7月1日、北大構内の山岳館において平成18年度の評議会・総会・懇親会が行われました。
今年の総会は、沖縄から木崎会員が駆けつけるなど道外から21名もの多数の参加がありました。翌2日に昭和41・43年夏に日高の沢で遭難した山際・木下・西さんの追悼会が行われたこと、昭和32年入部会員の同期会が阿女鱒山荘を中心に行われたことなどから七十数名の出席となり、会場の山岳館は立錐の余地もないほどの賑わいとなりました。
山岳館前庭で行われた懇親会は,現役部員5名を加えてさらに人数が膨れ上がったことから、前庭全体に会員がひしめき合うほどの賑わいとなりました。北の初夏の爽やかな快晴にめぐまれ、恒例となったバーベキューパーティーは薄暗くなるまで延々と続きました。そのときの模様の写真を山口 斌会員から提供していただきましたので掲載します.
平成18年6月17日
参加者:坂野、石村、大井、黒川、八木橋夫妻、木村
東京支部岳友:井上、佐藤
コース
JR武蔵五日市駅から上養沢行きバスにて終点で下車。進行方向、ほぼ北に向かって舗道を八00メートルほど進んだ所の小さな橋の脇から山道に入る。この道は、養沢鍾乳洞を通過するのだが鍾乳洞は現在閉鎖されている。道は左右に曲がるが一本道で要所には小さな指導標もあるので北に進めば日の出山の頂上に着く。下り道は何本かあるが、JR青梅二俣尾(ふたまたお)方面へは頂上の北側の階段を下る。一本道で三室山(646.7m)の手前に日向和田(ひなたわだ)へ下る分岐点がある。左手に行けば二俣尾、右手が日向和田である。今回は二俣尾への道へ行き車道に出た所の吉野バス停から青梅までバス。青梅線は青梅からの方が列車の数は遥に多い。
その日のこと
梅雨時で天候を案じていたが、前日までの雨模様は終わり降られることはなかった。翌日はまた雨だったのでツイテいたと言えばそのとうりだった。総勢九人になった。坂野、石村、大井、黒川、八木橋夫妻、常連の井上女史、佐藤、小生である。歩きぶり、話題とも気心の知れた快適な集まりとなった。
話題は、何をおいても八木橋君の最近の山、スマヌプリの話である。新得から入って沢にキャンプ、登り下りともスキーを充分に楽しみ、その上オプタテシケの純白の勇姿にも接したらしい。この稜線は厳冬期十勝ー大雪縦走の折りに小生達は踏破しているが、新得への斜面は未踏かも知れない領域で古典的な山やスキーを堪能したらしい。キャンプには三日間の夢の跡とも言える大きな焚き火跡の穴を残して山を終わったとの快挙は羨ましい限り。
女性軍は内田、志賀さんなど元気なので、そのうち現れるだろうと井上女史はいう。石村夫人は他用と重なったらしい。来ない方が不思議なくらいである。
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あれは何という山
北大山の会東京支部・木村俊郎(1950年入部)
もし山岳部にルームが無かったら、在学中の短い期間に道内の山を広く知る事は出来なかったであろう。
ルームにたむろしていた或る日、先輩がひょんなことから言っていた。先輩の先輩が北の果て斜里まで行ったのに目的の山がなかなか見つからなくて往生したという話だった。
目的の山は地形図に「海別岳」と記載された山だったそうである。知床半島のつけ根、国境線で回りには目立つ山もなく斜里からも余り離れていないので、すぐ分かると思ったそうである。駅で降りて、近くの人に
「カイベツ岳はどれですか」
と尋ねたが誰も知らなかった。
かなり、うろうろして途方にくれていると、前方に夕日を浴びて一際高い山が聳えていた。近くで遊んでいた漁師の子に
「あの山は何と言うの」と聞いたところ
「ウナベツ」と答えたそうである。
目標の山はカイベツ岳でなくウナベツ岳だったのだ。
北海道の山の名はアイヌ語に由来するものが多い。それを漢字の当て字にするので、地形図でトッタベツを戸蔦別と記しているのでトツタベツと呼ぶ人がいる。先日も、駅で会った人が、
「百名山を登っている。先月北海道のホロシリに登ってきた」と言っていた。カイベツ岳はともかく、幌尻岳はポロシリでないと、なんとも締まらない。
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ドーバーの広い崖?
北大山の会東京支部・木村俊郎(1950年入部)
知床は今ではもう知らぬ人はないところだが我々が入部した昭和二十五年には、よ
ほどの物好きでない限り「知る必要のない」知床だった。
しかし、山岳部はやはり山岳部で、半島の中央に位置する羅臼岳には魅力があり
時折夏山の対象として話題に上がっていた。岩尾別から入るのが最良の方法とされ
ていたが、国鉄斜里駅かえの道路はウトロまでで、その先は原始林だった。道路は
三十年半ばに自衛隊の工兵訓練で出来たものだと聞く。
したがって、当時はウトロから漁船を雇って原住民が地の果と呼んでいたというイワ
ウベツ川の河口に接岸して、ここから登りはじめるのだという。漁船は焼玉エンジン
でポンポンとけたたましい音をたてて動く、いわゆる「ポンポン蒸気」だった。こんなア
プローチにも魅力があったのは、これを語ったY先輩の話術だった。彼は通称K、古
参の現役部員。
「ドーバーの白い崖のような絶壁の下をポンポン蒸気で行き、岩尾別の河口に接岸
する」と言うのである。しかし小生は残念ながら現役時代にこの山へ行く機会はなか
った。
その時は真面目に聞いていたのだが、後で考えてみると海峡の横断飛行や横断水
泳などの夢を孕んだ、そのドーバー海峡を訪れて実見した人は我々の仲間には未だ
居なかったようなのだが!
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キャベツ捨てていいですか
北大山の会東京支部・木村俊郎(1950年入部)
入部二年目の夏山はサッシビチャリ沢川を遡行してシビチャリ山からヤオロマップを経て札内川を下る計画をたてた。昭和二十六年である。この沢の右股上流は夏も未踏だったようである。
この山を目指したのは、昭和二十五年一月、カムイエクチカウシに登頂したパーティーが、シビチャリ山の東面にカール状の地形があると報告していたことによる。未だ誰も入ったことがない。ことによると本格的なカールかも知れない。
リーダーは二年先輩のNさんが買って出て二人で行くことになったのだが、小生はこのN先輩と山行を共にしたことはなかった。ルームであれこれと準備していると、前年にこの先輩のリーダーで夏山に行ったという渡辺祐男先輩、通称センボーが現れて彼のリーダー像を語った。
札内川八ノ沢からカムイエクチカウシ山に向い、四日目にカールバントを登り始めたところでメンバーのFさんが力尽きたらしく
「キャベツ捨てていいですか」と言ったという。
N先輩はキャベツを受け取って自分のルックに詰めたほか、重そうな物をかなり背負ってずっと山行を続けたという。
ところで我々は七月十日に出発し、JR本桐駅からセタウシ山の尾根越えの道を辿って、メナシベツ川へ降り立ったが、連日の雨で川は物凄い濁流で徒渉不可能。翌日、村の青年が馬で渡してくれた。さらに雨天は続き十日目にやっと上流の二股の大分下に到達。しかし、リーダーは渡渉の折に膝を傷め、ここから撤退となった。
リーダーが一日休養している間に小生は二股の少し上まで偵察して合流点のヤナギの大木に鉈目を入れて戻った。食料は余り、流木は豊富、電柱程のタンネも切って豪勢な焚き火。話も尽きた頃、つれづれなるままに、ルームで聞いたあのキャベツの話を持ち出したが、リーダーはただ小さく頷いただけだった。
翌日から、出発点の本桐に向けての退却となったが、N先輩はちょっと足を引きずっているのに「荷物を少し持て」とも言わず、小生も「少し背負いましょうか」とも言わず、トボトボと本桐駅まで戻って、この年の夏山は終わった。
なお、先に述べたFさんは中途退部したらしく、現在の名簿にはその名はない。
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「北大の山小屋」展は7月4日関係者が多数参列する中、北大綜合博物館3階の会場で盛大な式典をもってオープンしました。実行委員会一同、御協力いただいた方々に改めてお礼申し上げます。
皆様方是非会場に足を運んでごらんになってください。
山小屋展では下記の日程で講演会を行います。第1回目は7月9日(日)です。場所は北大綜合博物館1階で入場無料です。ご都合のつく方はぜひご出席ください。
第1回:7月9日(日)午後1時半より
阿部幹夫(画像ジャーナリスト);
「少年よ、大志を抱け」と北大の山小屋
加藤幸子(芥川賞作家);
山小屋の思い出
第2回:8月5日(土)午後1時半より
小泉章夫(北大);
ヘルヴェチア・ヒュッテ・ログハウス・樹木
角 幸博(北大);
マックス・ヒンデルと山小屋
第3回:8月19日(土)午後1時半より
鍛治哲郎(環境省国立公園課長);
国立公園と山小屋
梅沢 俊;(植物写真家);
札幌周辺の山と花
サバイバル登山家
服部文祥著
みすず書房(2006.6)
服部文祥はいま岳人の編集部にいて、僕にイグルーで登る山(テントを持たずに雪山へ行こう)という文章を書くよう勧めてくれた。道具を持たずに山に行くと、体は自由になり、身に付いた体術と知識で山の中を渡り歩いていける。そういう喜びを実践した記録だ。夏はストーブ無しの焚き火で長期山行をし、冬はテントを持たずイグルーで登る北大山岳部の御同輩だ。共感する。
氏はこの思想をフリークライミングから得たという。たしかに言われてみれば納得だ。Freeという言葉が、「道具無し」という言葉と「自由」という言葉の2つの意味を持つことに納得がいく。「タダ」という意味もあるのがなかなか深い。
表紙はシャケを喰うクマみたいに氏がでかいイワナをつかみ食いしている衝撃的な写真だ。読んでみると蛙を喰う話が平気で書いてあり、オレにはちょっとそこまではなあ、などとも思うのだが、実はこれ、捌いたイワナの皮を、前歯でひっぱってむいているところなのである。つまり、お刺身にして文化的に食べようとしているところ。映像ってのは本当に刺激が強い。「前歯でひっぱると皮が簡単に剥ける」とあるので、僕もシメサバを仕込むときやってみた。これは便利、以後真似しよう。指でいじいじ剥くより早い。
いままで僕などは踏んづけて歩いていた草だが、食べられる草を紹介してあり、興味が湧いた。山が豊かであるほど、人は手ぶらで入山出来る。電源開発で固められると、サカナが減り、手ぶらでは飢える。クマの身になって考える事ができる。道具持ち込みで山に行ってはそういうことに気がつくまい。
「舌はうまいかまずいかを感じる器官ではなく、食えるか食えないかを感じる器官だ」に同意。
読書中、ちょうど3ヶ月ザックに入っていたチーズを発見(3月知床のあまり)。銀紙の下はカビだらけだったが、これを丁寧にオピネルで削いで、中の部分を食べ、舌で転がしてみた。凄く臭い家畜小屋のような臭いがするのにうまい。いつかヨーロッパで食べたクサクサチーズのうまみになっていた。こういうことを話すと人はイヤーな顔をするが、食えるものか食えないものかを自分の舌で判断できず賞味期限見ただけでポイするような者が、あの店はうまいだのまずいだの言うのは、おかしくて聞いていられないと僕は常々思う。
フンザで肉屋が牛の頭を石で叩いて殺し、肉を切り分ける様を書いた一文がある。最近「いのちの食べ方」(森達也著)という子供向けの本を読んだ。日本でもどこかの誰かが牛を屠り、うまく肉に切り分けてくれるから毎日肉を食べている。なのにその様子は世の中に知らされない。自分で殺生してこそ、食べ物をありがたく食べられる。
冒頭、3月下旬の知床単独行の最中、南岸低気圧の直撃を受け、テントをつぶされ雪に埋まって4日間過ごす一文から始まる。「いちばんやばい状況で、いちばん居てはいけない場所に、自分がいる。」あの稜線で低気圧を迎え撃った経験を共有する、仲間意識が湧いた。ただし僕は完全なイグルーで武装し、三日間の爆風に耐えた。外に顔を出せば、まるで滝壺に落ちたときのようにもみくちゃの暴風雪の三日間だった。テントなら死んでいる。
氏にイグルーの作り方を教えて欲しいと言われ、是非にと返事をしたけれど、まだ約束を果たせていない。
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梅里雪山・十七人の友を探して
小林尚礼著
山と渓谷社2006.1
1990年の京大、梅里雪山の事故は大変だった。C3の17人が雪崩と思われる遭難で突然音信不通になり、その場を誰も確認できなかった。戦前のナンガパルバットでもこういうことがあった。著者はその年少隊員の同期で、その後今日まで梅里雪山に関わって生きてきてしまった。僕とほぼ同世代の山好きだ。
80年代を山岳部で過ごした者にとってヒマラヤは憧れだったが、90年代の現実は変わり目だった。大学山岳部が目指す未知の山域は数少なくなり、高い山にはツアー登山隊が押しかけた。梅里雪山はそんな中で残った最後の秘境の山域だった。
著者はその数年後、再挑戦の隊員として山頂近くまで迫っている。ここまでは普通の展開だ。だがその数年後、雲南のヒマラヤの速い氷河が思わぬ速度で流れ、氷河末端で仲間たちが発見され始めた。遺体と遺品の収容のため、麓の村で長い滞在をするうち、チベット人たちの暮らしの中でいかにその山が大切に思われているかを知り、変わっていく。この本は、ただの山好きが成長していく過程を書いている。梅里雪山という中国語が「カワカブ」というチベット語に変わっていく。
巡礼旅行の途上、カワカブが見えたとき、吸い込まれるようにお祈りを始めたチベット人の仲間を見て著者は、「世界で始めてカワカブの南面の撮影をした」と喜んでいた自分を恥じた。「カワカブに登るのは、親の頭を踏むようなものだ」という麓の人の気持ちに少しずつ近づいていく過程が読める。
チベット南部や東部の山あいで、僕も長居をしたことがある。今の日本にいると人が祈る姿をほとんど見かけないが、ここでは「祈る」、「信じる」にはじまり「食べる」も「歩く」もみな日本と違う。登山隊として素通りするだけではもちろん、山頂を目指してやってくる北京や日本の人がそれを知るには時間が要る。著者が時間をかけてそれを理解していく様がうらやましい。
山好き、麓の人、それから遭難者の遺族それぞれにとっての大切なカワカブが描かれる。著者はカワカブのために写真家になり、霊峰カワカブと世界最深の峡谷地帯、それに雲南チベット族の貴重な暮らしぶりの写真が豊富に添えられている。
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日高を乗越して札幌まで?
北大山の会東京支部・木村俊郎(1950年入部)
昭和二十五年、冬の日高は雪が来るのが遅かった。小生は始めての冬山、先輩のSさんをリーダに同輩のK.H.君との三人パーティーで野塚岳の厳冬期初登頂を目指すものだった。リーダーのSさんの通称はKさんと付け加えておこう。
この年、十二月中旬の十勝平野には雪らしい雪は降らなかったらしく、出発準備をしていた我々に、大樹の村で開墾し、農業を営んでいる坂本直行大先輩から電報が入って、「ヒトフリマテ」とのこと。出発は一月十六日となった。
野塚駅から歩き始めて凍結不良の野塚川を遡行し、空いた炭焼き窯の中で寝てテントの凍結で荷が重くなるのを避けたりした。二日目も川幅はまだ広かったが、全面凍結のスノーブリッジもあった。不注意にも小生はこれを踏み抜きルックを背負ったままスッポリ、川に落ち込んでしまった。頭上は氷の天井。しかし、幸い水は減水していたので踝まで位。もう少し多ければ流されて上には出られず、登山は勿論、人生も終わっていただろう。
坂本大先輩の
「ヒトフリマテ」
のサジェスチョンには感謝のしようもない、どころの話ではない。
さて、沢の遡行三日、そして尾根に前進キャンプを設営する計画なので、尾根用の食料は餅。これは搗きたての餅二合二酌分を二枚になるように切ってすぐ凍らせたものを持つ。コッヘルに固形醤油で味付けした湯を作り、凍ったホーレン草を折って入れてから、一人分、二枚の餅を入れ、湧き上がったら火を止めて直ぐに食べる。湯気がこもると、布製のテントは凍結して撤収が大変になる。食後凍ったミカン一個を皮のまま齧ればビタミンもOK。しかし、燃料はガソリン、テントは沢用も尾根用も帆布製のために荷は相当の大きさになる。黙々とラッセルしていると遠くでアマッポーの音が響いた。昨日歩き始めたとき、炭窯の番人が言っていた仕掛銃である。獣道に張った細い糸の先を猟銃の引き金に結んでおいて、獣が来るのを待つ、あれである。当時はもう禁止になっていたようだが、そんなことおかまいなしに昨日注意してくれたのだった。
「気を付けて歩きな、もし、テンがかかってたら持ってっていいよ。札幌へ行けば8,000円になるよといっていた」
今にすれば二、三十万円である。おおらかなものだなあと思っていると後ろからアイヌの人が追いついて来て
「何処へいくのか」という
リーダーが
「野塚岳に登るんです」と答えると
「それからどうする」と重ねて聞くので
「札幌へ帰る」と答えると、そのアイヌの人は、訝しげな形相で
「シュンベツ川はいいが、サル川は未だ凍ってないなー」
といって、手に船の櫂のような物を一本もち、腰には弁当箱の包みを一つ付けただけで先へ消えていった。
我々は無言でスキーを前へ進めていたが、暫くして突然リーダーのSさんが言った。
「あー、あのアイヌの人は、我々は歩いて札幌まで行くと思ったんだ。それで沙流川の徒渉を心配してたんだ」と
登頂は成功で、五日後には楽古川を下って野塚に戻り車中の人となった。
登山というのを知らない現地の人なら、こんな大きな荷を背負っていれば、山伝いに歩いて札幌迄行くに決まってると思ったのも当然だったろう。
なお、同輩のK.H.君はこの冬山の後、だんだんカスんでいって現在の名簿には残念ながらその名はない。
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平成18年4月22日
参加者:坂野、石村夫妻、黒川、石本、木村
東京支部岳友:井上、新人
コース
JR青梅線、奥多摩駅からバスで丹波又は小菅方面行きバスにて女の湯(めのゆ)にて下車。隋道の出口がバス停で、この右脇が登山口である。奥多摩湖の湖面を見下ろしながら数分歩くと右手に上がる明瞭な道がある。かなり急な尾根であるがジグザグ道で、所々にやや平らな所もあり一本道で頂上に着く。頂上は広いが木が大きくなっていて三頭山方面が辛うじて見える程度のもの。
下りは東に進み南東に向う一本道で熱海、倉戸口バス停へ向かう。結構急な下りだが、なんの問題もない。
その日のこと
平成18年4月22日、坂野、石村夫妻、黒川、石本、小生。会友の井上さんはスキーでの友人という新人女性を同道。この新人の名は参加が定着したら公開しょう。要するに八人で歩きはじめたのだが早々に出た話は石村君が関西支部の吉田、伏見君等と行って来た白馬・乗鞍の話。何はともあれ雪山の話に沸く。八木橋君が現れないのは、最近彼は越後の守門岳に行っているそうだということだった。余り行かない山なのでこの次に出る話が楽しみである。また、菊池徹先輩逝去について、偲ぶ話もしきり。
道は単純なので昔話のぶりかえしなどにも興じたが、今日は新しくNo.1も出た。
所要時間 4時間 正味歩行時間 2時間45分
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