俺は沢ヤだ!
成瀬陽一
東京新聞出版局(2009/3)
1429円
日本の沢、世界の沢を登り込んできた成瀬陽一(充血海綿体)の自伝本。岳人誌で連載されていたころから腹を抱えて笑いながら読んでいたが待望の単行本化。成瀬さんは天然少年仙人のような、世界でも指折りのトップ沢クライマー。これほどの文章の書き手とは失礼ながら存じ上げませんでした。沢を歩きに歩き、登りに登るうち、ことばは脳内に昇華するのでしょう。沢に魅入られるという天才を持ち、少々変態気味の笑えるエスプリのあるあたり、「のだめカンタービレ(漫画のほう)」くらい面白いと思いマス。お勧めデス。このすごい表紙写真は松原(1990入部)撮影の称名川ザクロ谷。水の色、苔壁の造形、光の加減、宗教画のよう。バッハの平均律クラヴィーアが聞こえて来そう。
2000年ころから台湾など海外の沢を研究する海外遡行同人の集まりで毎年お目にかかった。ナルっさんはそのころ日本の名だたる渓谷をアオタイや松っちゃんと登りまくっていたころだ。でも本書にあるとおり、そんな厳しくて楽しい事があらかじめ分かっている名渓をコレクションしても、手の込んだ観光旅行と変わらない。「沢ヤの本懐は未知の谷の解明にあり!立ちはだかる未踏の大滝の向こう側にあり!」と書く。「エベレストよりも高い山はどこにもないが、台湾の渓谷を凌ぐ谷は必ずどこかにある。」台湾の沢の、常識破りな壮絶ぶりは、本書を読めば見なきゃ分からないことだけはわかってもらえると思うが、この台湾へ通った遡行記録の数々が面白い。想像を絶するあの曲がり角の向こう側が見たくて。沢登り魔力の一番芯の部分だと思う。(同行松原の記録は部報14号で読める。)
原生林で突如全裸になって大木にしがみついたり、この森の象徴のようなかわいい顔をしたサンショウウオと同化したい衝動に駆られ丸焼きにして食べた晩(キスまでしといて何故食べる?)、空前絶後の食中毒で苦しむなど、やはり成瀬さんの過剰な熱情の世界は変態の森である。しかし、人生や存在のあり方を語る賢明な知見の数々のことばは変態であろうとも全く構わない。未だ誰も知らない地球のワレメちゃんを探し求める沢ヤは、やはりどう考えても変態で良いのではないだろうか。万国の沢ヤたるものなら、これに同意署名してくれるものと思う。
掲載の記録は黒部川剱沢、称名川ザクロ谷、春川万滝沢、御嶽山赤川地獄谷、台湾三桟渓、ほかギアナ高地、ニューギニア、福建省、四川省、雲南省など。台湾三桟渓の山行には、ルームから松原、日下、石崎が参戦している。
巻末の、沢から無事下りてきた男が古い民家の庭先に降り立つ寓話、心に沁み入りましたネ。
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●2009年3月21日(1-0)
【ルート】喜茂別→羊蹄山(往復)
【メンバ】田中健太郎(1987入部)
【行程】
3月21日(晴)喜茂別ルート登山口(7:15)→羊蹄山(13:25〜13:45)→登山口(15:00)
【記録】
春山シーズンの足馴らしに、昨年と同じく、羊蹄山の喜茂別ルートを往復してきた。
登りは、雪がしまっていて、もぐらなかった。樹林限界を超えると、雪が固くなったので、Co1350あたりでアイゼンに履き替えて、スキーを担いだ。尾根上を行くと、つぼでもほとんどもぐることはなかった。
頂上付近は風が強かった。お鉢の中を覗くと、真狩側の壁を登り返している単独行者の姿が見えた。スキーもボードも持っていなかったので、乗り越しのため、お鉢の中を横断したのか。
身支度を整えて、いつもどおり、頂上から滑り出した。今年は若干重いながらもパウダー上の雪が固い雪面の上に載っている感じで、非常に滑りやすい。とは言え、私には、羊蹄の急傾斜面をパラレルで滑る技量を持ち合わせてないので、跳ねる様なターンで高度を下げていった。Co1500あたり?で単独行者とすれ違った。この日、喜茂別ルートから頂上まで登ったのは、彼と私だけだと思われる。
下山後、ルスツのスキー場で、さらに3時間ほどスキーの練習を行なった。
2009.03.21羊蹄山喜茂別ルート登山口付近から
2009.03.21羊蹄山喜茂別ルートCo1350辺りから見た大スロープ、頂上は見えてない
2009.03.21羊蹄山喜茂別ルート下り斜面
2009.03.21羊蹄山喜茂別ルートの下り斜面(頂上付近)
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今日訃報を聞いた、全然想像していなかった、原さんの死。事故でもなく、病気というのでもないが死とはかくも突然やってくるものか。原さんと過ごした数々の楽しい時間を思い出している。
僕が現役学生だった1985年頃、原さんの本を読んで大きく影響を受けた。原さんは学生時代に弟を鹿島槍北壁で失い、その後もヒマラヤで、何人もの死を見つめ、生と死に関する、優れた言葉を多く残していた。
「山の中の死ーすぐれた登山家の死ーは、ときに人生の完成を意味する。それは幻滅からの解放であり、自己欺瞞の克服である。美しい余韻を持つ、完璧な姿だ。
なぜ山へ登るのか。答えは簡単だ。山には死があり、したがって生があるからだ。下界には多くの場合それがない。」(北壁に死す・あとがきより)
「人間は必ず死ぬ。人間にとって確実に達成できる唯一の目的、それが死である。死なくして人間の生はない。このあたりまえの理屈を、山は彼の死という手痛い鞭をもって私に教えたのだ。私の登山はここから始まる。それは同時に、私の人生の出発点であった。
かつての私は、登山を、自分の人生の中の、いくつかの小部分の一つにすぎない、と考えていた。その後の私は、どんなささいな日常の行動においても、登山の影響を受けている。かならずしも、登山が好きでたまらないということでもないが、登山を考える時、もっとも自分を考え、登山を行う時、もっとも自分が生きているという事なのだ。
登山を通して、私は自分を知ろうとすると同時に、他人をも知ろうとする。登山をすることによって、私は自然への興味だけでなく、人間への興味を深める。登山という行為に含まれる、いくつかの典型的な現象が、人生全般に対する物差となる気がする。」(乾いた山(1977山と渓谷社より)
原さんの文章には歯に衣着せぬ表現が多かった。簡潔で明快、大人の事情を配慮していない潔さが僕を惹きつけた。とにかく文章がおもしろい。ぐいぐい引き込まれるのである。後に親しく会うようになって解ったが、それは彼の類い希な読書量の多さに基づくものだった。いつ訪ねても本を読んで、山積みになっていた。「ヒマラヤ研究(1983山と渓谷社)」後書きの、登山家達によるお勧め図書書評欄があり、僕は原さんの勧めていたマンメリーの「アルプス・コーカサス登攀記」はじめノイス、ロングスタッフ、テレイ、エルゾークなど何度も読んでいた。90年代には岳人誌で書評を連載していた。毎回楽しみにしていたのだが、原さんは出版社が困るような事(スポンサーの批判)も正直に書くので恐らくそのため長く続かなかったのだろうと推察する。彼の持論は月刊アナヴァンで読むことができた。学生時代に送ってもらった高山研究所の季刊誌は21世紀、原さんの月刊オピニオン誌になっていた。アナヴァンは、「前へ」。探検家ティルマンが80才で南氷洋で行方不明になった最期のヨットの名前だ。月刊で原さんの時評、書評、映画評、山行記録などが読める、購読料年に1000円の会報だ。
「既得権益の山小屋は全て廃止せよ」「日本山岳会は解散して、登山者全員の利益を代表する団体を作り直せ」「軍隊を持つなら国民皆兵にして軍の暴走を押さえよ」「天皇家は引退して伊勢神宮の神官になれ」「日本は国民投票で選ぶ大統領制を導入せよ」「日本は移民を受け入れて多民族国家となれ」どれも普通の日本人は発言しない言葉だが、自分が日本人であることを忘れて、もし外人の目線で見たらと考えると、どれも筋が通ってまともな意見だ。正論に聞こえる。原さんとは、そういう、外からの視点を持った国際人だったのだ。たいていの日本人には共感されないかもしれない。これらの発言はどれも実体験で得たものに基づいていて、ただ公言するばかりでなく、「皆兵」「多民族」論については個人的に実行しているのである。そんな原さんがあるとき、何かの話の最後に「ストレス尽くめの人生だったよ」と言ったのを聞いて、僕はとってもウケてしまった。だって、この強気で四面敵だらけの人生を自ら歩んできた原さんがそんなことをいうなんて。
僕が名古屋に住んでいた1999年から2004年まで、原さんの家をよく訪ねた。エリザベスさんの料理を一緒にごちそうになったり、そこで会う様々な人達も面白かった。エリザベスさん、末娘の円さんと共に大晦日の名古屋城公園に夜の散歩にでかけたのも忘れられない。僕が合気道の稽古で靱帯をケガしたときは診てもらった。原さんは空手や日本拳法の達人で、屋上にトレーニングルームを作っていた。武術論でも話があった。エリザベスさんとの毎日の言い争いも楽しかった。「日本の男は家事を何もやらない!」と結婚して30年近くにもなるエリザベスさんが多分いつものようにこぼせば、「リーダーに必要な資質は、何でもかんでも自分でやらないことだ。」と、偉そうにとぼける。だけど「エリザベスは本当に料理がうまいんだよ」と何度も聞いた。
僕がお付き合いしていた頃には、もう高所登山の最前線からは身を引いていた。けれど、原さん主催の高山研究所には1980年代、若い時代の長尾(山野井)妙子、小西浩文、遠藤由加らが出入りした。極地法や物量に頼らない、体を高所の為に鍛え抜いて高峰に望むという作戦を日本で始めた第一人者だった。自らの原病院経営の傍ら、JAC東海支部を率いてマカルー南東稜初登(1970)の遠征も成功させたリーダーシップの持ち主だった。この年は本家のJACが南西壁を登るといいながらノーマルルート止まりだったエベレスト遠征の年。外貨も、ネパール登山枠も、「政治家」だらけの本家と全面バトルして、その上未踏ルートからの8000峰を成功させるという実のあるクライミングをした手腕は今では想像できないくらいの快挙だと思う。
2006年夏、原さんにモンブラン登山に誘われたので、ご一緒させてもらった。僕の家族には山麓でエリザベスさんたちと観光してもらって僕は登るという段取りのうまい夏休み。いざジュネーブで会うと、原さんは風邪をひいていて、登山は欠席。それでもエリザベスさんが手配してくれたガイドと共に、僕は何人かでモンブランのノーマルルートを登ってきた。このときは久しぶりに御一家の皆さんと車でジュネーブ、シャモニーを移動、ジュネーブに住む娘さんの恵さんのところでやっかいになったりと、楽しい時を過ごした。僕の妻も娘も、比較的こわもてなのに原さんにはとても親しみを持っていた。その後は、キャンピングカーでの旅行先に、僕のいた函館を候補にしてくれていたのだが、何かの都合で延期になったままだった。函館山を案内して、100年前の海峡要塞の遺跡廃墟群を案内したいと思っていたのだが。
山のこと、歴史のこと、国家観のこと、家族のこと、全てにわたり大きな影響を受けました。原さん、これまでどうもありがとう。
2009.3.21.
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【年月日】2008年12月27日ー1月4日(9−0)
【メンバー】L勝亦(6 AL馬場(HUSV8→後藤(HUWV6 M井村 鹿島(1
写真はトウヤウスベ山。
<時間とルート>
12/27 北電ダム先除雪終点(12:15)−ポン十勝川左岸Co900=C1(15:20) 晴れ。山の方はガス。風。林道を行き、ポン十勝川左岸Co900でC1。
12/28 C1(7:45)−シイ十勝川(11:05)−下ホロ北コル=C2(14:05) 吹雪一時晴れ。ポン十勝川は林道で渡る。そこから次の林道渡渉点まで磁石を切って進むが、樹林が疎らなハイマツ帯であった。上ホロカ川の右、左股は林道で。積雪量、悪天候、先ほどの樹林の様子などから、ここから先も林道付近を行くことにする。・863付近から林道ショートカットしようとし、一つ目の沢はスノーブリッジで渡ったが、二つ目が渡れず林道へ戻る。シイ十勝川を渡って程なく林道を離れ登り、下ホロ北コル付近でC2。
下ホロをバックに
12/29 C2(10:55)−下ホロカメットク山(13:30)−C2=C3(14:30)曇りのち晴れ。風。Co1400付近でシーデポ。天気は回復傾向とのことだが、未だ気になる風。Mの様子を見ながら行くことにする。ハイマツやブッシュで歩きにくい。Co1560でツェルトをかぶって小休止。頂上付近は振られる風程度だった。シーデポ地点からはシールで下る。
Mのすべり
12/30 C3(8:15)−一の沢(9:00)−シーソラプチ川Co1050付近=C4(11:30-12:30)−C4(14:10)雪。テン場からスキーで。シーソラプチ川手前からシール。シーソラプチ川左岸Co1050付近にC4を設営し、北東斜面樹林内でスキー。
原始が原へ
12/31 C4(7:15)−C4(11:40-12:30)−六の沢Co1220付近=C5(15:30) 雪のち吹雪。Hスロープを滑りに行く。樹林限界付近から滑るが、不安定な弱層があったので注意した。テン場に戻り、F尾根末端を目指すがひどいラッセルのため届かず、C5。C4の位置を誤って認識していたため一時現在地把握に戸惑ったがうまく修正できた。
1/1 C5(7:20)−F尾根末端=C6(8:10) 雪。F尾根末端にC5設営後、AL交代。Lは三の沢の湿原付近まで送り迎え。Mは休養。
トウヤヘ
1/2 C6(7:35)−・1083付近=C7(8:45-9:10)−トウヤウスベ山(10:30)−大麓山(11:15)−トウヤウスベ山(12:00)−C7(13:30)晴れ。湿原をつないで・1083の西側にC6とする。富良野岳方面は相変わらずの天気だが、こちらは晴れている。そこからトウヤ、大麓を往復。ところどころクラストしていたが、EPは使用せず。
1/3 C7(7:45)−二の沢左岸Co1070=C8(9:45-10:45)−前富良野岳(12:35)−C8(14:15)晴れ時々雪。Mに地図読みや磁石の切り方を教え、前を歩かせた。湿原をつないでC8まで。二の沢の左岸尾根を登り、樹林限界やや上でシーデポ。そこからEPで前富良野岳を往復。
1/4 C8(9:15)−ベベルイ零号線(11:15)晴れ時々雪。夏道まで滑り降り、夏道と林道をベベルイ零号線まで。
<パーティ>
Ls:C4の位置を誤認識した。AL交代時、合流が遅くなった。
M:体力十分。
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【年月日】2009年3月下旬(4−5)
【メンバー】L:田中宏(3 AL:小池、田中省(2
[時間とルート]
1日目:ピョウタンの滝(3h)札内ヒュッテ(3.5h)夏道尾根末端=C1ピョウタンの滝から道を札内ヒュッテまで。コイカクシュサツナイ沢沿いに夏道尾根末端まで行く。途中転石とスノーブリッジ渡渉数回、函の捲き2回。末端でC1.
2日目:C1(4h)・1305(3h)夏道尾根頭=Ω2 末端からは夏道尾根に取り付く。・1305付近は冬テン張れる。Co1400付近より東側に樹林内雪庇。Co1500〜1600まで岩がでてる。コイカク直下は急。夏道尾根頭にイグルー2.
3日目:Ω2(0.2h)コイカクシュサツナイ岳(2.5h)ヤオロ(2.5h)1839峰(2.5h)ヤオロ(2h)Ω2=Ω3コイカク付近は十勝側に大きな雪庇が発達し、その先も十勝側に雪庇が張り出す。Co1740ポコからヤオロは細く、岩が出ていることがある。ヤオロ直下からヤオロは局地風。ニセヤオロから先は両面雪庇出るが、概ね南向きのようである。規模は大きい時で2〜3m。ナナシ側は密なbush状のカンバが出ていることがあり、trv.できる。また、急だがサッシビチャリ側を捲いている記録もある。その先はナイフリッジになっていることがある。39手前ポコの登り、39直下は急だが、状態によってはbush出てる。状態が悪ければザイルを出す。急斜面を登って1839峰へ。帰りも急な所は状態によってザイル出す。ヤオロからは来た道。
4日目:Ω3(4.5h)1823峰(3.5h)Ω3=Ω4 夏道からの降り口はわかりにくい。コイカクからの下りは岩稜帯がCo1520付近まで続く。慎重に上を行ったりナナシ側を捲いたりして通過する。ピラトコミJP登りは十勝側に雪庇、状態悪いとRFが難しい。JP下りも一部岩稜。23までも雪庇ある。尾根をつめて1823峰へ。帰りは来た道。
5日目:Ω4(3.5h)尾根末端(2.5h)札内ヒュッテ(2h)ピョウタンの滝 夏道尾根を下って、コイカク沢沿いにヒュッテまで。ヒュッテからは道をピョウタンの滝まで。沢沿いは雪崩に気をつける。
[天気・停滞・進め方]
冬型決まり始めは悪く、風は強い。押し引き〜引きの冬型は動ける。谷の通過は悪く、ヘリではガスる。停滞は4日。コイカク沢の雪崩が怖いので、どか雪後は2日待ってから入る。天気周期的に3日あればそのうち1日は動ける読みで、残り3日になったら、テン場をピークから樹林限界下(Co1550より下)まで下げる。樹林限界より下は全天で下れる。23、39At.は1日もつ天気。気にならない風まで行動。引き返しは23At.は12:00、39At.は11:00。テン場着はイグルー作る日は14:00、15:30。最終下山17:00。
[パーティー]
春メイン2年班。慎重に行く。
Ls:雪庇・雪崩判断、天気判断、ザイル判断
[装備]
ザイル30m9mm1本、冬テン、フライ、ストーブ、灯油(110ml/人・日)、のこ1、スノーソー2、無線、茶食器、鍋、ラジオ天気図、ろうそく
他 EP・スノーシュー・ストック含む冬山個人装備
[準備山行]
1回目:八剣山(1-0) ザイルワーク、雪稜歩き
2回目:上ホロ北西稜〜旧DZ (1-0) 総合確認
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【年月日】2009年3月8−17日(6−4)
【メンバー】L:田中宏(3 AL:小池、田中省、野沢(2 M:井村、鹿島(1
<時間とルート>
1日目:オシンコシンの滝(8h)遠音別北西尾根末端Co750=C1チャラッセナイ川左岸尾根を行く。・342を経由し・433まで行き、磁石をきって遠音別北西尾根末端にあてる。カンバ限界がCo750なのでその付近でC1。
2日目:C1(2h)遠音別(5h)知西別岳(3h)愛山荘=C2 北西尾根はCo900くらいから硬い。適当なところでシートラEP。遠音別北は何箇所か細い所がある。知西別岳を越えて天頂山手前辺りから北に進み愛山荘まで。愛山荘でC2。
3日目:C2(3h)極楽平Co860=C3 休養日。赤イ沢を渡渉、Co850の岩峰を目指しカンバ限界付近を同コンタトラバース。そのままトラバース気味に極楽平まで。極楽平でC3。
4日目:C3(1.5h)羅臼平(1.5h)羅臼At.(1h)C3=C4羅臼平は局地的に風が強い。直下は北側から回りこんで羅臼へ。帰りは来た道をC3まで行き、C4。なお翌日好天が予想される場合は、C4を羅臼平近くまで上げてイグルー。
5日目:C4極楽平Co860(1.5h)羅臼平(4.5h)知円別(2h)硫黄山At.(2.5h)Co600=C5羅臼平からは稜上を知円別岳まで行き硫黄山をAt。硫黄山まで岩峰数個は捲き硫黄山は西側から登る。知円別から東の尾根を通り、樹林限界Co600まで下げてC5。知円別に着いた時間次第では、一気に岬町まで下山する可能性もある。
6日目:C5(2.5h)岬町 スキーで岬町まで。
<進め方>
2日目は視界500もつ天気、羅臼アタックは視界2~300。気になる風まで行動。5日目は視界500もつ天気。
天気周期はmax7日悪いが平均的には4日悪く1〜2日良い。近年は移動高の影響で晴れが続く場合が多い。冬型の緩み、移動高、前面で動ける。Lの影響は遅い。南岸低気圧で最悪天。高気圧のへりで風強い。
2日目、時間的、天気的に知西別で厳しくなった場合、羅臼湖でC2。翌日は知床横断道路経由で極楽平まで。知西別(1.5h)羅臼湖(2.5h)愛山荘。極楽平には最低2日持って入る。羅臼アタックカットでのっこすことはしない。5日目時間かかった場合硫黄カットもある。
エスケープは知床横断道路を使って愛山荘から宇登呂へ下山。極楽平(2.5h)愛山荘(2h)宇登呂。
<パーティー>1年班春メイン知床。
L-s:判断全般、Mを見る
M: 体力、口出し
<装備>
冬天2、フライ2、鍋、茶食器、ストーブ、灯油110ml/人・日、ローソク、無線、スキー修理具、のこ2 スノーソー2 他スキー・ストック・EP含む冬山個人装備
<準備山行>
1回目 樽前山のっこし(1−0) シートラ、EPワーク
2回目 オムシャ〜十勝(2−0) 風のある中の稜線行動、イグルー
3回目 ニセカウ夏道尾根大槍手前引き返し (2−0) 総合確認
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【年月日】2009年2月27日(1−0)
【メンバー】L:田中(3 AL:小池、田中(2
P3のルンゼ
<時間とルート>
駐車場(7:30)取り付き(9:30)上ホロ(13:00)陵雲閣(15:30)天候は雪&ガス、時々晴れ間がのぞく。駐車場からスノーシューで取り付きへ。ラッセルはすねからひざ。北西稜取り付きでは風強くなかったが、P1付近より突風、それより上は気にならない〜なる程度の風。北西稜はP1上を行き、シュリンゲたらす。P2左捲き、P3はルンゼを50m 1p。後は雪壁を上ホロまで。Peakは気になる風。次の日も天気悪いことが予想されたため、今日中に下山することにする。旧DZを使うが、Hより視界50〜2、300の間で変動、おり口はB.S、あとは駐車場まで。
<パーティー>
2年班春メイン準山2回目。総合確認。風に吹かれた。
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【年月日】2009年2月25−26日(2−0)
【メンバー】L田中宏(3 AL田中省 野沢 小池(2 M鹿島 井村(1
[時間とルート]
1日目:清川(9:30)夏道尾根Co1360付近(13:00)Ω1(16:30)スキーで双雲別川沿いの林道をつめて・1061へ。夏道尾根に乗り、CO1360 付近の吹き溜まりにてΩ1.楕円型の5段イグルーを作ったが製作に時間がかかる。天気は雪、ラッセルは脛から膝。
←イグルー上部二重構造。
←イグルー全体
2日目:Ω1(6:30)大槍(10:15)Ω1(11:00~11:15)清川(13:00)イグルーからは北側に1〜2mのセッピ。Co1400がKLで視界2,300だが、この先もぱやぱや生えているので行けるところまで行くことにする。・1533から視界100前後。2〜3mのセッピが南に出てる。Co1560付近でシートラEP。大槍手前ポコをねぐり、その先の斜面をTrvしている時に視界がなくRfが困難であり、風も出てきたため引き返す。あとは来た道をイグルーまで。
[パーティ]
1年半春メイン準山3回目。総合確認できた。
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【日程】2009年02月28日 〜 03月01日
【メンバー】
米山悟(1984)+山岳同人たがじょの4人
【天候】
一日目曇りのち晴れ
二日目晴れのち曇り
【タイム】
2/28 酸ヶ湯(8:00)〜傘松峠(9:50)〜パラダイスコース265番でお昼40分間〜ニセ駒(12:30-14:00)C1イグルー作る〜駒ヶ峯(14:40-15:10)〜ニセ駒のC1(15:30)
3/1 C1(7:00)〜乗鞍岳(8:00-9:00)〜C1(9:50-11:00)〜傘松峠(12:00-12:40)〜酸ヶ湯(14:00)
【記録】たがじょ一行の八甲田山行。この週末は決定的高気圧が来るので期待満々。冬の真白い八甲田は初めて。さすが八甲田はスキーの楽しい山と言われるだけある。ほどよいトドマツと緩い斜面が延々続き、心配無用で滑降できる。
酸ヶ湯温泉の離れの駐車場から先、地獄沼の北側を捲いて車道の除雪終点に降りる。笠松峠まではラッセル無しでのんびり行く。峠から南は八甲田らしいトドマツ点在林。青森、十和田市境の緩い尾根状ではなく、その東の緩い沢の中を行く。下りのスキーが快調だから。このルートはパラダイスコースというそうだ。八甲田ではたくさんのコースがあり、三浦敬三さん達が青森営林署時代に取り付けた標識版がたくさん残っている。これらコースの看板番号をそらで覚え、全てのコースをご存じなのがこの度の成田師範である。何十年も通い詰め、朽ちた看板を拾い上げ、整備点検もされているのである。勿論勤労奉仕で。歴史的なコース体系だが、利用者ははっきり申し上げてこの一行含め少数派かも。今時、滑り重視のスキーヤーはたくさんいても、登って登って登って滑るというリズムのスキーヤーは少数派だから。
ニセ駒ヶ峯は駒ヶ峯と猿倉岳間の最高点。この下にテント、今回はイグルーは便所用となる。僕はテント泊は相当久しぶりだ。慣れないテント泊でガソリンバーナーで火を噴かせ、テントの壁に穴を開ける失敗をした。二台使う時はホースを外すときもう一台の火がついているので、かなり危険だ。初体験で思い至らなかった。
駒ヶ峯を空身で往復。駒の先数百m進んでみたところで、合計3人立て続けにヒドゥンクレバスに落ちる。雪庇が山肌からゆっくりはがれ、亀裂が生じて、そこにフタがされているやつだ。初めて落ちるとなんだか解らずとても怖い。深さ3m、幅1.5mほど。僕は結構何度も落ちたことがあるので何とも思わないが、皆は初めてだと言った。
朝はぴかぴかに晴れた。ダイヤモンドダストのような結晶が青い空いっぱいに降り、朝日の下にはその結晶の柱が出来た。初めて見る美しい現象。乗鞍岳への地獄峠へは朝っぱらから楽しい滑降。乗鞍岳の斜面も無理無い傾斜でホイホイ行ける。登るにつれ北八甲田が美しく聳えるのが見える。乗鞍岳は西端から櫛ヶ峰や黄瀬川源流を眺め、最高点に行ってお昼。ここは無風快晴。
下りも最高のスキー場だ。高田大岳に向かって滑降。雪の具合も丁度いい。天場にもどってまたゆっくりして、ニセ駒ヶ峯からの下りも良いコース。笠松峠からの道路もスコスコ進んで帰着。新雪パウダーばっかり人気だが、僕はこんな雪も大好きだ。山滑りにはいろんな雪がある。誰もいなくて気持ちいい。存分叫び声を上げる。
無限大の視界なので楽しいばかりだったが、もしも視界が無ければマジ読みの地図読みになるだろう。成田師範は旗竿を立てながら行った。何百回も登っていて、どの木に何番の標識があるか熟知している師範でさえ、竿を刺していくのである。
五人のうち二人はスノーシューだが、シールをつけているうちに追いついたりスキーは疲れるから結構やすんだりで、スピードはそれほど変わらないものなのである。小山内さんは八甲田のクラシックルートを伝承しようと月二回以上の師範の山行にお供している。八甲田の往年のルートこそ無形文化遺産だと思うなあ。
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【年月日】2008年12月28−30日
【メンバー】L田中宏(3 AL平塚(5 M小池 田中 野沢(2
[時間とルート]
1日目:雪 国道(9:30)→・762コル(11:00〜12:30)=C1稜線上は風が強そうなので、予定天場まで行くのは無理と判断し遅めに出発する。渡渉は切れかけのSBを利用する。ラッセルは踝から脛・762コルでALを待つが、なかなか来ないのでMの1人が様子を見に行き、他の人でテントを建てブロックを積みC1とする。ALは具合が良くなくペースが上がらないようだった。
2日目:曇り C1(7:00)→稜上(8:00)→C1(8:20)=C2ALの体調が回復せず、LとMで稜上まで偵察に行く。稜上は時折気になる風が吹く。稜上で電波が入ったのでメーリスを流す。天場に戻り風邪気味のL,ALは休養する。Mはブロックを増築し、その後たき火をする。豪勢なたき火の周りでほげほげとする。
3日目:雪 C2(9:30)→国道(11:30)ALとMの1人が体調不良のため下山を決行する。
その夜、あるMも発病し寝正月を過ごすはめとなり、2,3日後ALからインフルエンザだったとメーリスが流れる。
[パーティ]
L−s:体調管理 M:一部体調管理
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