書評・出版・ 2006年11月28日 (火)
みなさま
お待たせしました。ようやく部報14号の発行日のメドが立ちましたのでお知らせします。これから印刷を始めまして、12月8日に出来上がります。その後連番のハンコをついて、10日あたりから発送を始めます。
早々にご予約を頂いた方、楽しみにお待ちしていただいた皆様に感謝いたします。これまでの編集に大きな励みとすることができました。
是非次号の部報15号に続けて行きたいと思います。今後とも北大山岳部の活動にご期待ください。
尚、11月30日までに部報販売サイトで予約注文していただければ、送料が無料です。12月以降は冊数と送付宛に応じて送料ががかかります。
部報14号編集長・大野百恵(1997入部)
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部報解説・ 2006年11月26日 (日)
部報3号の後半分。カムエクの積雪期初登記を中心に大雪山周縁山域の記録。冬季スキー合宿おぼえ書きは当時の様子を生き生き伝えていてとてもおもしろい。芽室アイヌの案内人、水本文太郎氏の追悼二点がある。
● 三月のカムイエクウチカウシ山とその附近 徳永正雄
●ニセイカウシュペ山(茅刈別川から)と屏風岳 江(巾者)三郎
●屏風岳−武利岳―石狩岳 徳永正雄
●沼ノ原山・石狩岳・音更山・ユニ石狩岳・三國山 中野征紀
●山の拡りと人間化(特に北海道の山岳に就いて) 伊藤秀五郎
●山岳部冬季スキー合宿おぼえ書き 江(巾者)三郎
● 記念
・野中保次郎君 須藤宣之助
・中村邦之助君 井田清
・水本文太郎爺さんの追憶 高橋喜久司
・同 井田清
【部報3号(1931年)前編の続き】
● 三月のカムイエクウチカウシ山とその附近 徳永正雄
いよいよ日高のK2、カムエクの積雪期初登頂計画が出た。比較的谷が広い札内川から近づき8の沢二股にBCを作り、カムエク、エサオマン、札内岳を初アタックする。過去数回、夏期などに登路をさぐり、考察して計画を立てる前文が、当時の未知ぶりを表していておもしろい。麓の農場で働く坂本君(直行)から、稜線の積雪量などスケッチ葉書でなんども送ってもらった。
BCで人夫二名は、テントは寒いので嫌がり縦穴の底の焚き火の傍らで寝たらしい。これまでも不思議に思っていたが、寝袋など持たない彼らの積雪期山行はこうしていたのだ。別の本でアイヌのマタギがこうしているのを読んだことがある。厚着をせず、火に背中を向けて寝るのがポイントで、火が消えかければ寒くて起き、また薪を足すらしい。このとき同行した人夫は水本文太郎氏の息子新吉氏で、文太郎はこのとき病床にいた。
8の沢(左岸尾根ではなく、沢の中!)をコンタ1200m二股でシーデポー(当時もこの造語あり)し、左の沢を詰め南のコルから山頂アタック。雪は締まって雪崩の恐れなく、日も穏やかな登頂日和だった。翌日エサオマン分岐の少し札内岳よりにある岩塊に突き上げる尾根を使って、エサオマンもアタック。翌々日の札内岳は南東面キネン沢から進んだが、上流部が悪く、1150mあたりから右岸の尾根に早くから取り付いて登頂。
沢から山頂をアタックするこのスタイル、現代では雪崩を恐れて行われていない。今回、一度もデブリを見なかった、日高のこの時期、沢からのアプローチは有効だとある。問題は札内川本流の積雪量(渡渉の都合)で、時期の選択が鍵になると考察されている。
●ニセイカウシュペ山(茅刈別川から)と屏風岳 江(巾者)三郎
1930年末、十勝の冬合宿後、そのまま旭川から入山。茅刈別川の最終人家からニセカウの北西尾根をアタック。その尾根は「そこのたんねは實に都合よく生えていた。降りのあのスウツとする様な感を思ひ浮かべて胸を躍らせながら登った。」というすてきな尾根。下りは期待通り「今これを書いて居ながらも胸がわくわくする様な、あの素晴しい滑降が始まつたのだ。登りの時眞直ぐに附けて來たラツセルに入っては、ホツケの姿勢では股が攣つてしまつて弱つた程長い直滑降を、殆ど矢の様に、そんな加速度で進んだらお終ひにはどんな事になることかと恐れて、二三遍はバージンの中に突つこんでスピードを落さねばならなかつた程の速さでスキーは飛んだ。叉ジツグザツグで登つた急斜面に、そこの大きなたんねんの枝の下を縫つて雪煙の尾を引いて下つて行けば、叉次の一人が、その未だ消え去らぬ雪煙の中に次々に消えていつた。」痛快、そこ滑りたい。
上川まで戻って、馬橇で層雲峡へ移動、屏風岳の南西の尾根にとりついた。時期が早いせいか雪少なく、小タンネが密生していて不快調で引き返した。
●屏風岳−武利岳―石狩岳 徳永正雄
1930年8月初旬。「この夏(昭和5年)林内歩道が石狩川本流をユーニ石狩川合流点まで出来上がつたといふ話を聞いて石狩川を道の出来ないうちに歩いておきたいといふ考へから」この三山を沢から繋いだ。
もちろん林道などまだ無いニセイチャロマップから屏風岳を南東面の沢をアタック。頂きには三角櫓があったとある。その後ニセイチャロマップ川から武利岳南西面の支流ムルイ沢から武利岳へ。石狩川本流は出来たばかりの林道をユニ石狩の支流まで行き、営林署の小屋で泊。ヤンペタップ二股までの記述、「これからはどこまでも續いて居るやうな廣い磧で、それが盡きたらそこで水流を徒渉してまた砂洲を歩み、浅瀬を渡るといつたやぅな、ほんたぅに浩やかな流れを遡つて行くのである。大雪山彙の山稜が雪をとどめて輝いて居るのがよく眺められる。以前から聞いてゐた通りまことに石狩川は美しい良い川である。私はこのときほど川歩きの愉しさ、北海道の夏のよさといつたやぅなものを深く感じたことはない。うねりながら緩やかに流れる石狩川はほんたぅにいい川である。」国道もダムも無い時代の広々した石狩川。今はもうこれを体感することは出来ない。書き留めておいてもらって本当に良かった。
大石狩沢から石狩岳をアタックしてヌタツプヤムペツを遡り、忠別岳へ。日数があるのでトムラウシもアタックして黒岳から層雲別温泉へ下山。12日間の長い旅。
●沼ノ原山・石狩岳・音更山・ユニ石狩岳・三國山 中野征紀
五月、忠別川の松山温泉(現・天人峡)から入山。化雲、忠別、沼ノ原経由で石狩、三国山まで1930年5月16日から10日間。後に第一次南極観測隊副隊長を務める中野征紀ら5人+人夫2人
石狩山頂では「音更川を遡行して此の登頂に成功した先輩田口、藤江、佐々木の三君がニペソツから尾根傅ひに來る筈の大島さん一行への置き手紙が八年を過ぎた今なほ岩の間にある。さびついた空鑵、雨にしみた文字、そして其中二人も山で逝った。此等の憶ひは吾々に此の頂をひどく愛着させた。」山岳部創設前、この周辺がほぼ未踏だったころのスキー部時代の面々の名だ。
三国山山頂にて。「蒼茫とたそがれ行く薄闇の頂上に立ち、浮動する雲の下に灰白の窮みなき深みと、遙に蜒々と続いてゐる尾根の白い階調をひどく愉快な氣持で飽かずながめた。山岳家(アルピナー)は山と日没と日の出とにかなり大きな感動をうけるものであるが、此の時程、太陽と山岳が生む空幻な情緒にかくも朗らかに感動した事はなかつた。」
●山の擴りと人間化(特に北海道の山岳に就いて) 伊藤秀五郎
北海道の山の良さは裾のに広がる原野を含んでいることと、人との歴史の浅さにある、という小文。「いはば北海道の山は、平原までもその擴りをもつてゐるともみられる。即ちその山としての内容を、平原までも擴げてゐるといふ事ができよう。例へば日高の南方の山などでは、山裾の牧場地方や更に平坦な開墾地域を通って、茫漠とした砂丘の彼方の砂濱に、潮にのつた太平洋の浪が蕩々と打寄せてゐる海岸まで出て來るとそこではじめてその山旅の終わつたことを感じるのである。」現代の山登り、いくら時間がないとはいえ、行けるところまでマイカーで行く山登りは、別の山であると思う。
大島亮吉の遺書「山」に収められた「北海道の夏の山」という一文を、強く新入部員に勧めている。
●山岳部冬季スキー合宿おぼえ書き 江(巾者)三郎
創部(1926年、昭和元年)以来五年間の冬合宿のあらましをおもしろおかしくよくまとめてある。最初の二回は新見温泉(ニセコ)、以後は十勝岳の吹上温泉。最初のころは、あの十勝連峰が、まだ初登頂から年も浅く、未知の山域だったからニセコにしたとある。
第一回合宿(1926暮れ):最初の夜の大コンパで敬語や丁寧な言葉を使わぬよう決め、みんなにあだ名が付けられた。合宿の最中に大正が昭和になった。スキー術のうまい先輩がたくさんいて、ズダルスキー派だの、アールベルク派だのと研究熱心である。部創立当時の熱情と意気が漲っていた。48名参加!
第二回合宿(1927暮れ):80名参加!新兵器アザラシ皮(シール)を使い急な直登トレースで登って、他のスキーヤーのラッセル泥棒の鼻をあかした。部員章もこの合宿から配ることにした。
第三回合宿(1928暮れ):この昭和三年の暮れまでには、十勝連峰の各峰の冬季初登山も行われ、ここに本格的な冬合宿の場として吹上温泉を選ぶ。参加72名で9班組織。上富良野の駅前では青年団が焚き火をして熱い牛乳を飲ませて歓迎してくれたらしい。当時の吹上温泉は藁靴を履いてランタン下げて一町降りて風呂に行くという風情があった。ステムクリスチヤニヤを全員が練習しスキーの腕を磨いた。以降、吹上温泉に定着。
第四回合宿(1929暮れ):雪が少ない年で気を揉んだが、先発隊から「スベレル」と電報が来た。申し込み107人、選抜して80人。天気は悪かったがピークをいくつも踏んで成果を残した。
第五回合宿(1930暮れ):札幌→旭川の列車は鉄道に交渉して、たこストーブ付きの車両を借り切り、早朝の富良野線への接続時間まで旭川で停車してストーブを焚いてもらった。前年は寒い待合室で往生したので。話せばわかる昔の国鉄。上富良野駅から吹上温泉までは荷物は全部馬そりに載せたが、皆三々五々歩き。夕方到着というのもいいなあ。合宿初の富良野岳へのロングアタックを成功させている。
合宿の組織など:九〇人を十班に分け、平均八人。当時から一年班(新人含む)、二年班(冬経験二年目以上)があったが、多人数の故、三年班、四年班も一つずつあった。合宿の形式は八十年前と全然変わってないじゃないか。弁当は凍る握り飯よりパンに限る。紅茶をテルモスに入れる。テルモスを使うなんて、今より上等だ。費用は交通費コミで17圓。「アザラシ皮無しで登ることに依つてデリケートな登り方のコツが解る。」などという時代でもある。
装備:米山現役時代の八十年代とほとんど変わらないのがびっくりだ。違うのは衣類の質だけ。「外套(レインコート、薄手の外套、叉はオロチョン)」、オーバーシューズの代わりに「ゲートル」とあるくらい。オーバー手も皮製。やはり合成繊維は戦後ずいぶん重宝したことだろう。「スキー服は何でもよいが、(略)初年班では學生服でも間に合ふが、古い制服かお祖父さんの背廣を貰って一寸改造したら充分である。」!。スキー修理具の中身が金槌、錐、針金、ビンディング予備などすべて変わらず。さすがに現在は予備でカンダハーなんか持っていかないかもしれないが、80年代まではあった。
● 記念
・野中保次郎君 須藤宣之助
1929年冬の幌尻岳初登メンバーのひとり。病没
・中村邦之助君 井田清
慶応義塾大学法学部予科時代から山に親しみ、山岳部創立前後に活躍。病没。
・水本文太郎爺さんの追憶 高橋喜久司
神威岳山行を中心とする、アイヌ老人・文太郎氏との旅。具体的で情感あふれる追悼文。「爺さん達は遠慮してか天幕には入らず、ゆつくりして良いからとて何時も外で毛布にくるまつて焚火の側に寝てゐた。私達が天幕に入つてからも焚火を圍んでは此の人達の部落の言葉で・・・・然し若い人達は日本式の教育を受けた為に祖先の、あの澄んだ清い言葉はあまり知らない様であつたが・・・・語り合つてゐた。此の人達は何を語り合つてゐる事だろう。爺さんの獵の手柄話か叉昔栄へた部落の物語りか、闇は此の人達の静かな生活を脅かしたシャモの詐欺や欺瞞のいまわしい思出を塗りつぶしてしまふ。焚火は唯北海の地に自由に雄飛した山の獵人のみを照らしてゐるのみである。自然の姿、原始林の中に叉小熊の戯るる山頂に、之の人々のみ立つべく似つかはしい。何等の感傷も、自然への逃避もなく、唯立つべく運命づけられた自然の姿である。」「熊は一人ぽつちが好きだ。大抵一平一匹だ、突然現はれた人間を見て、身をひるがへして谷底に逃げていく。若い人達は興奮する。爺さんは微笑している。(略)土人達にとつて熊は主要な獲物だつた。熊をカムイ視するのは、日本の農家が稲を神聖視する心と同じである。」「今晩は此の造材小屋に宿めてもらはうかと爺さんに相談したが、天氣も良いし河原に天幕を張つた方が氣楽で良いと云ふ。そうだ俺はすつかり忘れてゐたんだ。何處に行っても内地人は、此んな良い人達を差別待遇をする。」「汽車の出る時に爺さんはわざわざ叉停車場に來て、お酒でもつれた舌で、息子さんの将来の事や、自分たちを差別なし付合つてくれるのは學生さん達だけだとか、また何處かの山に一緒に行かうと幾回も幾回もくりかへしてゐた。」
・水本文太郎爺さんの追憶 井田清
井田氏の文章は抜粋に困る。この追悼文は絶妙なバランスで構成されていて、一部のみではなかなか紹介しきれない事をまずお断りしておく。戸蔦別川の天場、焚き火の傍らでの話。「組み合わせた三本の小枝の上にフキの葉を甍の様に重さねて、私達には全く奇異なフキのおがみ小屋をつくってゐた。その小屋の前には燈明の様に小さな焚火がともつて居た。水本の爺さんは、その中で神様のやうにニコニコとしてゐた。その笑ひも赤子の様に明るかつた。」「帶廣の傍に芽室といふ小さな驛がある。若しもその驛を過ぎる事があつたら、私は汽車の窓からの一眄に哀惜の情と爺さんのあの老劍士のやうな瞳の光を想ひ浮べる事を忘れはしまい。そして尚何處かの山の上から日高の山脈を眺める事が出來たなら、私は胸に爺さんの墓標を想ひ出して、そつと頭をたれる事を忘れはしまい。」
年報 1929/10−1931/9
写真10点、スケッチ3点、地図1点
【部報紹介・3号(1931)上へもどる】
● 三月のカムイエクウチカウシ山とその附近 徳永正雄
いよいよ日高のK2、カムエクの積雪期初登頂計画が出た。比較的谷が広い札内川から近づき8の沢二股にBCを作り、カムエク、エサオマン、札内岳を初アタックする。過去数回、夏期などに登路をさぐり、考察して計画を立てる前文が、当時の未知ぶりを表していておもしろい。麓の農場で働く坂本君(直行)から、稜線の積雪量などスケッチ葉書でなんども送ってもらった。
BCで人夫二名は、テントは寒いので嫌がり縦穴の底の焚き火の傍らで寝たらしい。これまでも不思議に思っていたが、寝袋など持たない彼らの積雪期山行はこうしていたのだ。別の本でアイヌのマタギがこうしているのを読んだことがある。厚着をせず、火に背中を向けて寝るのがポイントで、火が消えかければ寒くて起き、また薪を足すらしい。このとき同行した人夫は水本文太郎氏の息子新吉氏で、文太郎はこのとき病床にいた。
8の沢(左岸尾根ではなく、沢の中!)をコンタ1200m二股でシーデポー(当時もこの造語あり)し、左の沢を詰め南のコルから山頂アタック。雪は締まって雪崩の恐れなく、日も穏やかな登頂日和だった。翌日エサオマン分岐の少し札内岳よりにある岩塊に突き上げる尾根を使って、エサオマンもアタック。翌々日の札内岳は南東面キネン沢から進んだが、上流部が悪く、1150mあたりから右岸の尾根に早くから取り付いて登頂。
沢から山頂をアタックするこのスタイル、現代では雪崩を恐れて行われていない。今回、一度もデブリを見なかった、日高のこの時期、沢からのアプローチは有効だとある。問題は札内川本流の積雪量(渡渉の都合)で、時期の選択が鍵になると考察されている。
●ニセイカウシュペ山(茅刈別川から)と屏風岳 江(巾者)三郎
1930年末、十勝の冬合宿後、そのまま旭川から入山。茅刈別川の最終人家からニセカウの北西尾根をアタック。その尾根は「そこのたんねは實に都合よく生えていた。降りのあのスウツとする様な感を思ひ浮かべて胸を躍らせながら登った。」というすてきな尾根。下りは期待通り「今これを書いて居ながらも胸がわくわくする様な、あの素晴しい滑降が始まつたのだ。登りの時眞直ぐに附けて來たラツセルに入っては、ホツケの姿勢では股が攣つてしまつて弱つた程長い直滑降を、殆ど矢の様に、そんな加速度で進んだらお終ひにはどんな事になることかと恐れて、二三遍はバージンの中に突つこんでスピードを落さねばならなかつた程の速さでスキーは飛んだ。叉ジツグザツグで登つた急斜面に、そこの大きなたんねんの枝の下を縫つて雪煙の尾を引いて下つて行けば、叉次の一人が、その未だ消え去らぬ雪煙の中に次々に消えていつた。」痛快、そこ滑りたい。
上川まで戻って、馬橇で層雲峡へ移動、屏風岳の南西の尾根にとりついた。時期が早いせいか雪少なく、小タンネが密生していて不快調で引き返した。
●屏風岳−武利岳―石狩岳 徳永正雄
1930年8月初旬。「この夏(昭和5年)林内歩道が石狩川本流をユーニ石狩川合流点まで出来上がつたといふ話を聞いて石狩川を道の出来ないうちに歩いておきたいといふ考へから」この三山を沢から繋いだ。
もちろん林道などまだ無いニセイチャロマップから屏風岳を南東面の沢をアタック。頂きには三角櫓があったとある。その後ニセイチャロマップ川から武利岳南西面の支流ムルイ沢から武利岳へ。石狩川本流は出来たばかりの林道をユニ石狩の支流まで行き、営林署の小屋で泊。ヤンペタップ二股までの記述、「これからはどこまでも續いて居るやうな廣い磧で、それが盡きたらそこで水流を徒渉してまた砂洲を歩み、浅瀬を渡るといつたやぅな、ほんたぅに浩やかな流れを遡つて行くのである。大雪山彙の山稜が雪をとどめて輝いて居るのがよく眺められる。以前から聞いてゐた通りまことに石狩川は美しい良い川である。私はこのときほど川歩きの愉しさ、北海道の夏のよさといつたやぅなものを深く感じたことはない。うねりながら緩やかに流れる石狩川はほんたぅにいい川である。」国道もダムも無い時代の広々した石狩川。今はもうこれを体感することは出来ない。書き留めておいてもらって本当に良かった。
大石狩沢から石狩岳をアタックしてヌタツプヤムペツを遡り、忠別岳へ。日数があるのでトムラウシもアタックして黒岳から層雲別温泉へ下山。12日間の長い旅。
●沼ノ原山・石狩岳・音更山・ユニ石狩岳・三國山 中野征紀
五月、忠別川の松山温泉(現・天人峡)から入山。化雲、忠別、沼ノ原経由で石狩、三国山まで1930年5月16日から10日間。後に第一次南極観測隊副隊長を務める中野征紀ら5人+人夫2人
石狩山頂では「音更川を遡行して此の登頂に成功した先輩田口、藤江、佐々木の三君がニペソツから尾根傅ひに來る筈の大島さん一行への置き手紙が八年を過ぎた今なほ岩の間にある。さびついた空鑵、雨にしみた文字、そして其中二人も山で逝った。此等の憶ひは吾々に此の頂をひどく愛着させた。」山岳部創設前、この周辺がほぼ未踏だったころのスキー部時代の面々の名だ。
三国山山頂にて。「蒼茫とたそがれ行く薄闇の頂上に立ち、浮動する雲の下に灰白の窮みなき深みと、遙に蜒々と続いてゐる尾根の白い階調をひどく愉快な氣持で飽かずながめた。山岳家(アルピナー)は山と日没と日の出とにかなり大きな感動をうけるものであるが、此の時程、太陽と山岳が生む空幻な情緒にかくも朗らかに感動した事はなかつた。」
●山の擴りと人間化(特に北海道の山岳に就いて) 伊藤秀五郎
北海道の山の良さは裾のに広がる原野を含んでいることと、人との歴史の浅さにある、という小文。「いはば北海道の山は、平原までもその擴りをもつてゐるともみられる。即ちその山としての内容を、平原までも擴げてゐるといふ事ができよう。例へば日高の南方の山などでは、山裾の牧場地方や更に平坦な開墾地域を通って、茫漠とした砂丘の彼方の砂濱に、潮にのつた太平洋の浪が蕩々と打寄せてゐる海岸まで出て來るとそこではじめてその山旅の終わつたことを感じるのである。」現代の山登り、いくら時間がないとはいえ、行けるところまでマイカーで行く山登りは、別の山であると思う。
大島亮吉の遺書「山」に収められた「北海道の夏の山」という一文を、強く新入部員に勧めている。
●山岳部冬季スキー合宿おぼえ書き 江(巾者)三郎
創部(1926年、昭和元年)以来五年間の冬合宿のあらましをおもしろおかしくよくまとめてある。最初の二回は新見温泉(ニセコ)、以後は十勝岳の吹上温泉。最初のころは、あの十勝連峰が、まだ初登頂から年も浅く、未知の山域だったからニセコにしたとある。
第一回合宿(1926暮れ):最初の夜の大コンパで敬語や丁寧な言葉を使わぬよう決め、みんなにあだ名が付けられた。合宿の最中に大正が昭和になった。スキー術のうまい先輩がたくさんいて、ズダルスキー派だの、アールベルク派だのと研究熱心である。部創立当時の熱情と意気が漲っていた。48名参加!
第二回合宿(1927暮れ):80名参加!新兵器アザラシ皮(シール)を使い急な直登トレースで登って、他のスキーヤーのラッセル泥棒の鼻をあかした。部員章もこの合宿から配ることにした。
第三回合宿(1928暮れ):この昭和三年の暮れまでには、十勝連峰の各峰の冬季初登山も行われ、ここに本格的な冬合宿の場として吹上温泉を選ぶ。参加72名で9班組織。上富良野の駅前では青年団が焚き火をして熱い牛乳を飲ませて歓迎してくれたらしい。当時の吹上温泉は藁靴を履いてランタン下げて一町降りて風呂に行くという風情があった。ステムクリスチヤニヤを全員が練習しスキーの腕を磨いた。以降、吹上温泉に定着。
第四回合宿(1929暮れ):雪が少ない年で気を揉んだが、先発隊から「スベレル」と電報が来た。申し込み107人、選抜して80人。天気は悪かったがピークをいくつも踏んで成果を残した。
第五回合宿(1930暮れ):札幌→旭川の列車は鉄道に交渉して、たこストーブ付きの車両を借り切り、早朝の富良野線への接続時間まで旭川で停車してストーブを焚いてもらった。前年は寒い待合室で往生したので。話せばわかる昔の国鉄。上富良野駅から吹上温泉までは荷物は全部馬そりに載せたが、皆三々五々歩き。夕方到着というのもいいなあ。合宿初の富良野岳へのロングアタックを成功させている。
合宿の組織など:九〇人を十班に分け、平均八人。当時から一年班(新人含む)、二年班(冬経験二年目以上)があったが、多人数の故、三年班、四年班も一つずつあった。合宿の形式は八十年前と全然変わってないじゃないか。弁当は凍る握り飯よりパンに限る。紅茶をテルモスに入れる。テルモスを使うなんて、今より上等だ。費用は交通費コミで17圓。「アザラシ皮無しで登ることに依つてデリケートな登り方のコツが解る。」などという時代でもある。
装備:米山現役時代の八十年代とほとんど変わらないのがびっくりだ。違うのは衣類の質だけ。「外套(レインコート、薄手の外套、叉はオロチョン)」、オーバーシューズの代わりに「ゲートル」とあるくらい。オーバー手も皮製。やはり合成繊維は戦後ずいぶん重宝したことだろう。「スキー服は何でもよいが、(略)初年班では學生服でも間に合ふが、古い制服かお祖父さんの背廣を貰って一寸改造したら充分である。」!。スキー修理具の中身が金槌、錐、針金、ビンディング予備などすべて変わらず。さすがに現在は予備でカンダハーなんか持っていかないかもしれないが、80年代まではあった。
● 記念
・野中保次郎君 須藤宣之助
1929年冬の幌尻岳初登メンバーのひとり。病没
・中村邦之助君 井田清
慶応義塾大学法学部予科時代から山に親しみ、山岳部創立前後に活躍。病没。
・水本文太郎爺さんの追憶 高橋喜久司
神威岳山行を中心とする、アイヌ老人・文太郎氏との旅。具体的で情感あふれる追悼文。「爺さん達は遠慮してか天幕には入らず、ゆつくりして良いからとて何時も外で毛布にくるまつて焚火の側に寝てゐた。私達が天幕に入つてからも焚火を圍んでは此の人達の部落の言葉で・・・・然し若い人達は日本式の教育を受けた為に祖先の、あの澄んだ清い言葉はあまり知らない様であつたが・・・・語り合つてゐた。此の人達は何を語り合つてゐる事だろう。爺さんの獵の手柄話か叉昔栄へた部落の物語りか、闇は此の人達の静かな生活を脅かしたシャモの詐欺や欺瞞のいまわしい思出を塗りつぶしてしまふ。焚火は唯北海の地に自由に雄飛した山の獵人のみを照らしてゐるのみである。自然の姿、原始林の中に叉小熊の戯るる山頂に、之の人々のみ立つべく似つかはしい。何等の感傷も、自然への逃避もなく、唯立つべく運命づけられた自然の姿である。」「熊は一人ぽつちが好きだ。大抵一平一匹だ、突然現はれた人間を見て、身をひるがへして谷底に逃げていく。若い人達は興奮する。爺さんは微笑している。(略)土人達にとつて熊は主要な獲物だつた。熊をカムイ視するのは、日本の農家が稲を神聖視する心と同じである。」「今晩は此の造材小屋に宿めてもらはうかと爺さんに相談したが、天氣も良いし河原に天幕を張つた方が氣楽で良いと云ふ。そうだ俺はすつかり忘れてゐたんだ。何處に行っても内地人は、此んな良い人達を差別待遇をする。」「汽車の出る時に爺さんはわざわざ叉停車場に來て、お酒でもつれた舌で、息子さんの将来の事や、自分たちを差別なし付合つてくれるのは學生さん達だけだとか、また何處かの山に一緒に行かうと幾回も幾回もくりかへしてゐた。」
・水本文太郎爺さんの追憶 井田清
井田氏の文章は抜粋に困る。この追悼文は絶妙なバランスで構成されていて、一部のみではなかなか紹介しきれない事をまずお断りしておく。戸蔦別川の天場、焚き火の傍らでの話。「組み合わせた三本の小枝の上にフキの葉を甍の様に重さねて、私達には全く奇異なフキのおがみ小屋をつくってゐた。その小屋の前には燈明の様に小さな焚火がともつて居た。水本の爺さんは、その中で神様のやうにニコニコとしてゐた。その笑ひも赤子の様に明るかつた。」「帶廣の傍に芽室といふ小さな驛がある。若しもその驛を過ぎる事があつたら、私は汽車の窓からの一眄に哀惜の情と爺さんのあの老劍士のやうな瞳の光を想ひ浮べる事を忘れはしまい。そして尚何處かの山の上から日高の山脈を眺める事が出來たなら、私は胸に爺さんの墓標を想ひ出して、そつと頭をたれる事を忘れはしまい。」
年報 1929/10−1931/9
写真10点、スケッチ3点、地図1点
【部報紹介・3号(1931)上へもどる】
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現役の報告・ 2006年11月24日 (金)
【ルート】
エサオマントッタベツ川→エサオマントッタベツ岳→エサオマン入の沢→新冠川→幌尻岳→戸蔦別岳→戸蔦別川
【月日】
9/8〜13(6ー0)
【メンバ】
L:中島(4) AL:勝亦(4) M:竹内(2) M:吉本(1)
遅くなりました!夏めいん一年班の記録です。
エサオマントッタベツ川→エサオマントッタベツ岳→エサオマン入の沢→新冠川→幌尻岳→戸蔦別岳→戸蔦別川
【月日】
9/8〜13(6ー0)
【メンバ】
L:中島(4) AL:勝亦(4) M:竹内(2) M:吉本(1)
遅くなりました!夏めいん一年班の記録です。
9/8:曇り時々霧雨 本流出合(6:30)北東カール(13:30)
小屋でC0し、本流出合手前まで車。ガケの沢出合手前から入渓、踏み跡自体は結構先まで続いている。ずっと河原を行く。Co1250滑滝開始に15mの滝、左岸をまく。そこから先の急な傾斜は全部滑状、すべると確かにやばそう。カールの直前まで続いている。北東カールにてC1。小川で水は汲めるが薪は少なめ、でも快適。
9/9:晴れ C1(7:30)→エサオマン山頂(11:30〜12:00)→北カール=C2(12:30)
踏み跡が見つからないのでルンゼ状のガレを詰める。いよいよ急になったところでザイル1P出してブッシュ尾根に逃げ込む。少しヤブ漕いだら左手に踏み跡があったのでそれを使って稜線へ。稜線でも踏み跡使ってピークまで。予想以上に苦労したので北カールに泊まる事にする。エサオマン北西ポコから西へ伸びる踏み跡を辿って草つきの中を北カールへ下る。熊の踏み跡も横切りまくり。北カールは薪のデポはあるわ水場もあるわで素晴しい天場。
9/10:曇りのち雨 C2(6:20)→上二股(9:00〜20)→C3新冠川二股(10:30)
カールのすぐ下から伏流してガレ状がCo1400あたりまで続く。Co1080の7mの滝は木で懸垂、滝つぼで泳ぐ。至る所にある函を滑って泳いで飛び込んで突破し、新冠川二股でC3。低気圧の通過で夕方から雨降るが増水は大したことなく無問題。
9/11:晴れ C3(6:20)→七ツ沼カール=C4(13:10)
巨岩帯や函が続く、ほとんど捲いたりへつったり登ったりでOK。核心の函のみ高捲く。気合入れれば中も可。上部はガレガレ。七ッ沼にたどり着くも沼が干上がっておりテンパる。協議の結果、Mもやられ気味ということで水は下まで汲みに行くことにし幌尻は明日ということに。
9/12:晴れ C4(9:10)→稜上(9:35)→幌尻岳(10:45〜11:00)→再び稜上(12:00)→戸蔦別岳(12:40)→Bカール(14:00)
踏み跡を辿りトッタ寄りの稜上へ出る。そこから空身で幌尻アタック。戻ってきてトッタベツへ。トッタベツから北へ伸びる踏み跡の途中からガレを下ってBカールでC5。水も薪もある素敵天場。
9/13:快晴 C5(6:00)→車(12:00)
沢型を行き本流へ下る。上部はガレ。Co1150に滝、左岸の木で懸垂。Co1020に函滝、無茶苦茶がんばれば中も突っ込めそうだが、左岸を少し捲いた後の木にあった残置で懸垂15m。他にも滝はあったが捲き道やクライムダウンで対処。だらだらとMを先頭に行かせたりして河原を進んで、八の沢から踏み跡を使って車まで。踏み跡は途中からしっかりした林道に変わるが、所々崩壊していて危険。最後ははげ天行って気合の竹内運転で
札幌まで。
P)沢メイン一年班
Ls:のっこし・天気判断できた、踏み跡見つけられなかった。
M2:口出し足りない、突っ込みすぎた、Mをよく見ていた、はげ天1杯。
M1:パー食がんばった、動きがマイペースで鈍い、はげ天2杯。
感想)
吉本・・・カールの登りが怖かったが稜線は思ったより快適だった。
竹内・・・生きてて良かった。
勝亦・・・夏は沢だなぁ。
中島・・・最後の沢メインにふさわしいスリルに満ちた良山行だった。
小屋でC0し、本流出合手前まで車。ガケの沢出合手前から入渓、踏み跡自体は結構先まで続いている。ずっと河原を行く。Co1250滑滝開始に15mの滝、左岸をまく。そこから先の急な傾斜は全部滑状、すべると確かにやばそう。カールの直前まで続いている。北東カールにてC1。小川で水は汲めるが薪は少なめ、でも快適。
9/9:晴れ C1(7:30)→エサオマン山頂(11:30〜12:00)→北カール=C2(12:30)
踏み跡が見つからないのでルンゼ状のガレを詰める。いよいよ急になったところでザイル1P出してブッシュ尾根に逃げ込む。少しヤブ漕いだら左手に踏み跡があったのでそれを使って稜線へ。稜線でも踏み跡使ってピークまで。予想以上に苦労したので北カールに泊まる事にする。エサオマン北西ポコから西へ伸びる踏み跡を辿って草つきの中を北カールへ下る。熊の踏み跡も横切りまくり。北カールは薪のデポはあるわ水場もあるわで素晴しい天場。
9/10:曇りのち雨 C2(6:20)→上二股(9:00〜20)→C3新冠川二股(10:30)
カールのすぐ下から伏流してガレ状がCo1400あたりまで続く。Co1080の7mの滝は木で懸垂、滝つぼで泳ぐ。至る所にある函を滑って泳いで飛び込んで突破し、新冠川二股でC3。低気圧の通過で夕方から雨降るが増水は大したことなく無問題。
9/11:晴れ C3(6:20)→七ツ沼カール=C4(13:10)
巨岩帯や函が続く、ほとんど捲いたりへつったり登ったりでOK。核心の函のみ高捲く。気合入れれば中も可。上部はガレガレ。七ッ沼にたどり着くも沼が干上がっておりテンパる。協議の結果、Mもやられ気味ということで水は下まで汲みに行くことにし幌尻は明日ということに。
9/12:晴れ C4(9:10)→稜上(9:35)→幌尻岳(10:45〜11:00)→再び稜上(12:00)→戸蔦別岳(12:40)→Bカール(14:00)
踏み跡を辿りトッタ寄りの稜上へ出る。そこから空身で幌尻アタック。戻ってきてトッタベツへ。トッタベツから北へ伸びる踏み跡の途中からガレを下ってBカールでC5。水も薪もある素敵天場。
9/13:快晴 C5(6:00)→車(12:00)
沢型を行き本流へ下る。上部はガレ。Co1150に滝、左岸の木で懸垂。Co1020に函滝、無茶苦茶がんばれば中も突っ込めそうだが、左岸を少し捲いた後の木にあった残置で懸垂15m。他にも滝はあったが捲き道やクライムダウンで対処。だらだらとMを先頭に行かせたりして河原を進んで、八の沢から踏み跡を使って車まで。踏み跡は途中からしっかりした林道に変わるが、所々崩壊していて危険。最後ははげ天行って気合の竹内運転で
札幌まで。
P)沢メイン一年班
Ls:のっこし・天気判断できた、踏み跡見つけられなかった。
M2:口出し足りない、突っ込みすぎた、Mをよく見ていた、はげ天1杯。
M1:パー食がんばった、動きがマイペースで鈍い、はげ天2杯。
感想)
吉本・・・カールの登りが怖かったが稜線は思ったより快適だった。
竹内・・・生きてて良かった。
勝亦・・・夏は沢だなぁ。
中島・・・最後の沢メインにふさわしいスリルに満ちた良山行だった。
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部報解説・ 2006年11月20日 (月)
部報3号も二部構成とします。時代らしい文章を引用していたら、長くなってしまった。でも大部分の人は読めないので、エッセンスを載せていきます。
部報前半の目玉企画は夏の神威岳登頂記。険悪な中ノ川からの登路をあきらめ、ヌピナイからのアタック。カッコいい神威は南日高の憧れの目標だったようです。山案内人のアイヌ老人、水本文太郎氏との最後の山行でもあります。
次回後半はいよいよ積雪期カムエクの初登頂記からです。
●第零義的登山 部長 栃内吉彦
●神威嶽 相川修
●五月の武華・武利・支湧別岳 大和正次
●ニペソツ山よりウペペサンケ山 福島健夫
●ニペソツ山―トムラウシ川―トムラウシ山 徳永正雄
●五月のニペソツ山から松山温泉まで 佐藤友吉
【部報3号(1931年)前遍】
【総評】
1929/10−1931/9の2年分の山行記録と12の紀行など。「記念」として追悼4文。編集長は江(巾者)三郎。価格は1円50銭、300ページ。
ニペソツ周辺や武利岳周辺の記録が多い。ニペソツの幌加音更川と武利のイトンムカ鉱山の森林開発が進み、比較的奥まで入りやすかったようだ。その周辺の原始林との対比が顕著なのがこの時代である。日高では、名峰神威岳の無雪季登頂とカムエクの積雪期初登が看板記録である。ほか、追悼が数件。部員の遭難はまだ先の時代。2号以来たびたび登場するアイヌの水本文太郎老人の追悼もある。明治期の測量山行時代以来の案内人で、おそらく日高のいくつかの山頂の初登頂者だろう。
【時代】
1930~31にかけRCCの加藤文太郎が北アルプスのあちこちで冬期単独初縦走記録を立てている。
1931年、P.バウアー(独)第二次カンチェンジュンガ遠征
アジアでは前年の1928年、満州の軍閥張作霖が関東軍に暗殺され、1931年9月には満州事変が始まるという時代。西洋では1929年10月24日、NYで株価暴落、世界恐慌が始まった。
●第零義的登山 部長 栃内吉彦
一号、二号には無かった部長挨拶。アルピニズムとアカデミズムを山登りの第一義的、第二義的、どちらで登るか?「學が既に其の人の人生の基調となるの域にまで達した學究者にあっては、其の山登りは第一義も第二義をも超越した第零義的にものでなければならぬ」。多少理屈っぽいが学生よ山へ行け、と述べている。
●神威嶽 相川修
1930年7月、二名+案内人で9日間の記録。この数年来、北大や慶応大の山岳部が中ノ川やヌピナイ川などから山頂を目指していたが登れなかった神威岳。1920年陸地測量部が登った可能性はあったが、それがこの山かどうかは不明だったとある。
たびたび登場している芽室のアイヌ、水本文太郎老人との最後の山行。水本氏自身これまで何度も威を引き返していて、この登頂を後にとてもうれしそうにしていたとある。
ヌピナイ右股からソエマツに上がり、神威ソエマツ間の馬の背藪こぎの途中、中ノ川側に下りたところで前進キャンプ。ここから再び国境尾根の藪をこいで神威をアタックした。このキャンプは30mの崖の上の緩傾斜を無理矢理開いたところ。アタック後、中ノ川を下れればと偵察したが、滝や函で断念し、戻った。当時の技術と常識では中ノ川はまだきつかったのだ。
「一六四六米、之をソエマツ岳と名付けようと思ふ、元浦河のソエマツ澤の名を取って。之をヌピナイ岳とするよりは妥当であらう。」まだソエマツ岳に名が無かった。神威は格好がよい山だから、やはり別格の名があったのだろう。神威山頂には朽ち壊れた三角点があった。
●五月の武華・武利・支湧別岳 大和正次
五月下旬、残雪の大雪山。留辺蘂から森林鉄道に便乗して無加川を行き、イトンムカ川から武華山に登り、スキーをしながら武利に乗越し、その北、1758m峰(ニセイチャロマップ岳)から支湧別岳をアタックし、沢を北へおり、上支湧別、白滝へ下山した5日間。1758mの無名峰や、支湧別岳というマイナーピークを踏んだことを喜んでいる。当時からすでにマイナーピーク愛好派がいたのだ。「此の支脈の端に一人の登山者の訪れる者もなく、ポツツリ取残されて居た此の山は小さいながらも頂上近くにお花畑と岩を持った美しい山である。その暖かい乾いた岩に腰を下ろして、今まで寂しかったであらう山を初めて訪れた喜びに静かにひたりながら、しばしの名残を惜しんだ。」
●ニペソツ山よりウペペサンケ山 福島健夫
1930年八月初旬に一週間。幌加音更(ホロカオトプケ)川の六の沢の左岸にあたるニペソツ南東尾根からニペソツアタック。その後情報の無い五の沢を遡り、ウペペサンケをアタックする(おそらく初登頂)。六の沢から南東尾根は、前年営林署が頂上まで苅分をつけたとあるので意外や人臭いのかとも感じたが、糠平の手前でバスを降りてそこまでは、すべて徒歩でのアプローチだ。
五の沢は未知の沢だ。何が出るか、期待しながら進んでいる。「上の二股に辿りついた時,此は又意外にも沼の様に不気味に蒼く澄んだ水を湛えた処に遭遇した。周囲の鬱蒼と繁った樹々の影をその水面にうつして怪異な印象を与へる。その中にあって呑気そうに魚が群れをなして走り廻っている。此二股を左へ遡ると水は尽き、厚い濃緑色の苔に包まれた岩塊が続く。足をかけるとジュッとそれが浸み出て心地よい。」こんな天然林と、人夫三〇人が泊まる飯場があって山頂まで刈分道のある山が隣り合わせの時代だ。下降は南西面のシーシカリベツ川。伐採林道が奥まで来ていて驚いている。「此の分ではウペペサンケも遠からず楽に登れる様になるだろう」と。
●ニペソツ山―トムラウシ川―トムラウシ山 徳永正雄
1931年8月16日から10日間二人+人夫一名。幌加音更川の六の沢左岸尾根からニペソツへ。その後ヌプントムラウシ川に降りてトムラウシ川を登り再び十勝川水系に降りてシートカチ川から十勝岳を乗っ越す計画だったが、不良品わらじの減りが早かったのであきらめトムラ〜十勝間は山稜を繋いだ。この辺り一帯の原始の香る山谷を巡る紀行。
ヌプントムラウシ川の標高700附近、現在は林道が通っている沼ノ原温泉のあたりにさしかかってのくだり「その『花咲く原を流れる川』といふヌプントムラウシの名は、きつと此処から名付けられたのではなからうか。それにしても何んと適切な、うるわしい名ではあるまいか。いまはただ衰滅の悲運におかれつつある先住原始民族のもつ、甚だ素朴で而かも詩的なトポノミイが、北海道の山々を彷徨ふ登山者のみならず、平地旅行者にまでいかにしばしば深き興趣を感ぜしめたことであらうか。北海道の山の良さ、山登りの良さはまたここにも在るのだ。『アイヌほど美しい地名をつける種族はないやうだ』とは私達も全く同意するところなのだ。」
トムラウシ南面の本流沿いで垣間見た記述「一帯は美しい針葉樹の純林で、ここから眺めたトムラウシ山の、大きな堡壘の如く悠然と倨座する山姿の立派なのには尠からず驚いた。さうして同時に又「トムラウシってこんなにも高い山なのか」とまったく感心して了つた。化雲岳や奥硫黄山の方向から眺めても勿論その特異な山容は立派には違ひない。石狩岳あたりからも実際仲々立派に見える。けれどもそのやうな場所からは到底みられないところの、その山の高さ、奥深さ、端麗さはやく言えばトムラウシといふ山のほんたうの良さは『これだ。』とはつきりいま教へられた。」
トムラウシの美に惚れ込むこの山行、今では林道だらけだが追体験してみたい。ツリガネ山はスマヌプリで、コスマヌプリは小スマヌプリだったのを、この記録で知った。「コ」だけ日本語だ。
●五月のニペソツ山から松山温泉まで 佐藤友吉
5月下旬、5人+人夫1名。ニペソツと石狩の間の未踏の稜線を、残雪期を利用して繋ごうという計画。
ニペソツ北のコルから振り返っての下り、「ニペソツはこの尾根から実に立派に見えた。時々晴れる雲間から射す、幅の広い光の帯があの見事なホルンを照らし出すのである。その左に天狗岳〜略〜私達はストツクを押す腕を休めては、しばしば振り返つて見てその壮大な姿を仰いだ。その姿を見てもマツターホルンは思ひ出せなかつた。見事だなあとも感じなかつた。恐らくは私達の誰もがそんな気持におそわれた事だつたと思ふ。私達は此の時見たニペソツの姿ほどに山の威圧を感じたことはなかつた。長く目を向けて居る事が出来ない程、私達はニペソツに押しつけられて、小さくなつて居た。山はどこが大きいのであろうか、何処に偉大さを有つて居るのであらうか。」
天気に恵まれず、石狩岳には向かわず沼の原、五色が原の大平原へと濃霧の中磁石を頼りにかろうじて抜ける。「丁度その尾根の中の瘤を通過したと思ふ所で岩でもない怪しげな物に出曾つて仕舞つた。濃霧をすかして見てると動く様でもあり、動かぬ様でもある。熊にしてはあまり動かぬ。而し距離が非常に近いので、ありと凡ゆる音のする物を取り出してオーケストラを始めた。果たして反応があり、こつちに移動する気配がある。矢張り熊だつた。」クマに道を譲ったおかげで、せっかく濃霧の中正確に切ってきた方角を見失ってしまった、とあっておもしろい。
忠別川の渡渉点では橋が流されていて、2時間もかけて木を切り倒し丸木橋をかけた。松山温泉とは現在天人峡温泉と言われている所。改名は1937年。
以下、次回
● 三月のカムイエクウチカウシ山とその附近 徳永正雄
●ニセイカウシュペ山(茅刈別川から)と屏風岳 江(巾者)三郎
●屏風岳−武利岳―石狩岳 徳永正雄
●沼ノ原山・石狩岳・音更山・ユニ石狩岳・三國山 中野征紀
●山の拡りと人間化(特に北海道の山岳に就いて) 伊藤秀五郎
●山岳部冬季スキー合宿おぼえ書き 江(巾者)三郎
● 記念
・野中保次郎君 須藤宣之助
・中村邦之助君 井田清
・水本文太郎爺さんの追憶 高橋喜久司
・同 井田清
年報 1929/10−1931/9
写真10点、スケッチ3点、地図1点
【部報3号(1931)後編に続く】
【総評】
1929/10−1931/9の2年分の山行記録と12の紀行など。「記念」として追悼4文。編集長は江(巾者)三郎。価格は1円50銭、300ページ。
ニペソツ周辺や武利岳周辺の記録が多い。ニペソツの幌加音更川と武利のイトンムカ鉱山の森林開発が進み、比較的奥まで入りやすかったようだ。その周辺の原始林との対比が顕著なのがこの時代である。日高では、名峰神威岳の無雪季登頂とカムエクの積雪期初登が看板記録である。ほか、追悼が数件。部員の遭難はまだ先の時代。2号以来たびたび登場するアイヌの水本文太郎老人の追悼もある。明治期の測量山行時代以来の案内人で、おそらく日高のいくつかの山頂の初登頂者だろう。
【時代】
1930~31にかけRCCの加藤文太郎が北アルプスのあちこちで冬期単独初縦走記録を立てている。
1931年、P.バウアー(独)第二次カンチェンジュンガ遠征
アジアでは前年の1928年、満州の軍閥張作霖が関東軍に暗殺され、1931年9月には満州事変が始まるという時代。西洋では1929年10月24日、NYで株価暴落、世界恐慌が始まった。
●第零義的登山 部長 栃内吉彦
一号、二号には無かった部長挨拶。アルピニズムとアカデミズムを山登りの第一義的、第二義的、どちらで登るか?「學が既に其の人の人生の基調となるの域にまで達した學究者にあっては、其の山登りは第一義も第二義をも超越した第零義的にものでなければならぬ」。多少理屈っぽいが学生よ山へ行け、と述べている。
●神威嶽 相川修
1930年7月、二名+案内人で9日間の記録。この数年来、北大や慶応大の山岳部が中ノ川やヌピナイ川などから山頂を目指していたが登れなかった神威岳。1920年陸地測量部が登った可能性はあったが、それがこの山かどうかは不明だったとある。
たびたび登場している芽室のアイヌ、水本文太郎老人との最後の山行。水本氏自身これまで何度も威を引き返していて、この登頂を後にとてもうれしそうにしていたとある。
ヌピナイ右股からソエマツに上がり、神威ソエマツ間の馬の背藪こぎの途中、中ノ川側に下りたところで前進キャンプ。ここから再び国境尾根の藪をこいで神威をアタックした。このキャンプは30mの崖の上の緩傾斜を無理矢理開いたところ。アタック後、中ノ川を下れればと偵察したが、滝や函で断念し、戻った。当時の技術と常識では中ノ川はまだきつかったのだ。
「一六四六米、之をソエマツ岳と名付けようと思ふ、元浦河のソエマツ澤の名を取って。之をヌピナイ岳とするよりは妥当であらう。」まだソエマツ岳に名が無かった。神威は格好がよい山だから、やはり別格の名があったのだろう。神威山頂には朽ち壊れた三角点があった。
●五月の武華・武利・支湧別岳 大和正次
五月下旬、残雪の大雪山。留辺蘂から森林鉄道に便乗して無加川を行き、イトンムカ川から武華山に登り、スキーをしながら武利に乗越し、その北、1758m峰(ニセイチャロマップ岳)から支湧別岳をアタックし、沢を北へおり、上支湧別、白滝へ下山した5日間。1758mの無名峰や、支湧別岳というマイナーピークを踏んだことを喜んでいる。当時からすでにマイナーピーク愛好派がいたのだ。「此の支脈の端に一人の登山者の訪れる者もなく、ポツツリ取残されて居た此の山は小さいながらも頂上近くにお花畑と岩を持った美しい山である。その暖かい乾いた岩に腰を下ろして、今まで寂しかったであらう山を初めて訪れた喜びに静かにひたりながら、しばしの名残を惜しんだ。」
●ニペソツ山よりウペペサンケ山 福島健夫
1930年八月初旬に一週間。幌加音更(ホロカオトプケ)川の六の沢の左岸にあたるニペソツ南東尾根からニペソツアタック。その後情報の無い五の沢を遡り、ウペペサンケをアタックする(おそらく初登頂)。六の沢から南東尾根は、前年営林署が頂上まで苅分をつけたとあるので意外や人臭いのかとも感じたが、糠平の手前でバスを降りてそこまでは、すべて徒歩でのアプローチだ。
五の沢は未知の沢だ。何が出るか、期待しながら進んでいる。「上の二股に辿りついた時,此は又意外にも沼の様に不気味に蒼く澄んだ水を湛えた処に遭遇した。周囲の鬱蒼と繁った樹々の影をその水面にうつして怪異な印象を与へる。その中にあって呑気そうに魚が群れをなして走り廻っている。此二股を左へ遡ると水は尽き、厚い濃緑色の苔に包まれた岩塊が続く。足をかけるとジュッとそれが浸み出て心地よい。」こんな天然林と、人夫三〇人が泊まる飯場があって山頂まで刈分道のある山が隣り合わせの時代だ。下降は南西面のシーシカリベツ川。伐採林道が奥まで来ていて驚いている。「此の分ではウペペサンケも遠からず楽に登れる様になるだろう」と。
●ニペソツ山―トムラウシ川―トムラウシ山 徳永正雄
1931年8月16日から10日間二人+人夫一名。幌加音更川の六の沢左岸尾根からニペソツへ。その後ヌプントムラウシ川に降りてトムラウシ川を登り再び十勝川水系に降りてシートカチ川から十勝岳を乗っ越す計画だったが、不良品わらじの減りが早かったのであきらめトムラ〜十勝間は山稜を繋いだ。この辺り一帯の原始の香る山谷を巡る紀行。
ヌプントムラウシ川の標高700附近、現在は林道が通っている沼ノ原温泉のあたりにさしかかってのくだり「その『花咲く原を流れる川』といふヌプントムラウシの名は、きつと此処から名付けられたのではなからうか。それにしても何んと適切な、うるわしい名ではあるまいか。いまはただ衰滅の悲運におかれつつある先住原始民族のもつ、甚だ素朴で而かも詩的なトポノミイが、北海道の山々を彷徨ふ登山者のみならず、平地旅行者にまでいかにしばしば深き興趣を感ぜしめたことであらうか。北海道の山の良さ、山登りの良さはまたここにも在るのだ。『アイヌほど美しい地名をつける種族はないやうだ』とは私達も全く同意するところなのだ。」
トムラウシ南面の本流沿いで垣間見た記述「一帯は美しい針葉樹の純林で、ここから眺めたトムラウシ山の、大きな堡壘の如く悠然と倨座する山姿の立派なのには尠からず驚いた。さうして同時に又「トムラウシってこんなにも高い山なのか」とまったく感心して了つた。化雲岳や奥硫黄山の方向から眺めても勿論その特異な山容は立派には違ひない。石狩岳あたりからも実際仲々立派に見える。けれどもそのやうな場所からは到底みられないところの、その山の高さ、奥深さ、端麗さはやく言えばトムラウシといふ山のほんたうの良さは『これだ。』とはつきりいま教へられた。」
トムラウシの美に惚れ込むこの山行、今では林道だらけだが追体験してみたい。ツリガネ山はスマヌプリで、コスマヌプリは小スマヌプリだったのを、この記録で知った。「コ」だけ日本語だ。
●五月のニペソツ山から松山温泉まで 佐藤友吉
5月下旬、5人+人夫1名。ニペソツと石狩の間の未踏の稜線を、残雪期を利用して繋ごうという計画。
ニペソツ北のコルから振り返っての下り、「ニペソツはこの尾根から実に立派に見えた。時々晴れる雲間から射す、幅の広い光の帯があの見事なホルンを照らし出すのである。その左に天狗岳〜略〜私達はストツクを押す腕を休めては、しばしば振り返つて見てその壮大な姿を仰いだ。その姿を見てもマツターホルンは思ひ出せなかつた。見事だなあとも感じなかつた。恐らくは私達の誰もがそんな気持におそわれた事だつたと思ふ。私達は此の時見たニペソツの姿ほどに山の威圧を感じたことはなかつた。長く目を向けて居る事が出来ない程、私達はニペソツに押しつけられて、小さくなつて居た。山はどこが大きいのであろうか、何処に偉大さを有つて居るのであらうか。」
天気に恵まれず、石狩岳には向かわず沼の原、五色が原の大平原へと濃霧の中磁石を頼りにかろうじて抜ける。「丁度その尾根の中の瘤を通過したと思ふ所で岩でもない怪しげな物に出曾つて仕舞つた。濃霧をすかして見てると動く様でもあり、動かぬ様でもある。熊にしてはあまり動かぬ。而し距離が非常に近いので、ありと凡ゆる音のする物を取り出してオーケストラを始めた。果たして反応があり、こつちに移動する気配がある。矢張り熊だつた。」クマに道を譲ったおかげで、せっかく濃霧の中正確に切ってきた方角を見失ってしまった、とあっておもしろい。
忠別川の渡渉点では橋が流されていて、2時間もかけて木を切り倒し丸木橋をかけた。松山温泉とは現在天人峡温泉と言われている所。改名は1937年。
以下、次回
● 三月のカムイエクウチカウシ山とその附近 徳永正雄
●ニセイカウシュペ山(茅刈別川から)と屏風岳 江(巾者)三郎
●屏風岳−武利岳―石狩岳 徳永正雄
●沼ノ原山・石狩岳・音更山・ユニ石狩岳・三國山 中野征紀
●山の拡りと人間化(特に北海道の山岳に就いて) 伊藤秀五郎
●山岳部冬季スキー合宿おぼえ書き 江(巾者)三郎
● 記念
・野中保次郎君 須藤宣之助
・中村邦之助君 井田清
・水本文太郎爺さんの追憶 高橋喜久司
・同 井田清
年報 1929/10−1931/9
写真10点、スケッチ3点、地図1点
【部報3号(1931)後編に続く】
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記事・消息・ 2006年11月18日 (土)
2006年11月3日(金:祝)に、大田区産業プラザ(東京都)にて、第5回北海道大学寮歌祭が盛大に開催されました。
今回は、初めてAACH有志で参加し、部歌「山の四季」を披露しました。
※写真左から、清原実(1986入部)、山森聡(1986入部)、矢作栄一(1952入部)、石村実(1953入部)、石村夫人、清野啓介(1976入部)。
本件については、既に石村さんからAACH-MLに報告がありましたが、私(山森)なりの感想を記します。
今回、AACH有志は初めての参加でしたが、世代を越えて同じ歌で盛り上がれるということは、想像以上に、本当にすばらしいことでした。
「山の四季」を歌うと、北海道の大自然を謳歌していた現役時代の想い出が、リアルに目に浮かんできます。本当にすばらしい歌です。
私の現役当時の十勝春合宿では大きな焚火を囲み、全員で、「山の四季」はもちろんのこと、ドイチェンリードをはじめ、様々な山の歌を歌っていました。「スキーの寵児」や「5月の山に」などは、楽しかった十勝春合宿の情景が目に浮かび、私は、特に気に入っています。現在でも「恒例の春山スキー」にでかけると、シール登高中は「5月の山に」を、スキー滑降中は「スキーの寵児」を、無意識に口づさんでしまいます。また、長かった合宿の最終日には、「別れの日はつらい」が妙にしっくりと心に響いた記憶があります。
最近は、現役部員の人数も減り、山の歌を歌う機会も減ってきていると伝え聞いていますが、「山の四季」をはじめ、すばらしい山の歌の数々を、ずっとずっと歌い継いでいってもらえることを願っています。
※北大寮歌祭の写真は、下記に掲載されています。
http://www.ryoukasai.org/
※山の愛唱歌集のWebサイトの紹介(MIDI演奏あり)
http://www.hi-ho.ne.jp/momose/mount_midi.htm
※北大恵迪寮歌のWebサイトの紹介(MIDI演奏あり)
http://www.asahi-net.or.jp/~JH8K-KTM/
(文責:山森 聡)
本件については、既に石村さんからAACH-MLに報告がありましたが、私(山森)なりの感想を記します。
今回、AACH有志は初めての参加でしたが、世代を越えて同じ歌で盛り上がれるということは、想像以上に、本当にすばらしいことでした。
「山の四季」を歌うと、北海道の大自然を謳歌していた現役時代の想い出が、リアルに目に浮かんできます。本当にすばらしい歌です。
私の現役当時の十勝春合宿では大きな焚火を囲み、全員で、「山の四季」はもちろんのこと、ドイチェンリードをはじめ、様々な山の歌を歌っていました。「スキーの寵児」や「5月の山に」などは、楽しかった十勝春合宿の情景が目に浮かび、私は、特に気に入っています。現在でも「恒例の春山スキー」にでかけると、シール登高中は「5月の山に」を、スキー滑降中は「スキーの寵児」を、無意識に口づさんでしまいます。また、長かった合宿の最終日には、「別れの日はつらい」が妙にしっくりと心に響いた記憶があります。
最近は、現役部員の人数も減り、山の歌を歌う機会も減ってきていると伝え聞いていますが、「山の四季」をはじめ、すばらしい山の歌の数々を、ずっとずっと歌い継いでいってもらえることを願っています。
※北大寮歌祭の写真は、下記に掲載されています。
http://www.ryoukasai.org/
※山の愛唱歌集のWebサイトの紹介(MIDI演奏あり)
http://www.hi-ho.ne.jp/momose/mount_midi.htm
※北大恵迪寮歌のWebサイトの紹介(MIDI演奏あり)
http://www.asahi-net.or.jp/~JH8K-KTM/
(文責:山森 聡)
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現役の報告・ 2006年11月15日 (水)
【月 日】11月12日(1-0)
【メンバ】澤田拓郎(3)、寺尾祐信(3)、平塚雄太(3)
【ルート】十勝岳温泉→旧Z→旧D→H→三峰山往復
冬の十勝、準山が始まりました。今年は二年目がいなくなってしまったので、三年班です。
【メンバ】澤田拓郎(3)、寺尾祐信(3)、平塚雄太(3)
【ルート】十勝岳温泉→旧Z→旧D→H→三峰山往復
冬の十勝、準山が始まりました。今年は二年目がいなくなってしまったので、三年班です。
11/12悪天・旧DZ〜上ホロカメットク、三峰山往復(1ー0)
<時間とルート>
十勝岳温泉(7:25)〜旧Z(8:00)〜H(9:20)〜上ホロ(9:40)〜三峰(11:00)〜H(11:45)〜旧Z(12:40)〜十勝岳温泉(13:10)
旧DZ経由でHまで。雪少なくスノーシュー置いていく。Hから上ホロアタック。視界2〜300、風はふられない程度。Hに戻り、三峰アタック。視界2〜300、ふられる風。Hからは旧DZ経由で温泉まで。
デポ旗はHの降り口と、上ホロアタック途中の白くてガケから落ちそうな所にそれぞれ1本。三峰アタック途中の広い所にも1本打ったが、不要だった。
<パーティ>
冬メイン3年班準山1回目。風の強い中行動できた、旧DZでBSできた
澤田、寺尾:特になし 平塚:目出帽忘れ
<時間とルート>
十勝岳温泉(7:25)〜旧Z(8:00)〜H(9:20)〜上ホロ(9:40)〜三峰(11:00)〜H(11:45)〜旧Z(12:40)〜十勝岳温泉(13:10)
旧DZ経由でHまで。雪少なくスノーシュー置いていく。Hから上ホロアタック。視界2〜300、風はふられない程度。Hに戻り、三峰アタック。視界2〜300、ふられる風。Hからは旧DZ経由で温泉まで。
デポ旗はHの降り口と、上ホロアタック途中の白くてガケから落ちそうな所にそれぞれ1本。三峰アタック途中の広い所にも1本打ったが、不要だった。
<パーティ>
冬メイン3年班準山1回目。風の強い中行動できた、旧DZでBSできた
澤田、寺尾:特になし 平塚:目出帽忘れ
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現役の報告・ 2006年11月15日 (水)
2006年度夏・岩メイン 屏風岩 滝谷 報告
【月 日】8月23日〜29日
【メンバ】L寺尾祐信(3) AL澤田拓郎(3) M平塚雄太(3)佐藤海太(2)
【ルート】T4尾根、屏風岩 雲稜ルート、屏風岩 東稜ルート、滝谷 ドーム中央稜、屏風岩 ディレッティシマ
遅くなりました。冬になってしまいそうですが、現役の夏、岩メイン山行のかけこみ報告です。
【月 日】8月23日〜29日
【メンバ】L寺尾祐信(3) AL澤田拓郎(3) M平塚雄太(3)佐藤海太(2)
【ルート】T4尾根、屏風岩 雲稜ルート、屏風岩 東稜ルート、滝谷 ドーム中央稜、屏風岩 ディレッティシマ
遅くなりました。冬になってしまいそうですが、現役の夏、岩メイン山行のかけこみ報告です。
23日 上高地に集合する。そこで、佐藤がワンタッチアイゼンを夏用登山靴に荷作り紐で固定しようとしていた上、バイルとハンマーを間違えていた事が発覚。皆で罵る。
24日 移動
晴れ・上高地(5:15)→横尾(8:15)→偵察(10:00〜17:00)
上高地から横尾までは林道並みの道。佐藤だけ猿に囲まれ威嚇される。屏風岩に登るには横尾のほうが良いので横尾をBCとする事にする。偵察に向かう。が、一度1ルンゼ出合を行き過ぎてしまう。
●澤田ー佐藤Party
T4尾根
1p 30m IV 凹角をテラスまで。澤
2p 40m IV+ 澤
ルンゼをコンテで行く。
3p 30m III チムニー〜スラブ 佐
●寺尾ー平塚Party
ほとんど上と一緒。T4尾根は寺リードで1p登ったところでクレッター落としたため回収して帰る。
25日
●澤田ー佐藤Party(屏風岩 雲稜ルート)
晴 BC(3:20)→T4取付き(4:30〜5:00)
T4尾根(5:00〜6:30) 佐澤佐
雲稜ルート(6:30〜14:30)
1p 50m V コーナー〜凹角内のハングを越えテラスまで。澤
2p 20m IV A0 ピナクルテラス〜ピナクル。佐
3p 10m III ピナクル〜扇岩テラス 澤
4p 30m A1 スラブ状をA1 佐
5p 20m IV+〜VーA1 A1でハングしたまで行き、ハングに頭をおさえられつつTrしテラスまで。フレークは脆い。澤
6p トポの情報により、ルンゼを渡り、登られていないフェースをハーケンをうちこえようとする。が、チェックしようとして勢いよく引っぱりすぎてハーケンが抜け、1m程下のテラスに着地。危ない。その場にハーケンでビレイ点を作り、澤田が行く。 佐
6p再 トポで「悪い」とかかれているルンゼを少し登り、Trして佐藤の3m程上のテラスまで。こちらが正解。上からロープを投げ、ゴボウっぽく抜ける。澤
7p 45m VA0 ルンゼ状スラブ 澤
8p目はハーケンを自分で打ってA0するようなことはなさそうなので佐藤にリードを続行して良いと判断する。
8p 30m IV ルンゼ状スラブ 佐
9p 10m IVA0 草付凹角を1段上まで 澤
9p目は上に抜けるのでなければ登る価値は無い。
下降(15:00〜17:30)→BC(18:50)
下降は大テラスからAbしたら早いとの情報だったが、大テラスからのAbはロープの流れ、落石を考慮し扇岩テラスまで澤田のみ登り返し。T4まで、6pAb。T4は3回25mAb、50m×2回Ab。下降途中、佐藤がネーベンをわすれていた事が発覚。
●寺尾ー平塚Party(屏風岩 東稜ルート)
晴 BC(4:30)→T4取付き(4:30〜5:00)
澤田Pに先を譲って遅れて出発。
T4尾根〜東稜ルート(6:10〜16:10)
T4尾根
1p 30m IV 凹角をテラスまで。寺
2p 40m IV+ 平塚がビレイ点でウンコする。場所判断ミス。寺
ルンゼをコンテで行く。平
3p 30m III チムニー〜スラブ 寺
東稜ルート
1p 15m III,A1 小ハング〜フェース。人工だからか時間がかかっているように思えた。平
2p 40m A1 フェースの人工、ハング下まで。3mmシュリンゲの人工が怖い。寺
3p 30m IV,A1~A0 ハング下を左に行き、ランペ。ちょっと伸ばす。A0のところで時間かかる。平
4p 40m IV,A1 小ハング〜フェース。トポの5p目途中まで。寺
5p 15m III やさしい草付。平
6p 30m III+,A1 ピナクル上の垂壁〜右に抜ける。寺
下降(16:10〜18:10)T4尾根(18:10〜30)〜BC着(20:10)
下降の際、平塚のロープワークが雑でロープ絡まらせる。さらにT4尾根2p目ラッペル後の立てるテラスでセルフを取らずに手を離した。
26日
●澤田ー佐藤Party(休養+移動)
晴時々曇。夜から小雨+雷。夕方までは寝ている佐藤に砂糖をふりかけたり、猿と交流したりしつつ休養。夕方、涸沢に移動し、北穂に上がる夏道を少し偵察。ハングした岩の下で寝る、なかなか快調。
●寺尾ー平塚Party(休養)
晴時々曇。夜から小雨+雷。澤田Pが行ったあとかわいい女3人+黒い男1人のPartyがキャンプ場に来る。あのヤローはなんなんだ!!
27日
●澤田ー佐藤Party(滝谷 ドーム中央稜)
ガス時々晴れ。後、雨。
涸沢(3:10)→北穂南峰()→取付き(8:00〜30)
ドーム中央稜(8:30〜12:10)
南峰(13:00)→涸沢(14:15〜15:20)→BC(16:45)
取り付まではほぼ計画通り。ガスっており、少々迷う。ラッペル支点多い、三級のクライムダウンはロープ出しても良かった。先行パーティーをまって出発。
1p 40m IV チムニー〜カンテを少しのぼりテラスまで、アンカーは岩角。チムニーに挟まってきつい。澤
2p 20m IV+ リッジ〜左スラブ〜テラス リードはA0 佐
3p 35m I リッジ 澤
4p 15m III+ 凹角〜チムニー 佐 短いが重いのできる。
5p 20m V 凹角からCSのチムニー〜テラス 澤
6p 25m V〜V+ 凹角〜ハング。ハング直上 澤
ドーム中央稜は硬く、フリーで抜けれるルートで快適。取り付きまではふみあとは判然としない。社会人パーティーも迷っていてルンゼ内をラッペルしていた。
その後ドーム頭から縦走路へルンゼをCdし、北穂南峰でグダグダし、涸沢でおでんジャンケンする。涸沢はお姉ちゃんがたくさんいて、癒される。雨のやんだ隙を突きBCまで夏道を下る。
●寺尾ー平塚Party(屏風岩 ディレッティシマ敗退)
晴時々雨 BC(3:15)→T4取付き(4:40)
ディレッティシマの取付きを探すのに手間取る。雪渓の残っている1ルンゼをつめていく。取付きまでに少し岩登り。平塚にシュリンゲ垂らす。
ディレッティシマ敗退(6:00〜16:00)
1p 45m V フェース〜脆い階段状。トポの1,2pをつなげる。右の凹角に入らずにフェースを直登したため難しくなった。寺
2p 20m III,A1 小ハングを越える。リード中時計落とす。平
3p 30m IVー,A1 垂壁〜スラブのはずだったが、途中支点が一ヶ所抜けていてエイドでいけないところがあった。ツルツルだったのでフリーで抜けたり、ハーケンを打ったりはできなかったので、セルフをいっぱいまで伸ばし、振り子のようにして左のリスにつかまりバランスをとりながらハーケンを打つがささらず、詰まった土をハンマーで掘ってそこにエイリアンをきめてギリギリで左に抜ける。あとは脆い岩を横断バンドまで。時間かけた。フォローは支点の抜けているところだけ片方のザイルで確保してもう片方でゴボウ。のちの人のために抜けている支点のところはシュリンゲを垂らして残置した。寺
4p 50m A1 スラブの人工。寺
5p 40m IVー,A1 コーナー沿い。一部アメリカンエイド。リード落石落とす。ハングしていたためにビレイヤーの背中を石が通っていった。平
6p 35m A2 ルーフ越え。興奮した。ザイルの流れがロクスノに出てきそうだった。平塚のビレイにキレる。寺
ここで時間切れのために敗退。3,6pのリードに時間かけすぎた。平塚のスピードはだいぶ早くなっていた。
下降(16:00〜18:00)ーBC着(19:00)
横断バンドまで降りて横断バンドの踏み跡をT4まで行き、T4から降りる。そっちのほうが早いと思う。懸垂中に平がトポを落とす。幸い横断バンドに落ちたので回収できた。ディレッティシマは脆い残置が多く、東稜や雲稜に比べるとあまり登られていないようだった。
28日
●澤田ー佐藤Party(屏風岩 東稜ルート)
曇り→ガス→小雨
T4(5:30〜7:10)疲労と湿り気のためか難しく感じる
東稜(7:40〜13:20)
1p 15m III,A1 小ハング〜フェース。澤
2p 40m A1 フェースの人工、ハング下を左へ。佐
3p 35m IV,A1 小リッジ上を左上〜右TRし小ハングをエイドで小テラスまで。澤
4p 35m IV,A1 フェース〜右TR〜フェース〜ピナクルテラスまで。佐
5p 30m III+,A1 ピナクル上の垂壁〜右に抜ける。澤
下降(13:20〜15:45)→BC着(16:45)
下降は4pラッペル。T4まで佐藤に降りてもらう。が、T4尾根2p目ラッペル後の立てるテラスで佐藤がセルフを取らずにロープをルベルソから解こうとする(本人曰く「平塚さんのウンコのせいだ。」)。前日の疲れはあった。
T4では平塚の排泄物にロープがつく、不可抗力。悲惨。エイドには慣れた。東稜はピンの距離も近く、エイド入門という雰囲気。
●寺尾ー平塚Party(休養)
澤田Pが行ったあと北九州市立大の素敵な女性×3がキャンプ場に来る。鼻の下を伸ばす。
29日 下山
横尾発(7:40)ー上高地着(10:00)
澤田Pは休養。寺尾Pは天気があまり良くない予報でモチベーションも低かったため下山することに。岩メインの最後はいつもこうなる気が…
<Party>
L-s 寺尾:クレッタ落とし、偵察のときでよかったね。
澤田:ドーム取り付きまで迷い、時間をかけてしまう。
M 平塚:道間違い。時計とトポ落とす。ビレイの意識甘い。ウンコの意識甘い。
佐藤:ハーケン設置、確認方法は慎重に…。ラッペル中の手放しなど緊張感の維持が課題。ビレイ中リード が頑張っているときは集中してほしい。
24日 移動
晴れ・上高地(5:15)→横尾(8:15)→偵察(10:00〜17:00)
上高地から横尾までは林道並みの道。佐藤だけ猿に囲まれ威嚇される。屏風岩に登るには横尾のほうが良いので横尾をBCとする事にする。偵察に向かう。が、一度1ルンゼ出合を行き過ぎてしまう。
●澤田ー佐藤Party
T4尾根
1p 30m IV 凹角をテラスまで。澤
2p 40m IV+ 澤
ルンゼをコンテで行く。
3p 30m III チムニー〜スラブ 佐
●寺尾ー平塚Party
ほとんど上と一緒。T4尾根は寺リードで1p登ったところでクレッター落としたため回収して帰る。
25日
●澤田ー佐藤Party(屏風岩 雲稜ルート)
晴 BC(3:20)→T4取付き(4:30〜5:00)
T4尾根(5:00〜6:30) 佐澤佐
雲稜ルート(6:30〜14:30)
1p 50m V コーナー〜凹角内のハングを越えテラスまで。澤
2p 20m IV A0 ピナクルテラス〜ピナクル。佐
3p 10m III ピナクル〜扇岩テラス 澤
4p 30m A1 スラブ状をA1 佐
5p 20m IV+〜VーA1 A1でハングしたまで行き、ハングに頭をおさえられつつTrしテラスまで。フレークは脆い。澤
6p トポの情報により、ルンゼを渡り、登られていないフェースをハーケンをうちこえようとする。が、チェックしようとして勢いよく引っぱりすぎてハーケンが抜け、1m程下のテラスに着地。危ない。その場にハーケンでビレイ点を作り、澤田が行く。 佐
6p再 トポで「悪い」とかかれているルンゼを少し登り、Trして佐藤の3m程上のテラスまで。こちらが正解。上からロープを投げ、ゴボウっぽく抜ける。澤
7p 45m VA0 ルンゼ状スラブ 澤
8p目はハーケンを自分で打ってA0するようなことはなさそうなので佐藤にリードを続行して良いと判断する。
8p 30m IV ルンゼ状スラブ 佐
9p 10m IVA0 草付凹角を1段上まで 澤
9p目は上に抜けるのでなければ登る価値は無い。
下降(15:00〜17:30)→BC(18:50)
下降は大テラスからAbしたら早いとの情報だったが、大テラスからのAbはロープの流れ、落石を考慮し扇岩テラスまで澤田のみ登り返し。T4まで、6pAb。T4は3回25mAb、50m×2回Ab。下降途中、佐藤がネーベンをわすれていた事が発覚。
●寺尾ー平塚Party(屏風岩 東稜ルート)
晴 BC(4:30)→T4取付き(4:30〜5:00)
澤田Pに先を譲って遅れて出発。
T4尾根〜東稜ルート(6:10〜16:10)
T4尾根
1p 30m IV 凹角をテラスまで。寺
2p 40m IV+ 平塚がビレイ点でウンコする。場所判断ミス。寺
ルンゼをコンテで行く。平
3p 30m III チムニー〜スラブ 寺
東稜ルート
1p 15m III,A1 小ハング〜フェース。人工だからか時間がかかっているように思えた。平
2p 40m A1 フェースの人工、ハング下まで。3mmシュリンゲの人工が怖い。寺
3p 30m IV,A1~A0 ハング下を左に行き、ランペ。ちょっと伸ばす。A0のところで時間かかる。平
4p 40m IV,A1 小ハング〜フェース。トポの5p目途中まで。寺
5p 15m III やさしい草付。平
6p 30m III+,A1 ピナクル上の垂壁〜右に抜ける。寺
下降(16:10〜18:10)T4尾根(18:10〜30)〜BC着(20:10)
下降の際、平塚のロープワークが雑でロープ絡まらせる。さらにT4尾根2p目ラッペル後の立てるテラスでセルフを取らずに手を離した。
26日
●澤田ー佐藤Party(休養+移動)
晴時々曇。夜から小雨+雷。夕方までは寝ている佐藤に砂糖をふりかけたり、猿と交流したりしつつ休養。夕方、涸沢に移動し、北穂に上がる夏道を少し偵察。ハングした岩の下で寝る、なかなか快調。
●寺尾ー平塚Party(休養)
晴時々曇。夜から小雨+雷。澤田Pが行ったあとかわいい女3人+黒い男1人のPartyがキャンプ場に来る。あのヤローはなんなんだ!!
27日
●澤田ー佐藤Party(滝谷 ドーム中央稜)
ガス時々晴れ。後、雨。
涸沢(3:10)→北穂南峰()→取付き(8:00〜30)
ドーム中央稜(8:30〜12:10)
南峰(13:00)→涸沢(14:15〜15:20)→BC(16:45)
取り付まではほぼ計画通り。ガスっており、少々迷う。ラッペル支点多い、三級のクライムダウンはロープ出しても良かった。先行パーティーをまって出発。
1p 40m IV チムニー〜カンテを少しのぼりテラスまで、アンカーは岩角。チムニーに挟まってきつい。澤
2p 20m IV+ リッジ〜左スラブ〜テラス リードはA0 佐
3p 35m I リッジ 澤
4p 15m III+ 凹角〜チムニー 佐 短いが重いのできる。
5p 20m V 凹角からCSのチムニー〜テラス 澤
6p 25m V〜V+ 凹角〜ハング。ハング直上 澤
ドーム中央稜は硬く、フリーで抜けれるルートで快適。取り付きまではふみあとは判然としない。社会人パーティーも迷っていてルンゼ内をラッペルしていた。
その後ドーム頭から縦走路へルンゼをCdし、北穂南峰でグダグダし、涸沢でおでんジャンケンする。涸沢はお姉ちゃんがたくさんいて、癒される。雨のやんだ隙を突きBCまで夏道を下る。
●寺尾ー平塚Party(屏風岩 ディレッティシマ敗退)
晴時々雨 BC(3:15)→T4取付き(4:40)
ディレッティシマの取付きを探すのに手間取る。雪渓の残っている1ルンゼをつめていく。取付きまでに少し岩登り。平塚にシュリンゲ垂らす。
ディレッティシマ敗退(6:00〜16:00)
1p 45m V フェース〜脆い階段状。トポの1,2pをつなげる。右の凹角に入らずにフェースを直登したため難しくなった。寺
2p 20m III,A1 小ハングを越える。リード中時計落とす。平
3p 30m IVー,A1 垂壁〜スラブのはずだったが、途中支点が一ヶ所抜けていてエイドでいけないところがあった。ツルツルだったのでフリーで抜けたり、ハーケンを打ったりはできなかったので、セルフをいっぱいまで伸ばし、振り子のようにして左のリスにつかまりバランスをとりながらハーケンを打つがささらず、詰まった土をハンマーで掘ってそこにエイリアンをきめてギリギリで左に抜ける。あとは脆い岩を横断バンドまで。時間かけた。フォローは支点の抜けているところだけ片方のザイルで確保してもう片方でゴボウ。のちの人のために抜けている支点のところはシュリンゲを垂らして残置した。寺
4p 50m A1 スラブの人工。寺
5p 40m IVー,A1 コーナー沿い。一部アメリカンエイド。リード落石落とす。ハングしていたためにビレイヤーの背中を石が通っていった。平
6p 35m A2 ルーフ越え。興奮した。ザイルの流れがロクスノに出てきそうだった。平塚のビレイにキレる。寺
ここで時間切れのために敗退。3,6pのリードに時間かけすぎた。平塚のスピードはだいぶ早くなっていた。
下降(16:00〜18:00)ーBC着(19:00)
横断バンドまで降りて横断バンドの踏み跡をT4まで行き、T4から降りる。そっちのほうが早いと思う。懸垂中に平がトポを落とす。幸い横断バンドに落ちたので回収できた。ディレッティシマは脆い残置が多く、東稜や雲稜に比べるとあまり登られていないようだった。
28日
●澤田ー佐藤Party(屏風岩 東稜ルート)
曇り→ガス→小雨
T4(5:30〜7:10)疲労と湿り気のためか難しく感じる
東稜(7:40〜13:20)
1p 15m III,A1 小ハング〜フェース。澤
2p 40m A1 フェースの人工、ハング下を左へ。佐
3p 35m IV,A1 小リッジ上を左上〜右TRし小ハングをエイドで小テラスまで。澤
4p 35m IV,A1 フェース〜右TR〜フェース〜ピナクルテラスまで。佐
5p 30m III+,A1 ピナクル上の垂壁〜右に抜ける。澤
下降(13:20〜15:45)→BC着(16:45)
下降は4pラッペル。T4まで佐藤に降りてもらう。が、T4尾根2p目ラッペル後の立てるテラスで佐藤がセルフを取らずにロープをルベルソから解こうとする(本人曰く「平塚さんのウンコのせいだ。」)。前日の疲れはあった。
T4では平塚の排泄物にロープがつく、不可抗力。悲惨。エイドには慣れた。東稜はピンの距離も近く、エイド入門という雰囲気。
●寺尾ー平塚Party(休養)
澤田Pが行ったあと北九州市立大の素敵な女性×3がキャンプ場に来る。鼻の下を伸ばす。
29日 下山
横尾発(7:40)ー上高地着(10:00)
澤田Pは休養。寺尾Pは天気があまり良くない予報でモチベーションも低かったため下山することに。岩メインの最後はいつもこうなる気が…
<Party>
L-s 寺尾:クレッタ落とし、偵察のときでよかったね。
澤田:ドーム取り付きまで迷い、時間をかけてしまう。
M 平塚:道間違い。時計とトポ落とす。ビレイの意識甘い。ウンコの意識甘い。
佐藤:ハーケン設置、確認方法は慎重に…。ラッペル中の手放しなど緊張感の維持が課題。ビレイ中リード が頑張っているときは集中してほしい。
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記事・消息・ 2006年11月15日 (水)
11月11〜12日、於:滋賀近江舞子の琵琶湖畔にて
京阪神は暖かくうららかな日が続き、街中では最近まで半そで姿で歩く若者を見かけた。ところが月見の宴を予定した11月11日は何と朝から雨。雷も鳴るという荒天。しかし我々はひるまない。午後3時に琵琶湖畔に出てみると、眼前の竹生島が小雨にぼんやり霞み、背景の比良連山は雨雲の中といったバーベキューパーティーにはもってこいの日和。おまけに人馴れした鴨が炭火の近くまで遊びにきたので、すぐに鍋も用意するという気合の入れよう。ただねぎを買ってこなかった。
のっけから相田さん(58ー以下西暦下2桁)と田中(英)さん、渡辺(尚)さん(いずれも59)とで谷崎文学の世界とファイザー社の薬についての質疑応答から始まったため、紛れ込んだようにして参加した最年少の瀧花君(99)は、加減乗除を覚えたての子を見る公認会計士の親といった様子。大津の街の光がうすぼんやりと望めるもフライシートは突風で使い物にならなくなり、松の幹に張り渡したブルーシートに宴席を移動。伏見さん(61)はそろそろ定年を迎え、ヒマラヤの麓に戻るとの決意。岡島君(83)から娘達が自分との距離をおき始めたという話しに、経験者達は思わずにやり。
何年経ってもこういう席でやはり気になるのは、今の現役の人達の動向で、最近の人数構成や十勝合宿、登山の形態を尋ねては自分達の現役時代と比較するが、もはやその年代差は40年。ハイビジョンテレビで「バス通り裏」を見ているようなものだ。なつかしいという雰囲気だけ味わうことが出来れば、意義がある。私(65)も、自分の年齢を明らかにした時に、瀧花君から「親父と同世代ですネ」と言われ、昔、古い部報に出ていた先輩達を見て、そう思った時のことを思い出した。
やはりと言えばそれまでだが、時折雨脚が激しくなったり、強風の吹く中、大き目の火にして歌集を片手に和して声をあげる。ある種意地を張っていると見えなくもない。しかし6時間も延々と雨見の宴をよくも続けたものです、風邪も引かずに。
翌12日は比良登山を計画していたが、北滋賀地方は嵐の回復の兆しもなく、中止とし、朝、湖畔に出て昨晩の片づけを済ませ、食事をいただき、新年会などの予定や議題を話し合い、三々五々ゆっくりと帰路につく。帰りついて阪急の車内を見渡すと昨日とは打って変わって、人々は冬の装いになっていた。
報告:岸本
のっけから相田さん(58ー以下西暦下2桁)と田中(英)さん、渡辺(尚)さん(いずれも59)とで谷崎文学の世界とファイザー社の薬についての質疑応答から始まったため、紛れ込んだようにして参加した最年少の瀧花君(99)は、加減乗除を覚えたての子を見る公認会計士の親といった様子。大津の街の光がうすぼんやりと望めるもフライシートは突風で使い物にならなくなり、松の幹に張り渡したブルーシートに宴席を移動。伏見さん(61)はそろそろ定年を迎え、ヒマラヤの麓に戻るとの決意。岡島君(83)から娘達が自分との距離をおき始めたという話しに、経験者達は思わずにやり。
何年経ってもこういう席でやはり気になるのは、今の現役の人達の動向で、最近の人数構成や十勝合宿、登山の形態を尋ねては自分達の現役時代と比較するが、もはやその年代差は40年。ハイビジョンテレビで「バス通り裏」を見ているようなものだ。なつかしいという雰囲気だけ味わうことが出来れば、意義がある。私(65)も、自分の年齢を明らかにした時に、瀧花君から「親父と同世代ですネ」と言われ、昔、古い部報に出ていた先輩達を見て、そう思った時のことを思い出した。
やはりと言えばそれまでだが、時折雨脚が激しくなったり、強風の吹く中、大き目の火にして歌集を片手に和して声をあげる。ある種意地を張っていると見えなくもない。しかし6時間も延々と雨見の宴をよくも続けたものです、風邪も引かずに。
翌12日は比良登山を計画していたが、北滋賀地方は嵐の回復の兆しもなく、中止とし、朝、湖畔に出て昨晩の片づけを済ませ、食事をいただき、新年会などの予定や議題を話し合い、三々五々ゆっくりと帰路につく。帰りついて阪急の車内を見渡すと昨日とは打って変わって、人々は冬の装いになっていた。
報告:岸本
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OBの山行記録・ 2006年11月6日 (月)
現役と三日間登攀合宿。ザイル手繰っちゃ山の話、雑炊食っちゃ山の話。
【ルート】
上ホロカメットク山周辺・新ZをBCにして、化物岩、上ホロ正面壁、八ツ手岩の登攀
【メンバ】
A班:斉藤清克(87入部),米山悟(84入部),澤田卓郎(3)
B班:勝亦浩希(4)、寺尾祐信(3)、平塚雄太(3)
【日程】
11月3日〜5日
現役は80年代とは変わって、冬の登攀をやるようになっていた。この季節の十勝は、内地でいえばちょうど八ヶ岳のスケールの登攀稽古場のようなものに映った。まだ冬の始まりで天気に恵まれたので、良い条件で三本のルートを登った。視界無し猛吹雪で行動する練習場だった厳冬の十勝連峰とは別の山だった。
●11/3:化物岩・高曇り後ガス
札幌(5:30)→十勝岳温泉発(9:15)→BC→化物岩左ルートとりつき(11:15)→終了(13:30)→旧DZ経由→BC(14:30)
*B班は右ルート
新ZにBC設営。すぐ上の化物岩はだいたい右と左の二つルートがある。A班は左、B班は右。澤田がトップ。1p目:三級凹角を登る。2p目:2級少し回り込んでテラスへ。3p目:三級+。通常のルートよりもカンテの更に左ルート。ちょっと変な体勢になるバンド状。化物岩の上で勝亦たちと合流して旧Dまで稜線のハイマツをこいでそこから下降。旧DZの雪は申し訳程度。砂礫は凍り付いていてアイゼンはきまる。雪のうっすらつもったZ谷は、なんだかバルトロ氷河のキャンプ地みたいだ。
●11/4:上ホロ正面壁三段ルンゼ・ガス後快晴
BC(6:20)→上ホロ北西稜→三段ルンゼとりつき(8:10)→終了(12:00)→上ホロカメットク山(12:20-50)→上ホロ小屋のコルから下降ルンゼ(下部は左岸)→BC(14:30)
*B班は中央クーロアールルート(敗退)
夜のうちにBCは小雨、山は真っ白に雪化粧して、岩壁にはびっしりエビのしっぽが付いてハクが付いた。北西稜を顕著な黒い岩峰までたどって、急な斜面をトラバースして三段ルンゼ取り付きへ。砂礫の急斜面は凍り付き、前爪刺してのこの50mほどの横這いが結構怖かった。本日のトップは齋藤。
1p目:四級40m。チムニーの先に黄緑色のかぶった氷柱。アイスアックス利かせて登る核心。そのあと雪のルンゼ。2p目:四級+30m。雪のルンゼの先に黒い洞穴の様なチムニー。齋藤は大股開きの谷側向き突っ張りで登り、最後右にアックス利かして脱出。僕はそこのとこアブミをかけて抜ける。その後30mほど雪のルンゼをノーザイルで登り、最後に3p目、チムニー2連発。四級−30m。
十勝の通過点だと思っていた上ホロが、今日はグランドジョラスと化した。正面壁は凄い。下降は上ホロ避難小屋のあるコルから。上は急だが旧DZより緩い。谷の中は落石が来るので、左岸の高台を通って下りた。勝亦たちは敗退。氷の発達がまだまだだったとのこと。
●11/5:八ッ手岩右ルート・高曇後ガス
BC(6:00)→八ツ手岩右ルートとりつき(7:20)→終了(9:30)→コルにて(〜11:00)→懸垂×2→BC(13:30-14:00)→十勝岳温泉(14:20)
*B班は中央クーロアールルート(敗退)
正面壁はきのうの晴天で、日の当たる所は黒く、日陰は白く縞になっている。八ッ手岩はほとんど黒い。取り付きの尾根も雪は少ないが、砂礫ががっちり凍り付いていて、アイゼンがきまる。他パーティーがいたが、幸い左ルートを行ってくれた。
1p目:四級30m。ジェードル後小バンド。コケモモの泥壁にアックスがきまる。バンドの一枚岩が嫌な感じ。僕だけ鐙をつかう。ここは度胸が要る。核心はここだけ。2p目:二級。3p目40m:フェイスをトラバースしてコルまで。ここから、今日も中央クーロアールに取り付いている勝亦パーティーを谷越しに観戦する。ここから見る正面壁は絶景だ。正面から見ると凄い所を登っている。
下降は最高点のピナクルを右に捲き、その先のピナクルから懸垂50m×2ピッチ。落石多く、注意する。雪面に下りてからも落石を警戒し、流路を避ける。勝亦Pは取り付きを右寄りに換えて2p登ったが、そこまでで引き返し。ファイトが及ばず、時間切れとのこと。悔しかろうなあ。
季節が早かった上に気温が二,三度と、冬登攀というにはシビアさは無かったが、氷があまり使えないため、岩登り主軸の登攀になった。雪があればあったで、別の難しさになりそう。齋藤はよく登る。現役はロープの扱いに慣れていて、安心感がある。
上ホロ荘の露天でのんびりして帰る。朝晩の食費が三日間で300円/一人というのには感動した。
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部報解説・ 2006年10月31日 (火)
部報2号の紹介、後半分です。
東大雪の沢をつなぐ原始林彷徨山行や、部報では初の利尻や芦別の積雪期記録に加え、国後のチャチャヌプリ、アリューシャン・アッツ島見聞録など、戦前の北洋時代ならではの記録が並んでいます。
【部報2号(1929)前編の続き】
● 十勝岳―十勝川―ニペソツ山 山縣浩
1928年8月、人夫水本さんと9日間の旅。吹上温泉から前十勝経由で十勝岳。美瑛をアタックして、十勝川源流地帯に降りる。シー十勝川、トムラウシ川を渡り、古い鉈目を頼りに道のようなものを歩いている。ニペソツ川を登路にする。頂上の北に上がる尾根から登頂。「ニペソツの山の形は地図で予想することは出来得ない。地図にはこの大きな東西の崖を全然書いていない。」とある。あの特異な山容を、事前に写真などのメディアを通じないで、ナマで出会える幸せさを想像した。ホロカ音更川を下り、上士幌まで歩く下山路はのどかな丘陵地帯の直線一本道。「先は見えていて、それでいて、歩いても歩いてもなかなか着かない。」
● 石狩岳とニペソツ山を中心に 伊藤秀五郎
この一帯の原始林で「谷から谷へ、澤から澤を思ふままに歩き回ってみたいといふ願望を、私はよほど以前からもつていた。」
然別川本流→ユーヤンベツ十の澤→然別沼→ヤンペツ川→ヌカビラ川→音更本流→石狩岳→石狩澤→クチャウンベツ→ヌプントムラウシ川→ニペソツ山→音更川→上士幌1929年八月、二週間の記録。
前半はまだ原始の雰囲気残る然別湖に、ペトウクル山から乗っ越して、今は自動車道路になっている糠平湖への峠を乗っ越す。糠平湖はまだもちろん無い。
石狩と音更のコルへの沢を登る。1400あたりで滝を越えられず右岸を捲き、そのまま稜線へ。ヌプントムラウシ川からのニペソツへは山頂から北に落ちている沢を登る。1600でどうしても登れない滝、尾根に乗って藪こぎで山頂。
● ニペソツ山 徳永芳雄
1929年四月初旬、積雪期初登頂の記録。幌加音更川の三の沢支流、盤の沢から。馬橇に乗せてもらって、三の沢あたりまで行っている。造材の小屋からアタック。好天を生かし、天気の変わる間際に成功させて下る。ウペペサンケの登路の考察もあり。
● 五月の芦別夕張連峰 山口健児
部報初の芦別記録。藪のため、北海道の縦走登山は5月に限られている、とある。発想として、本州のように縦走がしたいようなのである。4人+人夫一名、1929年5月中旬の記録。半分スキー、半分シートラ藪こぎである。ユーフレ谷から夫婦岩周辺で稜線へ上がる沢を間違えて藪の中で一泊。雨の中傾斜地に倒木を倒してテントを張り、焚き火までしてしまうのはサスガである。
芦別岳から南の地図が相当実際と違うとのこと。鉢盛山西北方の1435mピークと、1415m峰の美しさに言及している。「この岩峰は実に雄大で鳥渡日本の山とは思えない。黒い岩の皺に雪をわづかづつのせて、針葉樹の頂の虚空を垂直に抜く姿は捨てがたい」当時からマッターホルンぶりを発揮していたのだ。
吉凶分岐からの夕張岳アタック。広大な風景に惜しげなく賛辞を送っている。あそこの風景は今も昔も変わらないようだ。吉凶岳北東尾根からポントナシベツ川へ下山。下山路は桜咲く春の十梨別原野。
● 三月の利尻岳 井田清
1929年3月、小樽から15時間揺られて鬼脇。宿にスキーを立てかけておくと村中の子供が見物に来る。晴天待ち停滞で、若者が連れて行ってくれと訪ねてきたり、にぎわう銭湯に出かけたり。「山脈から独り離れて居るこの山は何処となく冷たい鋭さに寂しく光って居る。峰も頂の岩壁も絹の様に光つて居る。鋭い峰の若々しい雪庇は絹糸の様に細い。」鬼脇から山頂に向かう標高尾根をたどる。痩せた尾根が頂の直下で突き刺さるところで、雪庇に塹壕を掘って進み登頂(最高点には至っていない模様)。思索の多い井田氏の文章だが、天気待ちの停滞をする序盤から大いに読ませる。
● 国後島遊記 島村光太郎
1929年7月、未だ情報の少ない国後島へ。植物採集を兼ねて、「富士山の上に槍ヶ岳を載せたような」山、チャチャヌプリ登頂を目指す。結果は千島名物の濃霧で山中3停滞の上、翌日もガスと強風に阻まれて、肩の台地の少し先から引き返した。現代と同じくらい、当時も未知にくるまれて謎の山域だった事がわかる。
チャチャヌプリ南西面の乳呑路は30戸ほどの集落で、そこに根室からの船で降り立つ。西に海岸を20キロ進んだところが「賽の河原」。ここの佐々木さんというご老人に登路を教わり、イダシベナイ大沢を登る。途中をすぎると沢は不明瞭になり、ネマガリダケとミヤマハンノキの藪こぎになる。台地の上は砂礫地で火山の熱で靴が熱くなる場もあった。
国後の人たちは丁度昆布とりに忙しかったが、何処の家でも彼らを歓迎してお茶を飲んで行けと誘われた、小学生の子供たちは皆、立ち止まってこんにちはとお辞儀をしてくれたとある。今は失われたある時ある地の記録だ。
● アレウシアンの旅 高橋喜久司
1929年6月下旬、農林水産省の船に乗ってアリューシャンのアッツ島へ植物採集に行く機会があった。植物学教室の先生の助手として。船はラッコ密猟の監視のため、千島、アリューシャンの海獣地帯を行く。アッツ島の先住民アレウトが、外国人を警戒して、なかなか姿を見せない様など書いてある。訪れて植物を採集した島は、アッツ、アムチトカ、アトカ島。中部千島でも帰りに二ヶ月植物採集したとあるが、詳しく書いていない。残念。このような日本の官船が年一度千島やアリューシャンに寄るのに便乗した記録で、同時代の「千島探検記(ベルクマン・加納一郎訳)」がある。当時これらの離島への行き方はこれ以外無かった模様だ。山岳部の学生はこのころから学術調査の最先端で知力体力を発揮している。世間的に山岳部員の価値が認められる分野である。
● 日高山脈アイヌ語考 山口健児
アイヌ地名の意味紹介一覧。
・ピパイロを美生と当て字して、ビセイと読む人が増えたのを嘆いている。いまレキフネ川という川は歴船の字を「ペルプネイ」川に当てていた。当時和人は日方(ひかた)川と呼んでいたがこれは廃れた。
・ ヌピナイは最近ヌビナイと書いているし多数はビで呼ぶが、ルームはピのままである。(野の川の意)
・ 豊似川をトヨニと呼ぶのは誤なり。「トヨイ」(土の川の意)が正しい。
・ 野塚のもとは「ヌプカペツ」。たしかに、そう聞こえる。
など
● 山に就いて 伊藤秀五郎
雲で化粧する山は
藍色の深い呼吸をするが、
少しでも機嫌が悪いと
黒い頭巾をすつぽり被って
つんと肩を聳やかす。
しかし時には
白雲を髪に飾って
明るく
浅黄色に笑っているのだ。
年報 1928/4−1929/8
写真12点、スケッチ5点、地図3点
【部報紹介・2号(1929)上】
● 十勝岳―十勝川―ニペソツ山 山縣浩
1928年8月、人夫水本さんと9日間の旅。吹上温泉から前十勝経由で十勝岳。美瑛をアタックして、十勝川源流地帯に降りる。シー十勝川、トムラウシ川を渡り、古い鉈目を頼りに道のようなものを歩いている。ニペソツ川を登路にする。頂上の北に上がる尾根から登頂。「ニペソツの山の形は地図で予想することは出来得ない。地図にはこの大きな東西の崖を全然書いていない。」とある。あの特異な山容を、事前に写真などのメディアを通じないで、ナマで出会える幸せさを想像した。ホロカ音更川を下り、上士幌まで歩く下山路はのどかな丘陵地帯の直線一本道。「先は見えていて、それでいて、歩いても歩いてもなかなか着かない。」
● 石狩岳とニペソツ山を中心に 伊藤秀五郎
この一帯の原始林で「谷から谷へ、澤から澤を思ふままに歩き回ってみたいといふ願望を、私はよほど以前からもつていた。」
然別川本流→ユーヤンベツ十の澤→然別沼→ヤンペツ川→ヌカビラ川→音更本流→石狩岳→石狩澤→クチャウンベツ→ヌプントムラウシ川→ニペソツ山→音更川→上士幌1929年八月、二週間の記録。
前半はまだ原始の雰囲気残る然別湖に、ペトウクル山から乗っ越して、今は自動車道路になっている糠平湖への峠を乗っ越す。糠平湖はまだもちろん無い。
石狩と音更のコルへの沢を登る。1400あたりで滝を越えられず右岸を捲き、そのまま稜線へ。ヌプントムラウシ川からのニペソツへは山頂から北に落ちている沢を登る。1600でどうしても登れない滝、尾根に乗って藪こぎで山頂。
● ニペソツ山 徳永芳雄
1929年四月初旬、積雪期初登頂の記録。幌加音更川の三の沢支流、盤の沢から。馬橇に乗せてもらって、三の沢あたりまで行っている。造材の小屋からアタック。好天を生かし、天気の変わる間際に成功させて下る。ウペペサンケの登路の考察もあり。
● 五月の芦別夕張連峰 山口健児
部報初の芦別記録。藪のため、北海道の縦走登山は5月に限られている、とある。発想として、本州のように縦走がしたいようなのである。4人+人夫一名、1929年5月中旬の記録。半分スキー、半分シートラ藪こぎである。ユーフレ谷から夫婦岩周辺で稜線へ上がる沢を間違えて藪の中で一泊。雨の中傾斜地に倒木を倒してテントを張り、焚き火までしてしまうのはサスガである。
芦別岳から南の地図が相当実際と違うとのこと。鉢盛山西北方の1435mピークと、1415m峰の美しさに言及している。「この岩峰は実に雄大で鳥渡日本の山とは思えない。黒い岩の皺に雪をわづかづつのせて、針葉樹の頂の虚空を垂直に抜く姿は捨てがたい」当時からマッターホルンぶりを発揮していたのだ。
吉凶分岐からの夕張岳アタック。広大な風景に惜しげなく賛辞を送っている。あそこの風景は今も昔も変わらないようだ。吉凶岳北東尾根からポントナシベツ川へ下山。下山路は桜咲く春の十梨別原野。
● 三月の利尻岳 井田清
1929年3月、小樽から15時間揺られて鬼脇。宿にスキーを立てかけておくと村中の子供が見物に来る。晴天待ち停滞で、若者が連れて行ってくれと訪ねてきたり、にぎわう銭湯に出かけたり。「山脈から独り離れて居るこの山は何処となく冷たい鋭さに寂しく光って居る。峰も頂の岩壁も絹の様に光つて居る。鋭い峰の若々しい雪庇は絹糸の様に細い。」鬼脇から山頂に向かう標高尾根をたどる。痩せた尾根が頂の直下で突き刺さるところで、雪庇に塹壕を掘って進み登頂(最高点には至っていない模様)。思索の多い井田氏の文章だが、天気待ちの停滞をする序盤から大いに読ませる。
● 国後島遊記 島村光太郎
1929年7月、未だ情報の少ない国後島へ。植物採集を兼ねて、「富士山の上に槍ヶ岳を載せたような」山、チャチャヌプリ登頂を目指す。結果は千島名物の濃霧で山中3停滞の上、翌日もガスと強風に阻まれて、肩の台地の少し先から引き返した。現代と同じくらい、当時も未知にくるまれて謎の山域だった事がわかる。
チャチャヌプリ南西面の乳呑路は30戸ほどの集落で、そこに根室からの船で降り立つ。西に海岸を20キロ進んだところが「賽の河原」。ここの佐々木さんというご老人に登路を教わり、イダシベナイ大沢を登る。途中をすぎると沢は不明瞭になり、ネマガリダケとミヤマハンノキの藪こぎになる。台地の上は砂礫地で火山の熱で靴が熱くなる場もあった。
国後の人たちは丁度昆布とりに忙しかったが、何処の家でも彼らを歓迎してお茶を飲んで行けと誘われた、小学生の子供たちは皆、立ち止まってこんにちはとお辞儀をしてくれたとある。今は失われたある時ある地の記録だ。
● アレウシアンの旅 高橋喜久司
1929年6月下旬、農林水産省の船に乗ってアリューシャンのアッツ島へ植物採集に行く機会があった。植物学教室の先生の助手として。船はラッコ密猟の監視のため、千島、アリューシャンの海獣地帯を行く。アッツ島の先住民アレウトが、外国人を警戒して、なかなか姿を見せない様など書いてある。訪れて植物を採集した島は、アッツ、アムチトカ、アトカ島。中部千島でも帰りに二ヶ月植物採集したとあるが、詳しく書いていない。残念。このような日本の官船が年一度千島やアリューシャンに寄るのに便乗した記録で、同時代の「千島探検記(ベルクマン・加納一郎訳)」がある。当時これらの離島への行き方はこれ以外無かった模様だ。山岳部の学生はこのころから学術調査の最先端で知力体力を発揮している。世間的に山岳部員の価値が認められる分野である。
● 日高山脈アイヌ語考 山口健児
アイヌ地名の意味紹介一覧。
・ピパイロを美生と当て字して、ビセイと読む人が増えたのを嘆いている。いまレキフネ川という川は歴船の字を「ペルプネイ」川に当てていた。当時和人は日方(ひかた)川と呼んでいたがこれは廃れた。
・ ヌピナイは最近ヌビナイと書いているし多数はビで呼ぶが、ルームはピのままである。(野の川の意)
・ 豊似川をトヨニと呼ぶのは誤なり。「トヨイ」(土の川の意)が正しい。
・ 野塚のもとは「ヌプカペツ」。たしかに、そう聞こえる。
など
● 山に就いて 伊藤秀五郎
雲で化粧する山は
藍色の深い呼吸をするが、
少しでも機嫌が悪いと
黒い頭巾をすつぽり被って
つんと肩を聳やかす。
しかし時には
白雲を髪に飾って
明るく
浅黄色に笑っているのだ。
年報 1928/4−1929/8
写真12点、スケッチ5点、地図3点
【部報紹介・2号(1929)上】
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