山脈の開拓1926年 〜1935年
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第2章 北大山岳部創立と日高山脈の開拓1926年 〜1935年 第2章 北大山岳部創立と日高山脈の開拓
1926(大正15)年 〜1935(昭和10)年
解説
1926(大正15)年11月10日、北大学生集会所に栃内吉彦教授(初代山岳部長)、館脇操講師、予科ドイツ語教師アーノルド・グブラー先生を迎えて、先輩、学生ら七十余名が参集し、山岳部の発会式が挙行された。恵迪寮旅行部時代から山岳部設立を念願し、山仲間の育成に努めてきた田口鎮雄、佐々木政吉らの先輩達、初代山岳部主任幹事澤本三郎、スキー部からの独立に中心となって働いた伊藤秀五郎らが顔を揃えていた。山岳部は設立と同時に活発に歯車が動きだしたが、その理由はこれら先輩達に育成された有能な部員が多士済々であった為である。
1928(昭和和3)年2月8日、永らくの目標であった冬の石狩岳が、伊藤秀五郎、小森五作、和辻広樹、野中保次郎、井田清、西川桜により登頂された。これをもって中央高地での冬期初登はほぼ終わりをつげ、部員の関心は必然的に未開の日高山脈へ向けられた。日高山脈の登攀は、サホロ岳、アポイ岳など相当古くからのものを除けば、夏は松川五郎らの1923(大正12)年7月メムロ川からメムロ岳の登頂が純登山の最初である。1925(大正14)年7月、伊藤秀五郎らによるピパイロ岳、ポロシリ岳登頂を機に次第に北から南へと開拓され、その後10年間にほとんどの頂上が登頂され、多くのルートが開かれた。積雪期では1928(昭和3)年4月3日、西川桜、須藤宣之助によるトムラウシ川からピパイロ岳登頂を嚆矢とする。次いで1929(昭和和4)年1月小森五作、伊藤秀五郎、高橋喜久司、須藤宣之助は、前年秋にトッタベツ川上流に建設した仮小屋を根拠地として、日高山脈最高峰のポロシリ岳に登頂した。この仮小屋をベースキャンプにし、沢から頂上をアタックをする方式は、石狩岳登頂にも使用されたほか、冬期登山に多く使われた。
1927(昭和2)年秋、小樽内川上流の美しい白樺林の中に7坪半ほどの小さなヒュッテが建設された。このヒュッテは山崎春雄先生、アーノルド・グブラー先生、スイス人で建築設計家マックス・ヒンデルさんによって建設されたもので、両スイス人によりHELVETIA HÜTTEと命名された。ヘルヴェチア・ヒュッテは1934(昭和9)年11月、建築主より北大へ寄贈され、以来今日まで山岳部が管理をしている。
第3章 “遥かなる山ペテガリ”への挑戦1936年 〜1945年
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第3章 “遥かなる山ペテガリ”への挑戦1936年 〜1945年 第3章 “遥かなる山ペテガリ”への挑戦
1936(昭和11)年 〜1945(昭和20)年
解説
山岳部創立後の部員の目覚しい活躍により、中央高地の冬の山嶺はほぼ踏破され、日高山脈も冬期の未踏峰はイドンナップ岳、ペテガリ岳、中の岳、カムイ岳、ソエマツ岳、ピリカヌプリ等を残すのみであった。ペテガリ岳はこれらの中で最も地形が急峻でアプローチが長く、それだけにパイオニア魂の旺盛な部員達にとって魅力のある“遥かなる山”であった。ペテガリ岳の冬期登頂の試みは、少数精鋭により1934、36(昭和9、11)年の2回、また部の総力を結集した極地法により第一次1937(昭和12)年、第二次1939(昭和14)年の2回行われたが何れも敗退した。
この間1938(昭和13)年にも極地法による隊が計画されたが、直前の十勝岳スキー合宿で山岳部創立以来初めてとなる遭難が発生、2名の部員が雪崩により死亡し、その捜索の為に取り止めとなった。第二次隊は、コイカクシュ札内川を登攀中の隊員9名のうち8名が、新雪雪崩に巻き込まれて死亡すると言う悲劇に見舞われた。遭難の処理が一段落した翌1941(昭和16)年3月、朝比奈英三、橋本誠二が国境稜線に雪洞を掘って挑戦、ルベツネ岳まで到達したが強風に阻まれ撤退した。同じ年の5月4日、今村昌耕と住宮省三がやはり国境稜線に雪洞を掘って挑戦、頂上に達することが出来た。5月の登頂であった為冬期初登とは見做されなかったが、ともかく雪のあるペテガリ岳の頂に立った事は意義あることであった。
1941(昭和16)年12月太平洋戦争が始まり、国民生活の様相が大きく変わり、学生生活、山岳部の活動共にいちじるしく制約を受ける中、なおも冬期ペテガリ岳を目指す山岳部員の努力は続いた。1943(昭和18)年1月5日、コイカクシュ札内岳に設けたイグルーを午前3時に出発した今村昌耕、佐藤弘がついに登頂に成功した。午後6時30分にイグルーに帰着、15時間を超えるアルバイトであった。1月5日は奇しくも第二次隊が遭難した日であった。
ペテガリ岳に挑戦した10年間に中央高地では1936(昭和11)年3月、音更川から石狩岳、ニペソツ山の極地法による登頂、1941(昭和16)年1月の十勝 〜大雪冬期縦走の試みなど積極的な山行がなされている。ペテガリ岳登頂後間もなく、太平洋戦争のため登山は中断された。
第4章 戦後再出発と山脈縦走登山1945年〜1957年
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第4章 戦後再出発と山脈縦走登山1945年〜1957年 第4章 戦後再出発と山脈縦走登山
昭和20年〜昭和32年
解説
1944(昭和19)年夏日高以後、終戦まで登山は中断された。しかしながら早くも終戦の年(昭和20年)12月にはあらゆる物資が不足する中で、部員の非常な努力により先輩、部員14名が参加して例年どおり十勝岳で冬山合宿が行われた。
翌昭和21年からは山岳部の再出発が積極かつ意欲的に図られ、先輩達を講師に招いての講習会や山行準備会などを通じて懸命な努力がなされた。そして同年夏には早くも北日高へ5班12名、中央高地へ1班3名が入山し、12月の十勝合宿には先輩を含む26名が参加した。
1948(昭和23)年1月奥村敬次郎先生らによるイドンナップ岳初登、同年2月橋本誠二らによるナメワッカ岳初登、昭和24年1月山崎英雄らによる北トッタベツ岳初登など、戦前に匹敵する実力を持つまでになった。
中央高地、日高山脈に未踏峰が無くなった時、次に部員達が情熱を燃やしたのは縦走登山であった。この形式の登山は、1949(昭和24)年1月の橋本誠二らがピリカペタン沢に設営したBCから主稜線にキャンプを出して、札内岳からカムイエクウチカウシ山を往復したのを皮切りに毎年のように試みられた。
雪氷技術と幕営技術(雪洞、イグルー)が向上したことが、過酷な稜線上での行動を可能にした。この成果の延長として1951(昭和26)年冬に十勝岳大雪山縦走、1956(昭和31)年冬に日高山脈全山縦走が成功したのである。
1954(昭和29)年、新学制への切り替えが完了し、当然の結果として在部年数は旧制6年から新制の4年に短縮した。その為、12月の冬山合宿の他に5月の連休を利用した十勝春合宿、11月芦別合宿を行い、部員のスキーと雪氷技術の向上に努めた。
この年1月に行われたトッタベツ川から幌尻岳、カムイエクウチカウシ山への極地法による縦走の成功は、新制で育った部員に部の運営方法に自信を与えた。
この間、山崎英雄と橋本誠二OBの日本山岳会マナスル登山隊への参加、山岳部が主体となった北大極地研究グループの犬ぞり研究、中野征紀、菊池徹、佐伯富男、小林年の第1次南極観測隊への参加があり、部員にとって海外遠征が身近に感じられるようになった。
戦後初の冬山は、ポロシリ岳、余市岳、恵庭岳、旭岳に各1パーティが、羊蹄山に2パーティーが入山した。
第5章 直登沢、集中登山、そして海外遠征 1957年〜1969年
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第5章 直登沢、集中登山、そして海外遠征 1957年〜1969年 第5章 直登沢、集中登山、そして海外遠征
1957(昭和32)年〜1969(昭和44)年
解説
山岳部の戦後の大きな目標であった冬期日高山脈全山縦走が成功裏に終了すると、部員の関心はヒマラヤに合わされていった。そのため岩と氷の登攀技術向上とポーラーメソッドの研究、そして実際に北アルプスでそれを実践した。
1957(昭和32)年以降、夏冬とも数パーティが合宿形式で北アルプスへ入山するようになった。
1958(昭和33)年冬のポーラーメソッドによる北鎌尾根から穂高岳は、十勝岳で発生した遭難により中止に追い込まれたが、上級部員による意欲的な計画であった。
昭和30年代は戦後大学山岳部の最盛期に当る時期で、北大山岳部でも毎年50人前後の新入生の入部があった。彼らが上級部員になるに従い、山行の内容が充実したものになって行った。直登沢遡行、カムイエクウチカウシ山及びペテガリ岳集中登山などが積極的に行われた。
直登沢遡行は、それまで残っていたもっとも困難な直接ピークに達する沢の遡行である。その中でももっとも困難されていた無名沢の1839峰への直登沢が1959(昭和34)年7月松下彰夫、木村恒美、三浦章司によって、また冬は1962年1月内藤拓らにより遡行されたのを皮切りに、毎年多くの直登沢が登られるようになった。
日高山脈全山縦走に前後して高まったヒマラヤへの意欲は、1962(昭和37)年チャムラン峰(7319m)、1963(昭和38)年ナラカンカール峰(7335m)遠征隊として実現した。中野征紀を隊長とするチャムラン峰遠征隊は、キャラバンの大幅な遅れ、登攀ルート発見の苦労など、多くの困難を克服し、1962(昭和37)年5月31日その頂を極めた。
ナラカンカール峰遠征は、地図に示された位置にこの山を発見することが出来ず、そのため登頂では成果が得られなったが、遠征隊が描き出した壮大な旅の世界の魅力は、海外遠征を目指す若者たちに大きな影響を与えた。
1957(昭和32)年〜1969(昭和44)年は輝かしい成果を残した時期であったが、また12名の部員を失った時期でもあった。
いずれの遭難も困難に満ちた危険性の高い登山とは言えなかっただけに、山岳部にいつも通る道への心のゆるみがなかったか、反省させられた。
第6章 厳冬期ヒマラヤ8000m峰登頂 1969年〜1982年
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第6章 厳冬期ヒマラヤ8000m峰登頂 1969年〜1982年 第6章 厳冬期ヒマラヤ8000m峰登頂
1969(昭和44)年〜1982(昭和57)年
解説
1969(昭和44)年1月、定山渓天狗岳で発生した雪崩遭難事故を契機に公式山行の一時停止、同年4月の入学式に端を発した学園紛争の影響による山行の縮小、現役部員の大麻吸飲による社会問題化と大学当局による体育会公認取り消し、その責任をとって橋本誠二山岳部長の辞任、折から計画中であったダウラギリ?峰遠征中止など、昭和44年〜46年に一連の山岳部の存立を揺るがしかねない、過去に例を見ない事件が頻発、まともな山行ができない状態がつづいた。
このような混乱からの脱却を図るために現役部員達は、山岳部の位置づけについての議論やヘルヴェチア学校の開催、大雪リクマンベツでの合宿などを通じて組織の再生に取り組んだ。
その過程から生まれた山岳部の一体感は、現役部員によるアラスカ・マッキンレー峰遠征に実った。混乱の一時期を耐え、山岳部再生に努力し、マッキンレー峰登山を推進し成功させた世代は、以後AACHの活動の中核となって厳冬期ダウラギリ?峰登頂を成功に導いた。
1974(昭和49)年6月、山岳部創立50周年事業委員会は、厳冬期ヒマラヤ8000m峰登頂を目指すこと、その準備としてガネッシュヒマール・ラクサンカルボの冬期登頂に遠征隊を送ることを決定した。
ラプサンカルボ計画は、AACHにとってナラカンカール遠征から実に11年ぶりの計画であったが、ネパール政府の突然のヒマラヤ登山全面禁止により中止となった。AACHはそれに代わって急遽ガルワルヒマール・トリスル峰(7120m)へ野田四郎を隊長とする遠征隊を送った。
トリスル隊は突然の遠征決定による準備不足、現地の例年より早い冬の訪れと積雪、キャラバン途中の理由不明なポーターストライキによりベースキャンプにたどり着くことすらできずに中止に至った。
しかし、この失敗を経験した隊員を中心として、その後毎年規模の大きくなってゆく一連の海外遠征の端緒となった1978(昭和53)年8月カラコルム・ドレフェカル峰初登頂(6447m、石村明也隊長以下7名)、翌年7月カラコルム・クンヤンチッシュ北峰初登頂(7108m、越前谷隊長以下7名)が成功したのである。
1976(昭和51)年9月13日、札幌パークホテルに来賓、OB、現役90名が集まり、山岳部創立50周年記念式典が挙行された。記念事業として他にカナディアン・ロッキーへの旅、50周年記念誌出版が行われた。
海外遠征が華々しい成果を挙げる中、昭和54年3月、知床硫黄山から知床岬を目指していた平野パーティが、暴風雪にテントを潰されて遭難、3名が死亡した。山岳部は混乱の一時期から出発して着実に実力を付けつつあり、さらに雪崩研究会、アイゼン研究会などの地道な努力を重ねてきただけに、遭難は大きな衝撃となった。
1979(昭和54)年6月、部室が体育館脇のプレハブから新サークル会館付属体育器具庫へ移転した。新サークル会館には時間等の使用制限が多いが、現在に至るまで混乱もなく活動が続けられている。
知床遭難の翌1980(昭和55)年9月、AACHは、ネパールヒマラヤ・バルンツェ峰(7220m)の厳冬期登頂を目指して林和夫を総隊長とする総勢12名の遠征隊を送った。遠征隊は同年12月15日登頂に成功、厳冬期8000m峰登頂への足がかりを作った。
バルンツェ峰成功の2年後の9月、有馬純を総隊長、安間荘を隊長とする総勢15名の遠征隊が、ダウラギリ?峰(8167m)厳冬期登頂を目指して出発した。
この遠征はトリスルの失敗とバルンツェの成功を基に、冬のヒマラヤの気象予測に初めて科学的な方法を導入するなど可能な限りの科学的な方法を取り入れ、かつ総隊長以下AACHが望み得るベストに近い体制を組んで送り出された。周到に準備された条件は僅かな晴天を的確に捉え、12月13日小泉章夫、オンチュウ・シェルパがついにその頂に立った。
私にはこの冬期登攀の構想が、AACHの創立当時から、さらにその背景である北海道大学にスキーが伝えられ、冬期登山が始まった時からの、言わば寒冷の系譜とも言うべき一つの自然観の流れの中に位置づけられる様に思われる。・・・
・・なぜならば、我々がヒマラヤ冬期登攀の構想を持った時、このような構想はどこにもなく、なんら他の影響を受けず、内発的にそれを将来の目標に設定したからである。こうした構想は偶然や思い付きで生まれるものではなく、何らかの登山思想をその背景に持っていたと考えざるを得ない。・<中略>・
・・・即ち、日高山脈におけるこの冬期登山開拓の30年の歴史こそ(註:山岳部創立から冬季日高山脈全山縦走までの30年間)ヒマラヤ冬期登山の構築源泉であり、冬期の寒冷の風土の中で育まれた一つの系譜が考えられるのである。(バルンツェ峰遠征隊報告書1982 渡辺興亜)
第7章 新しい山旅を求めて 1983年〜1995年
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第7章 新しい山旅を求めて 1983年〜1995年 第7章 新しい山旅を求めて
1983(昭和58)年〜1995(平成7)年
解説
1985(昭和60)年11月ヘルヴェチア・ヒュッテ改修の落成式が現地で行われた。建設から60年が経過し、屋根や外壁の痛みが目立ち始めたヘルヴェチア・ヒュッテの改修をAACHは事業としてとりあげ、 “昔の姿を最大限に再現する”を改修理念に見事に修復された。
ルームの山行は各季節のメイン山行と、メイン山行を想定した準備山行を数回同じメンバーで行うことが義務付けられている。その各段階で、パーティの力量の評価とルートの問題点等について上級部員会議等により検討がされる。
山行のマニュアル化だ、自由な発想の山行ができないという意見もあるが、この方式により安全で確実な山行が行われるようになったことは事実である。1978年の知床遭難から17年間の死亡遭難事故が2件に留まっている事がそれを物語っている。
1984(昭和59)年10月、スダルシャン・パルバート峰(6507m)遠征隊は、全員がその頂を踏んだ。12年前の現役によるマッキンレー遠征からの一連の海外登山の流れは、厳冬期ダウラギリ登頂で途絶えようとしていたが、現役を主体とするこの遠征隊は、海外登山の新しいサイクルの第一歩と期待された。
3年後の1987(昭和62)年8月、ソ連パミール国際キャンプにOBをリーダーに現役部員3名が参加、レーニン峰(7134m)に登頂した。遠征のための煩雑な準備を省略して北海道の山旅の雰囲気で7000mを経験できる登山は、今後の海外遠征のあり方として注目された。
部員有志による極東山岳研究会は、千島・カムチャツカ半島の研究をまとめたが、それをベースとして1991年、1992年、1997年と3回のカムチャツカ遠征が実現した。1992年には丹羽由紀夫を隊長とする総勢11名からなる遠征隊が、ヒムルンヒマール(7126m)に登頂した。
山岳部創立70周年を迎えた1995年、北大構内の北西隅に木造丸太組2階建ての「北大山岳館」が建設された。これはAACHが創立70周年を記念して建設されたものであり、北大に寄贈された。7月には来賓、OB、現役85名が集い、創立70周年を盛大に祝った。
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第8章 創立100周年へ向けて 1996年〜
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第8章 創立100周年へ向けて 1996年〜 第8章 創立100周年へ向けて
1996(平成8)年〜
解説
1994(平成6)年に6名まで減少した部員数は、その後多少持ち直したとは言え20名を越えることはない。効率化を図る大学の授業料の値上げ、授業への出席数の締め付けなどにより部員は長期間山へ入る余裕がなくなっている。
部員の減少は、経験や技術が世代から世代へと伝わらなくなることを意味し、ルームの山登りの形態にも大きな変化が見られる。
例えば、部員が少ないため冬山合宿はせず準備山行で間に合わせる、1996年以降は2年班の沢登りは出ていないなどである(2007年夏から復活)。
代わって岩や氷の登攀技術レベルが高くなり、アイスクライミングや岩登りのメイン山行が行われるようになり、さらに飛躍して1998〜2002年のヨセミテでの岩登り、ペルー・アンデスなど海外での氷壁登攀を行う実力を持つようになって来た。
オールラウンドな山登りは減っているが、現役4年を全うし、基礎的な技術をしっかりと身に付けた若手OBによる沢のバリエーション・ルート、単独日高山脈冬期全山縦走の試み、4年目の単独東大雪冬期縦走など意欲的な山旅も行われている。
若手OBを中心とした海外における山行は進歩が見られた。広大な台地での山旅をした第三次カムチャツカ登山隊、初老から現役部員で編成したタンナ・リ峰、全員登頂を果たした現役によるドーダ峰、急峻な地形に阻まれて登頂を断念したグルカルポ・リ峰、高度差3000mに達する7つの台湾大渓谷の遡行、6000m級3座を楽しんだペルー・コルディエラ・ブランカ、現役によるデ・ナリ峰など見るべきものが多い。
2007年3月、南極観測第47次隊に参加していた澤柿教伸が帰国した。中野征紀らが参加した第1次観測隊から50年目にあたり、AACHからはこの間17人が参加し、観測あるいは設営に携わった。
2006(平成18)年12月、若手OBの努力により17年ぶりに部報14号が発刊された。近年一番と言ってよい朗報であった。部報1号から14号までの北大山岳部80年の歴史、この土台の上に立って若者達はどんな歴史を刻むのであろうか、創立100周年が楽しみである。
前書き・あとがき
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前書き・あとがき 前書き・あとがき
解説
ご挨拶
北大山の会会長 西 安信
北大山岳部々報第1号は1928年に刊行されたが、その中の「年報(1926.11-1927.3)」に、山岳部發會式が大正15年11月10日午後7時に北大學生集会所に於いて行われ、「山岳部設立について」:伊藤秀五郎、「山岳部々長挨拶」:栃内吉彦博士、「山岳部の仕事について」:澤本三郎らの演説があった。さらに、主任幹事には澤本三郎、庶務幹事には伊藤秀五郎らが選ばれた。また、予科講師グブラー氏の幻燈機によるスイスの登山の解説は大いに有意義なものであった。出席者は来賓を含めて約70名と記されている。その直後の12月22日より新見温泉に於いて総勢47名が参加して7日間の冬期山岳部スキー合宿が行われ、参加者にはリーダーの澤本三郎、伊藤秀五郎らに混じって若き頃の井田清、山口健児、渡辺千尚、山縣浩、中野征紀らの名前がある。
また、山岳部の創設を主導した伊藤秀五郎(1905〜1976)は同部報に「山岳部の誕生」と題する一文を寄せているが、「然し今日の山岳部の誕生は、已に遠く大正九年、恵迪寮旅行部の設立と同時に胚胎していたのである。ー中略ー 実は山岳部はスキー部の血も立派に引いているのである。だからほんとは、スキー部と旅行部とを両親にもった甚だ恵まれた赤児として生まれたのであった」と記し、北大山岳部が実質的な素地を有し然るべくして誕生したことを述べている。
さて、誕生して以来80年間の実績と伝統について述べることは別の機会に譲ることとして、1995年の北大山岳館の建設を契機として、多くの会員及び関係者の協力で山に関する多数の蔵書・雑誌・地図などが寄贈・収集・整理されてきた。「山に関する写真・フィルム類の整理保存も山岳館のarchives機能の一つであることを忘れてはならない。亡くなられた会員や高齢の会員の貴重な資料が散逸しつつあり、また埃を被った資料も多いのではないか。資料収集は現役部員の記録までも含めて幅広く行い、これを通じて山の会会員相互及び山岳部現役との一体感をより強いものとすることができる。」という中村晴彦会員(1958年入部)の提案は2005年7月開催の北大山の会総会にて、全会一致で山岳部創立80年の記念事業として採択され、短期間に精力的に実施に移された。これまで山岳部創立前より現在に至る80余年間に記録された写真のうち厳選された8000点強が電子ファイル化され会員の閲覧に供される運びとなっているが、この度その中から北大山岳部の歩みを物語る338点の写真を選び小冊子に纏めることが出来た。
ここに至るまで写真のご提供を戴いた物故会員のご家族ならびに会員諸氏に対し、また病床にありながらも古い写真の人物や山名の同定にご協力を戴いた朝比奈英三、有馬純両会員、癌と闘いながらもデーターベースソフトの開発にご尽力を戴いた故芝山良二会員と同夫人敏子様、アーカイブス事業の発案から終始凄まじい情熱を注ぎ込み完成にまで至らせた中村晴彦会員とそれを支えて下さった野田四郎他の会員、更に金品のご支援を賜った多くの会員ならびに関係諸氏に深甚の感謝の意を表する次第である。そして多くの伝統ある大学山岳部が存続の危機にさらされている中にあって、この冊子を完成させた北大山の会会員の固い結束が、我々が青春の情熱を注ぎ込んだ北大山岳部を永遠に存続させる一里塚となることを願っている。
北大山岳部部長 鐙 邦芳
北大山岳部は今年,創立80周年を迎えた。初期には北海道中央高地ついで日高山脈の山嶺の冬季初登が続き,1943年には最後に残ったペテガリ岳の冬季登頂もなされた。戦後は,日高山脈の冬期全山縦走と直登沢遡行など道内での登山からチャムラン登頂,ナラカンカール遠征が続いた。1982年末には北大山岳部・山の会の組織力が厳冬期8000m峰(ダウラギリ)の初登頂として結実した。その後,日本の経済力の伸張とともに海外への渡航は著しく簡便になり、1980年代からは多くの海外登山が山岳部の現役部員,山の会会員により達成されている。
連綿と続いてきた北大山岳部・山の会の歴史は部報,報告書などに優れた文章として残されてきたと同時に,多くの写真画像も蓄積されてきた。しかし部報・報告書に掲載されてきた画像はごく一部にすぎず,大部分は会員個人のもとに死蔵されていたと言って良い。貴重な記録画像も時の経過とともに散逸・劣化することは必定である。2005年から画像をデジタル記録として整理し,一般公開することを目的とするAACH画像アーカイブス事業が中村晴彦会員を中心に提起・実践されてきた。この事業の創生には故芝山良二会員によるプログラム開発が大きく貢献している。その後の事業は有志会員,現役部員、芝山夫人らにより実践されてきた。部員・会員による山行・遠征の記録として貴重である膨大な記録画像の中には,芸術性の高いものも数多く含まれている。画像アーカイブス事業も一段落し,記録画像の中から記録としての重要性,芸術性を主眼として選択され写真集となった。貴重な個人的時間を費やし,編集・作製したアーカイブス事業作業委員各位に敬意を表するとともに,本写真集の完成を期に,今後の映像アーカイブス事業の継続・発展に多くの会員が協力してくださることを期待する。
北大山の会記録写真保存計画 写真提供者御芳名
北大山岳部80周年記念写真集には見た目の煩雑さを避けるためと個人情報保護の観点から、古い時代の一部を除いて写真提供者の氏名を付してありません。代わりに会員のみが閲覧できる北大山の会記録写真保存計画データベースの整理番号を付してあります。データベースには写真毎に提供者、撮影者、撮影年月日、背景、内容などの情報が記録されています。データベースは北大山岳館で閲覧できます。
北大山の会記録写真保存計画の写真提供に御協力頂いた方々に御礼申し上げます。
物故会員ご遺族:加納一郎、松川五郎、坂本直行、
橋本誠二、渡辺良一、浅野芳彦、朝比奈英三、
内田武彦、今村昌耕、有馬純、山田真弓、山崎英雄、
木崎甲子郎、野田四郎、春日徳治、、河内洋佑、
小林年、安藤久男、鈴木弘泰、安間荘、今村正克、
橋本正人、大井幸雄、河村章人、西安信、渡辺興亜、
中村晴彦、安間元、松村雄、山口淳一、山田知充、
越前谷幸平、鐙邦芳、花井修、小泉章夫、末武晋一、
米山悟、澤柿教伸、小倉憲吾、銭谷竜一、野入善史、
山下晋、田戸岡直樹、北大山岳部、
北大山岳館、高澤光雄(部外)
北大山岳部80周年記念写真集 非売品
2007年12月1日発行
編集兼発行者 北大山の会
発行所 北大山の会
札幌市北区北17条西12丁目北大新サークル会館内
北大山岳館
製本 (株)ソウトク
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