
コンピュータを駆使して出された快晴の予報が合えなく外れ、雨の一粒でも降らなきゃメッケものといった様子のどんよりとした曇り空。ただほとんど風もなく比較的暖かい一日で、琵琶湖畔は打ち寄せる波もしんなりと、全天が穏やかに暮なずみ、月なし、オリオン座流星群なしも気にならない。
今回は常連の皆様の多くが時を同じくして別予定があったようで、総勢は5名。湖の大きさからするとやや小じんまりです。でもまあ2−3回噛んだだけで喉もとを通り過ぎる焼肉と、普段みたこともないような上品な酒をお供に、清談は尽きず放歌は延々。赤松の大ぶりの切り株を継ぎ足し続け盛大な焚き火を囲んで6時間のマラソンバーベキューになりました。勿論前支部長の原さんのご冥福を祈り、新支部長の内藤さんには任期をまっとう(?)していただくようお願いしたのはいうまでもありません。

翌朝はうす曇りの下、3名が勇躍1214Mの武奈岳を目指し、峠を3つ越え、沢を5−6本繋いで7時間の紅葉狩り登山を楽しみましたとさ。
では、また新年宴会でお会いしましょう。(岸本)
参加者(敬称略):相田(58)、田中英(59)、内藤(59)、名越(63)、岸本(65)
登山は相田、内藤、岸本
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浜名純会員が毎日新聞2009-6-24の朝刊に,原真氏の追悼記事を寄稿していますので,紹介します.
米山会員による追悼記事は
こちらにあります.
今日訃報を聞いた、全然想像していなかった、原さんの死。事故でもなく、病気というのでもないが死とはかくも突然やってくるものか。原さんと過ごした数々の楽しい時間を思い出している。
僕が現役学生だった1985年頃、原さんの本を読んで大きく影響を受けた。原さんは学生時代に弟を鹿島槍北壁で失い、その後もヒマラヤで、何人もの死を見つめ、生と死に関する、優れた言葉を多く残していた。
「山の中の死ーすぐれた登山家の死ーは、ときに人生の完成を意味する。それは幻滅からの解放であり、自己欺瞞の克服である。美しい余韻を持つ、完璧な姿だ。
なぜ山へ登るのか。答えは簡単だ。山には死があり、したがって生があるからだ。下界には多くの場合それがない。」(北壁に死す・あとがきより)
「人間は必ず死ぬ。人間にとって確実に達成できる唯一の目的、それが死である。死なくして人間の生はない。このあたりまえの理屈を、山は彼の死という手痛い鞭をもって私に教えたのだ。私の登山はここから始まる。それは同時に、私の人生の出発点であった。
かつての私は、登山を、自分の人生の中の、いくつかの小部分の一つにすぎない、と考えていた。その後の私は、どんなささいな日常の行動においても、登山の影響を受けている。かならずしも、登山が好きでたまらないということでもないが、登山を考える時、もっとも自分を考え、登山を行う時、もっとも自分が生きているという事なのだ。
登山を通して、私は自分を知ろうとすると同時に、他人をも知ろうとする。登山をすることによって、私は自然への興味だけでなく、人間への興味を深める。登山という行為に含まれる、いくつかの典型的な現象が、人生全般に対する物差となる気がする。」(乾いた山(1977山と渓谷社より)
原さんの文章には歯に衣着せぬ表現が多かった。簡潔で明快、大人の事情を配慮していない潔さが僕を惹きつけた。とにかく文章がおもしろい。ぐいぐい引き込まれるのである。後に親しく会うようになって解ったが、それは彼の類い希な読書量の多さに基づくものだった。いつ訪ねても本を読んで、山積みになっていた。「ヒマラヤ研究(1983山と渓谷社)」後書きの、登山家達によるお勧め図書書評欄があり、僕は原さんの勧めていたマンメリーの「アルプス・コーカサス登攀記」はじめノイス、ロングスタッフ、テレイ、エルゾークなど何度も読んでいた。90年代には岳人誌で書評を連載していた。毎回楽しみにしていたのだが、原さんは出版社が困るような事(スポンサーの批判)も正直に書くので恐らくそのため長く続かなかったのだろうと推察する。彼の持論は月刊アナヴァンで読むことができた。学生時代に送ってもらった高山研究所の季刊誌は21世紀、原さんの月刊オピニオン誌になっていた。アナヴァンは、「前へ」。探検家ティルマンが80才で南氷洋で行方不明になった最期のヨットの名前だ。月刊で原さんの時評、書評、映画評、山行記録などが読める、購読料年に1000円の会報だ。
「既得権益の山小屋は全て廃止せよ」「日本山岳会は解散して、登山者全員の利益を代表する団体を作り直せ」「軍隊を持つなら国民皆兵にして軍の暴走を押さえよ」「天皇家は引退して伊勢神宮の神官になれ」「日本は国民投票で選ぶ大統領制を導入せよ」「日本は移民を受け入れて多民族国家となれ」どれも普通の日本人は発言しない言葉だが、自分が日本人であることを忘れて、もし外人の目線で見たらと考えると、どれも筋が通ってまともな意見だ。正論に聞こえる。原さんとは、そういう、外からの視点を持った国際人だったのだ。たいていの日本人には共感されないかもしれない。これらの発言はどれも実体験で得たものに基づいていて、ただ公言するばかりでなく、「皆兵」「多民族」論については個人的に実行しているのである。そんな原さんがあるとき、何かの話の最後に「ストレス尽くめの人生だったよ」と言ったのを聞いて、僕はとってもウケてしまった。だって、この強気で四面敵だらけの人生を自ら歩んできた原さんがそんなことをいうなんて。
僕が名古屋に住んでいた1999年から2004年まで、原さんの家をよく訪ねた。エリザベスさんの料理を一緒にごちそうになったり、そこで会う様々な人達も面白かった。エリザベスさん、末娘の円さんと共に大晦日の名古屋城公園に夜の散歩にでかけたのも忘れられない。僕が合気道の稽古で靱帯をケガしたときは診てもらった。原さんは空手や日本拳法の達人で、屋上にトレーニングルームを作っていた。武術論でも話があった。エリザベスさんとの毎日の言い争いも楽しかった。「日本の男は家事を何もやらない!」と結婚して30年近くにもなるエリザベスさんが多分いつものようにこぼせば、「リーダーに必要な資質は、何でもかんでも自分でやらないことだ。」と、偉そうにとぼける。だけど「エリザベスは本当に料理がうまいんだよ」と何度も聞いた。
僕がお付き合いしていた頃には、もう高所登山の最前線からは身を引いていた。けれど、原さん主催の高山研究所には1980年代、若い時代の長尾(山野井)妙子、小西浩文、遠藤由加らが出入りした。極地法や物量に頼らない、体を高所の為に鍛え抜いて高峰に望むという作戦を日本で始めた第一人者だった。自らの原病院経営の傍ら、JAC東海支部を率いてマカルー南東稜初登(1970)の遠征も成功させたリーダーシップの持ち主だった。この年は本家のJACが南西壁を登るといいながらノーマルルート止まりだったエベレスト遠征の年。外貨も、ネパール登山枠も、「政治家」だらけの本家と全面バトルして、その上未踏ルートからの8000峰を成功させるという実のあるクライミングをした手腕は今では想像できないくらいの快挙だと思う。
2006年夏、原さんにモンブラン登山に誘われたので、ご一緒させてもらった。僕の家族には山麓でエリザベスさんたちと観光してもらって僕は登るという段取りのうまい夏休み。いざジュネーブで会うと、原さんは風邪をひいていて、登山は欠席。それでもエリザベスさんが手配してくれたガイドと共に、僕は何人かでモンブランのノーマルルートを登ってきた。このときは久しぶりに御一家の皆さんと車でジュネーブ、シャモニーを移動、ジュネーブに住む娘さんの恵さんのところでやっかいになったりと、楽しい時を過ごした。僕の妻も娘も、比較的こわもてなのに原さんにはとても親しみを持っていた。その後は、キャンピングカーでの旅行先に、僕のいた函館を候補にしてくれていたのだが、何かの都合で延期になったままだった。函館山を案内して、100年前の海峡要塞の遺跡廃墟群を案内したいと思っていたのだが。
山のこと、歴史のこと、国家観のこと、家族のこと、全てにわたり大きな影響を受けました。原さん、これまでどうもありがとう。
2009.3.21.
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1月31日久し振りに中京名古屋で、関西支部新年会を開く(岸本記)
場所は名古屋駅の桜通口側の駅前。少し早めに着いた私は市内の繁華街をぶらぶらしたが、年明け1ヶ月にもなると華やかさはない、とはいえ自動車産業を直撃している不況の影も見当たらない。会場に向かう途中、内藤さんからは熱が出たと、田中(英)さんからは福井を出たが、列車が強風のため今庄から進めない、と相次いで欠席の連絡。
今回は長老の和田さんに乾杯の口火を切っていただく。その和田さんは蒸留酒を生でいくのが流儀、今は中国の水井坊がお好みとか。向かいに座った原さんは、相変わらず抹殺論を展開、ヤル時はギロチンがいいのだそうだ。今回参加者の中で一番若い松原君はそんな二人に囲まれて内心はどうであれ、先輩の話を拝聴する姿勢はディリジェントにして積極的。ここ数ヶ月名越さんは酒量がいつもの千分の一になった。調子がいいのだそうだ。何せ酒にまつわる話が一杯有るお方故、今更減った、止めたと言われても誰も気に留めない。
ネパールのナキウサギの遊び場とおしっこについて誰かが喋れば、「伏見(ネパール在住)と連絡が取れて、俺は今年ネパールに行く」と別の誰かが宣言。後はだれが何を喋ったのか、記憶もうつろになる・・・・・とその前に、今回の参加者(敬称略):和田、原、吉田、窪田、神戸、高橋(昭)、渡辺(尚)、川道、名越、石松、松原、岸本(計12名)
追記:本当にうつろになっていたようで、いつもの集合写真を撮るのをすっかり忘れていました。
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八甲田山麓にてイグルー稽古会を催しました。やる気満々の参加者数名は前日入りして、独自イグルーを作って迎え撃つなど、向学心満々。お伝えする僕も感激しました。
これまで山中イグルー泊50泊(たぶんもっと)の米山が実用お手抜きイグルーの技術をみんなにご披露した。面々は、山岳同人たがじょの皆さん。青森で米山がお世話になっている青森県で最強勢力の山岳愛好家集団です。技術は真綿が酒を吸うように、伝授されました。
これまで何度かイグルーの製作法をあちこちに書いた
http://www.tokyo-np.co.jp/gakujin/gak2003121501.htmlが、読んだだけでやみつきになった人はあまりいない。イグルーを実践している人は、実地で作るのを見た人ばかり。やはり文面だけではわかりにくいようだ。特に三段目で内傾ぐぐぐっとさせるテクニックなどが。今後はもっとわかりやすい文章と図解で普及をはかりたい。
本日は前夜から泊まった人たち含め25人。昼過ぎまで合計25基のイグルーを構築した。一人で三つ作る人、あまり作らず飲酒でゴキゲンの人もあり。講習前と後の違いは所要時間。実用イグルーは一時間弱で作らなければならない。今日の雪質はくっつきやすく、大抵四〇分で二,三人用が仕上がった。

オサナイさんの作ったイグルーはこれまでに見たこともないほど美しいフォルムをしていた。僕が手抜きする三段目以上も緻密に作ったので、まるで札幌ドームのように美しい。こういうところには性格がテキメンに出る。オクヤさんは、単独で一人用イグルーを作る稽古に没頭し、三つも四つも一人で作っていた。これは命を救う緊急用だ。一人でもスコップとノコさえあれば疲労凍死する事は無い。僕の一人用シェルターイグルーは二〇分でできた。一度やってみせると勘のいいひとはすぐに身につける。
終えたら樹林帯の中はイグルー村と化していた。まるで世界遺産のイタリアの【
ここ】。
これでもうたがじょは冬テント要らず。

家に帰って、まだ日があったので、待っていたこども(四歳児)用に、自宅庭でもう一つ作った。これも二〇分。なかでお茶ケーキをいただいてままごとしてあそんだ。青森は八甲田が近くて本当に良い。

家
よろこぶ子供
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直行夫人つるさんから寄贈の絵画5点が山岳館へ届けられました。夫人から熊野純男会員に託されていたもので、油彩3点、水彩1点、コンテ1点です。これらは山岳館に掲示します。直行さんの絵は山岳館には既に3点ありますが、これらを含めて館内に直行コーナーを設けて展示の予定です。

熊野ボンちゃんと晩秋の南日高(山岳館図書室にて)、油彩(31x41)、前景が未完成の習作で署名がない

題名「原野の立ち枯れ」1931年作、このコンテは戦後油絵となった同名の原画

水彩、裏書にポロシリ七つ沼カールにて、坂本直行、1959の署名

油絵31x41、初夏の南日高(楽古岳)、前景が未完成の習作で署名がない。

油絵33x45、大雪山、前景が未完成の習作で直行さんの署名がない。
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久しぶりに札幌を訪問しました(12/3)。澤柿さん(1985)を北大に表敬訪問したところ、最近南極に関する著書を出したそうです。また、「つる」にて、同世代で久しぶりの再会を楽しむとともに、20近くも先輩のヒヤヤッコさんや、現役部員全員や若手OBとも合流し、楽しく世代を超えて交流を図りました。(報告:山森聡、1986入部)

北大地球環境科学研究院の澤柿さん(1985)を表敬訪問した。澤柿さんは、このホームページやAACHメーリングリストの運営管理をボランティアで行っており、AACHの発展に多大な貢献をしていただいていることに感謝したい。澤柿さんの隣の部屋は、石川ヤンケ(1987)の部屋だが、残念ながらシベリア・ヤクーツクに凍土の研究で出張中だった。

澤柿さんは1993年(第34次)、2006年(第47次)の2回、南極越冬隊に参加しており、このたび、「なぞの宝庫・南極大陸 100万年前の地球を読む」を共著で出版されました。
購入はこちらからどうぞ。 
「つる」のマスター大内さん(HUWVの大先輩)も元気でした。
「つる」のホームページはこちら。 
左から、斎藤(1987),柳澤Dick(1986),大内さん(HUWV),山森(1986),冷奴さん(1969)。
冷奴さんとは、偶然、会うことができました。
柳澤Dickは、1999年に南極(第41次)の観測隊に参加しており、その時を含め7年間、冷奴さんの会社に所属していました。久しぶりの上司と部下の再会だったようです。

斎藤(1987)が最近現役を連れて山に行っている縁で、例会終了後に、若手(2003入部、6年目)の勝亦君と、4年目以下の現役全員(6名)も駆けつけてくれました。
写真左から、斎藤(1987),野沢(2),井村(1),勝亦(6),鹿島(1),田中バイエルン(3),田中省(2),小池ダイゴロー(2)。
前列は、柳澤Dick(1986)、大内さん(HUWV)、山森(1986)。
冷奴さんは残念ながら、現役勢と合流する前に帰宅されました。

先程の写真は、野沢君(2)の顔が半分切れているので、もう一枚アップ。こちらの写真は、井村君(1)の顔が切れかかっている。この写真に写っているのが、4年目以下の現役部員全員だそうです。
(計6名、4年目0名、3年目1名、2年目3名、1年目2名。)
6名とも、私(山森:1986入部)が現役時代にオギャーと生まれた人達でした。世代を超えて、交流を図ることができました。
それでは、冬山、春山と続きますが、みなさん安全に山行を楽しんで下さい。
私の方も、東京組で、恒例のスキー山行を地道に継続していきます。
記録は
http://homepage2.nifty.com/yamamori/ を参照下さい。
(報告:山森聡)
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2008年11月15−16日、岐阜高山市にて開催。私は15日朝から焼岳に登る段取りで14日の晩に高山に入った。大阪のかったるい冬の空気と違い、高山の夜は澄んでいた。見上げる月は真ん丸で、暦を無視して何度か「月見の会」をやっていると、たまにはお題目の通りになるものだと妙に感心。
宿の国民宿舎「飛騨」には、時間通りに皆様到着。数日前まで参加予定だった内藤さんと松原君が共に体が空かず不参加となり、総勢は9名。
風呂上りの浴衣姿で須田さんち畑で取れた特選みかんを頬張りながら大相撲をテレビ観戦する様は、まるでどっかのじいさまみたいじゃないの、名越さん。そういえば原夫人は別にして、お集まりの面々は私も含め、70代から60代。どっかではなく単なるジイサマ連中です。でも田中(英)さんから、トイレが2つも付いたクルーザーでの話を聞いていると何だか不良ジイサマの感じもする。あるいは昨夜満月の下で、不登校気味の孫娘と手をつないで夜道を歩いたという渡辺(尚)さんの話は普通のおじいちゃん。
宴会もそこそこに、大部屋に戻り部屋を暗くして、この夏にアンデス38日の旅に出た高橋(昭)さんのDVD映像や吉田勝さんのネパールヒマラヤのパワーポイント資料などを、原さんの昔訪れた話を織り交ぜながら鑑賞。夜は更けて団欒は続く。
翌朝は雨で明ける。期待していたがこの小高い位置の宿から北アルプスの姿は煙って見えない。朝食を終え、少し小降りになるのを待つでもなく、別れを惜しむでもなく、三々五々に帰路につく。今度は新年宴会でまたお会いしましょう。
参加:原夫妻、吉田(勝)、高橋(昭)、田中(英)、渡辺(尚)、須田、名越、岸本
(記:岸本)
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2年前の6月に札幌から歩き始めて琉球の大東島までいき、今年の春鹿児島から北上をはじめた石崎は先週水曜日、青森にきた。携帯電話の着信に「公衆電話」と出るのはまあ石崎くらいだ。公衆電話→携帯電話は料金が高い。すぐ10円玉が切れるので、会話は合言葉なみの短さだ。
うちでは4歳になったまきちゃんのおもりをしてもらい、yes!プリキュア5GoGo!には相当詳しくなった。食客として逗留。スープカレーを作ってもらう。体重が3キロ増えたところで旅立った。
次はいつやってくるのか時間感覚江戸時代男。
ヤマレコにnezzrow名でヤマレコならぬ「トホレコ」の記録アップを始めました。ヤマではないので標高グラフはまっ平らですが、歩いたトレースが赤くなって日本を巡るでしょう。更新は江戸時代スピードで随時。
http://www.yamareco.com/modules/yamareco/userinfo-2199-prof.html きょうは南部領に入り、陸奥湾を左手に下北半島のどこかで泊。
1月27日(日)JR京都駅前ホテルセントノーム京都にて参加者(敬称略)
駒田、原、(吉田勝)、神戸、高橋(昭)、田中(英)、内藤、渡辺(尚)、伏見、益田、川道、須田、名越、石松、岡島、岸本 計16名
午後6時に三々五々集合。どうも同じ階の手前の会場では女子大の同窓会が開かれるようで、ロビーにあふれたその人垣を縫ってやって来られる面々はいつになく笑顔。新年はやはり笑顔が無くてはネ。
駒田先輩の乾杯の発声ではじめます。
今年は鍋を囲んでの宴会で、ややみやびに欠けるきらいはありますが、この時期ですので熱燗とのバランスはいいようです。
一人三分間で一年の抱負なりのご披露をおねがいします。
年に2度5000M以上の山に登っていると一切病気はシナイ、今年も又2度ヒマラヤを目指すと言い切るお医者さん。ペルーアンデス登山を7月に敢行するという半ご隠居さん2人。
気が付いたらネパールヒマラヤのツアーコンダクターになっていた元学校の先生、同じく再就職のために毎日自転車走をこなし10キロ痩せた元学校の先生、同じくネパールの野原で新種の蜂を捕まえた元学校の先生。
NEETにしてメタボリックシンドロームまっただなかの元地質屋、ワーキングプアを自認する現地質屋。
多忙につきこの5年は登山もできない働き者の会社役員、同じくこの10数年毎年夏の日高で山登りをしている怠け者の会社役員。等等。
欠席された方からのお便りを吉田さんが読み上げ、近況を知ります。
出席の面々を見回すと現役の会社勤めは少数となり、話題も何となく「遊ぶこと」が中心です。本来ならば遊びというのは非生産的社会活動なのですが、喜々として話し合われるその内容は、あたかもデパートの刃物売場のセールストークの如く、何となく引き込まれてしまいます。
かくしてあっという間にお開きどきとなり、原支部長の締めの音頭の後、大声で山の四季を斉唱して今年もすっきり年が明けました。
(岸本 記)
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