2003年8月3〜12日(8−2)
2003夏メイン カムイェク〜エサオマン〜額平川
台風10号豪雨被害緊急報告
L馬詰4)AL三木4)M市川2)斉藤 柴谷 金子1)
ルート・時間
8月3日 雨
林道上七の沢手前(12:10)八の沢出合い(14:10)
雨は降っていたが、増水はそれほどしていないので入山する。渡渉数回、問題ない。八ノ沢出合いでテントを張る。おいてあったシートでタープを作って焚き火をする。夕方から大雨となり増水する。夜、登山者が10人ほど下りてきてタープでビバークした。
4日 晴れ
8の沢出合い(5:45)8の沢カール(8:30〜9:00)カムイェクピーク(10:10〜10:30)カール(11:20〜11:40)8の沢出合い(13:55〜14:20)9の沢出合い(15:35)
一晩ですっかり減水したのでアタックする。カールまでは踏み後を使っていける。Co1100〜1300の滝は左岸の巻き道をたどっていく。カールからは空身でアタック。カールから先はしっかりした踏み後がある。出合いに戻り、9の沢出合いに移動しC2。良い天場。
5日 晴れ時々雨
9の沢出合い(5:40)10の沢出合い(7:00)稜線上(11:00)1869JP(14:00)北東カール(16:30)
10の沢出会いまで川原を歩き、10,5の沢に入る。上部に小滝があるが問題ない。稜線までは薮漕ぎを40分する。稜線上の踏み後を行く頃から時々雨が降る。1896東のルンゼの踏み跡を下りる。かなりガレて急斜面。下部に雪渓が残っていたのでロープを出して通過する。雪渓の対処に手間取った。
6日 北東カール(6:00)1869JP(8:00)エサオマンピーク(9:00)北カール(10:00)
昨日の雪渓はロープをfixしておいたのでプルージックで登る。踏み跡を行き、北カールに下りたところで気持ちよすぎてテントを張る。午後、台風が直撃コースに入ることを知る。
7日 快晴
北カール(4:40)新冠二股(7:40〜7:55)七つ沼カール(12:10〜13:10)ポロシリアタック(16:05)
翌日から天気が下り坂なので、七つ沼カールに移動するつもりで歩き出す。エサオマン入りの沢を下ってCo1100、15mの滝は左岸を懸垂。その先何箇所かはへつりながら行く。途中でMの持っていた熊スプレーが誤射。黄色い煙が出て、オレンジみたいな匂いがした。あんなんで熊が逃げるのかなと思ったがMは尻が熱いと苦しんでいた。新冠川本流はCo900からCo1150まで巨岩帯が続く。Co1050、Co1150に滝があるが、いづれも左岸を巻ける。七つ沼カール手前の沢はガレている。所々小滝があるが問題ない。七つ沼カールで時間があったので、希望するMとALの4人で幌尻アタックする。
8日 大雨 停滞
朝から前線の雨が降り始める。かなり激しい。風も強いので、薮の間に天場を移動する。前線の通過は遅く、台風に刺激され大雨が一日中降り続く。
9日 大雨
七つ沼カール(4:00)ポロシリピーク(5:30)ポロシリ山荘(7:30)
低気圧の通過と、台風接近の合間を突いて早朝から山荘に避難する。稜線上までは天気は穏やかだった。山荘で雨をしのぐ。ツアー客が大勢閉じ込められていた。夕方から沢が濁り、岩が流れてきた。翌朝までに台風は通過する。
10日 曇り 停滞
一日沢の水が引くのを待つ。下の街が大きな被害を受けている事を知る。山荘の管理人から全員で下りないかと提案されるがその夜、翌日に我々は下山する旨を山荘にいる全員に伝え、納得してもらう。
11日 小雨
山荘(4:30)取水口(9:00〜9:15)パンケメシュンナイ沢手前(17:00)
額平川の登山道は半分以上流失していた。支流からの流れ込みが激しく、下部で一度ロープを出す。通常のルートは全くないので、二度高巻く。取水口で山荘に現在位置と登山道の状況を報告する。林道はすぐ下の橋が落ちていたが、斜めにかかっていたのでその上を渡る。支沢が流れ込む部分は、ほぼ全て水流に削られて崩壊しており、その他に土砂崩れが多数。林道がない部分もあったので、一度高巻く。また、支沢の通過に一度懸垂する。全体で50ヶ所以上の崩壊場所があった。パンケメシュンナイ沢にかかる橋の手前で、林道がきれいに無くなっているので。ルートを翌日考えることにしてテントを張る。
12日 曇り
天場(6:00)豊糠の舗装路(8:10)
起きてすぐに渡渉ルートを見つけたので、用意して出発。わずかな時間で中州の形が変わっていた。あとは崩壊した林道を歩き、豊糠の舗装路に出るところで復旧作業中のおじさんに出合い、車でフレナイまで送ってもらう。
パーティー
全体 最後まで全員が集中を保てた。社会的状況への対応に戸惑った。
Ls 出来る限りのことをした。ツアーと一緒の小屋に泊まった事で自分たちの山行がしづらくなった。
M2 口出しできた。よくやった。落石を起こさないようにする。
M1 金子)ネーベンを全部食ってしまった。勝手に行動することがある。
柴谷)いつもにこにこ。
斉藤)口出しできる。
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2003夏メイン カムイェク〜エサオマン〜額平川
台風10号豪雨被害緊急報告
2003年8月3〜12日(8−2)
L馬詰4)AL三木4)M市川2)斉藤 柴谷 金子1)
ルート・時間
8月3日 雨
林道上七の沢手前(12:10)八の沢出合い(14:10)
雨は降っていたが、増水はそれほどしていないので入山する。渡渉数回、問題ない。八ノ沢出合いでテントを張る。おいてあったシートでタープを作って焚き火をする。夕方から大雨となり増水する。夜、登山者が10人ほど下りてきてタープでビバークした。
4日 晴れ
8の沢出合い(5:45)8の沢カール(8:30〜9:00)カムイェクピーク(10:10〜10:30)カール(11:20〜11:40)8の沢出合い(13:55〜14:20)9の沢出合い(15:35)
一晩ですっかり減水したのでアタックする。カールまでは踏み後を使っていける。Co1100〜1300の滝は左岸の巻き道をたどっていく。カールからは空身でアタック。カールから先はしっかりした踏み後がある。出合いに戻り、9の沢出合いに移動しC2。良い天場。
5日 晴れ時々雨
9の沢出合い(5:40)10の沢出合い(7:00)稜線上(11:00)1869JP(14:00)北東カール(16:30)
10の沢出会いまで川原を歩き、10,5の沢に入る。上部に小滝があるが問題ない。稜線までは薮漕ぎを40分する。稜線上の踏み後を行く頃から時々雨が降る。1896東のルンゼの踏み跡を下りる。かなりガレて急斜面。下部に雪渓が残っていたのでロープを出して通過する。雪渓の対処に手間取った。
6日 北東カール(6:00)1869JP(8:00)エサオマンピーク(9:00)北カール(10:00)
昨日の雪渓はロープをfixしておいたのでプルージックで登る。踏み跡を行き、北カールに下りたところで気持ちよすぎてテントを張る。午後、台風が直撃コースに入ることを知る。
7日 快晴
北カール(4:40)新冠二股(7:40〜7:55)七つ沼カール(12:10〜13:10)ポロシリアタック(16:05)
翌日から天気が下り坂なので、七つ沼カールに移動するつもりで歩き出す。エサオマン入りの沢を下ってCo1100、15mの滝は左岸を懸垂。その先何箇所かはへつりながら行く。途中でMの持っていた熊スプレーが誤射。黄色い煙が出て、オレンジみたいな匂いがした。あんなんで熊が逃げるのかなと思ったがMは尻が熱いと苦しんでいた。新冠川本流はCo900からCo1150まで巨岩帯が続く。Co1050、Co1150に滝があるが、いづれも左岸を巻ける。七つ沼カール手前の沢はガレている。所々小滝があるが問題ない。七つ沼カールで時間があったので、希望するMとALの4人で幌尻アタックする。
8日 大雨 停滞
朝から前線の雨が降り始める。かなり激しい。風も強いので、薮の間に天場を移動する。前線の通過は遅く、台風に刺激され大雨が一日中降り続く。
9日 大雨
七つ沼カール(4:00)ポロシリピーク(5:30)ポロシリ山荘(7:30)
低気圧の通過と、台風接近の合間を突いて早朝から山荘に避難する。稜線上までは天気は穏やかだった。山荘で雨をしのぐ。ツアー客が大勢閉じ込められていた。夕方から沢が濁り、岩が流れてきた。翌朝までに台風は通過する。
10日 曇り 停滞
一日沢の水が引くのを待つ。下の街が大きな被害を受けている事を知る。山荘の管理人から全員で下りないかと提案されるがその夜、翌日に我々は下山する旨を山荘にいる全員に伝え、納得してもらう。
11日 小雨
山荘(4:30)取水口(9:00〜9:15)パンケメシュンナイ沢手前(17:00)
額平川の登山道は半分以上流失していた。支流からの流れ込みが激しく、下部で一度ロープを出す。通常のルートは全くないので、二度高巻く。取水口で山荘に現在位置と登山道の状況を報告する。林道はすぐ下の橋が落ちていたが、斜めにかかっていたのでその上を渡る。支沢が流れ込む部分は、ほぼ全て水流に削られて崩壊しており、その他に土砂崩れが多数。林道がない部分もあったので、一度高巻く。また、支沢の通過に一度懸垂する。全体で50ヶ所以上の崩壊場所があった。パンケメシュンナイ沢にかかる橋の手前で、林道がきれいに無くなっているので。ルートを翌日考えることにしてテントを張る。
12日 曇り
天場(6:00)豊糠の舗装路(8:10)
起きてすぐに渡渉ルートを見つけたので、用意して出発。わずかな時間で中州の形が変わっていた。あとは崩壊した林道を歩き、豊糠の舗装路に出るところで復旧作業中のおじさんに出合い、車でフレナイまで送ってもらう。
パーティー
全体 最後まで全員が集中を保てた。社会的状況への対応に戸惑った。
Ls 出来る限りのことをした。ツアーと一緒の小屋に泊まった事で自分たちの山行がしづらくなった。
M2 口出しできた。よくやった。落石を起こさないようにする。
M1 金子)ネーベンを全部食ってしまった。勝手に行動することがある。
柴谷)いつもにこにこ。
斉藤)口出しできる。
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ヘルベチア祭&ヘルベチア月見
2001年10月27-28日
ヘルベチアの外壁は,まさ,とよばれる鱗状の木の板で覆われていて,これが小屋本体の丸太を風雪から守る役割をはたしています.このまさのおかげで丸太は腐食したり傷ついたりすることなく保たれ,またヘルベチア独特の美しい外観を保ってきました.
2001.5.12撮影 クレオソートで塗られてしまった外壁のまさ
現在の外壁を覆っているまさは,昭和60年に行われた大改修の際に新しく貼り替えられた物です(このときに丸太の外側に板が外壁として張られたので,まさは丸太を保護する本来の意味を失いましたが,まさが醸し出すヘルベチア独特の外観を維持するためと丸太の外側の板を保護するために改修前と同様にまさが貼りつけられました).また,真新しいまさは色合いが明るいので,古い小屋の風味を損なってしまうため,やや暗めの色合いにするために褐色半透明の塗料が塗布されました.今までまさの色が褐色だったのは,けっして防腐剤が塗られていたからではないのです.
ところが,こうした知識がちゃんと現役に伝えられていなかったためか,まさの上に防腐剤を塗布してしまう,という事態が起きてしまいました.屋外で風雪にさらされる木材を腐食から防ぐために,鉄道のまくら木や空沼小屋の木材のように防腐剤がぬられている例はありますが,ヘルベチアのまさには本来はその必要はありません(テラスや露出部の丸太は別).古い小屋の風味を出すためにわざわざ褐色に塗布されていたものを防腐剤のことと勘違いしたのでしょうか?しかも,全体に塗布するならまだしも,下半分だけ,という中途半端なままで放置されたのです.
昨年秋には,こうして醜い姿となったヘルベチアを元にもどすべく,防腐剤を塗った部分にまさを上から新しく貼り付ける作業が行われたのですが,これもまさの不足ですべてを覆うには至らず,結果として,防腐剤が塗布された部分,真新しいまさを上貼りした部分,そして本来の褐色塗料が塗られているまさの部分,という三色まだら模様になって,さらに醜さを増す結果となってしまったのです(山の会会報の写真参照).
GWには,山の会会長らの手によって,昨秋に上貼りされたまさをはがすことと,防腐剤を灯油で洗い落とす作業が行われ,7月上旬には業者によって本格的な修復作業が行われ,現在では左の写真にあるような姿まで回復いたしました.今後も小屋を現地で末長く維持していくため,みなさまのご協力とご援助をお願いいたします.
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空沼小屋 2001.5.13撮影
小屋開きに来た現役によって,防腐剤が塗られていた.まだ乾いていなかったので,外壁に触ると手が真っ黒になった.
やはりあの森の中のロケーションにあって、ヘルベチアの存在感があるのだということを再確認することができました。
すてきなピクニックでした。小屋の外装もきれいになってこれからみんなも泊まりに来てくれることでしょう。
2001.8.26. 高篠 和憲 会員
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AACH-MLで吉田さんが紹介されていた本,丁度私も読んでいたところでした.ちょっと私も一言書きたい気分になったので,がらにもなく書評というか感想を記したいと思います.(澤柿)
大学に入って本格的に山登りを始めるようになった十代後半から二十代前半にかけて,山岳書をむさぼり読んだ時期がありました.それらは,自分が育ち,歩き,そしてこれから目指そうとして夢見る山々で繰り広げられてきた登山界の栄光と悲劇の記録です.ことに,槙 有恒のアルプス登攀,板倉勝宜の遭難,AACKの創立とヒマラヤへの夢,加藤文太郎の単独行,冠 松次郎の黒部川溯行記録など,日本のアルピニズムの草創期のヒーローとも言うべき人々の著書や記録に夢中になったものです.
あれから10年以上がたちましたが,つい最近,山渓から出版された「芦峅寺ものがたり」(鷹沢のり子 著)を読み,久しぶりに良書に巡り会ったという気分になりました.実は,本書の中に記されているエピソードは,学生のころにむさぼり読んだ多くの山岳書にすでに記されてきたものであり,単純に読み流してしまえば,ああこの話なら知っている,と思ってしまうようなものも多く含まれています.たとえよく知っている話が多くても,私が生まれ育った富山の故郷の先人たちの記録がつづられていることでもあり,私にとっては思い入れのしやすい本ではあることは確かです.しかし,私が格別の感想を抱いたのはそれだけではありません.
それは,本書が,芦峅寺の立山ガイドたちの記録を掘り起こすことで,すでに多くの山岳書で語り尽くされた物語の別の側面をみごとに語り出しているからです.今この本を読んで,英雄伝とも称される数々の登山の影で,地味にも頼もしい存在として立山登山を支えてきた芦峅寺のガイドの物語に触れ,新たな感動を覚えると共に,学生時代に感化された物語をもう一度別の面から楽しむことができました.
逆に,面白く刺激的な登山をしてみたいものだと志をいだいていた血気盛んなころは,故郷の立山や北海道を舞台に繰り広げられたヒーロー達の物語に士気をかきたてられましたが,それはある種のヒーローへの憧れでもあり,ガイドの雇い主であるいわば主人公としての視点で,あるいは主人公に自分を投影して読んでいたことになるんだなあ,と思い返すことにもなりました.この,主人公への共感から脇役への共感という,私の読み手としての感想のコントラストは,田舎から北大に来て登山に意気込んでいた若気の気持ちと,職に就き妻子を持つようになって故郷を思い返す今の気持ちとのコントラストにも相応するように思えてきます.
最近の現役は,古い話にあまり興味をもたないようだという話をよく聞きますが,学生のうちにまずオーソドックスな英雄伝や定番と呼ばれる古典を読んでおくといいと思います.そのうち,もう一度別の意味で物語を楽しませてくれる機会に巡り会うかもしれませんから.本書は逆に,そういうプロセスを経てから読んだほうがずっと楽しめる本だと思います.事実の物語には,ひととおりの語り口では著せないほどの多くの側面があるということなのでしょう.
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