【年月日】2009年2月22日(1−0)
【メンバー】L:田中宏(3 AL小池 田中省(2
八剣山1p目
[時間] 駐車場(9:40)取り付き(11:00)3p目終了コル(15:30)駐車場(16:20)
[ルート]雪 駐車場から取り付きまで
1p目 三級の岩を登り、雪稜を行く。上部支点バイル。
2p目 雪稜をコルまで行く。支点は木。
3p目 雪稜を行き、最後は急なクライムダウン。
時間的、天気的に厳しかったので3p目終了後、コルから北へ下る。後は回り込んで駐車場。
[パーティ]春メイン2年班準山1回目。ザイルワーク、雪稜できた。
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【年月日】2009年2月7−8日(2−0)
【メンバー】L田中宏(3 AL小池 田中省 野沢(2 M井村 鹿島(1
十勝岳西尾根上部
[時間とルート]
1日目:二オベツ上二股(7:10)オムシャ西峰(10:20〜10:30)東峰(10:50)十勝(13:20)Co1170(14:30)=Ω1 晴れ 二オベツ上二股からスノーシューで取り付く。雪がしまって取りつき易い。ラッセルは踝から膝程度。オムシャ肩は吹きだまっておらず、肩下に一か所イグルーが作れそうなところがあった。肩上からスノーシュー、ピッケル。オムシャピークでアイゼンに履き替えた。ピークに予定より早く着き、かつ明日の天気が悪いことが予想された為、野塚をカットし十勝をのっこすことにする。
オムシャ〜十勝間稜線
東峰〜十勝は所々50〜100mのセッピが出てた。イグルー作れる。
十勝ピークから西尾根を使っておりる。Co1170までもどこでもイグルーが掘れそうであった。稜上は局地的に気になる風。Co1170でΩ1。雪が固く作成に3,5hかかる。
2日目:Ω1(10:20)国道(12:20) 雪。 イグルーからは・1148までに北にセッピ50m程。その後も、下まで樹林内セッピ50〜150mが発達していた。Co1000〜800まで細いところが所々あった。ラッセルは脛から膝。あとは翠明橋2つ南の尾根を使って国道まで。橋1つ南よりも国道に乗りやすい。
[パーティ]
1年班春メイン準山2回目。ある程度風がある中のっこしできた。イグルー作れた。
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【日程】 2009年2月22日
【ルート】 米子不動 “カチカチ山”
【メンバー】清野(76)S君(某大学山岳部OB)
某大学山岳OBのS君、沼田山岳会の“虎の穴”での特訓を経て、はれて本州最難氷瀑エリア米子不動に挑戦と相成った。
米子不動氷瀑群の初登ルート“カチカチ山”
昨夜の酒が抜けないS君とここを目指す!
今山行の最終兵器と酔いどれのS君
米子の開拓者溝渕さんが最も美しいと言う“どぜうの詩”
100mを超える氷瀑がゴロゴロしてる!
米子では容易?と言われる黒滝………
これを登ろうと思っていたのだが、今回はパス!
1P目
2p目をフォローするS君
3P目、ようやく酒の抜けたS君がリード
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山の会裏ばなしー(36)
三度の一度の佐渡島
北大山の会東京支部・木村俊郎(1950年入部)
昭和四十六年秋、小生は日本山岳会の会報で五百沢智也氏のヒマラヤトレッキング計画を知り、正月休暇を利用して、小型機をチャーターした数時間のフライトでヒマラヤ山脈のほぼ全域のフライトに同行する機会を得た。団体割引の航空券は半額という利点で利用したトレッキングの皮切りだったと思う。コンディー峰の肩まで登り、ナムチェバザールからの帰途ヒラリー卿と遭遇出来たのは偶然だった。
二月上旬には志賀高原でのスキーの会が恒例化していたが小生は少々クタビてスッポカしてしまったが翌年の志賀高原には既に述べた先輩の他、大和正次、中川一郎、福島健矢、江幡三郎、小平俊平など山口健児先輩に続く錚々たる古老連が集まった。昭和六年入学の中川一郎先輩にいたっては現役時代に大枚五円で買ったというスキー靴で現れ、フットフェルトのビンディングでテレマークを披露。テレマークといっても、膝をバッケンの前について屈み両手をヤッコ凧のように広げて曲がる大袈裟なものだった。この頃のスキー場では女性も混じったスキー教室も華やかになっていてゲレンデにはインストラクターを囲んで練習する一団がいた。中川先輩は大胆にも彼らの目を滑り降りた。ど肝をぬかれたインストラクターは、その華麗で珍妙な「曲げ」を指して生徒達に
「あれがテレマークです」
と叫ぶ一幕などがあった。
二日目は快晴に恵まれて横手山まで出掛けた。頂上に着くと桜井先輩が彼方を指して
「今日は佐渡島が見える」
と言われた。
これを聞いた「山ケン」先輩がすかさず
「おーい、佐渡島だ。三度に一度しか見れないそーだぞ。よく見とけよ」と・・・・、
当の桜井さんは、むきになって
「いや、三度に一度だと。十回やそこらじゃー見られやしないよ」と、
こんな冗談は、周りの人にすぐ分かるもので「山ケン」さんにいつもやられている連中が
「三度の一度のサンドガ島か」と・・・・。
クスクス、ニヤニヤと笑い出し、ご本人も気が付いて大笑いになった次第。
なお、このスキーの会の幹事役、言うなれば「山の会の小使いさん」で、明治生まれの長老達が行きたいという山を調べて通知状を作って配っていた役目は昭和五十七年に小生が海外勤務の内示を受けたので小枝一夫君が様式を変えて引き継ぎ、さらに四十二年入部のH君に移り会場を各地に広げ、様相も一新して現在に至っている。
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第75回OneDay里山Hike 官ノ倉山の報告
平成20年12月27日
参加者:大井、松下、渡辺、石本、石村夫人、佐藤、木村
頂上も快晴
コース
東武東上線竹沢駅を出て左手の地下道をくぐって線路の向う側に出れば矢印がある。舗装道路を行き三光神社の前を左に進めば、あとは一本道。手頃な登りで頑張れば休まずに頂上に着くが少し手前に手頃な休憩用の腰掛がある。展望はよく飯能の平野の向うに筑波が広がっている。
下りは、頂上から東に向かい北向き不動へ降りるとよい。鎖場があり少々急だが、面白い下りである。諏訪神社の300m程手前で竹沢駅方面とJR八高線小川町方面とに別れる。竹沢駅へ行くほうが小一時間近いが、列車の本数が少ないので中央線で帰るなら時刻によっては小川町へ行ったほうがよいだろう。
その日のこと
平成二十年十二月二十七日、年末年始の関東の典型な気象で、当地は快晴、日本海側は雪で、翌日には雪崩や滑落の遭難が発生した。官ノ倉山への歩道脇で目敏く、膨らんだ蝋梅の蕾を見つけた人も。しかし尾根に出ると強い寒風。降りは例によって昔話や忘年会での話の続きに湧く。それも、ゆったりとした山で、快晴にめぐまれたせいだろう。今回は珍しく二、三のパーティーの人に出会った。一行は大井、松下、渡辺、石本、石村夫人、佐藤、小生の七名。恒例の「裏ばなし」は(36)。
所要時間:三時間半 (駅から駅まで)
正味歩行 二時間四十分
まさに東京の裏山という感じの官ノ倉山方面
飯能の平野の向う側は筑波の山並み
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山の会裏ばなしー(37)
ドイツ語と英語の応酬
北大山の会東京支部・木村俊郎(1950年入部)
昭和四十七年頃にはヒマラヤの未踏の高峰はもう殆ど登り尽くされていた。山岳部はマッキンレイなどで新しい登り方をしていた他、数年後に迫った山岳部創立五十周年記念行事の議論に湧いていた。東京ではそんも活気の影響か恒例のスキーの会や夏山に集まる人数も増えていた。東京の会での集まりを振り返ってみると、この会では北大出身ではなくても山に登る気がある人の参加を拒まなかった。その最たる者は藤井運平さんで彼は明大山岳部のOBだったが自分のOB会には殆ど出席せず当方の会合には皆勤の常連だった。
またある時は山岳部に在籍したことはなかったが北大林学卒の藍野祐久さんが顔を出したことがあった。山岳部創立に貢献した古老に声をかけたことが元で参加するようになったのだが長老とは同年代の年齢だったが活発な方で、志賀高原でのスキーではパラレルで滑り、体は柔軟。新雪の山スキーには手こずっていたがゲレンデでのしなやかな膝の使い方は若者顔負け。
ところでこの頃小生は八丈島で小さなバンガローを手に入れていた。東京に近くて有史以来氷が張った記録がない所。洋らnの無加温栽培に挑戦しょうと思ってのことだった。
前述の藍野先輩とは何処かの山で洋らnの話しから八丈島の話になり、友人と行ってみたと言われ、宿泊などの手配をしてあげた。
暫くして電話で
「お礼までに大原の家でご馳走する」
とのこと。隣は「子供の科学」の編集などで有名な科学者、原田三男さんだから声をかければ顔を出すだろうと言われた。藍野さんは都内のアパート住まいだったが実家だった千葉県の大原にも家があり、奥さんはここで英語塾を開いたりもしておられた。
さてJR外房線の大原駅で落ち合って、魚などを吟味して買い込んで玄関を開けたまではよかったが、出てきた奥さんは大変なオカンムリ。やにわに小生に向かって英語でまくしたてた。藍野さんは務めが製薬会社のバイエルだった関係もあってドイツ語会話は堪能だったが、英語はダメ。ご主人に分からないように小生には英語で話す。その内容は、一緒に行った友人というのは女性で、知り合いの会社のOLだったようで、胸の大きく開いた、所謂ビキニのような水着を買って出掛けたらしいという。小生は無難なところだけ日本語で藍野さんに告げる。藍野さんは都合の悪いところはドイツ語で小生に話すので奥さんは理解出来ない。都合よく通訳して奥さんに話せと言われる。悪戦苦闘して収めようとしたのだが、本が少し読める程度の小生の独語会話力でイロ事の話など、チンプンカンプンの事態。買い込んだ魚に未練は残ったが早々に退散となった。
事の次第は後で分かったのだが、OL嬢に渡した水着は三越で「付け」で買って、請求書の宛て先を大原の家にした。我々が家に着く前に奥さんの手に渡り、事の次第を知ったところに手引きをしたと思わしき小生ともども、魚をぶら下げて悠々と現れたのだった。
この会での間の抜けた話はしばしばだが、同行する女性へのプレゼントを「付け」で買って、しかも請求書を無断で奥さんの所にしたとは、悪げはないとは言え何とも間の抜けた話である。
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第76回OneDay里山Hike 金比羅山の報告
平成21年1月10日
参加者:石村夫妻、大井、渡辺、石本、佐々木(正)、山森、佐藤、尾白、木村
金比羅山へ。緩いのぼりだが、尾根では季節特有の強風に
煽られて、どんどん歩く。
コース
東飯能駅前バス停から名郷又は湯ノ沢行きにて、やすらぎの湯で下車。向かい側の墓地の脇が登山口になる。標識は小さく不明瞭だがここからは一本道。林間の緩い登りが続く。頂上は扁平で標識なるものもない。平らな頂上を過ぎ七百十七メートルの隆起を過ぎた辺りから南に下る踏み跡を行けば名栗湖の頭に下り着く。しかし、傾斜はかなり急で岩も混じり、トラ縄の手すりなどの設置もある。
その日のこと
一月十日、今年最初のハイクは年末に引き続き、特有の冬型の気象。よく晴れたが尾根では相当の強風に煽られた。雪も薄く積もり、少々寒かったけれど快適な歩きができた。但し金比羅山の頂上は余りにも平だったせいもあって。気ずかずに通り過ぎてしまった次第。失敗だったとは誰一人口にも出さず強風と急峻な下りを堪能して名栗湖の湖面レベルまで一気に下りついた。一行は石村夫妻、大井、渡辺、石本、佐々木(正)、山森、会友の佐藤、尾白に小生を合わせて十名。今年は春から賑やかで縁起がいいぜ!といったところ。「裏ばなし」は(37)。
所要時間:五時間四十分 (駅から駅まで)
正味歩行 三時間五十分
頂上が余りにも扁平で見逃して、沢の隆起から降る。
岩混じりで急峻。結構な山歩きの一日となった。
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山の会裏ばなしー(30)
デブリをはねてバスが通った
北大山の会東京支部・木村俊郎(1950年入部)
昭和三十七年に北大山岳部はチャムランの遠征に出発し成功を収めたが、小生は神岡で現場を持つ傍ら指名を受けて生産管理の猛勉強?中。出張で上京も多く、札幌との連絡は疎かだった。だが冬山の魅力からは逃れられず、この年は飛騨側に落ちる南尾根の新ルートで正月を越して一月三日、黒部五郎に登頂できた。金木戸川からの深雪をスキーに物をいわせるアプローチだった。
登頂後、かなりの風雪になったが、我々の登頂と同時刻頃、向い側の薬師岳では風雪の中、愛知大学の山岳部員十三名は頂上からの帰途全員遭難死していた。悪天候で捜索は難航し、風雪の合間に太郎小屋上空でホバリングできたヘリからザイルで降りた朝日新聞の本多勝一記者が全員の絶望を伝えたのは二週間も後になってからだった。その後も雪は降り続き稀にみる豪雪の記録を残してこの雪も三月には落ち着いた。
こんな年の三月二十四日に札幌から四人のパーティーが来た。三十五年入部のY君をリーダーにS君は通称もS、一年目のSは通称M、O君は通称がなかった。新穂高温泉から槍、穂高往復、常念を経て上高地へ下る九日間の日程で入って来たのだった。装備は現役時代を彷彿させる冬山で、神岡町に準備しておいた宿舎で、装備やら食料を広げて相談やら作戦等を練って出掛けて行った。その後このパーティーは豪雪の後にも係わらず事故もなく予定を完遂して帰った。
それから一年以上も経ったある日、小生は出張で高山行きのバスに乗った折に運転手が
「北大山岳部のお客さんが蒲田で雪除けをしてくれてね」
と言って次の話をしだした。
「以前に神岡から平湯への路線を運転していた時、蒲田の少し手前で道路にデブリが出ていて往生した。行くのを諦めて戻ろうかと思った時、乗っていた北大山岳部のリーダーが『やるか』と一声かけると、メンバーはリックに付けていたスコップを組み立てたり、バスの備品の道具を持ち出すやらして、雪を除けてしまった。平湯へ行くお客さんは喜んで拍手喝采だった」という。
北海道の山道では普通のことかもしれないが、山間の村々も軟派になってきたこの頃、リーダーの一声でサット行動する山岳部に感銘を受けたらしく、この話はしばらく運転手仲間の語りぐさになっていたようである。だが、ちょっと注釈しておかねばならぬのは、この話はこのパーティーのことだったとは思うけど、確証はない。この辺りにデブリが出る三月には前年もその直後にも北大のメンバーが来ていたからである。
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第69回OneDay里山Hike 陣馬山の報告
平成20年1月19日
参加者:坂野、石村夫妻、滝沢、大井、松下、木村
陣馬山頂上にて
コース
東京支部編「日帰り縦走36ルート集」No.17による。すなわち、頂上から和田峠に下る逃げ道を記したが、このハイクでは未だ歩いていなかったので試みた。展望も良く人けの少ない一月が絶好というわけ。頂上から峠までは丸太を並べて階段が殆どで峠からはバス停まで三キロ余りの舗装道路が続く。
その日のこと
一月十九日、終日快晴。登山口からは彼はと霜柱を踏み、一際白い富士山も現れ集まった七名はご満悦。坂野、石村夫妻、滝沢、大井、松下に小生木村。春には満員になるこの頂上も、今は人影やや少なし。展望はよく、丹沢方面から三ツ峠山、滝子山、雁ガ腹摺山、大岳、権現山などワンデーハイクで歩いた山々が次々と見渡せた。
和田峠で二度目の昼食。「エッセンは必ず少し残しておくものだ」と往時の鉄則が頭にこびりついていて、頂上での陽気につられて食べ尽くさなかった御仁もいたようだ。
「よくもこんな所に来るもんだ。でも今日は有閑な、文人墨客ばかり。気楽でのんびりだ」
との声や
「でも、書も画もさっぱりだな」
との声も。
路線バスの発車時刻に合わせたようにバス停に着いた。バスは路線変更になっていて終点は高尾駅北口。
「裏ばなし」は(30)へと進んだ。
所要時間 五時間(上野原駅発高尾着)
正味歩行 二時間四十分
登山口からじきに落ち葉と霜柱の道となる
頂上前の急登に備えて一寸たむろする
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第68回OneDay里山Hike 蓑山の報告
平成19年12月29日
参加者:大井、渡辺、石本、石村夫人、木村
蓑山頂上で昼食
コース
秩父鉄道、皆野駅前の道路に「美の山」へとの矢印あり、自動車道路を渡って南々東へ舗道を五百メートルほど行き細い車道を渡れば蓑山神社への登山口となる。道は頂上まで簡易舗装されていて間違うところはない。緩い登りの連続で頂上は公園になっている。
下りは車道と、これをショートカットするように歩き道とがあり途中には「和銅開弥」の鋳造遺跡があり銅の採取跡の表示とがある。道なりに行けば皆野の隣駅、黒谷に出る。
その日のこと
十二月二十九日、天気の変わり目で雨の予報が少し動いていたが日中は降らないとみた大井、渡辺、石本、石村夫人が現れて定刻に歩き始める。この山はハイキングコースだが忘年会の日程のため年末にずれ込んでの計悪だったので軽く秩父を歩く計画にしておいた訳である。
時期的に人出は殆どなく、悠々と駄べりながら歩く。黒谷は自然銅を掘って朝廷に献上した史実があり、砂金のように大量に出る自然金よりも珍しいもの。この堀跡を見るのが目的ではなかったのだが帰り道には遺跡としての看板や説明も見てきた次第。幸いにして雨にも当たらず軽いハイキングになったが、陽も短いので手頃な歩き心地を満喫した筈である。「裏ばなしは」は(29)へと進む。
所要時間 三時間半
正味歩行 二時間四十分
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