山の会昔語り・ 2006年10月21日 (土)
金井さんの店でラムネ十本
北大山の会東京支部 木村俊郎(1950入部)
北大山の会東京支部 木村俊郎(1950入部)
昭和二十六年度の冬山は、部の総力を挙げて行う十勝岳から大雪山への縦走が計画された。冬山合宿で十勝岳の泥流スロープの猛烈な風雪は既に充分体験されていたが、美瑛岳に向かう這松の枝すら一本も見当たらない吹きさらしの尾根を黒岳まで進むことになる。長期間の尾根上の行動に耐える装備が必要だった。山岳部二十数年の歴史とともに研究され使用された製品も既に疲れ果て、大幅な改良や補強が必要で、そのうえ
数も不足していた。この装備の制作に尽力してくれたのが、現在の秀岳荘の創立者で先代の社長だった金井五郎さんである。
当時金井さんは進駐軍や市役所の縫製の仕事をしておられたのだがこの冬山の前年、恵迪寮に仕事の拡張に来られ山岳部員からオーバーグローブの修理などを頼まれて登山用具に興味をもたれたようだった。こんな時に丁度この冬山が計画されていた。仕事熱心で仕事は確実なことは万人が認めるようになっていたので、この冬山の装備は金井五郎さんにお願いすることに異議はなかった。少ない予算にもかかわらず、それを快諾してくれた。
真面目な記録は部報八号「冬の十勝岳大雪山縦走」の、装備について、の項に詳細を記してある。この縦走は好天に恵まれて二十日間で成功したが、金井さんの、山道具への熱の入れ方はますます激しくなっていった。
店は北十三条西四丁目あたりにあったためルームからぶらりと歩いて行けたので部員はその後もよく出入りしていた。ある時スキーの名手だったP先輩が金井さんの店から帰ってきた。
「やー、参った。ラムネ十本買ってきて、飲め飲めとすすめてくれた。だけど、ラムネ十本も飲めないよなー」
とラムネとは三口も飲み下すと鼻にツーンときた、あれである。当時は未だ家でコーヒーを飲んだり店先でオレンジジュースなど出せる時代ではなかった。ラムネでさえ大サービスだったのだろうが一人に十本というのも・・・・・
金井さんは、このように気さくな人だったので部員の出入りも多かったようだ。そのうち縫製だけではなく商品も置くようになったらしく、「秀岳荘」と呼び、部員の出入りは益々多くなっていったようだった。そして掛け売りにまで応じてくれたらしい。八年ほど後輩のS君によると、当時山岳部には「秀岳荘の借金取立担当」なるものを置いたと言う。したがって、この掛け売りの話もまんざらではあるまい。最近出た「山の仲間と五十年」という秀岳荘発行の本の中に「黒字倒産の危機。原因は掛け売り」というのがあった。一本十円のラムネの接待から掛け売りまで。この間には、その他にまだまだ金井さんのお世話になった人も居る事だろう。
数も不足していた。この装備の制作に尽力してくれたのが、現在の秀岳荘の創立者で先代の社長だった金井五郎さんである。
当時金井さんは進駐軍や市役所の縫製の仕事をしておられたのだがこの冬山の前年、恵迪寮に仕事の拡張に来られ山岳部員からオーバーグローブの修理などを頼まれて登山用具に興味をもたれたようだった。こんな時に丁度この冬山が計画されていた。仕事熱心で仕事は確実なことは万人が認めるようになっていたので、この冬山の装備は金井五郎さんにお願いすることに異議はなかった。少ない予算にもかかわらず、それを快諾してくれた。
真面目な記録は部報八号「冬の十勝岳大雪山縦走」の、装備について、の項に詳細を記してある。この縦走は好天に恵まれて二十日間で成功したが、金井さんの、山道具への熱の入れ方はますます激しくなっていった。
店は北十三条西四丁目あたりにあったためルームからぶらりと歩いて行けたので部員はその後もよく出入りしていた。ある時スキーの名手だったP先輩が金井さんの店から帰ってきた。
「やー、参った。ラムネ十本買ってきて、飲め飲めとすすめてくれた。だけど、ラムネ十本も飲めないよなー」
とラムネとは三口も飲み下すと鼻にツーンときた、あれである。当時は未だ家でコーヒーを飲んだり店先でオレンジジュースなど出せる時代ではなかった。ラムネでさえ大サービスだったのだろうが一人に十本というのも・・・・・
金井さんは、このように気さくな人だったので部員の出入りも多かったようだ。そのうち縫製だけではなく商品も置くようになったらしく、「秀岳荘」と呼び、部員の出入りは益々多くなっていったようだった。そして掛け売りにまで応じてくれたらしい。八年ほど後輩のS君によると、当時山岳部には「秀岳荘の借金取立担当」なるものを置いたと言う。したがって、この掛け売りの話もまんざらではあるまい。最近出た「山の仲間と五十年」という秀岳荘発行の本の中に「黒字倒産の危機。原因は掛け売り」というのがあった。一本十円のラムネの接待から掛け売りまで。この間には、その他にまだまだ金井さんのお世話になった人も居る事だろう。
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山の会昔語り・ 2006年10月21日 (土)
スフのマフラー
北大山の会東京支部・木村俊郎(1950年入部)
北大山の会東京支部・木村俊郎(1950年入部)
入部して、あれこれと装備を集めたり話を聞いたりしているとドイツ語が氾濫しているのには一寸驚きだった。リックだと思っていたものはルックザックと言わねばならず、足に履く爪はシュタイックアイゼンだった。これは適当な訳語がないので致し方なく、固有名詞はそのまま使うのも無理はない。
ドイツ、ドイツと言うのには他にもいろいろな訳があったようだが、ドイツの製品は優れていた。工作機械の精度は抜群、耐久力は勝っているし医学もドイツと言われていた。だいぶ年上の大人達はゾーリンゲンの剃刀なんて言って目を見張っていた。三年先輩のSさんなんかはソーリンゲンのナイフを後生大事に持っていた。現在は、大分以前からスイスのキャンピングナイフが主流になっているが、当時は「肥後の守」がよく切れたが不便、八丁ナイフは無骨で重い。それに比べ、先輩のゾーリンゲンはみそ汁の具の薯を切っても、しっくりと切り心地がよかった。だが、みそ汁のことまでズッペと言ったり、冬山で尾根に前進キャンプを進める時、重い荷物を二度に分けて上げるのをビーダーコンメンなどと言う怪しげな造語まであった。
そんなある日、先輩がもっと上の先輩の話を持ち出して悦にいっていた。と言うのは或る日ルームで岡彦一先輩、通称ライカさんが純白でツルツル、まるで銀のように光るマフラーを見せたそうである。ライカさんは北大予科の入学祝いのライカを持っていたのがニックネームの由来だそうだが、このカメラで撮った北千島シリアジリ岳中腹から、遠くに連なる峰々を撮った写真が部報五号に載っているので知る人も多いだろう。昭和九年入部、日中事変突入への準備が着々と進められていた頃である。ライカさんはその綺麗なマフラーを見せながら「これはドイツで発明されたスフと言うもので、ベンベルグの製品だ」と言ったそうである。
すると、彼と同輩の林和夫大先輩は「ちょっと触らせてくれないか」と言って、そーっと、撫でてみて感激。そして後で大いに悔しがったそうである。実はスフはステーブルファイバーの略で、言うなれば紙の原料のパルプで作った代用繊維。水で一回洗ったらペラペラになってしまう代物だった。
ドイツ、ドイツと言うのには他にもいろいろな訳があったようだが、ドイツの製品は優れていた。工作機械の精度は抜群、耐久力は勝っているし医学もドイツと言われていた。だいぶ年上の大人達はゾーリンゲンの剃刀なんて言って目を見張っていた。三年先輩のSさんなんかはソーリンゲンのナイフを後生大事に持っていた。現在は、大分以前からスイスのキャンピングナイフが主流になっているが、当時は「肥後の守」がよく切れたが不便、八丁ナイフは無骨で重い。それに比べ、先輩のゾーリンゲンはみそ汁の具の薯を切っても、しっくりと切り心地がよかった。だが、みそ汁のことまでズッペと言ったり、冬山で尾根に前進キャンプを進める時、重い荷物を二度に分けて上げるのをビーダーコンメンなどと言う怪しげな造語まであった。
そんなある日、先輩がもっと上の先輩の話を持ち出して悦にいっていた。と言うのは或る日ルームで岡彦一先輩、通称ライカさんが純白でツルツル、まるで銀のように光るマフラーを見せたそうである。ライカさんは北大予科の入学祝いのライカを持っていたのがニックネームの由来だそうだが、このカメラで撮った北千島シリアジリ岳中腹から、遠くに連なる峰々を撮った写真が部報五号に載っているので知る人も多いだろう。昭和九年入部、日中事変突入への準備が着々と進められていた頃である。ライカさんはその綺麗なマフラーを見せながら「これはドイツで発明されたスフと言うもので、ベンベルグの製品だ」と言ったそうである。
すると、彼と同輩の林和夫大先輩は「ちょっと触らせてくれないか」と言って、そーっと、撫でてみて感激。そして後で大いに悔しがったそうである。実はスフはステーブルファイバーの略で、言うなれば紙の原料のパルプで作った代用繊維。水で一回洗ったらペラペラになってしまう代物だった。
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One Day Hike・ 2006年10月21日 (土)
平成18年10月7日
参加者:坂野、石村夫人、木村
東京支部岳友:佐藤
コース
国土地理院の地形図には山名の記載はないが富士急行線、都留市駅の南にある標高千百九十八.八メートルの山が文台山で、大野山とも呼ばれている。都留市駅からタクシーで細野集落の御岳神社の前の登山口まで
二千百円/台。神社の脇からの道には分岐もあるが、地元の人が付けたらしい矢印の道標が明瞭で東峰を経て三角点のある西峰には山名を記した標識もある。
下りは北北西に向かって、かなり急な踏跡を下ってから、尾崎山と呼ばれている九六七.八メートルのピークを超えて東桂駅に出るのがノーマルのようであるが道標はなく、木の枝に巻いた赤いビニールテープがかなり明瞭に付いている。また、途中から右手すなわち北に向かって都留文科大学方面に出る道と、小野集落を経て谷村町(やむらまち)駅に下る踏跡がある。
その日のこと
十月七日、前日までの大雨洪水警報はどこへやら昼前には快晴となる。風は強かったが気温も快適。しかし潅木が伸びたせいか展望は悪く桂川流域の集落が縦間から下方にきれいに広まっているのが望まれる程度。
頂上での休憩には先月、神谷晴夫君のケルンを積みにトッタベツBカールに行った話を期待していたのだが、この山行に参加した人は現れず、お預けになってしまった。この日は坂野、石村夫人、佐藤で合計四人。Zokinは
「アキレス腱を少し傷めた」との言ずけだったが、「アキレス腱が少し腐ったのか」くらいで、心配はないようだ。下り赤いビニールテープの目印を見附ながら歩いたが、四百メートル程下った所で北東に伸びる尾根に付いていた踏跡を行き、図らずも小野の集落を経て国道を二キロもあるいて谷村駅に下り着くことになった。
ところで帰ってみるとこの時、白馬岳では強風雪で四人が凍死したらしいとのニュースがあり、後にこの悪天候で全国の海山では十七人が命を失ったことが分かった。
所要時間:御岳神社登山口から谷村町駅まで五時間半
正味歩行:四時間半
国土地理院の地形図には山名の記載はないが富士急行線、都留市駅の南にある標高千百九十八.八メートルの山が文台山で、大野山とも呼ばれている。都留市駅からタクシーで細野集落の御岳神社の前の登山口まで
二千百円/台。神社の脇からの道には分岐もあるが、地元の人が付けたらしい矢印の道標が明瞭で東峰を経て三角点のある西峰には山名を記した標識もある。
下りは北北西に向かって、かなり急な踏跡を下ってから、尾崎山と呼ばれている九六七.八メートルのピークを超えて東桂駅に出るのがノーマルのようであるが道標はなく、木の枝に巻いた赤いビニールテープがかなり明瞭に付いている。また、途中から右手すなわち北に向かって都留文科大学方面に出る道と、小野集落を経て谷村町(やむらまち)駅に下る踏跡がある。
その日のこと
十月七日、前日までの大雨洪水警報はどこへやら昼前には快晴となる。風は強かったが気温も快適。しかし潅木が伸びたせいか展望は悪く桂川流域の集落が縦間から下方にきれいに広まっているのが望まれる程度。
頂上での休憩には先月、神谷晴夫君のケルンを積みにトッタベツBカールに行った話を期待していたのだが、この山行に参加した人は現れず、お預けになってしまった。この日は坂野、石村夫人、佐藤で合計四人。Zokinは
「アキレス腱を少し傷めた」との言ずけだったが、「アキレス腱が少し腐ったのか」くらいで、心配はないようだ。下り赤いビニールテープの目印を見附ながら歩いたが、四百メートル程下った所で北東に伸びる尾根に付いていた踏跡を行き、図らずも小野の集落を経て国道を二キロもあるいて谷村駅に下り着くことになった。
ところで帰ってみるとこの時、白馬岳では強風雪で四人が凍死したらしいとのニュースがあり、後にこの悪天候で全国の海山では十七人が命を失ったことが分かった。
所要時間:御岳神社登山口から谷村町駅まで五時間半
正味歩行:四時間半
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One Day Hike・ 2006年10月21日 (土)
平成18年8月19日
参加者:坂野、大井、八木橋夫妻、木村
東京支部岳友:井上
コース
大菩薩嶺の近辺には雁ガ腹摺山という名の山が三つある。したがって千三百五十七.七米のこの山は笹子峠の尾根筋にあり笹子雁ガ腹摺山(ささごがんがはらすりやま)と呼ばれている。笹子峠は往時の甲州街道が越えて
いた郷愁のある峠である。中央線は新宿から多摩川水系を伝い小仏隧道を抜けて相模川水系に入り笹子隧道を抜けて富士川水系に出る。笹子峠への道は現在、甲州街道峠道と言われているらしい。
ともあれ、この山へはJR甲斐大和駅から入るのがよい。峠道のトンネルの手前までは舗装道路なのでタクシーを利用した方が良かろう。トンネルの入口の右側の藪を少し登れば峠まで踏跡がある。峠から急勾配の尾根
道を行けば巻き道もあり最後に百米ほど登れば頂上である。三ツ峠から金峰山までの眺望が開けている。
下りは南南東に続く尾根道を行けば国道に下り着き、笹子駅まで二キロ程である。
その日のこと
八月十九日、盛夏であるが尾根筋は千米を超えるので、少しは涼しいとみての計画だったが峠までは舗装がかなり整備されて居ることが分かった。東京電力が手入れをしているらしい。猛暑の舗道を歩く手もない。駅
前からタクシーを呼んだ。坂野、大井、八木橋夫妻、井上さんを合わせて六名。
峠からの尾根道は取り付は急だが後は単調。十五分ほどで二つに分かれる。右手の巻き道を行く。風通しはよくないが高低差は余りない。最後を登りきると展望は結構ひらける。左手の三ツ峠山山頂のアンテナ塔が見つかると、右へ遠望すれば御坂の黒岳から、茅ケ岳、黒富士、金峰山まで次々と分かってきた。黒富士は以前にこのハイクでのぼった山である。
下り尾根道も明瞭。標高差は六百二十三米あるので途中で二、三度休み、月末には神谷君のケルンを積みにゆくと言うトッタベツのカールの話や八木橋君に大村君への言付けなど日高の話がひとしきり。今日は甲斐大和駅から山を越えてひと駅東京に近い笹子駅に出た訳で汽車賃は九十円安いので時給三十円のアルバイトだったという人などあり。ともあれ、八木橋夫妻は笹子に車を置いて甲斐大和まで汽車で来たと言う。この車で大月まで乗せて貰うことになった。里山ハイクの場合はこれも便利な方法である。
昔語りも、もう十四回になったが未だ続けていこうと思っている。
所要時間:トンネル入口から国道まで三時間半
正味歩行:二時間半
大菩薩嶺の近辺には雁ガ腹摺山という名の山が三つある。したがって千三百五十七.七米のこの山は笹子峠の尾根筋にあり笹子雁ガ腹摺山(ささごがんがはらすりやま)と呼ばれている。笹子峠は往時の甲州街道が越えて
いた郷愁のある峠である。中央線は新宿から多摩川水系を伝い小仏隧道を抜けて相模川水系に入り笹子隧道を抜けて富士川水系に出る。笹子峠への道は現在、甲州街道峠道と言われているらしい。
ともあれ、この山へはJR甲斐大和駅から入るのがよい。峠道のトンネルの手前までは舗装道路なのでタクシーを利用した方が良かろう。トンネルの入口の右側の藪を少し登れば峠まで踏跡がある。峠から急勾配の尾根
道を行けば巻き道もあり最後に百米ほど登れば頂上である。三ツ峠から金峰山までの眺望が開けている。
下りは南南東に続く尾根道を行けば国道に下り着き、笹子駅まで二キロ程である。
その日のこと
八月十九日、盛夏であるが尾根筋は千米を超えるので、少しは涼しいとみての計画だったが峠までは舗装がかなり整備されて居ることが分かった。東京電力が手入れをしているらしい。猛暑の舗道を歩く手もない。駅
前からタクシーを呼んだ。坂野、大井、八木橋夫妻、井上さんを合わせて六名。
峠からの尾根道は取り付は急だが後は単調。十五分ほどで二つに分かれる。右手の巻き道を行く。風通しはよくないが高低差は余りない。最後を登りきると展望は結構ひらける。左手の三ツ峠山山頂のアンテナ塔が見つかると、右へ遠望すれば御坂の黒岳から、茅ケ岳、黒富士、金峰山まで次々と分かってきた。黒富士は以前にこのハイクでのぼった山である。
下り尾根道も明瞭。標高差は六百二十三米あるので途中で二、三度休み、月末には神谷君のケルンを積みにゆくと言うトッタベツのカールの話や八木橋君に大村君への言付けなど日高の話がひとしきり。今日は甲斐大和駅から山を越えてひと駅東京に近い笹子駅に出た訳で汽車賃は九十円安いので時給三十円のアルバイトだったという人などあり。ともあれ、八木橋夫妻は笹子に車を置いて甲斐大和まで汽車で来たと言う。この車で大月まで乗せて貰うことになった。里山ハイクの場合はこれも便利な方法である。
昔語りも、もう十四回になったが未だ続けていこうと思っている。
所要時間:トンネル入口から国道まで三時間半
正味歩行:二時間半
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OBの山行記録・ 2006年10月17日 (火)
北大探検部が函館郊外の戸切地(へきりち)川上流部に道内最長の鍾乳洞を発見した。今年6月の発見以来、10回以上通って詳細な地図を描いている。先週末、現役探検部員4人と潜ってきた。テラ・インコグニータ(未知の地)を探る喜びを知る現役に逢ってオレはうれしい。
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OBの山行記録・ 2006年10月17日 (火)
●2006年10月9日(月・祝) (1ー0)
【ルート】
東赤岩/ジェードル(1p)
中赤岩/リス奥直上(1p)、リス奥左カンテ(1p)、リス(1p) 計4p
【メンバ】
L:斎藤清克(87入部)、M:山森聡(86入部)、清原実(86入部)、銭谷竜一(90入部)
【行程】
10月9日(月・祝)(晴・強風) 赤岩峠(10:30)→ジェードル(1p)→リス奥直上(1p)→リス奥左カンテ(1p)→リス(1p)→赤岩峠(14:00)
※当初、10/8-9で、暑寒・ポンショカンベツ川へ沢登りへ行く計画であったが、悪天候のため断念。小樽・赤岩への岩登りに計画変更。
【記録】
米山さん(84入部)から既に[記事・消息]欄に報告があったように、10/7(土)に、札幌でDick(86入部)の結婚を祝う会が開催され、Roomの昔の仲間が全国から集った。これに合わせて、10/8-9と有志で暑寒・ポンショカンベツ川へ沢登りへ行く計画であったが、あいにくの悪天候との天気予報で断念。10/8はヘルヴェチアヒュッテに泊まり、10/9に天気が回復すれば赤岩へ行くことにする。
10/8は、まず、赤岩へ行くためのクレッターシューズを秀岳荘で購入した。そして、ヘルヴェチアヒュッテの鍵を借りるために、Roomへ寄ったついでに、北大山岳館を訪問した。左から、清原ババア(86入部、東京都在住)、山森(86入部、神奈川県在住)、多田(86入部、大阪府在住)。1995年に山岳館が出来て以来、多田は初訪問とのこと。
北大総合博物館(旧理学部)で北海道大学創基130周年記念で開催中(当初9月までの予定が、10/13まで延長)の「北海道大学の山小屋展」を見学した。パラダイスヒュッテ、ヘルヴェチアヒュッテ、空沼小屋、奥手稲山の家、無意根小屋の模型や歴史などが展示され、各山小屋を管理する山系クラブの紹介もあって、興味深かった。北大山岳部々報は第1号から第13号まで実物が展示され、近々、部報14号が発刊されることも紹介されていた。準備に尽力された方々、ご苦労様でした。
昔のスキーやザックなどの登山装備も展示されており、とても興味深かった。これらの古い装備を大切に保管していたAACHの大先輩方に敬意を表したい。私の現役時代にはスキーの竹ストックは普通に使っていた(秀岳荘でも売っていた)のに、そういう装備は処分してしまったことが悔やまれる。かろうじて自衛隊払い下げのラクダの毛下着上下や目出帽などはまだ処分していないので、将来AACH博物館に寄贈できるように、大切にとっておくことにしよう。
博物館の売店では、冊子「北海道大学の山小屋」をはじめ、北大ポプラ並木で作った「ヘルヴェチアヒュッテの板葉書」や「ヘルヴェチアヒュッテの懐中時計」などが販売されており、各自、気に入ったものを記念に購入した。大阪に帰る多田と別れ、かみさんの実家に泊まっていた銭谷(90入部)と合流して、ヘルヴェチアヒュッテへ向かう。
藤野のスーパーで買出しをして、いざ定山渓を過ぎるとすぐ、暴風雨のため通行止めにするために、ゲートを閉めているところであった。この先の山小屋に泊まりたいので、通してもらえないか交渉してみるが、ダメ。代替の宿泊場所をもとめてニセコや洞爺湖周辺のキャンプ場のバンガローへ電話をかけてみるが、どこも3連休のためあいにく満室で、途方に暮れる。
結局、小泉さん(74入部)のご好意で、積丹の美国小舎に泊めさせていただけることになった。札幌に戻り、石川ヤンケ(87入部)とその長男(小3)も合流し、積丹へ向かう。積丹へ向かう道は、豊浜トンネルの崩落事故のあと新しいトンネルができたとのことで、私の現役時代とは、随分と違う印象だ。それでも、途中3箇所、高波のため片側交互通行になっており、実際に海側の車線は波が来るたびに高波を被っており、危険な状態であった。小舎での夕食は「鮭のチャンチャン焼」。
翌日(10/9)は、天候も回復した。美国小舎の前で記念撮影。左から石川ヤンケ(87入部・札幌)、銭谷(90入部・仙台)、山森(86入部・横浜)、清原ババア(86入部・東京)、斎藤(87入部・札幌)。撮影者は石川ジュニア(小3)。美国小舎オーナーの皆様方、ありがとうございました。
東赤岩・ジェードルの登り口にて。バックはE3のピナクル。天気は良いが風が強い。
ジェードルを登る山森と、ジッヘルする銭谷。3級ルートがこんなに難しい(怖い)とは。実質18年振りの岩登りだから仕方ないか。現役のときのように赤岩3級ルートを登りこんでいれば、先々週の東北・産女(うぶすめ)川も楽勝で駆け抜けることができたのだろう。(登りこんでいないから、ちょっとした滝などの通過にも時間がかかり、時間切れで栗駒山ピークアタックを断念せざるを得なかったのだろう。)
中赤岩・リス奥直上をトップで登る斎藤。あとの3人はトップロープでチャレンジするが、まともに登れない。現役のときは、こんなところを、よくトップで登れたものだ。その後、リス奥左カンテを登ったが、取りつきで、ちょっと苦労する。現役時代は、すいすい登れたはずなのに...。
リスを登り、東赤岩方面を眺める。20年前と変わらず、景色が良い。
リスの上でジッヘルする銭谷。
リスのくさび(1年目がセミになるところ。今回は、私もセミになりかけた。)を通過しようとする清原ババア。その後、西赤岩・西壁3ピッチにも行きたかったが、風が強いのと、少々疲れて危険なので、ここで引き上げることにする。現役時代は1日で21ピッチ登ったこともあったが、この日は、たった4ピッチで、疲れてしまった。
朝里川温泉の露天風呂で疲れを癒し、それぞれ仙台や東京へ飛行機で帰宅した。
(文責:山森 聡)
10月9日(月・祝)(晴・強風) 赤岩峠(10:30)→ジェードル(1p)→リス奥直上(1p)→リス奥左カンテ(1p)→リス(1p)→赤岩峠(14:00)
※当初、10/8-9で、暑寒・ポンショカンベツ川へ沢登りへ行く計画であったが、悪天候のため断念。小樽・赤岩への岩登りに計画変更。
【記録】
米山さん(84入部)から既に[記事・消息]欄に報告があったように、10/7(土)に、札幌でDick(86入部)の結婚を祝う会が開催され、Roomの昔の仲間が全国から集った。これに合わせて、10/8-9と有志で暑寒・ポンショカンベツ川へ沢登りへ行く計画であったが、あいにくの悪天候との天気予報で断念。10/8はヘルヴェチアヒュッテに泊まり、10/9に天気が回復すれば赤岩へ行くことにする。
10/8は、まず、赤岩へ行くためのクレッターシューズを秀岳荘で購入した。そして、ヘルヴェチアヒュッテの鍵を借りるために、Roomへ寄ったついでに、北大山岳館を訪問した。左から、清原ババア(86入部、東京都在住)、山森(86入部、神奈川県在住)、多田(86入部、大阪府在住)。1995年に山岳館が出来て以来、多田は初訪問とのこと。
北大総合博物館(旧理学部)で北海道大学創基130周年記念で開催中(当初9月までの予定が、10/13まで延長)の「北海道大学の山小屋展」を見学した。パラダイスヒュッテ、ヘルヴェチアヒュッテ、空沼小屋、奥手稲山の家、無意根小屋の模型や歴史などが展示され、各山小屋を管理する山系クラブの紹介もあって、興味深かった。北大山岳部々報は第1号から第13号まで実物が展示され、近々、部報14号が発刊されることも紹介されていた。準備に尽力された方々、ご苦労様でした。
昔のスキーやザックなどの登山装備も展示されており、とても興味深かった。これらの古い装備を大切に保管していたAACHの大先輩方に敬意を表したい。私の現役時代にはスキーの竹ストックは普通に使っていた(秀岳荘でも売っていた)のに、そういう装備は処分してしまったことが悔やまれる。かろうじて自衛隊払い下げのラクダの毛下着上下や目出帽などはまだ処分していないので、将来AACH博物館に寄贈できるように、大切にとっておくことにしよう。
博物館の売店では、冊子「北海道大学の山小屋」をはじめ、北大ポプラ並木で作った「ヘルヴェチアヒュッテの板葉書」や「ヘルヴェチアヒュッテの懐中時計」などが販売されており、各自、気に入ったものを記念に購入した。大阪に帰る多田と別れ、かみさんの実家に泊まっていた銭谷(90入部)と合流して、ヘルヴェチアヒュッテへ向かう。
藤野のスーパーで買出しをして、いざ定山渓を過ぎるとすぐ、暴風雨のため通行止めにするために、ゲートを閉めているところであった。この先の山小屋に泊まりたいので、通してもらえないか交渉してみるが、ダメ。代替の宿泊場所をもとめてニセコや洞爺湖周辺のキャンプ場のバンガローへ電話をかけてみるが、どこも3連休のためあいにく満室で、途方に暮れる。
結局、小泉さん(74入部)のご好意で、積丹の美国小舎に泊めさせていただけることになった。札幌に戻り、石川ヤンケ(87入部)とその長男(小3)も合流し、積丹へ向かう。積丹へ向かう道は、豊浜トンネルの崩落事故のあと新しいトンネルができたとのことで、私の現役時代とは、随分と違う印象だ。それでも、途中3箇所、高波のため片側交互通行になっており、実際に海側の車線は波が来るたびに高波を被っており、危険な状態であった。小舎での夕食は「鮭のチャンチャン焼」。
翌日(10/9)は、天候も回復した。美国小舎の前で記念撮影。左から石川ヤンケ(87入部・札幌)、銭谷(90入部・仙台)、山森(86入部・横浜)、清原ババア(86入部・東京)、斎藤(87入部・札幌)。撮影者は石川ジュニア(小3)。美国小舎オーナーの皆様方、ありがとうございました。
東赤岩・ジェードルの登り口にて。バックはE3のピナクル。天気は良いが風が強い。
ジェードルを登る山森と、ジッヘルする銭谷。3級ルートがこんなに難しい(怖い)とは。実質18年振りの岩登りだから仕方ないか。現役のときのように赤岩3級ルートを登りこんでいれば、先々週の東北・産女(うぶすめ)川も楽勝で駆け抜けることができたのだろう。(登りこんでいないから、ちょっとした滝などの通過にも時間がかかり、時間切れで栗駒山ピークアタックを断念せざるを得なかったのだろう。)
中赤岩・リス奥直上をトップで登る斎藤。あとの3人はトップロープでチャレンジするが、まともに登れない。現役のときは、こんなところを、よくトップで登れたものだ。その後、リス奥左カンテを登ったが、取りつきで、ちょっと苦労する。現役時代は、すいすい登れたはずなのに...。
リスを登り、東赤岩方面を眺める。20年前と変わらず、景色が良い。
リスの上でジッヘルする銭谷。
リスのくさび(1年目がセミになるところ。今回は、私もセミになりかけた。)を通過しようとする清原ババア。その後、西赤岩・西壁3ピッチにも行きたかったが、風が強いのと、少々疲れて危険なので、ここで引き上げることにする。現役時代は1日で21ピッチ登ったこともあったが、この日は、たった4ピッチで、疲れてしまった。
朝里川温泉の露天風呂で疲れを癒し、それぞれ仙台や東京へ飛行機で帰宅した。
(文責:山森 聡)
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OBの山行記録・ 2006年10月17日 (火)
●2006年9月23日(土) (1ー0)
【ルート】
桂沢林道笊森登山口→(林道)→産女橋→(産女川遡行)→夏道Co1300m付近→(夏道)→桂沢林道笊森登山口
【メンバ】
L:銭谷竜一(90入部)、M:山森聡(86入部)
【行程】
9月23日(土)(快晴→曇)桂沢林道笊森登山口Co610mC0(6:05)→産女橋Co630m入渓点(7:15-30)→Co790m大滝下(9:40-10:00)→Co1190二股(14:30)→夏道Co1300m付近(15:30-45)→桂沢林道笊森登山口Co610m(17:30)
※栗駒山(1627.4m)のピークアタックをする計画であったが、時間切れで断念。
【地図】 (五万図)栗駒山 (二万五千図)栗駒山
【記録】
10/7に札幌でDICKの結婚を祝う会でRoomの昔の仲間が集うのに合わせて、有志で道内の沢登りに行こうということになった。その準備山行を兼ねて、日本百名谷(白山書房)にも紹介されている東北・栗駒山産女(うぶすめ)川を遡行することにした。栗駒山は、秋田県、岩手県、宮城県の3県の境付近にあり、産女川は岩手県側の沢である。
金曜日の夜の新幹線で東京から仙台に移動し、銭谷(仙台在住)に自家用車で21:00に仙台駅まで迎えに来てもらう。新幹線を使えば東京から仙台まで1時間半強で早いものだ。仙台から東北自動車道で一関ICへ。真湯温泉から桂沢林道に入り、桂沢林道笊森登山口の林道ゲートでC0。
入渓してすぐに、美しいナメが続く。そしてすぐに現れる8mの滝(写真)は、ザイルを出して空身で直登した(ザックは吊り上げ)。その後の5段の滝は、1段目はノーザイルで直登し、2段目、3段目はザイルを出して直登。4段目、5段目は右岸を高捲いた。ザイルを出したり、高捲きをしたりで、久しぶりの沢登り(リハビリ山行)にふさわしい。
その後も、ノーザイルで直登できる小滝が、次々と現れて、なかなか楽しい。
ちょっとした釜をへつる。釜の水がエメラルドグリーンに輝き、美しい。
Co790m大滝(写真)は、右岸を高捲く。高捲きの取りつきは、ブッシュにシュリンゲをかけながら、つかんだり、アブミのように足を入れたりしながら登る。下降は、なんとかアップザイレンなしで、ノーザイルでクライムダウンできた。高捲きには約40分かかった。その後河原歩きが続いた後、10mトイ状の暗門の滝が現れる。これは、左岸ルンゼから高捲き。
美しいナメや釜が続く。
写真の5mの滝は、銭谷がノーザイルでチャレンジするが、最後の一歩踏み出せず、セミになる。山森が左岸を高捲いて、上からザイルを垂らす。高捲きからの下降はアップザイレン。沢慣れた2年目以上の現役なら何でもないであろう、この滝の通過で、恥ずかしながら、かなりの時間と体力を消耗してしまった。
腰まで水につかって、釜を通過する。
源頭に近づいて、美しいナメが続く。この先に現れた釜と滝は、泳がないと取りつきできず、ザイルをだして空身なら直登できるかなという微妙な代物だ。時間もないので、左岸を高捲くことにするが、腕が疲れていて笹を掴む手に力が入らない。高捲きを続けるか沢に戻ってザイルを出すかパーティで話合った結果、時間もないので、そのまま左岸を夏道目指して尾根上までブッシュ漕ぎして登ることにした。30分ほどで夏道のCo1300m付近に出た。
栗駒山(1627.4m)のピークアタックは時間切れで断念。夏道は、草刈りがされておらず、人もほとんど通らない様子で、獣道の様だ。藪漕ぎと大差ないような状態で、景色を眺めながら急いで下山。Co900m位より下は、美しいブナの森で、草刈りもなされている。暗くなる直前の17:30に登山口の自家用車に到着。
最寄りの真湯温泉に入りたかったが、携帯電話が圏外。時間も遅いので、下山連絡を優先させるため、携帯電話が通じるところまで車を進める。
結局、一関の「かんぽの宿」の露天風呂で疲れをいやす(写真)。今回は時間切れでピークを踏めなかったが、怪我もなく明るいうちに無事下山できたので、良しとしよう。栗駒山ピークは、今冬に山スキーでリベンジすることを誓いあい、一関駅まで車で送ってもらい、新幹線で東京へ帰った。
銭谷作成の遡行図。
(文責:山森 聡)
9月23日(土)(快晴→曇)桂沢林道笊森登山口Co610mC0(6:05)→産女橋Co630m入渓点(7:15-30)→Co790m大滝下(9:40-10:00)→Co1190二股(14:30)→夏道Co1300m付近(15:30-45)→桂沢林道笊森登山口Co610m(17:30)
※栗駒山(1627.4m)のピークアタックをする計画であったが、時間切れで断念。
【地図】 (五万図)栗駒山 (二万五千図)栗駒山
【記録】
10/7に札幌でDICKの結婚を祝う会でRoomの昔の仲間が集うのに合わせて、有志で道内の沢登りに行こうということになった。その準備山行を兼ねて、日本百名谷(白山書房)にも紹介されている東北・栗駒山産女(うぶすめ)川を遡行することにした。栗駒山は、秋田県、岩手県、宮城県の3県の境付近にあり、産女川は岩手県側の沢である。
金曜日の夜の新幹線で東京から仙台に移動し、銭谷(仙台在住)に自家用車で21:00に仙台駅まで迎えに来てもらう。新幹線を使えば東京から仙台まで1時間半強で早いものだ。仙台から東北自動車道で一関ICへ。真湯温泉から桂沢林道に入り、桂沢林道笊森登山口の林道ゲートでC0。
入渓してすぐに、美しいナメが続く。そしてすぐに現れる8mの滝(写真)は、ザイルを出して空身で直登した(ザックは吊り上げ)。その後の5段の滝は、1段目はノーザイルで直登し、2段目、3段目はザイルを出して直登。4段目、5段目は右岸を高捲いた。ザイルを出したり、高捲きをしたりで、久しぶりの沢登り(リハビリ山行)にふさわしい。
その後も、ノーザイルで直登できる小滝が、次々と現れて、なかなか楽しい。
ちょっとした釜をへつる。釜の水がエメラルドグリーンに輝き、美しい。
Co790m大滝(写真)は、右岸を高捲く。高捲きの取りつきは、ブッシュにシュリンゲをかけながら、つかんだり、アブミのように足を入れたりしながら登る。下降は、なんとかアップザイレンなしで、ノーザイルでクライムダウンできた。高捲きには約40分かかった。その後河原歩きが続いた後、10mトイ状の暗門の滝が現れる。これは、左岸ルンゼから高捲き。
美しいナメや釜が続く。
写真の5mの滝は、銭谷がノーザイルでチャレンジするが、最後の一歩踏み出せず、セミになる。山森が左岸を高捲いて、上からザイルを垂らす。高捲きからの下降はアップザイレン。沢慣れた2年目以上の現役なら何でもないであろう、この滝の通過で、恥ずかしながら、かなりの時間と体力を消耗してしまった。
腰まで水につかって、釜を通過する。
源頭に近づいて、美しいナメが続く。この先に現れた釜と滝は、泳がないと取りつきできず、ザイルをだして空身なら直登できるかなという微妙な代物だ。時間もないので、左岸を高捲くことにするが、腕が疲れていて笹を掴む手に力が入らない。高捲きを続けるか沢に戻ってザイルを出すかパーティで話合った結果、時間もないので、そのまま左岸を夏道目指して尾根上までブッシュ漕ぎして登ることにした。30分ほどで夏道のCo1300m付近に出た。
栗駒山(1627.4m)のピークアタックは時間切れで断念。夏道は、草刈りがされておらず、人もほとんど通らない様子で、獣道の様だ。藪漕ぎと大差ないような状態で、景色を眺めながら急いで下山。Co900m位より下は、美しいブナの森で、草刈りもなされている。暗くなる直前の17:30に登山口の自家用車に到着。
最寄りの真湯温泉に入りたかったが、携帯電話が圏外。時間も遅いので、下山連絡を優先させるため、携帯電話が通じるところまで車を進める。
結局、一関の「かんぽの宿」の露天風呂で疲れをいやす(写真)。今回は時間切れでピークを踏めなかったが、怪我もなく明るいうちに無事下山できたので、良しとしよう。栗駒山ピークは、今冬に山スキーでリベンジすることを誓いあい、一関駅まで車で送ってもらい、新幹線で東京へ帰った。
銭谷作成の遡行図。
(文責:山森 聡)
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部報解説・ 2006年10月16日 (月)
昔の部報紹介の不定期連載です。さらっと読んで短評のつもりだったのですが、やはりとてもおもしろいのでさらっとは読めませんでした。地形図片手に80年前の記録を読むのはとてもおもしろいです。2号は記録も多いので、今回と次回、2度に渡って紹介します。
北大山岳部部報2号(1929年)
【総評】
1928.4-1929.8の1年5ヶ月分の山行記録と16の紀行、研究小文。編集長は須藤宣之助。価格は2円、334ページ。戦前の部報では最も厚い一冊である。1号発行からわずか1年半でこれだけの記録集。当時の山岳部創生期の熱気がムンムンしている。
【時代】
1928年山東で日中軍衝突。張作霖を関東軍が暗殺
1929年P.バウアー(独)第一次カンチェンジュンガ遠征
北海道駒ヶ岳大噴火
●知床半島の山 原忠平
部報1号には無かった知床特集である。過去数度の知床山行記録に基づく夏期登路案内。積雪期記録はこれまでに無いとのこと。宇登呂、羅臼に港は有るが陸路が無かったそうで、網走か根室から発動汽船を手配してアプローチするとのこと。「人夫はウトロにて雇うのが最も適している様に考えられる」ほとんど海外遠征だ。
・1928年7月、三日間でテッパンベツ川から知床岳往復の記録。
・同年同月、6日間でカムイワッカ漁場から硫黄山、羅臼岳縦走。途中、グブラー氏(スイス人教授。ヘルベチアヒュッテの設計者)と出会う一幕あり。羅臼平のコルで雨天停滞中、グブラー博士とドイツ語で冗談を交わすあたりが当時の大学生である。
・ テッパンベツ川河口で2週間、山にも登らず番屋暮らしをする記録。番屋でおむすびを握ってもらいルシャ乗越をして根室側に出、海中に湧くセセキの湯を引き潮のタイミングで入る。漁師の手伝いをして鱒採りなどして過ごす。
● 幌尻岳スキー登山 須藤宣之助
1号の目玉が冬期石狩岳初登記録なら、2号はこの記録である。石狩岳で中央高地の冬期登山に区切りをつけ、いよいよ冬の日高にねらいを定め始めた。
1929年1月。5人と人夫2人でほぼ10日間。登路はトッタベツ川を遡行しトッタベツ岳から直接降りる尾根をたどって、稜線をアタックと言うもの。石狩岳同様、秋のうちに小屋を建てている。ルートはもちろん行ってみなければわからない時代だ。B.C.の小屋からアタックの朝、伊藤秀五郎氏はスノーブリッジが崩れ沢に落ち、足を濡らしたのでリタイアしている。当時の装備では足も濡れやすかっただろう。南に見える「1900米の山」に目を惹かれている。エサオマンだ。積雪期日高の記録は、まだ1号のピパイロ岳とこの幌尻岳だけである。
● 美生岳・戸蔦別岳及幌尻嶽 星光一
1929夏、ピパイロ川から主稜線にあがりカムエクまでの計画だったが、天候悪く日数切れで戸蔦別川へ降りた。10日の山行。
● 日高山脈より新冠川を下る 坂本正幸
1928年7月ピパイロ川から1940を越えてトッタベツ岳、幌尻岳、未知のルート、プイラル沢へ降りて新冠川を下る。アイヌの水本新吉氏を人夫に一行4人。水本氏は遠くのクマをすぐに見つけるいい目をしている。現在はダムの底に沈んでいる中流域の様子が面白い。付録の地図にもリビラ山東面のシウレルカシュペ沢の下流に長いゴルジュが描いてある。日高側の里に下りると白い髭のアイヌの渡し守がいる渡船場がある。11日間の旅。
● トッタベツ川を入りカムイエクウチカウシ山を登る 山縣浩
1928年7月ピリカペタン沢から札内岳を越え、札内川8の沢からカムエク往復。一行の人夫はアイヌ老人水本文太郎氏。13の頃から日高の測量を案内し、56歳。著者山縣は老人の年季のいった風格と技能に、尊敬の情を隠さない。カムエクの8の沢は日帰りが出来る、北西面沢(シュンベツ川カムエク沢)は非常に困難な沢である、と語る。よく歩きこんで、何でも知っている。札内川下山も今はピョウタンの滝でヒッチするところだが、この先岩内川を越え、トッタベツ川の橋も越え、上清川の駅(当時あった十勝鉄道)まで20キロ歩いている。
● 静内川よりカムイエクウチカウシ山 福西幸次郎
1929年7月、16日間、3人+人夫1人
現在は高見ダムに沈んでしまっているメナシベツ川中流部の函函函を、泣き言を交えながら進んでいく。本人たちも現在地を把握できておらず、記録としてはどこの事を書いているのか判然としない部分もあるが、未知の長い沢を何日も恐れ喜びながら進んでいく彼らの様子がよく分かる。「ステップも切らずに急な斜面がへづれるなんて全く熊に御礼をいわなければならない」とあるほどクマだらけ。遡行10日後に国境に上がってみるとサッシビチャリのつもりがコイボク沢を23の北側に上がっていた。その後カムエクを登って札内へ降りた。札内川という歩きやすい川があるのに何もこの開拓期に苦労して日高側の静内川など登る物では無いと書いてあるのがおかしい。立派な静内川初期遡行記録である。
● 日高山脈中ノ川地形について 大立目謙一郎
林道のない時代に、河岸段丘のある下流から入山。中ノ川を登って神威岳を目指すが、函に苦労して天気も悪く敗退している。これまで戸蔦別川や美生川など、楽な沢の時代だったが、中部日高の沢に目を向け始めた頃の記録。「地形について」とは、敗退しているので、山行記録と書いていない様だ。「丁度川が西南に廻る所、984.3の三角点の下の辺で函に出会ふ。之こそ物凄い。水がめのようだ。中は真暗で急角度で折れ曲がる。両岸は跳べば越せる程せまく、とても、ぢき下からなど上る事は出来ない。」今では林道終点から数時間でこの函だが、下流部、中流部を何日もかけてここまで来ての敗退である。
● 日高山脈単独行 伊藤秀五郎
当時案内人を伴わずに日高にはいるのは珍しかったので、単独行としての日高沢旅の始めではないだろうか。単独行についての心持ちを大いに語っている。行程は8月27日〜9月9日
千呂露川から北戸蔦別岳に登り、戸蔦別川を下る(予定では新冠川、イドンナップ、シュンベツ川を考えていた)。そして一度帯広にでて、広尾まで乗り合い自動車(バスのことか?)、札楽古右股から楽古岳、パンケ川を下る。
油紙で小屋がけをするのがおもしろい。ビニールかブルーシートのような感じなのだろう。帯広から広尾への乗り合いバスで見る風景「それは、未だ嘗て斧鉞の加へられたことの無かった強大な柏の原生林だ。小高い丘陵地帯を概そ数里の間、人間の手からとり残されている広大な森林世界だ。私はこんな雄大な景観は多く知らない」。坂本直行の絵にこんな風景があった。この時代、山の記録以上に、麓の話が興味深い。
● 石狩川を遡りて音更川を下る 河合克己
瓔珞磨く石狩の源遠く問い来れば原始の森は暗くして雪解の泉玉と涌く(大正9年桜星会歌)
の歌詞そのまんま。層雲峡の大函を、胸まで浸って通過して、これまで遡行した誰もが口をそろえて美しいと称えた石狩川本流をまる三日かけて大石狩沢から登頂。稜線づたいにニペソツまで行く予定だったが、ブッシュのすごさに作戦を変えて音更川に降りる。途中大滝で行き止まり、尾根を藪こぎでまたぐ途中で暗くなり、横にもなれないところで朝を待つ。鉈でケガしたのでニぺはやめて音更川を下る。音更川は、十勝三股はもちろん、ニペソツ東面の幌加音更川の出会いあたりまでが原始林だ。南クマネシリからの13ノ沢出会いから1里続く一枚岩の岩盤が「音更川で最も美しいところ」とある。幌加音更川の林道は、昨年来たときにはまだ原始の森だったのが、わずか一年でニペソツのすぐ近くまで林道を延ばしたとある。このころの開発の進み具合がわかる。下山して最初の宿が「ユウンナイ温泉」今の糠平ダムの湖底と思われる。7月だというのに、「今年初めての客だ」といわれたというのがおかしい。
石狩川の焚火の傍らでの記述。「夕食後の雑談も長くは続かない。焚火を見つめて黙り込んでしまふ。何を考えて居るのか、それは誰にもわからない。自分にもわからないんだ。時々パイプから吐出される煙の様なものを考えて居るのかもしれない。此の時間が最も楽しい時だ。都会に住む自分等は山の中でなければ自分一人になれないのだ。」
以下、次回で紹介します。
● 十勝岳―十勝川―ニペソツ山 山縣浩
● 石狩岳とニペソツ山を中心に 伊藤秀五郎
● ニペソツ山 徳永芳雄
● 五月の芦別夕張連峰 山口健児
● 三月の利尻岳 井田清
● 国後島遊記 島村光太郎
● アレウシアンの旅 高橋喜久司
● 日高山脈アイヌ語考 山口健児
● 山に就いて(詩) 伊藤秀五郎
年報 1928/4−1929/8
写真12点、スケッチ5点、地図3点
【部報2号(1929)後編に続く】
【総評】
1928.4-1929.8の1年5ヶ月分の山行記録と16の紀行、研究小文。編集長は須藤宣之助。価格は2円、334ページ。戦前の部報では最も厚い一冊である。1号発行からわずか1年半でこれだけの記録集。当時の山岳部創生期の熱気がムンムンしている。
【時代】
1928年山東で日中軍衝突。張作霖を関東軍が暗殺
1929年P.バウアー(独)第一次カンチェンジュンガ遠征
北海道駒ヶ岳大噴火
●知床半島の山 原忠平
部報1号には無かった知床特集である。過去数度の知床山行記録に基づく夏期登路案内。積雪期記録はこれまでに無いとのこと。宇登呂、羅臼に港は有るが陸路が無かったそうで、網走か根室から発動汽船を手配してアプローチするとのこと。「人夫はウトロにて雇うのが最も適している様に考えられる」ほとんど海外遠征だ。
・1928年7月、三日間でテッパンベツ川から知床岳往復の記録。
・同年同月、6日間でカムイワッカ漁場から硫黄山、羅臼岳縦走。途中、グブラー氏(スイス人教授。ヘルベチアヒュッテの設計者)と出会う一幕あり。羅臼平のコルで雨天停滞中、グブラー博士とドイツ語で冗談を交わすあたりが当時の大学生である。
・ テッパンベツ川河口で2週間、山にも登らず番屋暮らしをする記録。番屋でおむすびを握ってもらいルシャ乗越をして根室側に出、海中に湧くセセキの湯を引き潮のタイミングで入る。漁師の手伝いをして鱒採りなどして過ごす。
● 幌尻岳スキー登山 須藤宣之助
1号の目玉が冬期石狩岳初登記録なら、2号はこの記録である。石狩岳で中央高地の冬期登山に区切りをつけ、いよいよ冬の日高にねらいを定め始めた。
1929年1月。5人と人夫2人でほぼ10日間。登路はトッタベツ川を遡行しトッタベツ岳から直接降りる尾根をたどって、稜線をアタックと言うもの。石狩岳同様、秋のうちに小屋を建てている。ルートはもちろん行ってみなければわからない時代だ。B.C.の小屋からアタックの朝、伊藤秀五郎氏はスノーブリッジが崩れ沢に落ち、足を濡らしたのでリタイアしている。当時の装備では足も濡れやすかっただろう。南に見える「1900米の山」に目を惹かれている。エサオマンだ。積雪期日高の記録は、まだ1号のピパイロ岳とこの幌尻岳だけである。
● 美生岳・戸蔦別岳及幌尻嶽 星光一
1929夏、ピパイロ川から主稜線にあがりカムエクまでの計画だったが、天候悪く日数切れで戸蔦別川へ降りた。10日の山行。
● 日高山脈より新冠川を下る 坂本正幸
1928年7月ピパイロ川から1940を越えてトッタベツ岳、幌尻岳、未知のルート、プイラル沢へ降りて新冠川を下る。アイヌの水本新吉氏を人夫に一行4人。水本氏は遠くのクマをすぐに見つけるいい目をしている。現在はダムの底に沈んでいる中流域の様子が面白い。付録の地図にもリビラ山東面のシウレルカシュペ沢の下流に長いゴルジュが描いてある。日高側の里に下りると白い髭のアイヌの渡し守がいる渡船場がある。11日間の旅。
● トッタベツ川を入りカムイエクウチカウシ山を登る 山縣浩
1928年7月ピリカペタン沢から札内岳を越え、札内川8の沢からカムエク往復。一行の人夫はアイヌ老人水本文太郎氏。13の頃から日高の測量を案内し、56歳。著者山縣は老人の年季のいった風格と技能に、尊敬の情を隠さない。カムエクの8の沢は日帰りが出来る、北西面沢(シュンベツ川カムエク沢)は非常に困難な沢である、と語る。よく歩きこんで、何でも知っている。札内川下山も今はピョウタンの滝でヒッチするところだが、この先岩内川を越え、トッタベツ川の橋も越え、上清川の駅(当時あった十勝鉄道)まで20キロ歩いている。
● 静内川よりカムイエクウチカウシ山 福西幸次郎
1929年7月、16日間、3人+人夫1人
現在は高見ダムに沈んでしまっているメナシベツ川中流部の函函函を、泣き言を交えながら進んでいく。本人たちも現在地を把握できておらず、記録としてはどこの事を書いているのか判然としない部分もあるが、未知の長い沢を何日も恐れ喜びながら進んでいく彼らの様子がよく分かる。「ステップも切らずに急な斜面がへづれるなんて全く熊に御礼をいわなければならない」とあるほどクマだらけ。遡行10日後に国境に上がってみるとサッシビチャリのつもりがコイボク沢を23の北側に上がっていた。その後カムエクを登って札内へ降りた。札内川という歩きやすい川があるのに何もこの開拓期に苦労して日高側の静内川など登る物では無いと書いてあるのがおかしい。立派な静内川初期遡行記録である。
● 日高山脈中ノ川地形について 大立目謙一郎
林道のない時代に、河岸段丘のある下流から入山。中ノ川を登って神威岳を目指すが、函に苦労して天気も悪く敗退している。これまで戸蔦別川や美生川など、楽な沢の時代だったが、中部日高の沢に目を向け始めた頃の記録。「地形について」とは、敗退しているので、山行記録と書いていない様だ。「丁度川が西南に廻る所、984.3の三角点の下の辺で函に出会ふ。之こそ物凄い。水がめのようだ。中は真暗で急角度で折れ曲がる。両岸は跳べば越せる程せまく、とても、ぢき下からなど上る事は出来ない。」今では林道終点から数時間でこの函だが、下流部、中流部を何日もかけてここまで来ての敗退である。
● 日高山脈単独行 伊藤秀五郎
当時案内人を伴わずに日高にはいるのは珍しかったので、単独行としての日高沢旅の始めではないだろうか。単独行についての心持ちを大いに語っている。行程は8月27日〜9月9日
千呂露川から北戸蔦別岳に登り、戸蔦別川を下る(予定では新冠川、イドンナップ、シュンベツ川を考えていた)。そして一度帯広にでて、広尾まで乗り合い自動車(バスのことか?)、札楽古右股から楽古岳、パンケ川を下る。
油紙で小屋がけをするのがおもしろい。ビニールかブルーシートのような感じなのだろう。帯広から広尾への乗り合いバスで見る風景「それは、未だ嘗て斧鉞の加へられたことの無かった強大な柏の原生林だ。小高い丘陵地帯を概そ数里の間、人間の手からとり残されている広大な森林世界だ。私はこんな雄大な景観は多く知らない」。坂本直行の絵にこんな風景があった。この時代、山の記録以上に、麓の話が興味深い。
● 石狩川を遡りて音更川を下る 河合克己
瓔珞磨く石狩の源遠く問い来れば原始の森は暗くして雪解の泉玉と涌く(大正9年桜星会歌)
の歌詞そのまんま。層雲峡の大函を、胸まで浸って通過して、これまで遡行した誰もが口をそろえて美しいと称えた石狩川本流をまる三日かけて大石狩沢から登頂。稜線づたいにニペソツまで行く予定だったが、ブッシュのすごさに作戦を変えて音更川に降りる。途中大滝で行き止まり、尾根を藪こぎでまたぐ途中で暗くなり、横にもなれないところで朝を待つ。鉈でケガしたのでニぺはやめて音更川を下る。音更川は、十勝三股はもちろん、ニペソツ東面の幌加音更川の出会いあたりまでが原始林だ。南クマネシリからの13ノ沢出会いから1里続く一枚岩の岩盤が「音更川で最も美しいところ」とある。幌加音更川の林道は、昨年来たときにはまだ原始の森だったのが、わずか一年でニペソツのすぐ近くまで林道を延ばしたとある。このころの開発の進み具合がわかる。下山して最初の宿が「ユウンナイ温泉」今の糠平ダムの湖底と思われる。7月だというのに、「今年初めての客だ」といわれたというのがおかしい。
石狩川の焚火の傍らでの記述。「夕食後の雑談も長くは続かない。焚火を見つめて黙り込んでしまふ。何を考えて居るのか、それは誰にもわからない。自分にもわからないんだ。時々パイプから吐出される煙の様なものを考えて居るのかもしれない。此の時間が最も楽しい時だ。都会に住む自分等は山の中でなければ自分一人になれないのだ。」
以下、次回で紹介します。
● 十勝岳―十勝川―ニペソツ山 山縣浩
● 石狩岳とニペソツ山を中心に 伊藤秀五郎
● ニペソツ山 徳永芳雄
● 五月の芦別夕張連峰 山口健児
● 三月の利尻岳 井田清
● 国後島遊記 島村光太郎
● アレウシアンの旅 高橋喜久司
● 日高山脈アイヌ語考 山口健児
● 山に就いて(詩) 伊藤秀五郎
年報 1928/4−1929/8
写真12点、スケッチ5点、地図3点
【部報2号(1929)後編に続く】
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記事・消息・ 2006年10月8日 (日)
DICK(86入部)が、とうとう結婚しました。オングル島、昭和基地の沢柿さまはじめ、全世界の遠隔地の諸兄に詳細を報告いたします。(米山)
お相手は職場の半径5mにいる部下の陽子さんです。出会って3年、交際1年、入籍ほぼ1ヶ月で、ふたりはまだケンカしたことがありません。年代はほぼ同じくらい(詳しく聞いていません)、身長差は17センチ。実家は埼玉県です。趣味は自転車こぎで、道内あちこち遠出をしています。新婚旅行は先月道東、道北旅行。陽子さんの友達にはジム仲間が多く、頑健な体を維持しています。
台風並みの低気圧が北海道付近に来ていましたがなぜか欠航も無く、大阪、東京、仙台、酒田、函館、室蘭からも集まりました。宴会は凝った催しなど全く無しでしたが、ススキノ→つると4時間半続き、きょうはヘルベチアで二次会の予定です。予定していた結婚記念沢登りは、悪天のため断念しました。二次会にはキンドーさん、スエさんも来てくれました。
おめでとう。
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部報解説・ 2006年9月23日 (土)
部報14号の発行が間近になったので、これまでの部報を読み返しています。登り覚えのあるルートも、時代が違うと驚くばかり。歴代部報の概略とさわり、短評を不定期連載で紹介します。
部報1号を読むには、北大山岳館の書庫へ出向いてください。僕は何年も前に86年頃出た復刻版(1〜7号揃い)を古書店で買いました。伊藤秀五郎氏の文章に限っては、中公文庫の「北の山」に何編かあったと思いましたが、今は絶版かと思います。坂本直行氏のトムラウシ行の文章を学生の時に読み、大正時代の大学生の国語力に憧れたりしました。80年前の青春記録集です。
ちなみに北大山岳部発会式は1926年11月10日午後7時とあり、今年でまもなくちょうど80周年です。
部報1号(1928年)
【総評】
山岳部の出来た1926年暮れからから1年5ヶ月後に発行された。山岳部前史としての10数年のスキー部時代も俯瞰できる。編集長は伊藤秀五郎氏。
スキーによる積雪期初登山を大雪、夕張、札幌近郊で行い、いよいよ奥深い石狩岳の冬期初登が大きな目標とされた。夏期は稜線のヤブこぎ山行などが十勝や大雪などで計画されていて驚く。
しかし興味深いのは阿寒湖、洞爺湖、狩場山周辺のアプローチの悪さ、原始林の深さである。今ならば自動車道路で全く味気ない。
千島のアライト登頂記録と当時の記述も、今となっては貴重なものである。
以下、各章のタイトルとその概略。
●冬の十勝岳 和辻廣樹
1926年山岳部発足前後の初登山行に基づいた、十勝連峰の冬期登山案内。十勝岳、上ホロ、美瑛岳、富良野岳などの冬期初登頂のいきさつやルートなどを解説している。現在も十勝連峰で使われている、D,Z,H,O,P,Nなどの地点名がAから入っている地図が付いている。ちなみに和辻氏は部章の原案を作図した。
●冬の石狩岳 伊藤秀五郎、和辻廣樹
1928年2月上旬、層雲峡から石狩川を遡り、前石狩沢から左岸尾根にのり、厳冬期の石狩岳初登頂をした約10日の山行記録。夏に簡単な小屋を途中に二つ作っておいた。当時の石狩川源流はもちろん無人地帯。層雲峡大箱の凍結を狙って通過した。上川から双雲別温泉(層雲峡)まで馬橇。奥深い石狩川の源流をたどる厳冬期石狩岳アタックは長年のテーマだったようで、部報1号を飾る山行記録。
●美生岳登山記録 須藤宣之助
1928年3月下旬ピパイロ川支流トムラウシ川(現ニタナイ川)から伏見岳北コル経由でピパイロ岳アタックの記録。2名で6日間
●三月の武利岳 板橋卓
1928年3月中旬五人+人夫二人でイトンムカ沢からアタックの記録。大箱(層雲峡の核心部)の氷が溶けてしまっているので、ニセイチャロマップ川からの登路を諦めた、という時代。北見ルベシベから馬橇でアプローチ。
●斜里岳 原忠平
武利のあと、メンバー2名で斜里に向かった。斜里の駅から徒歩で原野を歩いて山麓に向かう。飽かず斜里を眺めるアプローチだ。近づく斜里を眺めながらルートを練り、越川の駅逓より北東尾根からアタック。「海別岳」の読みを土地の少年に聞いて「ウナベツ」だったと知る下りがある。
●五月の石狩岳 野中保次郎
1926年5月中旬、層雲別温泉(層雲峡)から黒岳、忠別岳、ヌタップヤンベツ沢、石狩沢から石狩岳を往復した記録。上記の厳冬期初登の前に残雪期、稜線づたいに成された。谷の中は雪解け水で通れず、天気の安定した季節に高地を通って忠別岳まで近づいた。奥深い石狩岳である。9日間。
●三月のトムラウシ山 坂本直行
1927年.坂本直行氏、学生時代最後の山行。美瑛から俵真布(タロマップ)へ馬橇。ここの農家から辺別川左岸沿い硫黄岳経由でアタック。「ひたひたと足もとに寄する大小幾多の山脈。黒きタンネもてうづむる谷々・・・。」若き坂本氏の文章は身に覚えのある読者の心を揺らす。
●春の阿寒行 島村光太郎
1927年.3月下旬、美幌から網走線で北見相生まで鉄路(現在廃線)。そのあと釧北峠を越えて尻駒別の谷に入り、阿寒湖温泉から雌阿寒と雄阿寒をアタック。徒歩で峠越えをしてきたのに温泉小屋にはご主人がいる。「湖畔のアイヌ小屋」、「数日前に来たグブラー氏(ヘルベチアヒュッテの設計者)の足跡が俺等の二倍ある」などの記述あり。
●北海道スキー登山の発達 伊藤秀五郎
1911年、北大にスキーが伝えられてから、道内の山が冬季に登られていく歴史を俯瞰できる小文。大正年間に近郊、ニセコ・羊蹄山、芦別と、冬期初登頂の記録が並び、大正末期からこの部報1号にかけての時代に、中央高地や日高など、人里遠く、高い山々の厳冬期初登が成されていく。いわば北大山岳部前史の、スキー部、旅行部時代の冬期北海道山行記録の総集編である。
●狩場山 伊藤秀五郎
1928年3月下旬、伊藤秀五郎氏の単独行。寿都から千走まで馬橇。賀老から東狩場山南東尾根をアタック。狩場山は南東尾根を予定していたが時間切れで引き返す。この時代、極端に交通が不便。賀老高地の集落が雪で埋まっていて雪原になっていた様など記述有り。寿都への帰りは母衣ノ月山越えで帰っている。
●冬のニセイカウシュッペ山 原忠平
ニセイカウシュペの登山。途中南面の岩峰群に目を奪われる。「ギプフェルグリュック(山頂の感慨?)をさほど感じなかった」など、ドイツ語の借用語多し。外来語で気取っている感もあるが、当時の山好きはドイツ語の文献を通読していたようで、日本語では言いようのない概念などもあったと思われる。「シュタイクアイゼン」と書く人と、「クランポン」と書く人と二通りあっておもしろい。
●太陽・雪・スキー 伊藤秀五郎
伊藤による山スキー随想集。1923年(大正十二年)、伊藤が新人時代のニセコ連山三月の縦走、雄冬岳から増毛全山を暑寒別岳まで縦走する五月、明けて正月、狩太から羊蹄山麓の原野をスキーで歩き、洞爺湖までの記録。湖畔では数年前に切り払われた巨大な切り株を見て、失われた原始林に思いを馳せる。そのまま船で幌萌、滑って虻田、船で室蘭、連絡船で青森へ行き岩木山登頂。当時、冬期は人の通わない北見峠の駅逓の老夫婦を山スキーで訪ね、チトカニウシ南西尾根をアタックして、粉雪のスロープを滑り降りている。
●北千島の印象 伊藤秀五郎
1926年6月、伊藤氏が小森五作氏と共に北千島のシュムシュ、アライト、パラムシルへの調査船に便乗して見聞した紀行。函館を出て6日目にシュムシュ島に上陸。ほぼ2ヶ月、ほぼ無人のアライト島に小屋を作り、鱈を釣ったり、エトピリカなど野鳥を撃ったりして過ごした。ボートで島を2周し、植物や虫を採集した。トドの群れも観察に出かけている。
7月15日、千島最高峰のアライトに登頂している。登路は南東のルンゼ。山麓は見たことのない広さのお花畑。1500m以上は雪。
●三国山より石狩岳へ 山口健児
1927年7月、北海道三国を分ける、最も高い山脈を稜線づたいに行こうという計画。稜線のヤブはやはり歯が立たず、ユニ石狩沢に一度おりて、石狩岳を沢からアタックした。
●十勝岳より大雪山へ 徳永芳雄
なんと7月に十勝岳からトムラウシ経由黒岳までの縦走記録。予想に違わず、スマヌプリあたりでヤブこぎ地獄に。2週間の山行。5人+人夫1人
●漁岳とオコタンペ湖 河合克己
定山渓からまだダムのない豊平川を遡る10月。前年、この付近でタコ部屋(開拓の捨て駒にされた強制労働)脱走者と会った話もある。これは坂本直行氏の何か別の記録で読んだ覚えがある。「造材小屋で焚き火にあたっていると遠くに斧の響きが聞こえる」時代である。
オコタンペ湖から支笏湖に注ぐオコタンペ沢が函滝の連続で緊張する。その河口からは気の良い漁師の船をヒッチして丸駒温泉へ。そして千歳川河口まで2時間の船。ここからは王子製紙の軽便鉄道をヒッチして苫小牧へ。今とは全然違う原始の支笏湖周辺である。うらやましい。
●小さな岩登り 井田清
おそらく最古の赤岩文献。岩やルートの名は現代通っている名前は使われていない。おそらく西壁や東の岩峰の登攀を書いている。心情や、観念的な記述が多いが、当時の赤岩峠までのアプローチなど、周辺の様子は詳しく書かれていておもしろい。
●若き登山家の一小言 伊藤秀五郎
くだらない遭難と、登山をするなら避けられない危険とを混同する、世間の登山に無理解な人はあまりに冷笑的ではあるまいか?という、現代と全く変わらない社会状況にたいする考察。
友人大島亮吉の「アラインゲーエン(単独行のこと)に於いてこそ、自分は山登りの根本のものを感じる」に対する考察。
●旅・歩み・いこい 井田清
山と旅を巡る詩的な叙情文。
●山岳部の誕生 伊藤秀五郎
大正2年(1913)に出来たスキー部と大正9年(1920)にできた恵迪寮旅行部を両親に出来た山岳部の生い立ちを紹介している。スキー部はもとスキー登山をする部であり、旅行部は夏期の登山をする部だったが、どちらもメンバーは同じだった。大正9年(1920)あたりから部内でジャンプなどの競技スキーが盛んになり、やがてもとからの山スキー派が独立して山岳部を作るに至った。「最初から名前が山岳部だったなら、あとからスキー部が出来たはずである」という次第。山岳部誕生以前の時代に活躍し、発行直前に遭難死した板倉勝宣氏の功績や当時の人のつながりを詳しく述べている。
注・・スキー部の創立は公式には大正元年(1912年)。「北海道大学スキー部創立100周年記念史」 記念史編集委員会 平成24年6月2日発行による。1912年は7月30日に明治が大正にかわり、スキー部創設はその前後にあたる。文武会会報第67号(大正元年12月20日発行)には大正元年9月21日の委員会で正式決定された、とあるため。
年報(1926.11-1928.3)
写真11点、スケッチ4点(坂本直行)、地図3点
【総評】
山岳部の出来た1926年暮れからから1年5ヶ月後に発行された。山岳部前史としての10数年のスキー部時代も俯瞰できる。編集長は伊藤秀五郎氏。
スキーによる積雪期初登山を大雪、夕張、札幌近郊で行い、いよいよ奥深い石狩岳の冬期初登が大きな目標とされた。夏期は稜線のヤブこぎ山行などが十勝や大雪などで計画されていて驚く。
しかし興味深いのは阿寒湖、洞爺湖、狩場山周辺のアプローチの悪さ、原始林の深さである。今ならば自動車道路で全く味気ない。
千島のアライト登頂記録と当時の記述も、今となっては貴重なものである。
以下、各章のタイトルとその概略。
●冬の十勝岳 和辻廣樹
1926年山岳部発足前後の初登山行に基づいた、十勝連峰の冬期登山案内。十勝岳、上ホロ、美瑛岳、富良野岳などの冬期初登頂のいきさつやルートなどを解説している。現在も十勝連峰で使われている、D,Z,H,O,P,Nなどの地点名がAから入っている地図が付いている。ちなみに和辻氏は部章の原案を作図した。
●冬の石狩岳 伊藤秀五郎、和辻廣樹
1928年2月上旬、層雲峡から石狩川を遡り、前石狩沢から左岸尾根にのり、厳冬期の石狩岳初登頂をした約10日の山行記録。夏に簡単な小屋を途中に二つ作っておいた。当時の石狩川源流はもちろん無人地帯。層雲峡大箱の凍結を狙って通過した。上川から双雲別温泉(層雲峡)まで馬橇。奥深い石狩川の源流をたどる厳冬期石狩岳アタックは長年のテーマだったようで、部報1号を飾る山行記録。
●美生岳登山記録 須藤宣之助
1928年3月下旬ピパイロ川支流トムラウシ川(現ニタナイ川)から伏見岳北コル経由でピパイロ岳アタックの記録。2名で6日間
●三月の武利岳 板橋卓
1928年3月中旬五人+人夫二人でイトンムカ沢からアタックの記録。大箱(層雲峡の核心部)の氷が溶けてしまっているので、ニセイチャロマップ川からの登路を諦めた、という時代。北見ルベシベから馬橇でアプローチ。
●斜里岳 原忠平
武利のあと、メンバー2名で斜里に向かった。斜里の駅から徒歩で原野を歩いて山麓に向かう。飽かず斜里を眺めるアプローチだ。近づく斜里を眺めながらルートを練り、越川の駅逓より北東尾根からアタック。「海別岳」の読みを土地の少年に聞いて「ウナベツ」だったと知る下りがある。
●五月の石狩岳 野中保次郎
1926年5月中旬、層雲別温泉(層雲峡)から黒岳、忠別岳、ヌタップヤンベツ沢、石狩沢から石狩岳を往復した記録。上記の厳冬期初登の前に残雪期、稜線づたいに成された。谷の中は雪解け水で通れず、天気の安定した季節に高地を通って忠別岳まで近づいた。奥深い石狩岳である。9日間。
●三月のトムラウシ山 坂本直行
1927年.坂本直行氏、学生時代最後の山行。美瑛から俵真布(タロマップ)へ馬橇。ここの農家から辺別川左岸沿い硫黄岳経由でアタック。「ひたひたと足もとに寄する大小幾多の山脈。黒きタンネもてうづむる谷々・・・。」若き坂本氏の文章は身に覚えのある読者の心を揺らす。
●春の阿寒行 島村光太郎
1927年.3月下旬、美幌から網走線で北見相生まで鉄路(現在廃線)。そのあと釧北峠を越えて尻駒別の谷に入り、阿寒湖温泉から雌阿寒と雄阿寒をアタック。徒歩で峠越えをしてきたのに温泉小屋にはご主人がいる。「湖畔のアイヌ小屋」、「数日前に来たグブラー氏(ヘルベチアヒュッテの設計者)の足跡が俺等の二倍ある」などの記述あり。
●北海道スキー登山の発達 伊藤秀五郎
1911年、北大にスキーが伝えられてから、道内の山が冬季に登られていく歴史を俯瞰できる小文。大正年間に近郊、ニセコ・羊蹄山、芦別と、冬期初登頂の記録が並び、大正末期からこの部報1号にかけての時代に、中央高地や日高など、人里遠く、高い山々の厳冬期初登が成されていく。いわば北大山岳部前史の、スキー部、旅行部時代の冬期北海道山行記録の総集編である。
●狩場山 伊藤秀五郎
1928年3月下旬、伊藤秀五郎氏の単独行。寿都から千走まで馬橇。賀老から東狩場山南東尾根をアタック。狩場山は南東尾根を予定していたが時間切れで引き返す。この時代、極端に交通が不便。賀老高地の集落が雪で埋まっていて雪原になっていた様など記述有り。寿都への帰りは母衣ノ月山越えで帰っている。
●冬のニセイカウシュッペ山 原忠平
ニセイカウシュペの登山。途中南面の岩峰群に目を奪われる。「ギプフェルグリュック(山頂の感慨?)をさほど感じなかった」など、ドイツ語の借用語多し。外来語で気取っている感もあるが、当時の山好きはドイツ語の文献を通読していたようで、日本語では言いようのない概念などもあったと思われる。「シュタイクアイゼン」と書く人と、「クランポン」と書く人と二通りあっておもしろい。
●太陽・雪・スキー 伊藤秀五郎
伊藤による山スキー随想集。1923年(大正十二年)、伊藤が新人時代のニセコ連山三月の縦走、雄冬岳から増毛全山を暑寒別岳まで縦走する五月、明けて正月、狩太から羊蹄山麓の原野をスキーで歩き、洞爺湖までの記録。湖畔では数年前に切り払われた巨大な切り株を見て、失われた原始林に思いを馳せる。そのまま船で幌萌、滑って虻田、船で室蘭、連絡船で青森へ行き岩木山登頂。当時、冬期は人の通わない北見峠の駅逓の老夫婦を山スキーで訪ね、チトカニウシ南西尾根をアタックして、粉雪のスロープを滑り降りている。
●北千島の印象 伊藤秀五郎
1926年6月、伊藤氏が小森五作氏と共に北千島のシュムシュ、アライト、パラムシルへの調査船に便乗して見聞した紀行。函館を出て6日目にシュムシュ島に上陸。ほぼ2ヶ月、ほぼ無人のアライト島に小屋を作り、鱈を釣ったり、エトピリカなど野鳥を撃ったりして過ごした。ボートで島を2周し、植物や虫を採集した。トドの群れも観察に出かけている。
7月15日、千島最高峰のアライトに登頂している。登路は南東のルンゼ。山麓は見たことのない広さのお花畑。1500m以上は雪。
●三国山より石狩岳へ 山口健児
1927年7月、北海道三国を分ける、最も高い山脈を稜線づたいに行こうという計画。稜線のヤブはやはり歯が立たず、ユニ石狩沢に一度おりて、石狩岳を沢からアタックした。
●十勝岳より大雪山へ 徳永芳雄
なんと7月に十勝岳からトムラウシ経由黒岳までの縦走記録。予想に違わず、スマヌプリあたりでヤブこぎ地獄に。2週間の山行。5人+人夫1人
●漁岳とオコタンペ湖 河合克己
定山渓からまだダムのない豊平川を遡る10月。前年、この付近でタコ部屋(開拓の捨て駒にされた強制労働)脱走者と会った話もある。これは坂本直行氏の何か別の記録で読んだ覚えがある。「造材小屋で焚き火にあたっていると遠くに斧の響きが聞こえる」時代である。
オコタンペ湖から支笏湖に注ぐオコタンペ沢が函滝の連続で緊張する。その河口からは気の良い漁師の船をヒッチして丸駒温泉へ。そして千歳川河口まで2時間の船。ここからは王子製紙の軽便鉄道をヒッチして苫小牧へ。今とは全然違う原始の支笏湖周辺である。うらやましい。
●小さな岩登り 井田清
おそらく最古の赤岩文献。岩やルートの名は現代通っている名前は使われていない。おそらく西壁や東の岩峰の登攀を書いている。心情や、観念的な記述が多いが、当時の赤岩峠までのアプローチなど、周辺の様子は詳しく書かれていておもしろい。
●若き登山家の一小言 伊藤秀五郎
くだらない遭難と、登山をするなら避けられない危険とを混同する、世間の登山に無理解な人はあまりに冷笑的ではあるまいか?という、現代と全く変わらない社会状況にたいする考察。
友人大島亮吉の「アラインゲーエン(単独行のこと)に於いてこそ、自分は山登りの根本のものを感じる」に対する考察。
●旅・歩み・いこい 井田清
山と旅を巡る詩的な叙情文。
●山岳部の誕生 伊藤秀五郎
大正2年(1913)に出来たスキー部と大正9年(1920)にできた恵迪寮旅行部を両親に出来た山岳部の生い立ちを紹介している。スキー部はもとスキー登山をする部であり、旅行部は夏期の登山をする部だったが、どちらもメンバーは同じだった。大正9年(1920)あたりから部内でジャンプなどの競技スキーが盛んになり、やがてもとからの山スキー派が独立して山岳部を作るに至った。「最初から名前が山岳部だったなら、あとからスキー部が出来たはずである」という次第。山岳部誕生以前の時代に活躍し、発行直前に遭難死した板倉勝宣氏の功績や当時の人のつながりを詳しく述べている。
注・・スキー部の創立は公式には大正元年(1912年)。「北海道大学スキー部創立100周年記念史」 記念史編集委員会 平成24年6月2日発行による。1912年は7月30日に明治が大正にかわり、スキー部創設はその前後にあたる。文武会会報第67号(大正元年12月20日発行)には大正元年9月21日の委員会で正式決定された、とあるため。
年報(1926.11-1928.3)
写真11点、スケッチ4点(坂本直行)、地図3点
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