第67回OneDay里山Hike 御林山、近辺(浅間尾根)の報告
平成19年12月22日
参加者:滝沢、大森、大井、坂本、石本とご子息1、石村夫人、佐藤、木村
浅間尾根にて一休み(石本会員撮影)
コース
武蔵五日市駅からバスにて鎌倉で降り、少し戻って橋を渡るとすぐ右手の石段から登り始める。藪に付けられた細道は、かなり急な登り。三十分も登ると登山道らしくなり、傾斜は強いが変化があって結構なものである。1時間半ほどで浅間尾根に出る。尾根道は往時は商業路だったというハイキングコースである。道は風張峠に向かうものでこの表示に従って数馬分岐を越え、一度舗道を渡ってから数馬峠を過ぎると次の分岐が仲ノ平への下り口である。右手、尾根伝いに五百メートル進めば御林山。数馬バス停に出るには前述の分岐から下ればよい。
その日のこと
十二月二十二日、定刻に集まったのは滝沢、大森、大井、坂本、石本とご子息1、石村夫人、佐藤、小生の九人。しかし、予定していた数馬行きのバスは無し。ダイヤが変更になっていたのだ。でも九人もいれば文殊の知恵が出ない筈はない。鎌倉行きで終点から一本杉へ登るルートに切り替えて浅間尾根に上がって目的の山に向かい、時間をみて途中からでも予定の仲ノ平(数馬)に下ることにした。
曇天ながら夕方まで雨は降らず、裸木の下、枯れ葉を踏みつつ急坂に喘ぎ、尾根に出ては水平の散歩を堪能。
「今秋は風が弱かったせいか落ち葉が厚い」
と誰かが言う。そう言えば今年は柚子の実が綺麗だった。葉に擦られる傷があまり付かなかったのだろう。風もなく御林山と数馬の分岐に着く。終バスまでには少々時間はあったが、今日は
冬至でもあるし、御林山へは「あらためて、此処からもう一局」として、数馬方面へ岩の露出する急坂を悠々と下る。
バス停は老舗「蛇の湯」のすぐ前。次のバスまでに湯に漬かって過ごす通人も数人。
裏ばなしは(28)へと進む。
所要時間 五時間四十分
正味歩行 三時間
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【年月日】2008年2月4日(1-0)
【メンバー】L田中宏(3 Al小池 田中省(2 M井村 鹿島(1
<時間とルート>苔の洞門入口6:30→樽前Co900台地9:40→東峰ピーク10:30〜40→ヒュッテ11:20→モラップ12:20 Co450付近でルンゼの左岸台地に乗る。移動高で天候が安定することが予想されたため、取り付きやすそうな廃道夏道が通る小尾根に取りつくことにする。Co740付近でEPシートラに。・994はねぐって・1028樽前東峰ピークまで。Co900台地〜ピークまでは時々気になる風。ピークからはヒュッテまで下る。シートラ解除はヒュッテ少し手前。ヒュッテでは親切なおじさんにコーヒーを頂く。感謝。その後林道下山。
<パーティー>春メイン1年班準山1回目。EPワーク確認、シートラ出来た。
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第66回OneDay里山Hike 臼杵山の報告
平成19年10月13日
参加者:滝沢、坂本、黒川、木村
臼杵山頂上にて昼食
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第65回OneDay里山Hike 高取山の報告
平成19年8月18日
参加者:坂野、石村夫妻、滝沢、大森、渡辺(ダン吉)、石本、大村、山崎、佐藤、木村
高取山頂上
コース
小田急線、伊勢原駅から栗原行きのバスにて比々多(ひびた)神社を過ぎ終点で下車。
舗装された道が聖峰まで続く。整備された少々急な一本道を行き五五六.三メートルの三角が高取山の頂上である。下り道は三本あるが、三〇〇メートルほど真北に進んでから東に折れて栗原に戻る道は快適である。
その日のこと
平成十九年八月十八日。
一昨日は多治見市と熊谷市で四〇.九度になり、七十四年ぶりに日本列島の最高気温が塗りかえられた。連日の猛暑だったがこの日はどうしたことか気温は十度近くも低かった。しかも総勢十一人。久々の大人数。だがバスはこれで貸切り状態。坂野、石村夫妻、滝沢、大森、渡辺(ダン吉)、石本、大村、山崎、佐藤に小生と錚々たる面々。話題も札幌の大先輩の消息、東京支部の日頃顔を合わせない人達の噂から、カイラス山へリベンジを企てる大森君、ZOOKINワインがかなりの量に達しサンプル持参の石村君の話など多岐に渡り、ここで述べきれるものではない。
ともあれ、思いのほか快適だったコースを満喫した次第。裏話は(25)へと進む。
所要時間 四時間二十分
正味歩行 三時間半
途中の聖峯から関東平野を見下ろす。雷雲は無事通過した模様
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松本の山スキー同人シーハイルのメンバーとして槍ヶ岳飛騨沢を滑降してきました。パーティ6名中3名が登頂。私は体力続かず残念ながら肩の小屋までとなりましたが、素晴らしい飛騨沢パウダーを満喫できました。
【年月日】2009年2月7日(土)(1-0)快晴〜夕方雪
【メンバ】堀米,内田,片岡,山崎,坂本(以上、シーハイル),清原(aach1986)
【行程】新穂高温泉(4:30)〜槍平小屋(8:30頃)〜飛騨乗越(11:45頃)〜肩の小屋(12:15頃)〜槍ヶ岳(13:15-30)〜肩の小屋(14:00頃)〜飛騨乗越(14:05-20)〜槍平小屋(15:00頃)〜新穂高温泉(17:30)
写真:滝谷出合
道南のグランドジョラス、雄鉾岳北東面に直上ラインを引くべくアタックをかけたが、天気周期に恵まれずドカ雪を見舞われて、取り付きまでを往復するに留まった。(写真・標高点652上のイグルーより)
【ルート】
1稜や4稜
【時 間】
2/7晴れのち雪 おぼこ荘(11:50)→銀山川一本下流の沢→右岸尾根に乗り、標高点652c1イグルー(15:00)完成は16:00
2/8 ガス吹雪のち曇りc1(7:50)→3稜基部引き返し(9:00)→c1(9:40-10:20)→おぼこ荘(12:50)
【メンバ】
米山(1984)、齋藤(1987)、勝亦(2003)、馬場(HUSV2001)
久恋の雄鉾東面で、冬の壁を目の当たりにしたが、今回は敗退。右から左へ1,2,3,4,5稜とあるが、山頂に上がるルートって事で北峰の1稜、南峰の4稜を2パーティーでという計画だった。おぼこ荘で出発しようとしたらアイゼンを忘れたメンバーがいて、八雲在住の山スキー部OB北川君に借りに行く。あいにく留守だったがアイゼンの置き場所くらいは見当がつくものよ。もつべき者は地元の山友だ。北川君ごっつぁんです。
取り付きへは、夏道コースのある銀山川の一本下流の沢を詰める。本流の渡渉はやや上流に昔ここを走っていた鉱山鉄道の鉄橋があり、それを使う。この一帯、集落あり、活動写真館ありの盛況だったそうな。沢の中は右へ左へとスノーブリッジを使ってクネクネ進む。快適じゃないけどよくある沢ルート。シール利かして小尾根を登り、標高点652に出た。強風吹雪にガス。
壁は見えない。ここでイグルーを建てる。雪たっぷりの雪庇脇に深い縦穴式で4人用のワイド版。午前は晴れていたがどんどん悪くなってきた。暴風雪でもイグルー内は静かだ。アルゼンチンの葡萄酒をあけて、インドネシアカレーのうまいやつを食べたら、いつの間にか眠ってしまった。そういえばゆうべの夜汽車では雪祭りツアー客と一緒になってやかましかったなあ。
翌朝はガス、吹雪でやる気が出なかったが、明るくなると雄鉾の壁が時折ぼんやり見えたりしたので、取り付きまでは行ってみようかという事になった。緩い斜面をトラバース気味に取り付きに向かうが、一晩で30センチは積もった。ふわんふわんのラッセルだ。
1稜の真下あたりから壁の方に向かって登り始める。時間的に遅くなったし、1稜はドラッセルで明るい内に上には行けそうもないので二手には分かれず4稜右の氷瀑を見に行くことにした。3稜の基部をトラバースし、3,4間ルンゼの下に当たる急な大斜面をトラバースする段になって、雪崩がやばいのではという意見が生じた。協議の末断念して戻ることにした。膝までの新雪、傾斜は45度強って所。40センチ下にはカチカチの霜ザラメ層が二枚。
たっぷり積もった新雪で、下りのスキーは快適だった。道南でこんなにいい雪は初めてに近いぞ。イグルーに戻ると、ガスが薄くなり、雄鉾の北東壁がぎらぎらと姿をみせた。傾斜は滅法立っている。雪崩の心配の無いコンディションでまた狙いたい。しかし最近、アルパイン敗退が続いている。天気の巡りの
要素が大きいから。イグルーは風雪に埋まり雪見大福みたいになっていた。
もと来た複雑な尾根と沢を下り、帰りの本流渡渉はスキーをぶん投げてざぶざぶ渡った。
おぼこ荘の温泉に浸かった。露天風呂では50くらいのおっさんが隣の女風呂のかみさんと猛烈な雪合戦をやっていて、非常に微笑ましかった。向こうからもばんばん玉が飛んできた。漬物石大のも。風呂上りにフタの裏にべったりクリームのついたうまい瓶牛乳を飲み干して、北川君にアイゼンを返しに行ってあがりこんで焼き肉。二歳児玄八郎は滞在中ついに昼寝の夢から醒めなかった。八雲駅で五時半の特急に乗る。敗退のせいで、夜行急行はまなすの世話にならずに済んだ。
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1月31日久し振りに中京名古屋で、関西支部新年会を開く(岸本記)
場所は名古屋駅の桜通口側の駅前。少し早めに着いた私は市内の繁華街をぶらぶらしたが、年明け1ヶ月にもなると華やかさはない、とはいえ自動車産業を直撃している不況の影も見当たらない。会場に向かう途中、内藤さんからは熱が出たと、田中(英)さんからは福井を出たが、列車が強風のため今庄から進めない、と相次いで欠席の連絡。
今回は長老の和田さんに乾杯の口火を切っていただく。その和田さんは蒸留酒を生でいくのが流儀、今は中国の水井坊がお好みとか。向かいに座った原さんは、相変わらず抹殺論を展開、ヤル時はギロチンがいいのだそうだ。今回参加者の中で一番若い松原君はそんな二人に囲まれて内心はどうであれ、先輩の話を拝聴する姿勢はディリジェントにして積極的。ここ数ヶ月名越さんは酒量がいつもの千分の一になった。調子がいいのだそうだ。何せ酒にまつわる話が一杯有るお方故、今更減った、止めたと言われても誰も気に留めない。
ネパールのナキウサギの遊び場とおしっこについて誰かが喋れば、「伏見(ネパール在住)と連絡が取れて、俺は今年ネパールに行く」と別の誰かが宣言。後はだれが何を喋ったのか、記憶もうつろになる・・・・・とその前に、今回の参加者(敬称略):和田、原、吉田、窪田、神戸、高橋(昭)、渡辺(尚)、川道、名越、石松、松原、岸本(計12名)
追記:本当にうつろになっていたようで、いつもの集合写真を撮るのをすっかり忘れていました。
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八甲田山麓にてイグルー稽古会を催しました。やる気満々の参加者数名は前日入りして、独自イグルーを作って迎え撃つなど、向学心満々。お伝えする僕も感激しました。
これまで山中イグルー泊50泊(たぶんもっと)の米山が実用お手抜きイグルーの技術をみんなにご披露した。面々は、山岳同人たがじょの皆さん。青森で米山がお世話になっている青森県で最強勢力の山岳愛好家集団です。技術は真綿が酒を吸うように、伝授されました。
これまで何度かイグルーの製作法をあちこちに書いた
http://www.tokyo-np.co.jp/gakujin/gak2003121501.htmlが、読んだだけでやみつきになった人はあまりいない。イグルーを実践している人は、実地で作るのを見た人ばかり。やはり文面だけではわかりにくいようだ。特に三段目で内傾ぐぐぐっとさせるテクニックなどが。今後はもっとわかりやすい文章と図解で普及をはかりたい。
本日は前夜から泊まった人たち含め25人。昼過ぎまで合計25基のイグルーを構築した。一人で三つ作る人、あまり作らず飲酒でゴキゲンの人もあり。講習前と後の違いは所要時間。実用イグルーは一時間弱で作らなければならない。今日の雪質はくっつきやすく、大抵四〇分で二,三人用が仕上がった。
オサナイさんの作ったイグルーはこれまでに見たこともないほど美しいフォルムをしていた。僕が手抜きする三段目以上も緻密に作ったので、まるで札幌ドームのように美しい。こういうところには性格がテキメンに出る。オクヤさんは、単独で一人用イグルーを作る稽古に没頭し、三つも四つも一人で作っていた。これは命を救う緊急用だ。一人でもスコップとノコさえあれば疲労凍死する事は無い。僕の一人用シェルターイグルーは二〇分でできた。一度やってみせると勘のいいひとはすぐに身につける。
終えたら樹林帯の中はイグルー村と化していた。まるで世界遺産のイタリアの【
ここ】。
これでもうたがじょは冬テント要らず。
家に帰って、まだ日があったので、待っていたこども(四歳児)用に、自宅庭でもう一つ作った。これも二〇分。なかでお茶ケーキをいただいてままごとしてあそんだ。青森は八甲田が近くて本当に良い。
家
よろこぶ子供
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山の会裏ばなしー(29)
選挙の看板を失敬
北大山の会東京支部・木村俊郎(1950年入部)
昭和三十六年二月に小生は懸案の薬師岳を目指して、前々年の極地法による大部隊を改めて軽快に四人で入山したが風雪が激しく敗退した。結局この山では僅かに厳冬期の北ノ俣と赤木岳の初登頂だけに止まった。
その翌年、三月に札幌から現れたのが昭和三十四年入部のT君、通称もTをリーダーとする大部隊で一年目から三年目までの通称OのW君、通称のないH君、S君、最年少ながら通称GのS君達だった。余り多いので会社のクラブや会館では賄いきれず、少々負担になったが神岡町の旅館を手配した。
人数が多いと話もはずみリーダーのT君はこの時着ていた本間敏彦君との知床半島縦走で、バナナのちらちらする破れズボンで岬に着き、沖を通る漁船に遭難者と間違われてチャッカリ便乗してウトロに戻ったり、黒部の上の廊下遡行の話などに沸いた。また、このパーティーには沢田義一君もいたことを彼の追悼会の席で父君から知らされた。これが縁で入手出来ずにいた唯一の部報六号を戴くことになった。この本にはペテガリの雪崩が記されているので義一君遭難の折りに林和夫先輩から寄贈されたものだったそうである。
さて、この頃が部員数が最大で、この世代の人達が現れたわけだが、それにはそれなりの裏話があった。
山岳部では山行の折には団体装備や特殊な個人装備は部の備品を借り出して使っていたが部員の急増で備品が極度に不足していたそうである。なかでもコルクマットは適当な代用品もなかった。コルクマットは冬山の装備で底付きテントを使う折にはシュラフの下に敷かねばならぬ必需品である。コルクの細い棒をキャンパス地で縫い付けて、巻寿司を作るスダレのようになっていて、肩から尻までの長さの物である。これが無ければ寒気が身に沁みるほか、撤収の折にはテントの底が凍りついて手に負えなくなってしまう。備品は不足しても他の物は代用品で何とか間に合わせても当時、コルクのような断熱材はどうにもならなかったそうである。
だが、窮余の一策はあるものだ。
その後、三十三年入部のW、通称D吉君が語るには選挙に使う看板を取ってきて使うのが一番よかったという。選挙になると候補者が顔写真などのポスターを張って電柱や壁などにぶら下げていたあれである。当時は候補者個人々々かが出していたので新聞紙半裁位のもの。ベニヤ板なので断熱性もあり、水も上がらず、しなやかで大きさもピッタリだったという。なんといってもキスリングに入れて背負うと、背中にピッタリくるというのである。
しかし、個人のポスターとはいえ、触っても選挙妨害の罪になることは明らか。みんなで盗れば怖くない、とはいえ、なんとも図太いものだ。
札幌の町にも人があふれ始めた時代だったのだが、まだ平穏な、ゆとりのある頃だったようである。検挙されたり臭い飯を食うはめになったという話は聞いたことがない。
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山の会裏ばなしー(28)
ズッペは方言か
北大山の会東京支部・木村俊郎(1950年入部)
昭和三十五年二月に小生は再び薬師岳を狙ったが風説に阻まれて太郎兵衛平を抜けられずに北ノ俣岳の登頂にとどまった。その年の三月には、いよいよ来るものが来たという感じだった。三十二年入部のY君をリーダとして一年ずつ下のN,Sの三人が積雪期の飛騨側の西鎌尾根から槍ヶ岳を目指した。蒲田川右俣から入るので神岡を通る。このようなパーティーは小生の所にいっぱくするのが当然になっていたが、この時は娘が生まれて間もなく社宅は少々広くなっていたとはいえ装備もろともでは手狭だった。会社で接待に使うクラブが手頃だと思ったが、この時丁度、会社の洋画専門の銀嶺会館に宿泊設備を併設したところだったので、これを利用することにした。もちろん無料。
開設まもなくとあって板前さんは腕の見せどころとばかりに結構な接待をしたようである。夕食には澄まし汁が出たところで誰かがズッペと呟いてにやりとした。これには訳があったのだ。この頃もルームでは登山用具はもとより、歌や怪しげな造語までドイツ語の氾濫だったようである。汁はスープであれ何であれズッペといい、みそ汁までズッペと呼んでいた。
ところで大学は二年目の前半までは教養部でそれから各学部に進むことないなっていた。したがって、教養部では社会科の科目は必須で法学概論や社会学、人類学などがこれだった。人類学の講義のときだったらしいが、ある時教授
「北海道の方言を挙げてみよ」
といわれて、それぞれ幾つか挙げていった。その内少し途切れたら
「ズッペ」と答えた奴がいた。
振り返ってみたら、それは山岳部の奴だったというのである。
しかし、この話は山の会戦後只一人の詩人と呼ばれる二十九年入部のT君からの伝え聞きだったようである。
同年代に居た人達だがこんな話を何時までも伝えるとは恐ろしいものだと思った。
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