【年月日】2009年07月05日
【メンバ】田戸岡(1999)
【天 候】上部ガス(2〜300),下部晴れ
【タイム】望岳台8:25〜ピーク10:45/55〜望岳台12:25
今年もいよいよ滑り納めということで,珍しく本峰に行ってきました。
雪は意外にも去年の今時期と大して変わらず,
美瑛の方は去年よりか少なく見えました。
モチが上がらなかったので本峰のみ往復し,
適当に4つの雪渓を滑ってきました。
テレブーツ履いて板背負ってる自分の状況が,
なんか罰ゲームでもやらされてるみたいに思えて笑えました。
早く雪降らないかなぁと思いつつスキーを納めましたとさ。
2個目の雪渓の上。
3個目の雪渓の上。
4個目の雪渓の上。
滑り納めて振り返る一枚。
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【年月日】2009年6.27-28(2-0)
【メンバー】L勝亦(7 M井村 鹿島(2
<時間>
旧道登山口(6:10)−夫婦岩基部=BC(9:15-10:10)−南西カンテ(10:30-12:10)−中央ルンゼ下(12:45)−洞穴スラブ(13:20-15:50)−BC(17:00)
BC(5:30)−北西壁ダイレクト(5:40-10:40)−夫婦岩北峰(11:30-50)−BC(13:15-14:00)−旧道登山口(16:15)
<ルート>
夫婦岩分岐から踏み後を夫婦沢へ。夫婦沢は大部分が雪渓に埋められていた。
南西カンテ
??、40m。??、40m。共に鹿島リード。終了点から灌木帯を下りながらトラバースし、灌木からラッペルし中央ルンゼに下りた。
洞穴スラブ
??、20m。取り付きから見上げ、行けそうだと言うので鹿島リード。リングボルトが新たに打たれた?せいかそれほどランナウトすることはなかった。??、15m。L。??A0 、25m。A1とされているが皆A0で抜けた。デルタ草付きまで出ずに終了。L。
2ピッチのラッペルでBCへ。
北西壁ダイレクト
??、20m。L。??、25m。鹿島。??A0、鹿島。目の前の岩は迷って少し消耗したようで、ザックを置いてA0で抜けた。デルタ草付き手前まで。??、40m。鹿島。??+、45m。鹿島。脆い。ビレー中Lのヘルメットにこぶし大の落石が当たった。ビレー点では小ハングの下に隠れるようにすべき。
靴を履き替え、時々ちょっと微妙な灌木帯と少し岩を登って北峰まで。コルまで下り、そこから中央ルンゼをラッペル2ピッチ後ガレを下る。
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【年月日】2009年6月27〜28日(2−0)
【メンバー】L田中省(3AL平塚(6、小池(3M井ノ上、岡戸、木城(1 G田中宏(4
丸太の滝水量多時
【時間】
入渓点(12:00)Co640(15:30)=C1(4:40)漁岳(7:50−8:15)オコタンペ湖(11:30−12:15)車道(13:30)
【ルート】
奥漁橋付近から入渓。Co620に丸太のF。Lが左岸に取り付くが、水量多く、敗退。Gがハーケン打ってA0で登る。AL平塚がゴボウで登るが、水量が多く、Mに登らせるのは危険と判断し、残る後続は右岸ルンゼを捲くことにする。上の2人が右岸ルンゼにザイル垂らし、後続プルージック。その後函は中を泳ぐ。Co640でC1。C1からはCo920に7mのFがあり、Fixのある右岸を巻く。ザイル垂らしてMはプルージック。上部はテープ見てピークへ。ところどころ雪渓があった。ピークから少し西へ行き、南へ下りてオコタンペ湖まで行く。北側を行った者と泳いだ者がいた。
【パーティ】
一年班準山一回目。一年生の沢の基本できた。
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【年月日】2009年6/20(1-0)
【メンバー】L小池 AL田中(3 M井村 鹿島(2
<時間とルート>
入渓点(6:25)Co95三股(6:50)西屏風沢出合(11:50)屏風山北コル(13:30)林道(17:10-30)国道(18:50)
翌日の天気が悪いので1日でのっこすことにする。Co155に10mの滝。左岸草泥壁を捲く。お助け紐垂らした。その先から函状地形。Co220に函滝あり中を泳いで突破する。Co230二股過ぎてすぐに函滝がありALが突破を試みるも失敗し寒さに消耗したため左岸を高捲いた。Co510二股を左に行くと10mの滝。右岸を行く。その先にCo520二股があった。地図上わかりづらい。あとは北コルまで。軽く藪を漕いで下りの沢に降りる。下りの沢は上部からCo500付近まで雪渓が断続的に出てくる。雪渓と雪渓の間で途中段差横の草付を捲いているときに掴んでいた笹が抜けMが2m落ちた。雪渓は全て上を行ったがいくつか微妙なものがあり一ヵ所Mが雪渓を踏み抜いた。あとは林道を歩いて国道まで。帰り神恵内村に唯一あるコンビニOKADAの親切な店主にパンをもらい村長に車デポ地まで送っていただき炊き込みご飯とオロナミンCをもらった。神恵内村はいい村である。
<パーティ>
2年班沢メイン準山一回目。雪渓対処できた。函の通過できた。泳ぎできた。
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浜名純会員が毎日新聞2009-6-24の朝刊に,原真氏の追悼記事を寄稿していますので,紹介します.
米山会員による追悼記事は
こちらにあります.
【年月日】2009年6月4-6日(3−0)
【メンバー】L田中(3 AL平塚(6 M岡戸 木城 斉藤(1
【時間とルート】
6月4日 ・631(6:40)−二の沢出合(8:00)−Co1050(10:20)−額平山(14:00−14:10)−C1(14:15) 曇り時々雨。ゲートの鍵を入手し・631から入山。取水口まで林道。その先は全て左岸を行く。Co800付近の巻きはFixロープがあって問題なし。二の沢出合からも地図と違って左岸に道があり左岸を行く。途中靴脱ぎ渡渉2回。Co1000から雪渓がでてくる。安定していたのでCo1050付近にある滝の手前まで雪渓の上を行き、そこから左岸尾根上の夏道にのる。途中夏道が雪の下に隠れたため、Co1100からピッケルを出し滑落停止練習を行った後、木の生えた急な雪の斜面を登る。Mの一人が2回軽く滑落し1回目は木に掴まり止まり、2回目はALがMを止めたが反動でALが5メートルほど滑落した。額平山付近で夏道をはずし軽くハイ松をこいでピークへ。ピークから少し東に行ったところにハイ松に囲まれたいいテン場を見つけC1。
6月5日 C1(5:10)−北戸蔦別(5:30)−戸蔦別(6:20−35)−幌尻(8:10−40)−戸蔦別(10:00−10:15)−北戸蔦別(11:15)−C1(11:30)=C2 小雨。北戸蔦別にて幌尻の肩の急斜に雪がないように見えたので視界ないが行くことにする。この先全て夏道出ていた。幌尻の肩に上がるところ急だが夏道出ていて問題なし。ガスガスで熊にびびり笛を鳴らして行く。あとはピークまで。展望ゼロで非常に残念。風で寒い幌尻を早々と後にし、少し降りてから休んだ。帰り道シマリスを何度か見る。
6月6日 C2(6:30)−二の沢出合(11:50)−・631(12:50−13:30)−ゲート(15:00) 曇り時々雨。これから明日にかけて雨風強まるという。視界出そうになく雨で渡渉も心配なので下山することにする。額平山の急な尾根はEPで下る。ところどころバックステップ。出合までは行きと同じ場所で靴脱ぎ渡渉2回。後はゲートまで。ゲートにて休んでいると札幌方面へ帰るというご夫婦と子供さんの乗る車がやってきてご厚意により札幌まで乗せてくださった。
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備忘録・中西健夫(ナカニシヤ出版)インタビュー
追悼・伊藤達夫・・・和田城志による
岳人7月号のp122「備忘録」でナカニシヤ出版の中西健夫氏のインタビュー記事があった。関西から奥美濃、鈴鹿などのヤマ本を出版している京都の会社だ。全般に装丁はちょっと野暮ったいけれど、よくぞまあ出してくれたという感じの山の本を出版してくれる頼もしい出版社だ。「鈴鹿の山と谷・全六巻」や「北山の峠」「秘境・奥美濃の山旅」「近畿の山・日帰り沢登り」など、名古屋にいた頃拝読、一目置いていた出版社だ。その後はヒドゥンピーク(ガッシャーブルムI峰)とミニャコンガの初登記も出版、こんな本今時売れないだろう〜と思って余計な心配をしていたら(もちろん購入)、三万円もする「カラコルム・ヒンズークシュ登山地図」も出した。一体どういう会社なんだろうと思っていたが、その内情を話している。こういう志ある山の本は全体の8パーセントくらいで、他の本のもうかったぶんで出しているとのこと。1500冊や2000冊売れればいいやと、その部数でも採算とろうと思えばとれるんです。という発言は頼もしかった。
「山の本を出すところ、少なくなりましたなあ。」「戦前の関西の岳人では藤木九三さんと森本次男さんこのお二人が文章としては一番うまいのでは〜ああいうものを書いてくれる人がもっといるといいですけどねえ。百名山しか売れへんようじゃあきませんなあ。」「おたく(岳人出版)でママリーの『アルプス・コーカサス登攀記』出しましたでしょ、あれ注目してたんです。あの手の本が売れればうちでも出したいものがいっぱいあるんです。でもちょっと残念ですねえ。」ああ、やっぱりダメなのか・・・復刊はとてもうれしかったのに。
数年前、とある出版記念会でやはり山の本を果敢に小規模に出している白山書房の箕浦氏に「エーデルワイス叢書みたいな探検未踏モノの復刊して欲しいです。最近出る山の本はハウツー本ばかりで、行くのは古書店ばっかりですヨ。」と訴えた事がある。「いやそれはヤマヤマなのですが、朋文堂の二の舞にはなれませんわ。」と苦笑された。誰も気持ちは同じなのだ。
「とにかく山の本、みなさん読まなくなりましたね。このごろの中高年の山歩きって健康第一で文化を忘れている。登山は文化なんやで。健康のためだけの登山なんてもったいない。」
京大の正門前にあったナカニシヤ書店時代から、今西錦司との深いかかわりがあった書店だったそうで。ナカニシヤの社長さんの読書趣味が分かってとても楽しい記事だった。
もう一つは今年の春北ア黒部の鳴沢岳で遭難死した京都府立大山岳部の、二人の学生を率いていた伊藤達夫さん(同大助教でコーチ・51才)の、和田城志氏による追悼文「風雪に響く魂を知る男〜私の心の中にまた憧れの墓標がひとつ〜」(p156)。
これを読むまでこの遭難の当事者があの「黒部別山ー積雪期ー」の和田氏との共同編集者とは存じ上げなかった。この本はあまり出回る本ではないが(つるの大内さんにまわしてもらいました)、黒部別山、剱沢大滝、丸山東壁フリークたち(黒部の衆)が生涯の情熱をかけて残した積雪期記録を編集したとてもマニアでマジで重い本。この本の4割が二人で書いた記録で、解説もほとんど二人で書いたとのこと。黒部で一番マニアなお方と仰いでいた和田さんが、「私も相当マニアックに雪黒部に取り組んできたが、彼のマニアックの純度にはかなわない。」と告白している。「そのストイックな登り方にはある種の美学が感じられる。私が常々語ってきた『名を取らず、実を取る登山』の典型的な実践者だった」。
最後の詩編「知る男」は男泣きだ。
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大滑降への50年
三浦敬三
実業之日本社
1970
三浦敬三が息子、雄一郎のエベレスト滑降の年に書いた、二人の自伝。三浦親子関連の近年の本は長生きイキイキの秘訣みたいな題のばかりで、違う人向け本のようだ。山登り人として三浦親子のなんたるかを知るにはこれが一番の一冊ではないだろうか。敬三さんの放つ魅力が分かった。この人は西堀栄三郎とか、明治生まれの染め物職人だった僕の祖父を思わせる。そして三浦親子を生み出したのが八甲田だったということがわかる。読後は八甲田を滑る気分が随分違う。
青森に来たので八甲田の黎明期を知ろうと、三浦敬三の本を読んだ。氏によれば八甲田ほどスキー的な山はないとの事。今も大規模なスキー場が無い上に残雪期は普通のスキーヤーがロープウエーで登って、スキーコースを滑る。山スキーとゲレンデスキーの中間のようなスキーが行われる。そのルートにたくさん残るスキーコースの指導票は1953年に敬三さんらが中心になってつけたもの。1968年にロープウエーができてから、その周辺だけを滑る人ばかりになり、以後は指導票を辿って全域を滑りまわる人がすくなくなったそうだ。
1904年生まれの敬三さんは、エベレストのサウスコルから1970年にスキー滑降した息子、三浦雄一郎の快挙以前から、日本のスキー界屈指の滑り手だった。北大スキー部出身でスキーを身につけ、青森営林署に勤めて営林署の「青森林友スキー部」をコーチとして日本一のスキーチームに育て上げて、戦前のオリンピックや国際大会の常連になった。そして八甲田の斜面を滑りまくり、さまざまな悪雪での回転術を試行錯誤して研究に没頭した努力が懇々と記されている。また雄一郎との子供の頃のスキー行や、雄一郎がやがて父と同じく北大スキー部に入り、海外のスキーコンペでめきめき頭角を現していく様なども書いてあり面白い。
北大山岳部は1926年12月にスキー部から独立した。スキー部の初期は山に登らねば滑れなかったし、スキーをはかねば山には登れなかったから、これが分かれた頃というのは、山に登らなくてもスキーができる、競技スキーに熱中する一派が生じ始めたということである。敬三氏は1923(大正12)予科入学、1925(大正14)スキー部に入って、スキーにはまった。当時のスキー部に直滑降、回転、ジャンプのすぐれた選手が多くいた話など、興味深く読んだ。今は木の茂る札幌の三角山の頂上から度胸試しの直滑降斜面があった話、初めてスチールエッジを見た時の衝撃など、最高に面白い。
雄一郎のエベレスト滑降も、突然世間の注目を集めたわけではなく、一つ一つ自分の力を伸ばして、誰もやらない事を目標に選んで、出来る努力を重ねて進んでいく。八甲田の全山一日連続滑降の試みなどから始め、イタリアのスピード滑降競技で腕をあげた。富士山吉田大沢での緊張感いっぱいの初滑降のところは、エベレストよりも緊張して読んだ。この親子、あれこれ指導して育てあげたという関係ではなく、「ついてくるか」「うん行くよ」。「平気さ」「よっしゃ」という少ないセリフで、手を出さない親、負けず嫌いの子の口数少ないながら堅いつきあいだった様子。
とっておきの山
1984
山と渓谷社
「とっておきの山」という山の小文集で、敬三氏の「八甲田サマー・キャンプ」という小文を読んだ。雄一郎が北大の夏休みで青森へ帰ったある夏、一家六人で八甲田の東北斜面にある雪渓の脇にキャンプして、五日間そこでこの親子が朝から晩までスキーをやっていた話だ。弟妹は小さかったので雪渓の脇や周りの藪で終日遊んで過ごし、スキーなどやらない敬三夫人はたき火で毎日炊事をこなした。敬三と雄一郎は来る日も来る日も雪渓で滑った。夏の雪渓はコチンコチンに凍っているので朝起きると斜面一面を父子二人でクワを持って耕し、そこを滑ったという。もくもくと楽しそうに、友達のようにクワ振り、奥深いスキーの奥義を探求するため稽古に打ち込む三浦親子がまぶたに浮かぶ良い話だった。昨年暮、雄一郎氏にお会いする機会があり、その話に感動した旨を話したところ、懐かしそうにされていた。誰も登って来ない夏の八甲田の雪渓で家族ごとテント暮らしの一週間なんて、夢のような家族だと思う。
何故僕は三浦敬三に惹かれるのか?当時のスキー靴の踵は低く、足首はクラクラ、板だって今のものとは比べものにならないくらい原始的だろう。そんな時代に何もかも手作りで、無限の可能性のあるスキー術を探るため、自分の身体一つで稽古に打ち込んだ姿に勇気づけられるのである。メーカーの知恵が注ぎ込まれた兼用靴と最新の板などはいて、滑りが楽しきゃいいだろう、という気分に僕はやはりどうしてもなれない。先日のポロシリ東カール滑降の悪雪、良雪の苦勞工夫の楽しさが忘れられないからだ。ジルブレッタと革登山靴で、どこまでも雪山と対話していきたい、と決意を新たにした。
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【年月日】2009年5月2−5日(4−0)
4人の新入部員が参加した今年の春合宿は増毛で行いました。
集合写真は暑寒別岳ピークにて、左から岡戸(1,三木(OB,小泉(OB,木城(1,斉藤(1,井ノ上(1,小池(3,井村(2,田中(3,吉本(4,撮影は鹿島(2
5/2 ベース移動日L田中(3 AL小池(3 M井村 鹿島(2 井ノ上 岡戸 木城 斉藤(1 G小泉(OB 三木(OB 吉本(4
暑寒荘から入山。真東に磁石をきり台地上のBCまで。途中Mのシールハズレなどあったが問題なくいけた。
5/3 1年班・・スキー練習Co720まで2年班とともに行動、co720付近から伸びる支尾根にてスキー練習。
2年班・・・悪天行動 暑寒別岳At.L田中(3 AL小池(3 M井村 鹿島(2
<時間とルート>
Co720(7:10)−暑寒別岳ピーク(10:35−45)−BC(12:30)
Co720まで1年班として行動。Co800付近から時折気になる風。・1075付近にて視界50以下となる。・1075東の尾根分岐に止めデポ4、その後も視界30前後。Co1100、に滝見台、Co1220 に屏風岩の看板が出ていて目印になる。Co1400 付近に台地があり、ここをCo1460 尾根分岐と間違え一時デポ旗を打つもすぐに気づきぬきに戻る。Co1460 から夏道が見えていたためデポ旗を打たなかった。ここからピークまでツボで往復。帰りはCo1240 付近から晴れて視界でたためその先のポコは全てネグった。あとはBCまで。
5/4 1年班 暑寒別岳アタックL小池(3 AL田中(3 M井村 鹿島(2 井ノ上 岡戸 木城 斉藤(1 小泉 三木(OB 吉本(4
<時間とルート>
BC(5:10)-・1075(7:30)−ピーク(9:15−35)−BC(12:50)
天気は晴れ。視界∞。風はCo720から気にならない風であり時折突風が吹く。Co1260 でシーデポしてツボで登る。ピークでパー食の缶詰を食べて下ることにする。シーデポ地点からはシールをはずしてスキー。スキーが苦手な新入生もいたが時間読みどおりBCにつけた。この日で小泉先生は下山。
5/5 下山BCから暑寒荘までスキーで下る。
※1年班でアタックできるめぼしい山が暑寒別岳しかない、登攀できる場所がないなど、山のボリュームとしては少々かけるところがありますが、BCまでのアプローチが短く、スキーをメインとした春合宿地として暑寒別岳北尾根はなかなかよい場所でした。
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久しぶりに利尻に行きたくなったGW前半。今回はテレマークで滑ることとして東稜からのっこそうと計画。労山のテレマーカー仲間2人がうまいこと釣れて(笑)一路北の島へ。しかし2日目に二つ玉低気圧が通過する予報で,始発フェリーでついた日に北尾根からアタックというちょっと時間的にきわどい計画に変更。でも無事に余裕で行ってこれました。やっぱし利尻は偉大な山でした。超きもちいい。
【年月日】2009年04月25日〜26日
【メンバ】田戸岡(1999)+札幌中央労山のテレマーカー2人
【天 候】晴れ
【タイム】
24日旭川18:30〜稚内23:00C0
25日稚内6:50〜鴛泊8:40〜キャンプ場9:20〜長官12:30〜ピーク14:30〜キャンプ場16:40C1
26日キャンプ場8:30〜樹限9:30〜キャンプ場10:00
利尻を後に
仕事を一時間早退してYさんを拾って北上。名寄でMさんも拾ってさらに北上。けっこういい感じのペースでいつもの駐車場着。車中で軽く飲んで就寝〜。
で,ちょっと遠くなったフェリー乗り場まで歩く。重い。フェリーに揺られて鴛泊着。今回はMさんの元同僚のSさんになまらお世話になりました。とりあえず天気予報により東稜をあきらめて一日で北尾根往復することにしたのでいらなくなった装備を預ける。で,キャンプ場まで送ってもらい,準備して出発。
朝から快晴で,時間もそんなに無いのでちょっとハイペースでなまら暑くて汗だく。そしてモービラーに軽く不快になる。沢型を詰めて適当に夏道の尾根に上がる。シールの効きがイマイチでだんごも発生で難儀。途中でスキー背負って長官へ。途中で少し陰ってきたけど,ピークはぱっちりきれいに見える。なんか大人数のパーティが見えた。雪質的に厳しい気がしつつもピークまで背負っていく。近いようで意外と遠いピーク。でも予定通り15時前には着。安心。ぱしゃぱしゃ写真撮って下山へ。もちろんガリガリ君でスキーは履けずにEP。。。
長官手前の緩くなってきた所で試しに履いてみるものの,ひたすら制動でカキ氷を作ってる感じのシャリシャリ。でも長官から下のメイン斜面は素晴らしかった。やわかくてクリーミーな雪と柔らかいコーンスノー。けっこうスピード出して大回りで超きもちいい。さすがに足がやばやばだったしもったいないので一気に降りるのは無理でしたが。で,またモービラーで不快な気分になってテントへ帰着。カレー雑炊が意外に好評で安心。ウイスキーをがぶ飲みして就寝。星がきれい。
次の日は天気ヤバイだろうと思っていたもののそんなに悪くない。ただ,風の音がすごい。いちおうせっかく来たので滑れるだけ滑ろうということで出る。ものの,やっぱし樹林外はすごい風。リアルに,歩いてて後ろに押し戻される風で引き返し。いちおう少しだけは滑れたけど。。。
そしてテント撤収してまたSさんのお世話に。島を一周していろんな角度から利尻を見て,温泉へ。サウナやら冷たい源泉やらでゆっくりしつつ,夜は居酒屋で利尻の食を満喫。さらに家で気合い度数120%を注入し就寝。
次の日はフェリーの運航状況が危ぶまれたものの,無事出航されました。遠ざかる島を名残惜しみつつ本道へ帰着。トナカイカレー食って無事旭川に着きました。
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